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夜の神楽坂|西村酔夢2

文学と神楽坂

明治35年、西村酔夢氏が『文芸界』に書いた「夜の神楽坂」その2です。

服裝(ふくさう)  と()たらあはれ(、、、)(もの)で、新柳(しんりう)二橋(にけう)藝妓(げいしや)衣裳(いしやう)三井(みつゐ)大丸(だいまる)(あつら)へるのと(ちが)ひ、これは土地(とち)石川屋(いしかはや)ほていやなどで(こしら)えるのだが、()(やす)(かは)りに、(がら)(わる)ければ品物(しなもの)(わる)くて、まあ()()いた田舎的(ゐなかてき)だ、まだまだ(はなは)だしいのは古着(ふるぎ)(もち)ふる(もの)もあるし、澤山(たくさん)抱子(かゝへつこ)()(うち)では、(あね)藝妓(げいしや)のを(なほ)して()せる(くらゐ)だ、着物(きもの)(すで)()(とほ)りであるから、頭髪(あたま)結方(いひかた)つけもの(、、、、)下駄(げた)履物(はきもの)なども(おも)ひやられる、彼等(かれら)はかやうにして、(よる)(ちまた)(おほ)きな(つら)して(ある)くのだ。
豊島理髪店から宮城屋

大正11年頃の「豊島理髪店」から「パン木村ヤ」まで。(「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年。「神楽坂界隈の変遷」新宿区教育委員会)

あわれ 同情しないではいられない。かわいそう。気の毒。不憫と思う。他の意味はありませんでした。
石川屋 「古老の記憶による関東大震災前の形」では神楽坂3丁目、豊島理髪店の並び、中西薬局と塩瀬に挟まれた場所に石川呉服店があります。現在のセブンイレブンです。
甚だしい 程度が普通の状態をはるかにこえている
抱子 「(かか)え」は年季を決めて抱えておく芸者。同じ意味でしょう。
結方 髪の結い方。ヘアスタイル。
つけもの 付け物・付物。衣服につける飾り物

客筋(きやくすぢ)  は牛込(うしごめ)勿論(もちろん)四谷(よつや)小石川(こいしかは)本鄕(ほんがう)の一部分(ぶぶん)の、官吏(くわんり)軍人(ぐんじん)御用(ごよう)商人(しやうにん)書生(しよせい)下町(したまち)商人(しやうにん)などだが、金使(かねづかひ)奇麗(きれい)なのは商人(しやうにん)()る。()()
藝妓(げいしや)氣質(かたぎ)  に(いた)つては(かね)目當(めあて)商賣(しやうばい)だけに多少(たせう)變化(へんくわ)はあるが、客筋(きやくすぢ)軍人(ぐんじん)書生(しよせい)(おほ)いので、自然(しぜん)亂暴(らんぱう)(よく()へば活發(くわつぱつ)だ)になつて、言葉(ことば)(づかひ)荒々(あらあら)しい(やう)だ、けれども流石(さすが)(きやん)面影(おもかげ)もある。(れい)俳優(はいいう)との關係(くわんけい)について一寸(ちよい)(しる)して()やうなら、歌舞伎(かぶき)(あたり)一枚看板(いちまいかんばん)(おも)ひも()らぬ(こと)上等(じやうとう)なのが東京座(とうきやうざ)三崎座(みさきざ)などを相手(あひて)にする、(また)()(もの)壯士(さうし)俳優(はいいう)()ふものもあるが、下等(かとう)なのは落語家(はなしか)なぞとちちッ繰合(くりあ)つて()(さう)だ。

若し夫れ もしそれ。改めて説き起こすときなどに、文頭に置く語。「さて」と訳すのでしょうか。
 男のようにきびきびした女。女の勇み肌。おてんば。おきゃん
一枚看板 一団の中の中心人物
東京座 神田三崎町にあった歌舞伎劇場
三崎座 神田区三崎町にあった劇場。三崎座は東京で唯一の女優が常に興行する劇場で明治24年(1891)の開設。大正4年(1915)に神田劇場と改称し、戦災により廃座となりました。

