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東京盛り場風景|酒井眞人

文学と神楽坂

 酒井眞人氏の「東京盛り場風景」(誠文堂、1930)「神楽坂」です。

      山 手 銀 座
 早慶野球戦後、慶應が勝てば銀座になだれゆき、早稲田が勝てば、神楽坂にその戦捷を祝うのを常としている。いまでこそ山手銀座の名は、新宿にその名を奪われたが、その名の発祥の地はここである。神楽坂は昼より夜一時の盛り場である。しかも市内の他の多くの盛り場が、自動車、電車、自転車等殺人的往来によって、脅威されているのに、この地は灯ともし頃から夜十時すぎまで、車馬一切の通行を禁止される。すなわちこの地の表玄関飯田町の方から入ろうとすれば、道の真中に立標がたてられて、車馬の通行は禁止され、一方裏玄関肴町のところも同じく、入口の両方に立標がたてられて内の人々は安全を保證された、享楽第一のプロムナードとなる。
 夜の神楽坂は人の神楽坂だ。ことに目に立つのは、普段着のまま慢歩する夥しい人の群で、なまめかしい座敷着の芸者が、その人中を縫って、右から左、左から右へ歩む情景は神楽坂ならではみられぬ。坂を上つた左右の横町は紅燈柳影の歓楽境、絃歌ときに恋声を交えてきくのもこの土地らしく。
戦捷 せんしょう。戦勝。戦いに勝つこと。
市内 東京市なので現在にすると「都内中心部」
ともし 灯し。ともし。ともした火。あかり。ともしび。灯火
立標 りっぴょう。警戒標識。暗礁・浅瀬・露岩などの危険な場所に立てる。
肴町 この場合は現在の「神楽坂5丁目」
享楽 きょうらく。楽しみを味わう。思いのままに快楽にふける。「享」は受けるの意味
プロムナード promenade(仏)。散歩。散策。逍遙。そぞろ歩く道。散歩する所。遊歩場。
夥しい おびただしい。非常に多い。
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物。
紅燈柳影 紅灯こうとうは色町のともし火。歓楽街の華やかな明かり。柳影りゅうえいは柳の木影。
絃歌 げんか。琵琶、琴、三味線などの弦楽器に合わせてうたうこと
恋声 こいごえ。愛情の声。愛のささやき。恋の調べ。恋の囁き。

     震災後のこの地
 大震災直後は、幸運にもその火災から免れたばかりに、松屋三越、銀座の村松時計店資生堂、さてはカフェープランタン等、灰燼にかした帝都の中心は、ここに移された如く賑やったものだったが、その後三年四年のうちに、これ等の一時の出店は影をひそめて、昔ながらの神楽坂になってしまった。それのみでない。復興の帝都は、勃然と生気に満ちたを凝し、新生面を開いたが、この地は僅かに坂のわさびおろしを思わせる愉快な補道と、坂上のアスフハルト道が出来たばかり、その他、家並は昔のままで、いまから思えばいっそここも灰燼に帰したなら、更に立派になっているだろうと愚知られる
松屋 不明です。ただし、銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではありません。株式会社松屋総務部広報課に聞いたところでは、はっきりと本店、支店ともに出していないと答えてくれました。日本橋にも松屋という呉服店があったようですが、「日本橋の松屋が、関東大震災の直後に神楽坂に臨時売場をだしたかどうかは弊社ではわかりかねます」とのことでした。
灰燼 灰や燃え殻。建物などが燃えて跡形もないこと
勃然 ぼつぜん。急に、勢いよく起こるさま。顔色を変えて怒るさま。思いがけないさま。突然。
 そう。よそおい
わさびおろし わさびをすりおろすための器具。

「補道」が「わさびおろし」のようで愉快だと言っています。中村武志氏は『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)で似た話を書いています。

 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。
 つまり、御影石か木を煉瓦型に切って舗装し、その舗装が「わさびおろし」に似ていたのでしょう。
愚知られる ぐちられる。愚痴を言われる。相手が愚痴を言う時に、その内容を聞かされること。

