東京の坂道」タグアーカイブ

「神楽坂」という坂

文学と神楽坂

 「神楽坂」について語ってみようと思います。神楽坂という「町」(以前の神楽町)ではなく、神楽町が囲む「坂」そのものです。初めは江戸時代の「むらさき一本ひともと」にあるように「牛込見付から、さかな町まで登る坂」でした。なお、「牛込見付」は「神楽坂下交差点」にあたるものと(まあ、強引だけど)考えておきます。また、江戸時代の「肴町」は現在の神楽坂5丁目を中心に、岩戸町まで及んでいました。
 神楽坂を囲む町は、明治大正では神楽町という名称でした。昭和26年(1951)5月1日から、神楽町1、2、3丁目から神楽坂1、2、3丁目という町に変え、また、上宮比町、肴町、通寺町は神楽坂4、5、6丁目に変わりました。したがって、坂も6丁目まで「神楽坂」に含むという考え方もできます。
 なお、新宿区の「区道道路通称名」は、神楽坂下交差点から神楽坂上交差点までを「神楽坂通り」として正式の名称に使っています。
 では、神楽坂の「坂」についてその説明の変移を見てみましょう。

紫の一本 戸田茂睡による地誌。天和2年(1682)に成立
かぐら坂、牛込見付の御門より、直に肴町へ登る坂を云、

5つの肴町(5丁目中心から岩戸町まで)。市ヶ谷牛込絵図。安政4年(1857年)

 絵図でもわかる通り、明治以前では坂ではなく、階段でした。これは「神楽坂の階段を坂に」で。

江戸名所図会 神楽坂(1836年)

望海毎談ぼうかいまいだん 江戸時代中期 作者は不明。
牛込行願寺
……神楽坂と云は赤城明神の神楽堂の有し所のよし……

江府名勝志 稲村儀右衛門 享保18年(1733年)に発行
 神楽坂 牛込御門の向に在。此坂の名の来歴其説あれども、ならざる故略之。
 ゾウ。せわしい。たしか。たしかに。

江戸砂子 菊岡沾凉著 享保20年(1735年)に成立
●神楽坂 牛込御門のむかふの坂也。
 市谷八幡の祭礼に、神輿牛込御門の橋のうへにしばらくとゞまり、かぐらを奏す。よつてこの名ありと云。当日見付御番より鳥目、ならびに神酒神献あり。又近所若宮の八幡のかぐら、此まできこゆ、よつてかぐらといふともあり。

みこし

神輿 みこし。じんよ。祭礼のときなどに担ぐ乗り物
かぐら 神事の歌舞。神楽は、夜、にわをたいて宮中で一連の所作と声楽主体の音楽を執り行う宗教儀式。神楽は日本の民俗芸能の一種。
鳥目 ちょうもく。銭や金銭のこと。中心に穴が開いた銭貨の形が鳥の目に似ていたため
 ひき。1疋=10文、のち25文

神楽坂の神輿

江戸名所図会 斎藤長秋他編、巻之四 天権之部 天保7年(1836年)に発行
 同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹はんぷく右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼の時は神輿この所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。 或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。
旅所 たびしょ。神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に輿こしを鎮座しておく場所。

改正新編江戸志 東武懐山子著 天保3年(1832年)
 市谷八幡祭礼に神輿牛込御門橋上に暫く留りて神楽を奏しけるよつて此名ありと江戸砂子にみゆ又或説に穴八幡の祭礼にこの坂にて神楽を奏すと[云け]り名付ると也別穴八幡の旅所この坂の上にあり放生寺の持[之]津久戸神社の社伝には今の地へ遷座の時此坂にて神楽を奏すよしといふ

牛込町方書上 市谷田町四丁目代地 文政8〜11年(1825〜29年)
一 町内、里俗家前往還神楽坂相唱申候、尤神楽坂唱候穴八幡旅所相成候以前祭礼之節、當所神楽有之、其後當旅所度々神楽有之候付、唱来候由申傳又築土明神牛込御門内社有之候所、御用地相成、牛込御門外替地被下、遷座之節、揚場坂神輿重相成上らす候付、此所供物備、神楽を致候故、其節揚場坂を神楽坂相唱候由及承候得共、聢相分不申候、其外惣名唱候場所、小名無御座候
(中略)
一 坂之儀町内家前有之、北之方東之方下り、高凡三丈七尺程登り壱町斗有之、幅上之方六間程、下之方四間半程、但坂之字之儀里俗唱之ヶ条二申上候、道造之儀家前之分町内持御座候


御府内備考 文政12年(1829)、昌平坂学問所の地誌調所で成稿
市ヶ谷八幡宮の祭礼に神輿御門の橋の上にしはらくとゝまり神楽を奏すること例なり依てこの名ありと 江戸 砂子 穴八幡の祭礼にこの坂にて神楽を奏するよりかく名つくと 江戸  穴八幡の御旅所の地この坂の中ふくにあり津久土の社の伝にこの社今の地へ田安より遷坐の時この坂にて神楽を奏せしよりの名なりといふはもつともうけかたきことなり 改選江 戸志