待合入(まちあひいり)  は(きは)めて(さか)んなもので、(おどろ)(ほか)はないが小夜(さよふ)けて神樂坂(かぐらざか)(ほとり)彷徨(さまよ)ひみよ、(いた)(ところ)待合(まちあひ)出入(でいり)するしや(、、)澤山(たくさん)ある、不見轉(みずてん)專門(せんもん)藝者屋(げいしやや)は十一時頃(じごろ)から(いそが)しく、箱丁(はこや)提燈影(てうちんかげ)ほの(くら)(おく)られる(もの)(おほ)く、ぐつすり(、、、、)(とま)()んで東雲(しのゝめ)ほがらほがら(、、、、、、)()ける頃家路(ころいへぢ)()くのだ。(朝早(あさはや)箱丁(はこや)着換(きがへ)着物(きもの)()れた風呂敷(ふろしき)(もつ)()くのは(めづら)しくない。)

小夜 よる。「さ」は接頭語
不見転 金次第でどんな相手とも肉体関係を結ぶこと
箱丁 芸妓のお供で、箱に入れた三味線などを持って行く男。
東雲 東の空がわずかに明るくなる頃。夜明け方。あけぼの。
ほがらほがら 朗ら朗ら。朝日がのぼろうとして明るくなるさま。

夜の神楽坂|西村酔夢1

文学と神楽坂

 明治35年、西村酔夢氏が『文芸界』に書いた「夜の神楽坂」です。そのうち花柳界を取り上げます。

夜の神樂阪

西村醉夢

田舎(ゐなか)小説家(せうせつか)(ふで)()つて、()東京(とうきやう)()りる()に、何時(いつ)(かづ)()されるのは神樂阪(かぐらざか)だ。か(ほど)有名(いうめい)神樂阪(かぐらざか)は、全體(ぜんたい)何丈(どれだけ)範圍(はいゐ)と、()()組織(そしき)と、(どん)狀況(じやうきやう)とを()つて()るだらう()。これは研究(けんきう)()價値(かち)()ると(おも)はれる。で、前後(ぜんご)三囘(さんくわい)觀察(くわんさつ)出懸(でか)けて、(から)うじて、(さぐ)()(ところ)と、平生(へいぜい)()にも()(みゝ)にも()いた(ところ)とを()ぜて、此處(ここ)に『(よる)神樂阪(かぐらざか)』を(つゞ)(こと)にしたのだ。何故(なぜ)時到(とき)(よる)にしたかと()ふに、神樂阪(かぐらざか)神樂阪(かぐらざか)たる所以(ゆゑん)は、(まつた)(よる)()つて、晝間(ひる)(たゞ)徃来(ゆきかい)(しげ)普通(ふつう)市街(まち)たるに(とゞ)まればである。
區域くゐき  はうでるか、あらかじめつて必要ひつえうがある。神樂かぐらざかふのは、勿論もちろん神樂かぐらちやうさかふのだらうけれども、れだけでは研究けんきう材料ざいれうとして、あまりに落寞らくばくたるのきらいるから、もうすこ區域くゐき擴張くわくてうして、所謂いはゆる神樂かぐらざか附近ふきんこと觀察くわんさつしたのだ。それは、牛込うしごめ御門ごもんところ自動じどう電話でんわへん起點きてんとして、ずつ、、さかのぼつた牛込うしごめ郵便いうびん電信でんしんきよくいたあひだ道路だうろ兩側りやうがはと、さらにその小路こうぢ横町よこちやう)のなか包含つゝまれたものをいつ區域くゐきとしたので、すなはち、揚場あげばちやう神樂かぐらちやう上宮比かみゝやびちやうふくろちやうさかなちやう通寺とほりてらまちへんを一まとめにして、くは『神樂かぐらざか』とつたのでる。

東京市牛込区全図。明治40年

右の赤丸は自動電話。左の赤丸は牛込郵便電信局。東京市牛込区全図。明治40年。(地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会)

