月別アーカイブ: 2024年3月

神樂坂風景|小坂たき子

 新知社の「婦人文芸」からさかたき子氏の「神楽坂風景」(昭和12年2月)です。
「婦人文芸」は昭和9年6月から昭和12年8月までの約3年間(全37号)、主宰者の神近市子氏と鈴木厚氏が刊行した婦人文芸誌です。
 小坂たき子氏は明治42年1月27日に生まれ、没年は平成6年。「神楽坂風景」は28歳の作品でした。氏は初めはプロレタリア文学運動の一翼を担い、続く49年間は主婦、その後、ある文芸同人誌に参加しています。
 作品としては戦前の「日華製粉神戸工場」(雑誌『プロレタリア文学』に発表。白揚社、昭和7年)、本名の小坂多喜子氏の「女体」(永田書房、昭和53年)「わたしの神戸 わたしの青春 わたしの逢った作家たち」(三信図書、昭和61年)などです。

 牛込砂土原町へ移り住んでもう半ヶ年近くなる。一週間に二度位の割合で神樂坂へ散歩かたがた買物に出るのだが、ついぞこれはすばらしいと目をそばだてるやうな女性に出會つたことがない。銀座などのやうに歩けば何時も出會ふといふやうな特殊な顏ぶれもなく、何時も異つた顏が歩いてゐる。この近辺のプチ・ブルジョアのモダンお嬢さんや奥さんは買物や、散歩にはおほかた銀座へ出るのであらう。神樂坂に現はれる人は七八拾圓程度の月給をやりくりしてゐるらしいそのへんの世帯やつれのしたお内儀さんや商店の女房や田舎出の女學生などで、銀座へ出るには交通費が惜しいといつた種類の如何にも田舎くさい雜然とした女性ばかりである。商店もそういふ女性相手の特長のない平凡な店ばかりである。けれども神樂坂をいろどる女性に神樂坂藝者がある。咋日牛込館で「ジークフェルト」の割引をぼんやり待つてゐたら、あの坂道をひきもきらず棲を取つて帯をだらりと後にたらした晴衣姿の藝妓が、子供に三味線を持たして、通つて行つた。そのときはどうしたわけか妙におばあちゃん藝者ばかりで、とそ、、機嫌で顔を染めて通つて行つた。なかには田舎の茶屋などで見かける牛の首のやうな黒い肥つたえり、、を突出した女もゐた。みんな黒いこはまちりめん、、、、、、、の幾度も染め返したやうな古くさい晴衣などが足許から伝つてくる底冷えする寒気を一そうさむざむと感じさせた。
 しかし通りを歩いてゐる若い妓のなかにはときたま目をそばだゝせるやうな綺麗な妓がゐる。紅屋などでもぢり、、、外套の若旦那風の男に連れられ、紫の繻子コートなど着た堅氣造りの女のなかには、肌のすきとほるほど蒼い、そのくせぼて/\と肉のついた、おつとりとした美しい女を見かける。深水 の絵などにあるやうな日本の女、、、、の美しさといふやうなものを感じさせる。
 神樂坂をいろどるこれらの藝妓の姿を取りのぞいたら、何んと殺風景な風俗であらう。私などは藝者の姿を見るのが樂しみで、神樂坂を歩くのである。こゝの藝妓は二流か三流どころなのであらうがそれでも楽しい。けち/\と世帯やつれのした女なぞ見たくないなどと云つたら叱られるかしら。しかしかういふ奥様のなかでもとき/”\新婚らしい若い女には紫のしぼり銘仙など着て山手のインテリマダムといつた女にも出會ふが、気をつけて見ると學生は別として髪を切つた女などには出會はない。断髪に和服といふ姿で歩いてゐるのは私ぐらひのものである。かう書いてくると神樂坂には特殊な表情がない。純粋な山の手といふ感じもしないし、さればと言つて下町でもない平凡な何處にでも居るやうな女が歩き、平べつたい店が並んでゐる。
 暮に坂の途中でかなり高級な古着のたゝき賣りがあつた。昔流行つた縞銘仙の着物を着、たぼを入れて髪を結つたお内儀さんや、セルのコートを着たお婆さんや日本髪の若い娘などが、三十分も一時間も風に吹かれて熱心に立つて見てゐたが、誰も買はない。私と一緒に居た神樂坂には古い馴味の友達が、われ/\と同様で、懐中に十圓と纒つた金を持つて歩いてゐる奴はないんだよ、と云つてゐたが、そうかも知れない。少し登つた床屋の前の露店では一圓五十銭の金ぴかの人絹の帯が飛ぶやうに売れてゐた。
牛込砂土原町 小坂たき子氏の次女、堀江朋子氏の「夢前川」(図書新聞、2007年)によれば、昭和11年6月~12年、小坂たき子氏は砂土原町二丁目7にいました。

昭和5年 牛込区全図

火災保険特殊地図 都市製図社 昭和12年 砂土原町二丁目7

そばだてる 欹てる。物の一端を高く持ち上げる。注意力を集中する。
内儀 他人の妻を敬っていう語。多くは町家の妻。
ジークフェルト ジーグフェルドか。アメリカ映画「巨星ジーグフェルド(The Great Ziegfeld)」。米国の公開日は昭和11年11月。
ひきもきらず 引きも切らず。絶え間なく。ひっきりなしに。「いきもきらす」では「激しく動いたりして、せわしい呼吸をする。あえぐ」
棲を取る 歩くときに引きずらないように、手で裾をつまみ上げること。芸者や舞妓、花嫁に多い。「左褄を取る」とは芸者勤めをすること。
帯をだらりと後にたらした 帯の結び方の一つ。だらりの帯。江戸時代の婦人の間に流行し、後には京都祇園の舞妓が用いた。(芸者はお太鼓結び)

だらりの帯

晴衣 はれぎぬ。表立った場面で着る晴れやかな衣服。晴れ衣装。正月の晴衣を着たのでしょう。
とそ機嫌 屠蘇機嫌きげん。正月、屠蘇を飲んでちょっと酔った、よい気持ち。
えり首 くびのうしろの部分。うなじ。くびすじ。
こはまちりめん 小浜縮緬。絹織物縮緬の一つ。経糸たていと緯糸よこいとの割合が、普通縮緬と金紗縮緬との中間のもの。婦人衣料に用いる。金紗縮緬とはさらに細い生糸を用いて薄く織った絹織
もぢり外套 もじり外套。男性が着物の上に着る、筒袖つつそで角袖かくそでの外套
繻子 しゅす。経糸・緯糸五本以上から構成する。密度が高く地は厚く、柔軟性に長け、光沢が強い。

