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松平定安伯爵の神楽坂邸(昔)神楽坂3丁目

文学と神楽坂

地元の方からです

 神楽坂3丁目には「出羽様」と呼ばれた大きな邸がありました。邸の主は出雲松江藩の第10代(最後)の藩主であった松平定安で、官位は出羽守、明治維新後は伯爵に叙せられました。私家版の詳細な伝記(昭和9年刊)が残っています。
 この中から、神楽坂邸に関する部分を拾い読みします。新字・新かなに改め、適宜省略しています。
 明治3年10月、旧藩主時代から江戸にあった官邸・私邸の「拝借期限」が向こう3カ月間だと明治政府から通達されます。

 これにおいて東京府内に適当の邸宅を物色し、翌4年8月朔日(明治4年8月1日)に至り、牛込神楽町3丁目3番地(原注。後6番地と改まる)の邸地を購入し、もって新邸を営むに至れり。すなわち該地は旧旗本高木義太郎・筧四郎・押田求馬の邸宅なりしが(中略)その代金として1,755円を交付せり。
 更に隣地武沢楠之助の邸宅を購入してこれを合併せり。(中略)宅地2374坪4勺、崖地105坪4合8勺と定められる。

 買い取ったうち武沢・筧・押田の3邸は「若宮通り」と書いてあります。松平定安は同年9月19日に、この神楽坂の新邸に入りました。
 松平家は続けて、周辺に土地を求めます。

(明治)4年12月19日には、牛込肴町において屋宇1カ所を購入し、これを質貸の店にあて…
 7年12月13日にいたり、牛込岩戸町3番地内において、本邸地に接続せる地所102坪1合6勺ならびに土蔵・納屋を購入し、翌8年3月、同町2番地(原注、鈴木重右衛門所有地)191坪9合7勺ならびに土蔵を購入せり。

 この肴町の「質貸の店」については別に記述があります。

 旧藩士中の東京に居住せる者にとり、幸いにひとつの金融機関を得、おおいに生活上に利便を受くるに至れり。

 つまり家禄を失った旧藩士を救済するための質屋でした。この店は明治9年3月10日に閉鎖し、後に別の場所で続けられました。
 また、この時代の岩戸町は神楽町3丁目の松平邸に隣接していました。ここに邸を広げたのでしょう。現在の三菱UFJ銀行神楽坂支店の裏に当たります。

明治東京全図(明治9年)松平邸付近、「花」は華族

 松平定安伯は、この神楽坂邸を本邸として過ごします。明治5年の年譜には

5月2日、松江邸の鎮守たりし稲荷社および八重垣社を神楽坂邸に安置す。

 とあります。明治16年の「五千分一東京図測量原図」では、松平邸内の最も東側(坂下側)に参道らしきものと、その周辺に社寺がいくつかあります。いずれかが「稲荷社」と思われ、これが見番横丁に今もある「伏見火防稲荷神社」のルーツです。

稲荷社 明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

 松平定安伯は一度は養子・直応に家督を譲ったものの復帰、明治15年11月に再び隠居します。

28日、(定安は後継者である)優之丞公をして、神楽坂邸に起居せしめんとし、この日来、同邸に修繕を加えし

 その直後の12月1日、別邸の根岸邸で急逝します。享年48歳。
 実子の優之丞は伯爵を継いで松平直亮と改名。貴族院議員などとして活躍しました。明治25年10月版の華族名鑑(博公書院)では神楽町に住所があります。明治26年3月版では四谷に転居しています。

 神楽坂の「出羽様」の邸跡には明治26年に新たな道路が作られ、芸者屋や料理屋が林立する花街に姿を変えました。それでも中央部に「神楽坂演芸場」があったのは、元が大邸宅だったため比較的まとまった土地が確保できたからかも知れません。牛込町誌 第1巻(大正10年)によれば、神楽町3丁目6番地の2,773.65坪の所有者は松平直亮氏ひとりでした。つまり芸者屋も寄席も地代を納めることで、四谷に引っ越した松平伯爵家の生活を支えていたのです。

牛込町誌 第1巻(大正10年)「神楽坂演芸場」

若宮八幡神社(写真)昭和44年 ID 14124~25

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14124と14125は、若宮公園(若宮八幡神社と境内)の写真を撮ったものです。写真と撮った年月日は「昭和44年頃か」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14124 若宮公園(若宮八幡神社)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14125 若宮公園、若宮八幡神社境内

 以下について地元の人は……

 同時期の昭和44年秋に若宮八幡神社を撮ったID 8245~ID 8252があります。全体の雰囲気はよく似ていますが、以下の点が違います。
 ・陽差しが違う。ID 14124-25は曇天らしく影がない。
 ・稲荷社の神前幕、内陣を仕切る木柵、三宝の供物や御幣などが細かく違う。
 これから撮影時期は異なると推測できます。
ID 14124
 写真の正面左は流造ながれづくり拝殿。左はおそらく松の木で、右は裸木。左に見える「自動車 駐車禁止」の看板は道路を挟んで向こう側の家のブロック塀にあるもの。つまり神社と公園には塀も柵もない。写真の右手前にはブランコ、奥にすべり台。数人の子どもが冬服を着ている。中央に1本の屋外灯があり、ランプは下がやや狭い直円錐で丸い傘がある。
拝殿 はいでん。「本殿」を拝するための社殿。 本殿は神のための建物。 拝殿は人間のための建物。

ID 14125
 左にブランコとすべり台。正面には摂社の「正1位稲荷大神」の稲荷神社。奥に丸紅(株)若宮寮。右側に社務所。針葉樹と広葉樹が混ざっている。
摂社 せっしゃ。神社の格式の一つ。本社に付属し、その祭神と縁故の深い神をまつった神社。本殿に祀られている神様がメインの神様(主祭神)。境内にあるほこら、つまり小さな社殿にあるのはサブの神様。サブの神様を祀る小規模の社殿を「摂社」または「末社まっしゃ」と呼ぶ。

