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神楽坂の地図と由来

文学と神楽坂

 神楽坂の地図と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳を描いてみました。

材木横丁 和泉屋横町 から傘横丁 三年坂 神楽小路横 みちくさ横丁 神楽小路 軽子坂 神楽坂通り 神楽坂仲通り 芸者新路 神楽坂仲坂 かくれんぼ 本多横丁 見返り 見返し 紅小路 酔石 兵庫 ごくぼそ クランク 寺内公園 駒坂 鏡花横丁 小栗横丁 熱海湯階段 見番横丁 毘沙門横丁 ひぐらし小路 藁店 寺内横丁 お蔵坂 堀見坂 3つ叉横丁

 

 その名前の由来は……
軽子坂 軽子がもっこで船荷を陸揚した場所から
神楽小路 名前はほかにいろいろ。小さな道標があり、これに
小栗横丁 小栗屋敷があったため
熱海湯階段 パリの雰囲気がいっぱい(すこしオーバー)。正式な名前はまだなし
神楽坂仲通り 名前はいろいろ。「仲通り」の巨大な看板ができたので
見番横丁 芸妓の組合があることから
芸者新路 昔は芸者が多かったから
三年坂 寂しい坂道だから転ぶと三年以内に死ぬという迷信から。
本多横丁 旗本の本多家から。「すずらん通り」と呼んだことも
兵庫横丁  兵庫横丁という綺麗な名前。兵庫町とは違います
寺内横丁 行元寺の跡地を「寺内」と呼んだことから
毘沙門横丁 毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の小さな路地
地蔵坂 化け地蔵がでたという伝説から



16/3/13⇒20/8/6⇒21/6/16⇒21/9/23

狂歌師 大田南畝旧居跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地域 20. 狂歌師 大田南畝旧居跡」を見ていきます。

狂歌師 大田南畝旧居跡
     (北町41
 光照寺前通りを西に進み十字路の先は、狂歌師として有名な大田蜀山人(南畝)の居住地跡である。
 蜀山人は、幕府の儒者であり学者であるが、狂歌師としても有名で当時江戸第一人者であった。蜀山人は、寛延2年(1749)3月2日、吉衛門の長男としてここに生まれ、文化6年(1809)大久保へ転居するまでの60年間をここに居住していたのである。
 このあたりはいまでも閑静な住宅地であるが、田山花袋の「東京の三十年」(大正6年)にも、明治22年ごろの中町のようすを書いている。その中に、
“中町が一番私に印象が深かった。他の通に比べて、邸の大きなのがあったり、栽込の綺麗なのがあったりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。”
 と書いている。
 またこの通りには若い美しい娘が多かったという。きれいな二階屋があり、そこからは玉を転がしたように琴の音が聞えて、それをひいている美しい白い手も見えたし、運がよいと、表でその娘たちの姿も見られたといっている。
〔参考〕東京名所図会 大田南畝 森銑三著作集
狂歌師 狂歌を詠み、教えることを業とする人。狂歌とは短歌と同じく、五・七・五・七・七の5句31音の歌だが、しゃれ、風刺、俗語などが入っている。
太田蜀山(南畝) 正しくは「大田」と書きます。また、Wikipediaによれば「名はふかし、字は子耕、南畝は号である。通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、しょく山人さんじん、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人など。山手やまのての馬鹿ばかひとも別名とする説がある。狂名、四方よものあか。また狂詩には寝惚ねとぼけ先生と称した」。生年は寛延2年3月3日(1749年4月19日)。没年は文政6年4月6日(1823年5月16日)。74歳
北町41 実際は中町でした。なぜ北町は間違いだったのか、詳しくはここで。ちなみに、森銑三著作集第1巻「南畝の日記」201頁には「南畝は34歳の新春を、その牛込中御徒町の家にめでたく迎えたのである」となっています。

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光照寺前通り 光照寺の前の通りで、東側には地蔵坂(藁店)がありますが、西側には通称名も含めて何もなさそうです。
幕府の儒者 儒者は江戸幕府の職名で、将軍に儒学の経典を進講し、文学をつかさどる人。しかし、南畝が儒者だったという事実はありません。
文化6年(1809)大久保へ転居するまでの60年間をここに居住 「大田南畝の住居跡」によれば「文化元年(1804)小日向に転居するまでの56年間」でしょう。

No名称種別坪数住所現在地期間備考(数え年)
息偃館借地200坪牛込中御徒町新宿区中町37・38寛延2年(1749)~?1歳〜
借地210坪牛込中御徒町新宿区中町36?~文化元年(1804)〜56歳 書斎「巴人亭」
遷喬楼買得93坪小日向金剛寺坂上文京区春日2-16文化元年(1804)~同6年56歳〜 年賦購入。2階建て
拝領139坪余牛込若松町新宿区大久保文化6年(1809)~同9年61歳〜
緇林楼拝領150坪余駿河台淡路坂上千代田区神田駿河台4-6文化9年(1812)~文政6年(1823)64歳〜 大久保と交換

東京の三十年 岩波書店の内容では「明治14年、花袋が11歳で出京してからほぼ30年の東京という街の変遷と、その中にあって文学に青春を燃焼させた藤村・独歩・国男ら若い文学者の群像を描く。紅葉・露伴・鴎外ら先輩作家との交流にも触れ、花袋の自伝であるとともに明治文壇史でもある」

 中町の通——そこは納戸町に住んでゐる時分によく通つた。北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かつた。他の通に比べて、邸の大きなのがあつたり、栽込うゑこみれいなのがあつたりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
 それに、其通には、若い美しい娘が多かつた。今、少將になつてゐるIといふ人の家などには、殊にその色彩が多かつた。瀟洒せうしやな二階屋、其處から玲瓏れいろうと玉をまろばしたやうにきこえて來る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手、そればかりではない、運が好いと、其の娘逹が表に出てゐるのを見ることが出來た。」
註:轉ぶ まろぶ。転ぶ。ころがる。ころぶ。倒れる。

森銑三 もりせんぞう。書誌学者、随筆家。戦前は東京帝大史料編纂所勤務。戦後は早稲田大学で書誌学を講義。近世の人物の伝記などを研究し、資料を探索して埋もれた人物を発掘した。生年は明治28年9月11日。没年は昭和60年3月7日。89歳

牛込氏の最初の居住地だった宗参寺|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 60. 牛込氏の最初の居住地だった宗参寺」についてです。

牛込氏の最初の居住地だった宗参寺
      (弁天町9)
 漱石山房跡の西、日本銀行早稲田寮前を右折して北方の宗参寺に行く。
 宗参寺は、袋町の牛込城(13参照)の城主大胡勝行が、天文12年(1543)9月に78才で死去した父大胡重行のために、翌年に建てた寺で、寺名は重行の法名宗参をとったものである。
 思うにこの地は、大胡氏最初の居住地であったのではなかろうか。牛込城跡でものべたが、大胡氏の牛込移住年代は不明であるが、室町時代の初期にはこの地に移り鶴巻町の牧場を管理していたのであろう(63参照)。また喜久井町供養塚は、牛込氏初代移住者を葬る塚だったのではあるまいか(75参照)。
 この地は大胡氏の居館地だったらしく、「江戸砂子」には「……此の地に来り、牛込城主となり」とある。菩提寺を建立するには、それだけの場所選定の理由があるし、豪族の居住地に寺院が建つ例が多い。「御府内備考」では、「宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てた寺だというが誤だ」といっているけれども明治40年の東京市編「東京案内」は、「この地に移ってきて牛込氏と称した」と認めている。
 この墓地南隅の牛込氏墓地には、大胡重行、勝行父子の墓があって、都の文化財に指定されている。(牛込氏の子孫は、武蔵野市西窪三谷274に続いている)(75参照)。
 〔参考〕 南向茶話追考 牛込氏についての一考察

宗参寺の牛込氏墓地

宗参寺 曹洞宗の照臨山宗参寺で、牛込勝正が父勝行と祖父重行の菩提を弔うため、吉祥寺四世勅特賜天海禅師看榮稟閲大和尚を開山に迎えて、天文13年(1544)創建しました。
漱石山房 明治40年9月、早稲田南町に引っ越し、大正5年、49歳でここで死亡。晩年を過ごした家と土地を「漱石山房」という。
日本銀行早稲田寮 漱石山房の西側にある寮。

漱石山房→宗参寺

大胡勝行 大胡氏は武蔵に移り、赤城神社を勧請・創建し、後北条家に仕え、新撰東京名所図会によれば、天文14年(1545)、大胡勝行は北条氏康に告げて大胡を改め牛込氏としている。
大胡重行 大胡勝行の父。
翌年に建てた 「寛政重修諸家譜」では「天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし……」
大胡氏最初の居住地 最初の居住地はどこなのか不明です。
この地に移り 南向茶話附追考では

牛込氏は、藤原姓秀郷の流也。家伝に曰、秀郷より八代重俊、上州大湖に住す。大湖太郎と号す。重俊より十代の孫大湖彦太郎重治、初て武州牛込に移り居す。其子宮内少輔重行、其子宮内少輔勝行に至りて、北条家に仕へ、改て牛込を称号す。
(南向茶話附追考

鶴巻町の牧場を管理 大宝元年(701)、国営の牛馬牧場(官牧)が全国39ヶ所で認め、牛込にも官牧の乳牛院という牛舎が設置された。
喜久井町の供養塚 供養塚を参照
江戸砂子 享保17年(1732)、菊岡沾涼の江戸地誌。正確には「江戸すな温故名跡誌」。武蔵国の説明から、江戸城外堀内、方角ごと(東、北東、北西、南、隅田川以東)の地域で寺社や名所旧跡などを説明。
此の地に来り、牛込城主となり 続江戸砂子温故名跡志巻之四では「此大胡重行は武蔵むさしのかみ鎮守ちんじゅふの将軍秀郷の後胤こういん、上野国大胡の城主大胡太郎重俊六代のそん也。武州牛込の城にじょうす」
菩提寺 ぼだいじ。一家が代々その寺の宗旨に帰依きえして、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺。江戸時代中期に幕府の寺請制度により家単位で1つの寺院の檀家となり、寺院は家の菩提寺といわれるようになった。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てた寺だというが誤だ 実際には「宗三寺を牛込の城蹟へ立し寺なりといへとあやまりなることおのづから知べし」(大日本地誌大系 第3巻 御府内備考。雄山閣。昭和6年)と書いています。「牛込氏の旧蹟」が「牛込城跡」の意味で使っている場合は確かに「誤」です。
東京案内 東京市編「東京案内」(裳華房、明治40年)です。
この地に移ってきて牛込氏と称した 「東京案内 下」では

牛込村は、往古武蔵野の牧場にして牛を牧飼せし処なるべしと云ふ。中古上野国大胡の住人大胡彦太郎重治武蔵に移りて牛込村に住し小田原北條氏に属し其子宮内少輔重行 天文12年卒、年78 重行の子宮内少輔勝行 天正15年卒、年85 に至り天文24年5月6日 弘治元年 北条氏康に告げて大胡を改め牛込氏とす。

牛込氏墓地 牛込氏墓地は墓地の南にあります。

宗参寺と牛込氏墓地

牛込重行勝行父子墓。左は東京市公園課「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」大正12年。右は 温故知しん!じゅく散歩

記憶の中の神楽坂(3)

神楽坂6丁目辺り

記憶の中の神楽坂(3)6丁目

神祗会館・社殿(神社?)
おばあさんが教祖で、息子が神主さんで、とても趣味が多彩な人だった。
✅ 一代だけの教祖でしょう。

京屋(染物・洗い張り)
神楽坂の名案内人として知られる水野正雄さんのお店。奇しくも神楽坂の名料亭「松が枝」と同じ明治38年の創業。花柳界をはじめたくさんの顧客に惜しまれつつ2003年の大晦日に閉店。
✅ 水野正雄さんは大正9年、神楽坂の染物屋に生まれ、旧制中学を卒業後、昭和15年に中国へ出征。帰国後は染め物洗張りの「神楽坂 京屋」として仕事に励み、その後、新宿区郷土研究会の二代目会長になり、さらに公認タウンガイドの第1号になりました。

戸塚医院(医院)
昭和初期の話だけど、『トツカッピン』いう薬をこの医院でわけてもらって大人たちが服用していた。これを飲むと、あそこがピンと元気になるというのだ。いわゆる精力剤だったのだろう。
✅ 戦後の昭和35年にはなくなっている。それより古い地図では、ありました。下図を。

水野正雄『神楽坂まちの手帖 第3号』(2003年)「新宿・神楽坂暮らし80年②」

白砂(純喫茶)
インベーダーゲーム機が喫茶店にずらりと並んだ頃、よく100円で遊びました。
✅ 2階の喫茶室 白砂 HAKUSAでした。写真左の看板に「日砂 ◯KUSA」と読めます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13227 神楽坂

水文(会席料理)
天丼なら、ここだったね。
✅ 帝都信用金庫よりも神楽坂上交差点に近い場所だったらしい。

田中屋(駄菓子)
あっ、あのころは駄菓子屋って言わない。百日菓子屋って言うの。スコップみたいなので測って百日分入れてくれるの。
✅ 地図から田中屋は昭和47年の「宝石タイヨウ」の場所。現在は薬屋の「ココカラファイン」。時計と宝飾品のタイヨウはビルの上で営業を継続、しかし、令和4年8月31日に閉店

桔梗屋(小間物屋)
女性が使う、つげの櫛やピンどめ。ろうそくなどをご夫婦で売っていた。ご主人は、神楽坂で人気者の幇間だった。
✅ 現在は不動産の「神楽坂商事」。ID 13227の右側には袖看板。下はTVの「気まぐれ本格派」から。

桔梗屋。気まぐれ本格派。1977年。19話

亀十パン(パン・洋菓子)
1960年代、私が小学生だった頃、亀十のサンドイッチを遠足へ持って行けるのが自慢だった。白い紙箱に入っていたハムサンド、ミックスサンドの味が今も思い出せる。コッペパンにピーナッツバターをぬったのもおいしかった。
✅ 現在は「おかしのまちおか 神楽坂」。当時の「亀十」についてはここを

ビストロtaga(フレンチレストラン)
玄関で靴を脱いであがるフレンチの店だった。日差しが差し込むリビングのような空間、カウンターになっていて、出来立てのフレンチをいただくひとときは、幸せだったなあ。誰かのうちでおもてなしされてるような、温かな気持ちになったっけ。
✅ 不明です。

武蔵屋(呉服屋)
店員がたくさんいて、野球のチームをもっていた。
✅ 現在は寝具店の「うらしま」。

武蔵屋呉服店。 気まぐれ本格派。19話。1977年

成金(駄菓子)
「成金横丁」の名前のもとになった、小さな駄菓子屋さん。カタヌキやソースせんべい、親指と人差し指でネチネチと練り合わせて煙を出す昔風の駄菓子があった。
✅ 不明です。「成金横丁」の名前には、加藤八重子氏の「神楽坂と大〆と私」(詩学社、昭和56年)では

成金横丁の謂われとは、聞くところに依ると、余りに逼塞した連中が成金にあやかるように景気のよい名を付けたとか、真偽の程は定かでないが…。

 また、加藤さんの発言を元に地図を作っても「成金横丁」は出てこない。成金はもっと昔?

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)。大弓場から俥屋まではあくまでも想像図。正確な地図は不明。

神楽坂・武蔵野館(映画館)
現在のスーパー「よしや」の場所にあった映画館。戦前は「文明館」「神楽坂日活」だったが、戦災で焼けてしまって、戦後地域の有志に出資してもらい、新宿の「武蔵野館」に来てもらった。少年時代の私は、木戸銭ゴメンのフリーパスで、大河内伝次郎や板妻を観た。
✅ 毎日新聞社『1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶』(写真 池田信、解説 松山厳。2008年)で武蔵野館の写真が残っています。さらに詳しくはここに

神楽坂武蔵野間館

越後屋(呉服屋)
「有明」のところにあった呉服屋。
✅ 6丁目の越後屋は、新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」(64頁)では「缶詰の越後屋」。3丁目の越後屋は「呉服」なので、3丁目と混乱している?
 上の写真の左側に佃煮の「有明家」。渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007)によれば、昭和4年、有明家が開店。中屋金一郎氏の『東京のたべものうまいもの』(昭和33年)では

まっすぐあるいて6丁目、映画の武蔵野館のさきに、佃煮の…
『有明家』がある。昭和4年開店。四谷一丁目が本店で、ここの鉄火みそ、こんぶ、うなぎの佃煮をたべてみたが、やっぱりAクラスで、うす塩味の鮒佐とはまたちがったおもむきがある。店がよく掃き清められ、整頓しているかんじ。食べもの屋として当然のことながら、好感が持てる。ここの佃煮をいくら買ってもいいわけだけれど、まあ、鉄火みそ、こんぶだったらそれぞれ50円以上、うなぎは200円ぐらいから、買うのが妥当のようである。

 野口冨士男氏は『私のなかの東京』の中で

老舗のつくだ煮の有明家が現存して、広津和郎と船橋屋の関係ではないが、私も少年時代を回顧するために先日有明家で煮豆と佃煮をほんのわずかばかりもとめた。

カフェー・ダイマツ(カフェー)
昭和12、13年頃、今の100円ショップを曲った路地の右側に、とてもおシャレなカフェーがありましね。いつも中には、キラキラしたようなイブニングドレス姿のきれいな女給さんが7、8人いました。
✅ 不明。100円ストアは最初の地図で橙色で描かれています。

駿河屋(模型・プラモデル)
古く、落ち着いた建物に、模型やフィギュアなども置いてあって、ショーウインドーを覗く楽しみがあった。適度な明るさと、ホッとするような懐かしさが混在していた。閉店前の1カ月は、バーゲンセールで、なぜかロシア製とドイツ製の戦車が売れ残っていたので半額で買いました。でも、まだ組み立てていません。
神楽坂6丁目64番地。以前は蝋燭ろうそく屋だった。蝋燭とは、糸や紙縒りを芯にして、蝋を固めた円柱状の灯火用具。

6丁目。地東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

体内から針を出す女|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 18.体内から針を出す女」についてです。実はこの話は「袋町」で起こったものではなく「牛込袋町代地」 で起こって、現在の「千代田区外神田一丁目・神田花岡町」にあたります。

体内から針を出す女
      (袋町
 袋町で文政4年(1821)5月のこと、ささやかな商売をしている友次郎の14才になる妹むめが、急に体が痛み出し、乳の下や首すじから、縫針14本がとび出して大騒ぎとなった。
 むめは、前年に台東区小島町のある薬種屋に勤めていたことがあったが、その時わけもなくしばしば座敷に小便をもらすことがあった。また毎晩夜中に便所にいくと、イタチが出てきてふとんの下へはいり、小便をして汚したことがあったという。しかしこのごろは普段何の異状もなく暮していたのである。
 体内から針が出たということは、中国にもある話で、「史記」に出ている。
〔参考〕 武江年表
袋町 「武江年表」によれば、実はこの話は袋町ではなく、「袋町代地」でした。ここは現在の千代田区の一部です。牛込袋町は享保16年(1731)火事で類焼し火除地となり、幕府は代わって「袋町代地」として外神田一丁目・神田花岡町を与えました。
台東区小島町 現在は台東区小島一丁目と小島二丁目。台東区の南部です。北部の春日通り下に「新御徒町駅」があります。
薬種屋 生薬を調剤して漢方薬を販売する店舗
武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。正編8巻は天正18年から嘉永元年までで嘉永3年(1850年)に出版。続編4巻は嘉永2年から明治6年までで明治15年(1882年)に出版。火事・地震などの天災や気象情報、町の存廃、著名人の死去、催事や流行り物、その他の時勢を網羅。随所に考証の跡をうかがうことができる。

 統合失調症などの病気があると、患者は隠した針をまるで魔術師のように「身体から」取り出していきます。手品以外では普通は統合失調症などを考えます。イタチも本当に毎晩出たのか、幻視ではなかったのか、不明です。
 なお、本当に身体の内部から針が出てくるのは針生検や穿刺細胞診などの針が折れる場合です。
 逆に「針の誤飲」は普通の症状で、この針や釘は小児に多く、40歳以上になると魚や鶏の骨が多いと言われています。
 では、「武江年表」の後追記録です。

 五月、筋違御門の外、牛込袋町代地友次郎が妹むめ、身内より針を出す(友二郎は家主金次郎が店をかりて、かすかなる暮しをなす者なり。むめはことし14歳になりけるが、身内痛みて、乳の下・膝、或襟の辺より縫針14本を出す。去年、下谷小島町なる薬種屋に逗留してありし時、かの家の座鋪、又は二階へ、何とも知れず度々小便にて濡したる跡あり。又、かの薬種屋、新右衛門町へ引移し時も、ともにかしこへ行。夜中寝たる時、そばいたちのかけ行、又は蒲団の下へ入、小便にて汚しける事、毎夜の事なりし。其外にはかはりし事を覚えずとぞいひける。こくにも、また古くかゝるためし有)
筋違御門 すじかいもん。現在の内神田と外神田と間の千代田区神田須田町1丁目。枡形は寛永13年(1636)に完成、門は寛永16年に完成。明治5年(1872)、撤去された。
座鋪 ざしき。座敷。畳を敷きつめた部屋、特に客間
 いたち。

 次に「武江年表」では史記(紀元前1世紀頃、中国前漢時代に司馬遷が編纂した歴史書)と稽神録(10世紀の短編小説集)から二人の症状が書かれています。Google翻訳を使ってみると、「史記」では、家の中でうめき声を聞き、老婦人が体の痛みと無数の暗黒の色を訴え、病気は深刻で、そこで豆湯を作ってあげると、痛みはかえって悪化、直ちに黒点から1寸の針を抜き、傷口に軟膏を塗ると3日後によくなり、この病気を針疸と名付けたという。「稽神録」では、額に瘤があり、医師が解剖し、黒い碁石を見つけ、巨大な斧で打ったが、傷には変化はなく、最後に、すねに瘤ができたが、これは犬​​が瘤を噛んだためで、その中に100本以上の針があり、これを使って、病気は治ったという。はい、この翻訳が正しいかどうかは不明で、症状所見も正しいかも不明、診断は全くもって不明です。

  史記曰、張嗣伯、嘗屋中呻吟、嗣伯曰、此病甚、及、見老姥体痛、而処々有ルヲ黯黒 無数、嗣伯、送、服訖痛勢愈甚、跳スル者無数、須臾ヨリ皆抜針長寸許ナルヲ、以瘡口、三日ニシテ而復スト云、此針疸也。
 稽神録云、処士蒯亮言、其所知額角患、医為、得タリ一黒石碁子、巨斧擊テドモ、終傷レ欠、復有足脛生スル瘤者、因至ルニ親家、為猘犬ヤマヒイヌ、正其瘤、其中為タリ針百余枚、皆可、疾亦愈

呻吟 しんぎん。苦しみうめく。
老姥 年老いた女。老婆。
 となえる。名づける。
黯黒 暗黒。くらやみ
 かえる。かえす。ひきかえす。もとへもどる。
 食べ物が十分ある。必要以上に、また期限をこえて、物がある。
 飲む。服用する。
 おわる。おえる。とまる。やむ。
須臾 しゅゆ。しばらくの間。わずかの間
寸許 すんきよ。少々。
瘡口 そうこう。傷口
稽神録 古今の小説伝奇類。作者は徐鉉で、10世紀の人
処士 民間にあって仕官しない人。在野の人。浪士。浪人。
額角 こめかみ
 切り開く。割る
碁子 碁石。
 かむ。
 かじる

 なお、この稽神録のエピソードには和訳がありました。再録します。

蒯亮
処士蒯亮が言うには、かれの知人が額に瘤を患ったので、医者が切ってやると、一つの黒い碁石が見つかった。巨斧で撃ったが、結局壊れなかった。さらに脛に瘤を生じたものがおり、親戚の家にゆき、猛犬に咬まれ、まさにその瘤を齧られたが、中から針百余本が見つかった。すべて用いられ、病も癒えた。(稽神録/補遺

天下泰平文壇与太物語

文学と神楽坂

 高山辰三氏の「天下泰平文壇与太物語」(牧民社、大正4年)です。高山氏は早稲田大学を多分卒業し、「美術と趣味社」の編集長でした。生年は1892年、没年は1956年。
 この本を開けると文人10人が「序」を書いています。「自序」を加えて総計11人。まず「序」のうち2人を取り上げて見てみましょう。


 高山君が初めてやって来て、私にも序文を書けと言う。
 私は前に高山君に会った事がない。従ってそのとなり、、、をも知らない。一見したところでは高山君と言うよりは横山よこやま君と呼びたいような気がする。容も声もまるまるとして如何にも横に広いという感じがする。
 文壇与太物語は如何なる書物か、私は全くその内容を知らない。もし文字通りのヨタ話ならば、これまた丸々とした感じを与えるものであろうが、見ては正に横山君と呼びたい人の、その名は意外にも高山君である如く、このヨタ話も案外ヨタではなくして辛辣なものかも知れない。出版された後で見るとオヤオヤと恐れ入るようなものかも知れない。うっかり不見転で序文を書くのは冒険かも知れないが……。
 お題から見ても、この内容は我々文士仲間の噂話と思われる。それ人の噂をする事は人生快楽の尤なるものである。下は裏長屋の女房連より上は大臣議員の晩餐会に至るまで、その最も賑わうものは人の噂である。面白い事これ上なけれども、余り品のよいものには非ず。要するに75日位にて綺麗に忘れてしまうべきものだ。之を紙に記して世に公けにするは多少罪たるの感なき能わずと難も、本書に限り天下、、泰平、、とのお断りさえある事なれは、吾々序文書きの者共も全く無罪放免たるよしと信ず。
  大正四年御即位御大典の月
生 方 敏 郎

不見転 みずてん。後先を考えずに事を行うこと。芸者などが、金しだいで見さかいなく誰にでもすぐに身をまかせること。
生方敏郎 うぶかたとしろう。随筆家、評論家。早稲田大学英文科卒。「東京朝日新聞」の記者から文筆家に。『明治大正見聞史』が有名。軍国主義の世相を批判した。生年は明治15年8月24日、没年は昭和44年8月6日。86歳。


