文学と神楽坂
路地は家と家との間の狭い通路です。では一番狭い路地はどこなのでしょうか? 「ごくぼそ」の路地で、これはよくわかっています。では2番目、3番目の狭い路地は? 幅2メートルより狭い路地はどれほどあるのでしょう。
① 1番狭い路地は、ご存知、毘沙門向かいの細い路地、「ごくぼそ」の路地で、幅91cmです。地図で見てみましょう。上宮比町は将来の神楽坂4丁目になるところです。明治28年の町には何もありませんが、明治29年、ここに路地がでてきます。(新宿区『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』)

神楽坂の夜店は明治20年代に始まっているのでこれと相まってでてきたのでしょうか。大正12年(1923)関東大震災が起きます。日中戦争が始まった昭和12年には、現在とほぼ同じ大きさになります。下の左側です。昭和27年、まだ第2次世界大戦の影響が残っているのでしょうか、1つの建物が消え、路地は巨大になります。(新宿歴史博物館『新宿区の民俗』平成13年)

現在、「ごくぼそ」の路地も石畳なのですが、大きな板製の石畳になり、扇の文様ではありません。ビルのあいだなのですが、ちゃんと居酒屋もあります。
ちなみにストックホルム旧市街のMårten Trotzigs Gränd (モーテン・トロッツィグス・グレンド)という最小の路地は幅70cmです。
神楽坂通りから見た路地とその反対側は…


なお、ここではBosch(ボッシュ)のレーザー距離計GLM50 Professionalを計測では使っています。
② では2番目の路地はどこ? ふくねこ堂の横の「紅小路」で、最小で141cmです。石畳は扇の文様です。しかし、どちらも路地は小さすぎる感じがします。もう少し大きい路地のほうがよくはないでしょうか。


③ 毘沙門横丁と三つ叉横丁を結ぶ路地は名前はないのですが、狭いところで、148cmです。扇の文様です。人間はそんなに多くはいない場所なので、特に148cmでは多くはなく、下の石畳を眺めていると、かなり気分がいい場所なのです。

④ 別亭鳥茶屋横の階段「熱海湯の階段」は最小160cmで、この階段の上は石畳ですが、扇の文様ではありません。階段はコンクリート製です。和食やバーがあります。
面白いのは坂の両端は2メートル以下ですが、階段がある場所はむしろ横幅は大きくなっていることです。258cmもある所です。事故があるとやはり小さくはできないということでしょうか。


