月別アーカイブ: 2014年9月

夜の矢來|武田仰天子

文学と神楽坂

夜の矢來(やらい)

武田仰天子

「文芸界」 明治35年9月定期増刊号

夜の矢來 (きみ)何方(どちら)ですと(ひと)()はれて、()(やい)ですと答へると、その問うた人が()の句には、矢來は(ひろ)(ところ)ですねえと必ず言ふ、されど()のみ廣い處ではないのです。たゞ本鄕の西片(にしかた)(まち)と同樣で、一()番地の中は中々廣い、家数(やかず)の百餘戸(よこ)もある番地があります。()いては、何番何番地(あざ)何第何十何(がう)と言つたやうな鹽梅(あんばい)に、番地の下に字、字の下に號と、(すこぶ)(わづら)はしく小區分が()てあります。()う區別を()て置かなければ、家の所在が容易に分らないからです。故に始めて我が矢來へ來る人が、外町(ほかまち)の心得で、ただ番地だけ聞いて來た日には、さあ分らない、兩側に(うゑ)(つら)ねられた杉垣根の間を、彼方(あちら)(まは)り、此方(こちら)へ囘り、同じ所へ何度となく返つて來て、つまり指す家を()()()さないで帰つて(しま)ひます。よしまた號までを聞いて來たに()ても、その號がさ、次第好く順々に付いてない處があるのですから、やはり、多少迷付(まごつ)かなければなりません、また迷付(まごつ)くのが規則のやうになつて居るので、(たと)へば始めて訪れて來た人があると、その訪れられた家の者から一番最初に言出(いひだ)す御挨拶が、あなた()く分りましたねえと()うです。呆れ返つたものでせう。()く分つたと言つて不思議がるのですもの。それもさうです。大抵の來人は、二度目でもまだ迷付(まごつ)くので、まづ三四度目から、同じ杉垣根の中だけれど、あの家の筋向うには井戸があったとか、(くるま)宿(やど)から左へ取つて右へ曲つて(つき)(あた)たつて右側だとか、何か思い出して()(じるし)にするやうになりますからどうやら()うやら、折好(をりよ)行逢(いきあ)つた酒屋の小僧に問う世話(せわ)もなく、思ふ家へ行けると言ふもので、ですから()んな人達が、同じ道を何度も()(めぐ)つた足數(あしかず)(のべ)勘定(かんじやう)()て、大層歩いた、矢來は廣い、と()う思ふのですが、なあに、(たか)若州(じやくしう)()(ばま)洒井(さかゐ)家の(やしき)(あと)ですもの、廣さが幾許(いくら)あるもんですか。猫の額ほどの狹い土地です。それゆゑ別に夜の矢來と題を置いて、(こと)(ごと)しく書立てるほどの亊はないのです。ざつと書いて見やうなら、晝間(ひるま)でもこの通りに分り()ねる土地だから、夜始めて來た人は、(まる)八幡の籔へ入ッたやうなものだ、(くらゐ)でも()む事で、一向(つま)りませんけれど、その詰らないのを話の種に、六年(かり)(ずまひ)の矢來通をば、一番揮舞(ふりま)はして見ませうよ。(しか)無論(むろん)夜の分だけ。
左のみ そうむやみに、たいして
西片町 東京都文京区の町名。東京大学が近隣にあり、多数の学者や文化人が住んだため、学者町として知られる。関東大震災や第二次世界大戦の被害はなく、明治時代の雰囲気を残している。
車宿 車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。車屋。
若州小浜藩 若州とは若狭の異称。江戸時代、若狭(わかさ)国遠敷(おにゅう)郡小浜(現、福井県小浜市)に藩庁をおいた。1871年(明治4)の廃藩置県で小浜県となり、敦賀県、81年福井県に編入
八幡の籔 八幡の藪知らずは、千葉県市川市八幡にある森の通称。古くから「禁足地」(入ってはならない場所)とされており、「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という神隠しの伝承とともに有名である
さて矢來の(うち)にも、軒並(のきなみ)商家(あきんど)のある所もあります。されど場末の(さび)れ町で、電燈や瓦斯(がす)燈といふ物は更になく、店の灯光(あかり)洋燈(らんぷ)持切(もちき)つて居て、そして(ひと)(どほ)りと言つても、早稲田邊から神樂阪の夜店へ行く人位の事で、詰らないのを話の種にするとは言いながら、(あま)り詰らなさ過ぎますから、所謂八幡の藪の(やしき)町の事だけを…それも街燈ちらほらの()暗い所ですから、目に見る物は()して、ただ耳に聞く物だけを選抜(よりぬ)いて(かゝ)げませう。聞く物は、下町とは樣子の(ことな)つた物がある上に、見る物が少くつて、自ら聞く事に(せん)一ですから、種々の音色が耳に()るのです。
夜籟(やらい)  樹木(じゆもく)の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。夜の矢來町を夜籟町と書換へた方が適當(てきたう)でせう。何しろ栗や杉の喬木(げうぼく)が夜風を受けで、ざァーざッと騒ぐ樣は、是が東京市かと怪しまれるほどで、町の中だとは思へません。どうしても山居(さんきよ)心地(こゝち)がするので、(よく)には流水の(ひゞき)があつたらと、餅の皮を()きたくなる(くらゐ)です。
かと思うと、また野趣(やしゆ) (おぼ)しで夜の矢来2
(むし)()  は自慢です。秋の夕暮になると、垣根や()の下や草の中、何所(どこ)と限つた事はなく、種々樣樣の蟲が鳴出します。それが夜に入って露(しげ)なるに從ひ、次第に()()へて來て、何時(いつ)までも止間(やみま)がなく、東の空が(しら)むまで鳴通します。或は枕を(そばた)て、或は窓を()して、深夜にこの蟲の音を聞く(あぢはひ)といったら、(じつ)(なん)とも()へません。落月(らくげつ)微茫(びばう)の時はなほ()し、(やみ)()もまた惡くはない。下町の狹い軒端(のきば)で、(かご)に飼はれて居る蟲の音を聞くのとは、あはれさが違ひます。
蛙聲(あせい)  夏の()(どぶ)の中で蛙が鳴立てます。眞の田甫(たんぼ)の蛙聲と來ては、(やかま)しくつてなりませんが、山川の水がないやうに山の(どぶ)で水がないから、蛙も澤山(たくさん)には居ないです。()いては丁度()(ほど)に鳴きますから、(この)んで聞く氣にもなるので、(これ)はまた田舍(でんしや)心持(こゝろも)()ます。
鶏聲(けいせい)   (これ)もやはり田舍(でんしゃ)の趣味があつて、朝の三四時頃になると、遠近(をちこち)で鳴く一番(どり)、寝坊の私も(たま)には聞く事がありますが、何となく(いさ)ましいものです。
軒並 並んでいる家の一軒一軒。家ごと。「刑事が軒並に聞いてまわる」
風が物にあたって発する音。
喬木 きょうぼく。 高木(こうぼく)と同じ。反対は低木=灌木(かんぼく)
ほしがる気持ち。
野趣 自然のおもむき。また、田舎らしい素朴な味わい
有り余るほど多い。ゆたか
湿の旧字体。しめる。しめりけ
落月微茫 沈もうとする月はかすかでぼんやりしている
田舎 発音はこの時は「でんしゃ」。現在は「いなか」

