月別アーカイブ: 2023年8月

赤城神社(写真)拝殿と鳥居 昭和44年 ID 389-90、8262、8292-93

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」でID 389は「昭和44年(1969年)12月」に「赤城神社本殿」を撮り、ID 390は「同年12月」「赤城神社」を、ID 8262は「昭和44年頃か」と疑っていて「赤城神社(改代町の狛犬)」を、ID 8292とID 8293は「昭和44年頃か」「赤城神社」を撮ったと備考で書かれています。
 戦後の1951年(昭和26年)、本殿を再建し、さらに1959年(昭和34年)、鉄筋コンクリートで拝殿などを再建しています。

(1)赤城神社拝殿

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 389 赤城神社本殿

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8262 赤城神社(改代町の狛犬)

 ID 389とID 8262は、いずれも赤城神社の拝殿を正面から撮っています。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、いり母屋もやづくり風で破風が正面を向いています。これは権現ごんげんづくりと呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。垂木飾りがあり、鈴緒すずおが左どもえ)の賽銭箱に向かって垂れています()。表柱(向拝こうはいばしら)は4本見え、回廊の欄干にはぼうしゅの飾りがあります。
 狛犬は一対で、その台座に改代かいたいの銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
 向かって左の建物の看板には「館」が見えます。これは結婚式場の赤城会館でした。右は同様に社務所と、その奥は赤城幼稚園のようです。赤城幼稚園は1950年頃に開園し、2009年に閉園しました。
 赤城会館、赤城幼稚園とも(3)赤城神社の遠景に案内看板が出ています。
 ID 8262では右の手前に金網フェンスがあります。

住宅地図 1978年 赤城神社付近

(2)神門と鳥居

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 390 赤城神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8293 赤城神社

 門(神社なので神門と呼ぶそうです)の直前から内部への写真を撮っています。左側の玉垣に「赤城神社」、右側は無地の玉垣で、高札様の看板(屋根付きの看板)「赤城(会館)」と看板「之より境内につき 神社関係以外の 自動車通行止」と門灯があり、次に大きな社号しゃごうひょう(神社名を建てたもの)の「赤城神(社)」です。参道を進むと、左手にドラム缶数個と二輪手押し車1台、砂1山があります。
 鳥居はID 388で遠くに見えていて、おそらく戦前からあるものです。鳥居のせきの「通寺町」は現在の「神楽坂6丁目」です。左側には民家があり、舞踊などを教える「教授」、読めない看板と自動車1台があります。右側にも民家があります。
 さらに進むとアーチ型(⨅)の車止めが参道の中央に置かれ、その右側には「駐車禁止」と書かれ、また幹巻きを行っている木も数本あります。

(3)赤城神社の遠景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8292 赤城神社

 さらに赤城神社から遠くなります。左から。

  1. 電柱看板に「三共グラビヤ印刷 株式会社/グラビヤ印刷/神社鳥居前/赤城元町」
  2. 自家用車、婦人2人
  3. (駐車禁止)8-20  (終わり)
  4. 男性2人
  5. 外灯
  6. 玉垣
  7. ポスター「赤城 ラジオ体操」
  8. 高札様の看板「公認 赤城幼稚園」「11月1日 昭和45年度 園児募集/公認 赤城幼稚園」。神門に「赤城神社」
  9. 母と娘1人(スカートをはいている)
  10. 鳥居と自動車1台、アーチ型(⨅)の車止め、男性1人。
  11. 赤城(神社)、外灯、自動車通行止、高札様の看板の「結婚式場/赤城会館」
  12. バイク2台
  13. 看板「御婚礼 御衣裳 東衣◯◯」
  14. 看板「キッチン  トップ」テントで「キッチン  トップ」
  15. 看板「駒」

住宅地図 1965年。赤丸の上はID 389とID 8262、真ん中はID 390とID 8293、下はID 8292。

赤城神社(写真)入り口付近 昭和28年 ID 388

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 388は、昭和28年11月に、赤城神社の入り口付近を撮った写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 388 赤城神社入口付近

 左に石の社号しゃごうひょう(神社名を石柱などに刻んで建てたもの)の「赤城神社」、右に看板「赤城神社御造営作事場」があります。「造営」とは神社・寺院・宮殿などを建てることで、「作事場」とは土木建築の仕事場や 工事現場のこと。赤城神社のウェブサイトによると…。

 残念なことに、その立派なお社も昭和20年4月13日夕刻の戦災により、ことごとく焼失してしまいました。
 終戦後、昭和23年より復興の計画を立て昭和26年10月16日には本殿を竣功、最終的に拝殿、幣殿ができあがったのは、復興計画から10有余年を経た昭和34年5月でした。

