月別アーカイブ: 2016年3月

カツソバ|たべもの芳名録

たべもの芳名録

文学と神楽坂

 同じく神吉拓郎がもうひとつ『たべもの芳名録』(1984年、新潮社)でカツソバについて書いています。

 種もののなかの異色で、これは喰える、というのを、一つだけ紹介したくなった。

 カツソバ、というやつである。

 そういうと、ソバ好きは、みんな恐しそうな顔をするけれど、これは食べてみなくちゃわからない。

 カツソバの通にいわせると、それも、“冷やし”に限る、という。

 何度か食べてみると、なるほど、その通り。

 要は、やや冷たいかけソバの上に、庖丁を入れた薄いカツが乗っているだけの話なんだが、カツとツバとツユの間に、実に微妙な調和かあって、これがバカにならない。

 だいたい、その蕎麦屋は、ソバもツユも、ちゃんとしてるから、そんな冒険も出来るんだろうと思う。

 そのカツの方も、その店の売りもので、カツ丼や、カツ丼のわかれをせっせと食べている客も多い。

 お察しのように、ごく気安い蕎麦屋で、値段も安い。

 飯田橋から神楽坂へかかって、すぐの左側、翁庵。くれぐれも申し上げますが、カツソバは、“冷やし”に限ります。

 なお、カツ丼のわかれは丼飯にカツを乗せないで、鍋のまま提供するもの。丼飯とカツが別れているので「別れ」。同じ料理をカツ鍋、カツとじ、カツ煮、カツ皿などとも言われているそうです。

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東京気侭地図1|神吉拓郎

文学と神楽坂

神吉拓郎昭和56年(1981年)、35年もの昔、神吉(かんき)拓郎(たくろう)氏が書いた『東京気侭地図』の一節です。神吉氏は小説家、俳人、随筆家で、昭和24年NHKにはいり、ラジオ番組「日曜娯楽版」などの放送台本を手がけ、昭和59年、都会生活の哀歓を軽妙な文体で描いた「私生活」で直木賞。生年は 1928年(昭和3年)9月11日、没年は1994年(平成6年)6月28日で、53歳でした。

 神楽坂の灯
 喫茶店の名前にもいろいろあるけれど、「軽い心」というのをご存じだろうか。
 中央線の電車が、飯田橋の駅にかかるとき、神楽坂の見当を一瞥すると、丁度そのあたりに「軽い心」と大きな看板が上っている。
 夜はネオンが灯って、その文字がいっそう目立つ。そばに、喫茶と書き添えてあるけれども、その方は、あまり目に入らない。「軽い心」の方に目を奪われてしまうからである。
 どういう人が名付けたのか知らないが、面白い命名をしたものだと思った。なんとなく気になる名前である。
青い背広で心も軽く……

の、あの時代を思わせる。もしかしたら、あの時代を懐しむ気持が、その名を付けさせたのかもしれない。
「ぼくはキャバレーかと思ってました」
 やはり、あの名前を気にしていた人も他にいて、その一人のO君は、てっきり、ムンムンムレムレのキャバレーに違いないと決めこんでいたのだそうだ。
「いつか入ってやろうと思ってたんですがね。そうか……、喫茶店かあ」
 O君は残念そうであった。あとで人に教えて貰ったところによると、O君の勘はみごとに当っていて、十年前まではキャバレーだったそうである。命名者は、同じ飯田橋の映画館「佳作座」の持主でもある。これもいい名前だ。
 その「軽い心」と並んで目立つのは、「東京ワンタン本舗」のこれまた大きな看板である。中央線の車中から眺めている限りでは、神楽坂は「軽い心」と「東京ワンタン」に占領されているようでなんだか可笑しい。
軽い心

場所はここです。「神楽坂まちの手帖」の第1号で講談社の小田島雅和氏は

club軽い心九時頃に句会が終わると、まだまだ話し足りなくて、坂下近くにあった「軽い心」という喫茶店に流れることが多かった。この店はかつてキャバレーだったそうで、格別珈琲がおいしいわけでもなかったが、キャバレーの造りそのままで、ボックスごとの仕切りがやたらに高く、隣のボックスが見えないようになっている。喫茶店としては何とも妙で、それが気に入って、私は個人的にもよく利用した。

「神楽坂まちの手帖」第4号の「神楽坂まちかど画廊」で

最近でこそ奇想天外な店名に驚かなくなったが、「軽い心」の看板は当時はずいぶんと人目を引いた。ではいったいなんの店か。知っている人は、神楽坂の古いなじみである。クラブとあるが、平たくいって、いまはほとんど死語となったキャバレーである。昭和30年代前半のある日の風景である。