 神楽坂の由来について「神楽が聞こえたから」と記載しています。でも、どの神社が神楽を奏したのかは不明です。
 これからは明治期以降の神楽坂です。

東京名所図絵。中野了随著。小川尚栄堂。明治23年
 神楽坂は牛込門の外の坂を云ふ 坂の両側櫛比して頗る繁盛なり 俚俗相伝ふ坂の半腹右側に高田穴八幡の旅所あり 祭礼神輿の時神輿渡る時神楽と奏する故に神楽坂と名けし由
櫛比 しっぴ。くしの歯のように、ほとんどすきまもなく並んでいること
頗る すこぶる。普通や予想した程度を越えて。たいそう。大いに。

新撰東京名所図会 明治37年 1904年
神楽阪は。牛込門址より西の方。神楽町の中央に在る阪路をいふ。もと阪の上南側に高田●●穴八●●幡社●●の旅所ありて。祭禮の時は神輿比所に渡り。神楽を奏するを以て此名ありといふ。
江戸砂子に。市谷●●八幡●●の祭礼に。神輿牛込御門の橋のうへにしばらくとゞまり。かぐらを奏す。因てこの名ありと云。当日牛込御門当番より鳥目十疋。ならびに神酒を獻すと。又近所若宮●●八幡●●のかぐら。此阪まできてゆ。因てかぐらといふともあり」としるし。江戸名所図会には。高田●●穴八●●の事を記し。其の註に。或云津久●●明神●●田安の地より今の所へ遷座の時。此阪にて神楽を奏せし故にしか号くとも。又若宮●●八幡●●の社近くして常に神楽の音此阪まできてゆるゆゑなりともいいへたり」といへり。神楽のことは何れも同じけれども。其の神社の伝へはーならず。然れとも甞て公園地調査の際。穴八幡社に於て聞ける所と。江戸名所図会神楽阪の図に徴するも。高田八幡社の神楽とする方事実なるが如し。
獻す けんす。献す。上位者や神仏に物をさしあげる。
甞て しょう。かつて。なめる。舌で味わう。こころみる。ためしてみる。過去。以前。

 大正期で初めて芸妓屋や待合も多いと記しています。

大正博覧会と東京遊覧 向上社編輯部編 向上社 大正3年 1914年
神楽坂 神楽町の峻坂を神楽坂とす。牛込見附を隔てゝ麴町に対す。四谷大通に次で山の手屈指の繁盛地、往来頻繁に、附近待合芸妓家多し
峻坂 しゅんぱん。けわしい坂。険坂。

 最後は戦後です。

続江戸の坂 東京の坂 昭和50年 横関英一 有峰書店
    神楽坂について
 新宿区神楽坂一、二、三丁目を縦断する坂。昔の牛込見附から西へ上る早稲田通りの坂で、その坂にまつわる伝説もまちまちであった。たとえば、高田穴八幡の旅所が、この坂の頂上にあって、祭礼のとき神楽を奏したとか(『大日本地名辞書』)、津久土明神が田安の地から津久土八幡のところへ遷座のとき、この坂で神楽を奏したとか(『新編江戸志』)、または若宮八幡社が近くにあるので、神楽の音が、この坂のところまできこえてきたとか(『江戸鹿子』)、あるいは赤城明神の神楽堂が、もとここにあったとか(『望海毎談』)と、いろいろである。しかしその昔は、この坂上に天台宗の行元寺という大寺があったとか。牛込見附のところに惣門があり、この坂には中門があって、左右に南天の並木がつづいていたので、世にこの寺のことを南天寺と呼んで有名であったとか。
 そのころは、牛込の奥へ行く道は、この坂に並行したかる坂が、この東にあった。この坂道は早くから発達していたので、「かるこざか」というの名は有名であった。軽子坂という意味は、河岸の舟に積んできた荷物を、水揚げするのが「かるこ」という人夫であった。その発音の珍しい呼び方が、やがて「かぐらざか」と作り、さらに「神楽坂」を生み出したのであろう。特別に神楽の伝説にもなんにも関係なくできた名前かもしれない。かるこざか—かぐらざか、ちょっと似たような面白い呼び名である。『江府名勝志』は「此坂の名の来歴其説あれども、慥ならざる故略之」と書いている。