 

 ()う數え立てゝ見ると、全く山村の趣味のみのやうですが、場末にも()ろ、(みやこ)(うち)には相違(さうゐ)ないだけに、鳴物(なりもの)も聞こえます。けれど下町から()ると、(おのづ)と野暮で、また自と(いや)しくはありません。
雅樂(ががく)  其筋(そのすぢ)樂人(がくじん)(すま)つて居て、自分でも練習を()家人(かじん)に教へても居ます。(あるひ)(くわん)()り、或は(げん)(かきなら)す時など、聞いて心が()むやうです。(しか)しトラヽタリラの()暗誦(あんしよう)は、耳に(はい)ると肩が()ります。
薩摩(さつま)())  是は師匠の家があつて、書生(れん)が夜稽古にも行き、稽古(がへ)りに琵琶(うた)を唄つても通り、また矢來倶樂部に折々琵琶會がありまして、江戸(まへ)意氣(いき)な歌は聞かれない代りに、この勇壯(いうさう)音曲(おんきよく)幾許(いくら)でも聞けるのですが、また聞くに()へたものです。
〇琴  垣根を(へだ)(やぶ)を隔てゝ、蘭燈(らんとう)の光の()れる(あた)り、(しづか)にして(さはや)かな琴の()が聞える時は、どんな(うる)はしい令嬢だらうと、自然その(ぬし)(しの)ばれます。實際逢つて見たら二度(びつく)で、(あら)(がほ)の、(ちゞ)れつ()の、(ふと)つてうの娘かも知れませんけれど、不思議に美人のやうに(おも)はするのは髙尚(かうしやう)な音色の(とく)でせうか。
謠曲(ようきよく)  一(たん)の流行が今に(すた)らないで、夜中(やちう)()小路(こうぢ)を散歩して見ても、(うたひ)(こゑ)の聞えない所はない位です。(なか)には聞くに()るのもありますけれど、大方(おほかた)は初心の下手(へた)(ぼへ)官吏(くわんり)會社員(くわいしやゐん)(おも)てすが、中に(なに)學士ともあらう人が、泣聲(なにごゑ)棒讀(ぼうよみ)()ては、(おん)(いたは)しや、あれでも大學出の先生かと、肩書の貫目(くわんめ)が疑はれます。(もとよ)り學者は(ただ)でも覺えは好いという理屈はありませんけれど、(ある)()(つたな)いと、總體(そうたい)を拙く見せるのは事實ですから、()した方が無難(ぶなん)で、もし執心(しうしん)なら、晝間(ひるま)世間の(さわ)がしい(うち)()つて(もら)ひたいものです。(さひは)此邊(このへん)では、下手(へた)義太(ぎた)を聞かされる(うれひ)だけはありませんが、この(うたひ)では()てられます。
(そう)々しい足音(あしおと)  毎日曜(まいにちえう)()、寄席の打出(はね)とも謂ふやうな大勢の足音が、丁度寄席の打出の刻限(こくげん)に聞えます。それは耶蘇(やそ)の教會堂から歸る人々ですが、土地に慣れない(あひだ)(あや)しまれました。(ちなみ)に言ひますが、この矢來町には、古來、佛寺(ぶつじ)という物はないのです。たゞ庵室(あんしつ)さへ、地蔵堂さへないほどの狹い土地に、新輸入の耶蘇曾堂のあるのが(めう)です。それにまた墓地のあるのがなほ妙です。併しその墓地は共有ではなく、今は同町全體の地主酒井家の專有(せんいう)で、何々院殿何々(だい)居士(こじ)(おほ)石碑(せきひ)が並んで居て、(かまへ)は極く(ちいさ)いけれど、樹木(じゆもく)(しん)々と(しげ)つてゐますから、女子供は、その傍を夜通るのを嫌ひます。
〇時の鐘  目白とは近く互に向合(むきあ)つた高臺(たかだい)ですから、彼所(あすこ)のが聞えるのは言ふまでもありませんけれど、夜が()けると、上野のゝも淺草のも聞えます。そしてもう一つ遠くつて大きい時の鐘、芝のだらうと思はれるのが聞えますが、これはまだ(しか)とは突止(つきと)めません。