昭和42年の「新修新宿区史」でも、「CLUB 軽い心」でした。
L銅版画は別に書きました。 「神楽坂まちの手帖」第5号の「読者のページ」で高瀬進氏は

「軽い心」、キャバレー時代、1度覗いたことがあります。爆笑王林家三平さんが、本当に面白く、腹を抱えて笑ったものです。「軽い心」はその後、喫茶店になり、よく昼寝したのを覚えています。場内が広く、そして暗かったので妙に落ち着けました。

インターネットで熊谷興業の歴史を読むと、1969年(昭和44年)、純喫茶「軽い心」を開店と書いてあります。 直前は神楽坂下の「マクドナルド」でしたが、現在、この店は閉鎖し、マツモトキヨシになる予定です。

青い背広で

「青い背広で」は昭和12年(1937)の歌で、歌手・藤山一郎が軽快なリズムで歌い上げます。藤山氏がダークグリーン、つまり緑の背広を着ているのを見た作詞家の佐藤氏が、即興でこの詩を書き上げたといわれています。神吉氏が9歳になった時に流行りました。

  青い背広で  心も軽く
  街へあの()と  行こうじゃないか
  紅い椿で  ひとみも濡れる
  若い僕らの  生命の春よ
作詞:佐藤惣之助  作曲:古賀政男
佳作座 外堀通りに面しています。ここも熊谷興業が経営していました。開館は1957年(昭和32年)10月、閉館は1988年(昭和63年)4月です。場所はここです。飯田橋佳作座 http://photozou.jp/photo/show/1962745/195020592 佳作座(白黒)また「まちの思い出をたどって」第2集では白黒写真がでています。現在はパチンコ店の「オアシス飯田橋店」です。オアシス
ワンタン本舗 場所はわかりませんでした。
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東京気侭地図2|神吉拓郎

文学と神楽坂

その頃の神楽坂は、石畳だったように憶えている。四角なサイコロ型の石を、扇面の形に敷きつめてあったように思う。それ以前の神楽坂は、木レンガ敷きだったように聞いている。そして、震災以前は、砂利道で、勾配も、もっと急であったらしい。

 神楽坂は、あれでいて徴妙な上り下りがある。上って行くと、坂は一度頂点に達する。

 その先の毘沙門さまの善国寺や、レストラン田原屋のあたりは一旦平らになって、それから今の大久保通りに向ってやや下りになる。

 神楽坂と呼ばれるのは、本来はその大久保通りまでらしいが、坂はそれを横切ってからまた上りになって、その先で一番高くなるようである。

現在の考えでは神楽坂通りの路面は、

震災以前 砂利道
震災直後から昭和初年 木レンガから御影石のブロック、さらに石畳に。
昭和10年代 坂上の石畳はアスファルトに、しかし、坂下の石畳は同じまま
戦後 坂上も坂下もアスファルトに

また、標高差については『ここは牛込、神楽坂』第14号に載っています。3丁目は18mで一旦高くなり、それから下り、大久保通りは14m、その後、再び高くなって25.5mになります。

L

『ここは牛込、神楽坂』第14号

 表通りの店には、なんとなくあっちこっちと入ったことがある。
 坂の上り口から、ほんの二三軒先の左側に「おきな庵」という蕎麦屋があるが、この店は好きだ。学生にとりわけ人気のある店で、見かけも値段も、まったく並の蕎麦屋だが、今どきには珍しいほど、ちゃんとしたものを出す店だと思う。
 法政大学を出た男に教えられて入って以来、たびたびこのノレンをくぐるようになった。
 お目当ては、カツそば、という珍味なのである。
 カツそば、などというと、眉をひそめられそうだが、どうして、どうして、これが悪くない。かけそばの上に、庖丁を入れた薄いトンカツが一枚のっている。普通の感覚でいうと、どうもギラギラとして、シツコくて、とても喰えないと思うだろうが、これが淡々として軽い味わいなのである。
 食べてみて、あまりにも意外だったので、教えてくれた男に早速報告すると、その男は、しまった、と額を叩いた。
「忘れてました。温かいのを食べちゃったんでしょう」
「そうだ」
「いうのを忘れたけれど、冷たいのを喰わなくちゃ話になりません。カツそばは、冷しに限るんです」
 ますます奇妙である。冷したカツそばなんて喰えるのかしらんと思ったけれど、次に行ったとき、その、冷し、というのを註文した。食べてみて、へえ、と感心した。
 温かいのもウマかったけれど、冷し、は一段とウマい。世のなかには不思議な取合せがあるものだと、目をぱちくりして帰ってきた。
 ここのカツそばの味は保証してもいいけれど、喰いものの評価は、まったく独断と偏見によるものなので、口に合わないということだってあり得る。でも、大人が食べてみて、損をしたような気にならないことは承け合える。
 甘いものの「紀の善」、饅の「志満金」、珈琲の「巴有吾有(パウワウ)」、中華の「五十番」、レストランの「田原屋」、佃煮の「有明屋」、お茶の大佐和改め「楽山」などなど、神楽坂には、特色を持ったしっかりした店が多い。それを順々に楽しむのも悪くないが、なんといっても、神楽坂の一番の楽しみは。表通りから横に逸脱したところにある。
おきな庵