東京の坂道 石川悌二 昭和46年 新人物往来社
 神楽坂(かぐらざか)旧牛込区の代表的な坂路。外濠通り国電飯田橋駅南口下から、新宿区神楽坂一、二、三丁目を西上するが、現今では坂上旧都電通りを通り越した地下鉄神楽坂駅のあたりまでも神楽坂通りと称している。
 神楽坂の名の由来は江戸砂子や江戸名所図会について見えるが、市ヶ谷八幡の旅所(祭礼のときの分祭所)があって「かぐら」が奏されたとし、また南方若宮八幡社の「かぐら」がきこえたためといい、さらには高田穴八幡の旅所が設けられ、祭礼の神楽を奏したためだとも伝えている。いずれにしても神社の祭礼の神楽ばやしにちなんで起った坂名であろう。この神楽坂辺は維新前はおおむね武家地と寺社地によって占領されていたが、牛込第一の盛り場となったのは明治の半ばごろから以後で、その後昭和十年代末まで繁栄を誇っていた。
 明治28年、甲武鉄道(現国鉄線)の牛込停車場が開設されると、神楽坂上毘沙門天の縁日(毎月寅の日)が人気を高めて、参詣の善男善女が見附から坂上にかけて長蛇の列をつくるようになり、坂には露店、植木市が出ならび、毘沙門の境内にはいろいろの見世物小屋が掛かって混雑をきわめたという。こうして牛込、市ヶ谷へんの旧武家地や寺社地跡に明治新興階級の住宅が建てこんでゆく時世の反映として、神楽坂は新しい東京の盛り場のシンボルになったのである。
 江戸名所図会のさし絵などに見る神楽坂は段々の坂で、さして険しくはみえないが、やはり昔は相当な急坂であったのを明治になって改修したもので、同13年3月30日、郵便報知は「神楽坂を掘り下げる」と題する次の記事を掲載している。
  牛込神楽坂は頗る急峻なる長坂にて、車馬荷車並に人民の往復も不便を極め、時として危険なることも度々なれば、坂上を掘り下げ、同所藁店下寺通辺の地形と平面になし、又小石川金剛寺坂も同様掘り下げんとて、頃日府庁土木課の官吏が出張して測量されしと。
 この前後における毘沙門様はかなり知られてはいたようだが、まだ交通不便な土地柄のために縁日の出店なども後年のような繁況には遠かったことが明治8年の新聞記事にうかがわれる。
       神楽坂の毘沙門
〔8月25日、東京曙〕牛込神楽坂の毘沙門さんも流行につれて、四五日前より日数三十日開帳の商法、店を開かれしに、法華堅まりの信徒連中が寄集り、叩きたる太鼓の音と南無妙法蓮華経を唱ふる声は昼夜の差別なく鳴渡りますが、回向院の大店程にはまうかるまいといふ沙法なり。
(以下、小説や新聞の紹介は省略)

新宿区町名誌 新宿区教育委員会 昭和51年 1976年
 神楽坂は、江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に堀り下げて改修した。明治4年6月、この地一帯に町名をつけた時、この神楽坂からとって神楽町としたが、旧称どおりの神楽坂でとおっていた。
 この神楽坂は、明治から昭和初期まで、東京における有名な繁街華であったが、昭和20年の空襲で、焼野原と化した。その後の発展とともに、神楽坂繁華街の発展をめざすため、神楽坂振興会が設立された。その音頭とりで、昭和26年5月1日、坂上の三町も含めて神楽坂と称することになり、北の赤城神社入口まで名称統一され、四・五・六丁目ができたのである。

新修新宿区町名誌 新宿歴史博物館 平成22年 2010年
 神楽坂は江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に掘り下げて改修された。
 明治4年(1871)6月、この地域一帯に町名をつけたとき、この神楽坂からとつて神楽町としたが、旧称どおりの神楽坂で呼ばれていた。
 この神楽坂は、明治から昭和初期まで、特に関東大震災以降、東京における有名な繁華街であった。大正14年(1925)坂が舗装された。神楽坂のこの道は毎朝近衛兵が皇居から戸塚の練兵場(現在の学習院女子大学)に行く道で、軍馬の通り道であった。舗装も最初は木レンガであったが、滑るため、2年ほどして影石に筋を入れた舗装に変わった。
 しかし昭和20年(1945)の空襲で、焼け野原と化した。
 昭和26年5月1日、坂上の三町も含めて神楽坂と称することになり(東京都告示第347号)、北の赤城神社入り口まで名称統一され、四・五・六丁目ができた。この町名変更に当たって、関係町民からも町名を神楽坂に統一する陳情書が区議会に提出された。その理由は、下宮比町と上宮比町が混同されやすいこと、肴町は隣区の肴町と誤認されやすい等が挙げられた(昭和30年新宿区史)。

神楽坂を書いた文学|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)から「牛込地区 6. 神楽坂を書いた文学」です。