⑤ 兵庫横丁の和可菜前173cm、料理幸本前は172cmです。北から来ると、路地は曲がり、それまでは大きな路地が急に先が見えなくなります。この先はどうなっているのか、興味深々です。でもなかにはなにもありません。先が見えない路地はこことかくれんぼ横丁だけです。
以上、幅2メートル以下の路地でした。
文学と神楽坂
袋町の一平荘が建っていた場所は、はたして幡随院長兵衛が殺された場所なのでしょうか? 一平荘はそういっていたようですが。結論を言えば違います。
幡随院長兵衛は江戸時代の町人で、生まれは元和8年(1622年)、死亡は明暦3年7月18日(1657/8/27)です。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖とも言われました。彼と水野十郎左衛門はどちらも「かぶき者」でした。ウィキペディアによると「かぶき者もの(傾奇者・歌舞伎者とも表記)」とは「戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮で、異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと」です。
また東京都教育庁生涯学習部文化課の『東京の文化財』で文化財講座「かぶき者の出現と幡随院長兵衛殺害事件」についてこう書かれています。
(「かぶき者」は身分の低い中間・小者・草履取・六尺など武家奉公人を指すのが普通ですが)同様の意識と行動をとった旗本もおり、彼らは「旗本奴」と呼ばれ、四代将軍家綱の時代には古屋組・鶺鴒組・大小神祇組などのグル一プを結成していました。一方、町人の間からは旗本奴に対抗して「町奴」が生まれ、唐犬組・笊籬組などが組織されました。 両者は江戸市中を横行し対立を深め、特に三千石の旗本、水野十郎左衛門が町奴の幡随院長兵衛を斬り殺した事件は、両者の対立の激しさを物語るものとして有名です。 その殺害事件は明暦の大火から半年たった明暦3年(1657)7月18日に起こりました。水野十郎左衛門の町奉行への申し出によると、その日、水野の屋敷に幡随院長兵衛が来て、遊女町に誘ったが、水野が用事があるので断わると、臆病者のような無礼な言い方をしたので、斬り捨てたというものでした。これか記録に残るこの事件の全容ですが、水野の言い分しか残っていないので、事件の真相は不明です。しかし、一説には長兵衛と水野十郎左衛門とが鞘当をして、長兵衛に恥をかかされた水野が恨みに思い、長兵衛を自宅に招いて風呂に入れ、裸になったところを搦め取り殺害したという話も伝えられています。 この事件は武士こ対する町人の抵抗を示すものとして、のちに芝居や講談で美化され人気を博し人々によって語り継がれてきています。しかし幡随院長兵衛の事蹟や伝記については確実な資料が乏しく彼の経歴は不明なところが多いのです。 |
歌舞伎では、これを元にして「幡随院長兵衛精進俎板」や「極付幡随長兵衛」などを作りました。
この一平荘が建っていた場所は殺害があった水野屋敷が建っていた場所だと言われました。しかし、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』が正しいのです。水野屋敷が建っていた場所はこの本によれば別で、西神田1丁目11番地なのです。しかし、殺害の場所、西神田1丁目11番地は現在なく、西神田小学校も西神田コスモス館になりました。まあ、水道橋に近いところで殺害し、ここ神楽坂や袋町ではなかったと覚えておけばいいでしょう。
文学と神楽坂
切支丹の仏像について。
雑誌『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会でこの話が出てきます。
糸山氏
袋町・光照寺住職 |
それから神田の紀伊国屋という旅龍の主人が旅先で亡くなった人々の供養のために建てた「諸国郡邑旅人菩提碑」という碑とか、石に刻んだものですが、切支丹の仏像といわれるものもあります。これは額のところに菊で十字が刻んであったり、桐安(きりあん)というような戒名や、台座には寺という字も刻まれていて、切支丹が供養のためにつくったのではと言われています。 |
これを調べました。まず芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)ではこうなっています。
キリシタン遺物と思われる碑 光照寺墓地西部に、キリシタンの遺物と思われる観音像がある。高さ約六〇センチほどのものであるが、像は如意輪観音の思惟形で、光背浮彫り、宝冠に花菱クルス紋をつけている。 左背面には、安永七戌年四月二三日桐屋とあり、台座に桐安とある。これは霊名のキリヤ、キリアンではなかろうかという。また、蓮台の中央にただ一つ「寺」と刻まれているが、これはエケレジア教会(南蛮寺)を意味するのであろうという(五三・市谷三七・新宿21参照) [参考]江戸切支丹
芳賀善次朗著『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社、昭和47年)
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現在は諸国旅人供養碑のひとつのようです。

