都々逸」タグアーカイブ

神楽坂花柳界|明治元年〜2派分裂|牛込町誌

文学と神楽坂

 牛込区史編纂会「牛込町誌 第1巻 神楽町及若宮町之部」(大正10年)「遊芸娛楽」の記録です。カタカナはひらがなに、歴史的仮名遣いは現代の仮名遣いに直しています。
 最初にまとめた表を書いておきます。

花柳界
明治元年肴町(現、神楽坂5丁目)吾妻屋洋傘店で師匠(芸妓)1名から数名に
明治2年芸妓制度の確立。芸妓家3軒から4軒に
芸妓家5軒と料理店8軒。鳶職の調停で玉代(線香一本)は25銭。花代はご祝儀で。
明治17年肴町21番地に最初の待合「稲本」。以下喜美川、誰か袖など。増える不見転。
明治29年神楽町3丁目で伯爵松平家の移転。この地は花柳界の認可地に
明治35年最初の組合。牛込芸妓屋組合(芸妓屋29軒、料理店8軒、待合18軒)
大正10年組合は2派に分裂。牛込組合と神楽坂組合(旧検と新検)

  遊芸娛楽
      神楽坂花柳界
維新前、二条松平等の大名屋敷ありて狐狸など棲息し時に通行人を誑したり事ありしと云う 此の地は僅かに50余年にして東京市内一流の繁栄地となりたるは全く当花柳界の力なりと称せられつつある 山の手唯一の神楽坂花柳界の沿革は其の出現の遠からざるに比し其の詳細を知る者少なく、為めに僅かに其の一班を記載せん

出現時代
東京妓情と云う書に云
「太鼓を叩き鈴を振り、祝詞を朗する神楽坂、豈に殺風景の歌妓あらんや、而して之あり、是れ旧より有る処にあらず、維新以後旗下の邸を開き市街となせしより、関西の健児が〇〇に猿田彦の面を挿み、行吟歩きしを以て、之を網せんとて 天の宇須女の如き婦を餌とし、開設したる楊弓店の変成に係はる、そのこと神明と一轍に出る以て 別に八ッの御耳を振り立て聞かしむべき事なしと畏み畏みのみ曰す」
とあるに依りても其の大要を知るに足らん
維新の当時曲馬師水吉の後妻お亀、始めて文字越なる芸名にて肴町吾妻屋洋傘店の処)に常盤津の師匠として軒灯を出し次で小代七(中村てつ)同じく師匠となり酒席に侍するに至れり 其の後相次で、りよ吉(文字越の弟子)小竹(小竹七の弟子)等の出現を見たり

遊芸 ゆうげい。遊び・楽しみのためにする芸事。歌舞音曲・茶の湯・生け花など
花柳界 かりゅうかい。芸者や遊女の社会。遊里。花柳のちまた
二条 不明です。
松平 神楽坂3丁目6番地でした。
誑す たらす。ことば巧みにだます。たぶらかす。
一班 第一の組。一つの班。「一端」だと「一部分」
東京妓情 現代語やその他詳細はここに。
〇〇 伏字は「股間」です。現代語やその他詳細はここ
吾妻屋 あずまや。「待合「誰が袖」|夏目漱石」の本文では「あずま屋」、説明では「ずま屋」と出ています。
常盤津 ときわづ。常磐津節。三味線音楽の1つ。浄瑠璃を語る太夫と、三味線弾きで構成する。
師匠 学問・技術・遊芸を教える人。歌舞音曲などの遊芸を教える人。
軒灯 けんとう。軒先につけるあかり。軒灯をつけるとその店が繁栄する証拠になったという。

当時の料理店
当時是等師匠の盛に出入せし料理店は
  丸金(赤城元町上野戦争当時廃業) 若松屋(今の牛込郵便局の前) 水万(今の東海銀行の処) 求友亭(水万の妹横寺町) 吉新(肴町 主として出前) 常磐(今の倶楽部の処)
当時求友亭には浅田宗伯氏、西郷南洲及其の門下の桐野、篠原の諸士及先代小団次等盛に豪遊せしものなりと、右の如く由緒ある求友亭は大正7年に廃業せり


