新小川町」タグアーカイブ

冷水の井|新小川町2−2

文学と神楽坂

 牛込区(現、新宿区)の「冷水ひやみずの井」はどこにあったのでしょうか? はじめに冷たい清泉が出る井戸が日向ひなた区のたかしょう屋敷内にあり、武士屋敷に変わっても存在したようです。また、傍に治安維持のため辻番所も置き、ここは冷水番所と呼ばれました。江戸時代中期の享保6年(1721)、屋敷がなくなると、この井戸もなくなります。
 この水の硬度は高く、無類の名水(江戸砂子)だという報告もありますが、冷たいけれど良水ではなかったという報告もあります。
 また、明治13年11月から小日向区新小川町は牛込区新小川町に変更されています。
 まず菊岡せんりょう氏の「江戸砂子」(東京堂出版、1976)です。原本は享保17年(1732)です。

冷水の井 冷水番所 立慶橋の南の方也。此地むかしは御たかじやう屋敷にして、御鷹かいの井にて無類の名水也。其後武士屋敷と成りて傍に番所を置、これを冷水番所とよべり。然るに享保六丑の秋、辻番所御引はらいの時、此井すでにうづむべかりしを名水をおしみ、その所をおゝひ呼井戸にして今以これを汲。今番所あらずといへども冷水番所とよび、所の名のやうに成
鷹匠 たかじょう。朝廷、将軍家、大名などに仕えて、鷹を飼育・訓練し、鷹狩に従事した特定の人々。
餌飼 えかい。えがい。鳥獣などを、えさを与えて養うこと
番所 江戸時代、交通の要所などに設置した監視所。通行人、通航船舶、荷物などの検査や税の徴収を行なった。御番所。ばんどころ。
辻番所 江戸時代、江戸市中の武家屋敷町の辻々に幕府・大名・旗本が武家地の治安維持のために設置したもの。

 次に「御府内備考」第2巻「小日向の一」の文章です。

   冷水ノ井
冷水の井は江口長七郎か屋敷の脇にあり、その處のかたはらに番所ありしかば、その地を冷水番所といひて地名のやうになれり、立慶橋をわたりて西の方なり、【改選江 戸志】 むかしはこの所御鷹匠屋敷にして、御鷹の餌飼の井にて名水なり、その後旗下の士の屋敷となりて傍に番所をおかれ、是を冷水番所といふ、然るに享保六年の秋、番所は引れて今はなし、【江戸 砂子】

 「新撰東京名所図会」小石川区之部其三「小日向の称」では……

天正年中御入国の後。小日向御成の時。此辺皆沼多し。今の竹島町にて御休ありて。粥を煮させ御弁当にも御用ひ被遊。諸士へも賜ふ。其水今に冷水の井を御用水に成るよし。その時の釜今にありと。

 当時の小日向区で「立慶橋の南の方」「立慶橋をわたりて西の方」以外の場所は分かりません。しかし、延宝7年(1679)の「新板江戸大絵図」では「番所」らしき場所(下図)があり、これが冷水番所でしょう。

新板江戸大絵図

明治40年の東京市牛込区全図。赤で「番所」と思える場所を追加。「新小川町2丁目1番地」は青で

 また「冷水の井」は元小日向区(現在は新宿区)の新小川町(現在は丁目はなし)にあって、大正5年の「岡田寒泉伝」では「冷水の井」は昔の「新小川町2丁目1番地」(現在の「新小川町2ー2」)だと言っています。冷水橋について下図以上の説明はありませんが、流れる水を超えるように橋をかけたのでしょうか?

あげ 重田定一氏の「岡田寒泉伝」(有成館、大正5年)71頁から。

冷水の井は新小川町2丁目1番地。岡田寒泉の出生地は新小川町2丁目20番地。寒泉精舎は主に揚場町4番地に。


 東京市市史編纂係の『東京案内 下巻』(裳華房、明治40年)では……

新小川町一丁目 昔時小日向村の内也。万治中神田川改鑿かいさくの時、其土を以て此地ををさめ、小川町の士邸を移す。よつ里俗しんがはまちと呼べり。明治5年7月旧称にり町名をつ。本町は元と小石川区に属せしを、明治13年11月当区に属せしむ。町東に江戸川あり。
新小川町二丁目 沿革えんかく一丁目に同じ。江戸川は町の東北を廻る。
新小川町三丁目 沿革えんかく一丁目に同じ。里俗本町の中央北側を冷水ひやみづ番所ばんしょといふ。元と有名の清泉あり、冷水ひやみづび、はい番所を立つ、よつて此称あり。江戸川まちの北をながる。
改鑿 かいさく。土地を改善して道路や運河などを通すこと。
士邸 武士の邸宅。明治維新後では旧武士階級の士族の邸宅
里俗 りぞく。地方の風俗。土地のならわし。
清泉 せいせん。清く澄んだいずみ。みず

 岸井良衛氏編の「江戸・町づくし稿 中巻」(青蛙房、昭和40年)では……

 冷水ひやみずの井・立慶橋の南。むかしは此処が御鷹匠屋敷で御鷹の餌飼の井として有名な清泉で、武家屋敷が出来てからは番所が出来て、冷水番所といった。享保6年(1721年)の秋に辻番所を引移した時に、井は埋められてしまった〔砂子〕

 新宿区教育委員会の「新宿区町名誌」(新宿区教育委員会、昭和51年)では……

 一丁目南部は、江戸時代冷水ひやみず番所といった。もと御鷹匠屋敷で、そこには御鷹の餌飼の井として有名な清水の井戸があり、冷水の井と呼ばれていた。鷹匠屋敷のあと番所が建てられたので、俗に冷水番所と呼ばれたのである。冷水の井がある番所屋敷地といういみである。享保6年(1721)の秋に、番所が他に引越した時に井戸は埋め立てられた。なお、冷水番所は、明治40年の「東京案内」には、三丁目の中央北部としてある。しかし、その位置にすると埋立地内となるので、清水のわき出る井戸になるか疑問になるので、岸井良衛の「江戸町づくし稿」によって一丁目とする方が適当と思われる。
 この冷水の井があったことを考えると、新小川町の南部は、牛込台地のふもとで、陸地になっていたものと思われる。同じような清水の井戸が、二丁目南部にもあった。

 ここで、昭和57年(1982)住居表示が変更し、新小川町の1~3丁目は統合されて、ただの「新小川町」に代わりました。
 では、伏見弘氏の「牛込改代町とその周辺」(非売品、平成16年)126頁によれば……

