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神楽坂の変遷|神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事

文学と神楽坂

神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」は2004年2月29日から2005年8月12日までのブログです。作者は平松南氏。ここでは「神楽坂演芸場と落語切り絵図を検証した民俗学者坂本要さん」(2004年3月11日)を引用し、神楽坂の変遷についてちょっと触れてみます。なお、地元の人から多大な情報を頂きました。感謝します。

神楽坂演芸場と落語切り絵図を検証した民俗学者坂本要さん
新宿区の民俗」は新宿区立博物館の刊行物だ。民俗学者5人が参加して神楽坂、大久保、市ヶ谷などをしらべてまわって報告書をかいた。出版は5年くらい前だが、調査とまとめに3年かかったので、着手してから8年たつ。
「いやあ、変わりましたね」
 調査のリーダー坂本先生はしみじみと語った。当時は川崎の定時制高校の教師だったが、現在は東京家政学院筑波女子大学教授である。
「どこがかわりましたか」
「商店がどんどんかわっていますね」
 たしかにかわった。わたしが父の店をついで不二家神楽坂店の経営をはじめたのは6年前。その間わたしの店のある神楽坂1丁目だけでも、清水衣装店が廃業してモスバーガーになり、となりの元田原屋は不動産屋に、赤井衣装店はカフェに、まえのテナントビルは、ビルオーナーがかわって、すべてのテナントがいれかわわった。
 2丁目では、山一薬局がゲームセンターに、パラパラを産んだディスコのツインスターはフレンチに、うどんやがラーメン屋に、ポルノ本屋がラーメン屋に、カフェがマッサージに、——。きりがないが、5丁目は特に劇的なのでふれておきたい。芳進堂という古い書店がブティックに、漱石がかよった田原屋が廃業、江戸時代から営業していた万長も廃業——。
 神楽坂商店街は本当に変わっていく。そしてまだまだ変わる。
 この波はどこまでつづくのだろうか。
「チェーン店が増えていてわたしら中高年はさびしいけれど、わかいひとはこの方がいいんでしょうね」
 わたしの店舗は、不二家とドトールだ。両方ともナショナルチェーンである。ただ神楽坂の不二家はぺコちゃん焼という日本でここでしか買えないレア商品をもっている。ドトールも、理科大学のジャズ研究会に3階を無料で貸しだして定期ジャズコンサートをやっているし、神楽坂編集者の学校もそこで開校してきた。他のドトールにはないユニークな運営をしていている。
新宿区の民俗 6冊が知られていて、1(民俗芸能篇)は1992年3月、 5(牛込地区篇)は2001年3月、6(淀橋地区篇)は2003年3月でした。1〜4の著者は「新宿歴史博物館」、5〜6は「新宿生涯学習財団」でした。
坂本先生 坂本かなめ。筑波学院大学名誉教授。埼玉大学教養学部を卒業後、東京教育大学大学院で日本民俗学を学び、東方学院で仏教学を学ぶ。2005年、筑波学院大学情報コミュニケーション学部の教授。生年は1947年。

2000年の1〜2丁目 住宅地図

不二家神楽坂店 ⓪昭和42年(1967)に開店。ペコちゃん焼は昭和44年から。ペコちゃん焼は結局大判焼きなので、手間がかかり、不二家の中でもこの店舗だけが販売中。
清水衣装店 ①千代田区飯田橋3-2-12タキザワビル2Fに移転。清水衣装店の場所は現在「モスバーガー」に。
田原屋 ②田原屋フルーツパーラー。トレードマークが「TAWARAYA」と黒い看板と白の球。現在は不動産会社「エイブル」。
赤井衣装店 ③カフェやベーカリーの「ル・レーブ」に変わり、さらに現在は不動産仲介業「アパマンショップ」に。
まえのテナントビル ④「神楽坂スカイビル」から現在は「三経22ビル」に。中は「GIRL’S DINING BAR Canan(カナン) 神楽坂店」や「Girls Bar Luna 神楽坂 Luna」など。
山一薬局 ⑤「山一薬局」からゲームセンター「オアシススロットクラブ」に。現在はフランス生まれの冷凍食品専門店「ピカール 神楽坂店」に。
ツインスター ⑥ディスコの「ツインスター」からフランス料理「ラリアンス」に。
うどん ⑦うどんや(店名は不明)からラーメン「天下一品 神楽坂店」に。
ポルノ本屋 ⑧本屋「ブックスローラン」は成人向け書籍が主体。だが普通の本も。神楽坂の他に新宿にも店舗があった。