 与太物語序文、先日唐突の間によく話も承らずに場合によっては書いて宜しいというような事をいいましたが、あの時はあとから改めて御話のある事と思ったからでした。またそれが当り前の事だと信じます。ところが今日明後日までに是非書けとの御催促に接し少々驚きました。その内容については少しも知らない書物——わけてもそれが自分達と一緒に生活している現実の人々の実生活に関したゴシップであるという——そういった書物の序文を空想で書くというような無責任な事がどうして出来ましょうか。この義は平におことわり致します。
 これは小生自分の良心に対してどうしても出来ない事です。どんな人のどんなゴシップが書いてあるかわけもわからぬのに、どうして序文の書きようがありましょう。それを貶するにしても、また推奨するにしても影も形もないものに対しては神ならぬ僕の不可能の事として平におことわり致します。
 貴兄も一寸考えてくだされば、僕の心持がよく御了解出来ることと思います。
  11月16日
 高 山 辰 三 兄

 と、まあ、こういった文章が11個もあります。相馬御風では「文壇与太物語」の序文は書かないとはっきり拒否しています。それがそのまま序文として登場しています。いったい著作権はどうなっているの? 大正の世は穏やかでした。
 では本来の「文壇与太物語」に行ってみましょう。

   近松秋江となめくじと女
■蛇のような未練 『別れたる妻に與ふる手紙』というだらしない小説を書いて、間男と逃げられた妻にながながと蛇のやうな未練をのべた秋江の話が、たまたま、ある夜のカフェーで、文壇の毒舌家A氏の口から滑り出た。
 「秋江は色情狂だよ。あいつはね、ええと妻君に逃げられた当時だから、だいぶん前のことだが、ある日、蒼白な顔で僕の室へ飛び込んで来て、がたがたふるえているんだ。いったいどうしたんだ? ときくと、襲われるようにきょ・・とき・・ょと・・しながら、『いや、君、僕は怖ろしくてしょうがないんだ!  気違になりそうだ!  実はね、僕は先刻昼寝をしていたんだがね、丁度眼のまえで、妻が間男と寝ている夢を見たんだ。はっと・・・思って眼が醒めると、僕は裸足で戸外へとび出して、手にナイフを握っているんだ! その瞬間、僕はもう怖ろしくて怖ろしくて、どうしょうもないんで、君のところへ飛び込んだんだ!』って、それでなくてさえ、いやに蒼白い顔を、胸が悪くなるほど蒼くしてがたがたふるえているんだ。」
■秋江と女の足袋 同じA氏の話「秋江がね、いつか田中王堂のところへ遊びに行ったんだね。二人共、ひるまなかから、自慰をやっているような奴らだろう。二人で夢中になって、わけのわからん哲学を喋っていたんだね。そこへ、突然往来から、気違が飛び込んで来て、いきなり後から秋江の首をしめたんだそうだ。秋江きゃ・・と一声悶掻き出すと、あのちっぽけな王堂、一世一代の勇をふるって、気狂の後から、しっかと抱き止めたものだ。而してその気狂を戸外に引きずり出して、室へ帰って見ると、肝心の秋江がいない!!! そのはずさ、当の秋江は、あまりの急な変事に顛動して、足袋裸足のまま、往来へ飛び出して、田中の家から近い、千葉掬香の邸へ飛び込んで行った。千葉の殿様の邸みたいな玄関に立つて、葡萄酒! 葡萄酒と怒鳴っている。千葉の妻君が、その声に驚いて、飛び出して見ると、汚ない服装みなりをした乞食みたいな男が蒼くふるえて、ドラマティックな声を出してしきりに葡萄酒! 葡萄酒! とどなっている。それがよく見ると秋江だとわかって、何のことか、わからんが、とにかく上げて、床をのべて寝かして、葡萄酒をのましたんだね。而して、暫らくすると、正気にかえったから、様子をきくと、こうこうだというので、妻は枕元で笑をしのんで坐っていた。すると、秋江、そろりそろりと、千葉の妻君の方へすり寄ってくるので千葉の妻、ついにたまらなくなって逃げだしてしまった。それでも、帰るときには、泥まみれになった足袋の代りに自分の白い足袋をくれて、下駄をかしてやった。ところが、秋江のやつ、自分の小さい足によくあう、その貰った足袋に随喜してよろこんで、それからというものは、白いのが真黒になるまで、はいていて、誰にも彼にも、君、これは千葉の妻君に貰ったんだよ! と足袋に接物もしかねない様子なんだ。一方千葉は、それからというものは、徳田という男は色きちがいだ。あんな奴以後決して寄せつけはしないと憤慨してるそうだ。」
別れたる妻に與ふる手紙 小説は「別れたる妻に送る手紙」です。
田中王堂 たなか おうどう。哲学者・評論家。京都の同志社などからシカゴ大学卒。デューイの思想を学び、日本にプラグマティズム哲学を紹介。東京工業学校の哲学担当教授、東京専門学校(現、早稲田大学)教授、立大教授を歴任。生年は慶応3年12月30日(1868)、没年は昭和7年5月9日(1932)
悶掻く 「もがく」でしょう。踠く。藻掻く。もだえ苦しんで手足をやたらに動かす。あがく。
しっかと 確と。聢と。しっかりと。かたく。
而して 「しこうして」そうして。それに加えて。「しかして」そして。それから。
千葉掬香 ちばきくこう。青山学院卒、エール大学卒。早稲田大学で教鞭を執った。生年は明治3年6月26日、没年は昭和13年12月27日。69歳。
随喜 ずいき。他人が善いことをするのをみて、これに従い、喜ぶこと。
   谷崎潤一郎氏の変態性欲
 女装して浅草を歩いて見たり、女の鼻汁をべロべロなめたりする潤一郎氏の変態性欲は誰でも知っている有名な事実だが、これも一種の色情狂さ!。
■変態性欲という変った研究も面白いが、読者をして、笑わせるような態度がいけないと誰かがいったと思う、全くのことだ。潤一郎氏の態度は不真面目でいけない。どうせディレッタントだから仕方がないやうなものの。
三木露風氏と並べられて、麗々しく、本郷下宿業組合の未払者の貼出しの中に、氏の名前を見たのは、大分古くからのことだ。
■しかし、文章は実にうまいものだ、その雅かな、すらすらとした、而して豊艶さにはいつも敬服する。
■創作としては、このほど、萬朝報をひいたという弟精二君の方が、この頃しっかりしたいいものを書くようになったと思う。
ディレッタント dilettante。専門家ではないが、文学・芸術を愛好し、趣味生活にあこがれる人。こう家。半可通。
新講談 講談は張り扇で釈台を叩きパパンという音を響かせて調子良く語る芸。新講談は書き講談ともいい、調子良く書いたもの。
雅か 雅びか。みやびか。雅びやか。みやびやか。上品で優雅な。風流な。
萬朝報をひいた この場合の「ひく」は不明。「引き寄せ操って目ざす所に伴う」でしょうか?
精二 谷崎精二。小説家・英文学者。萬朝報記者。文芸同人雑誌「奇蹟」、のち「早稲田文学」に作品を発表する。昭和23年から35年まで早大文学部部長。生年は明治23(1890)年12月19日。没年は昭和46(1971)年12月14日。80歳。

   昇曙夢氏と松井須磨子
■曙夢氏を訪ねて、談たまたま芝居に及んだ。と、氏は急に語調をかえて、「君、すま子の住所を知りませんかねえ?」ときかれる。「さあ、嶋村さんと一しょに、何でも水道町あたりだとききましたが、しっかり覚えておりませんが……一体何ですか」とむらむらと起る好奇心を、強いて押えて答をまつと、「いや、……実は、先達、博多の興行先から、博多の女帯を贈っくれたのだが、住所が解らんので、つい礼状も出さずにいたから……。」とはて、面妖な、昇さんにすま子が、女帯を贈る、わが厳粛な昇氏(正教神学校及び陸軍中央幼年学校講師)……どうも変だ、しかし、これは、解って見れば何でもないことだ、曙夢氏は、二葉亭の死後、いまの日本で、ロシヤ文学のオーソリティとしての氏は、よくつねに劇のことについて相談をうける、その御礼として、近来ますます商売気を起して、一生・・懸命・・愛嬌をふりまくすま子から、女帯は奥様への贈物となったとて驚くほどのことはない。
■氏は今年から、早稲田の文科にロシヤ文学を講じているが、まことに悦ぶべきことである。しかし、いまや氏の実に見事な長い八字ひげは、短かく刈られてない。直ちに表象し得るの故を以て、珍重してみたところの漫画家とともに、あの美髭を痛切に惜しむ。
昇曙夢 のぼり しょむ。ロシア文学者。明治36年、ニコライ正教神学校卒業。神学校講師、陸軍士官学校教授、早大、日大などの講師を歴任。生年は明治11年7月17日。没年は昭和33年11月22日。80歳。

   相馬御風氏と昔の恋人
評壇の寵児御風氏 いまの日本の評壇を一人で背負って立っているかの如き御風氏はたしかに幸運児である。勿論その幸運は氏の頭のいいのと、利巧なのとの贈物である。氏はまたかなりな精力家なのも気もちがいい。而して、氏の主義主張はその著『自我生活と文学』『毒薬の盛』『御風論集』『個人主義思潮』に於て、とにかくに終始一貫した雄々しい態度がある。たとえ大杉氏に何といわれようとも、武者小路実篤氏に『軽薄なヒョットコ』といわれようとも、私は氏を尊敬する。
むかしの恋人小口みち子 さる年、御風氏の子どもが病気で、歌舞伎座の近くの某病院に入院させた。氏は毎日病院で看護していたが、夕方にさえなれば、ちょっと散歩に出かける。どこへ行くのかと思うと、銀座の灯の下をさまようのである、しかも、あの優しいしっとりした舗石の上を歩くのかというと大違いだ。毎晩毎晩銀座の町のうす暗い露地の闇へ消える。そしてまたひょっこり外の露地から出てくる。いつたい何をしているのか思えば、むかしの恋人、今の青柳有美先生の『畏敬せんとしつつある』古くして而して新らしい女丈夫小口みち子の家を探していたのだという。
■その小口みち子は、今、あたりで、美顔術の先生をしているそうな。しかし、今になってはもう御風氏が、その家を探す心配もあるまい。この女、かつて、青柳有美の中央公論に書いた『かくあるべき女』を見て憤慨し有美を扶桑新聞社に訪ねて、『私は今日青柳有美を殺しに来たんだ!』と、その権幕に恐れて流石の有美先生も隠れてしまい、記者の松本青峰に会わせた。あの美しい顔で、……恐ろしいことだという古い噂がある。
衆望 しゅうぼう。多くの人々から寄せられる期待・人望
小口みち子 歌人、婦人運動家、美顔術研究家。平民社、売文社に参加し、短歌、俳句、小説を「へちまの花」などに寄稿。
青柳有美 あおやぎゆうび。ジャーナリスト、随筆家。明治26年から「女学雑誌」にかかわり、のち主幹。大正では「女の世界」の主筆
松本青峰 ジャーナリスト、小説家。

   加能作ちゃんと北海道の女優
文章世界の加能の作ちゃん 風邪と称して一週間ばかり家に引籠っている。親友の某氏奇怪なことだと訪ねて見ると、どこも悪そうにもない、「どうしたんだ?」ときいて見ると実は女優にふられた恋かぜ、、だとわかった。なあんのこった、柄にもない——その相手というのは北海道の産××××子。知ってる人は知ってる筈、芸術産の第一回公演の際に、北海道から女優志願とあって、はるばる上京して、めでたく舞台を踏んだ二人の姉妹のことさ。即ちこの話も、その折のことだから、まあ三年ほど前のことだ。
加能の作ちゃん 加能作次郎です。
文章世界 博文館の文芸雑誌。1906年(明治39)3月~20年(大正9)12月。全204冊。その後、翌21年1月『新文学』と改題したが、12月廃刊。12冊。編集長は田山たい、長谷川天渓てんけい、加能作次郎。国木田どっtの『二老人』(1908)、島崎藤村 とうそん の『桜の実の熟する時』(1914)などを載せ、自然主義全盛の時期にはその推進の拠点となった。
三年ほど前 大正元年でしょう。

   森鴎外博士のケーヤレス・ミステーク
■博士のドイツ語の力は、実に堂々たるものだが、あまり堂々すぎるので、時々 Careless mistake.があるそうだ。それは註解なんかあっても、てんで、そんなものは見ないのだという。
 ハウブトマンの『寂しき人々』の中で、「春の鳥」という言葉がある。註解に「春の鳥とは蝶をいう」とあるのを注意せずに、平気で「春の鳥」と訳しているのは、可愛らしいと誰かがいっていた。
森鴎外博士の糞 ある日、森さんが折柄の来客に向っての話に「僕は近来、糞というものについて、非常な興味を持っている。で、糞の話を三つばかし書いて見ようと思う。まあきいてくれたまえ。その一つはこんな筋なんだ。まず京都に、富豪の道楽息子がいることにする。その息子はもう散々遊びつくして、所謂アブノーマルな遊び方でなくてはどうしても興味が無くなり、満足が出来なくなっていて、何か人間をあっ、、と驚かしてやろうと考え込んでいる中、ある晩、ふと夜店で、何ともつかつぬ太い銅の筒を、つい買わされる。すると彼はそれを持て祇園の茶屋に行って、界隈のならず者を全部狩り出して、酒を呑ましてどんどん騒ぐ。その揚句に深更、そこを出て往来に立つと、糞をひれという。而してやがて、各々に先きの太い筒にひらせて、それを上から押し出しては、ごろり、、、と大道のまん中へ置き、都大路に落して歩き帰ってしまう。それが翌朝になると大変だ、京都市中は大騒きになる。『よんべ天狗はんが町をお歩きやして、大きなうんこ、、、をおとしやしたんえ!』人々は大通りの、人造の大きな糞の周囲に集って眼を丸くして、中には恐怖の眉を震わすものが随分ある。道楽息子は手を打って喜ぶ。というんだ。これに類似した話は支那にもあるが、どうです面白いでしょう。ハァハハハ。も一つはねえ……」話はまだ続くが、あんまり芳しい話でもないからこれ丈にして置く。これは支那の俚話のやき直しらしい。
つかつぬ 「つかぬ」だとすると「思いがけない、考えもしない、全く期待や希望に反している、とっぴな、だしぬけな」
ひれ ひる。放る。体外へ出す。ひりだす。
俚話 「りわ」か? げんは、昔から人々の生活の中で言い慣わされてきた、知恵や教訓や風刺の意を込めた短い言葉

   夏目漱石氏の電話
■漱石氏の家の電話は、いつも受話器をはずして置くという。ある人これを主人漱石氏に叩けば、
「電話はこっちからかける時にだけ必要なんだ!」となるほど受話器をはずして置けばいくら先方が、かけようたって、通じないわけだ。ここらが例の漱石流というのだろう。

一瀬幸三氏はすごい人だった!

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏は新宿区の郷土研究家として力を発揮していたのですが、では、その前の仕事は何をしていたのでしょうか? 調べてみました。
 まず一瀬幸三氏が書かれた本で、新宿区と国会の図書館に入っているものです。他にもあるはずですが、ここでは図書館の本に限定しています。

新宿区立図書館と新宿歴史博物館の収集本
新宿郷土研究 第1号~第5号 1965〜66年
新宿区史跡の会々報 1966.06
円朝考文集 第1 窪田孝司/編 円朝考文集刊行会 1969.06
円朝考文集 第4 窪田孝司/編 円朝考文集刊行会 1972.06
新宿の石仏 1970.08
新宿のキリシタン 1972.05
新宿郷土研究史料叢書 第1冊 右衛門桜古跡石文 全 1972.09
新宿郷土研究史料叢書 第2冊 新宿のキリシタン 1973.07
新宿生物文化史 1978
霊場源流考 府内八十八ケ所 1983.05
新宿遊郭史 1983.10
新宿の四季 野草;新宿区ビデオ広報 一瀬幸三監修 読売映画社 1988 DVD
新宿の牧場昔むかし 新宿郷土研究史料叢書 第6冊 1990.03
牛込矢来町の福島中佐と単騎シベリヤ横断 新宿郷土研究史料叢書 第7冊 1990
牛込藁店亭と都々逸坊扇歌 新宿郷土研究史料叢書 第8冊 1991.03
太田道灌と山吹の里新考 新宿郷土研究史料叢書 第9冊 1991.07
歌人前田夕暮と西大久保 新宿郷土研究史料叢書 第10冊 1992.01
石原和三郎と田村虎蔵 言文一致唱歌の創始者 第 11冊 1992.07
太田道灌と山吹の里新考 続 新宿郷土研究史料叢書 第12冊 1992.11
大和田建樹の作歌活動と東榎木町 新宿郷土研究史料叢書 第13冊 1993.05
四谷笹寺勧進相撲興行新考 新宿郷土研究史料叢書 第14冊 1993.11
浄瑠璃坂の敵討は牛込土橋 新宿郷土研究史料叢書 第15冊 1994.02
国会図書館の収集本 214件
こどもクラブ、僕らの幼稚園、小学館の幼稚園、よいこ 一年生、小学一年生、小学二年生、小学三年生、小学四年生、小学五年生、小学六年生、中学生の友 1年、中学生の友、女学生の友、日本詩謡曲集 1982など
新宿区郷土研究会が著書の本
新宿郷土研究 1978
牛込氏と牛込城 10周年記念号 1987
郷土新宿 第21号 簡易製本 1989
新宿追分の研究 15周年記念号 1992
神楽坂界隈 20周年記念号 1997


 最古の著作は昭和5年(1930)です。この時は東京帝国大学農学部の板垣四郎氏と一ノ瀬幸三氏は「馬の頸靱帯に寄生する頸部オンコセルカ」(中央獣医会雑誌)を寄稿しています。昭和6年(1931年)には「犬の急性腎炎」(応用獣医学雑誌)を書いています。なお、大正15年の東京帝大の入学者数は2,363人で、令和6年の東大は3,060人。現在の方は大正に比べて30%ほど合格数は多くなっています。
 昭和14年(1939)になると、一ノ瀬幸三氏は瀬戸川氏と一緒に満洲国の新京動植物園から動物収集で、牡丹江省(現在の黒竜江省東南部)に出張しています。「新京動植物園」は満洲国首都の新京特別市(現在の吉林省長春市)の中にありました。この時は一ノ瀬幸三氏は新京動植物園に勤務していましたが、昭和17年には元勤務となり、おそらく日本に帰ったのでしょう。また「満洲の冬と動物」の筆名は「一ノ瀬幸三」ではなく、「一瀬幸三」でした。他にも「一の瀬幸三」や「K・I」という筆名も出てきますが、別々の人物ではなく、同一の人でしょう。
 ちなみに、昭和20年(1945)、ソビエト連邦の満洲侵攻が起こり、満洲国は滅亡、新京動植物園も消滅します。園長の中俣充志氏は日本に帰ってから、北海道に最初で戦後最北となる札幌市円山動物園の園長に就任します(1950年9月~1964年7月)
 では、一瀬幸三氏は日本に帰ってから何をやっていたのでしょうか。国立国会図書館で調べてみると「良い子の友」「たのしい一年生」「小学二年生」「小学三年生」「中学生の友1年」(全て小学館)「僕らの幼稚園」(森の子供社)「5年の学習」(学習研究社)といった雑誌に動物の逸話などを沢山書いています。「小学二年生」では「一ノ瀬幸三」と「一の瀬幸三」のどちらも出ています。また輪投げなどの作詞をしています。しかし、これだけでは収入は不十分で、また、職業もわかりません。
 昭和30年(1955)舩木枳郎氏と一ノ瀬幸三氏は『小二教育技術』(小学館)に「現行初級用教科書の内容を批判する」と題して(K・I)が書いています。

「こうまの太郎」に、子馬が母馬から離れて、汽車の走るほうに走っていき、かえり道がわからないとあるが、馬、牛は、道をよく覚えている習性があるので、このとりあげ方はぎもんである。
「ピピピピ、ピンピン」を女のことばでつぐみの声としているが、これはおかしい。なぜならばつぐみとはにてもにつかぬものである。つぐみの声は川村博士によれば三通り分類している。
 ⑴ ぐす音=グシュグッシュ。またはクスクスクス。
 ⑵ ひょう音=キョーキョー。またはチョーチョーチョー。
 ⑶ ひしぎ音=シャッシャッ。
であるが、ご一考をわずらわしたい。また、前節では「ひばりのうた」と言い、後節では声としているのはどういうわけか、統一してほしかった。
 気になることでは「めじろ」で、「めじろが、山で チチ、チチないています。ほくのめじろも、かごの中で、チチ、チチないています。きっと、山へ いって なきたいのでしょう」というのがあるが、山でめじろが鳴いたということは距離的におかしい。カッコウ、ツツドリ、キジバトなどならまだしも、めじろの声は山で鳴いたぐらいではきこえない。やはりこの場合、裏山とか庭先とかとすべきであろう。

 また、武田尚子氏(中公新書『ミルクと日本人』2017)は、インタービューに答えて「ミルクの関連資料を求めて、あちこちのアーカイブや個人所蔵の資料を見に足を運びました。札幌の雪印メグミルク酪農と乳の歴史館で、特別のはからいで一瀬幸三寄贈資料を見せていただき、色とりどりの鮮やかな牛乳の引き札(チラシ)を目にしたときは驚きました。多くの方に紹介したいと思い、先人の努力の賜物を受け継いで、この本(『ミルクと日本人』)が出来ました」
 そこで雪印メグミルク株式会社にメールで聞いてみましたが「弊社『酪農と乳の歴史館』に、一瀬幸三氏より資料を寄贈いただいていることは事実でございます。ただし一瀬幸三氏についての詳細はわかりかねます。せっかくお問い合わせをいただいたにもかかわらず、お役に立てず申し訳ございません」とのこと。
 「隅猪太郎氏の鶴印練乳所」「大宝律令・厩牧令」という文書も一瀬幸三氏のものです。
 また、農林省畜産局編「畜産発達史」(中央公論、1966)では一瀬幸三氏は戦前の酪農業の進展を描いています。この時はデーリーマン社(北海道協同組合通信社)に働いていました。この「畜産発達史」は東大教授、日大教授、常務理事など錚々たる顔ぶれが執筆しています。おそらく北海道の通信社に働くのは退職後の仕事だったのでしょう。
 ここまでは獣医らしい言質でした。一時、畜産コンサルタントになり、引っ越して、新宿区市谷山伏町に住み始めます。
 『にっぽんの教師3』(サンケイ新聞出版局、昭和41年)「BTA」(ボスと教師の会、ボスが牛耳るPTAのこと)には……

 “BTA”の弊害に気づいて、PTAの改革に成功した先生に登場してもらおう。東京・新宿区立牛込第一中学校の福本菊雄先生。
 福本先生が、牛込一中に赴任したときは、この学校のPTAも一部の役員によってきりまわされていた。赴任早々、PTAの役員選挙が行なわれた。定連の役員たちが校長室に集まり、サッサと会長、副会長の候補をきめるのをみて、福本先生はあぜんとした。
 こういうPTAを改革するには、PTAの規約を改め、新しいルールをつくりだすほかはない。先生はそう判断した。PTAの一人、一瀬幸三さんが、こういうPTAのありかたに疑問をもっていることを知ると、一瀬さんにPTAの庶務係になってもらった。そして、二人で全国各地のPTA規約を取り寄せて勉強し、三年がかりで、規約を全面的につくりなおした。
 この時はPTAの一員でした。
 さて新宿区では郷土研究家になっていきます。昭和40年頃から新宿郷土会の主宰になり、昭和40年(1965)から41年に第1号から5号までの「新宿郷土研究」を出版し、昭和47年(1972)から平成6年(1994)まで「新宿郷土研究史料叢書」15冊を出しています。また、一瀬幸三氏は新宿区の文化財調査員(昭和43~48年度)にもなっています。さらに、古文書を収集し、これは新宿区文化財総合調査報告書(2)にまとめて報告してあります。平成10年(1998)に死亡したようです。
「牛込矢来町の福島中佐と単騎シベリヤ横断」を出版した1990年に自分は「80歳を越えた老人」だといっています。すると、昭和6年(1931年)では「21歳を越え」、敗戦時(1945)に「35歳を越え」、昭和40年(1965)に「55歳を越え」ていたようです。当時、50~55歳で退職をする人もいました。
 では、50~55歳以前の職業は何だったのでしょうか。最も一般的な就職は、氏の獣医免許から見て、民間の獣医師ですが、普通は民間で働く獣医には退職はないですし、氏のようにある年齢になって(退職して?)堰を切ったように大量の文章を書き上げるのも、少し違うようです。大学や研究機関で働くのは論文が全くないので、まず違いますが、動物園で働く場合、公務員として食肉衛生や家畜衛生に関係する場合、民間企業で動物用医薬品の開発や販売する場合などは、十分あり得ます。さらに、獣医師の免許があれば高等学校の理科・農業と中学校の理科についてはそのまま教諭になれます。
  最終的には次の書籍でわかりました。つまり「海燕」第14巻第11号(1995)の松本健一氏の「こうしいて青山に入る」242頁では……
『新宿の牧場昔むかし』(新宿郷土研究史料叢書第6冊、1990年刊)をよんでいたら、広沢牧場の場所がかんたんにわかったのである。この著者の一瀬幸三さんというひとは、新宿歴史博物館の鈴木靖さんによれば、ながく雪印乳業につとめていたので酪農業や牛乳の歴史などにくわしい、ということだった。現在まだ健在である。
 なるほど、雪印乳業に勤めていたのですね。