翁庵。蕎麦屋です。中屋金一郎が書いた『東京のたべものうまいもの』(1958年)では

ひるどきと夕方は、法政と理科大学の学生で一ぱいになる
翁庵

以下、同じ中屋金一郎編著の『東京のたべものうまいもの』の引用です。

カツそば

かつそば。温かいかつそばと冷たいかつそばがあり、どちらも880円です。確かに「冷しかつそば」の方があっさりしていいと思いますが、それほど違いはあると思えません。

温冷かつそば

かつそばの2種。左は温かいかつそば。右は冷やしかつそば

紀の善

甘味の店。中屋金一郎が書いた『東京のたべものうまいもの』(1958年)では

 もとすしやで有名だった――
「紀ノ善」がしるこ屋になって繁昌。初代紀の国屋善兵衛。幕末創業で大名屋敷へ出入りしていたといわれる。現在は、女のお客さんでにぎやか。浅草駒形町の名物八百やせんべいも売っている

紀の善

志満金

中屋金一郎が書いた『東京のたべものうまいもの』(1958年)では

 吉益のまえ側にうなぎの老舗――
「島金」がある。店を区切って隣りは同じ経営で中華料理をやっている。うなぎの方は二階に座敷があり、出版関係や大学関係の人々のよりあいが多いといわれる。丼は百五十円からだが、値段からいってうまい。外に、錦丼というのがある。細かく切った蒲焼と糸切りの卵焼と焼のりをまぜたもの。安直な食事で評判がよい。一人前八十円。

志満金

巴有吾有

喫茶店です。木造の山小屋風で、2階はギャラリー、しかし、2006年にはなくなり、代わって理科大の巨大な「ポルタ神楽坂」の一部になりました。

Porta

ポルタ神楽坂

五十番

中屋金一郎が書いた『東京のたべものうまいもの』(1958年)では

中華料理店。神楽坂を上りきった右かど。新店だが明るいきれいなかんじではやっている

2016年3月に場所が変わりました。本多横丁に向かって右側だったのが、左側になっていました。
五十番

田原屋

一階は果実の店、二階は洋食の店でした。中屋金一郎が書いた『東京のたべものうまいもの』(1958年)では

昆沙門天さきのもとの場所は果実専門の店。

現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」です。

有明屋

佃煮の店。神楽坂6丁目の「よしや」の左隣でしたが、現在は「センチュリー21ベストハウジング」に変わっています。中屋金一郎が書いた『東京のたべものうまいもの』(1958年)では

 まっすぐあるいて六丁目、映画の武蔵野舘のさきに、佃煮の…
「有明家」がある。昭和四年開店。四谷一丁目が本店で、ここの鉄火みそ、こんぶ、うなぎの佃煮をたべてみたが、やっぱりAクラスで、うす塩味の鮒佐とはまたちがったおもむきがある。店がよく掃き清められ、整頓しているかんじ。食べもの屋として当然のことながら、好感が持てる。ここの佃煮をいくら買ってもいいわけだけれど、まあ、鉄火みそ、こんぶだったらそれぞれ五十円以上、うなぎは二百円ぐらいから、買うのが妥当のようである。
大佐和 昭和34年、牛込中央通りに茶海苔コーヒーの「斉藤園」を開店。昭和43年、神楽坂4丁目に移転し、「大佐秋商店」として営業を開始しました。
楽山 昭和52年に神楽坂銘茶の「楽山」に変えます。楽山

文学と神楽坂

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東京気侭地図3|神吉拓郎

文学と神楽坂

 表通りと、一本東側にある軽子坂、この間に挾まれた、大久保通り寄りの一画、このあたりは、神楽坂の空気に、独特のうるおいと彩りを添える花街である。坂を上って行って毘沙門さまのちょっと手前の向い側、そこを右へ曲ると、昔からの本多横丁といわれる小路だが、そのあたりの北側、筑土八幡へ抜ける道から、大久保通りにかけては、入り組んだ石段と小路の続く、迷路のような地帯だ。

 道幅は、どれも狭い。来合せる人があれば、肩を斜めに、すれ違うのに気を遣うほどの細道だ。表通りの神楽坂は、今はもうコンクリートの舗装になってしまったけれど、このあたりの小路には、昔ながらの石畳、扇面状に小さな角石を敷きつめたそれが、まだ残っている。