 神楽坂を書いた文学
 明治から大正にかけて、神楽坂は早稲田大学を控えて文学的ふん囲気の濃厚な所であった。だから新時代の文学を荷負う若い文士たちは、ここでの生活を愛した。この街には、主として早稲田の学生や若い文士だった日夏耽之介森田多里国枝史郎三上於兎吉西条八十宇野浩二森田草平泉鏡花北原白秋などが住んでいた。
 文学作品の中に出てくる神楽坂をのべるとつぎのようである。まず小栗風葉は「恋慕ながし」の中に明治31年ごろの神楽坂の縁日や、裏町の花街のにぎわいを書いている。
 田山花袋の「」(明治41年作)には「神楽坂は、毎夜毘沙門の縁日のやうに雑沓するとの噂。山の手の奥からも白地の浴衣に薄化粧の夫婦連が幾組となく出掛けて行く。」とある。
 夏目漱石の「それから」(明治42年作)には、神楽坂の途中で、主人公の代助が地震に出あう場面を書いている。
 正宗白鳥も「」(明治44年)の中に神楽坂縁日の、見世物のようすを書いているし、サトーハチローは、「僕の東京地図」(昭和11年作)の中に、明治末年を書いている。その中には、
 「神楽坂は、何と言っても、忘れられない町である。矢来の交番のところから、牛込見付までの間を一日に何度往復したことか、お堀は、ボートが浮いてゐなかった。暗い建物の牛込駅に添うてずッと桜が植わってゐたやうにおぼえてゐる……」とある。
 北原白秋は、「物理学校裏」(大正2年)という詩を作っている。神楽坂裏通りにあたる物理学校裏に住んだことがある白秋は、当時のようすを書いたもので、その中には、付近の住宅地は静かで、そとに聞えてくるのは、花街の三味や琴の音、甲武線の汽車の音、校舎で教える教師の声だけであると、擬音を入れながら描写している。
 夏目漱石の「硝子戸の中」(大正4年作)の中にも神楽坂を書いているが、田山花袋も大正初期の牛込一帯を「東京の三十年」の中に書いている。
 武蔵野をとよなく愛し、武蔵野の絵と文学と昆虫の研究を残した画家の織田一麿は、その著「武蔵野の記録」に、「牛込神楽坂の夜景」と題して、大正7年のようすを書いている。その中につぎの一節がある。
 「殊に夜更の神楽坂は、最もこの特色の明瞭に見受けられる時である。季節からいえば、春から夏が面白く、冬もまた特色がある。時間は11時以後、一般の商店が大戸を下ろした頃、四辺に散乱した五色の光線の絶えた時分が、下町情調の現れる時で、これを見逃しては都会生活は価値を失ふ。」
 泉鏡花は、「竜胆と撫子」(大正11年)の中に、神楽坂が明治から大正へと時代の流れとともに変ってきたようすを書いている。また鏡花は「神楽坂の唄」(大正14年)を作っている。鏡花が新世帯をもったのが神楽坂だったから忘れることができなかったものであろう(参照)。
 加能作次郎は、「早稲田・神楽坂」という一文を「東京繁昌記・山手編」に、明治末期から大正初期の神楽坂、特に毘沙門前の縁日のにぎわいを書いている。
 矢田津世子は、昭和10年ごろの神楽坂を短編「神楽坂」に書いているし、戦後のようすは佐多稲子の「私の東京地図」 (昭和21年刊)に出ている。そして池袋などがめざましく発展していくのに、ここは少しも復興しようとしないと、正宗白鳥が「神楽坂今昔」(昭和27年刊)に書いている。
 〔参考〕 新宿と文学 東京の坂道
日夏耽之介 正しくは日夏耿之介。ひなつ こうのすけ。
森田多里 もりぐち たり。美術評論家。早稲田大学文学部英文科とソルボンヌ大学を卒業。西洋、日本美術史の先駆的役割を果し、戦後は岩手県立美術工芸学校長、岩手大教授。西洋美術思潮の紹介、日本近代美術史、民俗芸能の研究を行った。生年は明治25年7月8日。没年は昭和59年5月5日。91歳。
国枝史郎 くにえだ しろう。小説家、劇作家。早稲田大学英文科中退。大学在学中に自費出版「レモンの花の咲く丘へ」。大正3年、大学を中退し関西へ移ると、同年、大阪朝日新聞社で演劇担当記者。6年、松竹座専属の脚本家。9年退社、大衆文学の作家に。『しんしゅう纐纈こうけつじょう』が再評価され、三島由紀夫が「文藻のゆたかさと、部分的ながら幻想美の高さと、その文章のみごとさと、今読んでも少しも古くならぬ現代性に驚いた」(「小説とは何か」昭和47年)と絶賛。生年は明治20年10月10日。没年は昭和18年4月8日。55歳。
三上於兎吉 正しくは「三上於菟吉」。みかみ おときち。
れんながし 小栗風葉の小説。明治31年9月1日、読売新聞で連載スタート。12月1日、70回で中断し、完成は明治33年5月。きん流尺八の天才青年はたじゅんすけとバイオリニストの五十いおずみようの純恋で始まり、売春と一八チーハー博徒(独特な賭紙を用い、大正初めまで盛大だった中国系の賭博)の胴元である銀次も絡み、葉子の自殺、銀次も死亡して終わります。木賃宿、売春という醜い現実も描いています。
神楽坂は、…… 田山花袋の母親が癌で亡くなるまでを描いた「」の一部にこの文章が出ています。
けれどそれは母親を悲しむというよりは寧ろ自己の感情に泣いたのだ。その証拠には、そこに若い細君が帰って来たら、その涙は忽ち乾いていったではないか。その柔かい手を握ったではないか。
 銑之助は自からこう罵った。
   28
 月が段々明るくなって、今日はもう十日だという。街の賑わい、氷店の繁昌、鉢植の草花、神楽坂は毎夜毘沙門の縁日のように雑沓するとの噂。山の手の奥からも白地の浴衣に薄化粧の夫婦連が幾組となく出懸けて行く。
 病人はまだ生きて居た。
 平生後生を願わなかったからという声が彼方此方あちこちに聞えた。だから言はぬことではない、私は御寺参をあれほど勧めたのにと親戚の法華かたまりの老婦が得意そうに言った。

甲武線 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
サトーハチロー 正しくは「サトウハチロー」
織田一麿 正しくは「織田一磨」
大戸 おおど。家の表の大きな戸
新宿と文学 東京都新宿区教育委員会の『新宿と文学—そのふるさとを訪ねて』(区教育委員会、1968年)は、新宿区内を描写した文学作品や、区内に居住した作家たちを紹介する本。
東京の坂道 ​石川悌二氏『東京の坂道—生きている江戸の歴史』(新人物往来社、​1971年)は、数多くの坂道を一つ一つ取り上げ、それぞれの坂の名称の由来や歴史的背景を取り上げ、江戸時代から続く東京の街並みや人々の営みを紹介する本。​

渡邊坂(写真)平成31年 ID 14057-58

文学と神楽坂

  神楽坂通りを上り切ってそのまま西へ進み、地下鉄神楽坂駅を過ぎると「逆転式一方通行」の区間が終わり、ゆるやかな下り坂の対面式になります。その道が突き当たるような三角形の変則交差点が「牛込天神町交差点」です。
 この交差点を右折し、北に下る坂に標柱「地蔵坂」が建っています。さらに100mほど進むと標柱「渡邊坂」にやってきます。「マティーニバーガー」の前です。