  新小川町、冷水の井戸  新小川町(大曲〜船河原橋の間)の成立についてはさきに述べたが追記することにする。新小川町は、「お茶の水」の開削の残土で造成し、しかる後に神田小川町の士邸の一部を移転させて「新小川町」と唱えたとされる。いうならば神田川外堀の河川改修の嚆矢であった。
 ここには、御鷹匠屋敷があり、鷹の飼育に使われた名水があった。市井の井戸とは違い、水番所が置かれたので“冷水の井番所”と称された。その位置は現在の厚生年金病院の裏である(推定)。後年、その井戸は埋められ現存していないが、「冷水番所」という呼称のみが残ったのである。

 新宿歴史博物館の『新修新宿区町名誌』(新宿歴史博物館、平成22年)では……

 町域の東南部は、江戸時代冷水番所と呼ばれた。もと御鷹匠屋敷で、そこには御鷹の餌飼の井として有名な清水の井戸があり、冷水の井と呼ばれていた、鷹匠屋敷のあと番所が立てられたので、冷水の井のある番所屋敷地という意味で、俗に冷水番所と呼ばれた(町名誌)。
 ちなみに揚場町にある東京都指定旧跡である寒泉かんせん精舎せいしゃあとは、江戸時代に儒学者・政治家の岡田寒泉(1740-1816)が開いた私塾跡であるが、この寒泉は新小川町に生まれ、出生地に冷泉があることから、それに因んで寒泉と号したという(町名誌)。

戦前最初の団地同潤会アパート|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 41.戦前最初の団地同潤会アパート」についてです。

戦前最初の団地同潤会アパート
      (新小川町2、3丁目
 さらに大曲へ進み、手前の道を左折すると、関東大震災後つくられた 同潤会アパート群がある。団地の戦前派、団地のはしりである。日本の近代的な集団住宅地の歴史をたどると、そのはしりは明治の中期から始まる。しかしそれは、繊維工場の女工さんの寮や鉱山労務者の集団住宅であった。
 大正12年の関東大震災で、東京周辺の46万5000戸が焼失したので、救援金1000万円をもとにして内務大臣を会長とする財団法人同潤会が設立した。アパート、小住宅、分護住宅などをつくるための機関で、農災後の急場しのぎに、大正13年までに木造住宅約5000戸を建設した。
 その後は昭和のはじめにかけて、渋谷の代官山、千駄ケ谷、江東区白河町、この新小川町などにアパートをつくったのである。公益法人が建設したはじめての不燃集団住宅群である。同潤会は、16年に住宅営団となって解散した。
 新宿区には、この戦前派団地のはしりと、戦後派団地のはしりの西戸山アパート群をもつことは誇ってよいことである。
新小川町2、3丁目 過去に同潤会江戸川アパートは新小川町2丁目だけで、3丁目は無関係でした。現在は「丁」もなくなり、新小川町だけです。

昭和42年 住宅地図

大曲 おおまがり。大きく曲がる場所。ここでは新宿区新小川町の大曲という地点。ここで神田川も目白通りも大きく曲がっています。
関東大震災後つくられた 内務省の外郭団体として財団法人同潤会が設立され、大正15年から同潤会が解散する昭和16年までのアパートは総計16ヶ所。
 うち同潤会江戸川アパートは昭和5年に土地を買収、着工は昭和6年11月、完成は9年(1934)8月。総戸数は260戸。
 ちなみに平成15年に建て替えを決議。平成17年(2005)、アトラス江戸川アパートメントが竣功し、総戸数は232戸。

大月敏雄「同潤会アパートの防災性」建築防災。2000年

同潤会アパート群 同潤会江戸川アパートは1号館(北側)6階建(地下1階)と2号館(南側)4階建の2棟で、260戸(うち世帯向けは126戸、独身向けは131戸、事務室1戸、理髪店1戸、食堂附属住宅1戸)(橋本文隆ら「消えゆく同潤会アパートメント」河出書房新社、2003)。1号館の5〜6階は独身向けでした。一般的には同潤会アパートは震災復興の応急住宅ですが、江戸川アパートは「集大成」した「東洋一」の「理想的」なアパートを目指しました。

建設広報協議会編「建設月報」建設広報協議会。1981年5月。

 

橋本文隆ら「消えゆく同潤会アパートメント」河出書房新社、2003

 中庭(児童遊園、遊歩道、噴水)があり、1階に食堂、地階に浴場と理髪店、2階に社交室・娯楽室がありました。住戸には和式水洗トイレ(日本初)、ダストシュート、戦後しばらくの期間使用したエレベータ(1号棟、2基のうち食堂近くの1基だけが稼働)、蒸気暖房によるセントラルヒーティング等も完備。住戸の大きさは39〜76 ㎡で、家族向け和式住戸は50〜70㎡、最多の部屋は約60㎡。

 平成8年(1996)4月27日の都市徘徊blogから

中庭と遊具(鉄棒、ブランコ、ジャングルジム、滑り台)

1号棟屋上塔屋と屋上階(階段室・EVホール・流し)。左方がエレベーター。屋上で物干し、屋階は洗濯用の流し

食堂とテーブルと椅子

バーカウンターと地階の理髪店入口

 次は同潤会 江戸川アパートメントのブログです。

左は表札。中央は125号室で、構造家・横山不学氏の邸宅。右は室内。

屋上は共同の物干し場と共同の洗濯場。

食堂の入り口と内部

 江戸川アパートメント研究会「江戸川アパートメント案内」(平成15年)では……

同潤会江戸川アパートメント案内
1 西側通りより1号館事務所付近を望む
2 都市計画道路完成時の正面を意識した2号館のバルコニー
3 ステンドグラスの丸窓がある2号館11階段
4 各部屋の窓下にはラジエターと組み合わされた大型の換気口がある
5 奥にはステンドグラスで飾られたカウンターが見える食堂
6 家族向け住戸の洗面と汽車式のフラッシュバルブ和風便所
7 人研ぎの流しが並ぶ2階段屋上の洗濯場
註:人研ぎ じんとぎ。人造石。人造大理石。セメントに天然石を細かく砕いたものと顔料を混ぜて固め、研磨して仕上げたもの。


同潤会江戸川アパートメント案内

社交室ステンドグラス 撮影●斎部功


1 突出しの欄間がついた住戸の引違い鋼製サッシ
2 階段踊り場の鋼製バランスサッシ
3 戦争を潜り抜けたエレベーターは、戦後しばらくの間使用された
4 住戸玄関脇の照明
5 様々なデザインの独身室面格子
同潤会江戸川アパートメント案内


