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かくてありけり②|野口冨士夫

文学と神楽坂

 野口冨士夫氏の『かくてありけり』(昭和53年)は自伝ですが、子供の時、母親と父親は別々に住んでいました。では、冨士夫氏と一緒に住んだ母親は、神楽坂のどこにいたのでしょうか。最初に『かくてありけり』です。

金鱗堂版の江戸切絵図にも行願寺と記されている行元寺は明治三十九年に西大崎へ転移したが、「寺内」という呼び方だけはのこっていて、母の家は一軒の例外もなく待合と芸者屋だけになってしまっていた「寺内」の、ほそい路地を幾まがりかしたいちばんどんづまりの位置にあった。そして、数えでもまだ二十五歳でしかなかった母は、平池という姓から一字取った池本という芸者屋の主人でありながら、自分もふみという名で(ひだり)(づま)を取っていた。

金鱗堂 きんりんどう。金鱗堂板や尾張屋板とも。金鱗堂板の江戸切絵図はもっとも有名。江戸の市街や近郊地域を地図に分割して編纂した絵地図集。尾張屋(金鱗堂)板は、嘉永2年(1849年)刊行開始、同7年(1854)26枚揃、安政12年(1856年)28枚揃、文久3年(1863年)30枚揃を完成、作者は景山致恭と戸木昌訓。武家地が白、町家が灰、神社仏閣が赤、川や堀は青、道路が黄、土手や田畑や原が緑と色分けしています。
切絵図 きりえず。地域別に区切って作った絵図、つまり区分図。
行願寺 きょうがんじ。正しくは「牛頭山千手院行元寺」。天台宗東叡山に属するお寺。明治40年(1907年)の区画整理で品川区西大崎(現・品川西五反田4-9-1)に移転。現在の大久保通りができたのも、この年。ただし、大きな移転で、引っ越しは二~三年前から行われていました。
寺内 じない。かつて行元寺があり牛込肴町と呼ばれた地域。現在の神楽坂5丁目。
待合 まちあい。貸席業。待ち合わせや会合のための場所を提供します。
左褄 ひだりづま。芸者の異名。左手で着物の褄を持って歩くことから

 では母の家は? 最初に昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」ではこうなっています。なにもわかりません。
古老の記憶
籠谷(かごたに)典子氏の『東京10000歩ウォーキング No 13. 新宿区 神楽坂・弁天町コース』(平成18年)では

大正六年より牛込区肴町53番地で、芸妓屋『池本』を営む母のもとで暮らすことになった

と書いてあります。また、東京都近代文学博物館の『野口冨士男と昭和の時代』(平成8年)でも

大正六年 牛込区肴町五十三番地に居住の生母のもとへ引き取られる

と記載しています。

 では肴町53番地はどこにあるのでしょう。昭和12年の「火災保険特殊地図」で53番地には2軒の家があるとわかります。行元寺
上の家は「山喜」で、待合なので、違います。下の家は(妓)と書いてあり、まずここでしょう。現在、この一帯はマンション「神楽坂アインスタワー」に完全に覆われてしまいました。

東京震災記|田山花袋

文学と神楽坂

 さまざまな筆者達が関東大震災にどう向き合っていたのでしょうか。当時の東京では沢山の問題が出てきて、たとえば、伊豆大島が海に沈下し見えなくなったというデマまでが出ました。
 しかし、こと神楽坂に限ると、大々問題は起こらなかったといえます。震災が激しくなる場所は下町でした。
 例えば、田山花袋氏では『東京震災記』で関東大震災を描きましたが、一般的に神楽坂の震災は極めて軽微で、花袋氏もそこには触れていません。以下は田山花袋氏の『東京震災記』で牛込の場合です。

 ぬけ弁天から若松町に出て、それから弁天町へと行った。榎町の通りもかなりに混雑していた。私は横町から横町へと入って行った。川上眉山の自殺した天神町の家のある傍を山吹町へと抜けて、それから赤城下町改代町の方へと行った。そこはひどかった。家は家と重り合って倒されていた。二階がペシヤンコに潰れているような家もあれば、一気にのめって、滅茶滅茶に倒れているような家もあった、山の手では、被害はここあたりが一番ひどくはないだろうかと思われた。
 石切橋をわたって小石川に入った。そこらはことに警戒が厳重であった。

