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逆転式一方通行の延長

 逆転式一方通行の延長について、地元の方は…

 神楽坂通りに、逆転式一方通行が導入されたのは東京新聞調べの1958年(昭和33年)だということは「逆転式一方通行・再考(写真)」で考察しました。逆転式はその後、千代田区側に延長されます。
 1977年(昭和52年)のテレビドラマ『気まぐれ本格派』の牛込見附交差点のシーンには、歩行者用道路と「ランチタイム・プロムナード」(スプーンとフォーク、ティーカップ)の標識が写っています。正午から午後1時までを歩行者天国にするもので、歩行者が道の真ん中を歩いているので、ちょうど実施中と思われます。

『気まぐれ本格派』32話

 右側の高い位置にも、大きな歩行者用道路の標識が見えます。これは回転式で、時間によって表示内容が変わります。神楽坂通り入り口にも同じ標識があり、「逆転式一方通行・再考(写真)」の記事のID:9109(昭和51年8月26日)で確認できます。
 また「神楽坂1丁目(写真)昭和54年 ID 85、ID 86」の記事にも回転式標識が写っていますが、表示は「調製中」です。故障していたか、あるいは表示内容を変えようとしていたのかも知れません。
 渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』では、昭和54年(1979)4月1日に逆転式が延長されたとあります。しかし『気まぐれ本格派』ではシーンによって牛込橋を通る車の向きが逆になっています。少なくとも千代田区の牛込橋部分については、昭和52年時点で逆転式一方通行が実施されていたことが分かります。

神楽坂1丁目(写真)昭和48年 ID 67

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 67は、昭和48年(1973年)5月22日、牛込橋から神楽坂1丁目などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 67 飯田橋駅付近より坂上方向

 中央の通りは早稲田通りで、中央帯はありません。渡辺功一氏によれば、昭和54年にここも逆転式一方通行になったといいます(『神楽坂がまるごとわかる本』けやき舎、36頁)。この通りの右側は神楽河岸、左側は神楽坂1丁目です
 街灯は円盤形の大型蛍光灯ですが、左側の街灯(写真では「同棲時代」の右前。4枚目の写真)だけが形が違っています。新宿区の予算ではなく、この場所は区境を越えて、千代田区でした。
 また、最前部の車道と歩道は、石畳でした。この時代の牛込橋はコンクリート製。平成8年に現在の鋼製の橋に架け替えられました。ID 68も同様です。

 最初は4階以上の高層ビルです。これこそ地元の方の協力がないとできません。

高層ビル

  1. 理科大
  2. 週刊大衆なので双葉ビル
  3. 理科大
  4. 1丁目の田口屋(花屋)ビルで5階建て。2丁目の田口屋は2階建て
  5. 大島ビル。1階は大島糸店。4階建て。竣工は1959年5月。
  6. 五条ビル。2丁目。竣工は1967年。
  7. 三菱銀行。3丁目。現在は三菱UFJ銀行。
  8. 「軽い心」のビル。2丁目。現在はカグラヒルズビル
  9. 丸金ビル。3丁目。神楽坂仲通り。1973年の住宅地図だと「金丸ビル」。現存しません。
  10. 川田ハイツ。3丁目。現在は「クレール神楽坂6」。1973年6月竣工、5階建て。芸者新道に面していて、上に行くほど床面積がすぼまります。
  11. 七福ビル。2丁目。1971年2月竣工。5階建て。足元に「神楽坂ゴルフガーデン」(緑の楕円)がありました。

84年 住宅地図。五条ビル、大島ビル、田口ビル。丸金ビル、川田ハイツ、七福ビル。

 では1丁目です。左から右に…

67 1丁目

  1. キッチン熊
  2. ボート場
  3. 街灯。赤い円。新宿区のものではない。
  4. もつやき、正宗。キリンビール。やなぎ
  5. 立喰そば。飯田橋
  6. 金鷹。ラーメン。(二鶴)
  7. 電柱に「とんかつ森川」
  8. とんかつ森川。白鷹。
  9. コーヒー77
  10. 東山酒蔵

 右側に電柱看板「洋装店 ナカノ」があります。現在は3丁目のナカノビル。

神楽坂下から揚場町まで 1960年代

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、昭和37年(1962年)、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。


➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「飯田壕の埋め立てと再開発は、外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸。「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