明治2年の頃

明治2年此の地は芸妓制度定まり税金を納入する事となり、武蔵家(小代七)金魚家(りよ吉)三河家(おかめ)等の開業を見 各々抱妓数名を置き 殊に、りよ吉の抱妓鶴吉は容姿及技芸を以て盛名を走するに至り 間もなく「りかく」と称する芸妓屋開業せり

の制定
当時芸妓家5軒と料理店8軒との間に芸妓の祝儀より紛擾を来たせしより鳶職の頭取百瀬鈴吉の調停にて、線香一本金一分(25銭)の制度を設け此のー本に対し金三銭宛の手数料を料理店にて徴収する事とし祝儀は客の随意と定めたり 是れ玉制度の始めなり

西郷南洲 さいごうなんしゅう。西郷隆盛。名は隆永、のち隆盛。号は南洲。幕末・明治期の政治家。討幕の指導者として薩長同盟・戊辰戦争を遂行し、明治維新の三傑(残りは大久保利通と木戸孝允)
先代小団次 四代目の市川小団次。歌舞伎俳優。幕末の名優。機敏な動きで、早替りや宙乗りで人気を集める。「白浪しらなみ(泥棒)役者」とも。生年は文化9年(1812)、没年は慶応2年5月8日(1866.6.20)
芸妓 げいぎ。歌舞や音曲などで、酒宴の座に興を添えることを業とする女性。芸者。芸子。
抱妓 かかえこ。置屋などでかかえている芸娼妓。
 芸妓が花街で芸を披露する際に客の支払う料金は玉代(ぎょくだい)。花代(ご祝儀)は客の随意に決めた料金
紛擾 ふんじょう。争いなどで、もめること。ごたごた。
鳶職 江戸時代の消火は延焼方向の家屋を解体する破壊消防であり、町火消では家屋の構造を熟知し道具の扱いに慣れた鳶職が主力を占めた。また、神道式の結婚式、地鎮祭、棟上、竣工式では、町火消に唄われる唄(作業唄)には無病息災、家内安全、商売繁盛をもたらす力(神通力)があるという。獅子舞や梯子乗りの伝統芸能は職業として公的にないが、主に町火消(鳶職)が伝承している。鳶職は今に続いている。神楽坂では商店会に加盟していて、建築工事だけでなくお祭りの提灯や正月の松飾り、冠婚葬祭の手伝いなどをしている。
線香 花街で芸妓料金の計算に線香が1本消えるまでを単位として1本いくらと決めている。

芸妓の続出
明治八九年頃より十二三年に亘り武蔵屋に小照(伊井蓉峰の妻)小竹(待合升港の女将)金太郎(前待合藤村の女将)小〆(柳橋沢潟家の女将)小徳(行衛不明)お鯉(目黒辺で菓子店)若松家に清吉(下谷若林の女将) 松葉家お稲(下谷同町松葉家女将)等続出せり

待合の開店
芸妓の続出に件い料理店等に泊込む者の増加を来たしたるに依り、当時の牛込警察風俗係守田六重郎氏(前の待合福中の主人)は同氏実兄慶太郎氏及内縁の妻と明治17年肴町21番地(今の川鉄の脇)に稲本なる看板を掲げたり 是れ此の地待合の元祖なり。次で喜美川、誰か袖を初め 松よし、緑家、菊家、泉本、峯本、初音、金本など開業し芸妓の増加と共に所謂不見転の流行を来たせり。当時此の地にて流行せし都々逸
    倒れ掛つた爺の家を
         娘転んで建直す

花柳区域の設定
明治29年神楽町3丁目の伯爵松平家の四谷に移転するや其の地に大弓場、寄席等の設置と共に其の地一帯を更めて花柳界の認可地となり今日に及べり

牛込芸妓屋組合の設立
此の地花柳界の繁栄は組合組織の必要を生じ明治35年6月20日初めて牛込芸妓屋組合の組織を見たり
 発起人、新若松、泉家外三名、当時芸妓家は29軒なりしが内6軒は此の組合組織に意見を異し是れに加入せざりしが当時の区長土方篠三郎氏の調停に依り数ヶ月後加入して完全の組合となれり
  組合員 芸妓屋 29軒(芸妓大58名、小6名)
右時代の料理店、待合
    料理店8軒
    待合18軒(中略)

