「神楽坂」について語ってみようと思います。神楽坂という「町」(以前の神楽町)ではなく、神楽町が囲む「坂」そのものです。初めは江戸時代の「紫の一本」にあるように「牛込見付から、肴町まで登る坂」でした。なお、「牛込見付」は「神楽坂下交差点」にあたるものと(まあ、強引だけど)考えておきます。また、江戸時代の「肴町」は現在の神楽坂5丁目を中心に、岩戸町まで及んでいました。
神楽坂を囲む町は、明治大正では神楽町という名称でした。昭和26年(1951)5月1日から、神楽町1、2、3丁目から神楽坂1、2、3丁目という町に変え、また、上宮比町、肴町、通寺町は神楽坂4、5、6丁目に変わりました。したがって、坂も6丁目まで「神楽坂」に含むという考え方もできます。
なお、新宿区の「区道道路通称名」は、神楽坂下交差点から神楽坂上交差点までを「神楽坂通り」として正式の名称に使っています。
では、神楽坂の「坂」についてその説明の変移を見てみましょう。
紫の一本 戸田茂睡による地誌。天和2年(1682)に成立 かぐら坂、牛込見付の御門より、直に肴町へ登る坂を云、 |
絵図でもわかる通り、明治以前では坂ではなく、階段でした。これは「神楽坂の階段を坂に」で。
望海毎談 江戸時代中期 作者は不明。 牛込行願寺 ……神楽坂と云は赤城明神の神楽堂の有し所のよし…… |
江府名勝志 稲村儀右衛門 享保18年(1733年)に発行 神楽坂 牛込御門の向に在。此坂の名の来歴其説あれども、慥ならざる故略之。 |
江戸砂子 菊岡沾凉著 享保20年(1735年)に成立 ●神楽坂 牛込御門のむかふの坂也。 市谷八幡の祭礼に、神輿牛込御門の橋のうへにしばらくとゞまり、かぐらを奏す。よつてこの名ありと云。当日見付御番より鳥目十疋、ならびに神酒神献あり。又近所若宮の八幡のかぐら、此まできこゆ、よつてかぐらといふともあり。 |
神輿 みこし。じんよ。祭礼のときなどに担ぐ乗り物
かぐら 神事の歌舞。御神楽は、夜、庭燎をたいて宮中で一連の所作と声楽主体の音楽を執り行う宗教儀式。里神楽は日本の民俗芸能の一種。
鳥目 ちょうもく。銭や金銭のこと。中心に穴が開いた銭貨の形が鳥の目に似ていたため
疋 ひき。1疋=10文、のち25文
江戸名所図会 斎藤長秋他編、巻之四 天権之部 天保7年(1836年)に発行 同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼の時は神輿この所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。 或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしか号くとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。 |
改正新編江戸志 東武懐山子著 天保3年(1832年) 市谷八幡祭礼に神輿牛込御門橋上に暫く留りて神楽を奏しけるよつて此名ありと江戸砂子にみゆ又或説に穴八幡の祭礼にこの坂にて神楽を奏すと[云け]り名付ると也別穴八幡の旅所この坂の上にあり放生寺の持[之]津久戸神社の社伝には今の地へ遷座の時此坂にて神楽を奏すよしといふ |
牛込町方書上 市谷田町四丁目代地 文政8〜11年(1825〜29年)
一 町内、里俗家前往還ヲ神楽坂与相唱申候、尤神楽坂与唱候者穴八幡旅所ニ相成候以前ゟ祭礼之節、當所ニ神楽有之、其後當旅所ニ而度々神楽有之候ニ付、唱来候由申傳又者築土明神牛込御門内ニ社有之候所、御用地ニ相成、牛込御門外江替地被下、遷座之節、揚場坂ニ而神輿重ク相成上らす候ニ付、此所ニ而供物ヲ備、神楽を致候故、其節ゟ揚場坂を神楽坂与相唱候由茂及承候得共、聢与相分不申候、其外惣名ニ唱候場所、小名無御座候
(中略)
一 坂之儀者町内家前ニ有之、北之方ゟ東之方江下り、高凡三丈七尺程登り壱町斗有之、幅上之方六間程、下之方四間半程、但坂之字之儀者里俗唱之ヶ条二申上候、道造之儀者家前之分町内持ニ御座候