紅谷(補遺)3と小川茂七氏

文学と神楽坂

 地元の人から紅谷について調査の結果です。紺色の枠は地元の結果、緑色は関係した例やまとめなどです。

 神楽坂5丁目(旧・肴町)にあった菓子屋「紅谷」と、経営者だった小川茂七氏について、以前のブログの記事1を補完する目的で調べました。
 紅谷については渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)に詳細な記事があり、これは紅谷と関係の深かった凮月堂の社史を参考にしたと思われます。
 紅谷の本店は小石川安藤坂にありました。創業は江戸期で、明治期の店主は文久2年(1862)生まれの西岡幾次郞氏です。
 高額納税者番付である「栄誉鑑」(明治23年11月、有得社)の小結に幾次郞氏の名があるので、それなりに成功した店だったことが分かります。
小川茂七 これは『人事興信録』データベースに出ています。

小川茂七 (第8版) – 『人事興信録』データベース

小川茂七(第8版〔昭和3(1928)年7月〕の情報)
爵位・身分・家柄 東京府在籍
職業    紅谷支店、菓子商
性別    男性
生年月日  明治6年3月(1873)
親名・続柄 浅倉茂左衛門の七男
家族 妻  つる 明10、11月生、東京、西岡金太郞叔母
   男  秀吉 明32、9月生
   婦  はな 明36、4月生、長男秀吉妻、東京、桜井栄藏長女
   男  寿三郞、明38 8月生
   養子 銈二 明32、12月生 二女愛子夫 長野 橫沢繁太郞二男
   女  愛子 明41、5月生、養子銈二妻
略伝 君は山形県人浅倉茂左衞門の七男にして明治6年3月を以て生れ同30年先代つるの入夫となり家督を相続す 紅谷支店と称し菓子商を営む 家族は尚孫和子(大14、3生、長男秀吉長女)同安江(同15、7生、同二女)同桂子(同14、11生、養子銈二長女)あり 長女とく(明30、7生)は東京府人穗積峯三郞養子一郞に嫁せり

詳細な記事 「神楽坂がまるごとわかる本」の記事では小川茂七氏と紅谷が描かれています。最初の半分は歴史的な動き、後半は「紅谷」が出てくる色々な小説ですが、この後半は省略します。主に「東京風月堂社史」編纂委員会編の「東京風月堂社史 : 信頼と伝統の道程」(東京風月堂、平成17年)に出たものも多いのでしょう。

紅谷神楽坂店
 紅谷菓子店の神楽坂支店を創業した小川茂七は、山形県の和菓子店「梅月堂」に明治七年(1874)生まれる。自宅で職人の下積みの後に上京して、明治26年(1893)七沢康太郎の経営する麻布飯倉「風月堂」に住みこみ修業する。またたく間に菓子職人としての才を発揮し初代職長に抜擢される。
 七沢のすすめで小石川安藤坂の和菓子店「紅谷本店」の西岡幾次郎の妹と結婚する。紅谷は江戸からの老舗で紅谷の「栗ようかん」でその名を知られていた。小川は、牛込肴町28番地、現神楽坂五丁目に明治30年(1897)2月に紅谷の神楽坂支店を開店する。隣接した肴町29番地の菓子工場で製造も開始。東京山の手の代表的な菓子店として、広く知られるようになった。
 明治40年(1907)小川が33歳のとき、三ヶ月間にわたって世界をまわり菓子の製造法を学んだ。帰国まもなくケーキやドロップなどあらたな洋菓子の製造をはじめる。発売すると同時に注目を浴びた。大正4年(1915)、長女とくこが神田淡路町「風月堂」店主穂積峰三郎の息子と結婚する。当時の神楽坂通りでもひときわ目をひく大きな婚礼であったと伝えられている。
 風月堂社史によると、小川の豊富な外国の最新知識を取り入れた「紅谷」の製品は、時代の最尖端を行くなかなかのものと評判が高かった。淡路町「風月堂」と「紅谷」の職人たちは、おたがいの店舗での技術交流で切磋琢磨しながら、製品の質の向上につとめていた。小川茂七は実力をそなえたなかなか面倒見のよい人物で、すぐれた後進を多く育てている。その門下生には、銀座コロンバン創業の門倉国輝、自由ヶ丘モンブランの迫田千万億、本郷森川町の紅谷の小川某、宮内庁大膳寮 洋菓子担当主任の佐久間良助、製菓講師の田谷真三などのそうそうたるメンバーがいたのである。
 大正10年(1921) 神楽坂五丁目の店舗を鉄筋コンクリート三階建ての洋館に新改築した一階は店舗で二階に喫茶部を置き、三階にダンスホールをもうけたが、大震災後は三階も喫茶部となった。太平洋戦争の敗戦の色濃い昭和20年(1945)3月18日、明治後期以降に日本の菓子業界において華やかな活躍をした小川茂七が他界した。享年71歳であった。茂七没後の紅谷は、戦時中の建物の強制疎開で取り壊されたままであり、戦後ついに復旧することはなかったのである。