 気の向くままに右に折れる。と、そこに数段の石段かある。それを下りると、先は行きどまりである。

 行きどまりと見えて、小路は左へ折れる。塀と塀の(あわい)の、まっすぐ向いては歩けないような細い道に、軒灯と、格子戸がある。

 小路は、ひんやりとしている。どこからか風が通ってくる。

 また石段。まんなかが磨りへっていて、靴が滑りそうになる。

 角を曲ると、華やかな色彩が目に入る。若い母親が、子供を遊ばせている。気がついてこっちを見る視線は、軽くいぶかしげだ。

 ぼくは、内心、知らぬ家の庭先に踏みこんでしまったかと、恐縮したいような気持になる。

 石段を上り下りし、右左と曲っているうちに、高低の感覚も、方角の感覚も、次第にあやふやになってくるのが心細く、また面白い。

 この一画の小路には、行きどまりは、あまりない。殆ど、「抜けられる」道だ。

 ひときわ狭く、趣きの深い小路を歩いていると、つい鼻の先の軒灯に、ぽっかりと灯がともった。暗い軒灯だけれど、墨で書かれた家号の字は、くっきりと読みとれた。

 その軒灯の上には、まだかすかに陽の色が残っている空があった。

 ぽくは、まるっきりの下戸だけれど、呑んべえが、酒をのみたいと思うのは、こういうときだろうな、と思う。

神楽坂の通り

表通り 神楽坂通りのこと
軽子坂 軽子とは軽籠持の略称で、船着き場などで荷物運搬を業とする人。軽子がこの辺りに多く住んでいたため、名前が付きました。
大久保通り 新宿区飯田橋交差点から、新宿区神楽坂上交差点を通り、杉並区大久保通り入り口交差点まで。
一画 写真で暗く塗った色の場所。
花街 はなまち。花町とも。かがい。芸者屋・遊女屋などの集まっている町。色里。色町。
本多横丁 神楽坂通りの最大の横丁
筑土八幡 筑土八幡神社のこと。赤丸で書いてあります
地帯 ここをどう呼ぶのがいいのか、2005年になっても正式名称がありませんでした。水野正雄氏が『神楽坂界隈』「中世の神楽坂とその周辺」で「平成7年、神楽坂街づくりの会のフォーラムの際、ここの横丁名を「兵庫横丁」を名付けるよう私から提案をしておいた」と、書いています。その名の通り、現在、これは兵庫横丁と呼んでいます。
行きどまり 兵庫横丁の一見行きどまりに見える路地。さらに先を左側に行くと抜けられる道があります。兵庫横丁の行き止まり
軒灯 けんとう。軒先につけるあかり
格子戸 こうしど。格子を組んで作った戸

神楽坂・新宿|大宅壮一

文学と神楽坂

ちなみに大宅壮一氏が書いた昭和26年4月の「サンデー毎日」の『歓楽街五十年史』のうち「神楽坂・新宿」でも全く同じ光景が出てきます。昭和の時代、20年経っても、神楽坂は「盛り場の仲間入りもできないほどのさびれ方」になっていました。

 山の手方面の代表的歓楽街というよりも、二流の芸者町として知られていた神楽坂が、銀座の繁栄を奪ったかのような様相を呈したのは、大震災で焼け残ったおかげである。

 それだけではなく、ここには電車が通っていないし、道路もたいして重要ではないので、燈ともしごろ車馬一切が通行止めとなり、そのために、極めて安全で快適なプロムナードとして喜ばれた。夜はおびただしい人出で、銀座から移ってきたカフェープランタンへ毎晩のように通ってくる文人たちの間に混じって、お座敷着姿の芸者がつまをとって歩く光景は、当時の神楽坂でないと見られないものだった。

 牛込演芸館文明館牛込亭柳水亭などのほかに、牛込会館があって、ここではまだういういしかったころの水谷八重子の踊りや、いまはソ連で対日放送をやっているとかいう岡田嘉子の舞台姿も、よく見られたものだ。横町には松井須磨子が首をくくった芸術座の跡があり、それが後にアパートになって、一時、私もそこに住んだことがある。

 一流の洋食を食わせた田原屋オザワ、菓子の紅屋、縄のれんの飯塚などなど、名前をいえば思い出す人も多いと思うが、それらも、戦前すでに統制で影が薄くなり、姿を消したものが多い。特に戦後の神楽坂は、歓楽街どころか、盛り場の仲間入りもできないほどのさびれ方である。