ご維新前後の牛込

文学と神楽坂

新宿郷土研究第2号

 新宿郷土研究第2号に「ご維新前後の牛込」(新宿郷土会、昭和40年)がでています。なお、筆者は「KI生」だと書かれていますが、この本では編集者の「一瀬幸三」以外には名前は書いていません。「KI生」と一瀬幸三氏、似ています。一瀬氏は東大農学部の獣医で、満洲の動物園や雪印乳業で働き、退職後は郷土史家でした。
 江戸から明治に変化し、武士の俸禄はなくなり、そこで慣れない商売に飛び込み、また武家屋敷を茶畑や桑畑に変えた人も少なからずいました。

 士族の商法
 無血革命によって、慶応4年(1868)は明治元年と改たまり江戸は東京というようになった。
 その頃は、
 上からは明治だなどと、いうけれど、治明(おさまるめい)と、下から読む。
 上方のぜい六どもがやってきて、とんきよう(東京)などと、江戸をなしたり。

などの落首が流行した。
 徳川旗下の数万人は無祿となり地所は上地され、ちょうど終戦後の軍人と同じような境遇となった。そこで新政府へ抱えられるか、駿州(静岡)へ移住しなければならなくなった。しかし、多くは3000石以下の者でそのまま残って帰農、帰商するものが多かった。
 牛込辺も祿高の多い旗本屋敷や大名の下屋敷が多かったので、にわか商人が誕生した。それを当時『士族商人の見立番付』の3枚物が出版された。それによると、牛込辺では、
〇牛込大坂(逢坂)あまさけ大安売り
〇市谷大坂(逢坂)ろうそく
根来組八百屋の大安売り
〇牛込つくど(築土舟ばやしのつけもの
牛込御門もろみおろし
〇牛込わら店の茶店
市谷本村水油売り
 とくに評判だったのは市谷柳町通りの加賀屋敷の久貝因幡守の屋敷で豆腐屋を始めたことであった。何しろ1500石取りの豆腐屋というので、お客が恐縮して受取るということだった。
『評判武家地商人』に、
  市谷柳町
        名代とうふ
  元祖久貝亭
 と、いうは名ぶつ、風味極上、其外かんぶつ、つけ物、あら物、品は上々安うりあきない。遠近こぞってしらぬものなく、こん度元祖の大商人。
 しかし、いわゆる士族の商法として長くつづかなかったようである。

ぜい六 ぜいろく。ろくでもない奴。江戸時代、江戸の者が関西の人を嘲(あざけ)って言った呼び方。
とんきょう 頓狂。だしぬけで調子はずれなこと。あわてて間が抜けていること。
落首 らくしゅ。時局の風刺や権力者を批判、嘲笑した匿名の文章や詩歌のうち、とくに詩歌形式のものを落首という。
無祿 祿がないこと。知行・給与のないこと。
上地 領主が配下の者から没収した土地。
舟ばやし わかりません。はやし(噺)は能・狂言・歌舞伎・長唄・寄席演芸など各種の芸能で、拍子をとり、または気分を出すために奏する音楽。
もろみ 酒や醤油、味噌などの醸造工程において複数の原料が発酵してできる柔らかい固形物。
おろし 大根・わさびなどを擦り崩したもの。
水油 みずあぶら。液状の油の総称。頭髪用の椿油や灯火用の菜種油など。灯油の異称。
かんぶつ 乾物。魚、肉、海藻、野菜などを日光や熱風などで乾かし、水分を少なくした比較的保存性のある食品
あら物 荒物。ほうき・ちり取り・ざるなど、簡単なつくりの家庭用品。

□茶畑と桑畑
 牛込は屋敷を取りこわして、茶畑にしたところは意外と少くなかった。もっとも朱引内外といって、東は本所扇橋川筋を限り南は品川県境より北は小石川伝通院、池ノ端、浅草、橋場を限りこの範囲なら士族の住居を認めたことにもよるものであろう。
 それ以外に武家屋敷では新政府へ明け渡したり、取りこわされたりしたもので、勝手に処分はできなかった、当時の俚謡に、
 お江戸見たけりゃ今見ておきやれ
    今にお江戸は原となる
と、いうのがあった。
 明治2年(1869) 武家屋敷をうち捨てておくのは不経済であるというところから「桑茶を植えるべし」と、東京府知事の発令があった。
    今般東京府下民産別立之為諸邸宅上地之分御郭内外市在共総て桑田茶園開墾被仰付云々
 この当時の地価は牛込神楽坂でも千坪十円から25円位が通り相場であった。しかし、外囲いの費用がかかるので、誰れも引受け手がなかったということである。
 牛込で土蔵3ヵ所、表長屋1棟、表裏門共に16両で売り払ったという有名な話もある。
 土地はまもなく払い下げられたが、桑茶畑にならないところは便所と屋敷神としての稲荷社のみが残ってうす気味わるく、さびしいものであった。
 その頃の俚謡に、
      花のお江戸へ桑茶を植えて
         くわでいろとは人は茶に
と、いうのがあった。
(KI生)

朱引 しゅびき。江戸時代、江戸の府内と府外を地図に朱を引いて分けたもの。府内と府外の境界線。
俚謡 りよう。日本の民謡の古称の一つ。俚はいやしい、ひなびたなどの意味
桑田 桑を植えた畑。くわばたけ。
外囲い そとがこい。建造物や敷地などの周囲を囲うもの。塀・さくなど。
くわでいろとは人は茶に わかりません。