月別アーカイブ: 2014年1月

尾崎紅葉|十千万堂

文学と神楽坂

 日本の小説家、尾崎紅葉(こうよう)は結婚して明治24(1891)年3月から横寺町47番地の鳥居家の母屋に住んでいました。別名、()万堂まんどうです。十千万堂は彼の号の1つです。これから没する(明治36年10月30日)まで、12年半をこの家で過ごしました。有名な「金色夜叉」もここで書いています。門下生は泉鏡花小栗風葉徳田秋声柳川春葉などが有名で、「葉門四天王」と呼ばれていました。

 行き方はまず地図で。赤い丸が十千万堂があった場所です。
十千万堂の地図

全国地価マップ

 この場所は北から南に向かって入っていきます。

 何もないので写真を付けておきます。左側、南側が行く方向です。
十千万堂の入口

 現在でも極めて寂しい場所です。その前に行くと、簡単な説明があります。平成28年、新しく説明文が変わっています。これは旧時代のもの。新しい説明文はここに
紅葉旧居跡

 では実際に住んでいた(今も住んでいるけれど)時にはこんな場所でした。

尾崎紅葉の家

伊藤整著「日本文壇史4」講談社

横寺町の尾崎紅葉の家

写真は泉鏡花記念館の「泉名月氏旧蔵 泉鏡花遺品展」から

 野田宇太郎氏の『アルバム 東京文學散歩』(創元社、昭和29年)では……

野田宇太郎「アルバム東京文學散歩」(創元社、昭和29年。1954年)。当時のキャプション。「十千万堂(尾崎紅葉)邸跡、前方樹木の茂る向うは箪笥町その崖下に紅葉の文学塾があった」。第二次世界大戦後、この地域はすべて灰燼と化しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13520 尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代頃

 ここを舞台にいろいろなことが起こりました。

門人 泉鏡花・小栗風葉  談話
○泉鏡花曰 …モウ田舎に帰らうと思ひましたが、それにしても、せめてお顔だけと存じましたに、お逢い下さいまして私は本望でございます。といひましたが、何だか胸がせまつてうつむいて了ひました。然うすると、まるで夢のやうです。、といつてお笑ひなすつて、具合が出来たら内においてやつてもよい兎に角に世話はしやう、(うち)に置くか、下宿屋に置くか、あした()な、それまでにきめて置くからと、おつしやツたのです。
明治36年11月「明星」


 明治文壇回顧録 昭和11年 後藤宙外

  六、丁酉文社時代(中略)
 紅葉氏の横寺町の邸と云つても餘り立派なものではなかつた。當時の氏の社會上の地位や文名の高い割合から見れば、寧ろ氣の毒な程のもので、古ぼけた二階建の假屋に過ぎなかつた。それが横寺町の通りから少し南側へひつこんだところに極めて簡單な門があり、その右側の4寸角程の柱に尾崎德太郎の自筆の標札が見られ、突當りの左右が狭い板塀になつて、ほんの四坪ばかりの場所を圍み、門を入つて左側の塀際に、目通り径五六寸程の枝垂柳が一本あつたのである。「十千萬堂日祿」の三月廿三日の條に、「門前の柳眼漸く開く。淺々の真眞可愛。」とあるのがそれだ。左へ直角に折れて玄關になるのである。格子戸を入ると、半坪程の土間につづく取次の間は、確か二疊であつたと思ふ。西向の極めて薄暗い陰氣な室であつた。この二疊の室で、鏡花、風葉、秋聲、春葉その他、明治大正の文壇を飾つた諸君が育成されたことを思ふと、実に尊い玄關であつたのである。
 紅葉氏の書齋は二階八疊二室を通したもので、南を開いた緣側があり、上段の間ともいふべき、西寄の室の南西の隅に、緣側に對して氏は机を据ゑて居られた。

 戦前は47番地に行くのには一直線に邸宅に入れたと思います。この47番地では一軒だけが建ったのか、数軒が建ったのか、わかりません。新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会『よこてらまち今昔史』平成12年に出ている鳥居秀敏著「横寺町と近代文芸」では「この地図(参謀本部発行の五千分の一地図)にある家は家主の鳥居家が慶応三年(1867年)にここへ移って来た時建っていた古い家で、紅葉の住んでいた家とは位置も形も違います。紅葉は明治24年(1891年)に横寺町へ来たのですから、明治20年前後に建てられた比較的新しい家だったのです」