燈ともしごろ。日が暮れて、明かりを点し始めるころ
プロムナード。散歩道。遊歩道。
カフェープランタン。岩戸町二十四番地(現在は岩戸町一番地)にありました。

つまをとる 褄を取る。芸者が裾の長い着物の褄を手で持ち上げて歩く。褄をとる

神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。映画館と寄席

牛込会館 牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 柳水亭 牛込亭 文明館

わが自然と人生|中村武羅夫

文学と神楽坂

中村武羅夫 昭和10年、中村武羅夫(むらお)氏の随筆『わが自然と人生』が出版されました。過去10年ほどの文章をまとめたものです。氏の生年は1886年(明治19年)10月4日。没年は1949年(昭和24年)5月13日で、この出版は49歳のことです。
『文章世界』の投稿から文学活動を始め、小栗風葉に師事。『新潮』の編集に参加。1925年には『不同調』を創刊。大正末の私小説論争、29年の『誰だ? 花園を荒す者は!』でマルクス主義文学批判など新興芸術派運動の中心的人物でした。

   神樂坂

 都會の散歩街としては、銀座などよりも、私に取つて、遙かに牛込の神樂坂の方が、親しみがある。
 神樂坂は、私に取つて長い間の馴染みのある町だ。私が東京へ出て來たのは、今から殆んど二十年近くも以前のことである。私は、最初、その頃麹町の三番町に住んで居た伯母の家に一先づ落着いた。私の上京したのは、故郷の北海道の山野も、畑も、村も、町も、まだ、深々と雪に埋まつて居る三月のことだつた……
 私が、初めて神樂坂を知つたのは、その年の六月、ちやうど梅雨晴れの苛ら苛らしたやうな日の光りが、かつ(、、)と眩しく照りつけた眞晝時のことだつた。私は、大町桂月の紹介狀を持つて、その頃矢來の奥の方に居た小栗風葉を訪ねて行つたのであつたが、その時通つた神樂坂の印象を忘れるととが出来ない。
 江戸名所圖繪を見ると、江戸時代の神樂坂には、一段々々の段々が附いて居る。今から約二十年ぱかり前は、まさか段々こそ附いては居なかつたけれども、勿論、今のやうな完全なアスハルトの道ではなかつたし、道幅なども、もう少し狹かつたやうに覺えて居る。
 狹い往來には、兩側の店のが、蔽ひかぶさるやうに突き出て居る。濡れた地べたからは苛ら苛ら暑い日光に照らされるので、むつ(、、)と暑苦しい水蒸氣が立ち昇り、狹い往來を、大勢の人々が右往左往して居る……そこへ一疋の痩犬が、ひよろひよろしながらやつて來た。私は、その時の神樂坂の息苦しいやうに狹い、しかも雜沓した光景に、よぼよぼの惨めな痩犬を點出して「痩犬」といふ文章を書いた。田山花袋氏は、その文章を讀んで、「作者のデカダン的苦悶の影が、よく出てゐる。」と批評してくれた。私が、デカダンといふ言葉を初めて知つたのは、その時だつた。
 その時分から見ると、神樂坂の面目も、なかなか變つて來た。今から約二十年以前の神樂坂は、もつと日本的な、古風な感じがあつたやうに思ふ。十四五年來、いろんな生活樣式の上に、俗悪なアメリカ文化が、非常な勢ひで取り入れられるやうになつてから、まだ、いくらかは古風な感じを持つて居た神樂坂も、西洋館の銀行などが幾軒となく出來たり、安つぽい西洋館まがひの店舗が出來たりして、大分變つて來た。道路の幅なども廣くなり、アスハルトを敷き詰めて、だんだん文化的になつて來た。
 さういふ點に厭味があると言へば、厭味がないこともないが、私は、そゞろ歩きなどする場合に、銀座などよりは、どうしても神樂坂の方が好ましい氣がする。これは何も私が、神樂坂を初めて見て以來、私の生活が、神樂坂に深い緣故がつゞいて來たからといふわけではない。一面には、さういふ親しみもあるかも知れないけれども、肴町の停留場から坂下までの間は、町幅と言ひ、家並の工合と言ひ、往来の適度なくねり(、、、)方、波打つやうな起伏――さういふ點に趣きがあつて、私は神樂坂の通りを大へん氣持のいい町だと思ふ。
 銀座のやうに電車の走る町、ちつとも曲線を持たない、真直ぐな町、あゝいふ町よりも、神樂坂の方が、遙かに私に取つては風情がある。
麹町 こうじまち。東京都千代田区の地名。旧麹町区の三番町は太い赤丸で示しました。三番町1
その年 中村武羅夫氏は上京したのは明治40年(1907年)の21歳の時です。
奥の方 小栗風葉はこの時牛込矢来町3にいました。矢来町3は巨大な住所であり、どこに住んでいたのかわかりません。
江戸名所図絵