     中心の毘沙門様
 神楽坂といえば、牛込見附の方から、急坂の四五丁の坂から坂上肴町までが、謂わゆる神楽坂であるが何んといってもその中心は、その半ばどころにある毘沙門様である。通から石柵ごしに境内がすっかりのぞかれ、お利益もあらかたに、参詣するもの跡をたたず、毎月寅と午の日には縁日だから、書き入れどきとされてある。この毘沙門様の前あたり、縁日の日でなくとも露店のすし屋が軒をならべ、坂下入口の屋台のすし屋と共に、ここの名物の一つである。
四五丁 距離の単位。一町、1丁は60間で360尺。約109メートル。四五丁は400−500メートル。
石柵 せきさく。石で作った柵。墓石を囲む外柵、神社や寺院の境内の境目の玉垣、庭園や施設の境界線の石フェンスなど
縁日 えんにち。神社や寺院ごとに定められた特定の日に参詣して神仏とゆかりを結ぶと、普段にまさる御利ごりやくがあるという日。「縁を結ぶ」とは人間との間に何らかの繋がりや絆が生まれること。東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治20年頃以後で、神楽坂の毘沙門天がはじまりという。

     牛  込  亭
 あまり広くない神楽坂は、普段着のまま散歩する享楽第一のプロムナードといったが、ここを散歩する散歩客の中には、学生、山手のつとめ人。いずれも銀座を散歩する人のように見えもなければ、普段着そのまま気紛れに見てゆこう、聞いて帰ろうという人も所詮多かろう。あまり広くないこの界隈に娯楽機関が五つ六つある。毘沙門様のすこし手前の色もの席牛込亭手踊りや浪花節席の柳水亭は今の勝岡。農災後水谷八重子がたてこもってストリンドべルクの令嬢ニリエなど演じた牛込会館は、いまは白木の支店になっている。その他神楽坂演芸場、映画の文明館牛込館。ここは最近日活館と改称せられているが牛込館の名もなつかしい。
色もの席 色物いろものとは本来の演芸以外の漫才、音曲、奇術、紙切り、曲芸、声帯模写など。本来の演芸とは講談、義太夫、落語、浪花節など。
手踊り ておどり。手だけでおどる踊。 特に、すわって手振りだけでする踊。
ストリンドべルク ストリンドベリ(Johan August Strindberg)。スウェーデンの劇作家・小説家。自然主義的な作品で、イプセンとともに近代演劇の先駆者。小説「赤い部屋」「痴人の告白」など
白木 白木屋。しろきや。1662年(寛文2)日本橋に開業した呉服店白木屋。その後、近代的百貨店に。1956年(昭和31)東京急行電鉄の経営に移り、東急百貨店日本橋店。1999年(平成11)1月に336年の歴史に幕を閉じる。

     夜  の  街
 神楽坂は夜一時の街である。灯ともし頃から賑う人の群、ショウウインドの眩さ、半玉がよく足をとめてみる小間物店助六下駄屋三味線屋、など粋な臭いをただよわせるかと思えばそれよりもうるさいほど拡声器に景気を添えているレスラントカフェー。両側にならぶ種々の露店、特に坂上の理髪店の前にあらわれるバナナの叩き売りは、この地に来ってもう十年余になり、これらの元締をなしている若松屋近藤某目貫きの大店は、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢、この店は洋食屋もやっている。また糸屋の麥屋、それに老舗のカグラ屋メリンス店。近頃どこの盛り場にも進出している明治製菓白十字、家庭向の紅谷の喫茶部、この店は山手一流の菓子屋とし、緑茶も出来る。船橋屋はりまや等、坂上の田原屋には、よく文士の影がみられ肴町近くの田原屋果物店は、傍らレストラントを兼ねて、山手では一流の料理を喰せると評判がよい。
半玉 はんぎょく。まだ一人前になっていない芸妓。すう
小間物店 こまものみせ。小間物(日用品・化粧品などのこまごましたもの)を売る店。
レスラント おそらくレストランのこと。
カフェー 本来はコーヒーの意味。コーヒーを飲ませる店の喫茶店になり、客席にホステスをはべらせて洋酒・洋食を供する昭和初期の飲食店になった。
目貫き ぬきは刀ややりの目釘。目抜きは目立ち、中心的であること。
元締 一つに統括して締めくくること。その任にあたる人。たばね役。同業者組合の統括者。
レストラント restaurant。レストラン。西洋料理を客に供する料理店。
麥屋 「麥」は「麦」と同じ。ここではおそらく「ひし」のこと。

