月別アーカイブ: 2016年4月

山せみ|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

現在、神楽坂5丁目に手打ちそば「山せみ」があります。この歴史です。大正時代にはグランド・カフェーから恵比寿亭になります。場所はここ

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会より

上図は古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会で、右図は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」からです。

グランド・カフェーは大正13年に、すき焼きの「恵比寿亭」に変わります。安井笛二著の『大東京うまいもの食べある記』(昭和10年)はこう書いてあります。

えびす亭 入口に下足番(げそくばん)が頑張つてゐるあたり、昔風(むかしふう)の牛鳥料理です

中小企業情報の『商店街めぐり-神楽坂』(1955年、昭和30年)は

すき焼の恵比寿亭は戦争以来肉の小売業、明治四十二年江戸橋に創業、大震災後この地に移ったものである。

また、古川ロッパの『ロッパの悲食記』(昭和58年)では

 同じ神楽坂に、えびす亭がある。
 ここいらは、早稲田の学生頃に、よく行ったが、学生向きで安直なのが、よかった。

山せみ
その後、戦後しばらくは恵比寿亭が続きますが、その後、昭和30年代に家具・洋服屋の三笠屋になり、さらに別の店舗になり、2009年、手打ちそばの「山せみ」になりました。
神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では

山下さん 次は恵比寿亭で間囗が三間ぐらいありましたね。
馬場さん これは二階が全部座敷があってね。恵比寿亭ってのは、いまの「三笠屋」(注)さんのところ? (注。現在は手打ちそば「山せみ」)
相川さん そうです。裏玄関が私のうちのところまできていたんです。
馬場さん その恵比寿亭さんってのは何年ごろできたんですか?
相川さん 関東大震災の明くる年にできた。その普請中に関東大麗災がグラグラっときて、もろに横丁の方へ倒れた。
馬場さん じゃあ、恵比寿さんの前が「カフェ・グランド」ってカフェ屋さん?
相川さん そう。その代表の経営者上田という履物屋さん。「カフェ・グランド」には自動ピアノのというのがありましてね、電気ピアノ。盛大でしたよ。それで、関東大震災のときに下を壊して屋根だけ残したものだから、全部片づけて。あそこへ東京の讐備に高崎の十五連隊が来た。

神楽坂5丁目に戻る場合には
田原屋[昔]紅谷(昔)万長酒店(昔)河合陶器店五十鈴相馬屋寺内公園鮒忠近江屋八百文寺内公園の石畳

お店

スポンサーリンク

近江屋|神楽坂五丁目

文学と神楽坂

明治37年、食料品「近江屋」が九段下に創業。大正5年、神楽坂五丁目に引っ越しした老舗のお惣菜屋です。場所はここ

神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では

馬場さん 近江屋さんは、もうまったく変わらないでしよ?
相川さん 近江屋さんになる前に、私か聞いたんじやないんだけれども、「大黒屋」さんという呉服屋さんだったとか。それは知りませんよ、私は。私か覚えたときには、あそこはもう漬物屋さんだった。
馬場さん 地所は?
相川さん 相馬屋さんだった。あれはいい地所ですよ。近江屋さんも伊勢に行っていた(疎開していた)でしょ。戻ってきて「地所を貸してください」つで言ったら、「売ります」となって買い取った。