二派に分立
大正10年4月芸妓屋組合は紛擾の結果、牛込検番及神楽坂検の新旧両派に分立し料理店待合又是れに分属せり 即ち分立後の所属左表の如し(以下は要点のみ)
牛込芸妓家組合 芸妓家 144軒
        芸妓数 544人
        待合   82軒
        料理店  8軒
神楽坂検番所属 芸妓屋  14軒
        芸妓数  63人
        待合   8軒
        料理店  7軒

都々逸 7・7・7・5の26文字の定型詩。俗曲の一種。江戸末期から明治にかけて愛唱された。どんな節回しで歌ってもよかった。
不見転 みずてん。後先を考えずに事を行うこと。芸者などが、金しだいで見さかいなく誰にでもすぐに身をまかせること。
二派 「旧検」と「新検」との2派に分かれました。

花柳界
明治元年肴町(現、神楽坂5丁目)吾妻屋洋傘店で師匠(芸妓)1名から数名に
明治2年芸妓制度の確立。芸妓家3軒から4軒に
芸妓家5軒と料理店8軒。鳶職の調停で玉代(線香一本)は25銭。花代はご祝儀で。
明治17年肴町21番地に最初の待合「稲本」。以下喜美川、誰か袖など。増える不見転。
明治29年神楽町3丁目で伯爵松平家の移転。この地は花柳界の認可地に
明治35年最初の組合。牛込芸妓屋組合(芸妓屋29軒、料理店8軒、待合18軒)
大正10年組合は2派に分裂。牛込組合と神楽坂組合(旧検と新検)

牛込華街読本|いい芸妓になる方法

文学と神楽坂

「牛込華街読本」の著者は蒔田耕、出版は牛込三業会、発行は昭和12年(1937年)でした。内容は「華街心得帳その一」、「その二」、「二業側御主人へのお話」、「女中衆へのお話」、「芸妓衆へのお話」、「営業取締規則へのお話」、「どうしたら繁昌するか〔座談会〕」、「牛込華街附近の変遷史」。
 なんというか、この本は非常に公式、正式、本式に書いていますし、きちんと正座して話を聞いていた芸者であれば、高級豪華絢爛な芸者になったと思います。
 これは「芸妓衆へのお話」の一部です。なお、本のルビはほぼやめ、旧漢字は新漢字に変わり、また、多くの「御」は「お」や「ご」に変え、ほかにもあれこれ変更しています。

     営業について

 前段に申し上げましたように芸妓は立派な婦人の職業であり、しかも意義ある営業なのです。皆さんも一たんこの社会に身を投じた以上、立派な芸妓即ち名妓になるということを心がけなければなりません。皆さんが立派な芸妓になれば、土地も繁昌するということになるのであります。私どもが皆さんに対し説法じみたことを申上げたり、苦言を呈したりするのも、皆この土地、否、花柳界の繁昌を念願する外、なにものもないのであります。しからばどうすれば立派な芸妓になれるかといいますと……。