 つまり、この撮影の時は戦災からの再建途上で、本殿はあっても拝殿はまたできていません。参道の右奥のトラックも工事のためでしょうか。
 社号標の手前は側溝をはさんで道路がありますが、よく見ると現在の神楽坂の路地のようにピンコロ石を扇状に並べた石畳でした。
 参道は未舗装で、鳥居の跡にせきがあります。後に鳥居は写真より奥まった位置に再建され、社号標も別のものになりました。
 参道の両脇は民家のようです。右の電柱の看板は「赤城〇〇建設中」と読めますが、詳細は不明です。左にはいかにも昔の自動車が停まっています。
 左に5角形の板「赤城〇〇」があり、正面奥には中鳥居、その奥に本殿が見えます。中鳥居の奥にはガーデンパラソルが見え、何かを売っているようです。
 参道には晴着姿の親子連れが目立ち、七五三の参拝客でしょう。1人の女の子は洋服と千歳ちとせあめを持ち、もう1人の女の子は着物と帯を着て、隣の母親でしょうか、千歳飴を持っています。ID 388の説明は11月ですが、おそらく11月15日頃です。

JR飯田橋駅(写真)令和4年 ID 17577

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17577は令和4年(2022年)10月、JR飯田橋駅西口を撮った写真です。JR東日本は2015年8月から飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設する等の改良工事を始めました。この西口駅舎も一旦取り壊し、そして、令和2年(2020年)7月12日(日)、リニューアルオープンし、それから2年後の写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17577 JR飯田橋駅

 駅舎西口の中央に大きく「JR飯田橋駅」(JR東日本 Iidabashi Station)と書かれています。10〜11段の階段もできました(以前の西口は下図に)。
 西口駅舎の正面が3階(西口コンコース階)、上は4階(西口テラス階)、そこから下ったホームが2階(ホーム階)、東口は1階(東口コンコース階)です。4階にある「エキュートエディション(Ecute EDITION)」とは、主に駅ナカのコンビニを展開しているJR東日本の子会社です。上階のプレッセ飯田橋デリマーケット(Precce Iidabashi DELI MARKET)は2023年1月31日に閉店しました。3階にあった「GODIVA café Iidabashi」は営業中です。「◯ie Bufre Boulangerie Re◯」は「NewDays エキュートエディション 飯田橋西口」に変わりました。
 構内に出ている立て看板の文字は小さく、中身はよく見えません。
 この2022年では、コロナウイルスが猛威を振るい、通勤客等の人々は全員マスクをつけています。また、ロシアがウクライナを奪おうとして戦争を始めたのは同年2月のことでした。
 駅舎前には歩行者空間や植栽を用意し、写真では見えませんが、右手に身障者のスロープもあります。
 後ろにある巨大な建物はプラウドタワー千代田富士見で、その右はクラッシィハウス千代田富士見で、どちらもマンションです。

あぢさゐ供養頌

文学と神楽坂

 村松定孝氏の「あぢさゐ供養頌 わが泉鏡花」(新潮社、1988年)からです。これは泉鏡花氏は尾崎紅葉氏から叱咤を受けた明治36年の1年前の出来事で、これも叱咤の様子です。村松氏は寺木定芳氏から話を聞きました。

 それは明治三十五年の夏のことで、寺木定芳が牛込南榎町に鏡花を訪ね、入門してから二年ほどが経っていた。定芳は毎日のように学校の帰りには師の家に上りこんで、夕刻までの一と時を過すのだが、格別、小説を書いて見て貰うわけでもなかった。そんなかれを鏡花は気楽にあしらって、漫然と雑談の聞き役になってくれ、弟子のほうは、ただ師と対面し文字どおり謦咳に接していれば満足であった。先生が原稿執筆に余念ないときは、二階の書斎へ行くのを遠慮して、弟の斜汀(本名豊春、やはり作家志望だったので、紅葉が鏡花の舎弟なるを洒落れて、こういう雅号をさずけた)と将棋をさしたり、八十余歳の祖母きて、、の肩を揉んであげたりした。そんな風で三人暮しの泉家に一枚加わった家族同然の日が続いていた。さて、その年の暑いさかりだけ、逗子で一軒を借りて、当時一般に流行はやり出した避暑なるものをきめこもうという鏡花の計画に、一も二もなく定芳は賛同した。
 鏡花が逗子の地を選んだのは、紅葉に入門する前に、鎌倉のみだれ、、、妙長寺に下宿したこともあって、あの辺は思い出深いし、一夏を空気の佳い場所で、新鮮な野菜を喰べたりすれば、持病の慢性胃腸疾患も快癒するかもしれないという一縷の望みもあってのことだった。
 幸い七、八月は学校が休みだし、海にちかい涼しい場所で一夏を師匠と起居を倶にすることができるとなれば快適この上ない。避暑の一行は、七月のなかばを過ぎてから逗子へ乗り込むこととなった。これを耳にした神田の或る商店の娘さんで、服部てる、、子というのが、ぜひ自分も、参加さして下さい、台所のご用一切はひきうけますとの健気けなげ申し出があり、女手ができて好都合ということになった。彼女は不幸な二十四、五歳の出もどりだが、大の鏡花ファンで、ときどき泉家に出入りしていたから定芳も知らぬ仲ではなかった。合宿のメンバーは、鏡花と弟の斜汀、定芳ともう一人鼻下に泥鰌どじょうひげをはやした古くからの門下生の橋本花涙、これに、てる、、子の、同勢すぐって五人だった。お年寄りを連れだすのは却ってお気の毒だときて、、お婆さまだけはお留守居をおねがいした。
供養頌 くようしょう。供養は仏、菩薩、諸天などに香、華、燈明、飲食などの供物を真心から捧げること。死者への弔い。しょうは功徳をほめる。ほめことば。
寺木定芳 てらきていほう。泉鏡花の勧めで歯科医になり、渡米してアングルスクールで歯科矯正を学ぶ。雑誌「歯科評論」を発刊し、日本麻雀連盟を設立した。出生は1883年。没年は1972年。
謦咳に接する けいがいにせっする。尊敬する人の話を身近に聞く、お目にかかる。謦は「軽いせき」。咳は「重いせき」
みだれ橋 乱橋。鎌倉市材木座3-15-7付近。鎌倉へと攻め込んだ新田義貞と幕府軍が激しく攻防した。
妙長寺 鎌倉市材木座の日蓮宗の寺。
健気な 力の弱いものが勇ましく気丈な。
泥鰌髭 まばらな薄い口ひげ。
同勢 どうぜい。一緒に連れ立って行く人々。行動をともにする仲間。
すぐる 多くの中からすぐれたものを選び出す。えりぬく。

