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「神楽坂」という坂

文学と神楽坂

 「神楽坂」について語ってみようと思います。神楽坂という「町」(以前の神楽町)ではなく、神楽町が囲む「坂」そのものです。初めは江戸時代の「むらさき一本ひともと」にあるように「牛込見付から、さかな町まで登る坂」でした。なお、「牛込見付」は「神楽坂下交差点」にあたるものと(まあ、強引だけど)考えておきます。また、江戸時代の「肴町」は現在の神楽坂5丁目を中心に、岩戸町まで及んでいました。
 神楽坂を囲む町は、明治大正では神楽町という名称でした。昭和26年(1951)5月1日から、神楽町1、2、3丁目から神楽坂1、2、3丁目という町に変え、また、上宮比町、肴町、通寺町は神楽坂4、5、6丁目に変わりました。したがって、坂も6丁目まで「神楽坂」に含むという考え方もできます。
 なお、新宿区の「区道道路通称名」は、神楽坂下交差点から神楽坂上交差点までを「神楽坂通り」として正式の名称に使っています。
 では、神楽坂の「坂」についてその説明の変移を見てみましょう。

紫の一本 戸田茂睡による地誌。天和2年(1682)に成立
かぐら坂、牛込見付の御門より、直に肴町へ登る坂を云、

5つの肴町(5丁目中心から岩戸町まで)。市ヶ谷牛込絵図。安政4年(1857年)

 絵図でもわかる通り、明治以前では坂ではなく、階段でした。これは「神楽坂の階段を坂に」で。

江戸名所図会 神楽坂(1836年)

望海毎談ぼうかいまいだん 江戸時代中期 作者は不明。
牛込行願寺
……神楽坂と云は赤城明神の神楽堂の有し所のよし……

江府名勝志 稲村儀右衛門 享保18年(1733年)に発行
 神楽坂 牛込御門の向に在。此坂の名の来歴其説あれども、ならざる故略之。
 ゾウ。せわしい。たしか。たしかに。

江戸砂子 菊岡沾凉著 享保20年(1735年)に成立
●神楽坂 牛込御門のむかふの坂也。
 市谷八幡の祭礼に、神輿牛込御門の橋のうへにしばらくとゞまり、かぐらを奏す。よつてこの名ありと云。当日見付御番より鳥目、ならびに神酒神献あり。又近所若宮の八幡のかぐら、此まできこゆ、よつてかぐらといふともあり。

みこし

神輿 みこし。じんよ。祭礼のときなどに担ぐ乗り物
かぐら 神事の歌舞。神楽は、夜、にわをたいて宮中で一連の所作と声楽主体の音楽を執り行う宗教儀式。神楽は日本の民俗芸能の一種。
鳥目 ちょうもく。銭や金銭のこと。中心に穴が開いた銭貨の形が鳥の目に似ていたため
 ひき。1疋=10文、のち25文

神楽坂の神輿

江戸名所図会 斎藤長秋他編、巻之四 天権之部 天保7年(1836年)に発行
 同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹はんぷく右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼の時は神輿この所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。 或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。
旅所 たびしょ。神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に輿こしを鎮座しておく場所。

改正新編江戸志 東武懐山子著 天保3年(1832年)
 市谷八幡祭礼に神輿牛込御門橋上に暫く留りて神楽を奏しけるよつて此名ありと江戸砂子にみゆ又或説に穴八幡の祭礼にこの坂にて神楽を奏すと[云け]り名付ると也別穴八幡の旅所この坂の上にあり放生寺の持[之]津久戸神社の社伝には今の地へ遷座の時此坂にて神楽を奏すよしといふ

牛込町方書上 市谷田町四丁目代地 文政8〜11年(1825〜29年)
一 町内、里俗家前往還神楽坂相唱申候、尤神楽坂唱候穴八幡旅所相成候以前祭礼之節、當所神楽有之、其後當旅所度々神楽有之候付、唱来候由申傳又築土明神牛込御門内社有之候所、御用地相成、牛込御門外替地被下、遷座之節、揚場坂神輿重相成上らす候付、此所供物備、神楽を致候故、其節揚場坂を神楽坂相唱候由及承候得共、聢相分不申候、其外惣名唱候場所、小名無御座候
(中略)
一 坂之儀町内家前有之、北之方東之方下り、高凡三丈七尺程登り壱町斗有之、幅上之方六間程、下之方四間半程、但坂之字之儀里俗唱之ヶ条二申上候、道造之儀家前之分町内持御座候