ブックスローラン 神楽坂(ブックカバー)

現在は「うまい中華そば 日高屋」から「俺流塩らーめん 神楽坂店」に。
カフェ ⑨喫茶「坂」からマッサージ「PrimeTreat Body & Foot」に。現在は居酒屋「食道楽」に。
芳進堂 飯田橋駅の芳進堂ラムラ店で営業中。5丁目の旧芳進堂は婦人服「イッサ」ISSAに。
田原屋 5丁目の旧田原屋は「玄品ふぐ神楽坂の関」に。
万長 酒店の「万長」から現在は「第一勧業信用組合」に。
ドトール 正確には「ドトールコーヒーショップ飯田橋神楽坂店」。地下階は不二家神楽坂店。営業時間は平日7時から22時まで。土日と祝日は8時から20時まで。
理科大学のジャズ研究会 現在は廃止。代わって「神楽坂キャンパス3号館地下防音室」で。
神楽坂編集者の学校 現在は廃止。平松南氏は講談社のOBなので、多分これを元手に講習会を行っていたもの。

神楽坂5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13161~13164

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13161、ID 13162、ID 13163、ID 13164はカメラを神楽坂5丁目に置き、東の方向(3、4丁目)に向けて撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13161 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13162 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13163 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13164 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました。写真の左端、テントの脇の太い鉄柱は「神楽坂通り/美観街」の標識です。
 そのすぐ右の「寺内横丁」に横看板が見えますが、読めません。横丁を入ったところに、住宅地図によって異同がありますが「米枡」「割烹椿」「クラブパリジェンヌ」「末っ子」などの店名が見えます。「(米)桝」と「(割)烹 椿」と見れなくもないと思います。こうした店が横丁の入り口に共同看板を出していた可能性が高いでしょう。横丁の共同看板は毘沙門横丁のID 11833にも見られます。なお「寺内」ばかりではなく「地内」という名前もありました。

 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。また、歩行者の大半がコートや外套を着ており、年代の詳細はここで話しています。

神楽坂5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. 店舗
  2. (車両通行止め)「〇〇〇」「(日曜日)祝日の(12)ー18」
  3. 横看板(寺内横丁
  4. 「(日本)盛 ニホンザカリ 特約店 万長」「Coca -Cola」「Bireley’s バャリース 万長酒店」「キリンビール」UC
  5. 日本法令のロゴマーク 届け用紙 相馬屋
  6. 第一勧業信(用)組(合)(昭和46年10月、日本勧業信用組合から改称)

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 電柱の足元に段ボール箱(家電品か)
  2. ▶電柱看板「内科 小児科 産婦人科 放射線科 阿部医院」「 加藤質店」
  3. 中河電(気) SONY (ト)リニトロン ボタ(ン)でん(わ)
  4. 週刊新潮(芳進堂)
  5. 電柱看板「川島歯科」「加藤産婦人科」
    ――地蔵坂(藁店)
  6. 「やきとり殿堂 鮒忠」「鳥の王様」「鮒忠 宴会場 2F 」「鮒」
  7. ▶「日本酒まつり 鮒忠」
  8. パチンコ おおとり 花輪
  9. 田原屋(果物と洋食屋)
  10. ▶電柱看板「斉藤医院
  11. ▶電柱看板「 丸越質店
  12. ▶公衆電話ボックス
  13. 三菱銀行
  14. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街」

住宅地図。1973年

神楽坂5丁目(写真)昭和54年 鮒忠 五十鈴 ID 11864

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11864は、昭和54年(1979年)1月、神楽坂5丁目で鮒忠や五十鈴などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11864 神楽坂 鮒忠、五十鈴前