近江屋

手造りの煮豆類。
近江屋1

神楽坂5丁目に戻る場合には
田原屋[昔]紅谷(昔)万長酒店(昔)河合陶器店五十鈴相馬屋寺内公園鮒忠山せみ八百文寺内公園の石畳

お店

スポンサーリンク

島田清次郎1|昭和文壇側面史|浅見順

文学と神楽坂

奇矯な流行作家

 大正時代の今日でいうベストセラーを挙げると、夏目漱石有島武郎埒外におくと、江馬修「受難者」(大正五年刊)倉田百三「出家とその弟子」(大正六年刊)島田清次郎「地上」(大正八年刊)賀川豊彦「死線を越えて」(大正九年刊)であろう。これらのうち、今日なお読み継がれているのは「出家とその弟子」だけだ。ベストセラー作品のはかなさといったものを、痛感する。
 弱冠二十歳の無名作家が一躍ベストセラー作家になり、そのかわり三十一歳の若さで精神病院で狂死した「地上」の作者島田清次郎は、だが、ベストセラー作家の地位を保っているあいだ、つぎつぎと奇矯な振舞いにおよぴ、それらの振舞いで当時の文壇にさんざん話題をまいたものだ。その委細は、杉森久英氏の直木賞作品「天才と狂人の間」に尽くされている。ぼくはたまたま清次郎の晩年の姿を一瞥しているので、それを書いておきたいとおもう。当時の新聞紙上を賑わした海軍少将令嬢監禁のいわゆる島清事件を契機にして、ジャーナリズムからすっかり締め出しを食らい、急転直下、零落して行った清次郎の姿は、はなはだドラマティックでもあったからだ。
江馬修
受難者
江馬修えま なかし。大正、昭和時代の小説家。田山花袋にまなび、大正5年「受難者」が評判に。関東大震災後、人道主義から社会主義にうつり、「戦旗」に作品を発表。長編歴史小説「山の民」の完成に力をそそぎました。生年は明治22年12月12日。没年は昭和50年1月23日。85歳。「受難者」は、青春の愛と苦悩を描く長編小説。
倉田百三
出家とその弟子
倉田百三くらた ひゃくぞう。劇作家、評論家。病気のため第一高等学校を中退 (1913)、キリスト教を中心とする思索生活に。1916~17年『白樺』の衛星誌『生命の川』に戯曲『出家とその弟子』を連載、一躍有名作家に。大正期宗教文学ブームの先駆者。生年は明治24年2月23日。没年は昭和18年2月12日。53歳。「出家とその弟子」は、戯曲。大正5年(1916)発表。親鸞の子の善鸞と弟子の唯円の信仰と恋愛問題を通し「歎異抄」の教えを戯曲化。青空文庫で無料で読める。
島田清次郎
地上
島田清次郎しまだ せいじろう。嶋田清次郎。石川県出身。大正8年生田長江ちょうこうの推薦で出版した「地上」が大ベストセラーに。11年の欧州旅行後は精神をやみ、療養中に死亡。生年は明治32年(1899年)2月26日。没年は昭和5年4月29日。32歳。「地上」は、自伝的長編小説。大正8年(1919)、第1部「地に潜むもの」を刊行。以降、第2部「地に叛くもの」、第3部「静かなる暴風」、第4部「燃ゆる大地」を順次刊行。
賀川豊彦
死線を越えて
賀川豊彦かがわ とよひこ。キリスト教伝道者。社会運動家。神戸神学校に入学したが肺結核となり療養。 09年神戸新川で極貧の人々とともに生活しながら伝道。生年は明治21年7月10日。没年は昭和35年4月23日。「死線を越えて」は、長編小説。1920年(大正9)、改造社より刊行。神戸葺合新川で隣人愛を実践し貧民救済に尽力した主人公の半生記。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで無料で読める。
杉森久英
天才と狂人の間
杉森久英2すぎもり ひさひで。第二次大戦後、河出書房にはいり、「文芸」編集長に。昭和37年島田清次郎の生涯をえがいた「天才と狂人の間」で直木賞、平成5年伝記小説に一時代を画した功績で菊池寛賞。生年は明治45年3月23日。没年は平成9年1月20日。84歳。「天才と狂人の間」は、1962年、同郷の作家、島田清次郎を描いた伝記小説。
島清事件 大正12年、島田清次郎氏が海軍少将令嬢舟木芳江と逗子の旅館に宿泊。監禁事件として舟木家から訴えられるも、令嬢の手紙が決め手となって、二人は以前から親しい関係にあったことがわかり、告訴は取り下げ。この女性スキャンダルは新聞や女性誌に大きく取り上げられ、理想主義を旗印にしてきた島田清次郎は凋落しました。