わた なべ ざか  江戸時代、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文七年(一六六七)に市谷鷹匠町の屋敷と引換えにこの屋敷を拝領し、渡邊家は幕末までこの地にあった。

渡邊坂。北から望む。

御書院番 江戸幕府の職名のひとつ。若年寄の下で、営内を警備、 将軍外出の際には行列に従い警護にあたるほか、遠国出張や交替で駿府在番などを務める。

 でもおかしな問題があります。「地蔵坂」と「渡邊坂」、どこが違うの? 東京の坂について書いてある3冊を調べました。
 まず、横関英一氏の『江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、1970年)によれば……

渡辺坂 新宿区天神町と中里町の境を南へ矢来のほうへ上る坂。昔、坂のふもと東側、中里町に「渡部源蔵」の屋敷があった(万延元年図)

 岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、1981年)の本とほとんど同じで……

渡辺わたなべ(天神町、中里町の境)
 矢来町二七、矢来町派出所前を、早稲田通りと分かれて、北に下る広い道。なだらかに下る。この道をそのまま進むと、山吹町を経て、江戸川橋にいたる。
 むかし、坂下東側、中里町に渡辺源蔵の屋敷があった。『江戸切絵図』(尾張屋版)に、中里町から矢来下に向かう道の東側に、渡辺源蔵の名が見える。道に、坂のマークはついていない。現在、坂の東側に、「渡辺歯科」がある。源蔵さんの家系か。

 これは岡崎清記氏の図ですが、渡邊坂は大きな場所を占め、地蔵坂はここではなく右側の場所が正しいと書かれています。

岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、1981年)

 では、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、1971年)によると……

渡辺坂(わたなべざか)
 中里町と天神町の境を南へ、天神町三四番と三五番の間を入って南に上る。坂上は同町二六番と二七番の間に出て、東西に延びる崖下の狭い道につき当たる。裏町の露地という感じの道である。坂名の起りは、むかし、この坂のふもとに旗本渡辺源蔵の屋敷があったことによる。『諸家系譜』によると、渡辺源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文七年に市谷鷹匠町の屋敷と引き替えに通称天神下の御書院番組屋敷の内を賜った。

 こんどは渡邊坂と地蔵坂、180°正反対です。

石川悌二氏『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、1971年)

 これは歴史から調べないとだめ。万延元年では旗本渡部源蔵はここにありました。

万延元年

 上と左の辺が道路になり、上辺はほぼ水平なので、坂をつくるのには左辺しかありません。

復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)

 明治20年の地図は下のようになっています。なるほど二つのT字型交差点の間を結んで「渡邊坂」があったんですね。つまり、天神町から「渡邊坂」はクランク状で、まっすぐの道ではないのでした。

明治20年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 ところが明治29年、このクランクが改修されます。「渡邊坂」の西、地図で言うと左側に新たな道の建設が始まったのです。

 明治40年の地図では完成しており、この道路が令和になるまでそのままです。

明治40年地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 つまり、渡邊坂は今ではありません。

 最後に2019年、新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の渡邊坂です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14057 渡邊坂 「山吹町」交差点から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14058 渡邊坂 新宿天神局前から北方面を望む


三年坂|由来

文学と神楽坂

 三年坂や三念坂というのはどこをさしているのでしょうか。新宿歴史博物館『新修 新宿区町名誌』(平成22年)では……

()()())町内南角に小坂があり、俗に字三念坂と呼ばれた(『町方書上』)。現在は俗に三念坂という(三年坂とも書く)。三年坂という名称は各地にあり、「坂道で転ぶと三年のうちに死ぬ」という迷信=寂しい坂道だから気をつけろという意味で名付けられたという説もある(町名誌)

 『町方書上』「牛込津久戸前町」(新宿近世文書研究会、平成8年)では……

町内南角片側町家続之処小坂有之、里俗字三念坂申伝候、右訳合相知不申候
 但道幅弐間余り、高三尺五六寸程

 「新宿区町名誌:地名の由来と変遷」(東京都新宿区教育委員会、昭和51年)では……

 下宮比町との境の坂を俗に三念坂という。三念坂は、三年坂とも書く。三年坂は各地にあるが、「坂道で転ぶと三年のうちに死ぬ」という迷信から名づいたものである。しかし、これは淋しい坂道だから気をつけろということが、このような迷信となったものという。

 今の津久戸町の面積は非常に大きく、町内はどこかわかりません。では江戸時代ではどこなのでしょうか? 『新修 新宿区町名誌』で津久戸町の「町地は牛込津久戸前町と牛込西照院門前があった」と書いています。西照院を囲むように牛込津久戸前町の年貢町屋は3つあります。「町内南角に小坂があり」というので、3つのうち右下を指すのでしょう。なお、年貢町屋とは年貢を納める農家がある町です。

神楽坂津久戸町の地図 江戸時代 三年坂

 つまり、現在では交差点「筑土八幡町」から三年坂に入り、それから本多横丁に行き、そのまま神楽坂通りとなって終わります。坂の標柱や標識としては、区は不吉な三年坂を黙殺して使っていないようです。