確かに階段ができていました。

御旅所 江戸名所図絵

江戸名所図会

アスハルト 炭化水素を主成分とする黒色の固体~半固体。ほとんどは石油精製過程で得られます。道路舗装のほか絶縁材・塗料などに利用。昭和10年、坂上はアスファルト舗装になっていました。
ひさし。建物の窓・出入り口・縁側などの上部に張り出す片流れの小屋根。(のき)
点出 画面に目立つように描き出すこと。
痩犬 国立国会図書館で調べましたが、残念ながら中村武羅夫氏の『痩犬』という文章はありませんでした。
デカダン 「衰退」を意味するフランス語から、退廃的な態度をとること
そぞろ歩き 当てもなく、気の向くままにぶらぶら歩き回ること
肴町の停留場 市営電車(チンチン電車)の停留場で、現在の四つ角「神楽坂上」(昔は「肴町」)よりも大久保寄りの場所にたっていました。現在の都営バスの停留所に近い場所です。 肴町

 

大震災①|昭和文壇側面史|浅見淵

文学と神楽坂

浅見淵関東大震災の神楽坂の様子です。浅見(ふかし)氏は昭和時代の小説家、評論家で、私小説風の作品や作家論、作品論などを発表しました。『昭和文壇側面史』は昭和43年に発表し、浅見淵は69歳のときです。

当時ぼくは牛込弁天町の下宿屋にいたので、下宿屋はもちろんのこと、神楽坂を中心とする牛込の山の手界隈はほとんど被害らしい被害は無かった。神楽坂の中ほどに、巌谷一六書の金看坂を掲げた、いまでも残っている老舗の尾沢薬局が、そのころ、隣りにレストランを経営していた。このレストランの二階が潰れていたくらいである。(中略)

田原屋・川鉄・赤瓢箪

 戦災で焼け、近年やっと復活して昔のように客を集めているらしい洋食屋の田原屋は、大震災のころ既に山の手の高級レストランとして有名だったが、この田原屋。肴町の路地の奥にあった、尾崎紅葉をはじめ硯友社一派がよく通ったといわれる川鉄という鳥屋。それから、質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋。これらの店には、文壇、画壇、劇壇を問わず、あらゆる有名人が目白押しに詰めかけていた。白木屋がいち早く神楽坂の中途に特売所を設けたが、一応物資が出まわると、これが牛込会館という俄か劇場に早変わりし、水谷竹紫水谷八重子たちの芸術座アンドレーフの「殴られるあいつ」を上演したりしていた。この劇団に、のちに築地に小劇場のスターとなった、東屋三郎汐見洋田村秋子たちが客演していたが、この連中の顔がとくに赤瓢箪ででよく見受けられた。

弁天町 弁天町場所は新宿区の北部に。巨大な町ですが、明治5年から変わっていません。大部分が宗参寺の境内で、元禄十一年以降次第に町皿みができ門前町となりました。
尾沢薬局

神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では

尾澤薬局明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています。
レストラン

尾沢薬局の隣りは、カフェー・オザワといいました。加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)によれば

薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフェを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないゝカッフェが出来、それで益〻土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。
硯友社 けんゆうしゃ。文学結社。 明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校)の学生尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、高等商業学校の丸岡九華の4人で創立。同年5月機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を発行し、たちまち明治文壇の一大結社に。
赤瓢箪 これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では「おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん」と書き、昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では「赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。」と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。関東大震災でも潰れなかったようです。
白木屋 しろきや。東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ。かつて日本を代表した百貨店の一つ。法人自体は現在の株式会社東急百貨店として存続。1930年(昭和5年)、錦糸堀や神楽坂に分店を出しています。
牛込会館 神楽坂の2丁目から3丁目に入ってすぐ右側で、現在は「サークルK」です。関東大震災の数日後、水谷竹紫と水谷八重子は牛込会館の屋上に上っています。牛込会館は現在はサークルKに変わっています。
芸術座 第二次芸術座。第一次芸術座は、1913年、島村抱月、松井須磨子などが結成し、1919年、解散。第二次芸術座は、水谷竹紫、水谷八重子が名前を受け継ぎ、同名の劇団を起こしました。
アンドレーフ Леонид Николаевич Андреев。Leonid Nikolaevich Andreev。レオニード・ニコラーエヴィチ・アンドレーエフ。20世紀はじめのロシアの作家。生年は1871年8月21日(ユリウス暦8月9日)。没年は1919年9月12日。ロシア第一革命の高揚とその後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家に。
殴られるあいつ 1922年の演劇。He Who Gets Slapped。道化師となった科学者の愛と人生を描きました
東屋三郎 あずまや さぶろう。俳優。生年は明治25年(1892年)5月15日。没年は昭和10年(1935年)7月3日。新劇の劇団「踏路社」を結成。第二次舞台協会、築地小劇場等にも参加。1927年(昭和2年)、初期のトーキーに出演。
田村秋子 たむら あきこ。新劇女優。生年は明治38年(1905年)10月8日、没年は昭和58年(1983年)2月3日。1924年築地小劇場の第1回研究生として入所、創立公演『休みの日』に出演。29年、夫の友田恭助と築地座を結成、戦後は文学座に出演。