平織り、綾織り、繻子織り

コート 防寒、防塵、雨よけなどで、普通の衣服の上に着るもの。オーバーコート、レインコートなど
堅気造り まじめな職業についている人のような地味な身なり
ぼてぼて 厚ぼったくて重そうな感じのする様子
深水 伊東深水。出生は1898年(明治31年)2月4日。没年は1972年(昭和47年)5月8日。新版画運動を牽引した美人画の3人の1人。残る2人は川瀬巴水と吉田博。
しぼり銘仙 「絞り」とは人類で1番古い染色法。染料が浸入しないように、布地の所どころを糸で固く縛り、染料の中に浸して白い染め残しをつくる染色法。「銘仙」とは平織した絣かすりの絹織物で、普段着やお洒落着で着用する。
断髪に和服 当時は束髪(髪を一まとめにして束ねる)と和装が大半。一方、断髪(ショートヘアやボブ)と洋装は時代の最先端。断髪に和服も時代の最先端だと言えそうです。ポーラ文化研究所では「大正末期の日本で…モガ(モダンガール)のよそおいを見てみると、断髪や耳隠しに、洋服に身を包みハンドバッグを持ったり、断髪姿に着物をあわせたり…」と書いています。
神楽坂には特殊な表情がない 普通の女性ばかりで、モダンガールなどはいない。
縞銘仙 縞模様の銘仙。「銘仙」とは平織した絣かすりの絹織物で、普段着やお洒落着で着用する。
たぼ 日本髪の後方にはり出た部分
セル 梳毛そもう糸を使った平織りか綾織りの和服用毛織物。セル地。
床屋の前の露店 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(1997年)では昭和5年頃、宮坂金物店前の露店は半襟でした。
人絹 人造絹糸の略。天然の絹糸をまねてつくった化学繊維。レーヨン・アセテートの長繊維

小坂多喜子 昭和11年 牛込砂土原町

文学と神楽坂

 さか多喜子たきこ氏の「わたしの神戸、わたしの青春ーわたしの逢った作家たち」(昭和61年、三信図書)では、1年程、住んだ牛込砂土原町について簡単に書いています。

 牛込砂土原町の家に引越していったのは昭和11年頃のことで、それは二・二六事件に遭遇した上高田の家から引越していったことだけは確かであった。牛込矢来町から新見付にぬけるバス通りを一寸はいったところの崖下にある薄暗い陰気な家で、六畳に玄関三畳台所と二間ほどの小さな家だった。『日暦』同人の古我菊治が日暦の編集所兼住居として、かなり永い間住んでいた家で、そのすぐあとを私達が借りたのだった。
二・二六事件 昭和11年2月26~29日、皇道派青年将校22名が下士官・兵1400名余を率いて起こしたクーデター
上高田 東京都中野区の地名。
新見附 新見附交差点。新宿区市谷田町二丁目にある交差点
バス通り 現在は牛込中央通り
日暦 ひごよみ。創刊号は昭和8年9月。出版元は春陽堂。編集発行人は古我菊治氏。昭和16年まで続き、第2次世界大戦のため休刊。昭和26年9月の22号は復刊1号。出版元は日暦社、編集発行人は石光葆氏。終刊は84号で平成元年12月。1933年から1989年まで56年に渡って続いた。
古我菊治 こがきくじ。当時は無職。昭和25年から東京書籍。「日暦」の同人は渋川驍、荒木巍、高見順、新田潤、大谷藤子、石光葆、白川渥、甲田正夫、古我菊治。

 小坂たき子氏の次女、堀江朋子氏の本「夢前川」(図書新聞、2007年)では……

 昭和11年6月、上高田の家から牛込砂土原町2ー7へ引っ越した。牛込矢来町から新見附にぬけるバス通り(鰻坂)を少し入ったところの崖下にある薄暗い陰気な家たった。六畳に三畳、それに玄関、台所の付いた小さな家で、せまい前庭があった。裏表同じ間取りの二間長屋であった。「日暦」同人の古我菊治が編集所兼住まいとして使っていたところだった。古我菊治は同じ路地の二軒先の家に移り、上高田で隣に住んでいた古澤元真喜夫妻も近くに越してきた。武田麟太郎・留女夫妻は長男文章を連れて日本橋茅場町会館から砂土原町から道ひとつ隔てた麹町下二番町へ越して来ていた。多喜子は、買い物がてら、しばしば神楽坂を散歩した。女たちや神楽坂芸者を観察するのが、多喜子の楽しみのひとつ。
鰻坂 バス通り(牛込中央通り)と、上向きに曲がって現れる鰻坂は別々の通りです。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年

古澤元 ふるさわげん。同人誌「人民文庫」の同人。「戦旗社」編集部員。昭和20年、軍兵に。22年5月、戦後、シベリアで栄養失調死。
真喜 まき。作家を志し、古澤元と結婚。昭和47年、脳血栓で寝たきり。昭和49年~52年、同人誌「星霜」に自伝小説「蒼き湖は彼方」を発表。10年後、死亡。昭和57年、夫婦の遺稿集「びしやもんだて夜話」
武田麟太郎 たけだりんたろう。小説家。東京帝国大学仏文科を卒業し、プロレタリア文学だったが、転向し『日本三文オペラ』などの「市井事もの」で有名に。死亡。生年は明治37年5月9日、没年は昭和21年3月31日。42歳、肝硬変で死亡
麹町下二番町 麹町区下二番町の起立は1872年(明治5年)、廃止は1938年(昭和13年)7月31日。