6 2号館に残る避難用縄梯子
7 採光と通風が配慮された鋼製玄関扉
8 点検口としても利用された一部開閉式の1階の床下換気口
9 メーカー指定が行なわれた社交室腰のベニア張り
10 現在でも健在の2階段上に残る人研ぎの洗濯用流し
11 名札固定用の板バネがついた集合案内板
12 エイジングとクリーニング効果をもった外壁「リソイド」仕上
13 同潤会のマークが残る蓋
撮影 ●1~4.6.7.9~12 加藤雅久 8.13 旭化成株式会社 5 斉部功

1階は食堂、配膳室、調理室、物置、便所、食堂附属住宅、エレベータ

2階は社交室、娯楽室、露台(テラス)、エレベータ

1〜4階(世帯用)と5〜6階(独身用)(1号館)

 橋本文隆ら「消えゆく同潤会アパートメント」(河出書房新社、2003)から一部を……



同潤会江戸川アパートメント同潤会江戸川アパートメント

集団住宅地の歴史 日本初の集合住宅は東京下谷の上野倶楽部(1910年)で、木造5階建てで60戸。鉄筋コンクリートの集合住宅は長崎県の端島(通称:軍艦島)に三菱鉱業が建てた9階建ての社宅(1915年)で300世帯5000人。続いて、同潤会は大正15年から昭和9年までで、東京や横浜に耐震耐火の集合住宅を建設しました。
繊維工場の女工さんの寮 平井直樹等「明治後期から昭和初期における職工寄宿舎に関する評価」(日本建築学計画系論文集、2013)では各種の寄宿舎を調べ、一部屋当たり定員5〜8人で、小規模の寄宿舎(50-60人)が最も利便性や防火性がいいと判断しています。また集会所、浴場などを設けていました。
大正13年までに木造住宅約5000戸 大正13年までに5580戸。昭和16年までに10,864戸でした。
渋谷の代官山、千駄ケ谷、江東区白河町、この新小川町などに 同潤会アパートの概要は以下の通り。

大月敏雄「同潤会アパートの防災性」建築防災。2000年

不燃集団住宅 鉄筋コンクリート造りで、戸毎に不燃質の障壁と防火戸、堅固の建具などがありました。「アパートの構造は、基本的にはラーメン構造(垂直方向の「柱」と、水平方向で柱をつなぐ「梁」によって建物全体を支える構造)であり、しかも住戸間のRC造界壁も厚く、RC柱が無くとも壁式構造として通用しそうなほど、誠に頑丈なものであった」(大月敏雄「同潤会アパートの防災性」建築防災。2000年)また「同潤会アパートは、一見外国で作られた建物に似ているが典型的な日本の現代建築である」(Marc Bourdier著「日本建築史における同潤会アパートの役割の研究」。東京大学工学博士論文、1991年)という。
16年に住宅営団 昭和16年(1941)、戦時中に住宅営団が発足、同潤会は解散。

沼地だった大曲付近|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地域 42.沼地だった大曲付近」を見ていきます。「昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐになった。地図をみると、新宿区と文京区の区境が入れ混っているが、これは昔の江戸川の流路であったからである」という考え方は部分的に正しく、「昭和のはじめごろ」はおかしいと思えます。

沼地だった大曲付近
     (新小川町一、二、三丁目
 大曲一帯は、江戸時代初期には白鳥沼という大きな沼であった。また前にのべたが飯田橋あたりは大沼という沼地であった(11参照)。それを、万治年間(1658ー60)、お茶の水堀を掘る時、掘りとった土や白銀町の台地(御殿山)を崩した土で埋めたてたのである。そして神田小川町の武家屋敷をここに移したので新小川町と名づけられた。大曲のところの橋を白鳥橋というのは、昔の白鳥沼の名前をとったのである。
 神田川は、このあたり低地を蛇行して流れていた。大雨の時などは川が氾濫して、まわりの田畑は洪水の害を受けることが多かった。
 そこで昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐになった。地図をみると、新宿区と文京区の区境が入れ混っているが、これは昔の江戸川の流路であったからである。新小川町などは、はじめ文京区の小石川地区であったが、明治13年11月に牛込区に編入されたものである。
 落合から下流飯田橋までをはじめ江戸川と呼んでいたが、昭和40年4月からは神田川と呼ぶことになった。下流のお茶の水、浅草橋、隅田川までは、江戸時代に江戸城外堀として掘られた人工の川である。
 お茶の水堀ができない前は、神田川は、白鳥沼から大沼、小石川橋九段下神田橋常盤橋日本橋鎧橋を通って江戸湾に注いでいた。古くは大沼から一ツ橋あたりまでを上平川、それから下流を下平川と呼んでいた。
 神田川の上を高速道路が開通したのは、昭和44年である。
〔参考〕江戸砂子 沈み行く東京 江戸町づくし稿中巻
大曲 おおまがり。道などが大きく曲がっていること。その場所。新宿区と文京区では神田川の流路がほぼ直角に曲がっている所。
新小川町一、二、三丁目 現在は昭和57年(1982)の住居表示実施に伴い、1~3丁目は統合、なくなり、新小川町だけになりました。
白鳥沼 小石川大沼の上流の池。南向茶話では
〇白鳥の池、当時江戸川中の橋の下の曲流の所は、往古は大なる池にて、白鳥の池と号す。埋れて其余地南の方久永氏の宅地にのこれるよし。

大沼 小石川大沼。江戸初期以前では神田川(平川)と小石川の合流地点。湿地帯だった。

菊池山哉「五百年前の東京」(批評社、1992)(色を改変)

埋めたてた 「御府内備考」「牛込之一」「総論」では

万治のころ松平陸奥守綱宗仰をうけて浅草川より柳原を経て御茶の水通り吉祥寺の脇へかけてほりぬき水戸家の前をすき牛込御門の際まで堀しかははしめて牛込へ船入もいてきしこのほり上たる土を以て小日向の築地小川町の築地なり武士の居やしきをもたてり、この築地ならさる前は赤城の明神より自白の不動まで家居一軒もあらて畑はかりなりしか、是より武士の屋敷商人の家居も出来たり
 新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)では
新小川町は、明暦四年(1658)の3月、安藤対馬守が奉行となり、筑土八幡町の御殿山を崩して埋め立てたのである。また、万治年中(1658一60)には仙台の伊達綱宗がお茶の水堀を掘って神田川の水を隅田川に通ずる工事をした時、その掘り土でこの地を埋め立て、千代田区小川町の武士たちを移した。そこでこの埋め立て地を新小川町といった。
 新宿区生涯学習財団「新修 新宿区町名誌」(平成22年)では
万治年中(1658-61)には仙台藩伊達家が御茶ノ水堀を掘って神田川の水を隅田川に通す工事をした際、その堀土でこの地を埋め立て、千代田区小川町の武士たちを移した。そこでこの埋立地を俗に新小川町と呼んだ。
 東京市麹町区編「麹町区史」(昭和10年)では
 翌万治3年2月10日、有名な神田川開疏が行われ、伊達家の担当で牛込から此の門(筋違橋門)際舟入りとなる。

昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐに 間違えています。寛文11-13年(1671-73)からは、氾濫がない場合に、江戸川橋より下流では今とほぼ同じ流路でした。

新板江戸外絵図。寛文11-13年。(1671-1674)

昭和22年 住宅地図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

昔の江戸川の流路 何が原因で区境になったのでしょうか? 正保元年(1644)頃の正保年中江戸絵図を見てみます(下図)。前図からさらに古い地図ですが、神田川は江戸川橋から東方になっても蛇行をしているようです。

正保年中江戸絵図。嘉永6年(1853)に模写。原図は正保元年(1644)か2年に作成か

 そこで伏目弘氏は『牛込改代町とその周辺』(自己出版、平成16年)で「仮称『江戸川大沼』の南側の淵を、小石川区(現文京区)と牛込区(現新宿区)の区境としたのでは」と考えています。

交錯する江戸川橋付近の区境 現在の江戸川橋交差点付近には、神田川を境に文京区と新宿区の区境が錯綜している地域がある。文京区は、昭和39年から42年にかけて、町成立の歴史認識を無視し、町名変更を実施したのである。
 旧町名の小日向町・東古川町・西古川町・松ヶ枝町・関口水道町・関口町の六カ町は、一律に関口一丁目・二丁目となったのである。これらの旧町と新宿区の町境を歩いてみると、まるで迷路のようである。ここで仮説を交え、その原因を探ってみる。
 単純に立地条件を考慮してみると、江戸川橋交差点付近は往古は沼地であったと推定できる。西北に、目白関口台地と続いて雑司谷があり、雑司谷を水源とした野川は蛇行して音羽の谷に流水し、小日向台地下に弦巻川大下水を形成し、目白関口台地下には鼠谷大下水があった。
 他方南の牛込台地の流水は、音羽の谷(現江戸川橋交差点)に自然集水し、沼地となっていたと思われる。やがて江戸期になり神田上水と江戸川改修で沼地は耕作地帯に変貌し、明治期に区制が成立した際に区境の位置が問題になり、往古の仮称「江戸川大沼」の南側の淵を、小石川区(現文京区)と牛込区(現新宿区)の区境としたのでは、と推測をするのである。

 別の考え方には「蟹川」があり、その流路は図の最低標高線になり、そして2区の境界になったと考えられます。

東京実測図。明治18-20年。参謀本部陸軍部測量局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

牛込区に編入 岸井良衛編「江戸・町づくし稿 中巻」(青蛙房、1965)には

 明治5年7月に、旧称をそのまま町名として、東から一、二、三丁目と分けた。その当時は小石川区に属していたが、明治13年11月から牛込区に編入された。

江戸川 神田川中流。かつては文京区水道関口のおおあらいぜきからふなわらばしまでの神田川を「江戸川」と呼んだが、昭和39年制定の新河川法で、昭和40年4月からは神田川と呼ぶことに。名前の由来は、1603年に徳川家康が上水を整備した際に橋も建設したから。井の頭公園はその源流。以前は関口大滝橋までの上流を「神田上水」、船河原橋からの下流を「神田川」と呼んだ。
小石川橋 千代田区飯田橋と文京区後楽との橋。
九段下 千代田区のかつての町名。現在の九段北・九段南に相当する。
神田橋 千代田区の日比谷通りの橋。右岸は大手町一丁目、左岸上流側は神田錦町二丁目、下流は内神田一丁目など。
常盤橋 ときわばし。千代田区大手町と中央区日本橋本石町との橋。
日本橋 中央区の橋。江戸時代1603年(慶長8年)、江戸で最初に町割りが行われた場所にあった川の木造の橋。現在の橋は1911年(明治44年)に竣工した石造りの2連アーチ橋
鎧橋 よろいばし。中央区の橋。左岸(北東側)は日本橋小網町、右岸上流側は日本橋兜町、下流は日本橋茅場町など。

日本橋川 [8303040045] 荒川水系 地図 | 国土数値情報河川データセット


一ツ橋 千代田区の日本橋川の橋。一ツ橋一丁目と大手町一丁目の間から一ツ橋二丁目と神田錦町三丁目の間までの橋。
上平川下平川 平川とは日本橋川のこと。平川は武蔵国豊嶋郡と荏原郡との境界であり、江戸市中へ物資を運ぶ輸送路、江戸城を守る濠として利用された。
神田川の上を高速道路が開通したのは、昭和44年 首都高速5号池袋線(千代田区の竹橋ジャンクションから埼玉県戸田市のジャンクションまで)だけが神田川の上を走ります。西神田出入口と護国寺出入口との間の開通は1969年(昭和44年)6月27日でした。

目白通り工事(写真)新小川町 昭和45年 ID 473, 13055, 13081-85

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 473、13055、13081-85は、昭和45年1月に目白通り、神田川、首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しました。資料名は「新小川町二丁目大曲付近」です。しかし、住居表示が変わり、2丁目はなくなってただの「新小川町」になりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13055 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13084 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13085 新小川町二丁目大曲付近

 ID 13055、13084-85は南側から北側の大曲までを撮影しています。目白通りは2車線ずつの対面通行で、神田川の上に首都高があり、その下で川を渡るのは白鳥橋です。目白通りを通るとT字型の「大曲交差点」となります。信号機は一見すると確認できませんが、カバーなどで覆われているだけでしょう。
 白鳥橋の上、首都高が途切れたようになっていてるのは、後に飯田橋料金所を作る場所です。
 首都高の下、向かって右側の歩道はおそらく利用ができず、バリケードやブロック、チェーンスタンド、コンクリートの土管らしきもの、大きな円環3つなどが並んでいます。作業小屋もあります。歩道の縁石をまたいで何台かの車が止まっています。おそらく工事のためでしょう。
 左手前から奥に向けて、ヘルメット姿の作業員達は目白通りを大きく掘削しています。鉄骨や、穴を掘るための鉄板が並んでいます。
 目白通りの地下には神田川の洪水対策として江戸川橋分水路があります。しかし東京都の資料によれば建設年は昭和47ー52年で、写真と時期があいません。また平面図で見ると、分水路が作られたのは神田川寄りで、写真とは反対側です。
 文京区関口一丁目南部会は「昭和44年頃より江戸川橋ー下水管一本埋設」としています。現在の都の下水道台帳を調べると、江戸川橋分水路に沿って「早稲田幹線」があるのが分かります。工事は、この下水管に関係したものでしょう。