落寞 一人だけで寂しい。寂れてひっそりとする。落漠。落莫。
自動電話 上の地図で右の赤丸。
牛込郵便電信局 上の地図で左の赤丸。

 必要な説明は一切ありません。明治35年だともう現代文なのです。様々な商店の説明が中に入り、いよいよ花柳界です。

神樂阪(かぐらざか)達磨(だるま)  と()へば『それしや』の(あひだ)には有名(いうめい)なもので、(しか)正眞(しやうしん)正銘(しやうめい)粹者(すゐしや)には極力(きよくりよく)排斥(はいせき)さられて()る。(さて)その()しかる振舞(ふるまひ)何處(どこ)()()工合(ぐあひ)(えん)ぜられるか、(あま)立入(たちい)つて研究(けんきう)すべきでもないから、爰處(こゝ)では(くは)しく()べないけれども、さる牛肉屋(ぎうにくや)樓上(ろうじやう)()るハイカラ(てき)業務(げふむ)(いとな)んてゐる(うち)では、(ひそ)かに(あや)しい(こと)(おこな)はれてゐるとの(こと)蕎麥屋(そばや)(いへ)ども(けつ)して油斷(ゆだん)出來(でき)ないとは、(あき)れても(あま)()(こと)だ。(もつ)とも()れは(れい)()()(べつ)にして()つたもので、()(ほう)格段(かくだん)觀察(くわんさつ)(えう)する。

達磨 売春婦。商売女。寝ては起き寝ては起きするところから。ここでは芸者ではないので、私設の商売女をさすのでしょう。
それしゃ その道に通じている人。専門家。くろうと。芸者。遊女。商売女。くろうとたる芸者なのでしょう。
粹者 花柳界の事情に通じた人。粋人。通人
楼上 高い建物の上。楼閣の上
餘り有る あまりある。十分である。十分に余裕がある。ここでは「呆れてもその通り」
しゃ それしゃのこと

 なんとなくわかります。「転び芸者」「転び」という言葉もあって、芸ではなくて、体を売ること。名句を1つ。「転びすぎましたと女 医者に言い」。場所は牛肉屋や蕎麦屋などもはいっていたのですね。

神樂(かぐら)芸者(げいしや)  は神樂(かぐら)(ざか)名産(めいさん)の一つである、が()(かず)(とき)()つて(ちが)ふけれど七十人乃至(にんないし)九十人位(にんぐらゐ)だ。
藝者(げいしや)(げい)  は(どう)だがと()ふに、(あが) (さが)(ぐらゐ)(わか)れば三味(さみ)(せん)はそれで()く、(をどり)(あめ)しよほかつぽれ(、、、、)(ぐらゐ)やれゝば、座敷(ざしき)()(すま)して()るとが出來(でき)るのだ、()新柳(しんりう)二橋(にけう)などに(およ)びもないのは、土地柄(とちがら)何樣(どう)詮方(しかた)()(こと)だらう。

二上り 三味線の調弦名。一の糸と二の糸が完全5度,二と三の糸が完全4度の調弦
三下り 三味線の調弦名。本調子の第3弦を長2度下げたもの
雨しょほ 小雨が降り続くようす。しとしと。まばらに降る。
かっぽれ 俗謡、俗曲にあわせておどる滑稽な踊り
新柳二橋 しんりゅうにきょう。新橋(しんばし)(中央区銀座、明治維新後)と柳橋(やなぎばし)(台東区南東部、江戸末期から存在)、この2つが人気の花街となりました。新橋が明治政府の高官たちに、柳橋は生粋の江戸っ子、問屋街の大旦那たちに贔屓にされました。

 三味線や踊りができなくても神楽坂は一流どころじゃない。仕方はないねと考えているようです。

文学と神楽坂

神楽坂|大東京案内(7/7)

文学と神楽坂

一時左傾ものゝ出版で名を現はし、今は破産した南宋書院肴町通りにある。そこが最高点当選で市議堺利彦を出した選挙事務所だったかと思へば、いづれこれもこの界隈の語り草にならう。又、故有島武郎の親友足助素一叢文閣、今日ではたった一軒の古本屋竹中書店なども数へたい。文壇の中堅どころの諸作家で、これらの書店に厄介になったものが多い。新本屋の武田芳進堂盛文堂機山閣南北社等々、一口に享楽の神楽坂とはいひながら、僅か数丁の間に知識のカテをひさぐこれらの店々の繁昌は、他面にこの界隈に住む知識人の多いことをも示してゐる。
神楽坂風景は牛込見附の青松と石崖、蒼黒く沈黙した濠の水によって、一層その情緒を豊富にしてゐる。夏の間は濠に貸ボートがうかぶ。学生や商人。勤め人、モボモガの一組みなどが、夕闇の奥に仄見える。静かな灯のうつる水の公園は神楽坂を下りた人々の目にいかに爽かであらう。