     第一 芸を勉強する事

 芸は芸妓の看板でありますから、充分に勉強しなければなりません。芸のあるは、顔や姿は劣りましても、非常に美しく見えます。殊におどりのある妓は身体からだにいろけがあっていいものです。
 お座敷で立派な芸をもっている年増さんなどで「私、流行歌や民謡など出来ないわ」など自慢らしくいっている方がありますが、あれは大変な心得違いです。芸妓は純粋の芸術家ではないのです。つまりサービス・ガールなのですから、お客様本位になんでも、お客様のお望みに応じ、おあわせるという心掛けが肝心です。
 芸術家の芸は、間口がせまく、奥行が深く、芸妓衆の芸は、奥行が浅くとも間口を広くという訳です。もっとも間口も広く、奥行も深ければなお結構です。
 以上のように芸妓に芸は絶対必要でありますが、ただこういうことをよく承知しておいていただきたいのです(これはサービスの項に属するのですが芸に関係をもつのでここに付け加えておきます)。お座敷の場合、お客様は皆さんの上手なおどりを見るよりも、自分で「東京音頭」や「鹿児島はら」を踊る方が、より以上愉快なものです。一流の姐さんの清元きよもととき磐津わずを聞くよりも、ご自分で下手な「都々どどいつ」を唄う方が愉快なのです。
 でありますから踊なり、うたなり、三味線なりで名取になるのも結構。いや、それを目標に勉強していただきたいのですが、それ以上にお座敷でお客様に唄わせるよう、おどらせるよう「ひきだすこと」。そうしてお客様を「浮きたたせること」。これが芸妓としての至上の芸術であることをお承知置き願います。

芸妓 げいぎ。歌舞や音曲などで、酒宴の座に興を添えた女性。特に芸妓は技芸と教養を併せ持つ洗練された女性。
名妓 名高い芸妓。歌舞などにすぐれた芸者。
 酒席で、音曲・歌舞などをもって客をもてなす女。芸妓。芸者。
年増 としま。娘盛りを過ぎた女性。一般に現在は30歳代半ばから40歳前後までの女性。「牛込華街読本」では22〜23歳で年増と呼ばれた。
サービス・ガール  飲食店などで、給仕や接待をする若い女性。
間に合わせる 当座の用にあてる。急場をしのぐ。
鹿児島小原 鹿児島おはら節。代表的な鹿児島民謡。歌い出しは「花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは オハラハー 桜島」
清元 清元節。浄瑠璃(三味線音楽)の流派名。
常磐津 常磐津節。浄瑠璃(三味線音楽)の流派名。
都々逸 俗謡の形式名。最も代表的な座敷歌。典型的な歌謡調七七七五型をもつ。代表歌は〈おかめ買う奴あたまで知れる 油つけずの二つ折り〉〈そいつはどいつだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク〉と調子のよい囃し詞がついている。
名取 芸道で、一定の技能を修得し、家元・師匠から芸名を許された人。

     第二 サービス第一義に心掛けべき事

 サービスと申しますと大変範囲が広い、たとえばおしゃくをするのも、話のお相手をするのも、三味線を弾くのもサービスの内ですが、私の申し上げますのは、主として精神的サービスとでも申しましょうか、臨機応変その時々によりお客様への応対についての心得についてでございます。これは師匠がございませんので、どなたも習ったという方はないのでございます。ほとんど生れつきと申すかも知れませんが、しかし自分の心掛け一つで、ある程度まではうまくなるものです。
 以下それについて御参考にならうかと思う事柄を、項を分けてお話し致します。

     (イ)遊びは気分である
 遊ぴは気分である。即ちお客様は気分を味わいにいらっしゃるのであります。そのお客様を面白おかしくご接待して、満点の気分にしてお帰りしすること。これが営業繁昌の秘訣であります。
 しからばいかにすれば、お客様のご気分を好くし、ご満足を願えるかといえば.これは非常にむずかしい。いつもきまったお客様のお相手をするのではなく、多数のお客様にお目にかかるのですから、一々お客様のご気質をのみこんで、そのお心持にそうようにしなければならないのですから、全く難問題でありますが、まずどなたにもご気分よく感ぜられるのはすべてが早いことです。