凮月堂 「凮」は凬、飌、风、凨と同じで、「風」の異体字。
本店 大東社の「遊覧東京案内 1922年版」(大正11年)では

紅屋  伝通院前 水道町1丁目7番地にある。山の手方面で上流の菓子舗、支店は牛込神楽坂上にある。

栄誉鑑 税額は27円でした。ChatGPTによれば、これで年収は1700〜1800円。現在は約3,600万〜7,200万円でした。

 肴町の紅谷の創業者である小川茂七氏の経歴資料は、異同が多いのですが、今田醒民編の「山形名家録」(山形名家録編纂局、大正11年)に従えば、明治6年(1873)山形県の生まれ。小川姓に転じた後、20歳頃上京して凮月堂で修行し、紅谷の西岡幾次郞氏の妹(先代・西岡庄次郎氏の長女)と結婚して牛込分店を開いたようです。入婿(養嗣子)という資料もありますが不正確で、本店の幾次郞氏とは義兄弟になります。
 牛込分店の開業は明治23年で、茂七氏はその後にその運営を行い、満25歳(数え年27歳)頃で一家を構えました。井出徳太郎編の「日本商工営業録 明治31年9月刊(第1版)」(日本商工営業録発行所、明治31年)には紅谷と茂七氏の名があります。
山形名家録 今田醒民編の「山形名家録」(山形名家録編纂局、大正11年)は……
菓子商紅谷支店主 小川茂七君
 君円満豊類、常に唇辺藹然たる微笑を合み、矯々人を魅了せんとするの風貌あり、何人も一度君に接して会見応酬せん、知らず識らずの間に、親しむで離るべからざる情、湧然として起るを禁じ得さるなり、君は山形県の人、浅倉茂左衛門氏の第七男にして、明治6年3月を以て呱々の声を揚げ後小川家の養子となり家督を相続す、紅谷支店として菓子商を営み爾来益々此が業務の向上発展に貢献し今や東都屈指の大店舗となり店運旭日昇天の勢なり、人となり勤勉力行、敢へて荒怠することなく、趣味としては唯々事業を発展せしむるの一路にあり、夫人はつる子と呼ばれ貞淑にして温良夫妻間に三男二女を設け、家庭の円満なる事恰も春海の加し。(東京市牛込区肴町29)
入婿(養嗣子) 入婿(いりむこ)は、婚姻により、他家の女の夫としてその家の籍に入ること。よう嗣子ししは民法旧規定のもとで家督相続人となる養子。例えば、東京毎夕新聞社編の「昭和之日本:御大典記念」(東京毎夕新聞社、昭和4年)では……。なお「 (数え年)27歳の時その養嗣子となる」ことから、明治30年頃に一家を構えたといえます。

小川茂七氏
明治5年3月18日生
東京市牛込区肴町28
 牛込区菓子製造業組合長、肴町同志会会長、紅屋菓子舗主
 山の手の銀座と称せらるる牛込神楽坂の殷賑は、震災後一入その度を増し、春夏秋冬の別ちなくその折々の店頭装飾に商華燦爛たる盛況振りは実に目覧しき限りにして、我が菓子業界の一権威たる紅屋の優美なる商頭飾窓に、自から注意を牽引せらるるは敢て甘党のみに限らざるべし。抑も当主小川茂七氏は山形市の人 佐久間茂左衛門氏の五男として同市七日町に生れ20歳の頃志を立てて上京将来菓子業界に活躍せんと欲して京橋区南鍋町の風月堂に入つて一介の店員となる。専ら製造に従事し精進して斯業秘法の会得に努むること数年、技量大に進み主家の麻布飯倉町に支店を開設するに当り選ばれて其の製造部に転務せしめらる。爾来、身を持するに謹厳聊かも朋輩の悪風に動せず誠心誠意店務に精励せる着実なる人物は痛く紅屋分店の先代小川正次郎氏の傾倒する処となり27歳の時懇請せられてその養嗣子となる 超えて41年の交単身渡航して欧米各国を歴訪し具さに洋風菓子の製法を研究し帰朝するや一大改善を加へて頓に都下愛好者の好評を博するに至る。大正11年店舗を新築落成し時好の趨く所に順応して喫茶部を併設し神楽坂漫歩に一掬の風趣を与ふるは世上周知の処たり。和洋両種に獨特の技能発揮すと雖も就中儀式用製菓には他に匹敵を見ざる妙技を揮ふ。曾て区合議員に推され現に頭書の要位に就けり。