一瀬幸三


 また、氏の書籍の中表紙には蔵書印(「一瀬文庫」)が押してあります。相当大量の書籍があり、しかも史料としても重要な古書もあったようです。一例は日蓮上人の『宗門先師略年代記』(現存するのは世界に1冊だけ。古本屋の希望価格は約54億円)です。
 考えてみると、新宿区の神楽坂に近いところに引っ越した後は、一人では考えられない量の文献を読み、全く違う分野で、つまり郷土研究家として第一線の成果を上げる。信じられない、と思います。

沼地だった大曲付近|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地域 42.沼地だった大曲付近」を見ていきます。「昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐになった。地図をみると、新宿区と文京区の区境が入れ混っているが、これは昔の江戸川の流路であったからである」という考え方は部分的に正しく、「昭和のはじめごろ」はおかしいと思えます。

沼地だった大曲付近
     (新小川町一、二、三丁目
 大曲一帯は、江戸時代初期には白鳥沼という大きな沼であった。また前にのべたが飯田橋あたりは大沼という沼地であった(11参照)。それを、万治年間(1658ー60)、お茶の水堀を掘る時、掘りとった土や白銀町の台地(御殿山)を崩した土で埋めたてたのである。そして神田小川町の武家屋敷をここに移したので新小川町と名づけられた。大曲のところの橋を白鳥橋というのは、昔の白鳥沼の名前をとったのである。
 神田川は、このあたり低地を蛇行して流れていた。大雨の時などは川が氾濫して、まわりの田畑は洪水の害を受けることが多かった。
 そこで昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐになった。地図をみると、新宿区と文京区の区境が入れ混っているが、これは昔の江戸川の流路であったからである。新小川町などは、はじめ文京区の小石川地区であったが、明治13年11月に牛込区に編入されたものである。
 落合から下流飯田橋までをはじめ江戸川と呼んでいたが、昭和40年4月からは神田川と呼ぶことになった。下流のお茶の水、浅草橋、隅田川までは、江戸時代に江戸城外堀として掘られた人工の川である。
 お茶の水堀ができない前は、神田川は、白鳥沼から大沼、小石川橋九段下神田橋常盤橋日本橋鎧橋を通って江戸湾に注いでいた。古くは大沼から一ツ橋あたりまでを上平川、それから下流を下平川と呼んでいた。
 神田川の上を高速道路が開通したのは、昭和44年である。
〔参考〕江戸砂子 沈み行く東京 江戸町づくし稿中巻
大曲 おおまがり。道などが大きく曲がっていること。その場所。新宿区と文京区では神田川の流路がほぼ直角に曲がっている所。
新小川町一、二、三丁目 現在は昭和57年(1982)の住居表示実施に伴い、1~3丁目は統合、なくなり、新小川町だけになりました。
白鳥沼 小石川大沼の上流の池。
大沼 小石川大沼。江戸初期以前では神田川(平川)と小石川の合流地点。湿地帯だった。

菊池山哉「五百年前の東京」(批評社、1992)(色を改変)

埋めたてた 「御府内備考」「牛込之一」「総論」では

万治のころ松平陸奥守綱宗仰をうけて浅草川より柳原を経て御茶の水通り吉祥寺の脇へかけてほりぬき水戸家の前をすき牛込御門の際まで堀しかははしめて牛込へ船入もいてきしこのほり上たる土を以て小日向の築地小川町の築地なり武士の居やしきをもたてり、この築地ならさる前は赤城の明神より自白の不動まで家居一軒もあらて畑はかりなりしか、是より武士の屋敷商人の家居も出来たり
 新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)では
新小川町は、明暦四年(1658)の3月、安藤対馬守が奉行となり、筑土八幡町の御殿山を崩して埋め立てたのである。また、万治年中(1658一60)には仙台の伊達綱宗がお茶の水堀を掘って神田川の水を隅田川に通ずる工事をした時、その掘り土でこの地を埋め立て、千代田区小川町の武士たちを移した。そこでこの埋め立て地を新小川町といった。
 新宿区生涯学習財団「新修 新宿区町名誌」(平成22年)では
万治年中(1658-61)には仙台藩伊達家が御茶ノ水堀を掘って神田川の水を隅田川に通す工事をした際、その堀土でこの地を埋め立て、千代田区小川町の武士たちを移した。そこでこの埋立地を俗に新小川町と呼んだ。
 東京市麹町区編「麹町区史」(昭和10年)では
 翌万治3年2月10日、有名な神田川開疏が行われ、伊達家の担当で牛込から此の門(筋違橋門)際舟入りとなる。

昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐに 間違えています。寛文11-13年(1671-73)からは、氾濫がない場合に、江戸川橋より下流では今とほぼ同じ流路でした。

新板江戸外絵図。寛文11-13年。(1671-1674)

昭和22年 住宅地図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

昔の江戸川の流路 何が原因で区境になったのでしょうか? 正保元年(1644)頃の正保年中江戸絵図を見てみます(下図)。前図からさらに古い地図ですが、神田川は江戸川橋から東方になっても蛇行をしているようです。

正保年中江戸絵図。嘉永6年(1853)に模写。原図は正保元年(1644)か2年に作成か

 そこで伏目弘氏は『牛込改代町とその周辺』(自己出版、平成16年)で「仮称『江戸川大沼』の南側の淵を、小石川区(現文京区)と牛込区(現新宿区)の区境としたのでは」と考えています。

交錯する江戸川橋付近の区境 現在の江戸川橋交差点付近には、神田川を境に文京区と新宿区の区境が錯綜している地域がある。文京区は、昭和39年から42年にかけて、町成立の歴史認識を無視し、町名変更を実施したのである。
 旧町名の小日向町・東古川町・西古川町・松ヶ枝町・関口水道町・関口町の六カ町は、一律に関口一丁目・二丁目となったのである。これらの旧町と新宿区の町境を歩いてみると、まるで迷路のようである。ここで仮説を交え、その原因を探ってみる。
 単純に立地条件を考慮してみると、江戸川橋交差点付近は往古は沼地であったと推定できる。西北に、目白関口台地と続いて雑司谷があり、雑司谷を水源とした野川は蛇行して音羽の谷に流水し、小日向台地下に弦巻川大下水を形成し、目白関口台地下には鼠谷大下水があった。
 他方南の牛込台地の流水は、音羽の谷(現江戸川橋交差点)に自然集水し、沼地となっていたと思われる。やがて江戸期になり神田上水と江戸川改修で沼地は耕作地帯に変貌し、明治期に区制が成立した際に区境の位置が問題になり、往古の仮称「江戸川大沼」の南側の淵を、小石川区(現文京区)と牛込区(現新宿区)の区境としたのでは、と推測をするのである。

 別の考え方には「蟹川」があり、その流路は図の最低標高線になり、そして2区の境界になったと考えられます。

東京実測図。明治18-20年。参謀本部陸軍部測量局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

牛込区に編入 岸井良衛編「江戸・町づくし稿 中巻」(青蛙房、1965)には

 明治5年7月に、旧称をそのまま町名として、東から一、二、三丁目と分けた。その当時は小石川区に属していたが、明治13年11月から牛込区に編入された。

江戸川 神田川中流。かつては文京区水道関口のおおあらいぜきからふなわらばしまでの神田川を「江戸川」と呼んだが、昭和39年制定の新河川法で、昭和40年4月からは神田川と呼ぶことに。名前の由来は、1603年に徳川家康が上水を整備した際に橋も建設したから。井の頭公園はその源流。以前は関口大滝橋までの上流を「神田上水」、船河原橋からの下流を「神田川」と呼んだ。
小石川橋 千代田区飯田橋と文京区後楽との橋。
九段下 千代田区のかつての町名。現在の九段北・九段南に相当する。
神田橋 千代田区の日比谷通りの橋。右岸は大手町一丁目、左岸上流側は神田錦町二丁目、下流は内神田一丁目など。
常盤橋 ときわばし。千代田区大手町と中央区日本橋本石町との橋。
日本橋 中央区の橋。江戸時代1603年(慶長8年)、江戸で最初に町割りが行われた場所にあった川の木造の橋。現在の橋は1911年(明治44年)に竣工した石造りの2連アーチ橋
鎧橋 よろいばし。中央区の橋。左岸(北東側)は日本橋小網町、右岸上流側は日本橋兜町、下流は日本橋茅場町など。

日本橋川 [8303040045] 荒川水系 地図 | 国土数値情報河川データセット


一ツ橋 千代田区の日本橋川の橋。一ツ橋一丁目と大手町一丁目の間から一ツ橋二丁目と神田錦町三丁目の間までの橋。
上平川下平川 平川とは日本橋川のこと。平川は武蔵国豊嶋郡と荏原郡との境界であり、江戸市中へ物資を運ぶ輸送路、江戸城を守る濠として利用された。
神田川の上を高速道路が開通したのは、昭和44年 首都高速5号池袋線(千代田区の竹橋ジャンクションから埼玉県戸田市のジャンクションまで)だけが神田川の上を走ります。西神田出入口と護国寺出入口との間の開通は1969年(昭和44年)6月27日でした。

牛込城|日本城郭全集

文学と神楽坂

 鳥羽正雄等編『日本城郭全集』(人物往来社、1967)では新宿区にある城として3つしか載っていません。牛込城、南北朝時代の早稲田の新田陣屋、築土城です。今回は牛込城に光を当てます。
 残念なことに、いつ築城したのかは不明で、また、廃城は小田原落城と同じ頃に落城したとすると1590年前後でしょう。

牛込うしごめ   新宿区袋町
 牛込城は、牛込藁店わらだなの上(『江戸往古図説』)すなわち、いまの新宿区袋町付近の台地にあった。宗参寺を牛込城の地とする説もあるが、宗参寺は天文13年(1544)建立の寺であり、城址に建てた寺ではない。
 牛込城が、台地を利用した丘城であったことは間違いないが、その規模は明確ではない。『御府内備考』によれば、おおは神楽坂のほうにあったといい、また、「城地の蹟とおぼしき所多くのこれり」とあるが、いまではまったく城址の片鱗も残ってはいない。
 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城 (埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年前後と推察される。
 重行の子 宮内少輔勝行は北条氏康に仕え、天文24年(1555)正月6日、大胡を攻めて牛込氏を称した(『寛政重修諸家譜』)。この改氏を『改撰江戸志』では5月としている。このときの勝行の所領は牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総の堀切、千葉にまで及んでいた。勝行は天正12年(1584)、致仕し、三右衛門勝重が跡を継ぎ北条氏直に仕えたが、天正18年(1590)、小田原落城とともに、牛込城も廃城となった。勝重は翌年、徳川家康に仕えたが、その孫伝左衛門勝正にいたって嗣子なく、牛込氏の嫡流は断絶した。
(江崎俊平)

藁店 別名は地蔵坂。細かくは藁店(わらだな)は1軒それとも10軒
江戸往古図説 国書刊行会刊行書「燕石十種 第3」「江戸往古図説」では「牛込城址今の藁店の上城地也と云牛込氏居城」になっています。
城址 じょうし。城のあった跡。城郭や城市のあと。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 牛込城蹟の部分では……

牛込城蹟
牛込家の伝へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほき所多くのこれり云々江戸志 按に今の樹王山光照寺は慶長三年(1598)戊戌の起立なり

追手門 おうてもん。おお門と同じ。城の正面に位置する門
城地 じょうち。城と領地
大胡宮内少輔重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」。宮内は「くない」。少輔は「しょうゆう」か「しょう」
後裔 子孫。すえ。後胤
群馬県勢多郡大胡町 2004年12月5日、前橋市へ編入され、現在は「群馬県前橋市大胡町」に。
寛政重修諸家譜 かんせいちょうしゅうしょかふ。大名や旗本の家譜集。幕府は寛政11年(1799)に堀田正敦まさあつを編集総裁に任命。文化9年(1812)に完成。凡例目録とも1,530巻が同年11月に献上した。
上杉修理大夫朝興 おおぎがやつ上杉朝興ともおき。室町後期の武将。北条早雲と戦って敗れ、のち早雲の子氏綱に江戸城を攻められて河越城(埼玉県)に移る。天文てんぶん6年4月27日河越で死亡。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の武将。後北条氏第3代。天文15年(1546)、河越城の戦で勝利し上杉氏を圧倒、関東における後北条氏の優位を不動にした。
勝行 「寛政重修諸家譜」では「勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉ちば等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲」
改撰江戸志 原本はなく、作者も瀬名貞雄と信じられるが、正確には不明。「改撰江戸志」を引用した「御府内備考」では
天文十三年牛込の地に於て一寺を健て雲居山宗参寺と号す。是父の法名によってなり。(中略)同廿四年正月六日従五位下に叙し宮内少輔に任す。同年五月氏康に告て大胡氏を改て牛込と号す。時に氏康より書を賜ひ武州牛込今井桜田日尾谷下総の堀切千景 千葉の誤りか を領す。(中略) 改撰江戸志 
致仕 ちし。官職を退く。退官して隠居する
嗣子 しし。親のあとをつぐ子。あととり。
嫡流 ちゃくりゅう。 嫡子から嫡子へと家督を伝えていく本家の血すじ。また、正統の血統。正統の流派

牛込城の構築|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)4「牛込城(袋町居館地)と城下町」についてです。もし牛込城があった場合、何がどこにあったのかという疑問があり、そこで昭和61年度に郷土研究会が一致団結して調査に乗りだしました。

牛込城(袋町居館地)と城下町
(1) 牛込城趾の調査
 牛込氏の居館が袋町にあった、という文献は多いが、城として存在を認めているのは『御府内備考』と『江戸名所図会』だけである。
 一般に、城には城としての条件——目的、規模、範囲、施設(、井戸、やぐら曲輪等)——があるものだが、今となっては不明な点が多い。
 今回、昭和61年度、1年がかりで、会員全員でこの調査にあたった。その結果を次に示す。
①目的……袋町への進出は重行の代とすると、まさに、戦国時代へ突入する直前の頃で、居館の安全性を考え、備えが必要だったと想われる。又、筑土八幡の高台は、すでに、扇谷上杉朝興によって“”が築かれ、赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町と、ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂供養塚(奥州街道に想定されている)との二本の古道があったらしい(『牛込区史』)。まさに、城はこの二本の古道を睨んで築かれている。
②規模……牛込氏の故郷、群馬県大胡町にある大胡城趾と、その規模、構造共に、亦、地形こそ違うが、その配置、施設と想われる場所が、非常に類似している。

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 「牛込城蹟」については……

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々

註:いかさま 1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき

江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

 空堀。からぼり。水のないくぼみ。
 水堀。みずぼり。水をためた堀。
やぐら 櫓。城門や城壁の上につくった一段高い建物。敵状の偵察や射撃のための高楼。
曲輪 くるわ。城を構成する防禦区画で、土塁や堀、石垣などで囲まれた平坦地。敷地内を複数の小さな曲輪で区切るのが日本の城の基本。壁面を急傾斜の切岸状にするほか、縁辺に土塁を盛り上げたり、外周や尾根続きに空堀を掘って外部から遮断する。
重行 大胡重行。日本城郭全集第4「東京・神奈川・埼玉編」(人物往来社、1967)では……

 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城(埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条[氏康]氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年(1578年)前後と推察される。

 天文6年は1537年で、豊臣秀吉が誕生した年でした。
筑土八幡の高台 筑土山。現在の筑土八幡神社がある高台
扇谷上杉朝興 室町後期の武将。江戸、川越の城主。朝憲の子。おおぎがやつ上杉朝良の養子。
神楽坂交差点 現在は「神楽坂上交差点」です。
二本の古道 図では「二本の古道」を描くと、中央から右に動く1本(赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町)と中央から左下に動く1本(ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂—供養塚)でしょう。

「牛込区史」「道路」の126頁では……

江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもないが、赤城下の築地の成らない前正保年中の地図に依つて見ると、本区の道路は牛込見附から通寺町榎町の通りを経て馬場下に達するものと、通寺町から南折して柳町から馬場下に達し、前者と合して旧高田馬場方面に走向するものと、(供養塚町の事蹟にこれを古奥州街道の一つと言っているのは採否の限りでないが、しかし比較的重視すべき原始往還たることだけは十分に察せられる)前記柳町附近から分岐して、西大久保方面に走向するものと、市谷本村町より渓谷を辿って谷町に至り、左右に分岐する谷に沿つて一は天神前方面、他は番衆町方面に走向する道路を幹線として、それらに若干の間道を連接する片町或は両側町式市街に過ぎない。

註:正保年中の地図 正保は「しょうほう」。地図は江戸初期、正保元年か2年(1644〜45)に作られたもの
通寺町 現在は神楽坂6丁目

 つまり「2本の古道」と「牛込区史」の「道路」とは全く違っています。さらに「江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもない」といい、これは江戸初期や戦国時代以前は、おそらく憶測が入るので、考えるべきではないといっているのでしょう。
牛込区史 東京市牛込区編「牛込区史」(昭和5年)です。
大胡城趾 群馬県前橋市河原浜町の空堀で区切った中世の城跡。鎌倉幕府御家人の大胡氏が城主。

③範囲……現在の地形、及び当時の状勢から想像すると、城の範囲は袋町を中心として、若宮、北、中、南、砂土原、払方、神楽坂4、5丁目の各町の一部、いわゆる牛込台地の南側一帯と考えられる。
 袋町の光照寺の台地は、この辺での最高地(海抜27米)で、後世、江戸時代には天文屋敷(天文台)が置かれた処である(『御府内備考』)。この台地が伝承の通り、牛込氏居館趾、本丸と思われる場所で、大胡城趾本丸居館趾高台の広さと同じ、8、90米四方になる。

光照寺 袋町15番にある浄土宗の樹王山正覚院光照寺です。
天文屋敷 現在は光照寺の正面にマンション「プラウド神楽坂ヒルトップ」です。
御府内備考 天文屋鋪では……

  天文屋舗蹟
天文屋鋪蹟は地藏坂の上半町ほと西の方なり 延寶の比はたゝ二軒の旗下屋敷ありし 享保十年の江戶圖には屋敷はなくてたゝ明地のことくにて有しと見ゆ その後佐々木文次郞といひし人 元御徒組頭なり 天文の術に長しけれは召出され やかてこひ奉り この所に司天臺を建て天文をはかれりされと この地は西南の遠望さはり多けれはとてその子吉田靱負の時に至り天明二年壬寅七月 或六月朔日ともいふ 今の淺草鳥越の地へうつされたり

牛込城(「牛込氏と牛込城」「東京都新宿区 (13104) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット」から)

 北側……急をなし牛込川の谷になっている(現大久保通り)。
 西側……南蔵院旧本堂前の池にそそいでいたと思われる沢跡が一直線に逆上り、北町、中町通りを直角に横切り、南町通りの直ぐ手前まで達している。水源地は南町通りから一寸と北へ入った箇所で、現在でも使用している井戸があり、当時は涌水が出ていたことであろう。この沢を、更に、手を入れて濠とした形跡がある。
 又、最高裁判所長官邸から払方町へ行く路が牛込中央商店街通りへ出る際に、不自然な凹地が路を横切る。その谷状地の南側は、急に、市ヶ谷濠に落ちて行く。北は崖状になって、民家の中を抜けて、南町通り近くまで達し、前記の水源地近く40~50米附近まで近づいている。恐らく、南町通りができた時にならされてしまったのではないだろうか。以上が西壕跡である。

牛込川 昔、南蔵院近傍から飯田橋駅近くの小石川大沼まで流れていたと思われた川。
南蔵院 箪笥町にある天谷山竜福寺南蔵院。
沢跡が一直線に逆上り これは空から見るとはっきりします。

沢跡と南蔵院

現在でも使用している井戸 これは40年近く前、昭和62年(1987)に書かれた文章です。井戸の有無は私にはわかりません。
最高裁判所長官 最高裁判所長官公邸は新宿区若宮町39にあります。
牛込中央商店街通り 正式には「牛込中央通り」。市谷田町交差点から矢来町交差点に至る南北に通る全長約1.2kmの通り
不自然な凹地 払方町に見られます。

払方町の不自然な凹地。

ならされる ならす。均す。平す。高低やでこぼこのないようにする。たいらにする。

牛込城(北と西)

 南側……現在の外濠り通りになっている谷に面して、相当の急崖になっている。
 東側……神楽坂通り善国寺裏あたりまでは崖になっている。若宮町14、西条歯科医院一帯は現在でも、はっきり解る濠跡である。
 ここは当時、空壕ではなく、湿地的な水の可能性さえある。この濠水の流れる谷が、現在の熱海湯通りで、両崖の高さからみて、かなりの水量があったことさえ想像される。そして、若宮八幡の前は崖状になって外濠通りへ落ちている。

外濠り通り 現在は「外堀通り」です。
若宮町14、西条歯科医院一帯 小栗横丁が西側で終わる地域を超えると、西側に西条歯科医院があります。西条歯科医院とその周辺(黄色)が若宮町14です。

若宮町14はこの写真では西条歯科医院とその周辺。右が北方。下の図(↓)では西条歯科医院の地図。

熱海湯通り 小栗横丁と同じ意味です。

 大手門……一説では地蔵坂下の説もあるが、もう少し南寄りの三菱銀行から宮坂金物店辺りではなかろうか。最近、ビル工事をした宮坂金物店の通りに面したところから頑丈なで組んだ井戸が発掘された。これが、いつの時代のものか不明だが、丁度、このあたりが神楽坂通りでは一番高く、古道に対する最短距離の場所となる。又、善国寺裏、料亭松ヶ枝の庭は階段状になり、左右に折れながら登っている。そして最奥の離屋は光照寺墓地のすぐ下へと続いている。この辺が大手門と本丸をつなぐ道ではなかろうか。

大手門 城の正面。正門。おう
宮坂金物店 神楽坂3丁目6-10です。現在はMIYASAKAビルに替わり、こう椿つばき」が営業中。
 ひのき。常緑高木。日本特産。山地に自生、広くは植林。高さ30~40メートル。樹皮は赤褐色で縦に裂け、小枝に鱗片りんぺん状の葉が密に対生する
本丸ほんまる 城郭で、中心をなす一区画。城主の居所で、多く中央に天守(天守閣)を築き、周囲に堀を設ける。

 大手門には仮説として2説があるということになります。一番目は地蔵坂(藁店わらだな)が神楽坂通りと交わる点、二番目はより南方(例えば毘沙門横丁や三つ叉横丁)と神楽坂通りと交わる点。重要なことですが、どちらも仮説です。

市ヶ谷牛込絵図(万延元年)

 江戸時代の「江戸名所図会」や「御府内備考」などでも大手門の位置はわかりません。「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々(註:いかさま=なるほど。いかにも)

 仮説1は芳賀善次郎氏の下図によっています。仮説2はこの文章で、おそらく文責は一瀬幸三氏にあったのでしょう。

図は「牛込氏と牛込城」から

 搦手門……不明。
 井戸……袋町25、26番地一帯は光照寺台地の南側で、一段、低くなっている。牛込城の二の丸とみられる処で、東ぎわは崖で、下は若宮町14の水濠跡になっている。この崖際に三木さんのビルがあるが、江戸時代の土井家の屋敷跡である。土井家時代からのものといわれる、外井戸が屋上にある。今でも、外水を全部まかなっている程、出が良く、大城の水門位置からみて、この辺が牛込城の水門口とみている。この辺り一帯の井戸で、最も重要な井戸と思われるものが26番地、飯塚ビル玄関前の井戸跡であろう。旧宅時代には便利で、良い水の井戸で、余り出が良いので、現在は下水栓につないであるとのことである。飯塚ビル向って左側の隣家は一段高く、その家に通じる路が、この井戸跡を巻くようにして登っている。その路を数登り切ると、光照寺本堂が目と鼻の先にある。水吸み路の名残りではなかろうか。

搦手門 からめてもん。城の裏門。
袋町25、26番地一帯 図を参照。

袋町。建物は昭和62年の時点。現在は西条歯科医院を除き全て新しい建物に変わっている。

二の丸 にのまる。城の本丸の外側を囲む城郭。本丸を守護し、城主の館、藩の各役所、武器や食料の倉庫など
三木さんのビル 袋町25の東南の角。
土井家の屋敷跡 「新撰東京名所図会」牛込之部「中」(東陽堂、明治、明治31年)では

袋町の桜。牛込袋町25番地は遠藤但馬守(江州三上の藩主1万3千石)の下屋敷の跡にして、其地続き及び26番地の辺は光照寺の境内地と幕士の宅址なり、いたく荒れ果てゝ、人の顧みる無し、牧野毅(故陸軍少將)貸して此の一廓を購い、修理して庭園となす。(中略)明治20年頃、始めて神楽町三丁目より、牛込中町に通する邸内横貫の新道を開く、新道開鑿以来、樹木は伐去られ、次第に人家立て込みて、漸く其風致を損ふ、牧野氏去って子爵土井家(元越前大野の藩主4万石)この地所を購い、又但馬守の邸址に館す。

土井家の屋敷跡。袋町25+26。東京五千分ノ1(参謀本部陸軍部測量局。明治16年)

水門口 みとぐち。川が海や湖へ流れ込む所。河口。
飯塚ビル玄関前 図を参照
旧宅 以前に住んでいた家

 曲輪……中世の城には、その城域の最前線の守りとして、曲輪という施設がある。神楽坂通り万長酒店横の路が行元寺への元参道である。最近、万長の主人、馬場さんの案内で、地下の酒蔵を見せていただいた。この地下に、参道と平行して高さ2米の江戸時代以前の築造とみられる石垣が掘り出されている。この地下酒蔵を神楽坂通り方向に、更に拡げようと、堀ったところが巨岩(凝灰岩)にぶつかり、酒蔵の拡張は中止せざるを得なかったそうである。果して、この石垣や巨岩は牛込城の東、古道側に張り出している曲輪の、最も北寄りの土止めに用いたものではないだろうか。そして、ここを起点として、2~3米の高さの崖状をなし、相馬屋ビル裏から、往時の行元寺境内との境界をつくって、本多横丁を横切り、神楽坂3丁目、マーサー美容院裏あたりまで続く、この崖上が牛込城の東曲輪になっていたのではないか。
 この曲輪の南側に若宮八幡の台地があるが、ここも、非常の場合には南曲輪として使う予定をしていたのではなかろうか。又、西壕以西、愛日小学校あたりまで、西曲輪説を考えられる。