鳴物 一般的には打楽器を中心とした楽器一般
管楽器。横笛などの笛類
弦楽器。琵琶・琴などの(いと)
薩摩琵琶 晴眼者が書き起こしたもの
蘭燈 美しい灯籠。美しいともしび
謠曲 ようきょく。能の詞章だけを謡う芸事。役者の動き・囃子・間狂言は除外し、詞章全体を一人で謡う。謡(うたい)。
貫目 かんめ。身に備わった威厳。貫禄
打出 うちだし、はね。芝居や相撲などの終りに太鼓をどんどん打って観客を追ひ出すこと。
耶蘇 イエス・キリスト。イエス(Jesus)の近代中国音訳語は「耶蘇」。日本では広くキリスト教やキリスト教徒の意味で用いられた。
庵室 僧、尼、隠遁者の質素な住まい。いおり
〇汽車の(ひゞき)  甲武の市内線と赤羽線とのが、夜はことに手に取るやうに聞えます。
〇汽船の汽笛  この事は人には(ちよつ)と信じませんけれど、私は以前築地に(すま)つて居て、聞覚えがあるから分るのですが、東風(こち)の吹く()は、大川から芝浦へ出入する汽船の汽笛が、びっびっびーと鮮やかに聞こえます。
賣聲(うりごゑ)  (もとよ)り賣れる場所ではありませんから、毎晩(きま)つて呼賣(よびうり)に來る商人(あきんど)はありません。不圖(ふと)すると、花林糖(くわりんたう)()が來る位の事。過日(いつか)でしたか、どう途惑(とまど)つてか、大層美聲(びせい)の辻(うら)(うり)が、淡路しま通ふ千鳥(ちどり)(なが)して來た事がありましたけれど、果して賣れなかつた爲か、たゞ一()(ぎり)でした。
杜鵑(ほとゞぎす)  たゞ一度(ぎり)、思ひ出したんですが、六年以来たゞ一(こゑ)、月夜の杜鵑を聞きました。この(へん)は、昔は()く鳴渡つたところださうですのに。
門附(かどづけ)  (これ)賣聲(うりごゑ)と同様で、(すま)ふ人が門附を呼止(よびと)める柄ではありませんから、(めつ)たに()つては來ませんけれど、(たま)義太夫(ぎだいう)新内(しんない)が…それも素通(すどほ)りの(なが)(ぞん)
按摩(あんま)  これは毎夜入りさうな土地で居て、やはり賣聲(うりごゑ)と同様で、笛の()(たま)により聞こえません。
(たき)(おと)  何分(なにぶん)巡査(じゆんさ)巡囘(じゆんくわい)の少い邊鄙(へんぴ)の事ですから、是は折々ある事で、おや、垣根で(へん)な音がすると思ふと、それ、往來(わうらい)の人が立止(たちどま)つて…
 あゝ、話が(した)()ちましたから、もうこの(へん)切上(きりあ)げせまう。
甲武の市内線 甲武鉄道は明治22年に開業した蒸気鉄道で、飯田町-中野間10.9キロの電化工事を起し、明治37年8月に完成した。
東風 東風(あゆ、こち、こちかぜ、とうふう、とんぷう、はるかぜ、ひがしかぜ)。東から吹いてくる風。
大川 通称で東京都を流れる隅田川の下流部
呼賣 行商人の一種。道々大きな声で客を呼びながら商う呼売がありました。江戸時代から都市で盛んになり,野菜や魚介類など少量の商品を扱っています。振売 (ふりうり) ,棒手振 (ぼてふり) とも呼び,大正期まで多くみられ,現在でも金魚売、豆腐売、焼芋売などが行商人。
花林糖 かりんとう。駄菓子の一種
門附 家の門口で雑芸(万歳・厄払い・人形回し・その他)を演じたり、経を読んで金品を乞う行為や人。
義太夫 義太夫節の略。浄瑠璃(三味線音楽における語り物の総称)の一流派
新内 しんないぶし。新内節。 浄瑠璃の一流派