 三年坂の語源については横関英一氏は『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年。中公文庫、昭和56年)でこう書いています。

  三年坂にまつわる俗信
 三年坂と呼ぶ江戸時代の坂が、旧東京市内に六ヵ所ばかりある。いずれも寺院、墓地のそば、または、そこからそれらが見えるところの坂である。
 三年坂はときどき三念坂とも書く。昔、この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬというばからしい迷信があった。お寺の境内でころんだものは、すぐにその土を三度なめなければならない。もちろん土をなめるまねをすればよいのであるが、わたくしたちも小供のころ、叔母などによくやらされたものである。それをしないと三年の内に死ぬのだと、そのときいつもきかされたものだ。坂はころびやすい場所であるので、お寺のそばの坂は、とくに人々によって用心された。こうした坂が三年坂と呼ばれたのである。三度土をなめるということは、三たび仏に安泰を念願することである。とにかく、三年坂という坂は、坂のそばに寺か墓地があって、四辺が静寂で、気味の悪いほど厳粛な場所の坂を言ったもののようである。古い静寂なお寺の境内で味わうものと同じような気持ちである。(中略。台東区の三年坂について書いた後で)
 つぎは、筑土の三年坂であるが、これは新宿区神楽町三丁目上宮比町との境から北へ津久戸町に下る坂である。ところが、『東京地理沿革誌』には「牛込津久戸前町下宮比町との間を新小川町二丁目のほうへ下る坂を三念坂と云ふ」とある。文政10年の「丁亥町方書上」によると津久戸前町のところに「坂。巾二間程、高三尺余、右町内南角ニ片側家続之所小坂有之、里俗三念坂と唱申候」と、くわしく書いてあるので、今の下宮比町の坂でないことは明らかである。下宮比町境には、古くお寺があったような記録も見あたらない。しかも右のような古い書上かきあげに、津久戸前町に下る坂であると明記されているので、『東京地理沿革誌』の説明は間違いである。とにかく、お寺に関係もないところに三年坂はありえないのだ。
 神楽坂の頂上から、北へ津久戸前町ヘ下る坂の西側には、西照院(絵図には西照寺)があったり、坂のふもとには成願院(絵図には成願寺)があった。この津久戸の三年坂こそ、正頁正銘の三年坂の坂路である。しかし、今は、西照院も成願院も他へ移転してしまって、この坂みちは、昔の寂しさはどこへやらお寺の跡にはぎっしり商家が建ち並んで、この近辺ではいちばん繁華な街になっている。

この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬ たとえば『洛陽名所集 巻之四』(万治元年、1658年)で京都の「再念坂」について「長さ半町ばかりもあらんか。世のことはざに三年坂とて。この坂にてつまづきころべる人。かならず三年をすぐさず身にしよからぬなど云つたへたり」と書かれています。(https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/2008/SK20081L253.pdf
筑土の三年坂 三年坂の由来にはがあります。

復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)

上宮比町 現在の神楽町四丁目。
東京地理沿革誌 明治23年、村田峯次郎 (看雨隠士) が書いた地誌の本です。出版社は稲垣常三郎。「東京地理沿革誌」では……

津久戸前町 市谷津久戸前町ハ築土八幡社前の町地なるを以て此名あり 起立の年代ハ詳ならされとも大抵此辺ハ幕府諸士居住の地なれは明治初年士地町地及寺院門前地等を合併せり
三念坂   此町と下宮比町との間を新小川町二町目の方へ下る坂を三念坂と云ふ

牛込津久戸前町 津久戸町のこと、以前は牛込津久戸前町と呼んでいました
丁亥 ひのとい。干支の一つで、24番目。文政十年は丁亥にあたる。
 面ではなく而が正しい。
小坂 二ではなく小坂が正しい
西照寺 現在は東京都杉並区高円寺の曹洞宗の普明山西照寺。万延元年(1860)の礫川牛込小日向絵図は下図で。
成願寺 現在は東京都中野区本町の曹洞宗の多宝山成願寺。万延元年の礫川牛込小日向絵図は下図で。

万延元年、礫川牛込小日向絵図

 横関英一氏は『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年。中公文庫、昭和56年)の続きです。

 三年坂という名称は、不吉な意味を持っているので、いつの間にか他の名称に改められたものが多い。特に、おめでたい名前に変わっている。たとえば、三年坂が産寧坂とか三延坂、三念坂などと、それから全く「三年」をきらって、鶯坂螢坂淡路坂地蔵坂のように別の名に改められたものもある。
 三年坂に似たものに、二年坂(二寧坂とも)、百日坂袖きり坂袖もぎ坂花折坂などと言う坂もあるが、これらは三年坂と同じ種類のもので、二年坂は三年が二年になっただけである。百日坂はさらに期限が短縮されて、この坂でころぶと百日の内に死ぬということになっている。袖きり坂、袖もぎ坂、花折坂などは、この坂でころぶとやはり三年の内に死ぬというのであるが、仏寺に花をささげたり、自分の着物の袖を切ってささげることによって、死の難からのがれることができるというのである。
 こうした俗信は、かなり古い昔から行われ、しかも日本全国にわたって流行し、信仰されたもので、地名としても、いたるところに、その根強い民俗的信仰の記録を残しているのである。