土止め どどめ。土留め。土手や土砂の崩壊を防止する工作物
マーサー美容院 マーサ美容院。神楽坂通りと神楽坂仲通りとが接する神楽坂3丁目の美容院だった。 昭和27年の写真で見る新宿 ID 8-12や、アルバム 東京文学散歩で見ることができます。
愛日小学校 あいじつしょうがっこう。新宿区北町26。明治13年(1880年)加賀町の吉井学校と、牛込柳町の市ヶ谷学校が合併し、愛日学校が創立。男女共学の公立学校。

牛込城の東曲輪

 綜じて、今回の調査によると、以上の条件から中世の城と認めても良いという結論がでた。石垣など殆どない、地形を利用した舌状台地上の平城で、主として、土塁と空壕で存在していたことであろう。
 城域の広さが、若干広い感じがするが、当時の関東の城の例にならうと根古屋衆を城内に住まわせていたと想われる。根古屋とは一族郎党であり、側近衆の住む家を云う。城内の大切な水場を囲むようにして、根古屋を建て、農耕をやり、馬を飼っていたと思う。其の他、武器庫、馬場、集合広場も城内にあった筈である。
 そして、江戸時代、天正年間(1590)牛込勝重が徳川幕府の家人(旗本)となると、牛込領を幕府に返上、城、居館は廃されて、百姓地になり、その後、正保2年(1645)神田にあった光照寺が袋町へ移転してきた。牛込氏は小日向牛天神下隆慶橋近くに旗本千百石取りとして屋敷を構えたのである。

根古屋 ねごや。山城の麓に形成された将兵たちの居住区域。戦国山城時代の城下の村。
牛込氏は…… 礫川牛込小日向絵図(安政4年、1857)では牛込常次郎と書かれています。

礫川牛込小日向絵図

牛込城の興亡|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)「3 牛込の祖、大胡氏について」と「5 牛込城の廃城とその後について」です。もし牛込城がある場合、新しく城を建築したのは何年で、城を解体するのは何年なのかという問題です。つまり、城を維持する期間です。

3 牛込の祖、大胡氏について
(4)大永の乱と牛込の地の継承

 大永4年(1524)正月、小田原の北条氏綱は、江戸城の上杉朝興を攻め、これを攻略した。朝興は川越へ逃げ、北条氏は江戸城代遠山直景を置いた。この戦乱は上杉朝興側の江戸城代、太田資高道灌の孫)の北条氏への内通で結着がついてしまったのである。弁天町にいた大胡氏は、このような扇谷家の末期的様相を、案外、冷静に見極めていたのかも知れない。
 このとき、牛込は戦場となり、兵庫町の町屋や行元寺が破壊されたという(『江戸名所図会』、『江戸名所花暦の冬雪』)。
 戦乱が一段落すると、大胡重行は北条氏綱、氏康の親子に臣の礼をどり、袋町牛込城を築城する。そして、江戸城代、遠山家とも縁を結ぶ。後の徳川氏への随身もそうであるが、誠に素速い替り身は、これも生き延びてゆくための“戦国の論理”だったかも知れない。
 そして、牛込氏を名乗るようになる。大胡氏が公式に牛込姓を得たのは、勝行の代であったが、重行の代から通称では「牛込」で通していたと、云われている。

大永の乱 高輪原の戦い。高輪原合戦。大永4年1月13日に武蔵高輪原(港区)で行なわれた相模の北条氏綱軍と武蔵の扇谷上杉朝興の合戦。
北条氏綱 ほうじょううじつな。戦国大名。後北条氏第2代当主。父早雲の後を継ぎ、江戸城に扇谷上杉氏を攻め、河越城を奪い武蔵に進出した。
上杉朝興 うえすぎともおき。戦国大名。扇谷上杉家当主。大永4年(1524年)1月、朝興は突如、山内上杉家の上杉憲房との和睦を結ぶ。同時に太田資高が北条氏綱に内応したため、北条軍に江戸城を攻撃される。朝興は「居ながら敵を請けなば、武略なきに似たり」と述べて高輪原で迎撃するが、敗退し江戸城を奪われて河越城に逃亡した。
城代 じょうだい。城主が出陣して留守の場合,城を預かる家臣
遠山直景 とおやまなおかげ。戦国時代の武将。後北条氏の家臣。江戸城代を代々勤める。
太田資高 おおたすけたか。戦国時代の武将。太田道灌の孫。江戸城主上杉朝興につかえたが、離反して北条氏綱に属す。大永4年(1524)江戸城を攻めた。
道灌 太田道灌。おおたどうかん。室町中期の武将。名は資長すけなが。上杉定正の執事として江戸城を築城。
弁天町にいた 大胡氏が弁天町にいたとの明瞭な証拠はありません。
大胡氏 「寛政重修諸家譜」などからまとめると、足利成行の庶子重俊は足利から大胡に改称して大胡太郎と称し、上野国大胡(現在の前橋市大胡地域)を治めていた。以降、代々この地域に住んだが、重行の時に武蔵国牛込に移り住んで、その子の勝行は家号を牛込に改めた。勝正の時(1672年)にこの家系は断絶する。
扇谷家 扇谷上杉氏は室町幕府を開いた足利尊氏の母方の叔父にあたる上杉重顕を遠祖とする家。大永4年(1524年)に上杉朝興(上杉朝良の甥で次の扇谷家当主)は江戸城から河越へ逃れるが、これは後北条氏は江戸城への侵攻を開始したためである。
兵庫町 現在の神楽坂五丁目。
江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。行元寺の項では「大永の兵乱に堂塔破壊す」と書いてあります。
江戸名所はなごよみ 別名は江戸遊覧花暦。岡島きん編著、長谷川雪旦せったん画。文政10年(1827)のガイドブック。春、夏、秋、冬の四部構成(秋と冬は合冊)で、草木花の名所を紹介しました。ここでは「市ヶ谷八幡宮」について「大永年中の兵乱に破壊す」と書かれています。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では

重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす
氏康 北条氏康。ほうじょううじやす。後北条氏第3代目当主。
袋町 牛込城が袋町にあったという明瞭な証拠はありませんが「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では……

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

牛込城を築城 上の「天文の頃、牛込宮内少輔勝行この地に住みたりし城塁の跡なりといへり」で、天文は1532年から1555年まで。
勝行 「寛政重修諸家譜」では

勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲

5 牛込城の廃城とその後
(1)牛込城の廃城

 天正18年(1590)7月5日、小田原城は豊臣秀吉の攻厳で落城し、5代100年にわたって関東に君臨した後北条氏は亡んだ。小田原城に先立って、その支城もつぎつぎに攻略され、江戸城も4月22日、徳川家康の臣、戸田忠次に明け渡された。
牛込家文書』に、天正18年牛込の村々に出した禁制の写しが残っているので、牛込城をその頃廃城したと思われる。
 この宛名が武蔵国えはらの都えとの内うしこめ七村とあるので、当時は荏原郡に所属していたことがわかる。なお、近世は豊島郡に所属していた。
(2)牛込氏、徳川氏への帰順
 遠山氏をはじめ江戸衆は解体し、その多くは投降した。牛込氏も家康に降伏し恭順の意を表した。伝承によれば家康江戸城へ入城にあたり、牛込村民は川崎まで出迎えたという。
 おそらく牛込氏が先頭になって村々の代表を連れて、出迎えたと思われる。大胡氏が上州から牛込に入って約100年で牛込城は亡んだ。天正18年8月徳川家康は江戸城に入城し(江戸打ち入り)、地方武士の所領を安堵し、治安を図った。牛込氏もいち早く家康に従い、天正19年(1591)、牛込勝重は家康にお目見えを許され、1,100石取りの家人(旗本)となった。

攻厳 こうげん。厳しく攻める。
戸田忠次 とだただつぐ。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戸田忠次の配した内通者の働きで江戸城は落城
禁制の写し 禁制とは、幕府や大名などの支配者が寺社や村落に対してその統制や保護を目的に発給した文書。この禁制は豊臣秀吉が北条氏の本拠地である小田原へ侵攻するにあたり、武蔵国牛込7村に宛てて発給したもの。
荏原郡 えばらぐん。品川区、目黒区、大田区、世田谷区の一部、川崎市川崎区など。近世までは千代田区、港区の一部を含む
豊島郡 千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、墨田区の南部分、練馬区の大部分。
遠山氏 遠山直景。後北条氏の家臣。江戸城代を代々勤めた。
江戸衆 支城には衆と呼ばれる家臣団が配されました。北条家臣団は、小田原衆を筆頭に14の衆から成ります。江戸城には「江戸衆」が属しました。
牛込村民は川崎まで出迎えた 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城に入城し、牛込七ヵ村の住民は武蔵国川崎村までお迎えに出向いたと「牛込町方書上」。

牛込町方書上 肴町

約100年で牛込城は亡んだ 以下に説明しています。
安堵 封建時代に、権力者から土地所有権を確認されること。以前のぎょう地をそのまま賜ること。

 牛込城は「天文(1532ー1555)の頃、牛込宮内少輔勝行この地に住みたりし城塁の跡なりといえり」(江戸名所図会)から、築城日は遅くても1532ー1555年。廃城は「天正18年(1590)牛込の村々に出した禁制の写しが残っているので、牛込城もその頃廃城した」(上記)から1590年ごろ。約100年の期間だから、築城日は1490年ごろになる。
 大胡氏が前橋市大胡から牛込に移住した時期について少なくとも4通りの考え方があり、1つ目は天文6年(1537)前後で、その時に大胡重行が牛込に移り住み(寛政重修諸家譜、日本城郭全集)、2つ目は少し早く大胡重泰(江戸名所図会)や重行の父重治(赤城神社、南向茶話、東京案内)の時で、3つ目はもっと早く、室町時代初期(応永期~嘉吉期、1394~1443)にはもう牛込に住んでいる場合で(芳賀善次郎氏)、4つ目は逆に遅くなって、勝行(新宿歴史博物館 常設展示解説シート)の時です。
 「牛込氏文書 上」によれば、大永6年(1526)、牛込氏が牛込郷を領有しています。しかし、牛込城ができたのかどうかは、不明です。芳賀善次郎氏のように牛込の宗参寺の所に牧場経営をしていたとも考えらえます。
 一世代が約20年と考えると、この2つ目の考え方を使う場合、1510〜20年に牛込城をつくり、移住したと考えられます。濠がすでに相当あり、丘城だったので、あっという間に城ができたでしょう。
 実際には約100年の期間は長すぎるでしょう。最短時期は35年間ですが、これは短すぎる期間です。

ツルと牧場の語源|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)の「牛込の祖、大胡氏について」3「移住の一考察」です。ここでは「ツル」の語源と牧場に関係する語彙について扱います。

 赤城山南麓は古代から馬牧の地で、大胡氏も馬に関係があったに違いない。移住は管領命令だとすると、それは領地替えである。そして、最初の移住地が弁天町であれば、直ぐ近くに牛込地域の牧場地である鶴巻町があった。鶴巻町の町名由来は、「鶴の放し飼い云々」と、いう説があるが、後世の俗説である。「ツルマキ」の本義は世田谷区の弦巻等も同様で、その語源は、古代の牛馬改良について、優秀な牛馬の牝牡を交尾(ツルマセル)させる専用の牧場名称で、けして、同じ牧柵に入れて雑交させたのではなく、計画的に蕃殖を行っていた(一瀬幸三大宝律令・厩牧令より)。
 薬王寺を源泉とする加仁川柳町の谷を経て北流し、馬場下を流れていた金川との間、鶴巻町あたりが地形的にも、牧場になる。附近にくぬぎ(山吹町、中里町)、こめ(牧場地)、そりまち(牧場後の未耕地)、駒とめ橋(神田川)など、牧場と関係深い地名がある。
 この牧場を大胡氏は南の高台、弁天町居館を構え、牧場管理をしていたのであろう。
 正平21年(1366)に上野と信濃の国境いあき郷(軽井沢地方)という牧場地帯から、吉良治家が管領上杉氏の命で世田谷郷上馬引沢、下馬引沢(上馬、下馬)、弦巻へ領地替えをしている(遠藤周作著『埋れた古城』、荻野三七彦編『吉良氏の研究』)。
 当時の馬は、最も重要な兵器であった。上記二氏を南武蔵に招いた管領上杉氏は、ときの推移を考え、軍馬養成に関する遠謀があったのではなかろうか。
赤城山 赤城山は群馬県のほぼ中央に位置する二重式火山で、中央にカルデラ湖、周囲を1200〜1800mの峰々、その外側には高原台地。
大胡氏 鎌倉時代から室町時代にかけて上野国赤城山南麓で勢力を持った武士の一族。一族の大胡重行が後北条氏の北条氏康の招きを受け、大胡城から武蔵国牛込に移住した。
鶴の放し飼い 東京名所図会(四谷区・牛込区之部)では
 新編武蔵風土記稿に云、元禄の頃、小石川村の田圃中を鶴を放ち飼せられしことあり、其鶴常に小石川と早稲田の二所におりし由、其頃当村にも鶴番人ありしこと或書に見ゆ、鶴巻の名は恐らく是より起りしならむ。
交尾(ツルマセル) 「ツルマセル」の意味は私はわかりませんでした。
 一般に「つる」「鶴」には数種の由来があり得ます。第1番目は鶴の飛来地で「早稲田鶴巻町は、元禄の頃、小石川村の田圃で鶴の放ち飼いをしていて、早稲田村にも鶴番人を置いた」(新編武蔵風土記稿
 2番目は水流で「(ツルは)実は『水流』に由来している。『ツル』という所は、川が鶴の首のように細長く流れている場所を指している。言い換えれば川が増水すればすぐ洪水に見舞われる湿地帯を意味しているという。(中略)ここを流れていた蟹川が「ツル」のようであったことに由来するとも言われる」(「川」や「沼」がなくても安心できない。プレジデントオンライン)「(ツルは)盆地の上下をくくるところの急湍きゅうたんの地」(柳田国男「地名の研究」)。なお、急湍とは流れのはやい浅瀬の意味。「古代人は『水路のある平地』をさしてツルと呼んでいたようです」(第23話 地名の話 秦野市鶴巻について
 3番目は「荒地のことを、古言で「つる」、朝鮮語でもTeurツル(曠野)、——富士山爆発の結果、火山岩落下のため、荒蕪地となった一帯の地を、甲州で都留郡というように——といっていたから、『つるまき』は『曠野ツルまき』という意味、新宿区早稲田鶴巻町も同じである」(日本地名学研究
 さらに4番目は「古代の牛馬改良について、優秀な牛馬の牝牡を交尾させる専用の牧場」(上記)。
蕃殖 はんしょく。繁殖。動物・植物がどんどん新しく生まれ出てふえていくこと
『大宝律令・厩牧令』 国立図書館ではこの文書は不明でした。もくりょうは大宝元年(701)に牛馬の飼養、駅馬、伝馬などを規定した法令。これ以降、東北や関東を中心に馬牧が増えていきます。
加仁川 加二川。水源地は牛込柳町。北流して、金川と合流する。下図では「市谷柳町の支流」。
金川 下図では「蟹川」。水源地は西部新宿駅付近の戸山公園の池。現在は暗渠化。歌舞伎町の東端、大久保通りの地下、大江戸線東新宿付近、東戸山小学校、戸山公園、早稲田大学文学部、大隈講堂付近、鶴巻小学校付近を流れ、山吹高校付近で加二川と合流し、文京区関口を経て江戸川に注ぐ。

江沢隆志「地形を楽しむ東京『暗渠』散歩」(洋泉社、2012)。市谷柳町の支流が加二川に

椚田 椚は神木のクヌギの木から。椚元は早稲田鶴巻町東部の大字おおあざ名。山吹町の旧あざ名。大字は江戸時代「村」を継承した地域名称で、字は大字より小さい集落の地名。大字、字、小字の3つがあり、これを市区町村の後、番地の前につく。東京名所図会(四谷区・牛込区之部)は早稲田の小名として「くぬぎもと 段町 金田 向田 石井後 籠 鶴卷」をあげる。
籠田 放牧地に対して一か所に集めて検査したりする所。新編武蔵風土記は中里町の小名として「椚元 ソリ町 殿ノ下 山下 道上 道下 谷ノ中 籠田 金田」をあげる。
反町 中里町の字名。ソリ町。早稲田鶴巻町の東南部。「畑を焼くことでは無くして耕地を廃した後の状態の名」(柳田国男
駒とめ橋 馬が先には行けないという意味
牧場と関係深い地名 新宿区教育委員会編「新宿区町名誌:地名の由来と変遷」(東京都新宿区教育委員会、1976)の「牛込北部(旧牛込村北部低地)」では……
 早稲田鶴巻町の北、文京区の神田川に駒塚橋がある。昔は丸太橋で、駒留橋といった。放牧された馬は、ここまで来ても先に行けないので名づけたというが、この橋名もここの牧場に関係あるのであろう。早稲田通り八幡坂下の蟹川を渡る橋も駒留橋(今なし)といった。ここの牧場は、古代牛込にあったと思われる神崎牛牧と関係あるかどうかは不明である。
 この地の、江戸時代の字名に、段田とこめがあった。この字名も、牧場に関係ありそうである。段田の段は、広さを表わす語ではなく、反町(そりまち)と同じものと思われる。隣の中里町の宇名に、「ソリ町」のあることでも分かろう。ソリとは、草里・楚里とも書く地名用語で、反田・曲畑(そりはた)・曾利・反目などの地名として、特に関東以北にこの種の地名が多い。
 ソリは、焼畑関係の語で、休耕している意味といわれるが、柳田国男は「地名の研究」で、「畑を焼くことでは無くして耕地を廃した後の状態の名」としている。マチは区別の意味で、市店の意味ではないから、ソリマチとは何にも使われていない土地ということであろう。そこで、前述の鶴巻と合わせて考察すると、はじめ牧場だったが、その後放任されている土地ということではなかろうか。なお、その場所は次の籠といっしょに考える。
 こめは、その読み方はもちろん、場所も由来も不明である。しかし、隣の中里町の宇名に、こめがあったので、この籠も籠田と同じ意味であろう。つまり、鶴巻の牧場と関係があり、馬を集める(おし込める)所の名残りで、放牧地に対して一か所に集めて検査したりする所ではなかろうか。そこで、山吹町の宇名のソリ町・籠田とともに考察すると、ソリ田・段田は榎町に近い早稲田鶴巻町の東南部、籠と籠田は弁天町に近い地域と推定される。
 そのほか、早稲田鶴巻町東部中央の大字名にくぬぎもとがあった。同町185番地は、椚元の小字椚元で、明治初期は中里村の飛地だった。そこは、赤城元町の赤城神社の旧地で小祠があり、そこには神木のクヌギの木があったので、この地一帯の字名となった。この地名も、隣の山吹町の旧字名にあるから、その方まで広がっていた古い字名と思われる。
居館 弁天町の宗参寺の周辺に居館を構えたと新宿区郷土研究会は考えているようですが、支持する文献も反論する文献もありません。
遠藤周作 えんどうしゅうさく。小説家。芥川賞は「白い人」で。キリスト教の「海と毒薬」「沈黙」、ユーモア小説「狐狸庵先生」など。生年は大正12年3月27日。没年は平成8年9月29日。73歳。
埋れた古城 古城巡り12篇を収める。世田谷城、高天神城、清洲城、備中・高松城、箕輪城、日之枝城、小浜城など。
荻野三七彦 オギノミナヒコ。古文書学者。東京帝国大学文学部史料編纂所嘱託。早稲田大学教授。生年は明治37年3月18日。没年は平成4年8月12日。88歳。
吉良氏の研究 1975年、関東武士研究叢書第4巻(名著出版)として刊行。

牛込御門橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏の「東京の橋 生きている江戸の歴史」(昭和52年、新人物往来社)の「牛込御門橋」です。

 牛込御門橋(うしごめごもんばし) 千代田区富士見二丁目から新宿区神楽坂一丁目に架された外濠の廓門橋で、府内備考には「牛込御門 正保御国絵図には牛込口と記す。蜂須賀系譜に、阿波守忠英寛永13年命をうけ、牛込御門石垣升形を造る」とあり、「この時建てられしならん。新見某が随筆に、昔は牛込の御堀なくして、四番町にて長坂やり、須田久左衛門のならびの屋蚊を番町方といい、牛込方は小栗半右衛門、間宮七郎兵衛、都築五右衛門などの並びを牛込方という。その間道はば百間にあまりしゆえ、牛込と番町の間ことの外広く、草茂りしとなり。その後牛込、市谷の御門は出来たり。」とある。この外濠は牛込見附の南側までは赤坂溜池の水をみちびき、北側は飯田橋の方から江戸川の流れをみちびいたので、この見附門の両側は水位に高低があったが、現在でもよく見るとその様子がわかるのである。牛込御門にかかる橋は土橋で廓門当時の石組の跡は千代田区側の橋畔にわずかに残っている。警備については、万治2年(1659)に旗本寄合の渡辺清綱、高力正房の両名が任命され、正徳3年(1713)にいたり万石以下三千石以上の寄合担当と定まり、また小日向通音羽町辺の出火の節は、方角火消詰所を御門内に設ける例となっていた。明治5年に渡櫓の払下げ撤去が行われ、門構えだけが残されたが、それも同35年に取払われた。現橋は鉄筋コンクリート桁長35.61メートル、幅11メートル。
  牛込の見附のやなぎ雨ふるに似たるしづれもよしと歌えり
               金子薫幽
  送りゆく牛込見附の青あらしが夏服を吹きてすずしも
               同  前
  ざわめける夜の神楽坂を下り来て見らくとうとき見附の桜
               岡山 巌
廓門 郭門。かくもん。城の外郭の門。外囲いの門
府内備考 三島政行編『御府内備考』第1(巻1至24)(大日本地誌大系刊行会、大正3年、国立国会図書館デジタルコレクション)の牛込御門では…
     牛込御門
【正保御国絵図】には牛込口と記す。【蜂須賀系譜】に阿波守忠英 寛永13年命をうけ、牛込御門石垣升形を作るとあり。此時始て建られしならん。【新見某が随筆】に昔に牛込の御堀なくして、四番町にて長坂血須・須田久左衛門の並の屋敷を番町方といい、牛込方は小栗半左衛門・間宮七郎兵衛・都築又右衛門などの並びを牛込方という。其間道はば百間にあまりしゆえ、牛込と番町の間ことの外広く、草茂りしと也。其後牛込市谷の御門は出来たりと云々。

牛込見附址(「麹町区史」から)

正保御国絵図 しょうほうくにえず。江戸幕府が、諸大名に命じて国単位で作らせた国絵図。明治6年、皇城火災により消失。
蜂須賀 蜂須賀正勝が羽柴秀吉に仕えて大名となり、1585年に阿波国徳島を与えられその領地に入る。江戸時代にも徳島藩25万石の藩主を世襲し、維新後には華族の侯爵家に列した。
阿波守忠英 阿波徳島藩の第2代藩主。

徳島藩は阿波と淡路両国を領した大藩

寛永13年 1636年
升形 枡形。ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
新見 新見正朝氏の書いた「八十翁疇昔話」(天保8年=1837年)でしょうか。

むかしは牛込の堀無之。四番町、長坂血鑓、須田久左衛門抔の屋敷並び、番町方といひ、牛込方は、小栗半右衛門、間宮七郎兵衛、都築又右衛門抔の並び、牛込方と申す。其間の道巾、百間余有之、草茂り、毎度辻切有之、其後、丸茂五郎兵衛、中根九郎兵衛などと申す小十人衆に、小栗、間宮が前にて、屋敷被之、鈴木二郎右衛門、松原所左衛門、小林善太夫抔へ通り、一谷田町まで取付くゆゑ、七十四間の道巾に成る。其後、牛込御門、一谷御門出来るなり。

番町方 牛込方 牛込門の建築以前を参照。
百間 1間が1.81mで、百間は181m。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


橋畔 きょうはん。橋のほとり。橋のたもと。橋頭
赤坂溜池 用水を溜めておく人工の池。

景山致恭ら編『〔江戸切絵図〕赤坂絵図』(尾張屋清七、1849−1862) 国立国会図書館デジタルコレクション。

水位に高低があった

見附の水位が違う

警備について 昭和10年の「麹町区史」では……

 警備に就ては万治二年(1659)の昔、8月26日と言うに発表された外郭門衛の制に、寄合渡辺半三郎清綱、同高力左京正房の下に侍2人足軽仲間各5人を附け、棒5本 サスマタ1本 ツクボウ1本 長柄5本を備えて守らせたのをはじめとし、正徳3年(1713年)4月には、大体に於て外郭門は万石未満三千石以上の寄合担当と決定し、後年には鉄砲5挺 弓3張 長柄5筋 持筒2挺 持弓1組を備えて、万石以下三千石高勤番3ヶ年間、番士3人を置いて羽織袴を着用せしめた。小日向通音羽町辺出火の節は、方角火消詰所を門内に設ける例であった。

方角火消 正徳2年(1712)に制度化。江戸城を中心に5区に分けて担当の大名を決め、その方角に火災が発生すれば出動した。
渡櫓の払下げ撤去 渡櫓(わたりやぐら)とは、左右の石垣の上に渡して建てられた櫓。昭和10年の「麹町区史」では……
 明治5年(1872)4月15日に牛込門渡櫓の払下げが発表になり、24日迄に辰之口なる土木寮出張所へ希望者の申出を布令した。かくて8月23日から着手し9月6日に終了した。撤却は同35年である。

しずれ しずること。木の枝などに積もった雪が落ちること。また、その雪。しずれ
青あらし あおあらし。青嵐。初夏の青葉を揺すって吹き渡るやや強い風。せいらん
ざわめける ざわめく。ざわざわと騒がしいようすになる。
とうとき とうとい。尊い。貴い。崇高で近寄りがたい。神聖である。高貴である