文学と神楽坂

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『露店研究』|神楽坂

文学と神楽坂

 著者・横井弘三氏は『露店研究』(昭和6年刊)の一章で「牛込神楽坂の露店」を書いています。以下はそのコピーです。1つ、重要な事実があります。ここにはいろいろな露店はありますが、今川焼の一種である熊公焼はありません。

 ところが、色川武大氏は同じ本を使って『怪しい来客簿』を書き、「露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、(中略)、さびない針(錆ビヌ針)、万年筆、人形、熊公焼、花(ハナ)、(色川武大氏はミカンは書いていない)、玩具(オモチャ)(後略)」と説明します。この熊公焼は色川氏が加えたものでした。

露店1

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大東京繁昌記|早稲田神楽坂09|牛込見附

文学と神楽坂

牛込見附

牛込見附

私達は両側の夜店など見ながら、ぶら/\と坂の下まで下りて行った。そして外濠の電車線路を越えて見附の橋の所まで行った。丁度今省線電車線路増設停車場の位置変更などで、上の方も下の方も工事の最中でごった返していて、足元も危うい位の混乱を呈している。工事完成後はどんな風に面目を改められるか知らないが、この牛込見附から見た周囲の風景は、現在残っている幾つかの見附の中で最もすぐれたものだと私は常に思っている。夜四辺に灯がついてからの感じはことによく、夏の夜の納涼に出る者も多いが、昼の景色も悪くはない、上には柳の並木、下には桜の並木、そして濠の上にはボートが点々と浮んでいる。濠に架かった橋が、上と下との二重になっているのも、ちょっと変った景色で、以前にはよくあすこの水門の所を写生している画学生の姿を見かけたものだった。
外濠の電車線路 外濠線の都電線路のこと。都電3系統の路線で、第3系統は飯田橋から皇居の外濠に沿い、赤坂見附に行き、溜池、虎ノ門から飯倉、札の辻、品川に至る路線です。
見附の橋 見附の牛込橋は千代田区富士見二丁目から神楽坂に通ずる早稲田通りに架かっていました。寛永13年(1636)阿波徳島藩主蜂須(はちす)()忠英(ただてる)が建造。当時千代田区側は番町方、新宿区側は牛込方と呼ばれ、旗本屋敷が並び、その間は深い谷だったのを、水を引いて堀としたものです。
省線電車 1920年から1949年の間、現在の「JR線」に相当する鉄道。明治41(1908)年から鉄道院「院電」、大正9(1920)年から鉄道省「省電」、昭和24(1949)年から日本国有鉄道「国電」、昭和62(1987)年から東日本旅客鉄道「JR」と変遷。
線路増設 昭和3(1928)年11月15日、関東大震災復興で貨客分離を目的として、新宿-飯田町間で複々線化工事を完成しました。
停車場の
位置変更
停車場はJR駅のことで、ここでは飯田橋駅ではなく、牛込駅のこと。牛込駅は牛込橋(現飯田橋駅西口に接する跨線橋)よりは四ツ谷寄りの位置です。出入口は2か所。ひとつは外堀通りに面した神楽坂下交差点のたもと。現在でも、牛込濠を埋め立てて作った連絡通路の遺構が残っています。下に詳しく書いています。もうひとつは濠の反対側、旧飯田橋郵便局の向かいで、改札口の位置を左右から挟むようにして、石積みの構造物が残っています。昭和3(1928)年11月15日、関東大震災復興で複々線化工事が新宿-飯田町間で完成。これで駅間が近い牛込駅と飯田町駅を統合し、飯田橋駅が開業しました。この3駅についての関係はここで
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。以上は牛込見附ではまったくいいのですが、しかし、別の文脈では、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。詳しくは牛込見附跡を。
二重 大正11年。東京市牛込区大正11年の『東京市牛込区』の地図では牛込橋が2つにわかれています。また下の新宿歴史博物館の「神楽坂通りの図 古老の記憶による震災前の形」でも2つに分かれています。牛込橋の上の1つは千代田区に、下の1つは牛込駅につながっています。2つの牛込橋2