埒外。らちがい。ある物事の範囲の外
奇矯。ききょう。言動が普通と違っていること。
零落。れいらく。おちぶれること。

スポンサーリンク

島田清次郎2|昭和文壇側面史|浅見順

文学と神楽坂

チビ下駄をはいて

 確か関東大震災のあった年の明くる年の、大正十三年の秋である。その頃まだ戯曲を書かないで、吉江喬松のところへ出入りしてしきりに長い散文詩を書いていた三好十郎を盟主とするグループの一人の英文科生が、早稲田に通うかたわら、牛込横寺町聚英閣という出版書肆に、今日でいうアルバイト勤めをしていた。ある日、その時分親しくしていた、のちにフロ-ベールの「サラムボー」の名訳を出した神部孝と、学校の帰りに神楽坂へ出掛け、いつものようにフルーツパーラーの田原屋で休んでいた。そのとき、ぼく達はよほど退屈していたのだろう、聚英閣にその友人を訪ねてみようということになった。ぜひ訪ねてくれともいっていたからだ。ところが、聚英閣の座敷にあがると、ちょうど島田清次郎がいあわせたのである。
 島田清次郎は当時すでにうすぎたない恰好をして、黒い足跡のついたチビ下駄を引きずり、書き溜めた幾つかの分厚い原稿を包んだ萌黄の木綿の風呂敷包みを、だいじそうにかかえ、かつて自分の本を出してくれた出版屋を歴訪していたのだ。しかし、どこの出版屋も受付けないで、いつも玄関払いを食わせていた。清次郎はしかし、それでもしょうこりもなく、毎日日課のようにこれを繰り返していたのである。そして、聚英閣を訪れたのも、それで幾度目かわからないぐらいだったのだ。

吉江 喬松 吉江 喬松よしえ たかまつ。フランス文学者、詩人、作家、評論家。大正5年パリに留学。帰国後早稲田大学に仏文科を創設、教授に。農民文学に傾斜。生年は明治13年9月5日。没年は1940年3月26日。61歳。
三好 十郎 三好十郎みよし じゅうろう昭和初期から終戦後の復興期にかけて活動した小説家、劇作家。1924年、吉江喬松教授の推薦で『早稲田文学』に詩を発表。プロレタリア劇の作家として活動。その後、左翼的な活動に疑問を覚えたとして離脱。生年は明治35年4月21日。没年は1958年12月16日。56歳。
横寺町 東京都新宿区の町名。横寺町
聚英閣

しゅうえいかく。『まちの手帳』14号「神楽坂出版社全四十四社の活躍」では聚英閣は『広津和郎、谷崎精二、宇野浩二らの作品の他、白樺同人による「白樺の林」など』があったようです。場所は横寺町43。

横寺町43

昭和5年「牛込区全図」

さらに「新宿区横寺町交友会、今昔史編集委員会」の『よこてらまち』(2000年)ではここにあったようです。L
行っても素晴らしい景観はどこにもありません。はい。横寺町43の写真です。横寺町43

フロ-ベール フロベール(Gustave Flaubert)とも。フランスの小説家。客観的描写を唱道し、写実主義文学の確立者。作「ボバリー夫人」「サランボー」「感情教育」「聖アントワーヌの誘惑」など。生年は1821年12月12日。没年は1880年5月8日。58歳
サランボー Salammbô。フロベールの長編小説。1862年刊。第一次ポエニ戦争直後のカルタゴを舞台に、勇将アミルカルの娘サランボーと反乱を起こした傭兵の指揮者マトとの悲恋を描く
神部孝 生年は明治34(1901)年9月4日。没年は昭和13(1938)年6月15日。早稲田大学仏文科卒。仏文学者として活躍し、訳書はフローベールの「サランボー」、レオポルト・マビヨー「ユゴオ伝」など。
萌黄 春先に萌え出る若葉のようなさえた黄緑色           