大胡城|日本城郭全集

文学と神楽坂

 鳥羽正雄等編の「日本城郭全集 第3(千葉・群馬・茨城編)」(人物往来社、1967)では……

 おお城は、赤城山南麓諸城の盟主である。
 南北に続く丘の長さ750メートルを数線の堀切りで断ち、七郭を並列した並郭式の城である。北端の近戸神社の曲輪出丸と推定されるが、初期の大胡城はこの一部だけだったのではあるまいか。北の堀切りを通る搦手虎口は、東側に横矢が構えてある。近戸曲輪の旧追手虎口は東南部にあり、坂虎口になっている。ここと越中屋敷曲輪との間の低地は、人工による堀切りではない。

赤城山 群馬県東部にある広大な二重式成層火山。
盟主 同盟の主宰者。仲間のうちで中心となる人物や国。この場合は城
堀切り ほりきり。地面を掘って切り通した水路。
七郭 ななかく。「郭」は外まわりをかこんだ土壁。すべて物の外まわり。一区域をなす地域

並郭式

並郭式 本丸(城の中心部のくるわ)と二の丸(本丸を補助する)が並行に存在し、そのまわりを三の丸(二の丸を守る郭。重臣の屋敷、馬を飼育する場所、城主のための厠など)が取り囲む。
曲輪 くるわ。郭とも。堀切や切岸などの防御施設に守られた城館の削平地。建物が建ち、生活や政治、防戦が行われた空間。
出丸 でまる。城から張り出した形に築かれた小城。
搦手 からめて。城の裏門。
虎口 こぐち。郭の入り口
横矢 敵の側面から矢を射ること。城の出塀だしべい(城郭の塀の一部を外部に突き出させたもの)の側面につくられた矢を射る所
追手 おうて。城の正門。表門。大手。
越中屋敷曲輪 下図「大胡城」の「越中曲輪」に相当する。

大胡城。「日本城郭全集 第3」(1967)から

 本丸は中央東寄りの最高所に据えられ、土塁をめぐらし、中仕切土居があった。二の丸は本丸西半に囲い付となり、東南部に枡形虎口の跡と思われる所が二ヵ所残っている。越中屋敷には東面に坂虎口が開き、西南下に王蔵院の曲輪があって搦手虎口跡が認められる。二の丸の南には三の丸南曲輪が並び、南曲輪と最南端秋葉曲輪との間の堀切りは追手虎口で東に枡形を備え、城下町に通じていた。
 西側下の南半には西曲輪がつき、東側下根小屋方面には稲荷曲輪などの四郭が構えられて、その東の荒砥川との間を埋めていた。
本丸 ほんまる。城郭で中心部をなす曲輪。天守閣を築き、周囲に石垣や濠をめぐらし、城主が起居する。(本丸御殿)
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
中仕切り なかじきり。一つの室や器物の中を区切って分ける仕切り。
土居 どい。城郭や屋敷地の周囲に防御のため築いた盛土。土塁とほとんど同じ意味だが、近世までは土居の語を用いた。
二の丸 にのまる。本丸の外側を囲む城郭。本丸を守護する。城主の親戚や主な家来などが居住
囲い付  周囲を取り巻くもの。まわりをふさいで囲むもの。
枡形 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
王蔵院の曲輪 王蔵院曲輪。本丸の西に見られる。(下図参照)
三の丸 二の丸を囲む外郭の部分。家臣の屋敷など。
南曲輪 現在の呼び名は「四ノ曲輪」
荒砥川 あらとがわ。群馬県を流れる利根川水系の河川。源流は赤城山南麓で、前橋市をほぼ南北に流れ、伊勢崎市と前橋市の境界で広瀬川に合流する。

大胡城跡。群馬県勢多郡大胡町教育委員会「群馬県指定史跡大胡城跡 本丸北大堀切り跡遺」2001

牛込氏についての一考察|⑨むすび

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑨「むすび」です。

 関東が家康の領となると、牛込氏は徳川氏の家臣となったというが、牛込落城後いかなる経違で徳川家臣となったかも不明である。徳川氏は、関東の地方武士をそのまま安堵させる方法をとったのであるから、あるいはそのまま牛込城に留まり、前の「牛込城の城下町」の項で述べたように、家康の江戸入城時には、牛込七カ村民が川崎まで出迎えたというが、この住民引率責任者には牛込氏があたったのではあるまいかとも考えられる。
 牛込氏は、北条氏時代にいかなる活動をしたかは不詳だが、一地方武士が氏綱から重要視されたのは、北条氏の東国経営がまだ不安定だったので、このような武士も味方に入れておかねばならなかったのではあるまいか。
徳川氏の家臣 「寛政重脩諸家譜」では
勝重かつしげ
   彦次郎 三右衛門 号道哲
 北條氏直につかへ、北條家没落の後、天正19年めされて東照宮にまみえたてまつり、御家人に列し、のち肥前国名護屋及び関原等の役に従ひたてまつる。元和元年 今の易譜3年7月21日死す。年66。法名宗隆。妻は遠山丹波守某が女。

註:天正19年 1591年。豊臣秀吉が天下統一を完成。
東照宮 徳川家康のこと。
御家人 ごけにん。鎌倉幕府から土地の所有を認められた代わりに、鎌倉で戦争があったときには命をかけて戦う、いわゆる「御恩と奉公」の契約を結んだ武士
肥前国名護屋 名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた肥前国(佐賀県)の城
関原等の役 関ケ原の役。せきがはらのえき。せきがはらのいくさ。「役」は戦争の意味。「天下分け目の戦い」になった。慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康を総大将とする東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突した。
元和元年 げんな。1615年。3月15日「大坂夏の陣」で豊臣氏は滅亡。

安堵させる 「安堵」は封建時代では、権力者から土地所有権を確認されること。以前のぎょう地をそのまま賜ること。
家康の江戸入城時には、牛込七カ村民が川崎まで出迎えた 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城にはいりましたが、武蔵国の川崎村というところまで牛込七ヵ村の住民はお迎えに出向いたといいます。
氏綱 北条氏綱。ほうじょううじつな。戦国時代の武将。戦国大名。後北条氏第2代当主。

牛込氏についての一考察|⑧牛込氏と行元寺

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑧「牛込氏と行元寺」です。

 牛込氏のあった袋町の北方、神楽坂五丁目に前述の行元寺があった。『江戸名所図会』によれば、相当な大寺で総門は飯田橋駅前の牛込御門あたりにあり、中門が神楽坂にあったという。またその門の両側に南天の木があったので南天寺と呼ばれていたという。
 源頼朝石橋山で挙兵したが破れ、安房に逃げて千葉で陣営を整え、隅田川を渡って武蔵入りをした時、頼朝はこの寺に立ち寄ったという伝説がある。その時頼朝は、寺の本尊である千手観世音を襟にかけて武運を開いたという夢を見たが、そのとおりに天下統一ができたので、本尊を頼朝襟かけの尊像といっていたという(『御府内備考』続編、天台宗の部、行元寺)。
 頼朝が江戸入りほをしてから鎌倉まで、どのようなコースを通ったかはまだ解明されない。現在、新宿区内随一の古大寺だったこの寺に、このような頼朝立ち寄り伝説があることは、一笑することなく大切に残しておきたい話である。
 また太田道灌が江戸城を築いた時は、当寺を祈願寺にしたという(『続御府内備考』)。
行元寺 牛頭ごずさんぎょうがんせんじゅいんです。場所は下の通り。

明治20年 東京実測図 内務省地図局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

牛込氏 「寛政重修諸家譜」によれば

牛込
伝左衛門勝正がとき家たゆ。太郎重俊上野国おおを領せしより、足利を改て大胡を称す。これより代々被地に住し、宮内少軸重行がとき、武蔵国牛込にうつり住し、其男宮内少勝行地名によりて家号を牛込にあらたむ

江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。
相当な大寺で…… 行元寺を参照。
源頼朝 みなもとのよりとも。鎌倉幕府初代将軍。治承4年(1180)挙兵したが、石橋山の戦に敗れ、安房あわにのがれた。間もなく勢力を回復、鎌倉にはいり、武家政権の基礎を樹立。建久3年(1192)征夷大将軍。
武蔵 武蔵国。武州。現在の東京都,埼玉県のほとんどの地域,および神奈川県の川崎市,横浜市の大部分を含む。
千手観世音 観世音菩薩があまねく一切衆生を救うため、身に千の手と千の目を得たいと誓って得た姿
石橋山 頼朝は300余騎を従えて、鎌倉に向かったが、途中の石橋山で前方を大庭景親の3,000余騎に、後方を伊東祐親の300騎に挟まれて、10倍を越える平氏の軍勢に頼朝方は破れ、箱根山中から、真鶴から海路で千葉県安房に逃れた。
『御府内備考』続編 「御府内備考」の続編として寺社の沿革をまとめたもの。文政12年(1829)成立。147冊、附録1冊、別に総目録2冊。第35冊に行元寺。
頼朝えりかけの尊像 東京都社寺備考 寺院部 (天台宗之部)では
略縁起云、抑千手の尊像は、恵心僧那の作なり。往古右大将朝頼石橋山合戦の後、安房上総より武蔵へ御出張の時、尊前にある夜忍て通夜し給ふ折から、此尊像を襟に御かけあつて、源氏の家運を開きしと霊夢を蒙り給ひしより、東八ヶ国の諸待頼朝の幕下に来らしめ、諸願の如く満足せり。依之俗にゑりかみの尊像といふとかや 江戸志
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
当寺を祈願寺 祈願寺とは祈願のために建立した社寺で、天皇、将軍、大名などが建立したものが多い。『御府内備考』続編は東京都公文書でコピー可能です。また、これは島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じです。「中頃太田備中守入道道灌はしめて江戸城を築きし時、当寺を祈願所となすへしとて」

御府内備考続編

 以上のようなことは、単に当寺が古刹の如く見せるために作ったものであると片づけることなく、もう一度見直してみたい。この行元寺は、前述の兵庫町の人たちの菩提寺であったろうし、最初でも述べたように古くから赤城神社の別当寺にもなっていたのであるから、大胡氏の特別の保護下にあったものと思われる。太田道灌時のように、牛込氏の祈願寺だったことはもちろんであるが、宗参寺建立以前の菩提寺だったのではあるまいか。
 天正18年(1590)7月5日、小田原は落城したが、秀吉が牛込の村々に出した禁制には18年4月とある(『牛込文書』)から、そのころすでに牛込城は落城していたのであろぅ。
 一方、小田原の落城時、北条氏直(氏政の子で家康の女婿、助命されて高野山に追放)の「北の方」が行元寺に逃亡してきたのである。寺はこの時に応接した人の不慮の失火で焼失したということである(『続御府内備考』)。このことでも、北条氏と牛込氏との関係の深かったこと、牛込氏と行元寺との関係が想像されよう。
古刹 こさつ。由緒ある古い寺。古寺。
菩提寺 ぼだいじ。一家が代々その寺の宗旨に帰依きえして、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺。江戸時代中期に幕府の寺請制度により家単位で1つの寺院の檀家となり、寺院は家の菩提寺といわれるようになった。
別当寺 べっとうじ。神社に付属して置かれた寺院。明治元年(1868)の神仏分離で終わった。
秀吉が牛込の村々に出した禁制 天正18年4月、豊臣秀吉禁制写です。矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)では「豊臣秀吉より『武蔵国ゑハらの郡えとの内うしこめ村』に宛てた禁制の写である。牛込七村と見える唯一の史料だが、七村が具体的にどこを指すのか判然としない」
牛込文書 室町時代の古文書から、戦国時代江戸幕府までの古文書で21通。直系の子孫である武蔵市の牛込家が所蔵している。
北条氏直 ほうじょううじなお。戦国時代の武将。後北条氏第5代。徳川家康と対立したが和睦。1583年8月家康の娘督姫と結婚して家康と同盟を結ぶ。豊臣秀吉に小田原城を包囲攻撃され、降伏して高野山に追放し、後北条氏は滅亡。
北の方 大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語。
続御府内備考 島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じで「天正年中に小田原北條没落の時、氏直の北の方当寺に来らる 按するに当寺の前地蔵坂の上に牛込宮内少輔勝行の城ありしと此人 北條の家人なれはそれらをたより氏直の北の方こゝに来りしにや 時に饗応せし人、不慮に失火せしかは古記等此時多く焼失せしとぞ」

御府内備考続編

牛込氏についての一考察|⑦牛込城の城下町

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑦「牛込城の城下町」です。

 袋町高台の西北方一帯の神楽坂四五丁目は、もとさかなといった。ここは家康入国前から兵庫町という町屋で、肴屋まであった(『御府内備考』)。江戸初期牛込に七カ村あったが、町屋になっていたのはここだけであった。
 思うに、神楽坂一帯は古い集落で、特に肴町は牛込城の城下町だったのであろう。このあたりは、地形からみて西に一段高い台地(牛込城)があり、南向きの緩傾斜地で、集落のつくりやすい所である。前述したが、ここから戸塚まで古道がある。
 水運にも恵まれている。つまり、外堀のまだなかった西谷間には市谷本村町から流れてくる川があり、飯田橋あたりの大沼という沼に流れていた。一方今の神田川も、大曲あたりの白鳥沼から大沼に流れ込んでいた。川は大沼から九段下、神田橋(上平川)、常盤橋、日本橋と流れて(下平川)江戸湾に注いでいた。
肴町 神楽坂5丁目を「肴町」と呼びました。神楽坂4丁目は「かみみや町」でした。
兵庫町 「兵庫」は「つわものぐら」「へいこ」「ひょうご」と読み、兵器を納めておく倉。兵器庫。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 肴町については
町方起立之儀は年古義にて書物無之相分不申候得共 往古武州豊島郡野方領牛込村之内有之候処 其後町屋相成御入用之砌 牛込七箇村之者とも武州川崎村ト申処迄御迎ニ罷在候由申伝候 其頃は兵庫町と相唱肴屋とも住居仕候町屋ニ御座候処 大猷院様御代御成ニ期度ニ御肴奉献上候之向後 肴町と相改候様 酒井讃岐守様モ仰渡候ニ付 夫より町名肴町と相唱申候

七カ村 小田原北条氏滅亡後、1590(天正18)年4月に豊臣秀吉の禁制に「武蔵国ゑハらの郡えとの内 うしこめ七村」とあり、また「御府内備考」でも同様な文がでています。

豊臣秀吉禁制 「新宿歴史博物館研究紀要4号」「牛込家文書の再検討」

 個々の地名は書かれておらず、「牛込7村」はこれだという文書もなく、どこの地名でもいいはずです。たとえば、大久保、戸塚、早稲田、中里、和田、戸山、高田の各村(【牛込②】牛込町)、あるいは、大久保村、戸塚村、早稲田村、中里村、和田戸山村、供養塚村(喜久井町)、兵庫町(神楽坂五丁目)の町村(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年。渡辺功一「神楽坂がまるごとわかる本」展望社、平成19年)を上げています。
 でも「御府内備考」の肴町では「牛込七箇村之者とも武州川島村ト申處迄御迎罷在候由申伝候其頃は兵庫町と相唱肴屋とも住居仕候町屋ニ御座候」、つまり、家康の江戸入城時には「牛込七ヵ村の住民は川崎までお迎えに出向き、その頃は兵庫町に住んでいました」。つまり牛込7村のうち1村は兵庫町という町だったのです。

戸塚地域

戸塚 戸塚地域。新宿区の中央北部に位置し高低差のある複雑な地形。江戸時代には主に農村で、明治時代になると、東京専門学校(現:早稲田大学)が開校し、学生や文化人の集まる、活気あふれる町に。
大沼 小石川大沼です。下図では水道橋の下に池が書かれています。
大曲 おおまがり。新宿区新小川町6。神田川が急に曲がっている場所
白鳥池 白鳥池は小石川大沼の上流の池でした。

菊池山哉「五百年前の東京」(批評社、1992)(色を改変)

上平川 上流の上平川(九段下、神田橋)から下流の下平川(常盤橋、日本橋)に流れて、江戸湾に注いでいた。
常盤橋 日本橋川に架かり、公園から日本銀行側に通じる橋

 太田道灌のころは、この平川の常盤橋あたりは高橋といい、そこは水陸の便がよかったから、江戸城の城下町として賑ったものである。牛込城時代にも、この川をさかのぼって大沼まで舟が来たのであろう。こうして兵庫町は水陸の要路であり、牛込城の城下町となり、牛込城の武器製造職人もいたので兵庫町となっていたのではなかろうか。
 家康の江戸入城時、牛込七カ村の住民は川崎まで出迎えに行ったのである。三代将軍の時、家光が当地に鷹狩りに来られるたびに、町の肴屋が肴を献上したので、以後命によって兵庫町を肴町と改めたのである(『御府内備考』)。
太田道灌 室町中期の武将。扇谷上杉定正の執事。江戸築城は康正2年(1456)に開始、翌年4月に完成したという。兵法、学芸に秀で、和歌歌人だった。
高橋 千代田区の「常盤橋門跡の概要」では
 中世の常盤橋周辺は江戸前島の東岸にあたり、 のちの江戸と浅草を結ぶ街道(鎌倉往還下道)の要衝であったとされている。(中略)文明8年(1476)の「寄代江戸城静勝軒詩序」(簫庵竜統著)には、城東畔の河(平川)の「高橋」に漁船が出入りし、賑わいを見せていたことが記されている。 常盤橋と呼ばれる前は「高橋」、あるいは「大橋」(『事蹟合考』)と称されていたと考えられ、平川の河口に位置したこの地域(平川村)は、 江戸城からほど近い港として重要な位置を占めていたとされる」
家康の江戸入城 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城にはいりました
川崎まで出迎え 「御府内備考」を意訳すると「御入国に関しては牛込七ヵ村の住民は武蔵むさし国の川崎村というところまでお迎えに出向きました」
肴町 同じく「徳川家光様は御治世の外出の際では魚を何回も差し上げたところ、今後は肴町と改名しろといわれ、酒井讃岐守もこの命令を伝えて、これより、町名は肴町となりました」

牛込氏についての一考察|⑥牛込城築城

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑥「大胡氏の牛込城築城」です。

  6 大胡氏の牛込城築城
 大永4年(1524)正月、小田原の北条氏綱は江戸城主扇谷朝興と戦い、江戸城を攻略して遠山直景城代とした。この時前述の神楽坂にあった行元寺破壊された(『江戸名所図会』)というから、牛込はその時戦場になったものと思われる。
 この動乱の時、大胡重行弁天町から袋町の高台に牛込城を築いて移り、氏綱から認められるようになったものであろう。『新宿区史』には「牛込氏が北条氏と結んだのは、多分氏綱が大永四年朝興を残して江戸城を手中にしてからではないかと思う」といっている。『牛込文書』によれば、すでに大永6年には日比谷に警備のため陣夫を出している。
北条氏綱 ほうじょう うじつな。戦国時代の武将。小田原城主。上杉朝興ともおきの江戸城、上杉朝定の松山城を破り、下総国府台の戦で足利義明・里見義堯を破って関東一帯を制圧。小田原城下の商業発展を図った。
扇谷朝興 戦国時代の武将。上杉朝興ともおき。扇谷上杉氏の当主。北条早雲によって相模を奪われ、大永4年(1524)、その子北条氏綱に武蔵江戸城を奪取された。
遠山直景 戦国時代の武将。後北条氏の家臣。
城代 じょうだい。城主が出陣して留守の場合,城を預かる家臣
破壊された 江戸名所図会では「大永の兵乱に堂塔破壊す」と書いています。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」
牛込氏が… 「新宿区史」は
牛込氏が北条氏と結んだのは、多分(北条)氏綱が大永四年(扇谷家の上杉)朝興を残して江戸城を手中にしてからではないかと思う。そうでなければ、牛込氏は扇谷家の大きな勢力の近くにあって孤立状態になってしまうからである。北条氏は大永4年朝興を敗って、江戸城をとり、遠山氏をここに置いてから後も、朝興との争いは絶えず、大永6年12月には里見義弘の鎌倉侵入にあたり、氏綱は鶴岡に邀え戦ってこれを破っており、享禄3年6月(1530)には朝興と戦ってこれを破っている。
陣夫 じんぷ。じんぶ。戦争に必要な食糧などの物資を運ぶため領内から徴用した人夫。

 牛込城が袋町にあったという明瞭な証拠はない。『江戸名所図会』と『御府内備考』に書かれているだけであるし、城全体の規模も不明である。しかし、伝説によれば、西は南蔵院から船河原町に通じる道、北は大久保通りの崖、東は神楽坂に面した崖、南は光照寺境内南の崖(崖下は空堀)で、舌状半島形をした台地の先端部分である。
 城内の構造も不明だが、大胡氏の居館は光照寺境内で、大手門は神楽坂にあり、裏門は西の南蔵院に通じる十字路あたりにあったという。
江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では
牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり
御府内備考 「御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では
牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々
(註:いかさま:1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき)
伝説によれば 新宿区郷土研究会の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)の牛込要図が最も詳細にできています。ここで中央の が牛込城跡です。

牛込の夜明け前。牛込要図。「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)(色は当方の追加)

大手門 城の正面。正門。追手おうて

 大胡氏はなぜこの場所を選定したかは不明である。地形上からみれば、この付近で城を築くに格好の場所は、この北方のつく八幡の高台である。そこは戦国時代すでに上杉管領とりでを築いたことがある(『日本城郭全集』)ほどである。
 筑土八幡の高台では、台地突出部が狭少だから広く縄張りする必要があり、規模を大きくすると短期間では築城できなかったこと、当時の古道はだいたい今の早稲田通りだったろうから、主要道を背後にするという不つごうさがあったものと思われる。その上、神楽坂の方には部落も多く、すでに行元寺も建っていたことが引きつける理由になったものであろう。
筑土八幡の高台 上図の牛込要図では右上のC㋬です。
上杉管領 関東管領とは室町幕府の職名。鎌倉公方の補佐役で、上杉うえすぎ憲顕のりあきが任ぜられて以後、その子孫が世襲した。
とりで 築土城です。
縄張り 縄を張って境界を決めること。建築予定の敷地に縄を張って、建物の位置を定めること

 大胡重行は、前述のよう天文12年に死去し、弁天町宗参寺に葬られた。重行の子勝行は、北条氏康の重要家臣となり、天文24年(1555)正月6日には、宮内少輔の官位をもらい、姓を牛込氏と改めた。これはすでに呼び名となっていたものを公的に認めて貰ったものであろう。そして牛込から赤坂、桜田、日比谷あたりまで領することになった。
 牛込勝行は、弘治元年(1555)9月19日に、牛込御門に移されてあった赤城神社を現在地の赤城元町遷座した。また勝行の子勝重の妻に、江戸城の遠山綱景(直景の子)の娘を迎えたのである(児玉、杉山共著『東京の歴史』)。
牛込勝行 北條氏康につかえ、弘治元年(1555年)姓の大胡氏はやめ、牛込氏に変える。牛込、今井、桜田、日比谷、下総国堀切、千葉等の地を領有した。天正15年(1587年)死亡。年85。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の大名。後北条氏3代目。氏綱うじつなの嫡子。永禄2年(1559)「小田原衆所領役帳」を作成。永禄4 年、小田原城を攻めた上杉謙信を戦わずして退かせ、後北条氏の全盛期を築く。
宮内少輔 くないしょうゆう。令制の第二等官である次官すけのうちで下位のもの。従五位。
遷座 神体、仏像などをよそへ移すこと。
遠山綱景 とおやま つなかげ。後北条氏の家臣。武蔵遠山氏の当主。
児玉、杉山共著『東京の歴史』 児玉幸多と杉山博の共著で「東京都の歴史」(山川出版社、1977年)でしょう。その135頁は……
 江戸城代の遠山氏の次代は、丹波守綱景である。かれは隼人佑・藤九郎・甲斐守ともいった。かれは、氏綱・氏康にしたがって、府台うのだい攻撃に参加したり(天文7年)、鶴岡八峰宮の造営に協力したり(天文8~10年)、妙国寺の濁酒醸造の免除を命じたり(天文17年)、六所明神の本地仏の釈迦像を修理したり(天文21年)、浅草の総泉寺や品川の本光寺に禁制をだしたり(天文23年)している。またかれは、連歌師の宗長とも交際があった。また綱景の娘は、江戸の名族の牛込勝重・島津主水・猿渡盛正らのもとに嫁している。
 こうして綱景は、婚姻政策によっても、自家の勢力を江戸とその周辺にのばしていったが、永禄7年正月4日、国府台合戦で戦して戦死した。

註:丹波守綱景 遠山綱景。永正10年(1513年)頃、北条氏の重臣である遠山直景の子(長男とも)。天文2年(1533年)、父に引き続き江戸城代となる。
国府台攻撃 国府台合戦。天文7年(1538)と永禄7年(1564)の2回、下総国国府台(現 千葉県市川市)で房総勢と後北条氏の間に行われた合戦。後北条氏が勝利し、覇権は安泰になった。
天文7年 1538年。
永禄7年 1564年。

牛込氏についての一考察|⑤供養塚
牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 まず芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑤「供養塚」です。

 宗参寺の西南方350メートルほどの、喜久井町14〜20番地には江戸時代に供養塚があり、町名も供養塚町といっていた。
御府内備考』によると、この地は宗参寺の飛地境内で、古くから百姓家があり、奥州街道一里塚として庚申供養塚があったという。『江戸名所図会』の誓閑寺の絵には、その庚申塔と塚が画かれてある。
 供養塚町が宗参寺の飛地で境内として認められていたことは、それだけ宗参寺との特殊な関係が認められていたことで、この塚が奥州街道の一里塚だったのではなく、宗参寺に関係ある塚であったということである。とすれば、それは宗参寺の所に移住してきた大胡氏の牛込初代者を葬った塚だったのではあるまいか。
宗参寺 新宿区弁天町の曹洞宗の寺院。天文13年(1544)、牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため嫡男の牛込勝行が建立。
喜久井町14〜20番 赤線の「喜久井町14〜20番」の方が、実際の供養塚町よりも範囲は大きいようです。緑線で描かれていた場所は供養塚町ではないでしょうか?