1883年 明治十六年(1883年)測量の参謀本部発行の五千分の一地図

明治四十年一月調査東京市牛込區全圖

 戦後は数軒の邸宅がこの番地上に建っています。

よこてらまちの尾崎邸

新宿区横寺町交友会 今昔史編集委員会「よこてらまち今昔史」

籠谷典子編著「東京10000歩ウォーキング No.13神楽坂」編集:真珠書院。発行:明治書院

十千万堂日録。尾崎紅葉。左久良書房。明治41年10月。国会図書館

島村抱月(1/2)

文学と神楽坂

島村抱月
 島村抱月について書こうと思います。抱月は明治4(1871)年1月10月、誕生し、明治24(1891)年10月、東京専門学校文学科(現在の早稲田大学)に入学し、明治27(1894)年7月卒業。明治28(1895)(いち)子と結婚(数えで抱月は25歳、市子は21歳でした)。
 明治31(1898)年、26歳の時に読売新聞や早稲田中学などで働いています。
 明治35(1902)年3月8日、32歳で、英国に出発し、5月7日、ロンドン着、オックスフォードに行き、明治37(1904)年、ドイツに渡り、明治38(1905)年9月12日、3年半で帰国しました。10月、35歳で早稲田大学英文科講師になります。

 明治39(1906)年1月「早稲田文学」再刊。「囚はれたる文芸」などの評論を書いています。3月島崎藤村が「破戒」を刊行します。

 明治40(1907)年、37歳になり、英文学科教務主任になります。現在の教授です。
 抱月の論評は英文科のいくつかの分野を対象にしています。
 しかしここでは抱月が重要だと思ったものを見ていきます。最初は美学です。美学は哲学の1分野で、美しいものを研究する……だけではありません。

◇美学(哲学の1分野)抱月 説明2
 知識ある批評(右図も)
 今の文壇に奇異なる現象の一つは、創作界が却つて知識に少なからぬ尊敬を拂ふに反して、批評界が甚しく知識の権威を蔑視せんとするの事実である。
(明治40年『早稲田文学』)

『早稲田文学』の論評は主幹自ら(つまり抱月が)行っているものもあります。たとえば、書評では……

◇書評
 『破戒』はたしかに我が文壇に於ける近来の新発現である。予は此の作に対して、小説壇が始めて更に新しい廻転期に達したことを感ずるの情に堪えぬ。欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に傅はった生命は、此の作に依て始めて我が創作界に対等の発現を得たといってよい。十九世紀末式ヴヱルトシュメルツの香ひも出てゐる。
(明治40年『早稲田文学』)

 また自然主義の文学については、陣頭にたって、かつ理論的に行いました。

◇自然主義
 今の文壇と新自然主義
 技巧無用論は、言ふまでもなく一の自然主義である。自然を忠実に写さんがため、技巧を人為不自然として斥ける。此の点からいへば自然主義の対照は技巧主義である。但し吾人は更に他に1つの対照を有する、それは情緒主義である。
(明治49年『早稲田文学』)

 演劇の評論も盛んに行っています。

◇演劇
 演芸雑談
 目下欧州の文芸全体の範囲で尤も活動して居るのは演劇であらうと思ふ。…
 が要するに国民音楽の尤も特色あつて且つ尤も近代的であるのは独逸である。
(明治39年『新小説』)

 抱月が文学者として一番熱心に行ったものは美学や自然主義ではなく、もちろん、抱月自分のあくびで有名な大学の講義でもなく、やはり演劇だと考えられます。逍遥もそうではないでしょうか。早稲田大学では演劇は今でも文学科の1コースとして行われています(文学部文学科演劇映像コース)。
 しかし、演劇を鑑賞するだけではなく、総監督として演出し、さらには劇場をつくり、劇中歌の作曲も行い、しかも大ヒットとなり、最後に多額のお金まで儲かったというのは、周りはあーあ、こけるよ、としか見てなかったようなので、ただただ驚きです。

島村抱月(2/2)

文学と神楽坂

 明治42(1909)年、坪内逍遥は大隅重信が作った文芸協会を再開し、また、俳優養成を目的にして演劇研究所を設立します。そして、島村抱月氏はその指導講師になります。
 4月18日、演劇研究科の入学試験。合格者は男子12人、女子2人。松井須磨子も1期生でした。
 大学の講義は抱月自身あくびがでるようなつまらない講義でも、演劇研究科の講義になると、抱月の熱意があったといいます。
 大学の講義について、広津和郎氏の『同時代の作家たち』のなかで抱月の講義がいかにもつまらなかったと書いています。