心得 こころえ。理解していること。常に心がけていなければならないこと。技芸を身につけていること。たしなみ。

     (ロ) スピード時代
 世はスピード時代であるから、早いということが第一要件であると思います。下町からこの土地へ来るのに電車で3, 40分かかったものが、今では円タクで10分か15分で来るし、関西から特急で7、8時聞かかったのが、今日では飛行機で2時間で来るという時代です。
 料理屋なり待合なりへお客様がいらっしやる、二階へお上りになって、おすわりになるかならぬに煙草盆が出る、お茶が出る、ご酒が出る、お盃を取るか取らぬに芸妓が来るというように、トントン拍子に息もっかせぬように早くゆけば、お客様は必ずこの所まではご満足なさること請け合いです。
 私どもがカフェーへ遊びにいって見ますと、外にいい所は一つもないと思いますが、腰をかけると同時に美人がサービスする、これだけでお客がくるんだなという感じがいたします。かような訳で、どうしても早いことが必要であります。
 しかるに現在の芸妓衆はこの点はなはだ不熱心であるように思います。
 現に芸妓の来方がおそくていけないというお小言を、お客様からちょいちょい伺います。お出先からも始終苦情がきます。
 全くおそいです。新旧組合合併して検番を創設いたしました時、三業者の取引規定のなかに「芸妓はお座敷を受けて20分を過ぐるも出先に到着せざる場合は、取引を受くるも止むを得ざること」というのがあったために、当時は非常に芸妓のお座敷へ行き方が早かったのです。もっとも現在でもその規定は現存していますが、なれっこになったせいか、ずるずるにおそくなってしまったようです。
 ひどいのになると、お座敷を受けて一時間も一時間半も過ぎてお出先から催促が来る、芸妓家へいくと、お詣りに行って、もう帰って来ると思ふのですが…。一寸そこまで用達しにいったのですが、もう帰ってくると思いますが…。
 おともだちと出かけたが、行先がわからない。
 かみゆいへいって、帰りにコーヒーを飲みによったとか。
 おけいこ帰りに、みつ豆をたべに行っていたとか。
いろいろの場合がある。こんな場合は、本人のわるいことはもちろんですが、家の方の所置もよくない。初めからわかっていることなのですから。受ける時検番へ断るなり、すぐお出先へことわるなりしなければなりません。

円タク 一円均一の料金で大都市を走ったタクシー。東京を走ったのは大正15年。
茶屋 待合茶屋。男女の密会や、芸妓と客との遊興のための席を貸す茶屋。
喫煙盆 喫煙具一式をのせる容器の総称。当初の形が円か楕円形の盆だった。
カフェー 大正・昭和初期で、女給のいる洋風の酒場。
出先 芸者の呼ばれる料亭や待合など。おでさき
検番 芸者と出先(待合・料理屋など)との連絡事務所。
三業者 料理屋・芸者置屋・待合の三種の業者組合。
かみゆい 髪結。髪を結う職人。
所置 処置。その場や状況に応じた判断をし手だてを講じて、物事に始末をつけること。