でも知りたいことは新宿歴史博物館に聞くのが、一番です。答は…
光照寺の「切支丹の観音像」については私も見たことはありません。芳賀さんの本は、ご存知のように昭和47年の刊行と古いものなので、言われるように整理されてしまった可能性が高いと思います。ただ「諸国旅人供養碑」については、六字名号の石碑がそれで、文化財になっています。これを取り巻くように配置された周りの墓碑は無縁墓ですので、その無縁墓の中に、「切支丹の観音像」が含まれている可能性は高いと思います。 ちなみに、この時期やたら切支丹との関係を強調する論調が多い印象があります。切支丹灯籠は単なる織部灯篭だと言われるように、個人的には、切支丹との関係を実証することは無理だと考えています。
新宿歴史博物館 今野
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私も「切支丹との関係を実証することは無理」だと思います。女性の墓なのでしょうか。よく似たものもありました。
文学と神楽坂
雑誌『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会で由比正雪の抜け穴についての話が出てきます。糸山氏は袋町・光照寺住職、山本氏は袋町・山本犬猫病院、小林氏は神楽坂5丁目・小林石工店、司会は日本出版クラブの大橋氏です。
糸山氏 うちに深い井戸があるんですが、明治のはじめに井戸替えをしたら横に穴があったので掘っていったら百メートルも向うの南蔵院の本堂に出て、そこで碁を打っていた人に、ここは地獄ですか、極楽ですかと聞いたら、極楽だって言ったという話が伝わっているんですがね(笑い)
山本氏 出版クラブで最初の建物を建てるとき、東京芸大の内藤先生が調査にいらして、敷地の古井戸に石を落として深さを計ったんですが、四、五十メートルではきかなかったような気がします。そのとき丸橋忠弥とか由比正雪の抜け穴の話なども出ましたが、やはり真実とは違うようです。
小林氏 うちの隣の森さんがビルを建てたたとき、横穴がぽこんと出てきたのを初めて見ました。真四角で人間が這って通れるような。これがみんなのいう牛込城に抜ける穴かと。
糸山 麹の室という話もありましたが。
小林 でも、それであんなに深く掘るもんでしょうか。
司会 よく、南蔵院へ抜けるとか、筑土八幡に抜けるとか、どこかに埋蔵金があるというような話が出てきますね。このあたりは牛込城の城跡ですし、江戸期にはそれなりに栄えたところで、高台だけに穴があって抜けられるというような話が生まれやすいところでもあるんでしょうね。
小林 うちの先祖代々の言い伝えでは、どこかに金の茶釜が埋まっているというので、終戦後、がれきの中から本気になって探したそうです。
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昭和43年、新宿区教育委員会の『新宿の伝説と口碑』では
13.由比正雪の抜け穴
[時代]江戸時代
[場所]袋町 光照寺 神田連雀町(今淡路町)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいた楠不伝の道場をまかせられて、光照寺のところに移ってきた。 明治末のことである。光照寺の井戸替えをしたところ、井戸の途中に横穴が見つかった。その横穴は、150メートルも離れた箪笥町の電車通りにある南蔵院まで続いていたという。 昭和32年、光照寺の西北の日本出版クラブの建築工事の時、地下10メートルほどの所に、ぽっかり大きな横穴が出てきた。穴はかなり奥深くまで通じているらしかったが、危険なのと薄気味悪いので誰も奥に入ろうとはしなかった。また江戸時代初期の徳利や實永通宝、その他の古銭などが発掘された。 そこは、江戸時代は旗本奴で有名な水野十郎左衞門の邸跡だから、その地下牢だろうという説が出たが、ここは水野邸跡でないことが分かった。それではやはり光照寺境内から続ている由比正雪の抜け穴だということで話題をまいた。 [原典] 毎日新聞 昭和32年10月17日連載記事「武蔵野の城あと」No16牛込 [解説] 明治末にここに抜け穴があったと伝えられたのは井戸替えしていた職人の1人が、休憩中に南蔵院に遊びに行き、碁を打って遅くなったので、横穴をたどって行ったとうそをついたことがもとで広まった話である。 昭和32年の時は、それが抜け穴でないなら麹室だとか、牛込氏の貯蔵庫(光照寺跡一帯は牛込氏館跡であることから)だとか、いろいろ話題でにぎわったのである。 江戸研究の綿谷雪氏は「続江戸ルポルタージュ(昭和36年6月) 人物往来社」の中でつぎのように書いている。 『夢想家の彼にとって、もっとも似つかわしい秘密工作であったとみてよろしいのではあるまいか。 抜け穴は、城にはつきものである。城によっては実現したかもしれないが、秘中の秘だから記録は全く残っていないし、軍学者の築城術の本を見ても、どこにも抜け穴という項目はない』と。 しかし、由比正雪が幕吏の目をくらませて、世間に知られないように抜け穴などが掘れたものであろうが、もしも掘れたとすれば、その掘り出した土の処理を、世間に分からないように処理することができたであろうか。 |
昭和47年、上の本を書いた芳賀善次朗氏は『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社)を書きます。そこでは
由比正雪の抜け穴 光照寺には、由比正雪の抜け穴があったと騒がれたことがある。 神田連雀町(今淡路町内)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいた楠不伝の道場をまかせられて光照寺境内に移ってきた。正雪はのちに榎町に移ったが、正雪が住んでいたことから結びつけたものである。 明治の末ごろのこと、光照寺で井戸替えをしたところ、井戸の途中に横穴が見つかった。その横穴は150メートルも離れた箪笥町の大久保通りにある南蔵院まで続いていたというのである。 これは、井戸替えしていた職人の1人が、休憩中に南蔵院に遊びに行き碁を打って遅くなったので、「横穴をたどって行った」とうそをついた事がもとになって広まった話であり、罪なことをいったものである。 ところが、昭和32年、光照寺の西北に日本出版クラブが建築工事をした時、地下10メートルほどの所に、ぽっかり大きな横穴が出てきた。穴はかなり奥深くまで通じているらしかったが、危険なのと薄気味悪いので誰も奥に入ろうとはしなかった。そこから江戸時代の初期の徳利や寬永通宝、古銭なども発掘された。 そこは、江戸時代は旗本奴で有名な水野十郎左衞門の邸跡だから、その地下ろうだろうという説が出たが、そこは水野邸跡でない。だからやはり、光照寺境内から続ている由比正雪の抜け穴だとか、麹室だとか、牛込氏の貯蔵庫だとか、いろいろな話題でにぎわったものである。 由比正雪を研究し「夢想家の彼にとって、もっとも似つかわしい秘密工作であったとみてよろしいのではあるまいか。 抜け穴は、城にはつきものである。城によっては実現したかもしれないが、秘中の秘だから記録は全く残っていないし、軍学者の築城術の本を見ても、どこにも抜け穴という項目はない」 しかし、由比正雪が幕吏の目をくらませて、世間に知られないように抜け穴などが掘れたものであろうか、もしも掘れたとしても次の掘り出した土の処理を、世間に分からないよう処理することができたであろうか疑問である。 [参考] 続江戸ルポルタージュ 新宿と伝説 |