喜久井町(東京市及接続郡部地籍地図 上卷 東京市区調査会 大正元年から)

大久保絵図(1857年、尾張屋)。左は供養塚町、右が宗参寺。

供養塚 大飢饉などの災害で亡くなった人々を供養する塚。「塚」は必ずしも遺骸が含まれず、無生物を含む。
供養塚町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌 : 地名の由来と変遷』(2010)では……

牛込供養塚町 当地一帯は寛永年中(1624-44)に宗参寺の飛地となった。往古より百姓家があったが、次第に家が造られ、町並となった。正徳元年(1711)寺社奉行に永家作を願って認められ、延享2年(1745)町奉行支配となる。町名は、地内に庚申供養塚があったことに由来する(町方書上)。この塚については、古来奥州街道の一里塚であった(町方書上)とか、大胡氏が移住した際の初代の墓や中野長者鈴木九郎の墓とする説(町名誌)、太田道灌が鷹狩の際、神霊が現れ、堂宇を立て傍らに石碑を建てたとする説(寺社備考)などがある。
 明治2年(1869)4月、牛込馬場下横町、牛込誓開寺門前、牛込西方寺門前、牛込来迎寺門前、牛込浄泉寺門前、牛込供養塚町を合併し、牛込喜久井町とする(己巳布)。この地域の旧家で名主の夏目小兵衛の家紋が、井桁の中に菊の花であることから名付けられた。

註:永家作 「家作」は家をつくること、貸家。「永家作」とは不明だが、長く住み続ける家か?
庚申供養塚 庚申信仰をする人々が供養のために建てた塚。


 また、岸井良衛編「江戸・町づくし稿 中巻」(青蛙房、1965)では……

 供養塚町(くようづかまち)
 1857年の安政改板の大久保絵図をみると、宗参寺の西方、馬場下横町の東どなりに牛込供養塚町としてある。南側は往来を距てて感通寺、本松寺、松泉寺、来迎寺、西方寺、誓閑寺などが並んでいる。
 寛永年中(1624~43年)宗参寺の境内4千坪の場所が御用地となって替地を下された時に当地が飛び地になっていた。ここは古くから百姓家があって、おいおいと家作が建って、奥州街道の一里塚として庚申供養塚があった。そのことから牛込供養塚町と唱えた。
 正徳元年(1711年)2月に寺社方へ家作のゆるしを得て、延享2年(1745年)に町方の支配となった。
 町内は、南北35間、東西20間余。(註:64mと37m)
 自身番屋・牛込馬場下横町と組合。
 町の裏に庚申堂がある。
 庚申塚・町の裏にあって、高さ5尺、幅1間4方〔備考〕

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 供養塚町については……
当町起立之儀 寬永年中宗参寺境內四千坪余之場所御用地に相成 当所え替地被仰付候ニ付 飛地ニ而同寺境內ニ有之候 右地所之内往古より百姓家有之候所 追々家作相増 其後町並ニ相成 往古当所奧州海道之節 一里塚之由ニ而 庚申供養塚有之候ニ付 牛込供養塚町相唱申候 尤宗参寺境内には有之候得共 地頭宗参寺え年貢差出し古券ヲ以譲渡仕来申候……
飛地 江戸時代、大名の城付きの領地に対して遠隔地に分散している領地
奥州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から宇都宮を経て奥州白河へ至る街道。
一里塚 おもな道路の両側に1里(約4km)ごとに築いた塚。戦国時代末期にはすでに存在していたが、全国的規模で構築されるのは、1604年(慶長9)徳川家康が江戸日本橋を起点として主要街道に築かせてからである。「塚」は人工的に土を丘状に盛った場所。

庚申供養塚 こうしんくようづか。庚申信仰をする人々が供養のために建てた塚。庚申の夜に眠ると命が縮まるので、眠らずにいると災難から逃れられる。そこで神酒・神饌を供え、飲食を共にして1夜を明かす風習がある。娯楽を求めて、各地で多く行われた。
江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。
誓閑寺 江戸名所図会では 

鶴山かくざん誓閑せいかん 同じ北に隣る。ぎょういんと号す。浄土宗にして霊巌れいがんに属す。本尊五智如来の像は(各長八尺)開山木食もくじきほん上人しゅうふう誓閑せいかん和尚の作なり。じょう念仏ねんぶつの道場にして清浄無塵の仏域なり。当寺昔は少しの庵室にして、その前に松四株を植えて、方位を定めてほうしょうあんといひけるとぞ。今四五十歩南の方、道を隔てて向らの側に庚申堂あり。これち昔の方松庵の地なり。
稲荷の祠(境内にあり。開山誓閑和尚はすべて仏像を作る事を得て、常にふいをもって種々の細工をなせり。この故に境内に稲荷を勧請し、11月8日には吹革まつりをなせしとなり。今もその余風にて年々としどしその事あり。)
庚申塔と塚 道の反対側に庚申塔と塚、絵図では札「庚申」もあり、赤丸です。

誓閑寺


大胡氏の牛込初代者 そう考える理由はどこにもありません。一つの考え方、想像です。当時の風習は全く知りませんが、豪族だった大胡氏が塚に入るのではなく、せめて墓ぐらいに入らないとおかしいと考えます。

 なお『御府内備考』にあるこの地の奥州街道については、同じように『江戸名所図会』の感通寺の項に「この地は往古鎌倉海道の旧跡なりといへり」とある。また『東京名所図会』(明治37年、東陽堂刊)の牛込矢来町の項に「沓懸くつかけざくら」がある。往時の街道を旅する人が切れた草履を梢にかけて立ち去る者が多かったので名づけられた名木の彼岸桜であった。
 これらを考えると、牛込台地の北端を当時の古道が、神楽坂から矢来町、宗参寺、供養塚と東西に通って戸塚一丁目に向い、そこを南北に通っていた鎌倉街道に合流するのである。この鎌倉街道を通って、戸塚から宗参寺の所に大胡氏は移住してきたのであろう。
感通寺 新宿区喜久井町39にある日蓮宗の寺です。江戸名所図会では……
本妙寺感通寺 (中略)摩利まりてんの像は松樹の下にあり。頼朝卿の勧請にして、頼義朝臣の念持仏といひ伝ふ。この地は往古そのかみの鎌倉海道の旧跡なりといへり。
往古 おうこ。過ぎ去った昔。大昔。
鎌倉海道 鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。別名は鎌倉街道、鎌倉往還おうかん、鎌倉みち
東京名所図会 新撰東京名所図絵。明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
彼岸桜 本州中部以西に分布するバラ科の小高木。カンザクラに次いで早期に咲く。春の彼岸の頃(3月20日前後)に開花するためヒガンザクラと命名。

 供養塚の由来は……

《町方書上》往古ゟ百姓家有之候所、追々家作相増、其後町並相成、往古当所奧州海道之節一里塚之由て庚申供養塚有之候付、牛込供養塚町相唱申候
《新宿区町名誌》大胡氏の牛込移住初代者の墓とする。供養塚町が宗参寺の飛地として所有していたということは、宗参寺に関係深い塚だったということになる。とすれば、群馬県大胡から牛込に移ってきた初代大胡氏を葬った塚であろうと。
《新宿区町名誌》中野長者鈴木九郎の墓とする。「江戸名所図会」に、その問題を提示しているが、「大久保町誌稿」につぎのようにある。「鈴木九郎は牛込供養塚町に住し、生涯優婆うばそく塞(西新宿一丁目参照)を勧行して、遂に永享12年(1440)終歿せり」と(淀橋誌稿)。
 中野長者鈴木九郎は、中野区本郷のじょうがんや西新宿二丁目の熊野神社を建立したといわれる人である。しかし、この塚を鈴木九郎の塚とするのは、あまりにも作為的である。鈴木九郎の伝説は、戸山町内の旧みょう村にもある(戸山町参照)。
《寺社備考=御府内備考続編》文明年中(1469〜87)に太田道灌が鷹狩の際、神霊が現れ、堂宇を建て傍らに石碑を建てた。

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972)「牛込地域 75.牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚」では……

牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚
      (喜久井町14から20)
 来迎寺から若松町に行く。右手に感通寺がある。その左手一帯は、昔「供養塚町」といった。
 「御府内備考」によると、この地は前に案内した宗参寺の飛地で、境内になっていたという。そしてこのあたりは古くから百姓家があり、鎌倉海道一里塚の庚申供養塚があったといい、「江戸名所図会」の誓閑寺の項に、その鎌倉海道のことと庚申塔や塚の絵が出ている。
 供養塚町が宗参寺の飛地で境内にしていたということは、宗参寺に関係深い塚であったということであろう。とすれば、それは宗参寺でものべたように、大胡氏の初代牛込移住者を葬った塚だったのではあるまいか(60参照)。
 徳川家康の関東入国により、それ以前の土着武士の旧跡・事蹟は消されていったようである。
 牛込氏について不明の点が多いのは、牛込氏が徳川氏に対する遠慮から史料を処分したろうと思われるばかりではなく、為政者も黙殺していったのではなかろうか。宗参寺(60参照)でものべたように、官撰の「御府内備考」では、宗参寺の位置を大胡氏の居住地とすることを否定しているし、袋町の牛込城跡には一言もふれていないのである。
〔参考〕  牛込氏についての一考察
来迎寺 らいこうじ。新宿区喜久井町46の浄土宗の寺院。寛永8年(1631)に建立。
60参照 「新宿の散歩道」の「60」は「牛込氏の最初の居住地だった宗参寺」でした。

牛込氏についての一考察|④赤城神社の旧地「田島森」

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の④「赤城神社の旧地『田島森』」です。

 宗参寺北方400メートル、早稲田鶴巻町185番地に、大胡氏が赤城山ろくにあった赤城神社をはじめて勧請した旧地「田島森」があり、小さい祠がある。ここにあった神社は、寛正元年(1460)に太田道灌によって牛込御門の所に移され、さらに牛込勝行が弘治元年(1555)9月19日に現在地に遷座したものという(「神社縁起」)。これは境内にあった正安3年5月25日の銘がある板碑が神社に保存されてあった(戦災で消失)ことから想定したものであろうと思う。というのは、正安2年は、まだ大胡氏が上州大胡に居住していたと思われる年代である。

宗参寺 そうさんじ。牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため、天文13年(1544)に重行の嫡男牛込勝行が建立。牛込氏や赤穂義士の師・山鹿素行の菩提寺などがある。
早稲田鶴巻町185番地 現在は新宿区早稲田鶴巻町568-13です。
田島森 江戸名所図会では

赤城明神旧地 同所田の畔、小川に傍ふてあり。大胡氏初て赤城明神を勧請せし地なり。故に祭礼の日は、神輿を此地に渡しまいらす。

 この「小川」はかに川でしょう。新撰東京名所図会第41編では

   ◯元赤城神社
早稲田村(185番地)にあり、今鶴巻町に編入す、祭神石筒雄命、正安3年草創、牛込郷社赤城神社の古跡なり、古来より赤城神の持なりしが、明治6年1月更に赤城神社附属社となれり。
本社石祠、高さ2尺巾1尺5寸、境内35坪立木3本あり。

元赤城神社。鳥居の左側は記念碑「田島森碑」。後ろに神社。コンクリートの建物は「元赤城神社 社務所」

元赤城神社。中央右に「元赤城神社新築資金寄附者御芳名」の板。

元赤城神社。説明板「神崎の牛牧」がある。

小さい祠 「ほこら」は「やしろ。おたまや。先祖の霊をまつる所」。海老沢了之介 著「新編若葉の梢 : 江戸西北郊郷土誌」(新編若葉の梢刊行、1958)は、金子直徳著「若葉の梢」上下2巻(寛政年間)を底本しており、「牛込氏と赤城神社」を書いています。

元赤城神社仮殿(昭和31年)

牛込氏と赤城神社
 牛込忠左衛門の屋敷は、胸突坂上の番所の前に在る。この牛込家の遠祖は、大胡太郎重俊なる者であった。子孫の大胡重行の代に及んで、この牛込に移住した。その嫡男を牛込宮内少輔藤原勝行といい、父の菩堤を弔わんがために、雲居山宗参寺を開基した。
 昔その祖先の大胡常陸なる者が、上野国赤城山の三夜沢の神を敬信し、その領地の赤城山麓大胡の地に勧請し、それを近戸明神と呼んで今もある。
 大胡常陸の末孫牛込忠左衛門の先祖、即ち大胡重行が、大胡氏の氏神である上州赤城の神を、牛込惣領守として、早稲田の田の中の小森に勧請したが更に今の赤城神社の所に遷座した。よって最初の地を元赤城といっている。
 日光山の記にいう。下野国二荒山、今の日光山の神と、上野国赤城山の神とが中禅寺の湖水のことで争った。その時、二荒山の神はうわばみとなり、赤城山の神は蜈蚣むかでとなって戦ったという。
 私(直徳)が先頃旅をした時、新町と倉賀野との間の田の中において、忽ち疾風起こり、黒雲が覆い来たって、日中暗闇となった。雨は水をあびるが如く、雹は槌をもって打つが如くであったが、三時ばかりして拭うが如く晴れた。それからというものは一寸した風が直にあたっても、恐ろしくなって病気になる程であった。
 元赤城は正安二年(1300)早稲田に鎮座との説がある。これによると、大胡氏の牛込に来るより230余年前からあることとなる。なお赤城神社には、文安元年(1444)の奥書納経(大般若経)がある。これも大胡氏より百年前のものである。

註:菩提 ぼだい。煩悩ぼんのうを断ち切って悟りの境地に達すること。
蟒  うわばみ。巨大な蛇、大蛇、おろち
蜈蚣 ごこう。「むかで(百足)」の異名。

 また、鳥居の左側に「田島森碑」が立っています。「温故知しん!じゅく散歩」は

概要
赤城神社の由来と「田島の森」と呼ばれた当地の歴史を伝える記念碑である。当地は、牛込早稲田村の「田島の森」と呼ばれる沼地であったところへ、正安2年(1300)上野国赤城山の麓から牛込に移り住んだ大胡氏(後に牛込氏に改姓)が故郷の赤城明神を祀ったと伝えられる。碑文には、赤城神社が寛正元年(1460)太田道灌によって牛込に移され、弘治元年(1555)に現在地へ遷座した後も、元赤城神社として崇敬者の手によって維持されてきたことが刻まれている(※ 実際に大胡氏が牛込に移り住んだのは15世紀末頃と推定されている)。

田島森碑

 「この宮處は古へ「田島の森」と云ひ、又、椚の大樹ありしを以て「椚の森」とも称へ。赤城元町にある「赤城神社」の旧址跡にて、今より六百三十一年前、後伏見天皇の正安二年といふに創めて赤城の大神を濟ひ鎮め奉りし處なれば、元赤城神社と称へ奉りき。そも牛込の地は北條氏菅領地たりし頃、牛込氏の領地なりしか。同氏は上野國赤城山の麓なる大胡の里より移り来しかは素より赤城の大神を尊び奉れり(以下略)」とyama’s noteは書いています。

神社縁起 赤城大明神縁起がありますが、天暦2年(948年)に書いた縁起なので、これは使えません。赤城神社の【御由緒】では……

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。
 その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、さらに弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が現在の場所に遷したといわれています。この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。

新撰東京名所図会第41編では……

〇由緒
正安2年牛込早稲田村田島の森中に小祠を奉祠す、其後160余年を経て寛正元年太田持資、田島の小祠を牛込台に遷座す、後ち上野国大胡の城主大胡宮内少輔重行、神威を尊敬し、赤城姫命を合殿に祀り、弘治元乙卯年9月19日、方今の地に移し、赤城神社と称せり。別当は天台宗赤耀山等覚寺なり。

田島森碑

正安3年5月25日の銘がある板碑 正安3年は1301年の昔ですと、まず一言断わっておき、群馬県地域文化研究協議会編「群馬文化」(1967)では……

 神社で大切に保存してきたものに一枚の板碑があった。昭和20年に戦災で失ったが、神社誌に写真が載っており、その説明に高さ4尺、巾1尺余で、阿弥陀如来三尊の種子がそれぞれ蓮台上にあり、銘文は
   池中蓮華 大如車輪
  正安三年辛丑五月二十五日
   青色青光 黄色黄光
とあったという。出土地は早稲田鶴巻町185番地にあった田島の森という赤城神社の旧地で別当等覚寺所蔵のものであった。正安3年は板碑として写真をみた限りではよいようだが、神社との関係はわからないし、むしろ偶然に板碑が発見され所蔵していたとするのが正しいであろう。神社では何時ごろからかわからないが、祭日が9月19日なので、この日を創建の月日にあて、板碑の年月日が正安3年5月25日だから神社草創はそれ以前の9月19日、即ち正安2年9月19日としたのであろう。—————————————————

註:写真は東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)から。「神社誌」がさす文書は不明。

 なお、現在「田島森の板碑」は赤城明神勧請と無関係だとわかっています。新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)「2 牛込のあけぼの「赤城神社」考」「(1) 牛込の赤城神社(元赤城明神と番町台、牛込台への遷座」「① 元赤城明神(元赤城神社)」では……

戦前、田島森附近から正安3年(1301)5月25日記銘の板碑が出土しており、『牛込区史』ではこれが大胡氏が赤城明神を勧請した傍証としていたが、戦後落合附近から徳治2年(1307)、建武5年(1338)、貞治6年(1367)の3枚、放生寺より南北朝時代のもの1枚、自証院附近からも3枚の板碑が出土、鎌倉末期、北朝年号もまじる供養塔で、田島の森の板碑も同類で、赤城明神勧請に直接関係のないことがわかった。

 田島森あたりは、想像するに、戸山町から北流してくる金川(一名かに川)が早稲田大学の大隈講堂あたりで東流してくるのと、南方市谷薬王寺町から牛込柳町、弁天町を通って北流してくる川(加二川)とが合流する所であり、そこが沼地になり、島状の地もあったので金川以北から神田川までは、田島森と呼ばれたものと思われる。
 大胡氏が宗参寺の所に移住してくると、この田島森に上州の赤城神社を勧請して鎮守にしたものである。なぜそこを鎮守の森にしたのであろうか。上州の赤城神社は、大胡町の北方にあり、赤城山頂の大沼のほとりにある沼(水)神である。一方この地は弁天町の大胡氏居住地の北方にあたる沼地である。こうみてくるとここに故郷の赤城神社を勧請するには好適の地であったためであろう。

金川(一名蟹川) 水源地は西部新宿駅付近の戸山公園の池。現在は暗渠化。歌舞伎町の東端、大久保通りの地下、大江戸線東新宿付近、東戸山小学校、戸山公園、早稲田大学文学部、大隈講堂付近、鶴巻小学校付近を流れ、山吹高校付近で加二川と合流し、文京区関口を経て江戸川に注ぐ。
加二川 水源地は牛込柳町。北流して、金川と合流する。

江戸川小の歴史散歩③ 牛込地区に坂が多いのはなぜ①

東京実測図。明治18-20年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

鎮守 ちんじゅ。辺境に軍隊を派遣駐屯させ、原地民の反乱などからその地をまもること。奈良・平安時代では、鎮守府にあって蝦夷を鎮衛する。一国や村落など一定の地域で、地霊をしずめ、その地を守護する神。また、その神社。霊的な疫災から守護する神や神社。
上州の赤城神社 御祭神は「赤城神社は、赤城山の麓に佇む、自然と歴史が交差する聖地です。この神社は崇高な赤城山の神と水源を司る沼の神を崇拝し、農業と産業の神として、そして東国開拓の神として崇められています」

 鶴巻町は、『新編武蔵風土記稿』によると、鶏を放し飼いし、鶴番人がいたことから名づけられた町名といっているが、これは後世の意味づけである。「鶴巻」の本義は、世田谷区の「弦巻」も同様であるが、朝鮮語からきたツル(荒野・原野)のマキ(牧)の意であるという(中島利一郎著『日本地名学研究』)。
 牛込という地名は、牛の牧場という意味で、『延喜式』にある「神崎牛牧」は牛込の地に擬されているが(『南向茶話』、『御府内備考』)、それもこの辺だったのではなかろうか。
 神田川にかかる駒留橋というのも牧場に関係あるものだろう。
 大胡氏は、高田八幡(穴八幡)の高台下と、宗参寺東との二つの谷間に柵をつくれば、前述したように、戸山町からの金川、柳町からの加二川に囲まれた 形の地域内は立派な牧場になる。牧場はその北の神田川まで広げて考えてもよい。その牧場を南の高台である宗参寺の所に居館を建てて管理し、前述の田島森に鎮守の赤城神社を建てたということになろう。

鶴巻町 新編武蔵風土記稿東京都区部編 第1巻では

早稲田ノ二所ニオリシ由其頃当村ニモ鶴番人アリシコト或書ニ見コ鶴巻ノ名ハ恐クハ是ヨリ起リシナラン

新編武蔵風土記稿 しんぺんむさしふどきこう。御府内を除く武蔵国の地誌。昌平坂学問所地理局による事業で編纂。1810年(文化7年)起稿、1830年(文政13年)完成。
中島利一郎 東洋比較言語学者。国士舘大学教授。生年は明治17年1月2日、没年は昭和34年1月6日
日本地名学研究 「日本地名学研究」で

この地方は弦巻に連接し、一帯の曠野で、農作に適せぬので、牧場として発達したわけ。荒地のことを、古言で「つる」、朝鮮語でもTeurツル(曠野)、——富士山爆発の結果、火山岩落下のため、荒蕪地となった一帯の地を、甲州で都留郡というように——といっていたから、「つるまき」は「曠野ツルまき」という意味、新宿区早稲田鶴巻町も同じである。ここに駒留橋あり、世田谷に駒留八幡神社あり。由来は牧場からである。

延喜式 経済雑誌社「国史大系第13巻」(明治33年)の「延喜式」では「諸国馬牛牧」として武蔵国は檜前馬牧と神崎牛牧2種を上げています。
神崎牛牧 かんざきのうしまき。兵部省所管の武蔵国の牛牧。「東京市史稿」では新宿区牛込のあたりだと推定。
南向茶話 これ以外にいい問答がなさそうです。

  問曰、牛込小日向筋御聞承及も候哉。
答曰、此地は数年居住仕候故、幼年より承り伝へ候儀も有之候。先牛込の名目は、風土記に相見へ不申候得共、古き名と被存候。凡当国は往古曠野の地なれば、駒込馬込(目黒辺)何れも牧の名にて、込は和字にて多く集る意なり。(南向茶話

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 大日本地誌大系 第3巻 御府内備考によれば、

此所は往古武蔵野の牧の有し所にて牛多くおりしかはかくとなへり駒込村 初に出  馬込村 荏原郡に馬込村あり  等の名もしかなりと 南向茶話 さもありしならん江戸古図にも牛込村見へたり

この辺だった 実は元赤城神社には「神崎の牛牧」という説明板があります。

江戸・東京の農業 神崎かんざき牛牧うしまき
 もん天皇の時代(701〜704)、現在の東京都心には国営の牧場が何か所もありました。
 大宝元年(701年)、大宝律令で全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧かんまき)が39ヶ所と、皇室の牛馬を潤沢にするために天皇の意思により32ヶ所の牧場(ちょくまき)が設置されましたが、ここ元赤城神社一帯にも官牧の牛牧が設けられました。このような事から、早稲田から戸山にかけた一帯は、牛の放牧場でしたので、『牛が多く集まる』という意味の牛込と呼ばれるようになりました。
 牛牧には乳牛院という牛舎が設置されて、一定期間乳牛を床板の上で飼育し、乳の出が悪くなった老牛や病気にかかったものを淘汰していました。
 時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で『生類憐みの令』が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、牛込区の新小川町、神楽坂、白銀町、箪笥町、矢来町、若松町、市ヶ谷加賀町、市ヶ谷仲之町、市ヶ谷本村町と、牛込にはたくさんの乳牛が飼われていました。
平成9年度JA東京グループ    
農業協同組合法施行五十周年記念事業

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Kanzaki Dairy Farm
  In the era of the Emperor Monmu (701-704), government-operated stock farms were established here and there in the center of the present metropolis. The area from Waseda to Toyama thronged with roaming cows and, therefore, called ‘Ushigome’ (cow throngs). The area of this shrine was also cow ranches.
  In the dairy farm, there was established a dispensary where cows were reared on the floor for a period and unproductive old cows or sick cows were sorted out.