 ところで、そんな或る日、突如として紅葉山人の襲撃をうける恐怖のときがおとずれたのだった。
 その不意のアクシデントのあった当日は、おり悪しく、すゞ、、が来ていた。
 最初に山人の姿を見つけたのは斜汀であった。岡の上にあるこの家の縁先からは一望のもとに、遥か停留場まで延びている畔道の通路が見おろされる。その道をこちらに向って、鋭いまなこの紅葉先生がいそぎ足でやってくるのを咄嵯に確認した斜汀は、
「先生が、先生が……」
 八畳の間ですゞ、、とさしむかいで、お八ツ西瓜を喘り合う、しんねこぶりを発揮していたところへ、あわてて駈け込んでくると、兄の腕をつかんで、はげしくゆすぶった。
「なに‼ 本当か。ひと違いじゃないのか」
 いきなり、西瓜を投げ出した鏡花は、それでも未だ信じられない表情で、縁先に立って行ったが、一瞬、うっと息をのんだのは、もう麓のあたりまで、その人の近づいているのが、はっきり目に映じたからだった。
 一同、蒼白となって、まず、すゞ、、を家主の農家へ避難させ、彼女のものと勘づかれそうな品物を、あわてて押入にかくし、山人の御入来を待ちうけた。
 間取りは、さきにも記したように、八畳と玄関を上ってすぐの四畳半の二間きりだから、先生を奥にお通しして、鏡花は次の間のほうへひきさがって平伏し、花涙と定芳は、そのうしろに小さくちぢこまっていた。
 そのとき、紅葉の視線が、じろりと庭の物干竿に向うと、その眼は目ざとく、干してあったみず浅葱あさぎの腰巻を見つけ、いきなり、
「あれは誰のだ」
 鏡花は、(しまった)と、狼狽のあまり、肩をぶるぶるとふるわせながら、その場の気転で、
「は、はい、あれは手伝いに来ております服部のでございます」
 と、とりつくろったつもりが、
「服部のだと? おい、素人の女が紐のない腰巻をしめるか。あれが商売女のものだくらい、解らぬ俺だと思ってるのか。貴様、いつから師匠に嘘をつくことを覚えたんだ。俺は、てめえたちに嘘をつけと、いつ教えた。弟子の分際で、よくも師匠をコケにしやがったな。そこに居るのは、泉の身うちの者か。おめえらも、いい親分を持ったもんだな。今日かぎり、俺は泉とは縁を切るから、そう心得ろ」
 大喝一声どころか、百雷一時に落ちる凄まじさに、鏡花は、ただもう、おろおろと、平蜘蛛のように、畳に頭をこすりつけたまま。定芳たちも青くなって、とりつく島もない有様だったという。
 さながら大波乱の一場面だったに違いない。
すゞ 将来の鏡花の妻。桃太郎は芸者時代の名前。旧姓は伊藤。生年は明治14年9月28日、没年は昭和25年1月20日。享年は68歳。
停留場 路面電車の停留場。バスの停留所。鉄道では場内信号機・出発信号機を設けていない停車場。
畔道 あぜみち。田と田の間の細い道。
お八ツ おやつ。午後の間食のこと。八つ時(やつどき)で、現代の午後3時ごろに食べた
西瓜 スイカ
しんねこ 男女が差し向かいで、むつまじく語り合うこと
水浅葱 灰みの青緑系の色。 #7faba9 
大喝一声 だいかついっせい。大声で怒鳴りつけたり、叱りつけたりすること。
百雷 ひゃくらい。多くのかみなり。声や音の大きなこと。百連の雷。万雷。
平蜘蛛のように ひらぐも。ぺしゃんこになる。平身低頭する様子。