文学と神楽坂
正保2年(1645)、牛込城の跡地に神田元誓願寺前(現・千代田区神田須田町一丁目)から光照寺が移転してきました。
また、光照寺の子安地蔵(木造地蔵菩薩坐像)は鎌倉時代の仏師・初代安阿弥(快慶)作といわれています。元は近江(滋賀県)の三井寺にあったのですが、江戸時代に芝・増上寺に移動、正徳年間(1711~16)に増上寺の末寺である光照寺に安置されました。
これが地蔵坂という名前になったのです。芳賀善次郎作の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』三交社、昭和47年(1972年)によると
十二 化け地蔵の出た地蔵坂 (袋町) 毘沙門天の先を左折する。そこを進むとまもなく坂になる。右側の松竹荘一帯は、戦前牛込館という映画館があったところである。 ここからの坂道を地蔵坂というが、その地名由来にはつぎのような伝説がある。 この坂には、夜になると時々地蔵様が上ったり下りたりする。この地蔵、人に出会うと声をかけたり、入道姿になって笑い出したりするので近所の人は怖がって夜になると通らなかった。
これは、坂上左手にある光照寺境内にすむタヌキの化け地蔵であった。光照寺には、鎌倉時代の名作、初代安阿弥作と伝える子安地蔵(延命安泰地蔵)が安置してある。昔はお産と子どもの病気に効験があると人気があり、寺は参詣者でにぎわった。 ところが 光照寺境内榎林の中にすんでいるタヌキどもは、寺にくる参詣者があまりにも多いので、めったに穴から外に出られない。何とかしてこの人たちが来ないようにと考えた一策だったという。 享和のころ(一八〇一~三)、近くの払方町に住んでいた武士がこれを聞いて、日暮れにこの坂を通ってみた。ところが案の定、地蔵様が錫杖(しゃくじよう)をガジャンガジャンと突きながら坂を上ってくる。武士はこれこそ例の化け地蔵と思い、すれ違うや否や刀を抜いて切りつけた。するとその地蔵、とっさに持っていた錫杖でこれを受け止めた。武士はまた切りつけようとすると、こんどは「これこれ何をなさる」と声をかけられた。 よく見ると、それはタヌキではなく、日ごろ懇意にしていた仲間だったのである。武士はわけを話し、自分の粗忽をあやまったということである。懇意な仲間に化けたのか、本物の仲間かは分らないが、この話を伝え聞いた人たちは、それ以後ここを地蔵坂と呼ふようになったという。宝歴年間の「鶏鳴旧蹟志」(著者不明)という本に出ている話である。 [参考] 江戸の口碑と伝説 新宿と伝説 |
松竹荘 これは現在の神楽坂センタービルに当たります。
昭和44年、新宿区教育委員会の「新宿と伝説」によれば
光照寺の子安地蔵は、延命安泰地蔵ともいう。鎌倉時代の名作で、初代安阿弥の作だと伝えられている。 この地蔵は、もと三井寺にあったもので、後宇多天皇(鎌倉時代。在位1274-87)の皇后がご難産で苦しまれた時、京都中の名僧を集められて、ご安産を祈られたのであるが、あまりおもわしくなかったという。ところがある夜、皇后の枕べに白髪の翁が現れ、「ご難産でお困りのことでしょうから、これをさしあげましょう」といわれ、夢からさめた皇后の手に1つの宝珠があったという。するとまもなくお苦しみが薄らぎ、玉のような皇子をご安産なされたという。その後、この地蔵は、どうした因縁か、三井寺から芝の増上寺に移され、さらに光照寺に安置された。 昔は、お産と子供の病気に効験あらたかだというので参拝者がたえなかったといわれ、この伝説は、この子安地蔵に結びつけた創作であろう。 |
文学と神楽坂
袋町に非常に綺麗な料亭「一平荘」がたっていました。いいたいことはわかっています。倉本さんの「拝啓、父上様」の主人公は一平です。しかし、この一平荘と関係はありません(多分)。
『ここは牛込、神楽坂』第12号「お便り投稿交差点」に素晴らしい手紙があります。以下引用です。
坂の上のまちの思い出 船橋市 西 幸子 昭和19年7月、太平洋戦争は遂にサイパンが陥落し、負け戦を認めざる得ない事態に追い込まれた。東都空襲間近しと言われ、疎開が始まった。故郷のある人が羨ましかった。神楽坂は軒並み店を閉め、愛日小学校も月はじめから自宅待機となった。そして遂に、隣組を挙げてのお別れ会となったのである。お互い、光照寺の境内に銭湯ほどの防火用水槽を掘り、べたべたコンクリートを塗り付けた仲間である。お寺の庫裏の大釜でごはんを炊きあげ、たくさんのお握りを作った。お握りはプラチナのように光っていた。苦心して集めた白米であった。子供たちはうれしそうに周りをうろうろ。 隣組の一員でもある料亭一平荘の広間が提供され、十家族が顔を揃えた。配給のお酒を飲み交わし料亭心尽くしの肴をつついて、この日は國民服やもんぺの生活を忘れたのである。 一平荘は、もと旗本の水野十郎左衛門の屋敷跡といわれ、立派な歌舞伎門が光照寺前にあり、奥深く、さるすべりが美しかった。広い庭では、昼は山鳩が啼き、夜は梟の声も聞こえた。幡随院長兵衛が謀殺されたという風呂場は当時まで残してあったという。少し前までは、夕方、打水をした石畳を、神楽坂のきれいどころが、三味線箱を担いだ男衆を従えて出入りする絵のような光景が見られたが、その頃になると塀に軍馬が繋がれ、長剣を光らせた軍服姿が入っていくという状態に変わっていた。隣組の連中のほとんどが初めての料亭だったと思う。場所柄、花柳輔八さん、長唄の勝喜賀さんがおられ、お決まりの軍歌のあとは隠し芸ならぬ玄人の芸を堪能されてもらった。一平荘の綺麗なお内儀も、清元の「北州」を披露され、一同大いに盛り上がった。 そしてその翌日、皆は信州へ、秋田へ、新潟へと、散り散りに別れて行った。(略) 袋町は、翌20年の4月と5月、通りを挟んで2回にわたって焼失した。袋町から北町、中町、砂土原町、市ヶ谷にかけては、うっ蒼と樹木が茂る江戸時代からの屋敷町だったが、何とも惜しい焼失だった。 |