 川端要壽氏の「昭和文学の胎動 ー 同人雑誌『日暦』初期ノート」(福武書店、1991)では、同じ古我菊治氏の住所が出ています。

7年3月には砂土原町へと移った。牛込区砂土原町2ノ7番地である。
 市ヶ谷新見付から飯田橋に向かって濠端を行き、砂土原坂を左折し、牛込北町に向かって納戸町にいたる切石を放射状に敷きつめたゆるやかな坂道を、市ヶ谷駅から十二、三分ぐらい歩いていくと、左側の角に炭屋があり、その炭屋の裏側に古我の家はあった。
 その頃、この砂土原坂には市営の黄バスが通っていた。新橋駅から市ヶ谷駅前を通って、この砂土原坂を抜けて牛込北町、新潮社前から江戸川を下り、音羽から女子大横を通って目白駅に達する路線であった。
 半坪ほどの玄関を上がると、とっつきが三畳間、その左手に六畳と四畳半が続き、その六畳と四畳半を抱えるように小さな庭がついていて、三畳間の押入れの裏側が台所になっており、台所と六畳間と連なって、隣家がちょうど古我の家を裏返したようにくっついている二軒長屋であった。家賃は十五円だった。
砂土原坂 現在は「牛込中央通り」
切石 正方形や長方形に切り出した石を積んで作る
目白駅に達する路線 [橋68]は新橋駅前ー虎ノ門ー溜池ー赤坂見附ー四谷駅西口ー市ヶ谷駅ー矢来町ー江戸川橋ー護国寺前ー目白駅前の路線だった。
二軒長屋 3件の長屋のどれかでしょう。引っ越しは終わった後で、1方は小坂たき子氏、他方は古我菊治氏です。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年

牛込御門(写真)ID 8791 ID 8794 昭和48年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8791と ID 8794は、昭和48年2月、牛込橋の手前から千代田区側の東京警察病院や牛込御門跡などを撮影しました。
 江戸城の城門の見張り台を、橋や門も含めて「見附みつけ/見付」と呼びます。主要な三十六見附のうち牛込方向に開いていたのが「牛込見附/牛込御門」です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8791 牛込見附

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8794 牛込見附

 写真中央の石垣は、旧牛込御門の渡櫓わたりやぐらの土台が残ったものです。明治中期までは、四角く石垣で囲った枡形がありました。
 石垣の手前に公衆トイレが写っています。現在はありません。
 ID 8791の手前側、アスファルトの路面が土橋部分。その向こうの石畳部分が戦前に架けられた牛込橋です。これは平成8年に架け換えられました。
 牛込御門跡の石垣の奥、小さな塔のある黒い建物が富士見町教会。右の屋外階段の見える建物が飯田橋会館です。旧逓信省の同窓会の施設で、1階には郵便局もありました。
 その奥の高い建物は東京警察病院です。道路は早稲田通りで、奥に行くと九段坂に突き当たります。

住宅地図1973年

神楽河岸(写真)飯田濠 ID 8285 昭和44年頃か

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」は、ID 8285は「昭和44年頃か」として、飯田橋駅から神楽河岸を撮影しました。牛込橋の桜は葉が落ちて裸木になっていて、晩秋から早春にかけての時期でしょう。また、ID 8285とID 8267と8269は桜の枝ぶり、濠の干上がり具会までそっくりで、同じ時の撮影でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8285 神楽河岸

 飯田橋駅のホームの市ヶ谷側、西口に向かうスロープの下から撮った写真です。線路は中央・総武線1番線で、新宿駅方面から御茶ノ水駅方面に乗客を運びます。
 右下は飯田濠ですが、この頃、悪臭に悩んでいて、アオコもありました。また建物についてはID 8267と8269ID 8265を参照してください。

AーD 神楽坂警察署跡地の警視庁の施設。第2機動捜査隊や神楽坂下巡査派出所、寮などに使われた。 E 新宿区役所土木課 F 大郷木材店(倉庫) G 大郷木材店(倉庫)
1 とんかつ森川旧店舗(立喰そば? 早稲田通り) 2 二鶴(早稲田通り) 3 佳作座(外堀通り) 4 三和計器製作所(外堀通り) 5 城北ガレージ(外堀通り) 6 パチンコジャイアンツ(外堀通り)
ⅰ 家の光会館 ⅱ 理科大 ⅲ 双葉ビル ⅳ 理科大 ⅴ 田口屋ビル(神楽坂通り) vi 喫茶軽い心(神楽坂通り)vii 五条ビル(神楽坂通り)viii 神楽坂ビルディング(神楽坂通り)

神楽坂一丁目(写真)牛込橋 ID 8283 昭和44年頃か

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 8283は飯田橋駅西口近くから神楽坂や神楽河岸などを撮影しました。年代は「昭和44年頃か」で、桜の葉はなく、男女はコートを着ているので、晩秋から早春にかけてでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8283 飯田橋手前

 写真中央は「牛込見附」交差点で、現在は「神楽坂下」交差点に名前が変わりました。左右が外堀通り、前後が神楽坂通り(早稲田通り)です。外堀通りを走る都電3系統は昭和42年12月に廃止になり、すでに軌道はありません。
 信号機にはゼブラ柄の背面板がある一方、交差点名の表示はありません。逆転式一方を示す回転式の(一方通行)の標識が見えます。神楽坂通りを入った場所には標識「神楽坂通り/美観街」もあります。
 街灯には左手前に見えている円盤形の大型蛍光灯があり、「神楽坂通り」の標識と一緒に坂上まで続いています。
 田口重久氏の05-14-37-1(1967-02-08、昭和42年、 牛込見附から神楽坂下)とよく似た画角ですが、ID 8283のほうが少し後の時代です。比べると
・「クラブ軽い心」が「喫茶 軽い心」に変わった
・軽い心の向こうに神楽坂ビルティングが出来て菱屋ビルが見えにくくなった
・左手前の「とんかつ森川」が、少し奥に(つまり「牛込見附」交差点にはより近くに)店を建てて新たな看板を出した
などの違いがあります。

牛込橋→神楽坂(昭和44年)
  1. 袖看板「もつやき 本場沖縄産 琉球 泡盛 ◯雲 ◯正宗 やなぎ」
    (食)事 中華そば やなぎ
  2. 大きく「とんかつ」、消した看板、「食通の店」(森川の旧店舗)
  3. 二(鶴)
  4. 電柱看板「タイプ学院」「独特 とんかつ 森川」
  5. 白鷹 特製とんかつ 森川 白いのれん(森川の新店舗)
  6. 77(喫茶店セブンセブン)
  7. 天下の名酒。富士錦。三富酒蔵
  8. 電柱看板「大久保
  9. (12-24 駐車禁止)
    ――「牛込見附」交差点
  10. 田口屋生花店(5階のビル)
  1. (歩行者横断禁止)
  2. 広告「産婦人科 加藤医院」
     ――「牛込見附」交差点
  3. さ(くら)や(靴店)
  4. 佳作座の上映作品(赤井商店
  5. 山田紙店
  6. 不二家洋菓子
  7. 塔屋広告「喫茶 軽い心」ファサード広告「喫茶 軽い心」「ハッピージャック」
  8. ルナ美容室」は「神楽坂ビル」に。昭和44年(1969年)2月に完成。
  9. 菱屋もビルに。メトロアーカイブの「坂のある街」でもビル。