 いまでもこの連絡通路はあります。赤い色で描いた場所です。

カナルカフェ

写真ではこうなっています。先には行けません。カナルカフェ2
下は明治後期の小林清親氏の「牛込見附」です。きちんと牛込橋が2つ書かれています。

牛込見附の清朝

牛込見附

この下の橋は昭和42年になっても残っていました。飯田橋の遠景

だがあすこの桜は震災後すっかり駄目になってしまった。橋を渡った停車場寄りの処のほんの二、三株が花をつけるのみで、他はどうしたわけか立枯れになってしまった。一頃は見附の桜といって、花時になると電車通りの所から停車場までの間が花のトンネルになり、停車場沿いの土手にも、ずっと新見附のあたりまで爛漫らんまんと咲きつらなり、お濠の水の上に紛々ふんぷんたる花ふゞきを散らしなどして、ちょっとした花見も出来そうな所だったのに、惜しいことだと思う。
停車場 「停車場」はJR駅について話す場合。これは牛込駅に相当します。ちなみに市電(都電)は「停留所」でした。
新見附 明治中頃、行き来の便宜のため、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて新しく橋を作りました。この橋を新見附橋といいます。また外濠は二つになり、牛込駅(飯田橋駅)寄りは牛込濠、市ヶ谷寄りは新見附濠と呼ばれるようになりました。
爛漫 花が咲き乱れているさま
紛々 入り乱れてまとまりのないさま
花ふぶき はなふぶき。花びらがまるで雪がふぶくように舞い散るさま
あの濠の上に貸ボートが浮ぶようになったのは、ごく近年のことで確か震災前一、二年頃からのことのように記憶する。あすこを埋め立てゝ市の公園にするとかいううわさも幾度か聞いたが、そのまゝお流れになって今のような私設の水上公園(?)になったものらしい。誰の計画か知らないがいろ/\の意味でいゝ思い付きだといわねばならぬ。今では牛込名物の一つとなった観があり、この頃は天気さえよければいつも押すな/\の盛況で、私も時々気まぐれに子供を連れて漕遊を試みることがあるが、罪がなくて甚だ面白く愉快である。主に小中学の生徒で占めているが、大人の群も相当に多く、若い夫婦の一家族が、水のまに/\舟を流しながら、パラソルの蔭に子供を遊ばせている団欒だんらん振りを見ることも屡々しばしばである。女学生の群も中々多く、時には芸者や雛妓おしゃくや又はカッフエの女給らしい艶めいた若い女性達が、真面目な顔付でオールを動かしていたりして、色彩をはなやかならしめている。聞くと女子の体育奨励のためとあって、特に女子のみの乗艇には料金を半額に優待しているのだそうだが、体育奨励もさることながら、むしろおとりにしているのでないかと笑ったことがあった。
貸ボート この東京水上倶楽部の創業は大正7年(1918年)です。東京で最初に出来たボート場でした。
水上公園 水のほとりや水辺にある公園
漕遊 遊びで漕ぐ
まにまに 随に。他人の意志や事態の成り行きにまかせて行動するさま
団欒振り 「振り」は物事の状態、ようす、ありかた。語調を強めるとき「っぷり」の形になる場合も。「枝―」「仕事―」「話し―」「男っぷり」「飲みっぷり」
雛妓 半人前の芸者、見習のこと。(はん)(ぎょく)()(しゃく)などと呼びます
これは麹町区内に属するが、見附上の土手が、新見附に至るまでずっと公園として開放されるそうで、すでにその工事に取掛かり今月中には出来上るとの話である。それが実現された暁にはあのあたり一帯に水上陸上相まって、他と趣を異にした特殊の景情を現出すべく、公園や遊歩場というものを持たないわれ/\牛込区民や、麹町区一部の人々の好個の慰楽所となるであろう。そしてそれが又わが神楽坂の繁栄を一段と増すであろうことは疑いなきところである。今まであの土手が市民の遊歩場として開放されなかったということは実際不思議というべく、かつて五、六の人々と共に夜の散歩の途次あすこに登り、規則違反のかどを以て刑事巡査に引き立てられ九段の警察へ引張られて屈辱きわまる取調べを受けた馬鹿々々しいにがい経験を持っている私は、一日も早くあすこから『この土手に登るべからず』という時代遅れの制札が取除かれ、自由に愉快に逍遙しょうよう漫歩まんぽを楽しみ得るの日の来らんことを鶴首かくしゅしている次第である。
麹町区 こうじまちく。神田区と一緒になって千代田区
慰楽所 いらくしょ。慰みと楽しみ。「レクリエーション」のこと
あすこ あの土手。見附上の土手から新見附の土手に至るまでの土手です。
逍遙漫歩 逍遙しょうようとは気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩。漫歩まんぽとは、あてもなくぶらぶら歩き回ること。そぞろあるき
鶴首 今か今かと待つこと。首が伸びるほど待ち焦がれること