御府内備考 文政12年(1829)、昌平坂学問所の地誌調所で成稿
市ヶ谷八幡宮の祭礼に神輿御門の橋の上にしはらくとゝまり神楽を奏すること例なり依てこの名ありと 江戸 砂子 穴八幡の祭礼にこの坂にて神楽を奏するよりかく名つくと 江戸  穴八幡の御旅所の地この坂の中ふくにあり津久土の社の伝にこの社今の地へ田安より遷坐の時この坂にて神楽を奏せしよりの名なりといふはもつともうけかたきことなり 改選江 戸志

 神楽坂の由来について「神楽が聞こえたから」と記載しています。でも、どの神社が神楽を奏したのかは不明です。
 これからは明治期以降の神楽坂です。

東京名所図絵。中野了随著。小川尚栄堂。明治23年
 神楽坂は牛込門の外の坂を云ふ 坂の両側櫛比して頗る繁盛なり 俚俗相伝ふ坂の半腹右側に高田穴八幡の旅所あり 祭礼神輿の時神輿渡る時神楽と奏する故に神楽坂と名けし由
櫛比 しっぴ。くしの歯のように、ほとんどすきまもなく並んでいること
頗る すこぶる。普通や予想した程度を越えて。たいそう。大いに。

新撰東京名所図会 明治37年 1904年
神楽阪は。牛込門址より西の方。神楽町の中央に在る阪路をいふ。もと阪の上南側に高田●●穴八●●幡社●●の旅所ありて。祭禮の時は神輿比所に渡り。神楽を奏するを以て此名ありといふ。
江戸砂子に。市谷●●八幡●●の祭礼に。神輿牛込御門の橋のうへにしばらくとゞまり。かぐらを奏す。因てこの名ありと云。当日牛込御門当番より鳥目十疋。ならびに神酒を獻すと。又近所若宮●●八幡●●のかぐら。此阪まできてゆ。因てかぐらといふともあり」としるし。江戸名所図会には。高田●●穴八●●の事を記し。其の註に。或云津久●●明神●●田安の地より今の所へ遷座の時。此阪にて神楽を奏せし故にしか号くとも。又若宮●●八幡●●の社近くして常に神楽の音此阪まできてゆるゆゑなりともいいへたり」といへり。神楽のことは何れも同じけれども。其の神社の伝へはーならず。然れとも甞て公園地調査の際。穴八幡社に於て聞ける所と。江戸名所図会神楽阪の図に徴するも。高田八幡社の神楽とする方事実なるが如し。
獻す けんす。献す。上位者や神仏に物をさしあげる。
甞て しょう。かつて。なめる。舌で味わう。こころみる。ためしてみる。過去。以前。

 大正期で初めて芸妓屋や待合も多いと記しています。

大正博覧会と東京遊覧 向上社編輯部編 向上社 大正3年 1914年
神楽坂 神楽町の峻坂を神楽坂とす。牛込見附を隔てゝ麴町に対す。四谷大通に次で山の手屈指の繁盛地、往来頻繁に、附近待合芸妓家多し
峻坂 しゅんぱん。けわしい坂。険坂。