書肆は、出版社、書店、本屋。
足跡は、人や動物が歩いたあとに残る足の形。

島田清次郎3|昭和文壇側面史|浅見順

文学と神楽坂

巷間に伝わる噂話

 この聚英閣は、広津和郎氏の名著のほまれ高い処女評論集「作者の感想」や、宇野浩二の処女作集「蔵の中」なども出していたが、主人は海軍主計中佐あがりの禿げ頭のズブのしろうとであった。従って、出版も出たとこ勝負で、あまりもうかっていなかったようだった。そこで、島田清次郎が新潮社からつぎつぎと「地上」の続篇を出して人気の絶頂にあったとき、幾たびか足を運んで、やっと「早春」とかいう感想集の原稿にありつき、当時はそれを徳としていたのである。そんな因縁もあって、たまたまぼく達が聚英閣を訪れたとき、どういう風の吹きまわしか、たぶん聚英閣の細君が快活な気まぐれ屋だったからであろう、清次郎を座敷にあげていたのだ。
「地上」が出たのは、ぼくが早稲田に入った年である。それで、さっそく買って読んだが、当時のぼくにして、なんだか概念的で詰まらなかった。が、杉森氏の前記の長篇に、堺利彦が「地上」の発売と共に「時事新報」紙上に書いた推賞文が紹介されているが、一般の人気もまた、その感銘が堺利彦の指摘しているところと一致していたからだろう。
“著者の中学校生活、破れた初恋、母と共に娼家の裏座敷に住んだ経験、或る大実業家に助けられて東京に遊学した次第、其の実業家の妾との深い交りなど、悉く著者の「貧乏」という立場から書かれた、反抗と感激と発憤との記録である”
 ところで、島田清次郎の没落は、その線香花火的な早熟性とあいまって、変質者だったことが大きく影響していたように思われる。人気作家さなかの渡米船上での外交官夫人への接吻強要、徳富蘇峰紹介の逗子養神亭における帰朝直後の海軍少将令嬢監禁事件、新聞紙上に大きく叩かれたこれらの事件のほかにも、パリの街娼たちと遊んでは奇怪な振舞いに出、彼女たちから嘲笑を買っていたという話を、当時パリに行っていた岡田三郎だったか、洋画家の林倭衛だったかに聞いた覚えがある。
 また、のちに徳田秋声の「恋愛放浪」という中篇小説集を読むと、その中に、題名を忘れたが、地方新聞に連載したものらしい島田清次郎を取扱った作品があり、共に金沢出身という同郷関係で、秋声が前から何彼と清次郎の面倒を見てやっていたところ、有名になると急に対等的な横柄な口をききだしたことや(これは室生犀星も書いている)、秋声に見せた清次郎自身の書いた家の設計図に、得体の知れぬ密室があったことなどを挙げ、やはり清次郎の変質性を指摘していた。

作者の感想 1920年(大正9年)に書いた広津和郎氏の第一評論集
蔵の中 1919年(大正8年)に出し宇野浩二氏のた処女作集で、「近松秋江論(序に代へて)」、「蔵の中」、「屋根裏の法学士」、「転々」、「長い恋仲」をまとめたもの。
主人

小田 光雄氏が書いた『日本古書通信』の「古本屋散策(54)。聚英閣と聚芳閣」では

聚英閣の本は三冊持っているが、一冊は勝峯晋風編の『其角全集』で菊判箱入り、千ページをこえる大冊であり、刊行は大正十五年、発行者は後藤誠雄となっている。(中略。後藤誠雄の)出版物はとても「ズブのしろうと」の企画とは考えられず、優れた編集者が存在したのであろう。それでなければ、国文学、近代文学、社会科学といった多岐にわたる企画はたてられなかっただろう。