石黒忠悳|明治東京逸聞史

文学と神楽坂

 森銑三氏の「明治東京逸聞史2」(平凡社、昭和44年)に石黒忠悳ただのり氏の2話が出ていました。石黒氏は牛込区揚場町に住み、陸軍軍医から、その後は日本赤十字社社長でした。なお、ここでの「男」は「だん」で、「男爵」の意味でしょう。「翁」は老人を敬って呼ぶ言葉。石黒氏の誕生は1845年3月なので、本文の明治39年は62歳、明治42年1月は‎64歳でした。

結核予防   机の塵(朝報社編) 明治39年
 或宴会で石黒いしぐろ忠悳ただのり男が、矢野二郎翁と席を列べたら、男はまず自分の膳の上に新聞をかぶせて置いて、さて翁に向って、「君は結核面をしている。その唾がおれの食べ物にかかっては困るから、こうして置くのだ」といった。そうしたら矢野翁は、「予防してまで、おれの話を聴きたいとは嬉しいね」といったそうだ。――
 この頃の結核は、万人に忌み嫌われる病気で、伝染したら直らぬものとせられていた。

石黒忠悳 医者。日本陸軍軍医、日本赤十字社社長。1890年、陸軍軍医総監と陸軍省医務局長を兼任。軍医学校校長。生年は弘化2年2月11日(1845年3月18日)。没年は昭和16年4月26日。
矢野二郎 英語を学んで外国方訳官となり、明治3年、森有礼の推薦で外務省にはいり渡米、一時駐米代理公使となった。8年、商法講習所の初代所長となり、26年まで高等商業学校(現一橋大学)の校長をつとめ、商業教育の基礎をきずいた。生年は弘化2年1月15日(1845年2月21日)、没年は明治39年6月17日。

 矢野氏と石黒氏は同じ年齢でした。この年に矢野氏は死亡しますが、結核がその死因だとは書いていません。2人の仲の良さを描いていたのでしょう。

石黒家の新年   万朝報 明治42年1月4日
「御自由に召上れ」と題する短文が出ている。
「牛込区揚場町なる石黒忠悳ただのり男は、目下夫人同伴にて、相州地方へ旅行中なるが、主人不在中の同家は、玄関の正面に蒔絵の名刺受箱が、しかも二つ置かれてあるより、よくよく見ると、一は男爵の分、一は夫人の分にて、奉書に、『旅行中に付、年賀に参堂せず』と記したるを置き、その傍に葡萄酒とコップを備へ、これには、『御自由に召上りくれ』と貼紙してあるは、振るつた趣向なり。」
 明治が四十二年になっても、まだ文語体で行っている。

相州 そうしゅう。相模国の別称。神奈川県と同じ。
蒔絵 まきえ。うるしで文様を描き、金属粉の金、銀、すずや顔料の粉(色粉)をまき、固着し造形する技法。その作品
奉書 ほうしょ。文書の美称。本来は,近侍者が上位者の意を奉じて下達する文書

 文語体は石黒忠悳ではなく、万朝報の方の書き方を言っているのでしょう。この逸聞は芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)にも再録されています。

石黒男爵の珍しい新年
           (揚場町一七)
 津久戸小学校前を右折する。左手は揚場町である。揚場町は東の堀割から山の手へ運送の荷物を揚げる場所であったために名づけられた町名である。堀割はここからお茶の水、万世橋を通って隅田川に続いている。
 右折した道の先左手に、明治時代男爵石黒忠悳(ただのり)が住んでいた。この石黒家の過し方が「万朝報」(明治四三・一・一)に出ている。
「目下夫人同伴にて、相州地方へ旅行中なるが、主人不在中の同家は、玄関の正面に蒔絵の名刺受箱が、しかも二つ置かれてあるより、よくよく見ると、一は男爵の分、一は夫人の分にて、奉書に『旅行中に付、年賀に参堂せず』と記したるを置き、その傍に葡萄酒とコップを備へ、これには、『御自由に召上りくれ』と貼紙してあるは、振るった趣向なり。」と。
 〔参考〕 明治東京逸聞史

堀割 地を掘って水を通したところ。ほり。

飯田河岸|中村道太郎と織田一磨

文学と神楽坂

 飯田河岸を描いた作品はあまり多くはなさそうです。中村道太郎氏の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)や版画家である織田一磨氏の「武蔵野の記録」(洸林堂書房、1944年。武蔵野郷土史刊行会、1982年)などです。で、この3点を見ていきます。

1.中村道太郎「日本地理風俗大系 大東京」

中村道太郎「日本地理風俗大系 大東京」(昭和6年)

飯田河岸は江戸開府の当時まで神田川の河口であった地で海港として諸国の船舶が輻輳していた。下町建設のため駿河台を切り開いてその方面に流路を転ぜしめて以来現在の如き水路を見るに至ったので今日ではさしたる重要性を認めず唯汚物船などが往来する。