     (ハ)お座敷へ出るに就て
 お座敷へ出て、お客様にお目にかかる場合、第一印象が一番大切であります。唄にある「一目見た時好きになったのよ」という、あの一目みて好きになってもらうのでなければならない。最初の一目で好い感じをあたえ得なければ、あとで認めていただけるとしても、それは非常な努力と日時を要するし、場合によっては、そのお客様には永久に好きになっていだたくチャンスをつかみ得ないかもしれない。かくの如く、第一印象は大切であるのです。よく心して初めお座敷へ入った時から、態度・言語・動作に注意して、緊張してお座敷を勤めることが肝要であります。
     (ニ)お客の研究
 お客榛の研究と申しますと、何だか失礼のようですが、是非とも必要があるのです。
 多数のお客様の中には、陽気な方もあれば、陰気な方もあり、ご身分・ご職業等により種々ご気質の違うものです。またお客様もお遊びばかりでなく、真面目なご相談事などでお出でになる場合もあるのですから、その場面を見分け、お客様のお気持をのみこんで、しかるべくお気に召すようにおもてなしして、ご愉快にお帰しするのが、芸妓衆の一番大切な仕事なのです。
     (ホ)お客様との対話について
 お座敷でお客様とお話をするには、お客様の調子を読まなければならないのです。お客様の話の調子というのは、お客様によって何かのお話を得意になって、お話になる方と、ご自分はあまりお話しにならず、芸妓にしゃべらして、それをお聞きになって、喜んでいらっしゃる方とがあります。
 この得意になってお話しになる方の場合は、上手に相槌を打って、ますます話をはずませるようにすること。ただしこの場合、あまりぎょうぎょうしいおどろき方や、感心の仕方は、いい感じを与えません。そのお話の内容により、真におどろいたよう、感心したよう、面白おかしいよう、共鳴するよう、すべてわざとらしくないようにしなければなりません。
「早慶戦、まア大変な人気ね」
と話し出してみて、お客様が
「お前、どっちが好きだい」
なんて乗り出していらしゃったら、その話を進行すること。
「なに? 野球のことか」
なんて、気のなさそうなご返事をなすっていらっしゃるのに、
「私、早稲田に勝たせたいわ」
なんて話をすすめるから、
「フン」
なんてお客様は、ますます面白くない。鼻の先でお返事をなさることになります。
 また早慶戦といつたような両方対立のような場合には、初めからこのお客様が、早稲田派か慶応派かということを、よく見極めなければならないわけです。
 総じてお客様は、「ヒラバ」の上手な、調子のいい、話上手なねえさんの面白い話を聴くよりも、聞き上手な——相槌をうまくうって話を引き出す——ひとを前に、得意になって喋っている方が、より以上に愉快さを感ずるものです。
     (へ)慎まねばならぬこと
 お座敷において、芸妓同志で、お客様に関係のない、勝手な話をすること、中にも役者や、芸人の話、他のお客様の噂、おかぼれ、、、、の話を暗号でするなどに至っては、最悪のものであります。断然やめて頂きたい。
 なぜいけないかということについて、一言付け加えておきます。こういう場合におけるお客様、否、男の心理というものは、おかしなもので、自分に何の関係もなく、また何の野心も持っていない相手であっても、他の男性をほめるということは、反対に自分が侮辱されたような変な感じがするものです。つまり軽いやきもち、、、、なのです。
 お客様のお相手をするに当り、たとえば、よっぱらっても粗暴な行為をしたり、乱暴な言葉使いをしたりすることは、最も醜態です。お客様に親しむのはいいが、狂れてはいけない。どこまでも、自分は商売でよんでいただいているのであるということを忘れてはいけません。すなわち失礼な言行のないよう心掛けねばなりません。

肝要 非常に大切なこと。最も必要なこと。
ぎょうぎょうしい 仰仰しい。おおげさである。
ヒラバ 平場。芸妓などの座敷だけの業。客と売春はしない。
おかぼれ 他人の恋人や親しい交際もない相手をわきから恋すること。

 さらに「お客様との対話について」「慎まねばならぬこと」「心得て置かねばならぬこと」が続きます。

地蔵坂|都々逸と写し絵

文学と神楽坂

都都逸坊(どどいつぼう)扇歌(せんか)については…
 生年は文化元年(1804年)。没年は嘉永5(1852)年。江戸末期の音曲師。都々逸の祖として知られています。文政7年か8年に江戸に出て、船遊亭扇橋に入門。美音で当意即妙、謎とき唄や俗曲「とっちりとん」で、音曲界のスターに。都々逸坊扇歌と改名し、江戸牛込の藁店(わらだな)という寄席を中心に活躍しました。寄席の客になぞの題を出させ,その解を即興で都々逸節(七、七、七、五の四句)の歌詞にしました。やがて、江戸で一番の人気芸人となり、天保時代には上方にも出向き活躍。世相を風刺した唄も沢山ありますが、晩年には幕府・大名批判とされ江戸を追放されてしまいます。ドドイツの名前は旅の途中豊原の宿で同宿の旅芸人より聞いた神戸節の唄「おかめ買う奴あ頭で知れる 油つけずのニつ折れ そいつあどいつじゃ ドドイツドイドイ 浮世はさくさく」の調子が面白く、ドドイツとなりました。都で一番になるとの思いから「都々一」となったといいます。

江戸写し絵の都楽
 幻燈(スライド)は江戸で見世物になっていたもの。享和三(1803)年の三笑亭都楽(後に都屋都楽、本名亀屋熊吉)が江戸牛込神楽坂の茶屋「春日井亭」で写し絵を演じています。映像に語りと音曲を加えています。春日井亭はどこかは不明です。