大震災②|昭和文壇側面史|浅見淵

文学と神楽坂

 いっぽう、神楽坂の横丁の植木垣のつづいたもの静かな屋敷町に、医院の跡を買って銀座のプランタンが進出して来たりもした。このプランタンは近年文春クラブの面倒を見ていた洋画家の松山省三氏(前進座河原崎国太郎の父)の店で、銀座で開店している時には、正宗白鳥小山内薫吉井勇なども現われ、また「荷風日記」などにも屢〻出てくる。最近故人となった文春社長の佐佐木茂索がまだ「時事新報」の文芸記者を勤めていた時代で、茂索は当時新潮社の通りの突き当たりの矢来下にあった、兄さんの経営する骨董屋の別棟の洋館に住んでいたと思うが、プランタンが神楽坂に引越してくると、目立つその常連の一人となっていた。また広津和郎氏などもよく姿を見せ、みんなは別室で麻雀の卓を囲んでいたようだった。その時分はまだ麻雀クラブなど無い時代だった。この二人に限らず、広津、佐佐木氏たちの年代の作家たちが、大勢出入りして人目を惹いていた。ぼくが徳田秋声の愛人の山田順子をはじめて見たのもここだった。なかなかの北国美人だったが、秋田なまりが気になった。その時分はカクテルが流行した時分で、ここの一杯三十銭のマンハッタン・カクテルというのが口当りがよくて評判になり、早稲田の文科生なども大勢通っていた。
プランタン カフェープラントンCafé Printemps。飲食店。1911年(明治44年)、銀座に開業し、「日本初のカフェ」。喫茶店とはいえ、洋食がメニューの中心。料理はソーセージ、マカロニグラタンなど珍しいメニューや「焼きサンドイッチ」など。関東大震災後は1、2年は牛込に。戦争中は休業状態、1945年(昭和20年)3月、建物疎開で店は取壊されました。
文春クラブ 文春クラブは文春地下にあったクラブ。作家や職員用に作ったものでしょう。
前進座 昭和六年(1931年)に歌舞伎界の因襲的な制度に反発して松竹を脱退した中村翫右衛門、河原崎長十郎、市川荒次郎を中心に結成された劇団。古典歌舞伎のみならず、現代劇、大衆演劇、児童演劇など多くのジャンルの演劇作品を上演。
河原崎国太郎 5代目。1909―90。本名松山太郎。洋画家松山省三の子。2世市川猿之助の門に入り、市川笑也(えみや)と名のり、劇団前進座の結成に参加。1932年(昭和7)5代目国太郎を襲名。前進座の(たて)女方(おやま)(女形の中で、最高位の俳優)として活躍。
荷風日記 断腸亭(だんちょうてい)日乗(にちじょう)』のこと。永井氏は1917年(大正6年)9月16日から、死の前日、1959年(昭和34年)4月29日まで日記をつけていました。
時事新報 福沢諭吉が1882年3月1日に創刊した日刊紙。当時の東京の政論新聞は自由党、改進党、帝政党の機関紙の全盛時代でしたが、「独立不羈、官民調和」を旗印とする中立新聞として、大正の中期まで日本の代表的新聞。「日本一の時事新報」と称しました。 本社は東京日本橋区
矢来下 酒井家屋敷の北、早稲田(神楽坂)通りから天神町に下る一帯を矢来下(やらいした)といっています。
マンハッタン・カクテル マンハッタンManhattan cocktail. 通称カクテルの女王。ライ・ウイスキーなどを2、スイートベルモットを 1、アンゴスチュラビターズ数滴で作ります。色は琥珀色(ブラウン)

大震災③|昭和文壇側面史|浅見淵

 文学と神楽坂

三代目小さんの独演会

 ちなみに、そのころ佐佐木茂索氏の住んでいた洋館が、のちに中戸川吉二のはじめた「随筆」の発行所となり、その編集を受持っていた牧野信一も、暫くこの洋館に住み込んでいたように記憶している。