 坂の名前がいくつも出てきます。
産寧坂 さんねいざか。京都市の坂で、ウィキペディアでは「この坂の上の清水寺にある子安観音へ「お産が寧か(やすらか)でありますように」と祈願するために登る坂であることから『産寧坂』と呼ばれるようになったという説が有力だ」
三延坂 日光山輪王寺に行く坂。
鶯坂 目黒区大岡山。昔この坂の両側に竹や杉が茂り、鶯がよく鳴いたため。
螢坂 台東区谷中5丁目。坂下は蛍沢と呼ばれる蛍の名所だった。三年坂の別名もある。
淡路坂 千代田区神田淡路町2丁目。鈴木淡路守の屋敷はこの坂の上であった。
地蔵坂 坂の1つは新宿区神楽坂5丁目から袋町までの坂。
二年坂 京都東山の坂で、産寧坂の下だから。「ここでつまずき転ぶと二年以内に死ぬ」という言い伝えがある。
百日坂 不明。
袖きり坂 茨城県行方市の西蓮寺。西蓮寺に訪れた女人が、袖きり坂で怪我をしてしまい、何も奉納するものもなく、着ていた着物の袖を切り取り、薬師様に捧げたら怪我が直ったことから由来する説
袖もぎ坂 岡山県邑久郡玉津村大土井の山中で、細道の坂の辺りを袖もぎ坂。ここで転ぶと袖をちぎって捨てないと不吉があるという。
花折坂 和歌山県高野町の坂。高野山への参拝者がここで花を折って御供えした。

 石川悌二氏の『東京の坂道』(新人物往来社、昭和46年)では

三年坂(さんねんざか) 三念坂とも書いた。神楽坂三、四丁目の境を神楽坂の上の方から北へ下り、筑土八幡社の手前の津久上町へ抜ける長い。三年坂の名のいわれはすでに他のところで述べたので省く。津久上町はもとは牛込津久土前町とよんだが、「東京府志料」はこれを「牛込津久土前町 此地は筑土神社の前なれば此町名あり、もと旧幕府庶士の給地にして起立の年代は伝へざれども、明暦中受領の者あれば其頃既に士地なりしこと知るべし」とし、またについては「三念坂 下宮比町との間を新小川町二丁目の方へ下る。長さ五十七開、巾一間四尺より二間二尺に至る」と記している。この坂道通りは花柳界をぬけて神楽坂通りにむすびつく商店街である。

 これは上のに相当します。
他のところ 同書の「麹町台中部」のなかで「三年坂という名は、要するに人淋しい場所の無気味な坂で、各地に共通する迷信『坂道で転んだら三年のうちに死ぬ』という伝えから来たものであろう。」
東京府志料 明治5年4月、陸軍省が各府県の地図並びに地誌の編纂を企画し、国内各地の沿革現勢を記録させ、当時の日本の国勢を明らかにしようとした地誌。東京府は府下一円に渡って調査編纂した。神楽坂などは東京府志料2 巻之42 第3大区5小区

牛込津久戸前町 此地ハ築土神社ノ前ナレハ此町名アリ モト旧幕府庶士ノ給地ニシテ起立ノ年代ハ伝へサレトモ 明暦中受領ノ者アレハ其頃既に士地ニナリシコト知ルへシ 明治二年西照院門前(ヲ合セ五年又)同町続キ士地開墾地ヲ此町へ合併ス
〔土地〕形勢 同上 坂陵 三念坂下宮比町トノ間ヲ新小川町二町目ノ方へ下ル 長57間幅1間4尺ヨリ2間2尺ニ至ル

給地 領主である主君が家臣・被官に与えた土地
 これは上のに相当します。



弁天坂|箪笥町

文学と神楽坂

 大久保通りに弁天坂という坂があります。例えば、江戸時代の「町方書上」では

同所南蔵院前脇、町内入口小坂弁天坂、是南蔵院地内名高弁才天安置有之、右故里俗唱來り候哉、縁(起)旧記等無御座候

 小さい坂というのもちょっと違うんでは…と考えますが、拡大する前の道路を考えると、まあ、これもありかぁと思います。

 明治20年ごろの拡大図では

 大久保通りの一部に弁天坂があります。また「新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

南藏院なんぞうゐんまへより市廛への入口に坂あり、辨天坂べんてんざかといふ、是、南藏院に辨天堂べんてんだうあるに因りて得たる名なり。
新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
市廛 してん。町にある店。店のある町。市街地。

南蔵院。新撰東京名所図会。第42編(1906)

 横井英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)では

新宿区箪笥町、南蔵院前を山伏町のほうへ上る坂。南蔵院には弁天堂がある。

 山伏町は西にありますので、これは正しいと思います。ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

弁天坂(べんてんざか) 芥坂ともいった。箪笥町の南蔵院前旧都電通り、箪笥町四二番南蔵院の道向いを横寺町の南西部に上る小坂。「府内沿革図書」についてみると、この坂は延宝年中から段坂で、現在と形があまり変わらない。(中略)
その境内に弁天堂があったのが、弁天坂のよび名になったものである。その弁天堂は本尊として尊崇されていたが、戦災後は再建されない。

 これでは弁天坂と袖摺坂を混同しています。これでは袖摺坂と全く同じです。

 東京都も弁天坂の標識をつくっています。ちょうど南蔵院の反対側です。内容は…

 坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には、南蔵院門前にあまざけやおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。
 坂上近くの横寺町四十七番地には、尾崎紅葉が、明治二十四年から三十六年十月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花小栗風葉が玄関番として住み、のちに弟子たちは庭つづきの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。