 この飯田河岸は、背後に大きな平地があるので、船河原橋から小石川橋までの地域でしょう。ただし、千代田区の飯田河岸とすれば、背後の土手を中央線が走っているはずです。つまり、神田川から市兵衛河岸などの文京区側を見たものです。この河岸は極めて狭く、神田川が外堀通りに接しています。
 煙突がついた建物が並んでいるのは陸軍の東京砲兵ほうへい工廠こうしょうでしょう。大正12年、関東大震災のため、小倉工廠に移転を開始、昭和10年、完了しました。
 通りには無数の電線とうで7本の電柱が3本見え、道路には自動車と荷車が走っています。船荷を陸揚げする揚場には沢山はしけがとまり、1台は運送中です。

飯田河岸(明治22年以降)

2. 織田一磨「武蔵野の記録」

織田一磨氏「武蔵野の記録」

 大正3年秋の第一回二科展に著者が出品した作である。著者の解説に『当時の牛込見附附近はポプラの樹が茂っていて、現在の飯田橋停車場ホームのあるあたりには、常に石灰岩の破片が山積されていたものだ。これを小船に積込んでセメント工場に運搬する。その為にいつもこの河岸には伝馬船が集まっていた』とある。
新宿区役所「新宿区史」昭和30年

 飯田河岸を正面に見すえて、右端には石垣があり、下には床石があります。牛込橋のの下の橋台から飯田壕を見たものでしょう。てん船(=はしけ)が沢山とまり、舟員2人は竿を動かし、はしけを操っています。
 右の土手の中腹、緑と白の切れ目を中央線の電車が走っています。傾いた木の柱は架線柱でしょうか。なお、以前はこの部分を甲武鉄道といいましたが、明治39年、鉄道国有法で国有化し、中央本線になりました。
 昭和3年11月15日、複々線化し、また牛込駅と飯田町駅から飯田橋駅に統合。この水彩画はそれ以前に描いたものでしょう。

【参考】石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

3.織田一磨「武蔵野の記録」

織田一磨氏「武蔵野の記録」

 これも織田一磨氏の「飯田河岸」です。左岸は飯田河岸、右岸は神楽河岸で、牛込橋はまだ見えません。左岸の斜め屋根の荷揚場の下の壕に、はしけ数隻があります。
 また、左岸に高い崖があり、上端は平らに整理し、その上に樹木数本があり、中腹には黒く段差があります。この黒い段に中央線の鉄道があると考えると、線路より高いところに土手があるので、これが下図の土手でしょう。飯田壕がやや狭くなっているのもわかります。
 織田一磨氏は明治15年の生まれで、牛込駅が開業した時(明治27年)には12歳でした。これは2の飯田河岸と同様で、中央線の複々線化前の情景でした。

明治四十年一月調査東京市麹町區全圖 飯田壕付近。「飯」は「飯田河岸」の「飯」から。

昭和を走ったチンチン電車|うゑださと士

文学と神楽坂

 うゑださと氏の「昭和を走ったチンチン電車」(新日本出版社、2014)から2作品「飯田橋の交差点をゆきかう15系統」と「牛込うしごめやなぎちょうの坂を上る13系統」をとっています。うゑだ氏は昭和23年に生まれ、25歳の時、漫画原作者の小池一夫らの編集プロダクションに入り、現在は水彩で日々の暮らし、街並み、祭り、童謡や歌謡曲の景観などを描いています。
 同書でうゑだ氏は「『昭和』の風景ですから、資料が頼りです。参考にさせていただいた資料を、巻末に参考文献として収録いたしました」。参考文献には「わが街わが都電」「都電が走った昭和の東京」「よみがえる東京」「都電が走っていた懐かしの東京」「都電」「都電の消えた街」「東京都電の時代」「都電春秋」と、名称と出版社だけが載っています。

『飯田橋の交差点をゆきかう15系統』国鉄のプラットフォームから見たアングル。右奥にはふな河原かわらばし
「右奥には船河原橋」とありますが、正しくは右奥に伸びる道は目白通り。その手前で赤や青の車が並んでいるのが船河原橋で、左右は外堀通り、見えない大久保通りが交わって飯田橋交差点をつくります。

飯田橋の交差点をゆきかう15系統

J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年

 参考文献はわかりませんでしたが、似たような写真がJ・ウォーリー・ヒギンズの撮影でありました。
 ただヒギンズの写真は1964年。うゑだ氏の風景画は、都電の塗装が1950年代までの通称「金太郎塗装」で、少し時代が違います。オート三輪も時代を感じさせます。「つる」は正確には「つるやコーヒー」。
 そこで図書館で調べました。吉川文夫氏の「東京都電の時代」(大正出版、1997)はどうでしょうか。この写真は1960年に撮られて、横書きの「つる」、オート三輪もよく似ています。都電だけが違っています。

吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)。国鉄飯田橋駅ホームから見た飯田橋交差点 手前の停留場のある橋が飯田橋 右奥は船河原町 (飯田橋 15系統 815号 昭和35年9月23日)