下水道台帳 大曲付近

 少し前の昭和44年9月のID 12776-79では、大曲付近の掘削はまだ着手していないように見えます。まず下水管を整備し、そのあとで分水路の建設に着手したのでしょう。
 ID 13085では、目白通りを「東京タワー」と書いたバスが北進中。また、トレードマーク「フクスケ」の広告塔は、福助株式会社でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 473 飯田橋大曲

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13081 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13082 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13083 新小川町二丁目大曲付近

 ID 473、ID 13081-83は、南向きの撮影で、遠くに飯田橋交差点の歩道橋が見えます。首都高の下の橋は隆慶橋です。
 写真右の掘削工事は飯田橋交差点方向に続いています。手前に「工事許可要件」の告知看板が立てかけられていますが、詳細は確認していません。
 右側の歩道は、工事によってやや狭くなっているように見えます。掘削部は一定間隔で鉄板を敷き、車道に出られるようにしています。歩道の回りにはトレードマーク「/出光」「日産サービス」の看板があり、これは昭和52年のID 12216に写っているものと同じです。その隣奥の少し引っ込んだビルは東京電力新小川町変電所。やや離れて「モリサワ」「(東海)銀行」の屋上看板が見えます。ほかに電柱広告「印刷ローラー 博文社」「歯科 田◯」「質 長島」などが確認できます。
 写真左上、首都高の上には「↖飯田橋出口/本線↑」の標識があり、本線の向こうに飯田橋出口のランプが見えます。その上には屋上広告「鹿島をひらく 鶴屋産業」があります。

首都高速(写真)新小川町 昭和44年 ID 12776-79

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12776-79は、首都高速道路5号線(池袋線)の飯田橋出入口付近を昭和44年9月に撮影したものです。備考では「新小川町付近高速道路下」となっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12776 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12777 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12778 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12779 新小川町付近高速道路下

 5号線は1969年(昭和44年)6月27日、西神田出入口から護国寺出入口までを供用開始しました。
 この写真は開業から間もない時期のものです。高所からの撮影で、おそらく飯田橋交差点(下宮比町)の東海銀行飯田橋支店の建物、現在の飯田橋御幸ビル(1966年=昭和41年5月竣工)から北の方角を見下ろしたのでしょう。
 目白通りが奥に延びています。ここには都電15系統が走っていましたが、1968年(昭和43年)に廃止され、軌道も見えません。
 首都高は神田川の上に建設されました。画面左に曲がる急カーブは「大曲」と呼ばれる場所です。手前から3本目の橋脚にかかる橋が「隆慶橋」です。その右側、高架の向こうに首都高から下りてくる「飯田橋出口」があります。
 一方、目白通りの奥に首都高が白く光って途切れている部分があります。ここは飯田橋入り口の予定地ですが、実際に建設されたのは昭和52年(1977)ごろでした。ID 12215-16に工事中の様子があります。
 手前のビルには写植・フォント大手の「モリサワ」の大きな看板。経営理念は『文字を通じて社会に貢献する』こと。デジタルフォント(日本語ポストスクリプトフォント)が有名です。本社は大阪で、大正13年に設立。この下宮比町15-5は昭和44年からの東京支店です。
 目白通り沿いの少し先のビルは「中央印刷」。大曲の向こうの「TOPPAN」は文京区の会社で今は「TOPPANホールディングス株式会社」、昔は凸版印刷株式会社と呼んでいました。本社は東京都台東区で、創業は明治33年。事務所は文京区水道1-3-3。総合印刷会社です。
 いずれも印刷関係の企業で、神田川流域が印刷・出版で発展した歴史を感じさせます。

首都高速5号線(写真)水道町 東五軒町 新小川町 昭和52年 ID 12205、12208、12215-16

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12205、12208、12215-16は、昭和52年(1977)5月、首都高速道路5号線(池袋線)の飯田橋から江戸川橋までの写真です。
 5号線は1969年(昭和44年)6月27日、西神田出入口から護国寺出入口までを供用開始しました。飯田橋-江戸川橋間は新宿区と文京区の区境にあたり、神田川の中を通っています。
 さらにID 12205、12215-16は備考として「新小川町一丁目付近 隆慶橋」、ID 12208は「水道一丁目 新小川町三丁目」をあげています。昭和57年の住居表示実施に伴い、丁目を廃止し、新小川町だけとなりました。また「水道一丁目」は「文京区水道一丁目」が普通ですが、「文京区水道二丁目」「新宿区水道町」もありえます。

(1)新宿区水道町。西向き。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12205 首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋

 高速道路は右奥へと曲がっています。神田川のこの付近には、江戸期から「大曲おおまがり」と呼ばれた急カーブがありました。
 しかしこの写真は大曲ではありません。首都高の大曲付近の橋脚は、川を挟むように2本の足を持つ「門形」で、写真の1本足の「T型」とは違います。また左側に見える歩道橋も大曲と飯田橋交差点の間にはありません。
 該当する場所は目白通りの新宿区水道町から西向きに石切いしきりばし方向を撮影したものです。橋脚の形や歩道橋、首都高がふくらんだ「非常駐車帯」の位置、高速の下の道が(三角コーンで仕切られて)対面通行になっている様子なども合致します。

現在の新宿区水道町 Google

 なお、ID 12205の備考の説明は「新小川町一丁目付近 隆慶橋」ですが、「新宿区水道町 石切橋付近」としておきます。
 歩道橋の手前が石切橋交差点です。田口政典氏の「歩いて見ました東京の街」の1976年(昭和51)12月2日の写真06-09-54-2「下流から石切橋を」では古くて狭い石切橋が写っています。ID 12205でも、かろうじて確認できます。

 ID 12205の「安」「全」「+」の工事柵の向こうの小さな橋は、おそらく工事時の架設の橋でしょう。

(2)新宿区東五軒町。東向き。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12208 首都高速道路5号線 水道一丁目 新小川町三丁目