 最後は戦後です。

続江戸の坂 東京の坂 昭和50年 横関英一 有峰書店
    神楽坂について
 新宿区神楽坂一、二、三丁目を縦断する坂。昔の牛込見附から西へ上る早稲田通りの坂で、その坂にまつわる伝説もまちまちであった。たとえば、高田穴八幡の旅所が、この坂の頂上にあって、祭礼のとき神楽を奏したとか(『大日本地名辞書』)、津久土明神が田安の地から津久土八幡のところへ遷座のとき、この坂で神楽を奏したとか(『新編江戸志』)、または若宮八幡社が近くにあるので、神楽の音が、この坂のところまできこえてきたとか(『江戸鹿子』)、あるいは赤城明神の神楽堂が、もとここにあったとか(『望海毎談』)と、いろいろである。しかしその昔は、この坂上に天台宗の行元寺という大寺があったとか。牛込見附のところに惣門があり、この坂には中門があって、左右に南天の並木がつづいていたので、世にこの寺のことを南天寺と呼んで有名であったとか。
 そのころは、牛込の奥へ行く道は、この坂に並行したかる坂が、この東にあった。この坂道は早くから発達していたので、「かるこざか」というの名は有名であった。軽子坂という意味は、河岸の舟に積んできた荷物を、水揚げするのが「かるこ」という人夫であった。その発音の珍しい呼び方が、やがて「かぐらざか」と作り、さらに「神楽坂」を生み出したのであろう。特別に神楽の伝説にもなんにも関係なくできた名前かもしれない。かるこざか—かぐらざか、ちょっと似たような面白い呼び名である。『江府名勝志』は「此坂の名の来歴其説あれども、慥ならざる故略之」と書いている。

東京の坂道 石川悌二 昭和46年 新人物往来社
 神楽坂(かぐらざか)旧牛込区の代表的な坂路。外濠通り国電飯田橋駅南口下から、新宿区神楽坂一、二、三丁目を西上するが、現今では坂上旧都電通りを通り越した地下鉄神楽坂駅のあたりまでも神楽坂通りと称している。
 神楽坂の名の由来は江戸砂子や江戸名所図会について見えるが、市ヶ谷八幡の旅所(祭礼のときの分祭所)があって「かぐら」が奏されたとし、また南方若宮八幡社の「かぐら」がきこえたためといい、さらには高田穴八幡の旅所が設けられ、祭礼の神楽を奏したためだとも伝えている。いずれにしても神社の祭礼の神楽ばやしにちなんで起った坂名であろう。この神楽坂辺は維新前はおおむね武家地と寺社地によって占領されていたが、牛込第一の盛り場となったのは明治の半ばごろから以後で、その後昭和十年代末まで繁栄を誇っていた。
 明治28年、甲武鉄道(現国鉄線)の牛込停車場が開設されると、神楽坂上毘沙門天の縁日(毎月寅の日)が人気を高めて、参詣の善男善女が見附から坂上にかけて長蛇の列をつくるようになり、坂には露店、植木市が出ならび、毘沙門の境内にはいろいろの見世物小屋が掛かって混雑をきわめたという。こうして牛込、市ヶ谷へんの旧武家地や寺社地跡に明治新興階級の住宅が建てこんでゆく時世の反映として、神楽坂は新しい東京の盛り場のシンボルになったのである。
 江戸名所図会のさし絵などに見る神楽坂は段々の坂で、さして険しくはみえないが、やはり昔は相当な急坂であったのを明治になって改修したもので、同13年3月30日、郵便報知は「神楽坂を掘り下げる」と題する次の記事を掲載している。
  牛込神楽坂は頗る急峻なる長坂にて、車馬荷車並に人民の往復も不便を極め、時として危険なることも度々なれば、坂上を掘り下げ、同所藁店下寺通辺の地形と平面になし、又小石川金剛寺坂も同様掘り下げんとて、頃日府庁土木課の官吏が出張して測量されしと。
 この前後における毘沙門様はかなり知られてはいたようだが、まだ交通不便な土地柄のために縁日の出店なども後年のような繁況には遠かったことが明治8年の新聞記事にうかがわれる。
       神楽坂の毘沙門
〔8月25日、東京曙〕牛込神楽坂の毘沙門さんも流行につれて、四五日前より日数三十日開帳の商法、店を開かれしに、法華堅まりの信徒連中が寄集り、叩きたる太鼓の音と南無妙法蓮華経を唱ふる声は昼夜の差別なく鳴渡りますが、回向院の大店程にはまうかるまいといふ沙法なり。
(以下、小説や新聞の紹介は省略)