線画は昭和12年の「火災保険特殊地図」です。「割烹 一平荘」と大きく書いてあります。
また、絵は巴水の昭和東都著名料亭百景「神楽坂一平荘」です。
前面の踊り場は道路から1メートル以上離れて、視線を遮る門塀まわりがあり、しかし閉鎖感をやわらげ、床仕上げにはおそらく石。門構えを入ってもまだ大自然があります。いい感じに作っています。
また『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」では座談会を行っています。司会は日本出版クラブの大橋祥宏氏、袋町・光照寺住職の糸山氏、袋町・山本犬猫病院の山本氏、袋町・三和商店の吉野氏です。
司会 出版クラブのところにあった一平荘というのは、そのとき焼けたわけですね。
糸山 ええ、戦災で焼けて、その後、税金が払えなくて物納したとか。その跡が市ヶ谷商業の運動場になったんです。
山本 私は一平荘で結婚式をしたんです。昭和18年だったと思いますが。
吉野 私もそうです。やはり18年にここで。
山本 私はそのまま出征したんです。あの一平荘は別のところにできた一平荘とは関係ないんですよ。
糸山 ここにあった一平荘は上野に移りましたが、税金が払えなくて、精養軒に売ったそうです。
司会 一平荘の中をのぞいたことはありますか。
糸山 この会館の前の銀杏の木の横に大きな酒樽があって、それが茶室になっていたんです。
吉野 ええ、そうでした。
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別のところにできた一平荘 昭和55年まで現在の若宮町「割烹加賀」の場所にありました。昭和59年までにはなくなっています。