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

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大東京繁昌記|早稲田神楽坂01|床屋の壁鏡

文学と神楽坂

1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』です。

床屋の壁鏡床屋

神楽坂通りの中程、俗に本多横町といって、そこから真直ぐに筑土(つくど)八幡の方へ抜ける狭い横町の曲り角に、豊島という一軒の床屋がある。そう大きな家ではないが、職人が五、六人もおり、区内の方々に支店や分店があってかなり古い店らしく、場所柄でいつも中々繁昌している。晩になると大抵その前にバナヽ屋の露店が出て、パンパン戸板をたゝいたり、手をうったり、野獣の吠えるような声で口上を叫んだりしながら、物見高い散歩の人々を群がらせているのに誰しも気がつくであろう。

 

本多横町 「神楽坂最大の横丁」として神楽坂3丁目と4丁目を突っ切り、飲食店などの店は50軒以上あります。

本多横丁2

筑土八幡 筑土八幡町は南端部を大久保通りが通っています。筑土八幡神社があり中心的な存在です。

筑土八幡町

豊島 豊島理髪店。神楽坂通りと本多横町が交わる場所にありました。今までは中華料理と肉まんで有名な「五十番」でしたが、2016年からは「北のプレミアムフード館 キタプレ」になりました。「3丁目北側最西部の歴史」でもっと詳しく出ています。
五十番
バナナ屋 バナナの(たた)き売りは独特の口上を述べながらバナナを露天で売る手法です。やがてこのバナナ屋は神楽坂に一軒、巨大なビルを設けました。

狭い横町 これは本多横丁のこと。本多横町は現在「神楽坂最大の横丁」です。
戸板 雨戸の板。これを並べ、物を置いて販売しました。
手を打つ 感心したり、思い当たったり、感情が高ぶったりしたときに両手を打ち合わせて音をたてる。
口上 口頭で述べること、述べる内容

私はその床屋へ、まだ早稲田の学生時代から今日までずっと行きつけにしている。特にそこが他よりすぐれていゝとかうまいとかいう訳でもないが、最初その辺に下宿していた関係で行き出したのが元で、何となく設備や何かの感じがよいので、その後どこへ引越して行っても、今だに矢張やはり散歩がてらにでもそこまで出掛けるような次第である。数えるともう十七、八年もの長い年月である。その間私は、旅行その他特別の事情のない限り、毎月必ず一度か二度位ずつ、そこの大きな壁鏡に私の顔をうつし続けて来たわけであるが、する(うち)いつか自分にも気のつかぬ間に、つやつやした若々しい青年だった私の顔が、皮膚のあれゆるんだ皺深しわぶかい老人じみたものに変り、自ら誇りとしていたほど濃く、且つ黒かった頭髪が、今はすでに見るもじゝむさい 胡魔塩ごましおに化してしまった。
「随分お白いのがふえましたね」
「うゝむ、この頃急に白くなっちゃった。まだそんな年でもないんだけれど……」
「矢張り白髪のたちなんですね、よくこういうお方がありますよ」
「何だか知らないが、実際悲観してしまうね」
 大分以前、まだそこの主人が職人達と同様にはさみを持っていた頃、ある日私の髪を刈り込んでいる時、二人はそんな会話を取りかわした。見るとしかしそういう主人自身の頭も、いつかしらその頂辺が薄く円くはげているのだった。

あれゆるむ 「あれてゆるむこと」。荒廃し、ゆるむこと。
じじむさい 若さや活気がなく、年寄りくさい。じじくさい。
胡魔塩 本来は胡魔塩とは焼き塩と炒りゴマを混ぜた調味料のこと。白と黒が混じったものの比喩として使って「胡麻塩頭」とは白髪が混ざった黒髪の頭髪
たち 質。生まれつきの体質。 「涙もろい-」