新宿区町名誌 新宿区教育委員会 昭和51年 1976年
 神楽坂は、江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に堀り下げて改修した。明治4年6月、この地一帯に町名をつけた時、この神楽坂からとって神楽町としたが、旧称どおりの神楽坂でとおっていた。
 この神楽坂は、明治から昭和初期まで、東京における有名な繁街華であったが、昭和20年の空襲で、焼野原と化した。その後の発展とともに、神楽坂繁華街の発展をめざすため、神楽坂振興会が設立された。その音頭とりで、昭和26年5月1日、坂上の三町も含めて神楽坂と称することになり、北の赤城神社入口まで名称統一され、四・五・六丁目ができたのである。

新修新宿区町名誌 新宿歴史博物館 平成22年 2010年
 神楽坂は江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に掘り下げて改修された。
 明治4年(1871)6月、この地域一帯に町名をつけたとき、この神楽坂からとつて神楽町としたが、旧称どおりの神楽坂で呼ばれていた。
 この神楽坂は、明治から昭和初期まで、特に関東大震災以降、東京における有名な繁華街であった。大正14年(1925)坂が舗装された。神楽坂のこの道は毎朝近衛兵が皇居から戸塚の練兵場(現在の学習院女子大学)に行く道で、軍馬の通り道であった。舗装も最初は木レンガであったが、滑るため、2年ほどして影石に筋を入れた舗装に変わった。
 しかし昭和20年(1945)の空襲で、焼け野原と化した。
 昭和26年5月1日、坂上の三町も含めて神楽坂と称することになり(東京都告示第347号)、北の赤城神社入り口まで名称統一され、四・五・六丁目ができた。この町名変更に当たって、関係町民からも町名を神楽坂に統一する陳情書が区議会に提出された。その理由は、下宮比町と上宮比町が混同されやすいこと、肴町は隣区の肴町と誤認されやすい等が挙げられた(昭和30年新宿区史)。

冷水の井|新小川町2−2

文学と神楽坂

 牛込区(現、新宿区)の「冷水ひやみずの井」はどこにあったのでしょうか? はじめに冷たい清泉が出る井戸が日向ひなた区のたかしょう屋敷内にあり、武士屋敷に変わっても存在したようです。また、傍に治安維持のため辻番所も置き、ここは冷水番所と呼ばれました。江戸時代中期の享保6年(1721)、屋敷がなくなると、この井戸もなくなります。
 この水の硬度は高く、無類の名水(江戸砂子)だという報告もありますが、冷たいけれど良水ではなかったという報告もあります。
 また、明治13年11月から小日向区新小川町は牛込区新小川町に変更されています。
 まず菊岡せんりょう氏の「江戸砂子」(東京堂出版、1976)です。原本は享保17年(1732)です。

冷水の井 冷水番所 立慶橋の南の方也。此地むかしは御たかじやう屋敷にして、御鷹かいの井にて無類の名水也。其後武士屋敷と成りて傍に番所を置、これを冷水番所とよべり。然るに享保六丑の秋、辻番所御引はらいの時、此井すでにうづむべかりしを名水をおしみ、その所をおゝひ呼井戸にして今以これを汲。今番所あらずといへども冷水番所とよび、所の名のやうに成
鷹匠 たかじょう。朝廷、将軍家、大名などに仕えて、鷹を飼育・訓練し、鷹狩に従事した特定の人々。
餌飼 えかい。えがい。鳥獣などを、えさを与えて養うこと
番所 江戸時代、交通の要所などに設置した監視所。通行人、通航船舶、荷物などの検査や税の徴収を行なった。御番所。ばんどころ。
辻番所 江戸時代、江戸市中の武家屋敷町の辻々に幕府・大名・旗本が武家地の治安維持のために設置したもの。

 次に「御府内備考」第2巻「小日向の一」の文章です。

   冷水ノ井
冷水の井は江口長七郎か屋敷の脇にあり、その處のかたはらに番所ありしかば、その地を冷水番所といひて地名のやうになれり、立慶橋をわたりて西の方なり、【改選江 戸志】 むかしはこの所御鷹匠屋敷にして、御鷹の餌飼の井にて名水なり、その後旗下の士の屋敷となりて傍に番所をおかれ、是を冷水番所といふ、然るに享保六年の秋、番所は引れて今はなし、【江戸 砂子】