と書かれています。私もそうだと思います。

早春 1920年、島田清次郎氏の18歳~20歳の断章や詩をあつめたもの。
時事新報 福沢諭吉が1882年3月1日に創刊した日刊紙。「独立不羈、官民調和」を旗印とする中立新聞として読者の支持を集め、大正の中期まで日本の代表的新聞でした。
渡米 渡米:島田清次郎は1922年(大正11年)、新潮社の薦めで船でアメリカ、ヨーロッパをまわる旅に出発しました。
外交官夫人 風野春樹氏が書いた「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」(本の雑誌社、2013年)によれば、相手は23歳の森島鷹子氏。夫は森島守人氏で、東京帝国大学を出たエリート外交官。朝日新聞は「渡米文士の失敗」という見出しで、キスを強要し、事務長から譴責をうけたと報じています。
逗子養神亭 徳富蘆花や国木田独歩など、当時の文人が利用した海岸沿いの高級旅館
令嬢監禁事件 大正12年、島田清次郎氏が海軍少将令嬢舟木芳江と逗子の旅館に宿泊。監禁事件として舟木家から訴えられるも、令嬢の手紙が決め手となって、二人は以前から親しい関係にあったことがわかり、告訴は取り下げ。
岡田三郎 岡田三郎小説家。早大卒。博文館の「文章世界」を編集し、小説も。大正10年渡仏し、帰国後日本にはじめてコント文学を紹介。14年「文芸日本」を創刊。のち私小説に。生年は明治23年2月4日。没年は昭和29年4月12日で、64歳。
林倭衛 林倭衛はやし しずえ〔しづヱ〕。洋画家。長野の生まれ。大正10年(1921)渡仏し、セザンヌのアトリエを借りて制作。帰国後は春陽会などで活躍。透明感のある風景画で有名。生年は明治28年6月1日。没年は昭和20年1月26日で、51歳。
中篇小説集 「恋愛放浪」、「無駄道」、「解嘲」の3篇が入っています。
作品 前の2篇が無関係なので、「解嘲」でしょう。ここで、解嘲の意味は「かいちょう」、または「かいとう」で、人のあざけりに対して弁解することです。
対等的… 「解嘲」にはありません。「横柄な口」の例として、室生犀星は、《後に「地上」が出版され、新潮社で会ったが彼は挨拶をしないで傲岸に頭をタテに振るのであった。自分は不用意な気持であり鳥渡(ちょっと)(あき)れたか其後明かに彼とは口を利かなかった》と書いています。
密室

徳田秋声氏の「解嘲」によると

彼自身の創意になった一二の密室が用意されてあることであった。彼は自分の声名を慕ってくる女の群を想像してゐた。そして其の女達の特殊なものを引見する場所が、その密室であった。
「こゝへは誰も入れないんだ。どんな親友でも入れないやうにしておくんだ。」彼はさう言って少し赤い顔をして微笑してゐた。