震災

田山花袋氏の『東京震災記』(地図は大正11年)

ぬけ弁天 厳嶋(いつくしま)神社、通称抜弁天(ぬけべんてん)は新宿区余丁町にある神社。苦難を切り開くための神社から抜弁天。
若松町 わかまつちょう。当地の松が江戸城に正月用の門松として献上されたことから。
弁天町 べんてんちょう。町域のほぼ中央を外苑東通りが南北に縦貫。牛込弁財天(べんざいてん)(ちょう)などの数町から現在の1町に。
榎町 えのきちょう。早稲田通りが南部を横に。町内に大きな榎の大木があったと言われます。
天神町 てんじんちょう。町域内を東西方向に早稲田通りが通ります。寛永のころ(1628-44)キリシタン大名の孫、大友義延の屋敷、大友屋敷がありました。「天神」はキリシタンの天の神(デウス)に。
山吹町 やまぶきちょう。町域内を東西方向に早大通りが、南北方向には江戸川橋通りが。「山吹の里」はこの地だというので名前がつきました
赤城下町 あかぎしたまち。地域北部は改代町に接します。俗称は赤城明神下。
改代町 かいたいちょう。この土地を代地として与えたので、改代町という説が。江戸時代には古着屋が並び、したがて古着(だな)と言われてきました。
石切橋 いしきりばし。石切とは石工のことで、このあたりに石工職人が多数住んでいました。
小石川 こいしかわ。東京都文京区のおよそ西半分。東京都文京区の町名、または旧東京市小石川区を指す地域名

広津和郎の生家

文学と神楽坂

広津和郎 広津(ひろつ)和郎(かずお)氏は大正・昭和の作家、文芸評論家、翻訳家です。代表作は『神経病時代』『昭和初年のインテリ作家』『松川裁判』『年月のあしおと』など。広津氏は生まれた時期から少年期にいたるまで矢来町で過ごしました。でも、この矢来町は巨大な町なのです。いったいどこで過ごしたのでしょうか。

 籠谷(かごたに)典子氏の『東京10000歩ウォーキング No 13. 新宿区 神楽坂・弁天町コース』では、

和郎の生家が現在の矢来町90番地辺にあったことがわかる。和郎は頻繁に訪れた泉鏡花に抱っこされたこと、尾崎紅葉の堂々たる風格についても述べている。

と出てきます。そうなのでしょうか。

『年月のあしおと』では次の文章が出てきます。(下線は当方で書いたもの。以下同じ)

私の生れたのは牛込矢来町で、丁度今の新潮社(その頃は無論新潮社はなかった)の東側の裏通の、新潮社とウラハラになったあたりであるが、私はこの文章を書くのに、何かの緒を引き出すよすがともなればと思って、昨夜その附近を歩いて見た。
 神楽坂の方から行って、矢来通を新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れると、私の生れた家のあった横町となる。子供時分の記憶ではそれは「横町」ではなく、ちゃんとした「道」であったが、矢来通や、新潮社前の通が拡げられた今日では、昔のままのそこは「道」という感じではなく、「横町」という感じになってしまった。私はその幅を足ではかって見たが、並の歩幅で五歩余しかなかった。して見ると二間幅もないわけである。子供の時分には普通の往来のつもりでいたが、二間幅もなかったのかと今更のようにその狭さに驚かされた。
 その横町へ曲ると、少しだらだらとした登りになるが、そこを百五十メートルほど行った右側に、私の生れた家はあった。門もなく、道へ向って直ぐ格子戸の開かれているような小さな借家であった。小さな借家の割に五、六十坪の庭などついていたが、無論七十年前のそんな家が今残っている筈はなく、それがあったと思うあたりは、或屋敷のコンクリートの塀に冷たく囲繞されている。