 また「新修新宿区町名誌」(新宿歴史博物館、平成22年)では

南蔵院前脇から町内入り囗への坂は南蔵院に弁財天が安置されていることから、弁天坂と呼ばれる。(町方書上)。

 以上、現在、弁天坂と考える坂は、大久保通りの一部だと考えています。

相生坂と白銀坂|東五軒町と白銀町

文学と神楽坂

 (あい)(おい)(ざか)、別名は(つづみ)(ざか)は、白銀町から東五軒町と西五軒町へ下る坂で、2つあります。

相生坂

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では、

相生坂(あいおいざか) 別名をつづみ坂という。白銀町から東五軒と西五軒町の間へ下る坂路で、「続江戸砂子」は「相生坂 小日向馬場のうへ五軒町の坂なり、二坂並びたるゆへの名なり。」とし、「新編江戸志」は「鼓坂、筑戸の方より小日向へ下る坂なり。二つありてつづみの如し。」としているが、「新撰東京名所図会」は「同町(西五軒町)の南と東五軒町の間を北へ下る坂あり、相生坂といふ。小日向の新坂と相対するが故なり。」とし、また「東京府志料」も「坂名は小日向の新坂と南北相対せるを以てかく唱ふといふ。」と記している。
 地理的にみればこの坂は江戸川をはさんで新坂の西方荒木坂に相対している坂で、新坂では位置がややずれている。したがって「続江戸砂子」が「二坂並びたるゆへの名なり」といっているのは、むしろ赤城神社をはさんで、その西わきを北に下る赤城坂を対称としていったものかとも思える。後考をまつ。
続江戸砂子 続江戸砂子温故名跡志名所古蹟拾遺では「相生坂 小日向馬場のうへ、五軒町の坂也。二坂並びたるゆへの名也と云」
新編江戸志 「築戸の方ゟ小日向へ下る坂也 二ツありてつづみのとく」
新撰東京名所図会 「同町の南と東五軒町の間を北へ下る坂あり、相生坂といふ、小日向の新坂と相對するが故なり。」
東京府志料 「坂隆 相生坂 町ノ南従前市廛ノ前東五軒町トノ間ヲ北へ下る 坂名ハ小日向ノ新坂ト南北相對セルヲ以テ斯唄フト云 長二間 幅四間」

 では横関英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)ではどうなっているのでしょうか。

 江戸時代から現代までの(あい)(おい)(ざか)を並へてみると、おおよそ、次の三つに分類することができる。
  A 坂路が途中でY字型に分れているもの
  B ニつの坂が平行しているもの
  C こつの坂が離れて合っているもの
 東京都内の相生坂は、今日ほとんど昔の形を残いていないほどに道路をいじっているものもあるので、多少苦しい形になってはいるか、それでも現代の坂路から、相生坂と呼ばれた当時の形を想像することはできる。(中略)
 同じ根もとからはえた松を相生の松というのであれば、相生坂もY字型のほうが原義に合うように思われる。『百草露』には、「播磨の国に高砂の松とてあるは、根はひとつにて、上はふたつにわかれて雌雄の双生也」とあって、これを相生の松と呼んでいる。これなら相生の松として申し分はない。それから日光の「相生の滝」であるが、これも二つの滝が並んで落ちて、一つの流れに落ち合って、末は一本の川となって厦れて行くかたちのもので、明らかにY字型に属している。これも理想的に相生である、ニつの平行した坂路や大小二つの坂のくっついたもの、向き合っている坂などに、相生坂という名称をつけたことのほうが、むしろ、おかしいくらいのものである。

 標柱は

坂の由来について、2つの坂道が並んでいるから(『続江戸砂子』)、小日向の新坂と向かいあっているから(『御府内備考』)、などの説がある。

 昔の標柱は

「続江戸砂子」によると、「相生坂、小日向馬場のうえ五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。また「新撰江戸誌」では鼓坂とみえ「二つありてつづみのごとし」とある。

 東側の相生坂は

相生坂 東

 西側の相生坂は

相生坂 西

 もうひとつ、白銀坂という坂があります。

白銀坂

「神楽坂附近の地名」では、白銀坂は相生坂から南の場所(赤)にあることになっています(左図)。しかし、この場所は坂ではなく、平地です(右図)。
 もうひとつは、赤色の相生坂は右側の相生坂そのものだという見解です。たとえば、岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、1981年)では……

 平行して並ぶもう一本の坂は、前述の白銀町の西北隅を北に下る坂(市販の地図は、これを白銀しろがね坂としている)の坂上を東に寄ったところにある。国鉄アパートの西側を、北に下る、急坂である。この坂の坂上にも標柱が建ててあり、これにも同じく、小日向の新坂に向かい合う相生坂だと記してある。

 なお、国鉄アパートは現在はマンションになりました。
 さらに小林信彦氏の『新版私説東京繁昌記』(筑摩書房、1992年)では

 大久保通りを横切って、白銀しろがね公園まえを抜け、白銀坂にかかる。神楽坂歩きをとっくに逸脱しているのだが、荒木氏も私も、〈原東京〉の匂いのする方向に暴走する癖があるから仕方がない。路地、日蔭、妖しい看板、時代錯誤な人々、うねるような狭い道、谷間のある方へ身体が動いてしまうのである。

 どうも、この白銀坂は他と少し違っているようです。