と書かれています。

早熟性:肉体や精神の発育が普通より早いこと
変質者:異常で病的な性質や性格

島田清次郎4|昭和文壇側面史|浅見順

文学と神楽坂

島清と書肆の細君

 さて、ぼく達が聚英閣の座敷に通ると、友人は急に明るい顔になって、対座していた島田清次郎を紹介した。すると、清次郎はおずおずしながら、じつに慇懃に挨拶した。噂に聞いていたのと、まるで反対だった。まことに意外な気がした。と、そこへ、聚英閣の細君が茶と塩せんべいをもって現われた。まずぼく達へ茶をくばって、一ばん最後に清次郎の前へ茶碗を押しやり、“あんたなどにお茶を飲ますのは勿体ないが、皆さんのおつきあいで振舞うのよ。有難くお思いなさい”と、さも軽蔑しているように頭ごなしにいい、それからぼく達のほうを振り返って、“この人って、そりゃあ、おかしいのよ。交番の前を通れないのよ。そして、お巡りに出くわすと、 ペコペコ頭ばかりさげてるの。見られたさまじゃあないのよ” そういって、またもや清次郎に、“あんた、どうして交番がおっかないの。悪いことしてなきゃあ、大手を振って通れるじゃあないの。それとも、また何か悪いことしてるの。そんな、交番の前を遥れない人、うちなんかへ来て貰うのは迷惑よ”と、畳みかけるようにいった。
 清次郎はしかし、暗い顔に卑屈な笑いを浮かべながら、二ヤ二ヤしているばかりだった。後で考えてみると、その時すでに早発性痴呆の徴候が出ていたらしかった。が、いずれにしても、正視しておれぬ場景だった。
 ぼくは聚英閣の細君を無視して、友人に勝手な話をしかけた。そして、偶〻、すこし前に英訳本で読んで感心したアンドレーフの「犬のワルツ」という戯曲の話をしだした。すると、清次郎か急に話の中へはいって来て、“それ、ぼく、ニューヨークで見ました。ニューヨークの何とかいう、新しい芝居ばかりやる小さな劇場で見ましたよ”と口を挾んだ。“なんだか薄気味の悪い芝居でしたよ。赤ヅラした男がこんな風に手を伸ばして、しまいにおどりながらピストル自殺するんです” 清次郎は肩の上に両手を差し伸べて互い違いに振りかざしながら、身慄いでもするように、本当に気味悪かったような表情を漂わせていった。
 島田清次郎が精神病院に収容された話を聞いたのは、それからまもなくだった。

早発性痴呆 現在は「統合失調症」です。「若い時期に発症する痴呆」が原義で、少し前までは精神分裂病と呼びました。
アンドレーフ レオニド・アンドレーエフ。 Леонид Николаевич Андреев。ロシア第一革命の高揚とその後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家に。
犬のワルツ

『埴谷雄高作品集 2 短篇小説集』では

その戯曲の最後の幕切れで、劇の主人公は表題になつている《犬のワルツ》を静かにピアノでひいて隣の部屋へはいつていつてしまうと、無人の舞台の空虚な数秒間が過ぎたあと、隣の部屋から不意と短銃の音がにぶくきこえてくるのであつた。

と書かれています。

精神病院 大正13年(1924年)7月31日、島田清次郎は25歳、巣鴨の「保養院」(現都立松沢病院)に強制入院します。

慇懃:いんぎん。真心がこもっていて、礼儀正しいこと
偶〻:たまたま。時おり。時たま。たまに

本家鮒忠|神楽坂

文学と神楽坂

本家鮒忠は、なんと3階大宴会場を使うと、80人の宴会も大丈夫です。また、3階は部屋を3つに分けられるので40名や20名までの宴会も可能。おそらく神楽坂で最大の宴会場でしょう。地図はここに。

宴会4名様個室~80名様の室ご用意します。料理2100円から。飲み放題1400円2時間。
串焼、うなぎがメインで季節ごとにおすすめメニューで旬の味をお楽しみいただけます。

本家鮒忠
昔、関東大震災後には銀座の村松時計店もここにはいっていました。細かくはここを。

たとえば1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』の商店繁昌記では

ただ震災後に新しく出来たやや著名な店としては、銀座の村松時計店と資生堂との二支店位だが、これは何れも永久的のものらしく、場所も神楽坂での中心を選び、毘沙門の近くに軒を並べている。そしてこの二軒が出来たために、あの附近が以前よりは明るく綺麗に、かつ品よく引立ったことは事実だ。(ところが、この二店ともその後間もなく閉されて了った――後記)