貸ボート

左傾 思想が左翼的な立場に傾くこと
南宋書院 ゴールドフォンテン南宋書院の奥付を材料として国立図書館でインターネットを使って調べると、昭和2年で南宋書院の『恋愛揚棄』では麹町九段中山ビル、昭和3年の『無産者自由大学-日本農民運動小史』では肴町12(神楽坂通)、昭和4年の林芙美子氏(ちなみに林氏の住所は通寺町3)の『蒼馬を見たり』では、通寺町39となっていました。肴町12は現在、貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です。

本屋3

肴町 神楽坂肴町は神楽坂5丁目に変わりました。
足助素一 あすけそいち。明治から昭和期までの出版者。大正7年叢文閣を創立。「有島武郎著作集第6輯 生れ出る悩み」を処女出版、著作集をはじめ「水野仙子集」などを刊行。昭和に入ってからは左翼系の出版に。没後、叢文閣から「足助素一集」を刊行。
叢文閣 神楽坂2-11。有島武郎や水野仙子を除き、左翼系の出版として非常にたくさんの本を出版しています。『マルクス主義者の見たトルストイ』『経済評論』『貨幣と金融』『画家とその弟子』『国民主義経済学の基礎理論』『米国農業政策』『幸福者』『プーシュキン小説集』『時は来らん』などなど。場所は神楽坂通りに面するのではなく、一歩中に入ったところでしょうか。
竹中書店 シティ岩戸町3。古本を売る店ですが、それでも『醫藥獨文』『獨逸語讀本拾遺』『醫藥獨語教程』『音楽年鑑 : 楽壇名士録』などを作っていました。現在は東京シティ信用金庫。
武田芳進堂 新泉肴町32。出版は少なく『最新東京学校案内』など。戦前の武田芳進堂は現在の神戸牛と和食の店「新泉」になっています。
盛文堂 元祖寿司神楽坂3-6。昭和初期、盛文堂は現在の「元祖寿司」がある場所に建っていました。ここ
機山閣 金プラチナ買い取り肴町12。出版は少なく『火山 : 詩集』『追憶』『書道講話』『石炭と花 : 詩集』『忠臣と孝子』。現在は貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です。
南北社 センチュリー『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「大正期の牛込在住文筆家小伝」では筑土八幡町9番地に南北社、通寺町14に南北社書店。その後、通寺町14を南北社にしています。かなり本を出版したようです。『南洋を目的に』『悪太郎は如何にして矯正すべきか』『恋を賭くる女』など。現在、通寺町14は神楽坂6-14の「センチュリーベストハウジング」に。
享楽 キョウラク。思いのままに快楽を味わうこと
カテ 糧。食糧。食物。精神・生活の活力の源泉。豊かにし、また力づけるもの
モボモガ 「モダン・ボーイ」「モダン・ガール」。大正デモクラシー時代に流行った先端的な若い男女。

神楽坂|大東京案内(6/7)

文学と神楽坂

 ここでは主に横寺町を書いています。

書き落してならないのは、神楽坂本通り(プロパア)からすこし離れこそすれ、こゝも昔ながらの山手風のさみしい横町の横寺町第一銀行について曲るとやがて東京でも安値で品質のよろしい公衆食堂。それから縄暖簾(なはのれん)で隠れもない飯塚、その他にもう一軒。プロレタリアの華客(とくゐ)が、夜昼ともにこの横町へ足を入れるのだ。独身の下級(かきふ)俸給(ほうきふ)生活者(せいくわつしや)、労働者、貧しい学生の連中にとって、十銭の朝食、十五銭の昼夕食は忘れ得ないもの。この横町には松井須磨子で有名な芸術座の跡、その芸術クラブの建物は大正博覧会演芸館を移したもので、沢正なども須磨子と「(やみ)(ちから)」を演じて識者(しきしや)(うな)らせたことも一昔半。その小屋で島村抱月が死するとすぐ須磨子が縊死(いし)したことも一場の夢。今はいかゞはしい(やみ)の女などが室借りをするといふアパートになつた。変れば変る世の中。この通りの先きに明治文壇(めいぢぶんだん)を切つて廻した尾崎紅葉の住んだ家が残ってゐる。