 東五軒町の北、目白通りを東向きに撮影しています。(1)のID 12205から飯田橋側に寄ったところで、位置としてはざくらばしのたもとです。
 首都高の柱の左側を神田川が流れます。川の小さななかはしも写っています。文京区側につながる斜めの橋が見えています。この橋は中ノ橋と白鳥橋しらとりばしの間にあり、「新白鳥橋」と命名されました。また「(TOP)PAN」(凸版印刷)の印刷工場は川の北側で、この場所は文京区水道一丁目にあたります。
 写真の正面奥、首都高が右に丸く膨らんでいるのが飯田橋料金所です。広がった部分を支える大きな門形の橋脚が分かります。料金所付近から右に「大曲」のカーブになります。写真右端の(共同石油)のガソリンスタンドから先は新小川町(昔の新小川町3丁目)です。
 また、地上を走る上り車線は正面の柵の奥、信号の場所で左右2本に分かれます。高速に出入り口を設置すると、どうしても道幅が狭くなってしまいます。そこで目白通りの一部を左の文京区側に通すことで交通渋滞を減らすことを狙いました。
 地上でまっすぐ奥につながる道は飯田橋に向かう目白通りの上り車線です。工事のため車が走っていません。
 以下の上り車線と下り車線はどちらも地上の車線です。

昭和54年 新白鳥橋付近(地理院地図 整理番号 CKT794 コース番号 C10 写真番号 12 撮影年月日1979/11/14)に加筆。

整理番号 CKT794 コース番号 C10B 写真番号 12 撮影年月日1979/11/14(昭54

現在の目白通り

 この区間の目白通りの地下には、神田川の洪水対策のための「江戸川橋分水路」があります。この分水路は昭和52年に完成しました。写真は完成直前の様子を撮影したものでしょう。高速の柱の下には、地下に降りるオレンジ色の階段入り口があります。

神田川と目白通り地下(分水路・地下鉄)の断面図(東京都建設局市料)

 新小川町付近は大雨のたびに神田川の洪水が繰り返されてきましたが、分水路の完成によってリスクは小さくなりました。


(3)新小川町(かつての一丁目)付近。北向き

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12215 工事中の首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋付近

 新小川町の東側の目白通りから、首都高の飯田橋料金所の建設風景を撮影しています。首都高の下は神田川。正面が大曲の急カーブ。背中側に隆慶橋や飯田橋交差点があります。
 首都高では出入口を「ランプ(ramp、高低差のある場所を連結する傾斜路)」と呼びます。インターチェンジ(interchange、IC、複数の道路を相互に接続する施設)やジャンクション(junction、接合点、合流点)と違い、特定方向にしか行けないからです。写真の飯田橋ランプは、目白通りから首都高5号線の北池袋方面に進入するためだけの入り口です。
 冒頭に記したように、5号線のこの区間は1969年(昭和44年)6月に開業していますが、この写真を撮影した1977年(昭和52年)でも、まだ飯田橋ランブは建設中でした。
 もう1点、特徴的なのは、三角コーンを境に対面通行になり、車が手前向きに走っていることです。この状態では、北に向かう車がランプの坂を上れません。
 撮影当時、高速道路の真下はID 12208と同様に神田川の「江戸川橋分水路」を建設していました。このため下り車線を狭めて、対向車の通るスペースを確保したのでしょう。目白通りの整備は高速道路だけでなく、地下の分水路、その下の地下鉄有楽町線の建設を含めて、非常に長期にわたりました。
 この写真の撮影場所は後に大々的に区画整理され、平成28年に放射25号線が開通。「新隆慶橋」という新しい橋が架けられました。

 ID 12215の左には「国際航空輸(送)」(かつては新小川町一丁目5)の看板がありますが、今は何も残っていません。高速道路の向こうの「日本信販」の広告は文京区です。

(4)新小川町(一丁目)付近 北向き

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12216 工事中の首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋付近

 ID 12215とほぼ同じ場所で、道を渡った高速の真下から道沿いの建物を撮影したものです。
 建設中の坂道が、飯田橋料金所に上がる首都高のランプ。その手前の坂のように見えるのは目白通りの上り車線です。一番右にガードレールが見えます。
 この区間は神田川の「江戸川橋分水路」建設のため通行止めになっています。一番、奥に工事車両が見えます。その先は新白鳥橋に分岐する交差点があります。
 道路脇の建物は新小川町で、出光とロゴマーク()と看板「全軽和」、ナショナル(現、パナソニック)のロゴマーク()などが見えます。「全軽印」の看板のビルの左は東京電力新小川町変電所で、現在も変わりません。その左側の消火栓広告は「きもの英」です。

牛込から早稲田へ

文学と神楽坂

 サトウハチロー氏が書いた『僕の東京地図』(春陽堂文庫出版、昭和15年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「牛込から早稲田へ」です。生年は1903年(明治36年)5月23日。没年は1973年(昭和48年)11月13日。享年は71歳でした。

牛込から早稲田へ
 お堀のほうから夜になって坂をのぼるとする。左側に屋台で熊公くまこうというのが出ている。おこのみやきの鉄砲巻の兄貴みたいなものを売っているのだ。一本五銭だ。長さがすん、厚さが一寸、幅が二寸はたッぷりある。熊が二匹同じポーズで踊っているのが、お菓子の皮にやきついてうまい。あんこの加減がいゝ。誰が見たツて、十銭だ。
 白木屋はその昔の牛込会館のあとだ。地震後に、こゝで水谷みずたに八重子やえこが芝居をやったところだ。その先に木村屋がある。木村屋といえばパン屋だ。東京中に、この屋号のうちは何軒となくあるが、みんな銀座の店とは関係がない、こゝはそうではない。それが証拠には、GINZA DOTENとローマ字で書いてある。もう少し行く。左へ這入はいると寄席よせだ。僕が小さい時に、この寄席の突きあたりに青洋軒なるトツクニのタベモノをヒサグ店ありて、ことにオムレツなどのうまかッたことをいまでもおぼえている。この間通って、のぞいてみたら、そんなうちは影も形もなくなって、オムレツの代わりに女の子のお尻が、横丁へゆれてゆくのが見えた。
六寸一寸二寸 一寸は約3.03cm、二寸は約6cm、六寸は約18cm
GINZA DOTEN 英語は正しいですが、銀座のDotenは不明。「同店」か?
トツクニ 外つ国。外国。異国。「つ」は「の」の意の格助詞
ヒサグ 鬻ぐ。販ぐ。売る。商いをする。