開業は明治23年 東京府知事官房調査課編の「東京府工場統計 昭和5年」(東京府、昭和7年)では明治23年でした。

 牛込分店の所在地は、明治期の資料では「肴町29」です。東京市及接続郡部地籍台帳 1(明治45年)でも茂七氏は肴町29の土地を所有しています。
 しかし時代が下ると「肴町28」と表記した資料が出てきます。(東京毎夕新聞社編「昭和之日本 : 御大典記念」(昭和4年)、帝国興信所編「帝国信用録 31版」(昭和13年)。
 これは火災保険特殊地図の昭和12年の「紅谷店」と一致します。もともと29番地に店があり、隣地の28番地を入手して大正期に新しい店を建てた結果と思われます。
肴町29 東京市逓信局の「番地界入東京市拾五区区分図」(大正11年)(図は公益財団法人特別区協議会から)です。

東京市逓信局の「番地界入東京市拾五区区分図」(大正11年)

 小石川に本店があるにもかかわらず、なぜ牛込分店が有名になったのでしょうか。いくつか要因が考えられますが、なんといっても茂七氏が進取の気性に富んでいたからでしょう。前の「昭和之日本」には
単身渡航して欧米各国を歴訪し、つぶさに洋風菓子の製法を研究し……
とあります。
 これは明治41年、朝日新聞社が企画した「世界一周会」の企画旅行を指しています。全国から申し込みがあり、選ばれた56人の中に茂七氏の名がありました。
 壮挙とはいえ親善旅行であり、修行とは呼べそうにないでしょう。しかし30歳台で多額の費用をかけて参加した茂七氏は欧米列強に接して多くを感じ、また周囲から羨望され、尊敬されたでしょう。「洋菓子の紅谷」の名を高らしめたに違いありません。
 小石川の本店を経営する義兄の西岡幾次郞氏に跡取りがなく、養子2人に店を分けたことも関係しているかも知れません。
世界一周会 旅行日程(予定)49日。明治41年3月18日に出発。28日、ホノルル半日。4月3日、サンフランシスコ。6日、ユタ州、シカゴ、ナイアガラ、ボストン、ワシントン、ニューヨーク。23日、出発。5月1日、リバプール到着。同日、ロンドン。15日、パリ到着。イタリア、ドイツ、6月2日、ベルリン発。6月4日、ペテルブルグ。6日、モスクワ。シベリア鉄道で12日間、6月16日、満洲着。19日。ウラジオ発。6月20日、敦賀着。1人当たり2100円。ChatGPTによれば、現在の約300万円から600万円まで。
茂七氏の名 顔写真(石川周行編「世界一周画報」東京朝日新聞社、明治41年9月)もあります。

 茂七氏は肴町の町会長や牛込区の区議、菓子製造業者の組合の責任者などを務めました、また長女は茂七氏が修行した凮月堂の跡取りに嫁ぎました。地域や菓子業界の重鎮であったことが想像できます。
 流行歌「紅屋の娘」には神楽坂を示す歌詞はありません。昭和初期にはのれん分けによって東京の西側を中心に紅谷がいくつもできていました。「紅屋の娘」は「山手ガール」くらいのイメージだったかも知れません。

沢山の紅谷

 紳士録等に掲載された牛込分店の経営者は昭和13年以降、長男の小川秀吉氏に変わります。
 茂七氏は65歳ぐらいで家督を譲ったのでしょう。神楽坂が城北空襲を受ける直前の昭和20年3月に他界したと、『神楽坂がまるごとわかる本』。
 現在でも、鎌倉はじめ全国に「紅谷」の流れを汲む菓子店があるようです。

明進軒、プランタン|岩戸町

文学と神楽坂

 渡辺功一氏著の『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)の142頁では以下の説明が出てきます。

プランタンまえの明進軒
 麻雀の歴史の証人となったプランタン神楽坂店は、いったいどこにあったのか。神楽坂六丁目の横丁であるが諸説があって今一つはっきりしない。「神楽坂の横丁の植木垣のつづいたもの静かな屋敷町に医院の跡を買って開いた」と紹介した文献もあるが場所の特定に至らない。ところがその場所を明記した文献があったのだ。

その料理店は明進軒といった。紅葉宅のある横寺町に近いという関係もあって、ここは硯友社の文士たちがよく利用した。紅葉の亡くなったときも徹夜あけのひとびとがここで朝食をとっている。〈通寺町小横丁の明進軒〉と書く人もいるが、正しくは牛込岩戸町二十四番地にあり、小路のむかい側が通寺町であった。今の神楽坂五丁目の坂を下りて大久保通りを渡り、最初の小路を左へ折れてすぐ、現在帝都信用金庫の建物のあるあたりである。
『評伝泉鏡花』笠原信夫 白地社