横寺町 神楽坂5丁目から6丁目にはいると、南西に出ていく通りはいくつかあります。最初の小さな通りは川喜田屋横丁で、それから無名の通りが何本かあり、スーパーのキムラヤの前を左側にはいっていく通りが朝日坂(旭坂)です。この両側が横寺町(よこてらまち)です。
第一銀行 前身の第一国立銀行は、1873年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行。1896年に普通銀行の第一銀行に改組。1943年に三井銀行と合併して帝国銀行(通称・帝銀)に。
公衆食堂 1919年(大正9年)に東京市営の庶民の公営食堂として神楽坂に開設。大正12年3月には神田食堂、9月1日に関東大震災。これでますます必要性が強まり、大正13年九段食堂。昭和7年(1932年)の深川食堂まで、16か所ができました。
縄暖簾 なわのれん。縄を幾筋も結び垂らして作ったのれん。転じて居酒屋、一膳飯屋
飯塚 横寺町7。飯塚酒場はなくなって、代わりに現在は、家1軒と駐車場4台用になっています。飯塚酒場があったころは有名な居酒屋で、特に自家製のどぶろく「官許にごり」が有名でした。文士もこれを目当てに並んでいました。
一軒 火災保険特殊地図の昭和12年版では「床屋、タバコ、米ヤ、喫茶、ソバヤ」などがありましたが、居酒屋はありません。昭和10年の様子を書いた新宿区横寺町交友会、今昔史編集委員会の『よこてらまち』(2000年)では神楽坂通りから入ると左は「1.米屋、2.パーマネント、3.公証人役場、4.目覚し新聞、5.マッサージ業、6.靴修理店、7.歯医者、8.若松屋、9.大工職、10.洋服店、11.おでん屋、12.仕立屋、13.屋根屋、14.紙箱製造業、15.駄菓子店、16.大工職、17.米屋、18.下駄屋、19.駄菓子店、20.棒屋と芋の壺釣焼、21.ミルクホール、22.そば屋、23.髪結、24.お花の先生」。右は「68.救世軍、69.床屋、70.中華料理店、71.髪結師、72.パン屋、73.歯科医院、74、製本業、75.医院、76.質店、77.酒屋(にごり酒、ここが飯塚酒場です)、78.質店」となり、やはり、居酒屋はありません。しかし、ここで8.若松屋って。若松屋が酒店の可能性が大いにあります。
若松屋
十銭の朝食 東京都民生局の『外食券食堂事業の調査』(1949年)では、定食は朝10銭、昼15銭、タ15銭。うどんは種物15銭、普通10銭。牛乳一合7銭。ジャムバター付半斤8銭。コーヒー5銭
芸術座 島村抱月が1913年に松井須磨子を中心俳優として結成した劇団
芸術クラブ 島村抱月の新劇運動の中心となった劇場兼研究所
大正博覧会 大正3(1914)年3月20日~7月31日、上野公園で東京大正博覧会が開催。目玉としてロープウェーとエスカレータ。
演芸館 松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(筑摩書房、1966年)では

演芸館

第一会場 演芸館 東京都立図書館

すでにたびたび述べたように大正三年七月十八日より二十四日まで、大正博覧会の演芸館に『復活』を一日二回、五十銭の奉仕料金で出演して大好評をうけた関係で、博覧会終了後の解体に際し、安い値段で木材の払下げを受けて改築したものであった。設計図が出来上がったのは『クレオパトラ』『剃刀』の帝劇公演が終わった同年十月末のことであった。はじめ神楽坂肴町停留場付近の土堤の上の展望のきく高台に柱を組み立てたが、四年二月四日の暴風雨のために倒壊してしまったので、工事中止のやむなきにいたり、さらに牛込横寺町九番地に敷地を改めて、七ヵ月目に完成したのであった。「幾多の困難を排して予定を実現するに到ったのは当事者一同密かに誇りとするところである」と控え目に喜びを語っているだけである(払下げの入札価格と建築費その他でだいたい七千円と推定される)。