     町中に魚屋さん
 しかしなんといっても神楽坂は普段着のすがたである。緋鹿子の半玉にはなくてはならぬよく売り込んだ三好野木村屋、カフェの草分山本等どこまでも平民的である。それと同時にこれ等の町並のなかに魚屋、八百屋等がまた盛んにお惣菜を売っているのも、道ゆく人の肩をこらしめない
 その外芸者の入る店に、末よし、古新、吉熊橋本常盤 古いすしやの紀の善、鰻屋の鳥金などがある。そばやに更科春月やぶ、おでん小料理に赤びょうたん神楽おでん。人の噂も45日、なんといつてもこの辺では恩惠をこうむっている三木武吉の愛妾のはじめた牡丹は、ここからは一寸離れていたがあのしまつ。跡は陶々亭支店になったが、ぼたんの名をかりて先のぼたんの板前が小料理屋を初めている。
鹿子がのこ 深紅色の鹿子絞り。

鹿子絞り

こらしめない 誰かを懲らしめたり、罰したりしない。例は「彼が約束を破っても、私はこらしめない」。「肩をすくめる」は「恥ずかしい思いをしたときなどのようす」
古新 正しくは吉新
三木きち 大正2年、牛込区議。大正6年、衆議院議員。昭和3年の東京市疑獄事件で失脚。昭和20年、鳩山一郎らと日本自由党を結成するも、公職追放。昭和27年、政界に復帰。昭和29年、日本民主党を結成し、鳩山内閣を実現。昭和30年、保守合同を推進、自民党を成立。生年は明治17年8月15日。没年は昭和31年7月4日。71歳
牡丹 三木武吉氏の妾は5、6人いたともいいます。そのうち誰が「牡丹」を建設したのかわかりません。また、どこに作ったのも不明です。綿谷雪氏の「江戸ルポルタージュ」(人物往来社、昭和36年)「水野十郎左衛門あばれる」の料理屋では

牛込門外、神楽坂上り口の左側——坂に面した町屋の1かわ裏で、堀の方の電車道沿いの向かって表口がありました。故代理士三木武吉氏の経営で、一時ロシア美人の女中を置いて騒がれたことがあります。
 ここでしょうか?
陶々亭 東京都日比谷公園前で大正8年から昭和39年までの中華料亭。

     なんぼなんでもね
 その他ここの盛り場は、ほんの僅かの地域に限られているため、肴町をこえて郵便局の方にまで露店も延長され、そち等にもよい店もある、牛乳屋梅原は、早稲田の学生で知らぬものはないであろうし、その先町ほどの勇幸がくやの二軒のてんぶら屋は、一つは食味を自慢し一つは、趣味の店とされている。またその半対側に、有名な公衆食堂、どぶろくや、飯塚質店ともに旧家飯塚家の経営するところ、飯塚家飯塚友治郎氏は坪内逍遥の娘おくにさんの縁家先、同じ横町にはかの芸術座のあとがあり、島村抱月松井須磨子を思う。またその先には明治文壇の雄尾崎紅葉がながく住っていたという。
 一時左傾の出版所をして名をあらわした南宋書院は肴町通り、故有島武郎の親友足助氏の叢文閣、古本屋の竹中、いま盛業をしている盛文堂武田芳進堂機山閣、そことは遠くはなるが新潮社、盛り場をひかえて知識階級者がこの近くにいることを語る。
 更にこことは別に、あの夜の雑踏を他目に9時をすぎると東京物理学校の生徒がなりふりかまわぬさまで帰ってゆくのを見る。
  土曜日なのに夜学校には灯がともっている。
  なんぼなんでもね。
と詠じた木下李太郎氏の詩を想う。
飯塚友治郎 正しくは「飯塚友一郎
おくに 写真家の鹿嶋清兵衛とその後妻・ゑつの間にできた長女「くに」を6歳の時に養女に迎えている。本屋3
東京物理学校 東京理科大学のパンフレットでは
明治14(1881)年に東京大学を卒業後間もない21名の若き理学士らにより「東京物理学講習所」として創立され、2年後に「東京物理学校」と改称。当時から、真に実力を身に付けた学生を卒業させるという「実力主義」を貫きました。その後、昭和24(1949)年に新制大学の発足とともに「東京理科大学」に改組。科学技術の発展とともに幅広い分野の学部が設置され、今日ではわが国私学随一の理工系総合大学に発展しました。