駒留橋 こまどめばし。丸太橋で放牧された馬がここまで来ても先には行けないので名付けたという(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年)。現在は駒塚こまつかばしです。文京区の神田上水に架かって、文京区目白台1・関口2と文京区関口1丁目を結ぶ小橋。創架時期は不明。

牛込氏についての一考察|③最初の移住地

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の③「最初の移住地」です。

  3 最初の移住地
 まず、大胡氏の牛込移住は、重行の時といわれているが(「牛込氏系図」)、重行の出生は寛正元年(1460)であるから、それよりも前のことになる。『南向茶話』には、重行の父大胡彦太郎重治とあるが、この人物は「牛込氏系図」にはない。
 ところで新宿区弁天町9番地に宗参寺がある。宗参寺は、大胡勝行が天文12年(1543)83才で死去した父重行のために、翌年に建てた寺で、寺名は重行の法名宗参をとったものである。そこには牛込氏の墓地があり、大胡重行、勝行父子の墓があり、都の文化財に指定されている。
 思うに、この地が大胡氏の牛込移住の最初の土地ではないかと思う。『江戸砂子』には「……此の地に来り牛込城主となり」とある。
 菩提寺を建立するにはそれだけの場所選定の理由があるし、家族の居住地に寺院が建つ例が多い。『御府内備考』では、宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てたというのはだといっているが、『東京案内』(明治40年、東京市編)は、「この地に移ってきて牛込氏と称した」と認めている。
 なぜここに居住したかについては、大胡氏勧請の赤城神社の旧地を考察する必要がある。
南向茶話 酒井忠昌著『南向茶話』(寛延4年、1751年)と『南向茶話附追考』(明和2年、1765年)はともに江戸の地誌
重治 南向茶話附追考では、「大湖重治」氏が所在地を大胡から牛込に変更し、「勝行」氏は名前を牛込家に変えたとしています。ここでも「重治」氏は牛込氏系図寛政重修諸家譜の名前リストには載っていません。

牛込氏は、藤原姓秀郷の流也。家伝に曰、秀郷より八代重俊、上州大湖に住す。大湖太郎と号す。重俊より十代の孫大湖彦太郎重治、初て武州牛込に移り居す。其子宮内少輔重行、其子宮内少輔勝行に至りて、北条家に仕へ、改て牛込を称号す。
(南向茶話附追考

 なお「新撰東京名所図会 牛込区之部 中」(東陽堂、明治39年)の場合は……。

牛込の称は。北條分限帳に見えて。大胡常陸守領とあり。牛込氏家伝に。大胡宮内少輔重行。法名は宗參。其の子従五位下勝行。北條氏康に属す。勝行は武蔵国牛込並今井、桜田、日尾谷、其の外下総の堀切。千葉を領し。牛込に居住す。因て天文14年(1545)正月6日。大胡を改め牛込とすとあれば。牛込の称は。それより以前在りしてと明かなり。牛込氏居住して始て牛込の称起れるにはあらざるなり。
(新撰東京名所図会)

宗参寺 新宿区弁天町の曹洞宗雲居山の寺院。

宗参寺(そうさんじ)

宗参寺。東京市公園課「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第ー輯」大正12年。

都の文化財 宗参寺の「牛込氏墓」が文化財になっています。

   牛込氏墓
 牛込氏は室町時代中期以来江戸牛込の地に居住した豪族で、宗参寺の開基である。出自については「牛込氏系図」に藤原秀郷の後裔で上州大胡の住人であったとしているが定かではない。しかし「江戸氏牛込氏文書」(東京都指定有形文化財)によると大永6年(1526)にはすでに牛込に定住していたことが確認されている。
 小田原北条氏に属し、はじめ大胡とも牛込とも名乗っていたが天文24年(1555)には北条氏から宮内少輔の官位を与えられるとともに、本名を牛込とすることを認められた。領地として牛込郷・比々谷郷などを有していたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡後は徳川家に仕えた。
 平成10年(1998)3月建設 東京都教育委員会
註:江戸氏牛込氏文書 江戸幕府の旗本・牛込家の古文書群21通

牛込重行勝行父子墓。左は東京市公園課「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」大正12年。右は 温故知しん!じゅく散歩

江戸砂子  享保17年(1732)、菊岡沾涼の江戸地誌。正確には「江戸すな温故名跡誌」。武蔵国の説明から、江戸城外堀内、方角ごと(東、北東、北西、南、隅田川以東)の地域で寺社や名所旧跡などを説明。
此の地に来り牛込城主となり 同じ言葉ではないですが、続江戸砂子温故名跡志巻之四では……

雲居山宗参寺 寺産十石 吉祥寺末 牛込弁天丁
開山看栄禅師、牛込氏勝行、父の重行菩提のため、天文13甲辰建立しでん四十こくす。雲居院殿前大胡大守実翁宗参大菴主。天文12年に卒す。是おほ重行しげゆきの法名也。これをとりて山寺の号とす。此大胡重行は武蔵むさしのかみ鎮守ちんじゅふの将軍秀郷の後胤こういん、上野国大胡の城主大胡太郎重俊六代のそん也。武州牛込の城にじょう嫡男ちゃくなん勝行天文24乙卯従五位下ににんず。于時ときに本名大胡をあらため牛込氏とごうす、御幕下牛込氏の也。

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
旧蹟 有名な建物や事件が昔にあった所。
 「宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てたというのは誤だといっている」と書かれています。実際には「宗三寺を牛込の城蹟へ立し寺なりといへとあやまりなることおのづから知べし」(大日本地誌大系 第3巻 御府内備考。雄山閣。昭和6年)と書いています。「牛込氏の旧蹟」が「牛込城跡」の意味で使っている場合は確かに「誤」です。

牛込城蹟
牛込家の傳へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々(中略)
彦太郎藤原重治は武蔵守秀卿の後胤もと上野国大胡の住人なり、重治が世に至て武蔵国豊島郡牛込の城にうつり住す この城をいふなるべし その子宮内少輔重行天文12年9月27日卒す78歳、その子宮内少輔勝行北條左京大太氏康の麾下に属す、天文13年牛込の地に於て一寺を建て雲居山宗参寺と号す是父の法名によつてなり、寺領十石を寄進す 按に宗三寺を牛込の城蹟へ立し寺なりといへとあやまりなることおのづから知べし

いかさま (1) なるほど。いかにも。(2) いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき。不正。
麾下 きか。将軍に直属する家来。ある人の指揮下にある。その者。


東京案内 東京市編「東京案内」(裳華房、明治40年)です。
この地に移ってきて牛込氏と称した 「東京案内 下」では
牛込村は、往古武蔵野の牧場にして牛を牧飼せし処なるべしと云ふ。中古上野国大胡の住人大胡彦太郎重治武蔵に移りて牛込村に住し小田原北條氏に属し其子宮内少輔重行 天文12年卒、年78 重行の子宮内少輔勝行 天正15年卒、年85 に至り天文24年5月6日 弘治元年 北条氏康に告げて大胡を改め牛込氏とす。

 大胡氏が前橋市大胡から牛込に移住した時期について少なくとも4通りの考え方がありそうです。1つ目は天文6年(1537)前後で、その時に大胡重行が牛込に移り住み(寛政重修諸家譜、日本城郭全集)、2つ目は少し早く大胡重泰(江戸名所図会)や重行の父重治(赤城神社、南向茶話、東京案内)の時で、3つ目はもっと早く、室町時代初期(応永期~嘉吉期、1394~1443)にはもう牛込に住んでいる場合で(芳賀善次郎氏)、4つ目は逆に遅くなって、勝行(新宿歴史博物館 常設展示解説シート)の時です。
 また、大胡家から牛込家に名前を変えた時期は、移住した時よりも遅く、勝行氏が牛込家に変えたと、多くの人が考えているようです。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年

牛込氏についての一考察|②牛込氏の牛込移住

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の②「牛込氏の牛込移住」を読んでいきます。②と③の問題はいつ名前を「大胡氏」から「牛込氏」に変え、住所を「群馬県大胡地域」から「神楽坂」に変えたのか、です。

  2 牛込氏の牛込移住
 牛込氏の先祖は、群馬県勢多郡おおの大胡城に住んだ大胡氏である。大胡氏は、藤原秀郷の後裔(牛込氏系図)と称し、大胡を領していたので大胡氏と称したが、大胡重行の時に北条氏康の招きで牛込に移住したという(『寛政重修諸家譜』)。そしてその移住年代を『日本城郭全集』(新人物往来社刊)では、天文6年(1537)前後と推定している。
 しかし、南北朝が合体した明徳3年(1392)には、すでに大胡には大胡氏はいなかったと見られている(『新宿区史』)
 その10年後の応永9年(1402)に、大胡氏が牛込に勧請したという赤城神社に奉納した大般若経の写経が、後述するが別当寺であった神楽坂のぎょうがん(明治45年7月、品川区西大崎4-780に移転)に所蔵されていた(『江戸紀聞』)。その一巻は、郷土研究家一瀬幸三氏宅に渡って所蔵されている。それからみると、遅くとも応永9年には赤城神社があったのだから、その勧請者である大胡氏が牛込に来ていたことになる。
 そこで、大胡氏は室町時代初期には牛込に移り住んでいたものと思われる。大胡氏は、大胡で牧場経営をしていたのではあるまいか。それで牛込の牧場管理のため、江戸の上杉氏の命で牛込に移住したのではあるまいか。

勢多せた郡大胡町 平成16年(2004年)12月以降は「前橋市大胡町」に変更
大胡氏 「寛政重修諸家譜」によれば

牛込
伝左衛門勝正がとき家たゆ。太郎重俊上野国大胡を領せしより、足利を改て大胡を称す。これより代々被地に住し、宮内少軸重行がとき、武蔵国牛込にうつり住し、其男宮内少勝行地名によりて家号を牛込にあらたむ

 つまり、姓は足利氏から大胡氏に変わったのは重俊氏、大胡氏から牛込氏に変更したのは勝行氏、住所の大胡地域から牛込地域に変えたのは重行氏の時と、寛政重修諸家譜では考えています。

藤原秀郷 平安中期の武将。平将門の乱を平定し、下野守・武蔵守となる。百足むかで退治の伝説で有名。生没年未詳。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」
 1543年から77を引くと生年は1466年(寛正7年)でした。

新宿歴史博物館 常設展示解説シート 大胡氏が牛込に居住したのは、勝行の時代からで、勝行が重行の跡を継いで姓を「大胡」から「牛込」に改めた可能性が高いのではと思われます。重行を牛込重行と記したのは「牛込」という地名を指しているからで、本来は大胡を名乗っていたのでは、との指摘もありますが、勝行の時に、大胡氏が牛込氏の遺跡ゆいせきを継いだと考えるのがスムーズかと思います。『寛政重修諸家譜』の成立は、寛政年間(1789~1801)と後世になり編纂されたものなので、時代を遡れば遡るほど、信憑性に欠けてききます。そのため、『寛政重修諸家譜』を疑いの目で見てみました。

寛政重修諸家譜」から。
重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす。
勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉ちば等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲。

 下図「江戸名所図会」は江戸時代後期の1834年と1836年(天保5年と7年)に刊行された江戸の地誌です。ここでは「大胡重泰」氏がその所在地を前橋市大胡から牛込に変更したと書かれています。しかし、「重泰」氏は牛込氏系図寛政重修諸家譜の名前リストには載っていません。以下は「江戸名所図会」です。

赤城明神社 同所北の裏とおりにあり。牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。そのかみ、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫しげやす当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐちりょうの田の中にあり今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり

北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の武将。後北条氏の第4代。晩年、豊臣秀吉に小田原城を包囲され、敗れて切腹。[1538~1590]
日本城郭全集 日本城郭全集第4「東京・神奈川・埼玉編」(人物往来社、1967)では……

 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城(埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条[氏康]氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年前後と推察される。

天文6年(1537) 戦国時代。将軍は足利義晴で、室町幕府の第12代征夷大将軍。
明徳3年(1392)には……(『新宿区史』) 『新宿区史』(新宿区役所、昭和30年)の126頁では……
明徳4年(1393)には大胡の地は上杉氏の所領となつており、大胡上総入道跡とゆう書様から推すと、大胡の地には大胡氏は居なかつたように感ぜられる。若しそうとすれば牛込助五郎が史上に明文を見る大永6年〔1526〕までは何処にいたかと云うことになるが、この間の牛込氏の動向は史料を失いていて分らない。「米良文書」に「牛米てんきう」なるものが見えるが牛込氏との関係は不明である
書様 かきざま。書いたもののようす。かきよう。字や文章の書きぶり。
牛込助五郎 牛込重行です。(参照は「牛込氏文書 上」戦国時代)
明文 はっきりと規定されてある条文。わかりやすく筋の通った文章。
米良文書 めらもんじょ。熊野三山のうち那智大社に伝えられた古文書で、鎌倉期から室町期までのものが多い。

 また、赤城神社社史では……

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。
 その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、さらに弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が現在の場所に遷したといわれています。この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。

 1555年は天文24年=弘治元年の牛込勝行氏です。
 なお、繰り返しになりますが、「大胡彦太郎重治」は牛込氏系図寛政重修諸家譜には載っていません。
大般若経の写経 「江戸紀聞」の記載から「松原讃岐守入道妙讃大般若六百巻を書写として赤城の神祠に奉納にて応永の初より書写し文安元年甲子十一月七日おさむ」

江戸紀聞

江戸紀聞 えどきぶん。江戸時代の地誌。
室町時代初期 色々な考え方がありますが、文化庁重要文化指定目録の基準によると、応永時代~嘉吉時代(1394~1443)だそうです。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年

牛込氏についての一考察|①はじめに

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の①「はじめに」です。

  1 はじめに
 武州牛込氏については、『新宿区史』(昭和30年・新宿区役所編)に書かれているが、総合的に考察されていないし、史料が少ないので、まだ不明な点が多い。そこでここに牛込氏についての一考察をのべて今後の研究課題としたいので、諸賢のご批判ご指導を賜りたい。

 これで①は終わりです。あとは「武州牛込氏」と「新宿区史」を説明すればいいのですが、「新宿区史」の説明は長く続きます。

武州牛込氏 武州の別称は武蔵国で、これは東京都、埼玉県、神奈川県の川崎市、横浜市にあたる。「武蔵国にいた牛込氏」「武蔵国牛込氏」などと同じ。
新宿区史 牛込氏については「新宿区史:区成立30周年記念」23頁から25頁までに出てきます。「総合的に考察されていないし、史料が少ない」と書かれていますが、確かに、新宿区の室町幕府〜戦国時代の史料は現在でも少なく、増やせないし、「総合的」な考察もありません。しかし、牛込関係は少なくても、書籍一冊の「新宿区史」は十分に分厚くなっています。では「新宿区史」の牛込関係を見てみましょう。

 鎌倉時代の新宿区は、近くの府中に武蔵国の国衙があり、留守所がおかれていたし、江戸・豊島・葛西氏などこの地方に分布した豪族との関係が深かったものと思われるが、具体的な史料はない。市谷冨久町の自証院に残された高さ1.2メートルの板碑に、弘安6年(1283)6月の造立年月日が記されているのが最古の記録で、区文化財の指定を受けている。しかし、こうした碑が残されていることは、この時代、かなりの財力をもった豪族が、この地域と関係をもっていたことを示しているだろう。
 さらに、正安2年(1300)、現在牛込にある赤城神社が早稲田の田嶋の森(後の元赤城、現在の鶴巻町)に祀られたという社伝も残されているが、史料としては、暦応3年(1340)、鎌倉公方足利義詮が、執事高師冬に命じて、江戸氏から芋茎郷名上げ、替地として牛込郷の欠所分(不知行地)を与えたことを示すものが残っている。これによれば牛込郷は荏原郡に属していたことが判る。この文書は『牛込家文書』といわれ、牛込、日比谷、堀切、177貫余の所領を本貫とし、牛込袋町に居館を構えた牛込家伝来のもので、内容は江戸氏宛の7通と、牛込氏宛の11通、大胡氏宛2通、牛込七ゕ村宛1通、加藤系図写1通からなっており、牛込氏の由来については、上野国大胡城主大胡重行が天文年間(1532~55)北条氏康の招きで牛込に移ったと、「牛込系譜」に記してある。牛込氏と改めたのは天文24年(1555)のこととある。大胡氏が牛込に移った年代は、史料的には矛盾があり、同じ『牛込家文書』の後北条氏印判状写をみると、大永6年(1526)10月、北条氏綱から牛込助五郎宛に日比谷村の陣夫・夫役の徴用権を与える旨が記されていて、年代の遡りがみられる。『新編武蔵風土記稿』には大湖重行の父重治の代に牛込に移ったとも書かれている。また牛込姓も、系譜にある天文24年以前にすでに称していたようで、古い記録が紛失しているためもあり、明確ではない。牛込氏はその後徳川時代には旗本となり、明治維新には徳川家とともに駿府へ移ったが、何年かののち再び東京に戻ってきた。(暦応3年の文書他の場所に詳細があるので省略)
 後北条氏と牛込氏との関係を示す史料としては、『小田原衆所領役帳』があるが、この帳簿は後北条氏所領内の知行主(給人)を衆別(職種や地域別)にまとめ、それぞれの知行地に課せられる知行役高を書きあげたもので、いわば後北条氏の租税台帳にあたるものである。この帳簿の江戸衆のところに、牛込氏について次のように記されている。
 一、大胡
 六拾四貫四百卅文  江戸牛込
 六拾七貫七百八拾文 同 比々谷本郷
 四拾五貫文     葛西堀切
  此内廿二貫五百文 当年改而被仰付半役
  以上 百七拾七貫弐百十文
   此内八拾弐貫弐百拾文ハ   御赦免有御印判
    此内七捨弐貫五百文  知行役辻半役共
   以上
 この記述で役高の合計が177貫余で、知行役高は72貫500文として登録されていたことが判るが、この役高は他の知行主の平均が50貫前後であったのに比べると、かなり大きいものといってよい。

 これでおしまいです。「新宿区史」の話は江戸氏と太田道灌氏に移っていきます。

武蔵国の国衙 各令制国の中心地にこくなど重要な施設を集めた都市域は「国府」、その中心となる政務機関の役所群は「国衙」、その中枢で国司が儀式や政治を行う施設は「国庁」(政庁)。武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の政治中心地「国府」は府中市に置かれた。「衙」は、つかさ、天子のいる所、宮城。
留守所 るすどころ。平安後期以降一般化した地方行政を担う在地の執務機関。
田嶋の森 田島森。新宿区早稲田鶴巻町568にあり、島に似た土地と沼地があるので「田島の森」と呼びました。
暦応3年 鎌倉公方の足利義詮が、執事高師冬に命じて、江戸氏に芋茎郷の替地として牛込郷の欠所分(不知行地)を与えた。これは「高師冬奉書」暦応3年8月23日の手紙です。

「高師冬奉書」暦応3年8月23日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

鎌倉公方 室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。
足利義詮 あしかが よしあきら。室町幕府第2代将軍。在職1359~1367。
執事 室町幕府の将軍と鎌倉府の関東公方を補佐して政務を行なう職
高師冬 こうのもろふゆ。南北朝時代の武将。
芋茎郷 いもぐきごう。現在は「埼玉県加須市芋茎芋郷」です。
名上げ 「名」には「きこえ、てがら」の意味があり、「名が上がる」には「名声をあらわす、有名になる」という意味があるようです。「牛込家文書」は芋茎郷に何が起こって、何が起こる予定なのか等について全く触れていません。
上野国 こうずけのくに。群馬県域の古代国名。
大胡城 群馬県前橋市河原浜町の城。築城は天文年間(1532年〜1555年)、廃城は元和2年(1616年)。
牛込系譜 「牛込氏系図」です。

牛込氏系図」(牛込区史、昭和5年)

後北条氏印判状写 大永6年10月13日の「北条家朱印状写」です。

「北条家朱印状写」大永6年10月13日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

牛込助五郎 牛込重行です。
新編武蔵風土記稿 大湖重行の父重治の代に牛込に移ったと書いてあります。

 また、赤城神社社史では

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています

 さらに重泰の代に牛込に住んだというものもあります。例えば「江戸名所図会」です。これは江戸時代後期の1834年と1836年(天保5年と7年)に刊行された江戸の地誌で、赤城明神社の説明のところで、「大胡重泰」氏がその所在地を前橋市大胡から牛込に変更したのです。なお「重治」も「重泰」も牛込氏系図寛政重修諸家譜には載っていません。

赤城明神社 同所北の裏とおりにあり。牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。そのかみ、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫しげやす当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐちりょうの田の中にあり今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり

後北条氏 日本の氏族で、本来の氏は「北条(北條)」だが、鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏と区別するため、「後」を付して「後北条氏」、相模国小田原の地名から「小田原北条氏」「相模北条氏」とも呼ばれる。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年

史跡紹介パネル|飯田橋駅西口

文学と神楽坂

 JR東日本は令和2年(2020)7月12日(日)初電から飯田橋駅の新しいホーム新西口駅舎歩行者空間を供用開始しました。
 さらに令和3年3月19日から、西口駅舎1階の歩行者空間に「国指定史跡『江戸城外堀跡』」、「遺構巡り」を加え、また1階の西口改札外コンコースの「史跡紹介解説板」に「外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造」を加えました。
 そして令和3年7月21日朝9時から、西口駅舎2階にも「史跡眺望テラス」を展開し、「史跡紹介解説板」を使って「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」を説明し、また「牛込門と枡形石垣」を紹介しています。
 最後に飯田橋ホームの中に「外堀の堰の構造」があります。

史跡解説板テーマ設置箇所供用開始日
牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)西口駅舎2階「史跡眺望テラス」2021年7月21日
国指定史跡「江戸城外堀跡」とその遺構巡り歩行者空間2021年3月19日
外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造西口改札外コンコース2021年3月19日

飯田橋駅西口1階

史跡紹介解説板 西口駅舎1階の歩行者空間 国指定史跡『江戸城外堀跡』とその遺構巡り

史跡紹介解説板 西口改札外コンコース 外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造

スガツネ工業株式会社

 また、「スガツネ工業株式会社」がドイツ「Q-railing」社から輸入したガラスについて「(この)自立ガラスフェンスシステムを使うとガラスとガラスの継ぎ目に支柱のないフェンスを作ることができます。支柱が邪魔にならず、景観を主役にするためのシームレスなデザインを作り上げることができます。ご覧の通り『史跡』も支柱の遮りなく、愉しむことができます」と自慢げに書いていました。

Q-railing社の自立ガラスフェンスシステム

外堀の堰の構造

文学と神楽坂

 JR飯田橋駅のホームに「外堀そとぼりせき構造こうぞう」があります。

外堀の堰の構造

外堀の堰の構造

江戸城外堀縦断面

 牛込うしごめつけは牛込ぼりいい濠の間に位置しており、牛込濠の水をせき止める土橋と、その水位を調整するためのが設けられていました。
 2017(平成 29)年のJR飯田橋駅ホーム移設工事において、牛込橋の真下より、この堀の一部と思われる石敷いしじきが外堀で初めて発掘されました。明治期に撮影された古写真には、堰のおとしぐちが写っており、発掘された石敷はこの落口の手前の水路をなす箇所の一部分であることが考えられます。
 せき。河川の流水を制御し、水を取り入れるために、川の流れをさえぎって造る構造物。水力発電用ダムや堤防の機能はない。

オーストラリア・ニューサウスウェールズ州の堰。

石敷 いしじき。平たい石を敷き詰めて舗装した所。石畳。
落口 おとしぐち。滝となって水流が落下する所。下水などの排水口。

牛込御門

石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001)

 現在、この石敷はホームの下に保存されていますが、調査によって明らかになった限りにおいてこの石敷があったと想定される範囲がわかるように、ホーム上のそうの種類を変えて表現しています。また、一部取り外した敷石を、駅前広場に展示しており、その大きさを確認することができます。

石敷発掘位置

石敷構造図、発掘された石敷

色を変えたホームの下に敷石があった。

駅前広場に展示した敷石

 現時点で、外堀の堰の構造に関する文章や記録は残されていませんが、同時代で類似する構造物の石敷の事例として、神田川から神田上水を市中に引き込むために設置された堰である関口せきぐちおおあらい堰(現在の文京区関口に存在していた) があります。この記録によると、堰の水路に当たる部分の石材の並び方が、今回発見された石敷と類似していることがわかります。
 また、ホーム上からは堀を繋いでいる現在の水路を見ることができます。

  Ushigome-mon Gate was located between the Ushigome-bori and Iida-bori Moats. A weir was constructed under Ushigome Gate in order to protect the earthen bridge that dammed the water in Ushigome-bori Moat and control the water level.
  When JR Iidabashi Station’s platform was relocated in 2017, remnants of stone paving believed to comprise a portion of the weir was discovered for the first time anywhere in the outer moat area. Photographs from the Meiji period contain images of the weir’s outfall and the sections of stone paving uncovered at the site are thought to have comprised a portion of the aqueduct located immediately in front of the outfall.
  Currently, the section of stone paving discovered is 2017 is preserved in its original location directly under the train platform. A portion of the platform’s surface has been modified in order to express the scope of the area that was covered by the stone paving. In addition, a portion of the paving removed from the site is on display in the plaza in front of the Station. It enables visitors to get a sense of the weir’s size.
  Unfortunately, no documents or records that describe the weir’s structure have been discovered. A similar type of structure known as the Sekiguchi Weir, however, which was constructed during the same period and transported water into the city from the Kanda River, provides us with some insights about weir technology and design. Located in present-day Bunkyo Ward’s Sekiguchi district, the arrangement of stone material used to construct the Sekiguchi Weir’s channel resembles that of the stone paving discovered along the outer moat in 2017.
  Also from the platform you can see the current waterway connecting the moats.