神楽河岸(写真)ID 8763-66, 68 昭和44年頃か

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」は、昭和44年頃か、ID 8263-66とID 8768は国鉄(現、JR)飯田橋駅から神楽河岸、神楽坂などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8263 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8264 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8265 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8266 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8268 神楽河岸

5図のまとめ

ID 8265から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
A.警視庁(第2機動捜査隊)a.東京理科大学1.佳作座
B.警視庁b.週刊大衆(双葉ビル)2.トウホウビル(バラエティスタンド飲食街)
C.警視庁(神楽坂巡査派出所)c.東京理科大学3.三和計器製作所
D.新宿区役所土木課d.田口屋生花店(神楽坂通り)4.広告「エアーホット」(神楽小路)
E.大郷木材店(倉庫)e.喫茶軽い心(神楽坂通り)5.城北ガレージ
F.大郷木材店(倉庫)f.五条ビル(神楽坂通り6.パチンコジャイアンツ
G.大郷邸g.神楽坂ビルディング(神楽坂通り)
 ※間に遠く文英堂ビル(岩戸町)
h.丸金ビル(仲通り)
i.銀嶺会館(広告) HiFi サンスイ stereo/ホテル観◯荘/八丈パークサイドホテル

ID 8266から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
F.大郷木材店(倉庫)h.丸金ビル(仲通り)6.パチンコジャイアンツ
G.大郷邸i.銀嶺会館
(広告) HiFi サンスイ stereo/ホテル観◯荘/八丈パークサイドホテル
7.東京トラベルセンター
H.大郷木材店
一般建築材・ベニア・新建材各種 株式会社
j.岡本ビル(軽子坂)8.牧書店
I.自動車修理場・喫茶ボルボ(階上)k.セントラルコーポラス9.東京都左官工業協同組合
10.厚和寮(厚生年金病院職員寮)(裏通り)

ID 8268から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
I.自動車修理場・喫茶ボルボ(階上)k セントラルコーポラス10 厚和寮(厚生年金病院職員寮)(裏通り)
J.土萬商店資材置場l 東京厚生年金病院本館

※手前に津久戸小学校
11 倉庫(升本総本店)
K.東京都新宿東清掃事務所m 東京厚生年金病院本館東棟の工事か12 京英自動車
L.東京都水道局n 東京厚生年金病院別館13 キッチンアキラ
M.東京都水道局営業所(上に首都高速が見える)o 第一銀行飯田橋支店14 中升酒店
p 稲垣ビル15 堀上工業
q 広告「週刊現代」(稲垣ビル)16 丸吉百貨店
r 飯田橋東海ビル(東海銀行、下宮比町)

 手前の飯田濠は土砂が堆積して、かなり干上がっています。Iの自動車修理場のターンテーブルやJの資材置場の廃材は濠に飛び出しています。
 また、Kの清掃事務所の下には四角い横穴があり、おそらくはしけが入って上からゴミを落としていたのでしょう。
 後年の地下鉄工事や埋め立て工事は、まだ始まっていません。
 撮影時期は
  昭和44年(1969年)2月 神楽坂ビルディング完成
  昭和44年(1969年)「軽い心」がクラブから喫茶に転換
  昭和44年(1969年)6月 首都高速道路5号線供用開始
から
  ID 13226 昭和45年頃
の間と推測されます。

※ 自動車工場や喫茶ボルボは升本の事業です。
※ 年金病院東棟の増築は昭和50年ごろです。それ以前にも何か工事をしていたのでしょう。
※ 稲垣ビルは奥に建て増しされているようです。(昭和38年 航空写真)

住宅地図。昭和44年

画角の検討 S50(1975-01-19)地理院地図

神楽河岸(写真)ID 8017 昭和43年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8017は、昭和43年10月、神楽坂下の牛込見附(現在の神楽坂下)交差点から千代田区方向を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8017 外堀通りより飯田橋をのぞむ

 左右が外堀通り、手前から奥が早稲田通りです。写真左は神楽河岸、右側は神楽坂1丁目にあたり、奥にむかう坂の途中から千代田区になります。
 信号機にゼブラ柄の背面板。写真正面の早稲田通りの歩道に桜が数本生えていて、風に枝が揺れているようです。奥には国鉄飯田橋駅の西口があり、写真説明の「外堀通りより飯田橋をのぞむ」はこのことでしょう。地名としては富士見町です。
 街灯は神楽坂通りと同じ、大型円盤形の蛍光灯が見えています。
 田口重久氏05-14-37-2「神楽坂下から牛込見附を」(1967-02-08)より少し後の時代で、外堀通りの都電がなくなっています。

05-14-37-2神楽坂下から牛込見附を 1967-02-08

神楽河岸と神楽坂1丁目(昭和43年)
  1. 電柱看板「斉藤医院」
  2. 道沿いに警察の建物が数棟、軒を連ねている。
  3. 坂の上の軒を長く出しているのが飯田橋駅西口。その奥は千代田区側の建物。
  4. 小さな小屋に「産婦人科 加藤医院」
  5. 電柱広告は市谷船河原町にある旅館「保志乃」
  6. 道路標識 (最高速度30キロ)
  1. 袖看板「天下の銘酒 酒は富士錦 三富酒蔵」
    テント「大◯ 富士◯ 三富酒◯」
    小型看板「大衆酒蔵 酒は富士錦 三富」
    のれん「◯富酒◯」
  2. 標識「外堀通り」
  3. 道路標識 (車両進入禁止)(一方通行)この区間で逆転式一方通行を実施中
  4. 電柱広告「大久保」

隆慶橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋』(昭和52年、新人物往来社)の「隆慶橋」についてです。「隆慶橋」の名前は大橋龍慶氏に由来し、また、龍慶氏は書道の大橋流開祖の大橋重政氏の父になります。
 なお、父・大橋龍慶氏と息子・大橋重政氏の筆がしばしば似ていて混乱する原因になっています。