 そのほか、寄席や釈席が震災でたくさん焼けたので、牛込亭神楽坂演芸場などの寄席、これは釈席の江戸川亭などに、一流の噺し家や講釈師がつぎつぎと現われた。当時名人といわれていた三代目柳家小さんの独演会で、得意とする「笠碁」をはじめ、どの噺しもあまり描写がこまかいので肩を凝らしたり、錦城斎典山の「小夜衣草紙」で、梅雨の夜更けの陰気な吉原の曲輪(くるわ)の広廊下に聞こえてくる幽霊女郎の厚草履の音に戦慄を覚えたりもしたものだ。いまにして思うと、この時代が落語や講釈の名人が活躍した最後だったような気がする。

小さん やなぎやこさん。落語家。生年は安政4年8月3日(1857年9月20日)。没年は昭和5年(1930年)11月29日。滑稽噺の名手として明治中期の東京落語界で人気がありました
洋館 『随筆』第一号の編集部は天神町14、発行所は巣鴨です。一方、最終号(第二巻第11号)で『随筆』の発行所は天神町6になっています。赤で囲んだ場所で、右は天神町14、左は天神町6です。天神町6は東洋経済新報社の社屋でもあります。洋館は天神町14にあったのでしょうか。随筆・矢来下
随筆 随筆久米正雄、水守亀之助を相談役に迎え、牧野信一を編輯兼印刷人として大正12年11月、雑誌『随筆』を創刊。当時の大家の名前が沢山出ています。
釈席 しゃくば。講談を興行する寄席。講釈場
江戸川亭 小石川区関口町にありました。
笠碁 かさご。碁敵同士が、ののしり合って、けんか別れになりますが、雨の日、唐傘がないので(かぶ)り笠をかぶって出かけ、また2人で碁を打つと碁盤に雨の滴が落ちるので、「いくら拭いても後から垂れて……おい、いけねえなぁ、かぶり笠を取んなよ」
錦城斎典山 きんじょうさいてんざん。3代目。1863‐1935、文久3‐昭和10年。世話物、時代物の両方に長じて、近代講釈界最高の名人とうたわれました。写実的な読み口と、的確な情景描写が有名。
小夜衣草紙 客の不実を恨んで自害した吉原の遊女、小夜衣の亡霊が巻き起こす事件の数々を語ります。
曲輪 くるわ。一定の地域を限って、その周囲と区別するために設けた囲い、つまり城や砦の周りに築いた土塁や石垣など

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大震災④|昭和文壇側面史|浅見淵

文学と神楽坂

荷風とビフテキ

 ところで、この時代の印象で、一ばん印象深く残っているのは永井荷風である。ある夕方、前記の田原屋へ食事に行くと、たまたま荷風がやはり食事しに来ていたのである。ツバながの、細いリボンのついた、恐らくフランス留学時代のものらしい黒の古ソフトをかぶり、白ブドウ酒を傾けながら、分厚いビフテキを食べているのだ。偶然出会ったらしい隣りのテーブルの中年男と、歯切れのいい江戸っ子弁で、どうも芸者らしい女の消息について話をとりかわしながら、ゆっくりフォークの肉片を囗に運んでいた。話し相手は神楽坂の待合の亭主らしかった。荷風がそのころ神楽坂で遊んでいたことは、その年代の「荷風日記」をひもとくと明らかである。白ブドウ酒は一杯きりで、荷風は食事が終わると直ぐそそくさと出て行った。が、立ち去るとき、テーブルに、五十銭銀貨をボーイのチップとして残していった。後年、荷風が亡くなったとき、荷風の吝嗇ということがしきりに問題にされたが、ぼくはこれを見ているのでちょっと意外な気がした。
この時代 これは関東大地震の時代です。
ツバなが 前面の日よけが長い帽子
ソフト ソフト帽「ソフト帽」の略。フェルトなどの柔らかい生地で作った男性用の帽子。山の中央部に溝を作ってかぶります。
消息 動静。様子。状態
待合 客と芸妓の遊興などの席を貸して酒食を供する店。
荷風日記 断腸亭(だんちょうてい)日乗(にちじょう)』のこと。永井氏は1917年(大正6年)9月16日から、死の前日、1959年(昭和34年)4月29日まで日記をつけていました。
五十銭銀貨 大正10年で新聞購読料が1円、清酒2級は92銭でした。したがって五十銭銀貨は2000~2500円ぐらいでしょうか。ただし、他の文献(『東京紅團』 http://www.tokyo-kurenaidan.com/mizukami-kyoto16.htm )では

50銭銀貨実用的には50銭硬貨が一番高価なコインでした。現在の価値に換算してみようとおもったのですが、換算する商品によって差が大きすぎるようです。現在5000円程度と考えるのが妥当とおもわれます。
吝嗇 りんしょく。けち。むやみに金品を惜しむこと。

文学と神楽坂