神楽から名づけられた神楽坂|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 1. 神楽から名づけられた神楽坂」についてです。

神楽から名づけられた神楽坂
      (神楽坂1から6丁目)
 飯田橋駅九段口の前に立つ。駅すぐ左手に旧牛込見付門跡の石垣の一部が残っている。そこに牛込御門があってその向うが江戸城内だった。
 九段と反対側が神楽坂である。坂を上り、矢来下、戸塚、高田馬場、下井草駅と続く道早稲田通りである。
 神楽坂の地名の由来にはいろいろあるが、江戸城内の田安にあった筑土神社を今の筑土八幡町に遷座する時、この坂の中途で神楽を奏したことからつけられた(改選江戸誌)というのが信じられている。その筑土神社は、戦後飯田町へ移転した。
 このほか、市谷駅近くの市谷八幡の祭礼時、みこしがこの坂で止って神楽を奏する習慣になっていたとか、江戸中期、坂の中ほどで穴八幡祭礼の神楽を奏するしきたりがあったから(江戸誌)とか、若宮八幡の神楽がここまで聞えるからとか、赤城元町の赤城神社の神楽音が聞えたからとか、いろいろある(江戸名所図会)が、神社の神楽と結びついて名づけられたことにはまちがいない。それだけ牛込には神社が多いということを示している。
 江戸時代には、坂に向って左側に店が並び、右側は武家屋敷と寺院であった。明治になり、早稲田に早稲田大学ができ、今の飯田橋駅九段口に甲武鉄道牛込駅ができると、そこが大学の玄関口となり、神楽坂にはしだいに商店が並んでにぎやかになったのである。
 神楽坂という町名は、以前は外堀通りから上って、大久保通りまでであった。それが、昭和26年5月1日、戦後の発展をめざす神楽坂振興会の音頭とりで、付近6ヵ町を一丸として神楽坂と改称し、赤城神社入口まで、名称が統一されたのである。
九段口 現在は西口。
石垣の一部 旧牛込御門の渡櫓わたりやぐらの土台が残ったものです。
続く道 下図参照。
神楽坂の地名の由来 「神楽坂の由来」を参照
江戸城内の田安 たやす。田安門は九段坂から北の丸に入る門。しかし、筑土神社は一度も城内に入ったことはありません。田安郷(現、千代田区九段坂上)にはありますが。
筑土神社 天慶3年(940年)、江戸の津久戸村(現、千代田区大手町一丁目)に平将門の首を祀り「津久戸明神」として創建。室町時代、太田道灌が田安郷(現、千代田区九段坂上)に移転、以降「田安明神」とも呼ばれた。元和2年(1616年)、筑土八幡神社隣接地(現、新宿区筑土八幡町)へ移転し、「築土明神」と呼ばれた。1945年の東京大空襲で全焼し、1954年、現在の九段中坂の途中にある世継稲荷境内へ移転(住所は千代田区九段北1-14-21)。

改選江戸誌 正しくは「改撰江戸志」。原本はなく、作者も瀬名貞雄と信じられるが、正確には不明。「改撰江戸志」を引用した「御府内備考」では……

市ケ谷八幡宮の祭禮に神輿御門の橋の上にしはらくとゝまり神楽を奏すること例なり依てこの名ありと 江戸砂子 穴八幡の祭禮にこの坂にて神楽を奏するよりかく名つくと江戸 穴八幡の御旅所の地この坂の中ふくにあり津久土の社の伝にこの社今の地へ田安より遷坐の時この坂にて神楽を奏せしよりの名なりといふはもつともうけかたきことなり 改撰江戶志

信じられている 現在は信頼度100%のものはありません。
市谷八幡 市谷亀岡八幡宮。市谷八幡町15。文明10年(1478年)に太田道灌が江戸城の鎮守として、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請
穴八幡 穴八幡宮出現殿。西早稲田2-1-11。康平5年(1062年)、奥州の乱を鎮圧した源義家が当所に兜と太刀を納めて八幡宮を勧請し、東北鎮護の社になった。
若宮八幡 神楽坂若宮八幡神社。若宮町18。鎌倉時代の文治5年(1189年)、源頼朝公が奥州の藤原泰衡を征伐するため、当所で下馬宿願し、鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を分社した。

神楽坂の名前の由来。築土明神、市谷八幡宮、穴八幡宮、若宮八幡宮

飯田町 飯田町ではなく現在は九段北1-14-21です。
江戸誌 「江戸志」が正しい。別名は「新編江戸志」。寛政年間に作成。ウェブサイトのコトバンクによれば「近藤儀休編著・瀬名貞雄補訂」。改正新編江戸志では(くずし字は私訳)……

市谷八幡祭礼に神輿牛込御門橋上に暫く留りて神楽を奏しけるよつて此名ありと江戸砂子にみゆ又或説に穴八幡の祭礼にこの坂にて神楽を奏すと[云け]り名付ると也別穴八幡の旅所この坂の上にあり放生寺の持[之]津久戸神社の社伝には今の地へ遷座の時此坂にて神楽を奏すよしといふ

江戸名所図会 神楽坂については以下の通り。なお、割注は()で書いています。

同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹はんぷく右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼の時は神輿この所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)(斎藤長秋等編「江戸名所図会 中巻 新版」角川書店、1975)

左側に店が並び、右側は武家屋敷と寺院であった 正しくは「左側(下)には民家、店舗、寺院、武家屋敷2軒が並び、右側(上)は年貢町屋を除き全て武家屋敷であった」

当時(嘉永5年、1852年)の状況

早稲田大学 前身は「東京専門学校」で、明治15年10月21日に創設。20年後の明治35年9月2日、「早稲田大学」と改称。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
牛込駅ができる 明治27年10月9日、牛込駅が開通しました。
大学の玄関口 現在はJR山手線の高田馬場駅から徒歩20分。東京メトロの東西線早稲田駅から徒歩5分。都バス(学バス)の高田馬場駅から早大正門までバス7分。都電の荒川線早稲田駅から徒歩5分。
 早大正門から神楽坂4丁目までは徒歩約30分。
商店が並んで 明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では、もう商店だけです。
大久保通り 戦前、神楽「町」に終わりを告げるのは、大久保通りではありません。また、戦前、神楽坂4−6丁目はなく、あるのは上宮比町、肴町、通寺町でした。終わりを告げるのは、本多横丁と毘沙門横丁です。

昭和16年、牛込区詳細図

赤城神社入口

昭和56年、新宿区史跡地図

外堀の土塁[B]|コンコース

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)からJR飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の西口改札外コンコースには「外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造」を取り上げて、パネル[B]「外堀の土塁」は日本語と英語で解説しています。

外堀の土塁

菊池貴一郎 江戸風景 誠文館 大正4年

NDL古典籍OCR-Lite-GUIでは

    牛込御門
 小石川御門前 の流を左に雲 行は牛込御門 なり御門内外
 とも武家屋 敷のみちみち たる所なり只神 楽坂西側にし
 わづかに町家 を見る此辺す へて物音の間 ゆるは松ふし風と
 鳥の起しする外 音といふもの絶て なく閑静なる地
 にして景色よし

外堀の土塁
The Structure of the Outer Moat Ground
外堀土塁の構造
The Structure of the Base
 牛込門から赤坂門までの江戸城外堀は、谷地形を利用し、広い堀幅の水面と、水面から高い土塁を持つ江戸城防御のための空間で構成されています。目の前に見える土手もその土塁の一部であり、2013(平成25)年から始まった石垣修復工事、その後のJR飯田橋駅西口駅舎等の工事にあわせ調査が行われ、桝形石垣付近は江戸時代当時の規模を目安とした土塁の復元をしています。
 外堀の土塁は、厚さ5~10cm程度ごとに土や粘土、砂など様々な種類の土を積み重ねて突き固められた版築はんちくと呼ばれる技法で作られています。地層断面をみると、土手の斜面方向とは逆に、水面の方に向かって地層が上がっています。これは、土砂崩れを防ぐためと考えられています。土塁の道路端には土留めの石垣が築かれていましたが、現在では土手に沿って通る道路の端に確認できる通り、コンクリートの小型擁壁ようへきに代わっています。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
桝形 枡のような四角な形。城の一の門と二の門との間にある方形の広場。
版築 はんちく。板枠の中に土を入れて突き固め、層を重ねてつくる方法。板などで枠を作り、間に土と少量の石灰や凝固材を入れ、たたき棒などで、土を硬く突き固める。
土留め 法面や崖、盛土などの崩壊を防ぐため、土が低い土地に崩れてこないようにすること。
擁壁 土留めのための壁状の構造物

外堀断面図 [標高(m) 江戸期の土塁地形(推定) 上限(13.5m) 下限(12.5m) 現況 江戸期の土塁が残っている土層 土塁 江戸期の盛土 近代の盛土 (急行線)(緩行線)東京層 砂層 外堀 堀内堆積物 TP 4m]

現在の土塁

土手の小擁壁 戦後直後の牛込門付近の土塁

 The section of Edo Castle’s outer moat between Ushigome and Akasaka Gates was constructed by utilizing the valley topography, which allowed for the development of a wide canal surface and tall earthwork fortifications. The embankment visible here formed a portion of the area’s earthen fortifications. In 2013, a series of excavations were carried out in conjunction with a project to repair the stone walls and redevelop the western side of JR Iidabashi Station.
 The project enabled the reconstruction of earthen fortifications on the same scale as those that existed in the Edo era. As a result, contemporary visitors to the site can experience the grand scale of the historical fortifications that existed in the area. The outer moat’s fortifications were constructed using a rammed-earth technique in which 5-to-10-centimeter layers of earth and clay were stacked on top of one another and tamped down. An examination of the fortifications geological profile reveals that the layers of earth and clay rise towards the towards the moat’s surface and away from the embankment slope, It is likely that this construction method was utilized in order to prevent landslides. Earth-reinforced stone walls were constructed along the roadside lining the earthen fortifications. However, as can be determined from the roadside currently located parallel to the embankment, the original earth-reinforced walls have been replaced by small-scale concrete retaining walls.

外堀土塁の水際部分(発見された水際石垣)
Waterside Part of The Outer Moat Ground (Discovered Waterside Stone Wall
 2015(平成27)年に行われた発掘調査の結果、外堀の水際には、土手が崩れないようにするための低い石垣が作られていたことが判明しました。発見された場所は、牛込橋から140m程度市谷方向に進む地点の線路の間で、石垣の基礎部分と考えられる 1〜2段の石積みが、外堀で初めて確認されました。この石垣は、明治期に甲武鉄道が敷設された際に、上段部分が撤去され、基礎部分はそのまま埋められたものと考えられます。
石積み 石垣や橋台を築造する方法か構造物
甲武鉄道 1889年(明治22年)大久保利和が開業。この鉄道は御茶ノ水から飯田町、新宿、国分寺、立川、八王子に至る。1906年(明治39年)10月1日、鉄道国有法で国有化され、中央本線の一部に。

発掘された水際石垣

 An archaeological excavation carried out in 2015 revealed the existence of low stone walls along the moat’s edge. They were likely constructed in order to prevent the embankment from collapsing into the moat. The site where the walls were discovered is located in a section of rail track approximately 140 meters away from Ushigome-bashi Bridge in the direction of Ichigaya. At that site, excavators found one- and two-tier layers of stone, which are thought to have comprised the stone walls’ structural foundation. When the Kōbu Railway was constructed in the Meiji period, it is thought that the upper portion of the stone walls were removed and the foundation was buried.

外堀土塁の植栽
Planting of The Outer Moat Earth Fence
 1636(寛永13)年、外堀土塁が完成すると、幕府は翌年、堀方七組の東国大名に命じて、土塁上部から2.7m程下がった位置に、一間(約1.8m)間隔で大きめの松杉を、その内側には小さめの苗木を、二筋にわたって植樹させました。植木奉行(のち普請奉行)の管理下に置かれた牛込土橋~筋違橋の土手と堀は、近辺に屋敷を拝領する武家に割振り、植木の手入れと草刈りを担当させました。幕末に日本を訪れたオイレンブルクの『日本遠征記』によれば、「城壁天端の平坦部とその内側にはモミなどの針葉がぎっしりと並び、水面には何千という野鴨が住み着いている」と記されています。なお、真田濠(現上智大学グラウンド)の土塁上には、往時の姿を思い浮かべることができるような松の植生がみられます。

現在の飯田橋駅西口B

飯田橋駅西口Bの土塁の上部に松などの植林

飯田橋駅西口Bの2階から土塁を見る

堀方七組 関東・奥羽の大名52家を「堀方」7組に編成して江戸城西方の堀を構築させた。
松杉 しょうさん。松と杉。松の木と杉の木。
植木奉行 植木に関する用務を担当し、手代15人、同心51人を指揮。寛政3年(1791)廃止。
普請奉行 御所、城壁・堤防などの修理造築、上下水道等の土木工事、武家屋敷請取りなどの事もつかさどる職名。文久2年(1862)廃止。
オイレンブルクの『日本遠征記』 幕末、プロイセン使節団の遠征記。条約を結ぶためにドイツ地方の代表として日本にやってきた。
城壁天端… 『日本遠征記』によれば「外城の城壁や堀は内側の城のそれらとまったく似ている。この都市の一画は南西方面に著しく高くなっている。そして同様に、草のたくさん生えた傾斜地が水をたたえた堀に面する所で終っている。堀は所々大きな池となって広がる。見事な樹木が、蓮の生えた浅い池の上に枝を垂らし、その池には何千という野鴨が住み着き、また城壁の樅の木には、無数の鳥やその他の猛禽が巣くっている。これらの鳥は誰にも追われたりしない。その狩猟は将軍のみが持つ特権に属するものだからである」

 The outer moat’s earthenworks were completed in 1636. The following year, the Tokugawa shogunate order the group of eastern Japanese domainal lords previously mobilized to dig portions of the outer moat to plant a row of pine and cedar trees approximately 2.7 meters below the upper portion of those fortifications. The trees were to be planted 1.8 meters apart. In addition, they planted an inner row of smaller saplings parallel with the pine and cedar trees. This project was carried out under the direction of the Governor of Landscaping (later the Governor of Construction) and the maintenance of the newly planted fauna was entrusted to the warrior houses occupying estates along the outer moat and embankment between Ushigome-bashi Bridge and Kuichigai Gate.
 During the late-Edo period, the area was visited by Prussian diplomat Count Friedrich Albrecht zu Eulenburg. In his Record of the Eulenburg Expedition to Japan, he wrote, “Thick rows of fir trees and other conifers line the flat section crowning the castle walls and the walls’ interior section, and thousands of wild ducks inhabit the moats surface.” The rows of pine trees lining the embankment alongside Sanada-bori Moat (present-day Jōchi University Field) provide visitors with a sense of what the outer moat area was like in the Edo period.

現在の真田濠

牛込門枡形石垣の構造[A]|コンコース

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の西口改札外コンコースでは「外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造」を取り上げています。パネルA「牛込門枡形石垣の構造」は枡形ますがたの石垣、石垣の積み方、その内部構造を、日本語と英語で解説しています。

牛込門枡形石垣の構造

牛込うしごめもん枡形ますがた石垣いしがきの構造
 牛込門枡形石垣は、門の左右の石垣が当時のままに残り、その規模や雰囲気が感じ取れる貴重な遺構となっています。また、目の前に見える北側の石垣は、2013(平成25)年に解体・調査が行われ、コンクリートを使用せず、在来工法で修復されたものです。
 これらの石垣は、両脇の石と両面端に密着させる切り込みハギという積み方と、ほぼ横目地が通る布積みが用いられ、整然とした印象をもたらしています。一方、石垣の下部やるいと接する部分は、石の間に間詰め石を入れる打ち込みハギという積み方です。石材としては伊豆半島に分布する安山あんざんがんを主とし、角石には瀬戸内海から運ばれた崗岩こんがん影岩かげいし)の巨石が利用されています。
枡形 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
石垣 いしがき。石を積み上げて造った垣。石の塀。防衛や風防、土砂どめ、境界標示のために造る。
解体・調査 加藤建設株式会社の「史跡江戸城外堀跡 牛込門跡石垣修理工事報告」(飯田橋駅西口地区市街地再開発組合・千代田区、2014年)にまとめられています。新宿区の中央図書館と歴史博物館でも読むことができます(しかし、館外利用はできません)。
切り込みハギ きりこみはぎ。切込はぎ。切込み接ぎ。切り込みハギ。石垣は土塁の表面を石で固めて強化する。まず大きな石を加工して形を整え、隙間なく積み上げて、すき間のない石垣ができる。この石垣工法を切込み接ぎと呼び,まだすき間のあるものを打込み接と呼ぶ。切込接ぎを採用するには高い財力と技術力が必要。自然な排水はできず、排水口を設ける工夫も必要。

石垣の積み方

横目地 「目地めじ」は石や煉瓦を積み上げたり、タイルなどを貼ったりしたときできる、接着剤が充填された継ぎ目。道路では横断方向が横目地、

布積み 布積み。ぬのづみ。継ぎ目が横一直線になるように石垣を積む方法。乱積み(らんづみ)は、不規則に積み上げていく。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。


間詰め石 あいづめ石。まづめ石。日本の城の石垣で、大きな石の隙間を埋めるように配置する石。大きな石同士の間に入れやすいよう、小さな石を選ぶ。
打ち込みハギ 石を打ち欠くなどして加工し、石同士の隙間を減らす積み方。加工に手間がかかるが、面積よりも高く急な石垣を造ることができる。
安山岩 日本には大量に分布。美しさや強度の点で花こう岩に及ばず、おもに土木用の割りぐり石や砕石などに利用。
花崗岩 白や淡灰、淡紅の基質に、黒の斑点が散在してみえ、堅牢で、雨や風にも劣化しにく、磨くと光沢が出る。造山帯を特徴づける。

石垣の積み方

位置図

 外堀に面したB面(西面)は、大きさが異なる石材により切り込みハギで積まれていますが、土手に埋められた下段は打ち込みハギによる乱雑な積み方となっています。土塁に続くA面(北面)は、突出部は整然とした切り込みハギですが、土塁に接する部分ではづめいしの打ち込みハギ状で、やや乱雑な印象を受けます。
 一方、枡形内のC面(南面)は長方形、方形の石が隙間なく積まれた美しい切り込みハギで、全面で横目地が通る布積になっています。枡形の内側であり、常に通行人の目に触れる場所であることが、その理由であると考えられます。

B面

布積み・打ち込みハギ

A面

C面

布積み・切り込みハギ

石垣の内部構造
 石垣の内部には、握りこぶしほどの河原石や砕石さいせきで構成されるぐり石が、石垣のうらとして詰め込まれていました。道路に面するC面では、石垣一段積むごとに平坦な石を背面に敷き並べる丁寧な裏込め(IV層)が構築されていますが、下層部のⅢ層では大形のぐり石、上層部のⅡ層では玉石状で握りこぶしほどのぐり石と、その様相が異なっています。なお、最上層は表土(Ⅰ層)となります。この特徴から、この石垣は今までに何度も改修されていたことが判明しました。
砕石 大きな岩石をクラッシャー(粉砕機)で人工的に砕いて作った石
ぐり石 栗石。クリイシ。グリ。「栗石」とは、丸みを持った径が15センチ以下の石。本来は割った物ではない自然な石のことをさす。
裏込め 擁壁などの裏に詰める物。栗石や砂利を詰めることが多い。

平面図

断面図

 Remnants of the stone walls that surrounded Ushigome-mon Gate can be found in their original form on the left and right sides of the Gate. Accordingly, they are important artifacts, which enable visitors to experience the scale and atmosphere of the stone walls that surrounded Edo Castle. During a 2013 archaeological survey, the stone wall on the northern side, which is visible here, was restored using original techniques and materials.
 The stone walls were constructed using a layering method in which stones on both ends were cut and chiseled in straight lines, and then laid in courses so that each stone fit tightly with the others. This was supported by a coursed masonry technique in which side joints passed through most sections of the wall. These methods gave the stone walls a precise, orderly appearance. In contrast, the stone walls’ lower portions and those touching the embankment were constructed using a comparatively imprecise layering technique in which small stones were pounded into gaps between the larger stones. The walls were constructed primarily using andesite from the Izu Peninsula. In addition, large granite stones transported from the Seto Inland Sea were used as cornerstones.
Layering Techniques Used to Construct the Stone Walls
 The wall’s western side (Side B), which faced the outer moat, was constructed using a cutting-and-insertion method in which stones of different sizes were carefully chiseled to ensure that they fit tightly together. In contrast, the lower tier, which was buried under the embankment, was constructed using a comparatively rough pounding technique in which stones of different sizes and shapes were broken and beaten into the wall’s face. Continuing along the embankment, the protruding portion of the wall’s northern face (Side A) was constructed using the aforementioned cutting-and-insertion technique, whereas the section touching the embankment using the pounding technique. As a consequence, the northern face presents a less orderly appearance.
 In contrast, the wall’s south face (Side C), which was located inside the square enclosure surrounding the Gate, was comprised of square and rectangular stones and precisely constructed using the cutting-and-insertion technique. The stones used to construct the south face were carefully layered to ensure that side joints crossed the entire face of the wall. It is likely that this portion of the wall was so carefully constructed because it was located inside the enclosure and a space that those passing through would inevitably see.
The Wall’s Internal Structure
 An examination of the wall’s internal structure reveals that cobblestones approximately the size of a fist, such as river stones and angular rocks, were embedded into it as backfill material. In the portion facing the road (Side C), each layer of the wall was embedded with a separate layer of backfill. The innermost layer (Layer IV) was precisely constructed using a technique in which flat stones were lined on their back. In contrast, the wall’s lower portion (Layer III) is filled with large cobble-stones, while the upper portion (Layer Il) is embedded with gemstone-shaped cobblestones the size of a fist and the outermost layer (Layer 1) is comprised of top soil. The existence of these distinct layers indicates that the rock walls have been repaired and refurbished several times in their history.

牛込門と枡形石垣|史跡パネル⑤

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル⑤「牛込門と枡形石垣」は他の4枚とは少し離れていて、テーマも「牛込門と枡形石垣」となり、「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」とは少々違っています。まあ「牛込門」だけは出ています。写真2枚と図4枚、うちコンピュータグラフィック(CG)は2枚、日本語と英語で解説しています。

牛込門と枡形石垣

史跡紹介解説板

 牛込門は、牛込ぐちとも呼ばれ、1636(寛永かんえい13)年、徳島とくしまはんしゅはち須賀すか忠英ただてる御手おてつだいしんで担当して築きました。牛込門の構造は、「江戸えどじょうえず絵図えず」に描かれているように、石垣を方形ほうけいにめぐらし、ばしから入る「かぶもん」(高麗こうらいもん)と、わたりやぐらを頂く「おおもん」の、二重の門を配置する枡形ますがたもんでした。「冠木門」から枡形内へ敵が侵入しても、「大御門」ではばみ、渡櫓と方形にめぐらした石垣から一斉に攻撃できる仕組みとなっていました。
 1872(明治5)年、旧江戸城をじょうかくとして管轄かんかつすることになった陸軍省は、こうじょう守衛しゅえいの観点から城門の存廃そんぱい方針を定め、外郭21門の廃止を決定し、東京府に引き継ぎました。東京府は、市街地整備の観点から、城門や渡櫓、枡形の石垣や土塁の撤去を進めました。
 牛込門は、渡櫓撤去後、1902(明治35)年に枡形石垣の一部が撤去されましたが、東西の石垣が残り、現在の姿になりました。当初の枡形の形状を、道路面にそうで表現をしており、この場所から、枡形の形状を眺めることができます。
 なお、石垣の構造は、当駅の駅前広場にて解説しています。現在、石垣の脇に保存される角石には、「[蜂須賀」わのかみのうち」と、枡形築造に当った蜂須賀忠英の刻印が残されています。
徳島藩 阿波国(徳島県)・淡路国(兵庫県淡路島・沼島)の2国を領有した藩
御手伝普請 豊臣政権江戸幕府が大名を動員して行った土木工事
江戸城御門絵図 江戸城御外郭御門絵図。江戸城外郭26図の全体図と番所の平面図を折本に仕立てたもの。奥書は享保2年 (1717)10月。
方形 四角形。
冠木門 左右の門柱を横木(冠木)によって構成した門
高麗門 正面左右の二本の本柱に切妻きりづまの屋根をかけ、これと直角に控柱を本柱の背後に立てて切妻屋根をかけたもの。城郭の外門などに多く見られる。
渡櫓 左右の石垣にまたがらせて造ったやぐら
大御門 おおみかど。「門」の尊敬語。特に皇居の門。
枡形門 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
城郭 城の周囲に設けた囲い。城壁。城と外囲い。外敵を防ぐための防御施設。とりで。
皇城 天皇の御所。宮城。皇居
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
舗装で表現 実際の枡形石垣がいた場所を舗装の変化を使ってわかりやすくしています。

枡形石垣があった位置

枡形防御の仕組み

枡形石垣。枡形門の位置は二角(⭕️)ではわかる。

実際の枡形石垣があった場所

実際の枡形石垣があった場所

角石 方形に切った石。四角な石材。岩石学辞典では緻密で珪酸質の岩石の一般名

  Also known as the Ushigome Gateway, Ushigome-mon Gate was constructed in 1636 under the direction of Hasuchika Tadateru, the lord of Tokushima domain. As described in the Illustrated Maps of Edo Castle’s Outer Gates, Ushigome-mon Gate’s inner section was surrounded by stone walls, which were arranged in a square shape to form an enclosure. It was comprised of two gates: a Korean-style outer gate, which led to a square courtyard and could be entered from the earthen bridge, and a large, two-story inner gate containing a timber-framed gatehouse. Even if enemy forces successfully penetrated the outer gate and entered the courtyard, they were prevented from entering the castle grounds by the large internal gate. Ushigome-mon Gate’s design enabled forces defending the Castle to attack the enemy from the walkway in the gatehouse’s upper tier and positions atop the stone walls surrounding the courtyard.
  In 1872, the Ministry of the Army assumed control of Edo Castle and were tasked with protecting the Imperial Palace. After taking control, they announced that many of the existing gates would be torn down in the name of security. Ultimately, they order the removal of 21 of the outer gates. The Ministry of the Army then assumed responsibility for guarding and maintaining the gates that remained in place. In an effort to develop Tokyo’s urban infrastructure, the Tokyo prefectural government moved carried out the actual work of removing the castle gates, elevated walkways above the gates, stone walls that surrounded many of the gates, and the earthen fortifications in their vicinity.
  In 1902, after the elevated walkway above Ushigome-mon Gate had been removed a portion of the stone walls surrounding its inner sections were torn down. However, the eastern and western walls were left in place and remain in existence today. The original form of the square courtyard that surrounded the gate is indicated by the surface of the road constructed in its place. It enables visitors to grasp the layout of the square courtyard that surrounded the Gate’s inner portion.
  The exhibit on the first floor provides a detailed description of the stone walls’ struc-ture. A cornerstone retrieved from the side of one Ushigome-mon Gate’s stone wallsis emblazoned with two seals: those of Hachisuka lemasa and Hachisuka Tadahide, who supervised. the construction of Ushigome-mon Gate’s walled courtyard.

神楽坂(新宿区)側に残る橋台
The Remained Bridge Stage Beside Kagurazaka
 1989(平成元)年の地下鉄南北線工事における発掘調査で、牛込うしごめばしの新宿区側の橋詰に高さ9.5mの牛込うしごめつけの土橋の石垣が確認されました。石垣は軟弱な地盤の下位にある強固な砂層地盤を支持層としてはしどうを敷いた上に築かれており、弱い地盤施工する際の工夫がうかがえます。その他、当時の土橋の側溝の構造がわかる遺構なども発見されています。

  An archaeological excav