日本橋に「一平」という料理店があります。昭和4年から神楽坂で日本料理の料亭「一平荘」をしていたようです。これが本当ならば創業は昭和4年でしょうか。
文学と神楽坂
袋町の名前はどうして付いたのでしょうか?
まずウィキペディアを見ます。「坂上は牛込北御徒町(現・北町)に入るところで御徒組の門に突き当たり、袋小路となっていたため袋町と呼ばれた」と書いてあります。なるほど。でも、間違いなのです。
北に行くS状の坂は戦前にはなかったわけすが、南に行くのは? 南に行くのは全く問題なく行ける。袋小路はどこにもなく、ウィキペディアのように袋町という理由はありません。

やはり地図を見てみます。延宝年中(1673~81年)にできてきます。ただし、現在のように大きくはありません。ごくごく小さな小さな場所を2つとっています。

明治2年、牛込袋町と牛込光照寺門前を合併し、牛込袋町となり、さらに明治5年、近隣の旧武家地や光照寺境内などを併合し、明治44年、現在の袋町になります。牛込袋町になったのは明治以降です。
昭和51年の「新宿区町名誌」によれば「藁店横町の奥で袋地になっているので袋町になった」と書き、平成22年の「新修 新宿区町名誌」では「肴町の横町で袋道であるため、袋町と名付けた(町方書上)」と書かれています。町方書上では「肴町横町ニ而袋道ニ御座候」と書いています。なお、「袋地」と「袋道」では意味が違い、「袋地」とは、他人の土地に囲まれて、公道に出られない土地のこと。「袋道」は「袋小路」に同じです。つまり、江戸時代の袋町と明治の袋町についてその説明は全く違うのです。この「袋町」は明治時代ではなく、江戸時代の言葉です。
新宿区歴史博物館学芸員の北見恭一氏は『まちの手帖』でこう書いています。
行き止まりで通り抜けできない町、周囲を他人の土地に囲まれた所という意味ですが、この場合も地蔵坂を上った奥にあるためこう呼ばれたのでしょう。江戸時代の袋町は、光照寺に接した狭い町で、明治二年(1869)に光照寺及び門前町と合併して現在の袋町ができました。 |
北町と接する大きさは江戸時代では全くありません。
文学と神楽坂
光照寺です。はいる手前で右手は光照寺の碑、左手は新宿区登録史跡があります。場所はここです。

光照寺
(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録史跡
牛込城跡
所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日 昭和六十年十二月六日
光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。 堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。 牛込氏は、赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文年間(一五三二~五五)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文二十四年(一五五五)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正十八年(一五九〇)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取壊された。 現在の光照寺は正保二年(一六四五年)に神田から移転してきたものである。 なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」、「便々館湖鯉鮒の墓」などがある。
平成七年八月 東京都新宿区教育委員会
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では中に入ってみると最初に鐘楼堂が見えます。やはり説明文が出ています。
光照寺は慶長八年(一六〇三年)浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺寺町に起立、正保二年(一六四五年)ここ牛込城跡に移転してきました。徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、開基の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名から由来するものです。 鐘楼堂は、明治元年(一八六八年)神仏分離令の発布に伴って各地に起こった廃仏毀釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)の難により取り壊されたと伝えられています。その後、六十年の歳月を経て昭和十二年(一九三七年)に復興を見ましたが、昭和二十年(一九四五年)第二次世界大戦中に空襲を受け旧本堂と共に焼失しました。 梵鐘(富樫むら殿寄進)は、戦時中供出されていたため戦災を免れ、戦後光照寺に返還され永く境内に保存されていましたが、この度の鐘楼堂の新築により復元しました。
平成五年(一九九三年)一月 浄土宗 光照寺
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拝啓、父上様では第9話で出てきます。
石畳の道
除夜の鐘がゴーンと、神楽坂に流れる。
語「2007年の元旦を、僕は1人でアパートで迎えた。
地蔵坂にある光照寺から響く除夜の鐘が、神楽坂一帯に流れており」
神楽坂・裏路地
門松。
しんと眠っている。
語「拝啓。
父上様。
除夜の鐘です」
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では左側から右側に見ていきましょう。まず、Google航空写真です。