 私は島村抱月(ほうげつ)さんから早稲田で美学の講義を聞いたが、その美学の講義はお座なりで、月並で、そう独創のあるものとは思えなかった。
 島村さんはそれ以前にはもっと勤勉な先生だった時代があるのかも知れないが、私が早稲田で講義を聞いた明治四十三、四年頃には、それは氏の教授としての末期に近い頃であったが、ちょいと類のないほど怠けものの先生であった。学校には休講掲示場なるものがあって先生たちが講義を休む場合には、前以てその旨休講掲示場に掲示するのであるが、島村教授に限って、その休講掲示場に出講掲示がはり出されるのである。つまり何の掲示もない時には島村教授の講義は常に休みであり、たまにめずらしく出講する時には、それが余りに例外な事なので、出講掲示が張り出されるのである。
 私の学生の頃、島村さんは文芸評論家の第一人者の如くいわれていたので、私は島村さんの評論集を読んだ事があったが、たしか「人生観上の自然主義を論ず」という一文には、島村さんの生活の裏側が出ていて、個人から家族、社会と拡がって行く生の重荷に対する憂鬱な溜息を聞く思いがして惹き入れられたが、それ以外は余りにお座なりなので意外な気がした。恐らく島村さんは他人の文学などをこつこつと読み、それを批評するような熱は、文芸批評家としても持っていなかったのであろうと思う。
 島村さんにはまた幾つかの脚本の試作があるが、それも器用にテーマの上をかい撫でた程度のもので、人を打つような創作的熱情は少しも示していない。
 このように講義の美学は中途半端なものであり、評論にも創作にも心を打たれるものはないのに、私は僅かばかり氏の講義に出席して、氏の風貌や述懐から受けた印象が深く心に刻まれ、いまだに忘れられないのである。――それは一つの孤独な生活者、人生の積極面をでなく、その消極面をまじまじと見まもり、その行手に虚無の洞穴(ほらあな)が待っている事を知っていながら、どうしてもそこに向って足をはこんで行かなければならない運命の人の姿を氏に感じたからである。

 自分でも同じことを書いています。

書卓の上
 今朝もテーブルに向つて腰かけたまゝ懐手をして二時間以上ぼんやりしてゐた。何をする気も出ない。かたはらの台の上に取り散してある新刊の雑誌や書籍を、1つ2つ抽き出して明けて見たが、一向に面白くない。
(明治44年)

 何が起こっていたのか。翌年になるとはっきりします。
 大正1(1912)年8月2日、抱月の妻と長女は島村抱月と松井須磨子の関係はどうもおかしいと気がついて、松井須磨子の家を見張っていました。やがで、彼女の家から盛装した須磨子が出てきます。後を追っていくと、新宿駅から高田馬場まで行き、抱月と逢っていました。妻は抱月の「襟元をふんづかまえ」ると、須磨子は「申しわけないことをしました。死んでお詫びします」といい、抱月は須磨子を自宅に帰し、抱月は妻に「死なしてくれ」という、まあ事件が起こります。
 翌日、抱月が前夜に書いた恋文を妻が発見します。「抱きしめて抱きしめて、セップンして、セップンして。死ぬまで接吻してる気持になりたい。まァちゃんへ、キッス、キッス」(妻が中山晋平に命じて写し取らせたもの。河竹繁俊著『逍遥、抱月、須磨子の悲劇』)
 11月、抱月は奈良京都に旅行します。本人がそうしたかったのではなく、頭を冷やせという大学の命令でした。しかし、抱月は途中で東京に帰ってしまいます。
 大正2(1913)年5月31日、須磨子は26歳で演劇研究所の論旨退会になり、抱月も42歳で早稲田大学に辞表を提出。6月4日 抱月と須磨子で結婚を誓う誓紙を交わします。6月9日、坪内と島村などを交えた会見をします。
 事情を完全にはわからないため、早稲田のOBは島村のほうを応援します。結構マスコミも騒いでいたようです。7月3日、抱月と須磨子を中心に「芸術座」の旗揚げが決まります。
 11月、早稲田大学は正式に抱月の辞表を受理します。
 大正4(1915)年8月、芸術倶楽部が完成します。