 車道はアスファルト舗装。街灯は円盤形の時代ですが画角から外れていて、下部の「神楽坂通り」の標識しか写っていません。斜めに出ている造花は常設の飾りで、立っている竹は正月用と思われます。逆転式一方通行の向きから午後1時以降に撮ったのでしょう。
 大きく「初荷」と書いたトラックが走っています。初荷とは「年が明けて、最初に工場や倉庫など物流拠点から販売店へ向けて商品や製品が出荷されること。元々は、初売と同じく1月2日に行われていたが、今日では官公庁や多くの企業で業務が開始される1月4日に、新年の初出荷が行われることが多い。その際、昔は『初荷』と書かれた旗やのぼりをつけたトラックが走っていたが、高速道路などでの安全性の点から、現在ではほとんどなくなっている」(ウィキペディア)

神楽坂5丁目(昭和54年)(右→左)
  1. 近江屋(乾物店)
  2. ライトバン。GOLF GOODS WESTERN。自家用。この「WESTERN」のマークはスポーツバッグなどでよくありました。
  3. 中河電気(電気店)(テ)レビ/(神楽)坂店、ボタンでんわ特約店 ナショナル、Lo-D(日立製作所のオーディオブランド)
  4. トラック 「初荷」 フロントグリルに正月飾り
  5. 「文藝春秋 ロゴマーク 文春文(庫)」 芳進堂 TEL(28〇)2978、(週刊)新潮 芳進堂、宣伝用のぼり(おそらく「日立ソリッドステート キドカラー」とCMキャラクターの巨人軍・王貞治選手 少年誌の付録か)
  6. 街灯標識「神楽坂通り」。造花の飾りと竹の飾り
  7. 電柱看板「川島歯科
  8. 地蔵坂(藁店)
  9. 鮒忠、神楽坂店。「やきとり殿堂 鮒忠 神楽坂店 TEL 280-」「忘年会・新年会ご予約承ります。280-6223」「肉まん あんまん」
  10. トラック。
  11. (甘なっ)と。御菓子司。五十鈴。
  12. (パ)チンコ おおとり

地蔵坂(写真)藁店 昭和49年 田口重久氏

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の地蔵坂で、昭和49年(1974年)12月21日の写真を上げます。坂の左側は神楽坂5丁目が主で、右側は袋町が主です(地図は下にあります)。歩道はあり、下水は道路の側溝を流れ、また坂が登りになると車道は滑り止めのオーリングを使って施工しました。自動車は対面通行でした。電柱の上には細い柱上変圧器もありますが、大きなものもありました。街灯は、恐らく水銀灯でしょう。。

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」地蔵坂下から 05-10-46-01

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」地蔵坂下から 05-10-45-03 1974-12-21

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」地蔵坂下から 05-10-45-011974-12-21

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」地蔵坂上から 05-10-45-02 1974-12-21

地蔵坂(藁店)昭和49年
  1. 鮒忠 ご宴会場
  2. 電柱看板「加藤産婦人科
  3. 電柱看板「神楽坂皮膚科
  4. (理髪 モリワキ)
  5. 小林石工店
  6. 電柱看板「産婦人科 内科 外科 小児科 斉藤医院」「日本出版クラブ
  7. 電柱看板「神楽坂皮膚科」
  1. 「新たに知識を御届けする 芳進堂」
  2. あかつき(料理)
  3. 裏を向いた道路標識が一杯
  4. 電柱看板「神楽坂皮膚科 神楽坂6ー21」
  5. 電柱看板「すき焼 恵比寿
  6. 人が一杯、並んでいるのは「八百美喜」。店頭の対面売りで店には人を入れませんでした。
  7. 電柱看板「理髪 モリワキ 入口← 袋町3 」「ワイシャツ 大売出し/12月2~3日メーカー〇品」
  8. 旅館 竹兆
  9. 電柱看板「 倉庫完備 取扱丁寧 大久保 この↑さき 袋町4」

1976年。住宅地図。

神楽坂皮膚科 神楽坂6丁目21です。朝日坂に反対する場所