 飯田橋の都電としては3路線、つまり3系統、13系統、15系統がありましたが、15系統だけが描かれています。15系統の都電は飯田橋停留所から、右奥の目白通りにつながっています。左右の外堀通り(船河原橋)や大久保通りにも路線がありましたが、15系統とはつながっていませんでした。

吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)

『牛込柳町の坂を上る13系統』自転車の若者が歯を食いしぼり力走

牛込柳町の坂を上る13系統

 これはわかりました。三好好三氏の「よみがえる東京ー都電が走った昭和の街角」(学研パブリッシング、2010年)でしょう。

よみがえる東京ー都電が走った昭和の街角

 前後の道路は大久保通りで、左右は外苑東通り。柳町交差点は大久保通りの前後より標高が低く、凹になっているのですが、この水彩画ではわかりません。
 アカカンバンはスーパーで、倒産後に売却されて、現在「よしや SainE 柳町店」です。さらに神楽坂六丁目「よしや SainE 神楽坂店」でも同じで、当時はアカカンバンの店舗でした。その前の「パチンコたま◯」の◯はこの写真では分かりません。「パーマ」はその通り、水彩画の「ショールーム」は不明です。

飯田河岸と画家2人

文学と神楽坂

 飯田河岸かしはどこにあるのでしょうか。江戸時代、飯田河岸の名前はなく、その利用も全くなく、ただの「土手」でした。明治9年にまず飯田橋が架橋され、明治22年3月、東京府の「区部共有河岸地規則」で初めて牛込橋から小石川橋までを「飯田河岸」と呼ぶようになりました。

飯田河岸(江戸期)

飯田河岸(明治22年以降)

 高道昌志「明治期における飯田河岸の成立とその変容過程」(日本建築学会計画系論文集、2016)では、当時「飯田河岸」を広大な空き地として考えられ、1号地から8号地まで分かれていました。

 明治22年、この飯田河岸は麹町区の一部になり、市町村と同等の名前になりました。ところが、昭和8年、帝都復興計画の一環としてこの河岸は飯田町二丁目に編入され、名前は廃止されています
 さて、現在は、この飯田河岸はどうなるのでしょう、橋の右側(地図では南側)は飯田河岸でいいと思います。橋の左側(南西側)では? 飯田橋ラムラがある場所です。現在、この部分は壕が暗渠になってしまったので、飯田河岸という言葉も消えてしまったものでしょう。
 さて、ではこの絵です。どこになるのでしょうか。

昼の東京 飯田橋

 解説があります。

文京区境界道をグルリ一周
「昼の東京 飯田橋」吉田遠志 画 1939〔昭和14年〕
 手前から外堀からの流れ(現在は埋め立てられている)、一方神田川が突き当たりの左から流れてきて合流し、右の水道橋方向に流れて行く合流地点を描いている。つまり現在では左岸が新宿区で右岸が千代田区、そして突き当たりが文京区になる。とすると現在は左岸の手前にJR飯田橋駅、正面には首都高速道路の高架が見えていることになる。

 しかし、少しだけ地図と一致しません。飯田橋の上から小石川方向を描いているので、神田川の合流点は画面の左で見切れている場所です。左岸は文京区です。JR飯田橋駅は右岸の手前になります。

 もう一つ同じ絵を描いた解説もあります。平松南氏が「神楽坂 まちの手帖 第11号」(2006年、けやき舎)の「神楽坂まちかど画廊11」です。

 ちょうど1年前の弊誌7号で、わたしは、「堀潔が描いた飯田濠」を取り上げた。
「昼の東京 飯田橋」は、それより5年前、同じ場所で描かれたものである。
 わたしは神楽坂下(1丁目)育ちであるから、飯田濠はいたってちかしい存在である。セントラルプラザという20階建の駅ビルが建つ前はそこに水面があり、水の生活があったことを鮮明に記憶している、いまでは数少ない住人である。
 飯田濠は埋め立てられて、いまはない。いまはないということは、永遠にないということではない。世の中には、復元ということもある。復元しないまでも、ひとの記憶のなかで、生き続け、また作品のなかで、繰り返し命を吹き込まれ、甦る。
 わたしが知る飯田濠は、美しい水辺ではなかった。しかし、ひとは、現実の光景だけを見ているわけではない。背後に、かっての姿を想像するのである。ひとりの画家が風景を描く。画家は、現存する風景を画布に定着させたいという強い動機に突き動かされる。飯田橋の水面は、昭和10年代には、ふたりの画家の絵筆を動かさしめた。風景が、さらにいえば、水辺が、それだけ豊かだった。
 ところで、吉田遠志の父は、これも風景版画家として高名だった吉田博である。堀潔もまた、吉田博に学んでいる。(平松南)

「堀潔が描いた飯田濠」の両岸の建物は、「昼の東京 飯田橋」とよく似ています。もし、これが同じ場所を描いたとすれば「飯田壕」ではなく「飯田河岸」でしょう。流れている川は神田川になるはずです。
 電車が走っていますが、これは路面電車です。