 「新撰東京名所図会」小石川区之部其三「小日向の称」では……

天正年中御入国の後。小日向御成の時。此辺皆沼多し。今の竹島町にて御休ありて。粥を煮させ御弁当にも御用ひ被遊。諸士へも賜ふ。其水今に冷水の井を御用水に成るよし。その時の釜今にありと。

 当時の小日向区で「立慶橋の南の方」「立慶橋をわたりて西の方」以外の場所は分かりません。しかし、延宝7年(1679)の「新板江戸大絵図」では「番所」らしき場所(下図)があり、これが冷水番所でしょう。

新板江戸大絵図

明治40年の東京市牛込区全図。赤で「番所」と思える場所を追加。「新小川町2丁目1番地」は青で

 また「冷水の井」は元小日向区(現在は新宿区)の新小川町(現在は丁目はなし)にあって、大正5年の「岡田寒泉伝」では「冷水の井」は昔の「新小川町2丁目1番地」(現在の「新小川町2ー2」)だと言っています。冷水橋について下図以上の説明はありませんが、流れる水を超えるように橋をかけたのでしょうか?

あげ 重田定一氏の「岡田寒泉伝」(有成館、大正5年)71頁から。

冷水の井は新小川町2丁目1番地。岡田寒泉の出生地は新小川町2丁目20番地。寒泉精舎は主に揚場町4番地に。


 東京市市史編纂係の『東京案内 下巻』(裳華房、明治40年)では……

新小川町一丁目 昔時小日向村の内也。万治中神田川改鑿かいさくの時、其土を以て此地ををさめ、小川町の士邸を移す。よつ里俗しんがはまちと呼べり。明治5年7月旧称にり町名をつ。本町は元と小石川区に属せしを、明治13年11月当区に属せしむ。町東に江戸川あり。
新小川町二丁目 沿革えんかく一丁目に同じ。江戸川は町の東北を廻る。
新小川町三丁目 沿革えんかく一丁目に同じ。里俗本町の中央北側を冷水ひやみづ番所ばんしょといふ。元と有名の清泉あり、冷水ひやみづび、はい番所を立つ、よつて此称あり。江戸川まちの北をながる。
改鑿 かいさく。土地を改善して道路や運河などを通すこと。
士邸 武士の邸宅。明治維新後では旧武士階級の士族の邸宅
里俗 りぞく。地方の風俗。土地のならわし。
清泉 せいせん。清く澄んだいずみ。みず

 岸井良衛氏編の「江戸・町づくし稿 中巻」(青蛙房、昭和40年)では……

 冷水ひやみずの井・立慶橋の南。むかしは此処が御鷹匠屋敷で御鷹の餌飼の井として有名な清泉で、武家屋敷が出来てからは番所が出来て、冷水番所といった。享保6年(1721年)の秋に辻番所を引移した時に、井は埋められてしまった〔砂子〕

 新宿区教育委員会の「新宿区町名誌」(新宿区教育委員会、昭和51年)では……

 一丁目南部は、江戸時代冷水ひやみず番所といった。もと御鷹匠屋敷で、そこには御鷹の餌飼の井として有名な清水の井戸があり、冷水の井と呼ばれていた。鷹匠屋敷のあと番所が建てられたので、俗に冷水番所と呼ばれたのである。冷水の井がある番所屋敷地といういみである。享保6年(1721)の秋に、番所が他に引越した時に井戸は埋め立てられた。なお、冷水番所は、明治40年の「東京案内」には、三丁目の中央北部としてある。しかし、その位置にすると埋立地内となるので、清水のわき出る井戸になるか疑問になるので、岸井良衛の「江戸町づくし稿」によって一丁目とする方が適当と思われる。
 この冷水の井があったことを考えると、新小川町の南部は、牛込台地のふもとで、陸地になっていたものと思われる。同じような清水の井戸が、二丁目南部にもあった。

 ここで、昭和57年(1982)住居表示が変更し、新小川町の1~3丁目は統合されて、ただの「新小川町」に代わりました。
 では、伏見弘氏の「牛込改代町とその周辺」(非売品、平成16年)126頁によれば……