「君も随分変ったね」
 私はもう少しでそういおうとした。主人も今はもう五十に間もない年頃で、むしろ背の低い、まるまると肥えた、鷹揚おうような、見た眼にも温良そうな男であるが……変ったのはかれや私の頭髪ばかりではない、それの店の内部も外観も、ほとんど昔のおもかげを(とど)めない位に変ってしまった。何時(いつ)どこが()うなったということはいえないが、何度か普請ふしんをやり直して、外観もよくなったと同時に、内部もずっと広くなり綺麗にもなり、すべての設備も段々とよくなった。散髪料にしても、二十銭か二十五銭位であったのが、今はその三倍にも四倍にもなった。髪の刈り方ひげの立て方の流行にも、思うに幾度かの変遷を見たことであろう。わけてそこに立ち働く若い理髪師達の異動のはげしさはいわずもがな、そこの主人の細君でさえ、中頃から違った人になった。多分前の人が病気で亡くなりでもしたのであろう。又そこへ来る常客の人々の身の上にも、それこそどんなにか、色々の変化があったことだろう。単にその外貌がいぼうだけについていっても、例えば私のように、血気な青年だったものがいつかすでに半白の初老に変じたものもあろうし、中年の壮者が白髪の老者に化し、又白髪の老者がいつかその姿を見せなくなったということもあるだろう。更にまた昨日まで母親や女中に伴われて、クルクル坊主にされに来た幼児や少年が、今日はすでに立派なハイカラな若紳士姿で、そのふさふさした漆黒しっこくの髪に流行の波を打たせに来るといったようなことも多いだろう。私はそこのかぎ形になった二方の壁にはめ込まれた鏡に向い、最近急に、自分でも驚くほどに変った自分の顔貌をうつし眺めるごとに、いつでもそうした事など考えては、いろいろの感慨にふけるのが常である。

鷹揚 鷹が大空をゆうゆうと飛ぶように、ゆったりと振る舞うこと。
普請 家屋を建てたり修理したりすること
髯の立て方 「髯」は「ほおひげ」ですが、ここではあらゆるヒゲ(髭、鬚、髯)のことでしょう。
漆黒 つややかな純粋な黒色。
かぎ形 (かぎ)のように先端が直角に曲がった形

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

文学と神楽坂

サトウハチロー|木々高太郞など

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。右端は神楽坂上から左端は早稲田(神楽坂)通りと牛込中央通りの交差点までにあった店や友人の話です。推理小説の大家、木々高太郞もこのどこかに住んでいたようです。まずサトウハチローの話を聞きましょう。

(さかな)(まち)電車通りを越して、ロシア菓子ヴィクトリア(よこ)(ちょう)を入ったところに昔は大弓場だいきゅうじょうがあった。新潮社の大支配人、中根駒十郎大人(たいじん)が、よくこゝで引いていた。僕も少しその道の心得があるので弓で仲良くなって詩集でも出してもらおうかと、よく一緒に()()をしぼった。弓はうまくなったが詩集は出してもらえなかッた。ロシア菓子の前に東電(とうでん)がある。神楽(かぐら)(ざか)の東電と書いてある、お手のものゝイルミネーションが、家の前面(ぜんめん)いっぱいについている。その(うち)で電球のないところが七ヶ所ある。かぞえてみる()()もないだろうが、何となくさびしいから、おとりつけ下さいまし。郵便局を右に見てずッと行く。教会がある。その先に、ちと古めかしき(あゝものは言いようですぞ)洋館、林病院とある。院長林熊男とある。僕はこゝで林熊男氏の話をするつもりではない。その息子さん林(たかし)こと木々(きぎ)(たか)()(ろう)の話をするつもりである。この病院の表側の真ン中の部屋に、その昔の木々高太郎はいたのである。ケイオーの医科の学生だった、万巻の書を(ぞう)していた。僕たちは金が必要になると彼のところへ出かけて行ってなるべく高そうな画集を借りた。レムブラントも、ブレークも、セザンヌもゴヤも、こうして彼の本箱から消えて行った。人のよい木々博士(はかせ)は(そのころは博士じゃない、また博士になるとも思っていなかった)その画集が、どういう運命をたどるかは知っていながら、ニコニコとして渡してくれた。僕たちは(なぜ複数で言うか、いくらか傷む心持ちが楽だからである)それをかついで岩戸(いわと)(まち)竹中書店へ行った。