①最初は左奥にある諸国旅人供養碑です。
(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録有形文化財 歴史資料 諸国旅人供養碑
所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日 昭和61年6月6日
神田松永町の旅籠屋紀伊国屋主人利八が、旅籠屋で病死者の菩提をともらうため、文政八年(一八二五年)に建立した供養碑である。 はじめは、文政二年(一八一九)から建立までの七年間に死亡した六名の名が刻まれ供養されたが、その後死亡者があるたびに追刻され、安政五年(一八五八)まで合計四十九名の俗名と生国が刻まれた。 当時は旅先で客死する例が多く、これを示す資料として、また供養塔として貴重なものである。 なお、当初は「紀伊国屋」と記した台座があったが、現在は失われている。
平成七年八月 東京都新宿区教育委員会
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②狂言師「便々館湖鯉鮒の墓」は諸国旅人供養碑のすぐ右奥に建っています。
 (文化財愛護シンボルマーク) 新宿区登録史跡 便々館湖鯉鮒の墓
所 在 地 新宿区袋町15番地 登録年月日 平成二年三月二日
江戸時代中期の狂言師便々館湖鯉鮒は、本名を大久保平兵衛正武といい、寛延二年(一七四九)に生まれた。 幕臣で小笠原若狭守支配、禄高一五〇俵、牛込山伏町に居住した。 はじめ朱楽菅江門下で狂歌を学び、福隣堂巨立と名乗った。 その後故あって唐衣橘州門下に変り、世に知られるようになった。 大田南畝と親交があり、代表作「三度たく 米さへこはし やはらかし おもふままには ならぬ世の中」は、南畝の筆になる文政二年(一八一九)建立の狂歌碑が西新宿の常圓寺にあり、区指定文化財に指定されている。 文化一五年(一八一八)四月五日没した。享年七〇歳であった。 墓石は、高さ一五二センチである。
平成三年一月 東京都新宿区教育委員会
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なお、大田南畝、別号は蜀山人はここで転んだら子供が手をたたいて喜び、そこで狂歌を1句詠みました。
こどもらよ笑はば笑へわらだなのここはどうしょう光照寺前 |
③これから少し前に行くと、奥右筆の「大久保北隠」の墓があります。石庭のようにいくつもの石が並べてあり、一見して墓には見えません。徳川家の奥右筆であり、茶道の奥義を極めた大久保北隠の石庭風の墓です。大正6(1917)年没、享年81歳。 奥右筆という肩書きについて右筆とは、武家の秘書役を行う文官のこと。徳川時代には一般行政文書の作成を行う既存の「表右筆」と、将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う「奥右筆」に分かれます。特に奥右筆は表右筆より一段上の位です。将軍への文書取次ぎは側用人か奥右筆のみが行なうことになっていました。 
④さらに右に進みます。
本堂の奥に三角形の形をした奥田抱生墓があります。その墓碑には奥田抱生の一生を概略を漢文で書いたものです。 奥田は文政8(1825)年10月10日生まれ、儒学者奥田大観の子であり、儒大観に学び、文教家で金石学研究家。魚貝や書画骨董を収集し、漢詩漢文を教え、上京して牛込に住み読書・旅行・古器物の研究し、考古学の先駆者です。 著書には「今瓦譜」、「日本金石年表」、「明清書画名家年表」など。 昭和9(1934)年没、享年75歳。
さらに中央に進みます。 

⑥森敦は作家で、明治45年生まれ。昭和49(1974)年、61歳で芥川賞を「月山」で受賞しました。平成元年没。享年76歳。右側にある碑文は
われ浮き雲の如く
放浪すれど こころざし
常に望洋にあり
森 敦
⑦本堂左側に東京都教育委員会が案内板2枚を書いています。
 (文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 彫刻 木造地蔵菩薩坐像
所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日 平成9年3月7日 寄木造り、黒漆塗り。像高三一センチ。一三世紀末(鎌倉時代)の作品で区内でも最も古い仏像彫刻のひとつである。 寺伝によると、この像はもともと近江国三井寺にあり、後宇多天皇の皇后が弘安年間(一二七八~八八)に、のちの後二条天皇を出産する際、難産であったため、この像に祈ったところ無事出産されたところから「泰産地蔵」と呼ばれたという。江戸時代には芝増上寺に移され、正徳年間(一七一一~一六)に増上寺の末寺である光照寺に安置され、「安産子育地蔵」として信仰をあつめた。光照寺前の地蔵坂はこの像に因むものである。
 (文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録有形文化財 彫刻 木造十一面観音坐像
登録年月日 平成9年3月7日 一木造り、素木仕上げ。像高七〇センチ。一八世紀末(江戸時代後期)の作品で作者は木食明満である。明満(一七一八~一八一〇)は、円空とならび称される像仏聖で、全国を旅して鉈彫りの仏像を約千体彫ったと伝えられる。 平成九年五月 新宿区教育委員会 |
地蔵坂のいわれになっている子安地蔵は本堂に安置しています。子安地蔵は別の場所で書いています。
 (文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 絵画 阿弥陀三尊来迎図
所 在 地 新宿区袋町十五番地
指定年月日 平成十年二月六日 絹本着色、木製の板に貼り付けられた状態で、厨子に納められている。縦一〇二・二センチ、横三九・四センチ(画像寸法)。 画面左上から右下に向かって、阿弥陀如来が観音・勢至の二菩薩を従えて来迎する(臨終の床についた者を極楽に迎えるために降りて来る)様子を描いたもので、一四世紀後半(室町時代)の作品と推定される。
 (文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 絵画
法然上人画像
指定年月日 平成一〇年二月六日 絹本着色、掛軸装されている。縦八九・五センチ、横四一・三センチ(画像寸法)。 浄土宗の宗祖法然上人の肖像で、一五世紀後半(室町時代)の作品と推定される。 平成一〇年三月 新宿区教育委員会 |