  新小川町、冷水の井戸  新小川町(大曲〜船河原橋の間)の成立についてはさきに述べたが追記することにする。新小川町は、「お茶の水」の開削の残土で造成し、しかる後に神田小川町の士邸の一部を移転させて「新小川町」と唱えたとされる。いうならば神田川外堀の河川改修の嚆矢であった。
 ここには、御鷹匠屋敷があり、鷹の飼育に使われた名水があった。市井の井戸とは違い、水番所が置かれたので“冷水の井番所”と称された。その位置は現在の厚生年金病院の裏である(推定)。後年、その井戸は埋められ現存していないが、「冷水番所」という呼称のみが残ったのである。

 新宿歴史博物館の『新修新宿区町名誌』(新宿歴史博物館、平成22年)では……

 町域の東南部は、江戸時代冷水番所と呼ばれた。もと御鷹匠屋敷で、そこには御鷹の餌飼の井として有名な清水の井戸があり、冷水の井と呼ばれていた、鷹匠屋敷のあと番所が立てられたので、冷水の井のある番所屋敷地という意味で、俗に冷水番所と呼ばれた(町名誌)。
 ちなみに揚場町にある東京都指定旧跡である寒泉かんせん精舎せいしゃあとは、江戸時代に儒学者・政治家の岡田寒泉(1740-1816)が開いた私塾跡であるが、この寒泉は新小川町に生まれ、出生地に冷泉があることから、それに因んで寒泉と号したという(町名誌)。

神楽河岸|町名はいつから

文学と神楽坂

 神楽河岸はいつから単なる「土地名」ではなく「町名」になったのでしょうか? 現在は人口0人の「町」ですが、いつから「町」になったのでしょうか。
 ウィキペディア(Wikipedia)では……

神楽河岸(かぐらがし)は、東京都新宿区の町名。住居表示実施済み地域であり、丁目の設定がない単独町名である。

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では……

神楽かぐら河岸かし
 牛込御門から船河原橋間の外堀沿いの河岸地。当地域はかつての江戸城の外堀である飯田濠の場所にあたり、現在は埋め立てられ、千代田区と新宿区の両区にまたかって駅ビルが建っている。ビルの上層部には東京都飯田橋庁舎と住宅棟があり、このうち事務棟は新宿区、住宅棟は千代田区に属している。
 江戸時代に河岸地だったのは牛込揚場町に付属する河岸のみで、揚場と呼ばれていた。近代になって揚場河岸を含めた一帯の堀端の地を神楽河岸と総称するようになった。昭和六三年住居表示実施。

 また、コトバンクの「日本歴史地名大系」(平凡社)では

牛込御門―ふな河原かわら橋間の外堀沿いの河岸地。江戸時代に河岸地であったのは牛込うしごめ揚場あげば町に付属する河岸(物揚場)のみで、揚場河岸とよばれていた。近代に入って揚場河岸を含めた一帯の堀端の地を神楽河岸と総称するようになった。

 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4神楽坂界隈の変遷』(1970年)49頁では

 明治になってからこの川岸は俗に揚場河岸と唱えられていた。だが明治末年にはこの揚場河岸をも含めて神楽河岸となっている。古くは市兵衛河岸とか市兵衛雁木(雁木は河岸より差出した船付けの板木)といい、昔此所に岩瀬市兵衛のやしき在りしに困る、と東京名所図会に出ているがこれは誤りであろう。市兵衛河岸はもっと神田川を下って、船河原橋際より小石川橋にかけていったものである。「明治六年東京地名字引」(江戸町づくし)にも小石川街門外と記されてある。

 つまり、「神楽河岸」の土地名は「近代に入って」「明治末年」からだと書いてありますが、「神楽河岸」が「町」になった時点は不明なのです。

 高道昌志氏の「明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程」(日本建築学会計画系論文集第80巻。2015年)では「このような状態から、神楽河岸は明治26年に市区改正事業によって、土地の区分としての『河岸地』から一端削除されていく。……一部を隣接する揚場町に編入し、残りを神楽坂警察署用地と水道局神楽河岸出張所、更にその残りが神楽河岸一・二号地として分配され……」
 つまり、神楽河岸は揚場町、神楽坂警察署と水道局神楽河岸出張所、神楽河岸一・二号の6つに分かれました。「神楽河岸町」の記載はありませんが「神楽河岸」は出ています。