 隆慶橋(りゅうけいばし) 立慶橋、龍慶橋ともかかれている。新宿区新小川町一丁目より文京区後楽二丁目へ江戸川に架された橋で、創架年月は不詳だが、正保図にはなくて寛文図になって無名橋がこの位置に記されている。船河原橋の上流の橋で、むかし大橋龍慶なる者がこのあたりに屋敷を賜わって住んでいたのが橋名の起りで、龍慶は長左衛門、源重保といい、甲州の人で大奥側近の御祐筆で、いわゆる御家流書法の元祖だといわれている。
 府内備考は「立慶橋は中の橋の次なり、川のほとりにむかし大橋立慶の邸宅ありしゆえにかく橋の名となれりという。案ずるに正保年中(1644-1648)江戸図といえるものに、この橋のほとりに龍慶寺といえる寺見ゆ。恐らくはこの寺のほとりの橋なればかくいいしならん、されど今江戸の内にかかる寺あることをきかず、疑うべし。又『紫の一本』に、立慶橋というあり、されば町ありての名なりや。一説にりゅうけい橋と称す。」と記す。
 また、「新編若葉の梢」はこれを「(穴八幡)社地を寄進した大橋龍慶は長左衛門源重保といい甲斐の人で、大奥側近の御祐筆であった。老年に及び職を辞し、台命あって剃髪し、龍慶の号を賜った。式部卿法印に叙せられ、老体の采地として牛込の郷三十余町を賜り、その屋敷附近の江戸川に架された橋を龍慶橋と名附け、今にその名を残している。龍慶の書は徳川家の御家の書体として採択され、御家流と称して永く伝わるに至った。茶を小堀正一に学ぶ。寛文十一年六月三十日歿、五十五歳」とする。
 なお、校合雑記、不聞秘録などの誌す伝説では、旗本水野十郎左衛門に殺害された侠客幡随院長兵衛の遺体が、この隆慶橋の下に流れついたという。そのころ水野の屋敷は小石川牛天神祠干坂に在ったというが、しかし水野屋敷の位置については、牛込の築土下、麻布六本木、西神田一丁目などと諸説が多い。

   隆慶橋を衰る頃、空しきりに曇りければ、家路急ぎて橋をはしる、そも/\此橋の古えを聞くに、大橋長左衛門立慶と云いたる人、此所に家有りければ、此橋の名に呼付けり。
雪洞「東都紀行」

 明治十九年の調査だとこの橋は長さ十六間、幅十四尺五寸の木橋とあるが、現在は鋼鈑橋である。

東洋文化協会編「幕末・明治・大正回顧八十年史」第5輯。昭和10年。赤丸が「隆慶橋」。前は「船河原橋」

江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
正保図 正保年中江戸絵図。正保元年か2年(1644-45)の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから。ただし、正保図でも隆慶橋はありそうだ。

正保年中江戸絵図

寛文図 寛文江戸大絵図。裏表紙題箋は、新板江戸外絵図。寛文12年6月に刊行。

大橋龍慶 江戸初期の能書家。通称長左衛門、いみな(死後にその人をたたえてつけられる称号)は重保。初め豊臣秀頼の右筆。1617年(元和3)能筆のゆえ、徳川秀忠の幕府右筆となり、采地500石を賜る。生没年は1582年〜1645年(天正10年〜正保2年)
甲州 甲斐国。現在の山梨県に相当する。
御祐筆 江戸幕府の職名。組頭の下で、機密の文書を作成、記録する役
御家流書法 おいえりゅう。小野道風、藤原行成の書法に宋風を加えた、穏和で、流麗な感じの書体。室町時代に盛んとなり、江戸時代には朝廷、幕府などの公用文書に用いられた。
府内備考 ふないびこう。幕府の地誌編纂事業。大学頭林述斎が総裁となり、昌平坂学問所の地誌調所で幕臣の間宮士信ら多数が編纂を担った。『新編御府内風土記』編纂の際に、参考資料として収集した資料を編録し、文政12年(1829)に完成、正編は「江戸総記」から始まり、地勢、町割り、屋敷割りなどが、続編は寺社関係の資料を収めている。古記録、古文書や町名主、旧家、寺社の書上げなどが主に収録されている。「御府内風土記」は明治5年(1872)の皇居火災で焼失した。
紫の一本 江戸時代の地誌。天和2年(1682)成立。2巻。戸田茂睡作。江戸の名所旧跡を山・坂・川・池などに分類し、遺世とんせい者と侍の二人が訪ね歩くという趣向で記述。
若葉の梢 「若葉の梢」は金子直徳著で、上下2巻(寛政10年、1798年)。新編が付いた「新編若葉の梢」では、昭和33年に刊行した「新編若葉の梢刊行会」の本。
台命 たいめい。だいめい。将軍などの命令。
式部卿法印 式部卿とは式部省の長官。法印は僧に準じて医師・絵師・儒者・仏師・連歌師などに対して与えられた称号。大橋式部卿法印は戦国時代末期に右筆として活躍した大橋重保のこと。
小堀正一 安土桃山時代〜江戸時代前期の大名。生年は天正7年(1579年)。没年は正保4年2月6日(1647年3月12日)。約400回茶会を開き、招いた客は延べ2,000人に及んだという。
寛文十一年 大橋龍慶の死亡は1645(正保2)年2月4日。子の大橋重政は1672(寛文12)年6月30日。
五十五歳 大橋龍慶は63歳で死亡。子の重政は55歳。どうも「寛文十一年六月三十日歿、五十五歳」の少なくとも1文は、子の重政のことを間違えて書いたのでしょう。
雪洞『東都紀行』 『燕石えんせき十種じっしゅ』は江戸末期の写本の叢書。明治40年、国書刊行会が三巻本を刊行。続編として『続燕石十種』(2巻)、『新燕石十種』(5巻)が新たに編集、刊行。辻雪洞氏の『東都紀行』は『新燕石十種』(明治45年)で刊行。
長さ十六間、幅十四尺五寸 長さは約29m。幅は約4.4m。

都電が走った昭和の東京

文学と神楽坂

 荻原二郎氏の「都電が走った昭和の東京」(東京生活情報センター、2006年)です。場所は神楽坂上交差点から大久保通りにかけての一帯、時は昭和45年3月14日。なお、都電13系統の廃止は約2週間後の昭和45年3月27日でした。