木下李太郎 正しくは木下杢太郎でしょう。

     二つの先端を行くもの
 神楽坂は、坂を中心の盛り場である。ひとしきり肩もます雑踏をこえて坂を下れれば、牛込見附にいでる。昔の御見附どころだけに青松と石崖、外濠の水と、雑沓にひきかえて閑寂たるこころをいだかしめる。しかしここの堀には貸ボートが行われ、モガモボの一組みが涼風を入れている。だがはたしてオールをにぎるモボさん涼しいかしら 汗だくてはなかろうか。ここから離れてはいるが飯田橋の玉置のダンスホールも、この盛り場をひかえての経営として書き添えておく。
肩もます 肩を揉む。肩の筋肉の緊張や凝りをほぐす
モガモボ 「モダン・ボーイ」と「モダン・ガール」。大正デモクラシー時代に流行った先端的な若い男女。
玉置のダンスホール 不明です。大正10年、紅谷菓子店を3階建てに改築し、3階はダンスホールでしたが、震災後は喫茶店になりました。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂10|商店繁昌記

文学と神楽坂

商店繁昌記
商店繁昌記

どこかでビールでも飲んで別れようといって、私達は再び元の人込の中へ引返した。この頃神楽坂では、特にその繁栄策として、盆暮の連合大売出しの外に、毎月一回位ずつ定時の連合市なるものをはじめたが、その日も丁度それに当っていて、両側の各商店では、一様に揃いの赤旗を軒先に掲げて景気をつけていた。だがこの神楽坂では、これといって他に誇るべき特色を持った生え抜きの著名な老舗しにせとか大商店とかいうものがほとんどないようだ。いずれも似たり寄ったりの、区民相手の中以下の日用品店のみだといっても大したおしかりを受けることもないだろう。震災直後に三越の分店や日本橋の松屋の臨時売場などが出来たが、何れも一時的のもので間もなく引揚げたり閉鎖されたりしてしまった。そして今ではまた元の神楽坂に戻ったようだ。ただ震災後に新しく出来たやや著名な店としては、銀座の村松時計店資生堂との二支店位だが、これは何れも永久的のものらしく、場所も神楽坂での中心を選び、毘沙門の近くに軒を並べている。そしてこの二軒が出来たために、あの附近が以前よりは明るく綺麗に、かつ品よく引立ったことは事実だ。(ところが、この二店ともその後間もなく閉されて了った――後記)
酒屋の万長、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢、糸屋の菱屋、菓子屋の紅谷、果物屋の田原屋、これらはしかし普通の商店として、私の知る限りでは古くから名の知れた老舗であろう。紅谷はたしか小石川安藤坂の同店の支店で、以前はドラ焼を呼び物とし日本菓子専門の店だったが、最近では洋菓子の方がむしろ主だという趣があり、ちょっと風月堂といった感じで、神楽坂のみならず山の手方面の菓子屋では一流だろう。震災二、三年前三階建の洋館に改築して、二階に喫茶部を、三階にダンスホールを設けたが、震災後はダンスホールを閉鎖して、二階同様喫茶場にてている。愛らしい小女給を置いて、普通の喫茶店にあるものの外、しる粉やお手の物の和菓子も食べさせるといった風で学生や家族連れの客でいつも賑っている。

松屋 不明です。ただし、銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではないようです。株式会社松屋総務部広報課に聞いたところでは出していないとはっきりと答えてくれました。日本橋にも松屋という呉服店があったようですが、「日本橋の松屋が、関東大震災の直後に神楽坂に臨時売場をだしたかどうかは弊社ではわかりかねます」とのことでした。
尾沢 カフェー・オザワは神楽4丁目の「カフェ・ベローチェ」にありました。詳しくはここで