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御府内備考 文政12年(1829)、昌平坂学問所の地誌調所で成稿 市ヶ谷八幡宮の祭礼に神輿御門の橋の上にしはらくとゝまり神楽を奏すること例なり依てこの名ありと 江戸 砂子 穴八幡の祭礼にこの坂にて神楽を奏するよりかく名つくと 江戸 志 穴八幡の御旅所の地この坂の中ふくにあり津久土の社の伝にこの社今の地へ田安より遷坐の時この坂にて神楽を奏せしよりの名なりといふはもつともうけかたきことなり 改選江 戸志 |
神楽坂の由来について「神楽が聞こえたから」と記載しています。でも、どの神社が神楽を奏したのかは不明です。
これからは明治期以降の神楽坂です。
東京名所図絵。中野了随著。小川尚栄堂。明治23年 神楽坂は牛込門の外の坂を云ふ 坂の両側櫛比して頗る繁盛なり 俚俗相伝ふ坂の半腹右側に高田穴八幡の旅所あり 祭礼神輿の時神輿渡る時神楽と奏する故に神楽坂と名けし由 |
頗る すこぶる。普通や予想した程度を越えて。たいそう。大いに。
新撰東京名所図会 明治37年 1904年 神楽阪は。牛込門址より西の方。神楽町の中央に在る阪路をいふ。もと阪の上南側に高田穴八幡社の旅所ありて。祭禮の時は神輿比所に渡り。神楽を奏するを以て此名ありといふ。 江戸砂子に。市谷八幡の祭礼に。神輿牛込御門の橋のうへにしばらくとゞまり。かぐらを奏す。因てこの名ありと云。当日牛込御門当番より鳥目十疋。ならびに神酒を獻すと。又近所若宮の八幡のかぐら。此阪まできてゆ。因てかぐらといふともあり」としるし。江戸名所図会には。高田穴八幡の事を記し。其の註に。或云津久土明神田安の地より今の所へ遷座の時。此阪にて神楽を奏せし故にしか号くとも。又若宮八幡の社近くして常に神楽の音此阪まできてゆるゆゑなりともいいへたり」といへり。神楽のことは何れも同じけれども。其の神社の伝へはーならず。然れとも甞て公園地調査の際。穴八幡社に於て聞ける所と。江戸名所図会神楽阪の図に徴するも。高田八幡社の神楽とする方事実なるが如し。 |
甞て しょう。かつて。なめる。舌で味わう。こころみる。ためしてみる。過去。以前。
大正期で初めて芸妓屋や待合も多いと記しています。
大正博覧会と東京遊覧 向上社編輯部編 向上社 大正3年 1914年 神楽坂 神楽町の峻坂を神楽坂とす。牛込見附を隔てゝ麴町に対す。四谷大通に次で山の手屈指の繁盛地、往来頻繁に、附近待合芸妓家多し |
最後は戦後です。
続江戸の坂 東京の坂 昭和50年 横関英一 有峰書店 神楽坂について 新宿区神楽坂一、二、三丁目を縦断する坂。昔の牛込見附から西へ上る早稲田通りの坂で、その坂にまつわる伝説もまちまちであった。たとえば、高田穴八幡の旅所が、この坂の頂上にあって、祭礼のとき神楽を奏したとか(『大日本地名辞書』)、津久土明神が田安の地から津久土八幡のところへ遷座のとき、この坂で神楽を奏したとか(『新編江戸志』)、または若宮八幡社が近くにあるので、神楽の音が、この坂のところまできこえてきたとか(『江戸鹿子』)、あるいは赤城明神の神楽堂が、もとここにあったとか(『望海毎談』)と、いろいろである。しかしその昔は、この坂上に天台宗の行元寺という大寺があったとか。牛込見附のところに惣門があり、この坂には中門があって、左右に南天の並木がつづいていたので、世にこの寺のことを南天寺と呼んで有名であったとか。 そのころは、牛込の奥へ行く道は、この坂に並行した軽子坂が、この東にあった。この坂道は早くから発達していたので、「かるこざか」というの名は有名であった。軽子坂という意味は、河岸の舟に積んできた荷物を、水揚げするのが「かるこ」という人夫であった。その発音の珍しい呼び方が、やがて「かぐらざか」と作り、さらに「神楽坂」を生み出したのであろう。特別に神楽の伝説にもなんにも関係なくできた名前かもしれない。かるこざか—かぐらざか、ちょっと似たような面白い呼び名である。『江府名勝志』は「此坂の名の来歴其説あれども、慥ならざる故略之」と書いている。 |
東京の坂道 石川悌二 昭和46年 新人物往来社