昭和45年3月14日 萩原二郎氏

昭和45年 住宅地図

 右から左に……

  1. 看板「神楽坂」(石川燃料店)
  2. 路面電車停留場。看板「神楽坂」。駅名「神楽坂」
  3. 千代田工業株式会社。前面「建築資材」。側面「建築資材」
  4. 坂本歯科。看板「南光社」。スタンド看板「坂本」
  5. 路面電車。4051/13/新宿駅/週刊文春
  6. 切妻屋根(西勘金物)
  7. おそ(ば)(増田屋そば)(下記の写真で「おそば」と記載)
  8. 路地
  9. 黒い屋根。麻雀(ひよこ)。「む」か「変体仮名」?
  10. 店舗2軒(灰屋根と白屋根)
  11. 神楽坂派出所
  12. 神楽坂交差点(現・神楽坂上交差点)
  13. 河合陶(器店)

焼跡・都電・40年

A

文学と神楽坂

 林順信氏の「焼跡・都電・40年ー山手ー激変した東京の街」(大正出版、昭和62年)です。北方から飯田橋駅や外堀通り、船河原橋、神田川などを撮影しました。年月が違う撮影があり、1枚は昭和41年12月で、もう1枚は20年ほど未来の昭和62年1月でした。

 まず昭和41年12月です。左端にあるのは都道8号で、外堀通りと合わさり、右は船河原橋に、左は後楽園や水道橋などに向かいます。都道8号の電柱に電柱広告「東明徽章」「オザワ」、さらに向こうには飯田橋駅のホーム、さらに行くと、千代田区の建物が並んでいます。神田川の反対側には目白通りがあります。
 船河原橋を渡り切る直前の都電13系統が1台、神田川には船2槽が出ていますが、船は平たく、わいぶね西さい船)かもしれません。神田川の右縁で船河原橋の直前に江戸期の大下水、それを飲み込む明治期の下水管の吐口があります。

神田川を流下する東京都のごみ運搬船(深川孝行撮影)。2023.03.06 https://trafficnews.jp/post/124654#google_vignette

 船河原橋の右側に五叉路がありますが、この写真ではわかりません。ゼブラ柄の背面板の信号機が2つあり、近くに標識(ともに指定方向外進行禁止)もあります
 右側の建物については「ごらくえん」以外に文字は小さく、読めません。この部分は下宮比町の一部でしたが、区境の変更もあり、最終的に人は住めない地域になりました。

 昭和62年1月です。上空には首都高速道路5号線(池袋線)と歩道橋があるため、辺りは薄暗く、神田川に船はありません。
 遠くの中央やや左には第7田中ビル(10階)、大和ビル(10階)、飯田橋プラザ(7階)が並び、その右には巨大な飯田橋セントラルプラザ(マンションは地上16階)、また右端には広告塔「(婦)人倶(楽部)」ができました。

逢坂下-新見附(写真)第3系統 都電 昭和42年など

文学と神楽坂

 新宿区の外堀通りに逢坂などが交差する付近を撮影した写真が3枚あります。でも、[1]のように、写真は「牛込見附」だと名前をつけると、とんでもない!と叱られそうです。
 戦前には「逢坂下停留所」という路面電車の停留所がありました。その廃止はおそらく昭和15年で、戦後、再開はありませんでした。しかし、もし「逢坂下停留所」が今もあれば、[2][3]の地点がまさにそうですし、[1]は「新見附停留所に近い場所」でしょうか。

[1]東京都電アーカイブ③

 写真[1]にはバスの「新見附」停も見えます。新見附橋のわずか先にあったようです。なお、写真の位置は逢坂下よりも新見附に近い場所です。

3か所の停留所

3か所の停留所。法政大学エコ地域デザイン研究所『外濠-江戸東京の水回廊』(鹿島出版会、2012年)から

 右手にある楕円のマークは「ピノキオ」(子供服の店舗)。(写真と地図はページの最下部で。写真は「ピ」で、地図は「子供服/ピノキオ」)

[2]東京都交通局「わが街わが都電」

東京都交通局「わが街わが都電」平成3年 撮影日時は不明

[3]都電15番の鉄道趣味

1967年7月某日
東京都新宿区東端の牛込濠脇、東京日仏学院付近
2017品川行(飯田橋行だけどもうすぐ折返しという事で)よく見るとお客がいないらしく車掌さんが運転台に来てる。
都電3系統は品川から都心を泉岳寺、三田、神谷町、虎ノ門、溜池と抜けて赤坂見附から市ヶ谷見附、飯田橋へと走っていました。一等地を走っているようですが赤坂から飯田橋はなにやらローカルな雰囲気で運転数もとても少なかった。飯田橋停留所も他路線につながってない尻切れとんぼ。僕も乗ったことないし。
撮影した年の12月10日に静かに廃止になりました。

 写真左側は牛込濠と新見附橋、左寄りに防護柵と架線柱、電柱広告「大日本印刷」、歩道。中央には外堀通りと路面電車、その路線。写真[1]~[3]は全て「飯田橋」行き(下り)の路線です。[3]の路面電車に「品川駅」と「2017」と書いてありますが、一足早く方向板だけが「品川駅」に変わったもの。
 写真[2]と[3]の右側から左側に(参考にはID 13108を)……

  1. 逢坂があり、写真[2]に運転中の自動車。町は「市谷船河原町」
  2. 色◯ ◯◯ 写真◯◯◯◯ 尾形伊之助商店
  3. (教育図書)
  4. (軽自動車工業)
  5. 渋谷ガラス「日本ペイント」
  6. (神田印刷)
  7. (2)~(3)で、新見附橋の反対側にある高いビル。昭和51年「サンエール」などが入っていた

【参考】東京都電アーカイブ③

住宅地図。1976年

庾嶺坂下(写真)昭和43年 ID 8016

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8016では、昭和43年10月に外堀通りの「逢坂下」を撮影したとのこと。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8016 飯田橋付近 外堀通り(逢坂下)