日本建築学会計画系論文集第80巻。明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程

 同じく明治26年11月、牛込警察署が初めて神楽河岸に移転します(昭和5年『牛込区史』491頁)。注目すべきことは、所在地が「現在の神楽坂一丁目地先神楽河岸に移転し」となっていることです。地先(じさき、ちさき)とは「居住地・所有地・耕作地と地続きの地で、反別も石高もなく、自由に使える土地」「その土地から先へつながっている場所」だそうです。
 明治41年「神楽河岸」は「|」で表しています(『牛込区史』332頁、昭和5年)。つまり、世帯もなく、住民もいない所でした。
 大正元年、東京市区調査会の東京市及接続郡部地籍地図 上卷では、神楽河岸は神楽町一丁目の一部として描かれています。この時代の神楽河岸は、神楽町一丁目につながった「無番地/番外地」(土地公簿で地番ちばんのついていない土地)だったのです。

 大正9年に変化が出ます。この年、10世帯41人と初めて人口が増え、大正13年には14世帯85人になっています。大正9年12月、警察署の庁舎がここに新築されたことが関係していて、この時に区が認める町名として成立したと考えられます。
 大正10年の牛込町誌 第1巻の地図には「神楽河岸」の地名が見えます。また「区分及び人口」でも「神楽町を左の4区に区分す」として、神楽町1-3丁目と並んで神楽河岸、番地ナシ、8戸41人の記載があります。
 一方、同書記載の土地所有者には神楽河岸がなく、全域が公有地だったと考えられます。牛込町誌は「牛込区史編纂会」が手がけており、信頼性の高い資料です。
 さらに『牛込区史』(492頁)には現在の警察の管轄区域として「神楽坂一、二、三丁目」にはじまる町名の列挙の最後に「神楽河岸」が出てきます。原文では「現在当署の管轄区域は神楽町1、2、3丁目・(中略)・神楽河岸の諸町である」と書かれ、神楽河岸は確実に町の1つになったのです。おそらく新しい町名なので、最後になったのでしょう。
 さらに時代が変わり、人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)によれば既に「神楽河岸町」とついています。

人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)

 昭和45年の住宅地図では、再び「神楽河岸町」はなくなり、代わって「神楽河岸」があります。新宿区の町は「神楽河岸」、たたえる水は「飯田濠」、東半分で千代田区の町は飯田町でした。ちなみに、町としての「飯田河岸」は昭和8年7月1日になくなっています

住宅地図。1970年

 もっと新しい文献で、新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)では、まったく無視し、「神楽河岸」は載っていません。一方「新修新宿区町名誌」(平成22年)では再び町の扱いになりました。
 おそらく、神楽河岸は大正9年の牛込警察署の庁舎建築から確実に「町」になったのでしょう。以来「神楽坂」と同じように「神楽河岸」も「町」の1つです。あとは当時の公報で確認できればいいのですが。
 なお「新宿区町名誌」(昭和51年)のように完全に無視したのは、まずかったのです。

五軒町(写真)平成31年 ID 14059-62

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14059から14062までとID 14196は、平成31年(2019)東五軒町と西五軒町から、相生坂の方面の写真を撮ったものです。道路の右側は西五軒町、左側は東五軒町です。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14059 西五軒町 西五軒町6-12から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14060 西五軒町 西五軒町6-19から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14196 西五軒町 西五軒町6-19から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14061 西五軒町 真清浄寺から相生坂を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14062西五軒町 東五軒町から西五軒町を望む

 5枚の写真をID 14059は➀、ID 14060とID 14196は②、ID 14061は③、ID 14062は➃として地図に撮影した場所を書き込むと、以下のようになります。➃の道路の右側は「ラ・トゥール神楽坂」という地上24階、地下2階建の賃貸マンションです。