闇の力 ロシアの作家L.トルストイの戯曲。愚かさにより父殺しと嬰児殺しへと転落する人間を描いた戯曲。須磨子はアニーシャ役で、裕福な百姓の妻です。
識者 しきしゃ 物事の正しい判断力を持っている人。見識のある人。有識者
一昔半 一昔は10年前。一昔半は15年の昔
縊死 いし。首をくくって死ぬこと。首つり死。縊首(いしゅ)
いかがわしい 下品でよくない。風紀上よくない
暗の女 娼妓の仕事をする女性。私娼

神楽坂|大東京案内(5/7)

前は大東京案内(4/7)です。

あまり広くないこの界限(かいわい)で、娯楽(ごらく)機関(きくわん)は五つ六つある。昔、神市場といった現在の神樂坂演藝館牛込亭などは色もの席。手踊り浪花節席の柳水亭(りゆうすゐてい)は今の勝岡(かつをか)牛込(うしごめ)會館(くわいくわん)は最も立派な建物だが、震災直後には水谷八重子汐見洋などが新劇(しんげき)を演じた思ひ出を持ってゐる。
 映畫常設館の文明館(ぶんめいくわん)は三流どころの活動小屋らしい。そこへ行くと、(きう)藁店(わらだな)牛込館(うしごめくわん)は、所謂(いわゆる)山の手系統の流れを汲む説明者と、呼びもののレヴユーを以つて、一脉(みやく)新鮮(しんせん)な現代風を(かも)し出すところ。その客筋も新しい。

神楽坂演芸館 坂下から神楽坂3丁目のお香と和雑貨の店「椿屋」の直前を左に曲がると、左手に広々とした駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。さらに解説
牛込会館 神楽坂の2丁目から3丁目に入ってすぐ右側で、現在は「サークルK」です。水谷八重子氏の『芸 ゆめ いのち』(1956年)では

(関東大震災が終わると、一か月後の)十月十七日から一週間の公演の日取りをきめました。牛込会館は寄席をひとまわり大きくした程度の小屋で、舞台は間口が三間半、奥行も二間くらいのものでしたが、何しろ震災後、はじめての芝居でしたので、千葉や横浜あたりからもかけつけられたお客さんがあって、大へんな盛況でした。
 出し物は『大尉の娘』、『吃又の死』のほかに、瀬戸英一さんの『夕顔の巻』がでました」

色もの 寄席で、講談・義太夫・落語に対して、彩りとして演じられる漫才・曲芸・奇術・声色・音曲などのこと。
手踊り 寄席などで、端唄や俗曲・流行歌につれておどる踊り
浪花節 江戸末期、大坂で成立。三味線の伴奏で独演し、題材は軍談・講釈・物語など、義理人情をテーマとしたもの。浪曲。
新劇 歌舞伎・新派劇などの旧劇に対抗して明治末期以降の新興演劇
文明館 文明館の地図は上の鶴扇亭と同じ地図に出ています。詳しくはここで
藁店 藁店(わらだな)は神楽坂5丁目と袋町とを結ぶ坂道です。
『ここは牛込、神楽坂』の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会を引用すると

小林さん (小林石工店)で、当時うちの前で、車を引く馬や牛にやる藁を一桶いくらかで売っていたので、あの坂を藁店と呼ぷようになったと聞いています。

文政十年(1827)の『牛込町方書上』によれば

里俗藁店と申候、前々ゟ藁売買人居候故、藁店与唱申候

と出てきます。明治維新より40年の昔から「藁店」という言い方は使っていました。なお、ゟは平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)で、発音は「より」です。
夏目漱石氏の『吾輩は猫である』で

この子供の言葉ちがいをやる事は(おびただ)しいもので、(中略)或る時などは「わたしゃ藁店(わらだな)の子じゃないわ」と云うから、よくよく聞き(ただ)して見ると裏店(うらだな)と藁店を混同していたりする。

裏店とは裏通りにある家で、商家の裏側や路地などにある粗末な家をいいました。
レビュー revue。フランス語です。音楽やコント踊り等で構成。時事風刺の効いた舞台娯楽ショー。19世紀末から20世紀にかけて各国で流行。
レビュー
一脉 一脈。ひとつづき。一連のつながりがあること。わずかに
客筋 きゃくすじ。その店に来る客の傾向・種類。客種

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。

映画館と寄席

牛込会館 牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 柳水亭 牛込亭 文明館

文学と神楽坂