 左手前で道が外堀通りにつながっています。歩道に沿って店がいくつかあります。手前から

  1. 看板「〇〇店」看板
  2. 「麻雀 大三元」
  3. コカコーラと読めない店名看板
  4. 看板「研究社」

 歩道には公衆電話ボックス。「丹頂形」と呼ばれる古い形です。手前の消火栓標識は「東京消防庁/Fire Hydrant/消火栓/火事は119」。
 右側の外堀の向こうには千代田区の東京警察病院といくつかのビルが見えています。警察病院の左に顔を出しているのは富士見町教会です。
 では本当にここは「逢坂下」でしょうか。もし逢坂下なら、少し先に「家の光会館」の高いビルが見えているはずです。
 「逢坂下」の北側の三叉路は「笹尾」と「〇〇〇〇〇」「〇木三史」です。1本北側の「庾嶺坂下」は、昭和43年の地図では「事務所」「〇業KK」「研究社」です。写真の3軒目の建物は「研究社」です。よく見ると、その向こうの石造りの建物も研究社の旧社屋のように見えます。
 東京警察病院の距離感も庾嶺坂のほうがいいのではないでしょうか。

昭和43年 地図 逢坂+庾嶺坂

路面電車(写真)抜弁天交差点 昭和45年 ID 7435

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7435では、昭和45年1月、抜弁天交差点で飯田橋行きの都電13系統を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7435 都電13系統 飯田橋行き

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」は昭和45年1月30日「東大久保(現 抜弁天付近)を走る都電飯田橋行き」と書いています。
 都電13系統は、この場所で大久保通りを外れて専用軌道に入ります。軌道内は通行禁止ですが、子供1人が歩いています。
 廃線後の軌道跡は「文化センター通り」に変わりました。都電の向こうの車が走っているのが「大久保通り」です。

抜弁天。赤い「抜弁天」は現在のバス停。

 広告は左から右に……。

  1. 立て看板「家土地電話/物件豊富一度ご来店下さい/大松商事☎︎•••」
  2. ブランド「TOTO」
  3. ブランド「タイ◯◯」
  4. 立て看板「新宿警察署/軌道内通行禁止/東京都交通局」
  5. 路面電車「乗降者優先」「飯田橋」「400」「13/週刊文春」
  6. 電柱広告「この坂下/質/最高◯用り/石川」
  7. 店舗「PM 6:00-AM 5:00/スナック25時/さくら/◯ハラーサービ(ス)」

外濠(写真)新見附橋から ID 6898 昭和27年?

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6898では、カメラを新見附橋に置き、牛込濠や新宿区側の建物などを撮影しました。撮影日は不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6898 外堀飯田橋付近 日仏学院、東京理科大学

 このID 6898とID 14743や14744とを比べてください。よく似ています。どちらも日仏学院と研究社、東京理科大学が目立ちます。逆に1959年(昭和34年)に竣工した家の光会館は見えません。
 国電の高圧電線の碍子や、桜樹が裸木になっている様子もそっくりです。左側の焼却炉の煙突も同じように確認できます。
 おそらく同一(昭和27年9月)か、あるいはよく似た時期に写真を撮ったものでしょう。
 建物の名称はID 14743や14744と同じです。それ以外では向こう正面に神楽坂下のボート乗り場があり、左に神楽坂警察署の切妻屋根が、右には牛込橋や中央・総武線の線路が見えています。
 さらに奥の高台の建物は、文京区の中央大学富坂校舎でしょう。
 写真右の千代田区側は土手公園(現・外濠公園)です。東京逓信病院などがありますが、土手越しなので見えません。

外濠(写真)牛込地域 ID 5728-29 昭和35-36年?

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5728−29は、カメラを千代田区側に置き、外濠を越え、新宿区牛込地域を遠望しました。撮影日は不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5728 法政大学から東京理科大学方向をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5729 法政大学から東京理科大学方向をのぞむ

 あとは地元の人の文章です。こちらではわからない建物が多すぎるので、お願いしました。

ID 5728 を改変

 先に結論を書けば、これは千代田区麹町の「日本テレビ塔」から牛込地域を見下ろした写真でしょう。
 写真下側を斜めに横切るのが外濠と、外堀通りです。手前には法政大学の校舎はじめ千代田区側の建物が見えますが、今回は触れません。
 写真中央、外堀通りに面した目立つ建物は家の光会館⑥。その少し向こうに見える丸い展望台は東京厚生年金病院⑩です。間にある神楽坂を飛び越して高い建物だけが見えています。
 写真の左下端は新見附橋で、新宿区側のカーブした屋根は東京理科大学の体育館②です。
 一方、右端は飯田橋交差点で、第一銀行飯田橋支店⑭の向こうに目白通りが走っています。
 これらを撮影できる画角を考えると、地図に記したように麹町方向に収束します。また非常に高いところから撮影しないと、これほど遠くの建物は撮影できません。考えられるのは旧・日本テレビ本社の電波塔です。
 遠くにいくほど画角が広がっており、建物の位置関係は必ずしも直線では結べません。レンズの歪みがあったと思われます。
 写っている建物等は以下の通りです。色による違いはありません。

  1. 新見附橋
  2. 理科大5号館・体育館(市谷船河原町)
  3. 日仏学院(市谷船河原町)
  4. 丸紅若宮荘(若宮町)
  5. 国鉄白銀アパート(白銀町)
  6. 家の光会館(市谷船河原町)
  7. 研究社旧社屋(神楽坂1丁目)
  8. 理科大(神楽坂1丁目)
  9. 通称「お化け屋敷」(神楽坂2丁目)
  10. 厚生年金病院本館(津久戸町)
  11. 厚生年金病院別館(下宮比町)
  12. 同潤会江戸川アパート(新小川町)
  13. 銀鈴会館(神楽坂2丁目)
  14. 第一銀行飯田橋支店(下宮比町)
  15. 稲垣ビル(下宮比町)

 このうち家の光会館の落成は昭和34年(1959年)、銀鈴会館は昭和35年(1960年)です。一方、セントラルコーポラスはまだできていません(竣工は昭和37年、1962年)。撮影時期は昭和35-36年と推測されます。

住宅地図。1973年

推定画角(昭和38年6月 地理院画像MKT636を加工)

外濠(写真)日仏学院、昭和27年 ID 14743, 14744

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14743と14744は、昭和27年9月、千代田区側から外濠や日仏学院、東京理科大、外堀通り等を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4795 外濠 飯田橋付近 日仏学院、東京理科大をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4796 外濠 飯田橋付近 日仏学院、東京理科大をのぞむ