 新宿区は、何を目的にこの場所を撮影したのでしょうか。
 この界隈は印刷製本の町でした。昭和39年(1964年)の東京オリンピックや、昭和44年(1969年)の首都高速5号池袋線の共用開始の頃から、小さな印刷工場が店じまいしてマンションを建てる動きが目立ち始めました。芳賀善次郎著『新宿の散歩道』(三交社、1972)牛込地区「46. 印刷製本工業地帯」では……

印刷製本工業地帯
      (神田川ぞい)
 新小川町から神田川にそった両岸一帯は、上流の戸塚まで、印刷製本の盛んな地域である。東京における四大印刷工業地帯の一で、文京区の小石川低地一帯、神田神保町一帯、中央区京橋裏通り一帯とともに有名である。
 これは、神田の本屋街に近いためであるが、牛込にも代表的な印刷、出版会社がある。これと関連して見のがすことのできないものに、その印刷した紙をたたむ仕事や内職をする「折り子」が多かったことである。しかし、製本の機械化がしだいに進み、さらに昭和四十四年神田川にそった道路上に高速道路ができると、道路拡張が行なわれ、会社が高層ビル化するとともに近代化が促進されて手工業の姿は姿を消した。
 地理学者田中啓爾は、つぎのよういっている。「小石川地区や牛込地区の印刷工場の周囲は、谷間も完全に住宅地や商店街となってしまっている。それでもこの印刷工場は、住宅地や商店街と両立しないことはない。
 この印刷工場のようなものは、周囲にめいわくをかけない文化工業であるからである。こんな文化工業は、山の手方面にいつまでも残ることができる。」
 〔参考〕東京都新誌

 現在では、すっかり住宅街に変わっています。歴史上の価値がある何かが写っているのか、定点観測か、それとも単に「相生坂」を撮影したのか、目的がよくわかりません。
 なお、新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)は、相生坂は一つだけと読めそうです。

 白銀町から東五軒町と西五軒町の間を下る坂を俗に相生坂あいおいざかという。また別名鼓坂つづみざかともいう。赤城元町の赤城神社西側の赤城坂と相対しているので、相生坂と一対にして鼓の両側になるという意味で鼓坂と名付けたという(町名誌)

 つまり、西五軒町と東五軒町の間だけを相生坂だとしているようです。ただ東側に並行するもう一本の坂も相生坂と呼ばれており、教育委員会による標柱は二つあります。

和泉屋横町|白銀町

文学と神楽坂

 和泉屋横町ってどこ? 「町方書上」で牛込白銀町には

町内東横町、里俗和泉屋横町申候、以前和泉屋と申酒屋住居仕候故申習候

 つまり、和泉屋横町は白銀町内の東にあり、酒屋の和泉屋があったといいます。また東陽堂の『東京名所図会』第41編(1904)では…

     ◎町名の起原幷に沿革
牛込白銀町は慶長年間の開創にして。田安の地に居住したりしもの移したる所なりといふ。町内に和泉長屋と稱する所あり

 東京都新宿区教育委員会の「新宿区町名誌 地名の由来と変遷」(昭和51年)では津久戸町について

白銀町との間を俗に和泉屋横町といった

 なるほど白銀町と津久戸町を分ける場所だったんだ。つまり灰色の場所だったんだ。

 さらに新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば…

牛込白銀町 起立の年など詳細は不明。一説には慶長年間(1596~1615)の江戸城修築の際、田安(現千代田区)の住人を移して町を開いたともいう(町名誌)。町内の東側のあたりは、かつて和泉屋という酒屋があったことから和泉屋横丁と呼ばれていた(町方書上)
 明治4年(1871)6月、常陸松岡藩中山家(水戸藩付家老)上屋敷ほか近隣の武家地と合併(市史稿市街篇53)。明治44年、「牛込」が省略され白銀町となり、現在に至る。

 江戸時代、「牛込白銀町」は2つありました。2つとも「牛込白銀町年貢町屋」でした(青色)。「年貢町屋」とは年貢を納める農家がある町。明治4年、白銀町は拡張し、拡張した町は黄緑色で描いています。巨大な場所です。

 2つのうち中央下のほうの牛込白銀町に「和泉屋横町」があったのでしょう(赤色)。現在はマンションになっています。なお、明治時代には「和泉長屋横丁」と呼ばれたようです。