⑦自動車が駐車する場所で光照寺の鐘楼堂の右隣には「海ほおずき供養塔」が建っています。昭和16年7月に東京のほうずき業者が建てたものです。 海ほおずきとはテングニシという巻き貝の卵嚢です。この卵嚢を口に入れてキュッキュと音を出して遊びます。神楽坂の縁日で飛ぶように売れたため業者が供養しました。 ここの檀家にその業者がいて、そこで都内販売同業者41店主が発起人になってやることになり、毎年7月の浅草でほおずき市が終わると供養をしていました。現在住職がひとりで盆に供養しています。
⑧最後に右奥にある出羽の松山藩主(山形県飽海郡松山町)酒井家(大名家)の墓です。広さ150坪におよびます。現在は出入りはできず、外から内部を覗くだけです。 
お知らせとお願い
此れより先立ち入り禁止
墓石が古く、先の東日本大震災により1部転倒し大変不安定
で危険になっております。
関係者以外立ち入りを禁止いたします。
当山住職
平松南氏は 「神楽坂をめぐる・まち・ひと・出来事」の一章でこう書いています。
光照寺の住職は、代々直系が継承している。現在のご住職とは、神楽坂まちづくりの会のイベントのときにお寺を拝借した関係で、会員たちがいろいろお話しをさせてもらった。そんな会話のなかで、7年前のこと、ご住職からこんなはなしを伺ったことがあった。酒井家の子孫がキリスト教に改宗したため、光照寺にある43基の墓石群が宙に浮いてしまったというのである。通常これだけの墓があれば、酒井家の子孫はお寺に対しては多額の管理費を収めることになろう。しかしクリスチャンになった現在の子孫は、現在酒田市にある致道博物館の館長になっていて、山形県松山町に酒井家の小規模なお墓も持っているそうである。 寺院経営の観点からすれば、都心にある光照寺の墓地用地は大変な資産価値がある。この酒井家の墓石群を撤去して、墓地にして売り出したら、相当な金額のお金がころがりこむ。もし酒井家が光照寺にある祖先のお墓の墓守をしないなら、いっそ撤去してほしい。 光照寺のご住職に山形までご同行願って、酒井家のご子孫に面会をもとめて、現在の光照寺側の実情を知っていただき、何らかの対処をお願いしようということになった。 光照寺さんは酒井のお殿様の末裔さんを前にして立ちあがり、ひたすら実情を伝えた。末裔さんは、やはりたったまま聞いていた。光照寺さんの訴えは切々としていたが、ただひたすら自身が困っているという訴えであった。末裔さんがなぜ光照寺をはなれていったかについては、聞くことはなかった。その点交渉ではなく、一方的なものであった。光照寺さんにとっては、相手の立場を忖度するなど、とてもそんな余裕はないということなのだ。 末裔さんはご住職の訴えを注意深く聴いていたが、その窮状に対して助け船を出すことはなかった。強力な反論もしなかった。いまの末裔さんには、43の墓が神楽坂の住民のまちおこしや新宿区の歴史的遺産にとっていかに重要であっても、もはや自分とは何ら関係のないはなしなのである。末裔さんは恬淡として静寂であった。 350年続いたある一族の墓の歴史が物理的にも消滅したとき、わたしたちの次世代が光照寺で見るものは、真新しく売り出された都心の墓地であり、境内にそっと立つ新宿区教育委員会の酒井家43の墓跡の説明板である。 |
切支丹の仏像については別に書きます。鈴木桃野の墓石の場所はまだ不明です。
文学と神楽坂
都都逸坊扇歌については…
生年は文化元年(1804年)。没年は嘉永5(1852)年。江戸末期の音曲師。都々逸の祖として知られています。文政7年か8年に江戸に出て、船遊亭扇橋に入門。美音で当意即妙、謎とき唄や俗曲「とっちりとん」で、音曲界のスターに。都々逸坊扇歌と改名し、江戸牛込の藁店という寄席を中心に活躍しました。寄席の客になぞの題を出させ,その解を即興で都々逸節(七、七、七、五の四句)の歌詞にしました。やがて、江戸で一番の人気芸人となり、天保時代には上方にも出向き活躍。世相を風刺した唄も沢山ありますが、晩年には幕府・大名批判とされ江戸を追放されてしまいます。ドドイツの名前は旅の途中豊原の宿で同宿の旅芸人より聞いた神戸節の唄「おかめ買う奴あ頭で知れる 油つけずのニつ折れ そいつあどいつじゃ ドドイツドイドイ 浮世はさくさく」の調子が面白く、ドドイツとなりました。都で一番になるとの思いから「都々一」となったといいます。
江戸写し絵の都楽
幻燈(スライド)は江戸で見世物になっていたもの。享和三(1803)年の三笑亭都楽(後に都屋都楽、本名亀屋熊吉)が江戸牛込神楽坂の茶屋「春日井亭」で写し絵を演じています。映像に語りと音曲を加えています。春日井亭はどこかは不明です。