堀潔が描いた飯田濠

 堀潔は路上の画家である。
 つねに町をあるき、建物、路面電車、橋、川、空、人ごみ、野原−−目に留まったものはなんでも描く対象にした。
 滾る好奇心、エネルギー、力の根源は、堀自身の生きることへの渇望からきているようにおもえる。
 堀は広島出身だが、大正5年牛込の喜久井町に転居している。
 太平洋画会研究所で、石井柏亭、中村不折、吉田博らに学んだ。
 昭和20年5月25 日馬場下町で空襲にあい、全身に大火傷をおって、九死に一生をえた。母と妹は、そのとき焼死している。
 戦後、下落合の日本聖書神学校の管理人を勤めながら、「アイ・ラブ・TOKYO」「懐かしの東京風物百景」などを発表していくが、世に出る野望は希薄だった。
 戸山ハイツで 10数年前77歳で没したが、東京を描きつくした2000枚に絵は、いま新宿区歴史博物館に眠っている。わたしは彼の偉業を編集者として、世に問いたいと思っている(みなみ)。

 しかし、地元の方の意見では……

 吉田遠志の「昼の東京 飯田橋」は、牛込橋側から飯田壕を眺めたように見えます。壕幅が広く、左岸の石垣が高く切り立っています。また左岸の建物の向こうに高台の上の建物があります。これは揚場町の高台(現在のセントラルコーポラスのあたり)ではないでしょうか。少なくとも文京区側には、この高台はありません。
 一方、「堀潔が描いた飯田濠」は、飯田橋から小石川方向の神田川のようです。飯田壕に比べると神田川の方が幅が狭い。市電も飯田壕からは見えません。
 また正面左には石垣から川に下りる坂がありますが、これは飯田壕にはなく、小石川側にはありました。(「飯田河岸の写真」)
 両者は構図がよく似ていますが、写実的に描いたのだとすれば別の場所である可能性を考えるべきです。

ロータリーの廃止 飯田橋交差点 昭和28年

文学と神楽坂

 飯田橋交差点は戦前は普通の五交差でしたが、戦後、ロータリー交差点に改められました。これを昭和28年12月に廃止し、また普通の交差点にしました。なおロータリー交差点とは中心部分の周囲を一方向に周回する方式の交差点です。

邪魔なロータリー取り壊し
 13信号燈で交通整理
  運転手泣かせの飯田橋交差点

 下町と山手をつなぐ交通の関門飯田橋交差点のロータリー取除き工事が近く完成、これとともに都内では珍しい13の信号燈が設けられ、いままで運転手泣かせの”関門”が解消される。このロータリーは九段、水道橋、新宿、大曲、市ヶ谷に通ずる五差路の真ん中にあって、こゝ二三年来自動車の増加で交通量が急増、昨年暮ごろから朝夕のラッシュ時には車のこう水になり、ひどいときには500台ぐらいが五つの道にひしめいて歩行者も命がけで横断する始末。そこでロータリーを取除く必要にせまられ、神楽坂署や地元関係者が都、警視庁へ陳情、9月中旬着工、10月上旬完成の予定だったところロータリー用地の舗装や都電の路面引上げなどに手聞取り、ようやく2日完成することになった。
 また信号燈はすでに警視庁で取付けを終り、3日から点滅を始めるが、これで車も順調に流れるようになる。この信号燈は普通の交差点では4つだが、こゝでは歩行者専用8、車馬専用3、車馬、歩行者兼用2の13ヵ所で点滅し、80秒ごとに一めぐりして車をさぱく仕組になっている。
読売新聞 1953年12月1日

 林順信「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)では昭和27年、ロータリーがある時点を捉えています。

林順信「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)

 新宿区内務部「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年)ではロータリーの撤去は失業対策の一例として登場しました。

飯田橋ロータリーの撤去

 昭和11年6月11日の地図院地図(B7-C10-10)ではこの交差点は以下の通りで、ロータリーではなかったといえます。

昭和11年6月11日 (B7-C7-10)

 昭和22年12月20日の地図院地図(USA-M698-99)では環状になっているのが分かります。それも2つの円形が合わさった変則ロータリーだったようです。

昭和22年12月20日(USA-M698-99)

 しかし昭和31年3月10日(USA-M324-422)では再び、円形ではなくなります。

昭和31年3月10日(USA-M324-422)

 ちなみに2019年では歩道橋と高速道路ができています。

2019年 地図院地図

 ID 13030は、昭和28年、ロータリーを廃止した写真です。道路の真ん中にあるゼブラ柄の土台に「自動交通信号機設置記念」の立て看板があるのは、ロータリーを撤去した代わりに信号を設置したためでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13030 飯田橋交差点

 この交差点の中の信号機は、これ以後もしばらく同じ場所にありました。1962年や1968年の写真でも確認できます。

東京オリンピック時代の都電と街角

神楽河岸(写真)ID 13226 昭和45年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13226は神楽河岸、飯田濠と国鉄飯田橋駅などを撮ったものです。飯田濠の東岸は新宿区で神楽河岸、右岸は千代田区で飯田河岸です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13226 飯田橋駅 飯田河岸