24時間と僕の生き方
 私も書物に遠ざかつてから、もう三年まぢかになる。其頃の私は、毎日必ず少くとも一度づゝは書斎に閉ぢ籠つて何某教授の何哲學の系統といふやうな厳めしい洋書を引くりかへすのが職業であつた。どちらを向いても削り落としたやうな岩石の谷底に石子責になった心地で論理神経を痛めながら其間を拾って歩く。可なり強かった私の知識慾も後には疲れ切って了つた。私がまだ學校にゐた頃は、此等先哲の蹤を慕ふて、宇宙を包括するやうな高大な哲學系統を、自分の手で建てゝ見たり、壊して見たりして、其事に衷心の敬慕を棒けることが出来た。あの頃の心持も今から考へて憎いものではない。併し私は、段々其『系統』といふものに不快を感することを禁じ得なくなった。學者が最も苦心し努力した所は其『系統』をもとめた點にある。けれどもその結果は決して凡人の到り難いものでも何でもない、剋明に年月を累ねて統理してさへ行けば、私にでも出来る。機織女が、細い絲目を並べて尺を成し丈を成すのと大した相違は無い。
(大正5年『時事新報』)


石子責 罪人を穴に落としてその上に石を載せ続けて殺す、中世、近世の日本の刑罰。

 大正7(1918)年11月5日、抱月はスペイン風邪、インフルエンザで死亡します。47歳でした。

神楽坂の半襟|水野仙子

水野仙子 菅野俊之処著『ふくしまと文豪たち』(歴史春秋社)から

菅野俊之処著『ふくしまと文豪たち』(歴史春秋社)

文学と神楽坂

 水野仙子(せんこ)氏は肺結核で死んだ女流作家です。

 『神樂阪の半襟(はんえり)』は大正2年(1913)、25歳に書いています。神楽坂で夫と一緒に、髢屋、半襟屋、履物屋に行き、しかし、半襟屋では何も買ってくれません。でも、本当は、本当は買ってくれるだ……本当に? と心は乱れます。

生年は明治21年12月3日。没年は大正8年5月31日。結核のため32歳で死亡しました。

 お里は爪先あがりにを登りながら數へたてゝゐたが、ふと屋の店が目につくと、『あ、さうさう、私すき毛を一つ買はう。』と、思ひ出したやうに小ばしりにその店に寄つて行つた。
 髢屋の主人が背のびをして瓦斯にマッチを擦ると、急に靑白い光がぱつとして薄暗い店先を照した。氣がつくと、阪下阪上の全體に燈がはひつてゐた。
『下駄はどこで買ひませう。』と、そこから出て来たお里は、夫と並んで歩き出しながら言つた。
『さあ。』

 「坂」と同じで、神楽坂のこと。
 かもじ。日本髪を結うとき、地毛の足りない部分を補って添える髪。
すき毛 毛の束で、結髪の形を整えるために髪の中央に入れたり、頭髪の汚れをとるため梳き櫛に挟んで髪をけずったりすること
 お里はふと立ち止つて、とある半襟店の小さなショウウインドウを眺めてゐた。
半襟 和服用の下着の襦袢に縫い付ける替え衿。当然安い。しかし、夫は半襟を買いません。
 お里はちぷりと油に水をさされたやうな氣がした。黑地に赤糸の麻の葉を總模様にしたその半襟をかけた自分の白い襟元と、着物の配合とが忽ちにして消えた。…
 あんなけちな安物1つ思のまゝに買ふことができないのだと思ふと、何やらうらめしいやうな氣がしてならない。…
『あの家に入つて見ませう。』と、お里はずんずん夫の先に立つて、昆沙門前の下駄屋にはひつて行つた。

下駄屋 下駄屋、半襟屋、髢屋はここにありました。(新宿区図書館「神楽坂界隈の変遷」の『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』)
神楽坂の半襟
現在の下駄屋は煎餅の「福屋」です。半襟屋は「味扇」や「わしょくや」などに変わりました。
下駄屋と半襟屋
髢屋は「俺流らーめん塩」になりました。
ラーメン

 さて、その後の行動は、ひょっとして、買うつもりではとお里は考えしまいます。ここがいい。
 実際はやっぱり買ってくれません。簡単な小説ですが、男女の相克は別として、結構、お話と心理はよくって、うまいと思います。

『さうかも知れない、あの人のことだもの。』と考へた時は、嬉しさに胸が早鐘のやうに鼓動を打つてゐた。
 お里は夫が黙つて、そつとあの半襟を買ひに行つたのだと思つたのである。さう信じてしまふと、嬉しいやうな、有り難いやうな、先刻の不平だの、味氣なさだのは泡のやうに消えてしまつて、さうまでして自分を劬つてくれる夫の心持が氣の毒にもなつて来る。

劬る いたわる。思いやること