神楽坂(かぐらざか)旧牛込区の代表的な坂路。外濠通り国電飯田橋駅南口下から、新宿区神楽坂一、二、三丁目を西上するが、現今では坂上旧都電通りを通り越した地下鉄神楽坂駅のあたりまでも神楽坂通りと称している。 神楽坂の名の由来は江戸砂子や江戸名所図会について見えるが、市ヶ谷八幡の旅所(祭礼のときの分祭所)があって「かぐら」が奏されたとし、また南方若宮八幡社の「かぐら」がきこえたためといい、さらには高田穴八幡の旅所が設けられ、祭礼の神楽を奏したためだとも伝えている。いずれにしても神社の祭礼の神楽ばやしにちなんで起った坂名であろう。この神楽坂辺は維新前はおおむね武家地と寺社地によって占領されていたが、牛込第一の盛り場となったのは明治の半ばごろから以後で、その後昭和十年代末まで繁栄を誇っていた。 明治28年、甲武鉄道(現国鉄線)の牛込停車場が開設されると、神楽坂上毘沙門天の縁日(毎月寅の日)が人気を高めて、参詣の善男善女が見附から坂上にかけて長蛇の列をつくるようになり、坂には露店、植木市が出ならび、毘沙門の境内にはいろいろの見世物小屋が掛かって混雑をきわめたという。こうして牛込、市ヶ谷へんの旧武家地や寺社地跡に明治新興階級の住宅が建てこんでゆく時世の反映として、神楽坂は新しい東京の盛り場のシンボルになったのである。 江戸名所図会のさし絵などに見る神楽坂は段々の坂で、さして険しくはみえないが、やはり昔は相当な急坂であったのを明治になって改修したもので、同13年3月30日、郵便報知は「神楽坂を掘り下げる」と題する次の記事を掲載している。 牛込神楽坂は頗る急峻なる長坂にて、車馬荷車並に人民の往復も不便を極め、時として危険なることも度々なれば、坂上を掘り下げ、同所藁店下寺通辺の地形と平面になし、又小石川金剛寺坂も同様掘り下げんとて、頃日府庁土木課の官吏が出張して測量されしと。
この前後における毘沙門様はかなり知られてはいたようだが、まだ交通不便な土地柄のために縁日の出店なども後年のような繁況には遠かったことが明治8年の新聞記事にうかがわれる。
神楽坂の毘沙門
〔8月25日、東京曙〕牛込神楽坂の毘沙門さんも流行につれて、四五日前より日数三十日開帳の商法、店を開かれしに、法華堅まりの信徒連中が寄集り、叩きたる太鼓の音と南無妙法蓮華経を唱ふる声は昼夜の差別なく鳴渡りますが、回向院の大店程にはまうかるまいといふ沙法なり。 (以下、小説や新聞の紹介は省略)
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新宿区町名誌 新宿区教育委員会 昭和51年 1976年 神楽坂は、江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に堀り下げて改修した。明治4年6月、この地一帯に町名をつけた時、この神楽坂からとって神楽町としたが、旧称どおりの神楽坂でとおっていた。 この神楽坂は、明治から昭和初期まで、東京における有名な繁街華であったが、昭和20年の空襲で、焼野原と化した。その後の発展とともに、神楽坂繁華街の発展をめざすため、神楽坂振興会が設立された。その音頭とりで、昭和26年5月1日、坂上の三町も含めて神楽坂と称することになり、北の赤城神社入口まで名称統一され、四・五・六丁目ができたのである。 |
新修新宿区町名誌 新宿歴史博物館 平成22年 2010年 神楽坂は江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に掘り下げて改修された。 明治4年(1871)6月、この地域一帯に町名をつけたとき、この神楽坂からとつて神楽町としたが、旧称どおりの神楽坂で呼ばれていた。 この神楽坂は、明治から昭和初期まで、特に関東大震災以降、東京における有名な繁華街であった。大正14年(1925)坂が舗装された。神楽坂のこの道は毎朝近衛兵が皇居から戸塚の練兵場(現在の学習院女子大学)に行く道で、軍馬の通り道であった。舗装も最初は木レンガであったが、滑るため、2年ほどして影石に筋を入れた舗装に変わった。 しかし昭和20年(1945)の空襲で、焼け野原と化した。 昭和26年5月1日、坂上の三町も含めて神楽坂と称することになり(東京都告示第347号)、北の赤城神社入り口まで名称統一され、四・五・六丁目ができた。この町名変更に当たって、関係町民からも町名を神楽坂に統一する陳情書が区議会に提出された。その理由は、下宮比町と上宮比町が混同されやすいこと、肴町は隣区の肴町と誤認されやすい等が挙げられた(昭和30年新宿区史)。 |