肴町 現在、肴町は神楽坂5丁目に変わりました。
電車通り 昔は市電(都電)が通っていました。現在の大久保通り。
岩戸町 現在も同じ岩戸町です。

ロシア菓子
ヴィクトリア
 どこにあったのか、不明です。
 岡崎弘と河合慶子が書いた『ここは牛込、神楽坂』第18号の「神楽坂昔がたり 遊び場だった『寺内』」は下図までつくってあり、明治時代の非常に良く出来たガイドなのですが、これをよく読んでもわかりません。昭和になってから「ロシア菓子ヴィクトリアの横町」は「成金横町」に変えています。成金横町の入り口は向かって左の明治時代はタビヤ(足袋屋か)、現在は和菓子の「菓匠清閑院」、右の現在はポストカードなどを売る「神楽坂志葉」です。ロシア菓子ヴィクトリアは多分この2店のどちらかでしょうか。
 また、『ここは牛込、神楽坂』第3号の西田照見氏が書いた「小日向台、神楽坂界隈の思い出」では「洋菓子は(パン屋にあるカステラ程度のもの以外では)神楽坂の『ヴィクトリア』(東西線を少し東へ下ったあたりの南側)まで行かねばなりませんでした。小日向台へ配達もしてくれました。『ヴィクトリア』の並びに、三越本店の写真部に勤めていたヴェテランがはじめた「松兼」という、気のきいた写真屋がありましたが、いずれも戦災で姿を消しました」。松兼はタビヤ(足袋屋なのでしょう)とカンコーバ(勧工場でしょう)の間の「シャシン」でしょうか。
  神楽坂6丁目
大弓場 この『ここは牛込、神楽坂』第18号で大弓場は出てきます。ただし、簡単に
岡崎氏:成金横丁の白銀町の出口に大弓場があったね。
だけです。しかしこの上図には絵がついているのでよくわかります。
東電 東京電力。どこにあるのか、消えてしまって、不明です。現在の反対側は向かって左は布団などを売る「うらしま」、右は美容室「イグレッグパリ」です。
郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば
「矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。」
となっています。郵便局の記号は丸印の中に〒です。下の地図「昭和16年の矢来町」ではさらに赤い丸で囲んであります。
昭和16年の矢来町

昭和16年の矢来町

教会 教会の場所は上の地図では青緑の四角で示しています。「牛込誓欽会」と書いているのでしょうか。
林病院

昭和12年の「火災保険特殊地図」で「林医院」がありました。林医院は矢来町124番(赤い四角でした。別の地図を書いておきます。東西に延びる「矢来の通り」と南に延びる「牛込中央通り」に接し、現在では「マクドナルド 神楽坂駅前店」などができています。

林医院

昭和5年「牛込区全図」

林医院

昭和12年「火災保険特殊地図」

木々高太郞

現在の「マクドナルド 神楽坂駅前店」。左手の先は地下鉄「神楽坂駅」

木々高太郞 推理小説家です。大正13年、慶応医学部を卒業。昭和4年、慶応医学部助教授となり、7年、条件反射で有名なパブロフのもとに留学。9年、最初の探偵小説『網膜脈視症』を「新青年」に発表。10年、日本大学専門部の生理学の教授になり、さらに、11年、最初の長編『人生の阿呆』を連載し、昭和12年2月、これで第4回直木賞を受賞。昭和21年、慶応医学部教授になります。
竹中書店 これも『ここは牛込、神楽坂』第18号に出ています。地図は一番上の図、つまり、大弓場と同じ地図に出ています。また『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。

 木々高太郞全集6「随筆・詩・戯曲ほか」(朝日新聞社)の作品解説で詩人の金子光晴氏は

僕の住んでいた赤城元町十一番地、(新宿区牛込)と林君の家とは、ほんの一またぎだった。おなじ「楽園」(同人雑誌)の仲間でしげしげとゆききをしたのは林君だったのも、その家が近いという理由が大きかった。それにしても、一日二日と顔を合せないと、落しものがあるように淋しかった。そのくせ、僕と林君とは、意見やその他のことが一つというわけではなかった。「楽園」の責任者は僕だったが、もともとは、福士幸次郎のはじめた雑誌だった。福士の友人が、義理で後援者ということになっていた。広津和郎や、宇野浩二斎藤寛加藤武雄などいろいろ居たが、いちばん近いところに増田篤夫がいた。増田と福士はもともと、三富火の鳥のグループにいた。「楽園」の若い同人たちは、福士派と増田派と、どちらにも親しい人とがいたが、林君は屈託のない人で、そのどちらにも親しい人に属していた。しかし、今度、林君の詩の韻律についての克明な仕事をみて、同人中で福士幸次郎にうちこんで、その仕事の熱心な祖述者であった人は、林君ともう一人佐藤一英君ぐらいであることを知って、いまさらのように僕はおどろいている。
赤城元町
11番地
この場所は上図(相当上の図です)の「昭和16年の矢来町」の青紫の四角で書きました。確かに「ほんの一またぎ」で来ます。
斎藤寛 さいとう ひろし(あるいは、かん、ゆたか)。雅号は斎藤青雨。詳細は不明。
加藤武雄 かとう たけお。1888年(明治21年)5月3日~1956年9月1日。小説家
増田篤夫 ますだ あつお。1891(明治24年)年4月9日~1936年2月26日。詩集を遺さなかった詩人。
佐藤一英 さとう いちえい。1899年(明治32年)10月13日~1979年(昭和54年)8月24日。詩人

文学と神楽坂