待ってくれ、牛込で僕の好きなものはまだある。新小川町しんおがわまち花屋だ。新小川町なんていうより大曲おおまがりの方が早わかりだ。横浜植木会社の東京売店だ。こゝにスガヤ、、、君なる揚げ、、まん、、じゅう、、、みたいな青年がいる。僕は、花を買う時は、どんな時でも、こゝまで行って買う。スガヤ君のくれる花を持って行って恋人に、つれなくされたことはない。
 大曲へ来てしまったか! 電車でんしゃみちを早稲田へ行く。石切いしきりばし。――向こう側に橋本という鰻屋、こいつは有名すぎるほど有名だ。その隣の丸屋まるやのそば、こいつも有名だ。この二軒は小石こいしかわに属するが、ついでだからこゝに書いておく。左側が改代かいだいちょう。講談本だとムッシュウ・クラヤミのウシマツが住んでいたところだ。こゝにフタバヤというエプロン屋がある。これが大変だ、と言ったら諸君はおどろくだろう。だが、この家を大変だと感ずるのは僕ばかりだ、このフタバヤは僕の家の家主なのである。なアーンだ。
花屋 横浜植木は現在も神奈川県横浜市で営業中。1890年(明治23年)鈴木卯兵衛を代表者として「有限責任横浜植木商会」を創業。1913年(大正2年)4月、東京市牛込区新小川町に東京売店を開設。
電車道 路面電車が敷設してある道路。電車通り。ここは現在は目白通り。
橋本 文京区水道2-5-7にある鰻の「はし本」。創業は天保6年(1835年)。
丸屋 現在不明。
小石川 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
ムッシュウ・クラヤミのウシマツ 暗闇の丑松。戯曲。昭和九年(1924)、六世尾上菊五郎が初演。一時の激情から殺人を犯した料理人丑松は、愛妻お米を親方四郎兵衛にあずけて江戸を立退いた。一年たって戻るときに、丑松は女郎になったお米に再会。四郎兵衛に騙され売り飛ばされたと事情を聞いても信じられず、激怒。お米が首を吊って死んだ後になって、やっと真実を理解した丑松は、非道に気づき、江戸へ帰るや四郎兵衛夫妻を殺し、何処ともなくのがれて行く。

春の嵐|野田宇太郎氏『灰の季節』|東京大空襲

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『灰の季節』(修道社、昭和33年)は、第二次世界大戦中から大戦以降を綴った日記です。たとえば、昭和20年(1945年)4月12日、昼食前にフランクリン・ルーズベルト大統領が脳卒中で死去し、これを受けて、野田氏は4月13日の日記で簡単に書き留めています。その翌日、神楽坂にとっては東京大空襲を受けた日でした。

四月十四日

 単機あて帝都、関東東部、東北部等に侵入、主として帝都は爆弾焼夷弾取り混ぜの攻撃をうけた。熱を押して仕方なく起きる。都心の焼けのこりの部分を中心に空が東北へかけてまつかになつてゐる。そして中央線ぞひに爆発音が近まり、むくむくと黒煙が立ちのぼる。爆弾の無気味な落下音も幾度となくきこえ、敵機が撃墜されるのも数機みる。あとで機数約百七十、四十機位撃墜の発表あり。……眠る。
 中央線は荻窪までであとは不通のため帝都線で渋谷に出、地下鉄で神田に出る。下車しようとすると、どつと乗り込む避難者の群に押し返される。皆真青な顔をして相手が見えないやうなうろたへ方である。やつとの思ひで外に出て神田の河出書房仮事務所まで歩く。
 神田から飯田橋まで見透しに焼け落ちてゐる。飯田橋で不発弾の爆発にあふ。筑土八幡のあたりから新小川町 大曲もずらりと無残に焼けてゐる。神楽坂も家が大半なくなり、飯田橋交叉点から電車通を牛込肴町へ行く途には電線がばらばらに切れ落ち、まだごんごんと音を立てて燃えのこりの家が焔をあげてゐて、焦熱地獄のやうにあつい。そこら中形容し難い悪臭がむんと鼻をつく。人間の焼ける臭ひも混つてゐるやうだ。息をとめて一気に通りぬけようとするが駄目で、途中で立停り、叉熱気のなかを走つた。平時は賑やかな肴町交叉点通寺町側にトタン板が落ちてゐて、何気なく歩きながら蹴ると、下に屍体がかくしてあつた。防護団員の姿もみえず、地獄のなかでも歩いてゐる白昼夢のやうな気持。
 其儘足を早めて大日本印刷に行つた。近づくと今度は大日本印刷が一面の火焔に包まれて、盛んにまだ燃えつゞけてゐる。しまつた! と思ひ、第四中学の焼跡前から夢中で坂を下りて正面に出ると、焔の背後に印刷会社の建物はどうやら無事なやうである。燃えてゐるのは前庭に置かれた軍用の洋紙の山だけである。玄関にゆくと、防護団服を着た人が一人佇んでゐる。思はず「大丈夫ですか」と叫ぶやうに云うと、「ありがたうござゐました。工場の方は大丈夫です……」とその人は私に礼を云つた。あとで重役だつたと判る。消火する人手がなくて焼けるにまかせてゐるのだといふ。
 事務所に入ると、さすがに人はすくないが工場の方は動き続けてゐるやうなので、やつと安心した。これでまだ文藝は出せると思ひ、すぐに火野氏の「」を四月号の組版に廻してもらふ。
 まだ熱があつて、ふらふらとする。避難者の列に加り、やうやく渋谷に出て帝都線で夕暮に家にかへり着いた。
 この日は板橋、豊島、足立方面の被害がとくにひどく、明治神宮本殿も遂に焼失した。また宮城、大宮御所、赤坂離宮の一部にも火災が起つた。



単機 編隊を組まないで、単独で飛行する軍用機。単独飛行。
あて 配分する数量・割合を表す。あたり。送り先・差し出し先を示す。
焼夷弾 敵の建造物や陣地を焼く爆弾
帝都線 京王井の頭線のこと。渋谷と吉祥寺を結んだ。
河出書房 文芸書や思想書を中心に販売する出版社。1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災、千代田区神田小川町に移転する。
見透し さえぎるものがなく遠くまで見えること。その場所
飯田橋、筑土八幡、新小川町、大曲、牛込肴町、肴町交叉点、通寺町、大日本印刷 下図を参照。牛込肴町と肴町交叉点は現在「神楽坂上」交差点、通寺町は現在神楽坂六丁目
防護団 軍部の強い指導のもとで満州事変勃発ごろから地域住民の防空業務(灯火管制、警報、防火、防毒、交通整理、救護等)を行わせる防護団と称する組織が全国各地に設立された。
第四中学 現在は牛込第3中学校です。
文藝 1944年11月創刊。発行所を改造社から河出書房に移して継承した雑誌。第2次世界大戦下のほぼ唯一の文芸雑誌。戦後は戦後派の作家を起用。86年からは季刊誌。
火野 火野葦平。ひのあしへい。日中戦争で従軍前に「糞尿譚ふんにょうたん」で芥川賞受賞。生年は明治39年12月3日、没年は昭和35年1月24日で自殺。享年は満53歳
 「海南島記」(改造社 1939年)。国立国会図書館デジタルコレクションとして入手可。