 比較するため、池田信氏の「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)を見てみたいと思います。

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

 池田信氏の撮影時期は昭和40年4月です。壕の中央に台上のものがあり、左岸からは坂のようなものでつながっています。これは建設廃材の積み出し場だったと思われます。
 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)で「かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか」と書いています。
 壕は浅く、両岸は干上がって底が見えています。喫水の浅いはしけなら、中央部をかろうじて運行できたのでしょう。
 ID 13226に戻ると、池田信氏の写真に比べて飯田橋交差点の歩道橋と首都高速が完成しています。首都高が開通した昭和44年以降の撮影だと分かります。
 中央に浮体式のクレーンがあり、左岸に鋼矢板こうやいた(シートパイル)を杭のように打ち込んでいます。右岸の石垣下の底の泥が減っているように見ますが、この工事の船を入れるために浚渫したのかも知れません。
 昭和48年2月のID 8792、8793では鋼矢板は並行に3列あります。ID 13226はこれより前、第1列の工程でしょう。
 有楽町線建設史の年表によれば、8号線(有楽町線)飯田橋第一工区の着工は昭和46年(1971)5月、同第二工区の着工は同年8月でした。
 ID 13226の工事が地下鉄工事とすれば、撮影時期は昭和46年かもしれません。新宿区の神楽河岸現場詰所で撮った写真だと思います。
 右岸に並んでいる建物は地図では倉庫ですが、右端の建物は地図では車庫で、一番奥の窓のある建物はID 493などでは寮(社宅)でした。
 飯田橋駅のホームにはたくさんの人が電車を待っています。

住宅地図。昭和45年

下宮比町(写真)消防訓練 昭和41年頃 ID 12317-18

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12317-18は昭和41年頃、下宮比町の飯田橋交差点の消防訓練を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12317 消防訓練 飯田橋駅前大久保通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12318 消防訓練 飯田橋駅前大久保通り

 正面左の8階建ては飯田橋東海ビル(昭和41年(1966年)5月完成)です。1階は東海銀行飯田橋支店でした。現在は飯田橋御幸ビルです。
 また一見して分かるように、飯田橋交差点の大きな歩道橋も、首都高速道路もありません。歩道橋が出来たのは昭和43年3月で、首都高の開通は昭和44年ごろです。
 道路は左へ行くと大久保通り、右奥が目白通りです。交差点を南から北に向けて撮影しています。

住宅地図 昭和42年

 中央に東京消防庁の「はしご車」が出ていて、消防職員と警察官も数名います。遠くにポンプ車(消防ポンプ自動車)もあります。はしご車は車体から張り出すアウトリガーのため停止し、ポンプ車は撤退しているようです。路面は水に濡れており、少なくとも一部の放水は終了しています。
 ビルの3階より上は窓を開けて多くの会社員が訓練を見下ろしています。歩道にも見物している人がいます。
 ID 12318の左端にゼブラ柄の背面板がついた信号機があります。隣のビルは「東海銀行飯田橋支店」、袖看板は「東海銀行」と掲示板「BANK」。その右隣に「三平酒造」があり、酒の黄梅きざくらとカッパの絵があります。さらにその右隣は「パーマレディー」「Beauty Sh(op)」「LADY」です。
 1968年の写真(J・ウォーリー・ヒギンズ「秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本」光文社新書 2018年)とよく似ていますが、交差点の中に立つ信号は写っていません。
 はしご車の左の電柱には「質 オザワ」、その左に「大久保通り/Okubo-dori」の道名標、右の電柱は右の電柱では「ミカワ」「松信産婦人科」です。
 目白通りの路面電車の飯田橋停留所では少なくとも男女2人が待っています。これは都電15系統で、左に行けば「大曲」から「高田馬場駅前」に、右は「九段下」から「茅場町」に通じます。
 停留所の向こうは神田川ですが、見えません。その奥は文京区で、「お待たせしない家」とサインポールと「◯◯理◯◯の◯◯」、「◯◯◯5◯◯」などの看板が見えます。
 空中には電線と、都電の架線が縦横に張り巡らされています。歩行者の多くは長袖で、コート姿も数名います。飯田橋御幸ビルの完成が昭和41年5月なので、その年の晩秋の撮影でしょうか。

目白通り(写真)昭和54年 ID 12111

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12111は昭和54年3月、飯田橋駅を背中にして五叉路を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12111 飯田橋歩道橋 目白通り 飯田橋駅付近

 歩道橋「ゆずり合いモデル交差点/ひとり◯◯◯◯◯◯◯に」「目白通り/新宿区下宮比町」があり、それと同じ方向で、1台の自動車が左から右に走る道路は「外堀通り」です。たくさんの自動車が並んで待っている道路は「目白通り」です。またその奥には高速道路とそれを支える橋脚があります。高速道路の下は神田川で、昔は江戸川と呼びました。
 交差点の向こうは文京区です。「(写)真製版所」「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」が見えます。