菓子屋ではまだこの外に二、三有名なのがある、坂上にある銀座木村屋の支店塩瀬の支店、それからやや二流的の感じだが寺町の船橋屋などがそれである。だが私には甘い物はあまり用がない。ただ家内が、子供用又は来客用としてその時々の気持次第で以上の諸店で用を足しているまでだが、相馬屋と、もう一軒坂下の山田という紙屋では、私は時々原稿紙の厄介になっている。それから私に一番関係の深い本屋では、盛文堂機山閣、寺町の南北社などが大きい方で、なおその外二、三軒あるが、兎に角あの狭い区域内で、新刊書を売る本屋が六、七軒もあって、それ/″\負けず劣らずの繁昌振りを見せているということは、流石さすがに早稲田大学を背景にして、学生や知識階級の人々が多く出る証拠だろう。古本屋は少く、今では岩戸町の電車通りにある竹中一軒位のものだ。以前古本専門で、原書類が多いので神田の堅木屋などと並び称せられていた武田芳進堂は、その後次第に様子が変って今ではすっかり新本屋になってしまった。
その代り夜の露店に古本屋が大変多くなった。これは近頃の神楽坂の夜店の特色の一つとして繁昌記の中に加えてもよかろう。もっともどれもこれも有りふれた棚ざらし物か蔵払い物ばかりで、いい掘り出し物なんかは滅多にないが、でも場所柄よく売れると見えて、私の知っている早稲田の或古本屋の番頭だった男が、夜店を専門にして毎晩ここへ出ていたが、それで大に儲けて、今は戸塚の早大裏に立派な一軒の店を構え、その道の成功者として知られるに至った。
ついでに夜店全体の感じについて一言するならば、総じて近頃は、その場限りの香具()的のものが段々減って、真面目な実用向きの定店が多くなったことは、ほかでは知らず、神楽坂などでは特に目につく現象である。

塩瀬 塩瀬菓子店はちょうど山田洋傘の対面になります。現在はナカノビルでしょうか。喫茶店「Broxx」などが入っています。
船橋屋 神楽坂6丁目です。詳しくはここで
盛文堂 昭和初期、盛文堂は現在の「元祖寿司」がある場所に建っていました。(昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」を参照)。しかし、盛文堂の場所はもっと色々な場所に建っていました。助六履物から下に行った場所も1つ。また野口冨士男氏の「私のなかの東京」の中で「ついでに『神楽坂通りの図』もみておくと、シャン・テのところには煙草屋と盛文堂書店があって、後者は昭和十年前後には書店としてよりも原稿用紙で知られていた。多くの作家が使用していて、武田麟太郎もその一人であった」と書いています。
元祖寿司
機山閣 昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」では神楽坂5丁目にありました。現在は貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です。
ゴールドフォンテン
南北社 寺町は通寺町のことで、現在は神楽坂6丁目に変わりました。『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』「大正期の牛込在住文筆家小伝」では筑土八幡町9番地の南北社はあり、さらに『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」に「通寺14に系列の南北社の南北書店があった」と書いてあります。その後、通寺町14を南北社にしています。赤い四角で書いてあります。『南洋を目的に』『悪太郎は如何にして矯正すべきか』『恋を賭くる女』など、かなり本を出版したようです。現在、通寺町14は神楽坂6-14の「センチュリーベストハウジング」に。昭和5年「牛込区全図」
竹中 『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。青い四角でした。現在は東京シティ信用金庫。
武田芳進堂 戦前の武田芳進堂は神楽坂5丁目の三つ角(神楽坂通りと藁店)から一軒左にありました。場所は「ISSA」と「ブラカイルン神楽坂」に挟まれて、以前は「ゑーもん」でしたが、2014年、閉店し、現在は神戸牛と和食の店「新泉」になっています。一方、戦後の武田芳進堂は三つ角にありました。『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では≪芳進堂。金刺兄弟出版部。肴町32。「最新東京学校案内」「初等英語独習自在」など。現在の芳進堂ラムラ店≫と出ています。現在では飯田橋駅のラムラに出しています。