昭和22年の神楽坂


野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈③

文学と神楽坂

   白秋と「物理学校裏」

 マスコミにかまけて俗物繁栄時代の文学界では、純粋で高度の文学者の研究は立ち遅れ気味で、北原白秋ほどの卓越たくえつした詩人さえ、もう歿後二十七年というに、まだ完全な年譜も見当らない。いくらか良心的と思われるもっとも新らしい白秋年譜で、例えば牛込山伏町から神楽坂二丁目に移った年代を調べようとすると相変らず明治四十二年十月末となっている。これは昭和十八年六月発行の雑誌「多摩」北原白秋追悼号に、側近の人々によってかなり詳しく書かれた年譜をよく検討せずにそのまま孫引している結果らしい。わたくしは昭和二十六年に『新東京文学散歩』で神楽坂の白秋を書いたとき、石川啄木の日記によって「明治四十一年十月の末近く」と訂正しておいた。それは啄木の四十一年七月二十七日の日記に「北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。」とあり、また同年十月二十九日には「北原君から転居のハガキ」「北原君の新居を訪ふ」として、やがて白秋が「物理学校裏」という詩を作ることになった神楽坂二丁目の家のことが、あたかもその詩の情景を裏書きでもしたように詳しく記録されているからであった。戦後に一応は流布るふした筈の『石川啄木日記』やわたくしの『新東京文学散歩』も、近頃の研究家にはもう活用されていないのであろう。
 わたくしは神楽坂をニ丁目から三丁目へようやく坂の頂上近くまで登り着き、三丁目と二丁目の境に当る左側の横丁に折れた。その三丁目角は戦前しばしば寄ったことのある田原屋というフルーツ・パーラーの跡で、今は山本という薬店になっているが、表口を注意して見ると、まだフルーツ・パーラー時代のモザイク模様のタイル敷きの断片がのこっている。その横丁の小路をそのまま南へ辿ってゆけば旧物理学校東京理科大学裏の崖上に出る。それは戦前の地図も現在の地図も同じである。小さなアパートや小料理店などが両側に並んで、小型自動車一台がやっと通れるほどのトンネルのような小路を、わたくしは北原白秋の「物理学校裹」という詩を切れぎれに思い出しながら歩いた。
「物理学校裏」は大正二年七月刊行の白秋第三詩集『東京景物詩及其他』に収められ、「明治四十三年三月」作となっている。白秋は九州柳河の実家の破産問題などがあって明治四十二年秋にはもう神楽坂を去って本郷動坂に移り、翌四十三年二月には牛込新小川町に移るというあわただしい時代を迎えたが、創作慾はいよいよ(さか)んで、またその頃はパンの会もようやく隆盛期に入っていたから、「物理学校裏」は市街情調詩として新小川町で書きあげた名作の一つに違いないが、内容はあくまでも初夏の神楽坂の強烈な印象である。(この章は以下略)


かまける あることに気を取られて、他のことをなおざりにする。
歿後二十七年 北原氏は昭和17年に死亡し、それから27年も時が経ち、現在は昭和44年です。
41年7月27日の日記 石川啄木の日記から。
 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍つて、耳が――左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴つてゐた。
 いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言つてゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなつてから辞した。途中まで送つて、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。
 北原君は十一円の家賃の家に住つて、老婆を一人雇つてゐる。
 その時は余程頭に余裕が出てゐた。
 神楽坂の中腹のトアル氷屋に入つた。夕日の光で、坂を上る人も下る人も、長い長い影法師を逆まに坂に落して歩いてゐた。ガツカリした気持でそれを眺めてゐて、やがて遣瀬もない“放浪”の悲みを覚えた。そこを出て間もなく、卜ある店の時計を覗くと、恰度午後六時を示してゐた。

同年10月29日 石川啄木の日記から。
 九時頃起きると直ぐ吉井君が来た。吉井君も小説をかくと言つてゐる。一緒に昼飯を食つてると、北原君から転居のハガキ。二時頃、栗原君へ小説の予告文をかいて手紙。それを投函し乍ら二人で平野君を訪ふたが不在。
 吉井君とは別れて帰つた。何となく気が落付かぬ。堀合君へ行つて一円借りて、出かけた。大学の前で横浜工学士に逢つた。北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上つた。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒つてるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一日の談話につかれてゐてすぐ床についた

山本 小路の直後は山本漬物店(山本薬局)でした。細かくは3丁目南側最東部で。
横丁の小路 おそらく右の無名の小路です。
トンネルのような小路 おそらく小栗横町でしょう。

本郷動坂 本駒込4丁目と千駄木4丁目の境
新小川町 1982年から単独町名。「丁目」は消えている。詳しくは地図の新小川町
情調 その物のかもし出す雰囲気。心にしみる趣。感覚に伴って起こるさまざまな感情。

 以下の文章はここでは省略。それでも注釈はあります。

この詩 この詩は「物理学校裏」で細かく書いています。
深い 原文は「うすい」
Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。
浮彫 平らな面に模様や形が浮き出すように彫り上げた彫刻。あるものがはっきりと見えるようにすること
甲武鉄道 御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿を経由、八王子に至る鉄道を保有・運営した。1889年(明治22年)新宿と立川で開業。1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により10月1日に国有化。
飯田町駅 1895年(明治28年)、中央本線を敷設した甲武鉄道の東京側のターミナル駅として開設。
牛込駅 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近。細かくは牛込駅
明星 1900年(明治33年)4月、同人結社東京新詩社の機関誌として、与謝野鉄幹が主宰となり創刊。詩歌を中心とする月刊文芸誌。1908年(明治41年)11月の第100号で廃刊。
スバル 1909年から1913年まで発刊。創刊号の発行人は石川啄木。他に木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載。スバル派と呼ばれた。