 このように明確に記載されている。この場所は神楽坂通りに面した亀十パン店のあった横から路地を入った左側で、現亀十ビルの裏手にあたる。同書には「尾崎紅葉が近くてよく使った明進軒という洋食屋であった」という記述があるが、横寺町の紅葉宅から神楽坂上の交差点までは近いとはいいがたく、特定はできなかった。そこは日本料理の『求友亭』があった場所とも考えられていたので、この店と混同してしまったのではないかと推察していた。
 ところが歴史資料の中にある明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図を調べていくうちに「明進軒」と記載された場所を見つけることができた。明治三十六年に創業した神楽坂六丁目の木村屋、現スーパーキムラヤから横丁に入って、五、六軒先の左側にあったのだ。この朝日坂という通りを二百メートルほど先に行くと左手に尾崎紅葉邸跡がある。
 明治の文豪尾崎紅葉がよく通った「明進軒」は、当時牛込区内で唯一の西洋料理店であった。ここの創業は肴町寺内で日本家屋造りの二階屋で西洋料理をはじめた。めずらしさもあって料理の評判も上々であった。ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われた洒落た洋館風建物で、その西洋料理は憧れの的であったという。この明進軒は、神楽坂のレストラン田原屋ができる前の神楽坂を代表する洋食店であった。現存するプランタンの資料から、この洋館風建物を改装してカフェープランタンを開業したのではないかと思われる。
 泉鏡花が横寺町の尾崎紅葉家から大橋家に移り仕むとき、紅葉は彼を明進軒に連れていって送別の意味で西洋料理をおごってやった。かぞえ二十三歳の鏡花はこのとき初めて紅葉からナイフとフォークの使い方を教わったが酒は飲ませてもらえなかったという。当時、硯友社、尾崎紅葉、泉鏡花、梶川半古、早稲田系文士などが常連であった。

 しかし、困ったことにこの歴史資料の名前は何なのか、明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図はどこにあるのか、わからないのです。この文献は何というのでしょうか。昭和45年、新宿区教育委員会の「古老の記憶による関東大震災前の形」でしょうか。
 「古老の記憶による関東大震災前の形」の左端にある「求友亭」でしょうか? 求友亭と明進軒の2つは明らかに違う店舗です。「←通寺町、横寺町の入口を経て、矢来下から戸塚町、早稲田大学にぬける」も、明進軒とは全く関係ありません。「求友亭」を間違えたまま「明進軒」と捉えているのではないでしょうか?
 最初は明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように名前が変わりました。また、明進軒は「通寺町の小横町」に建っていました。これは「横寺町」なのでしょうか。実際には「通寺町の横丁」ではないのでしょうか。あるいは「通寺町のそばの横丁」ではないのでしょうか。
 昭和12年の「火災保険特殊地図」では岩戸町24番地はこの赤い多角形です。なお求友亭は通寺町75番地でした。またこの横丁は川喜田屋横丁です。明進軒
 また別の地図(『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった「寺内」)でも同じような場所を示しています。

明進軒

明進軒

 さらに1970年の新宿区立図書館が書いた「神楽坂界隈の変遷」では

 紅葉が三日にあげず来客やら弟子と共に行った西洋料理の明進軒は,岩戸町24番地で電車通りを越してすぐ左の小路を入ったところ(今の帝都信用金庫のうしろ)にあった。
 この「左の小路」というのは川喜田屋横丁です。さらに「神楽坂界隈の変遷」は『東京名所図会』(監修宮尾しげを、睦書房、1969年、東陽堂の「新撰東京名所図会」明治29-44年刊の複製)を引用しています。ここでは「新撰東京名所図会」第42編を直接引用します。

明進軒

現代の明進軒。マンションです。

●明進軒
岩戸町(いはとちやう)二十四番地に在り、西洋料理(せいやうれうり)、營業主野村定七。電話番町一、二〇七。神楽坂(かぐらざか)青陽樓(せいやうろう)(なら)(しよう)せらる。以前區内の西洋料理店は、唯明進軒(めいしんけん)にのみ限られたりしかば、日本造二階家(其当時は肴町行元寺地内)の微々(びゝ)たりし頃より顧客の引立を得て後ち今の地に轉ず、其地内にあるの日、文士屡次(しばしば)こゝに會合(くわいがふ)し、當年の逸話(いつわ)また少からずといふ。

 結論としては明進軒は以前の岩戸町二十四番地(現在は岩戸町一番地)なのです。