 では確かめてみましょう。「新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れる」は①です。「少しだらだらとした登り」は確かにだらだら坂を上って②。150メートルはほぼ+の場所です。

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 新潮社の初代社長、佐藤義亮氏の『出版おもいで話』(昭和11年)では

大正二年(1913)七月に、はじめて現在の牛込区矢来町に家屋を買い求めて移った。(中略)
 牛込矢来の現在の地に移ったのである。現在の地といっても大通りでなく、細い路地をはいったところで、前の空地ヘ事務所を建てた。木造ペンキ塗りの小さなもので、二階は編集と応接の二間、下は営業部一間だけのものだった。それでも若い中村加藤氏などは「こんな立派なところで仕事をするのかな」と、ひどく喜ばれた。

 これは上図に書きました。新潮社はまだ表通りには出てきません。なお、新潮社の左には漱石邸、右には広津邸がありました。これは次の文章(同じく佐藤義亮氏の『出版おもいで話』)によっています。

新潮社新社屋

新潮社新社屋

社業次第に進展して、従来の家ではどうにも始末がつかぬようになり、いよいよ社屋新築ということに決した。
 まず近隣の地所を買うための交渉をはじめた。通りに面している家(今の新潮社の玄関のある辺り)はかつて漱石氏の岳父中根貴族院書記官長の住まいだったもので、漱石氏もしばらくいたことがある。横は広津柳浪氏が住み、中村吉蔵氏が玄関にいたという、これまた文学的由緒ある家だ。それらの五、六軒を買い受け、相当地所が広くなったので、四階の鉄筋コンクリートを建てることとなり、東洋コンクリート株式会社が工事に着手したのは大正十一年(1922)の八月。翌年の八月になって全く竣工した。

 つまり、漱石邸や広津邸などを一緒くたになって買い上げたのです。全部が矢来町71番地か73番地でした。新潮社や新潮社とウラハラになったあたりです。下図は昭和12年の「火災保険特殊地図」で、赤い範囲は新潮社とその社長、佐藤義亮氏がまとめて買った場所です。

新潮社と佐藤義亮氏がまとめて買った土地

昭和5年、牛込区全図

昭和5年、牛込区全図

 籠谷かごたに典子氏は矢来町90番地だと書いていますが、これよりもさらに南方にあります。90番地ではないでしょう。また広津和郎氏が書いた『鶴巻町』では「新潮社の裏側の細い通に行き、新潮社の囲いの中を指さして、「それはその囲いの中だ」と説明するより仕方がない。」となっています。

 以上、広津和郎の生家は、新潮社とウラハラになった東側の裏通で、曲がり角を数十メートルほど行った右側で、 新潮社の社長はこの五、六軒を一緒に買い受けた場所でした。曲がり角から150メートルほど行った場所ではないですが、他は現在の番地によくあっています。新番地になった場合、おそらく矢来町73番地でした。90番地は間違いです。

神楽坂一平荘

文学と神楽坂

 一平荘2015年1月2日から12日まで日本橋高島屋で川瀬()(すい)展が開かれました。そこで「神楽坂一平荘」の木版画も出ていました。「神楽坂一平荘」が出るのはこんな展覧会では初めてだといいます。沢山の木版画の中で小さな画なのにちょっと胸を張って出品していました。日本の作品集にも出たことはないそうです。

 大体、こんなことが書いてありました。

「昭和東都 著名料亭百景」
昭和15年8月16日、加藤を仲介として多田に会い、牛込、両国、池之端、神楽坂の料亭「一平荘」を版画として製作した。これが「版元 多田鉄之介」、制作は加藤潤二と考えられる「昭和東都著名料亭百景」である。著名料亭百景とはいえ、実際に制作されたのは巴水の記録から両国、神楽坂、池之端の3図が可能性が高い。

<神楽坂一平荘> 一般初公開!
写真図版等により作品の存在自体は知られていたが、過去展覧会等に出展した記録はなく、今回の日本橋高島屋の展覧会が一般初公開。


 こちらは有名な「芝増上寺」です。芝増上寺

 実際にあった一平荘はここです。