 昭和20年の東京空襲で、この一帯は焼け野原になりました。写真の建物の多くは戦後の建築です。
 昭和27年の「火災保険特殊地図」(都市整図社)では「戦後2」「戦後3」「戦後4」の3冊だけが新宿区にあり、「戦後4」には「神楽坂方面」の地図が含まれています。ただし、この地域にあるのかどうかについては不明なので、とりあえず少し後の時代の地図を元に見ていきます。
 写真右下から外濠公園の樹木と土手、中央線・総武線の線路、牛込濠、外堀通りがあります。
 濠の向こうの写真左寄りにひときわ目立つ建物が2棟あります。Aは外堀通り沿いで、屋根の近くに何やら書かれていますが読めません。

 その右上のBは「東京日仏学院」です。逢坂の途中の校舎が完成したのは昭和27年(1952年)1月でした。平成24年(2012年)アンスティチュ・フランセ東京に一時改称しましたが、2023年、名前を元に戻しました

 写真中央から右寄りにも、いくつかの立派な建物があります。高台のAは「個人(井上)宅」です。その下のBは昭和35年の地図を信ずる場合「家の光協会」です。左隣の小さな家が建っている場所には昭和34年(1959年)に「家の光会館」ができます。
 右側のCは「研究社」、Dは「東京理科大学」です。この2つはコンクリート造で戦前から残った建物です。

新丸ノ内ビルヂング(写真) 昭和27年 ID 4743

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4743は、昭和27年9月、東京逓信病院を撮影したといっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4743 飯田橋 東京逓信病院

三井住友トラスト不動産」によれば

1929(昭和4)年まで「陸軍軍医学校」があった富士見町の土地には、1938(昭和13)年に「東京逓信病院」が開院した。病院の建物は、山田守の設計によるモダニズム建築で、「太平洋戦争」中の空襲で被災するも、改修の上、1972(昭和47)年まで使用された。」 【画像は1938(昭和13)年】

 設計した山田守氏の写真も2葉残っています。

 したがって、昭和13年の病院は4~5階建てで、ID 4743と全く違っています。では病院・病棟が昭和27年までに変化したのでしょうか。
 以下は「病院の沿革・歴史」によれば

年月歴史
昭和12年10月建物竣工(本館、第一病棟、第二病棟)
昭和13年2月診療開始(内科、小児科、外科、整形外科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科、産婦人科、皮膚泌尿器科、物療科)
昭和13年4月看護婦養成業務開始
昭和20年5月戦災により本館外来の一部及び院内郵便局焼失
昭和20年12月東京逓信病院看護婦養成所の承認受ける
昭和22年9月結核科設置
昭和22年12月皮膚泌尿器科を皮膚科と泌尿器科に分科
昭和23年4月東京逓信病院高等看護学院を開設
昭和24年6月逓信省が郵政省に改正
昭和24年6月副院長、健康管理科、臨床検査科設置
昭和27年7月中央手術室、中央材料室設置

 大きな病棟の変更はなさそうです。つまりID 4743はおそらく当時の東京逓信病院ではないといえます。
 これ以上は私は何もできません。しかし、地元の人はその先に行きました。以下はその考えです。

 違う角度で分析してみます。ID 4743の左のビルは7-8階建てで、かなり大きなものです。右手の鉄道の奥にも4ー5階建て以上のビルが多数あります。終戦間もない時代ということを考えると、場所は東京都心でしょう。
 昭和27年に竣工した都心のビルを調べると『新丸ノ内ビルヂング』が出てきます。当時の写真は、ID 4743に非常によく似ています。

 新丸ビルを鉄道を背景に写真に収めるには、通りの向かいの丸ビルからの撮影が好適です。この角度の写真は、鉄道の向こうが日本橋になります。写真中央の華やかなビルは、塔屋の形状からしても日本橋の三越百貨店のようです。

日本橋の三越百貨店

1961年(昭和36)東京駅付近(今昔マップ)

 なぜID 4743が誤認されたのかは分かりません。建築家の山田守の代表作のひとつである新宿区津久戸町の東京厚生年金病院は昭和27年10月の開設で、新丸ビルと同時期です。何かの取り違えがあったことも考えられます。
 なお、ID 4743では建物の右手を列車が走っていますが、堀端の国鉄中央線は土手のやや下にあります。仮に列車が東京逓信病院のそばを走る場合、この角度では列車は全く見えません。


首都高(写真)石切橋 平成元年 ID 509, 510

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」では、平成元年(1989年)9月、ID 509のタイトルは「石切橋から大曲」、ID 510のタイトルは「大曲から石切橋」を撮影したといいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 509 石切橋から大曲

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 510 大曲から石切橋

神田川の橋

 ID 509では石切橋の上から大曲方面を撮影しました。神田川の向かって左側(北側)は文京区です。
 西江戸川橋と小桜橋がはっきりと見え、その先の中ノ橋は川面に影が落ちています。新宿区のある右岸(南側)に台のようなものが等間隔に並んでいます。護岸の石組みの色が変わっており、工事の足場のようなものかもしれません。
 この付近は出版・印刷の街です。左岸に見える「太洋社」は中堅の出版取次(書籍問屋)でしたが、2016年(平成28年)に経営破たんしました。現在はマンション「ブリリア文京江戸川橋」です。少し先には(TOP)PAN(凸版印刷)が見えています。
 右岸には首都高速道路5号線(池袋線)が建ち、ふくらんだ「非常駐車帯」があります。高い柱の上に非常電話のピクトグラムと「非常電話 SOS」が併記されています。

 ID 510の写真説明の「大曲から石切橋」は誤りで、目白通りの石切橋付近から大曲方向を撮影しています。右寄りの信号機の表示3文字は読めませんが、少し先に首都高の非常駐車帯があることから、ここが石切橋交差点であることが分かります。交差点の左の橋が石切橋で、この橋からID 509を撮影しています。石切橋の文京区側のたもとの2階家は江戸期から続く鰻の「はし本」です。
 また信号機の右奥に8階建てのビルがあります。これは2009年Googleにあった石切橋の8階建てのビルとよく似ています。1989年、写真のビルの2階と3階の窓がなく、ここは違っていますが、4階以上の窓は4枚に分かれ、非常階段は酷似しています。これは2017-18年に取り壊されて、2019年に三晃ビル(マルエツ 江戸川橋店)になりました。