場所は「本家鮒忠」になっています。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では

相川さん この「船橋屋」というのはお汁粉屋。これは、戦争中に「シンセイ堂」っていう薬局があったんです。船橋屋のあとに。そのあとが小間物屋。小間物屋さんが店を閉めるについて、一時、銀座の「村松時計店」が大きくあそこに入っていた。これも銀座の方に新しく(店舗が)できたからってんで引き上げた。そのあとに船橋屋が来た。
馬場さん それから薬屋で、戦災で焼けたときにはなんだったんですか?
相川さん 薬屋でおしまいになったんでしょ。
馬場さん 嘘だよ、薬屋じゃないよ。焼けるときは薬屋じゃなかったよ、ここは
>山下さん それで、戦後はどうですか?いちばん最初は「ノーブル」?
相川さん 「ノーブル」。喫茶をやっていた。
馬場さん ノーブルさんのあとへすぐ鮒忠ですか?
相川さん そうですね。

ジョウトーヤ

文学と神楽坂

神楽坂の露店ではバナナの叩き売りが一番有名でした。1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」で、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』です。

 神楽坂通りの中程、俗に本多横町といって、そこから真直ぐに筑土(つくど)八幡の方へ抜ける狭い横町の曲り角に、豊島という一軒の床屋がある。そう大きな家ではないが、職人が五、六人もおり、区内の方々に支店や分店があってかなり古い店らしく、場所柄でいつも中々繁昌している。晩になると大抵その前にバナヽ屋の露店が出て、パンパン戸板をたゝいたり、手をうったり、野獣の吠えるような声で口上を叫んだりしながら、物見高い散歩の人々を群がらせているのに誰しも気がつくであろう。

と、バナナの叩き売りがでています。実際、これは相当、人目を引いたようで、例えば『ここは牛込、神楽坂』第3号の「語らい広場」でますだすみこ氏は

「さあ表も裏もバナナだよ。握り具合は丁度いいよ。千、八百、五百、三百、三百円だ。買った買った。早い者勝ちだよ。どうだ!」
 威勢のいい口上のバナナの叩き売りの周りには黒山の人だかり。金魚すくい、カルメラ焼き、スモモ飴、飴細工などの夜店が道一杯に並ぶ。

まだ、中村武志氏も「神楽坂の今昔」(毎日新聞社刊『大学シリーズ 法政大学』昭和46年)で書き、

 現在は五の日だけ、それも毘沙門さんの前に出るだけだが、当時は、天気さえよければ、神楽坂両側全部に夜店がならんだ。まず思い出すのは、バナナのたたき売りだ。戸板の上に、バナナの房を並べ、竹の棒で板をたたきながら、「さあ、どうだ、一円五十銭」と値をつけて、だんだん安くしていく。取りかこんだお客に、「お前たちの囗は節穴か、それとも余程の貧乏人だな」など毒舌をはきながら、巧みに売りつける。こちらも、そんな手にはのらない。大きな房が五十銭、中くらいが三十銭まで下がるのを待つ。そのカケヒキが楽しかった。一応十二貫入りが十篭も売れたものだ。

このバナナのたたき売りは実際に大成功を収め、2005年、「かぐらむら」の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では

feature200506_01_02ジョウトーヤ(果物店)
戦前は、毎日毘沙門天辺りにバナナの叩き売りを出していた人が、神楽坂が気に入って果物屋を開業した。

戦後直後の昭和27年ではジョウトーヤはありませんが、昭和35年はもうできています。その場所はここです。
ジョウトーヤ

さらに昭和53年には隣のフルーツパーラーと別々の家になっていますが、昭和55年には、ひとつのビルになっています。昭和60年の『神楽坂まっぷ』によれば、ニュージョウトウヤはすくなくとも5階建てでしたが、一階に元禄寿司はまだ入ってはいません。1995年(平成7年)の『神楽坂輿地全図』で元禄寿司がでてきます。一介のバナナのたたき売りだった人が数階のビルをもつまで成功する。うーん、なんというのか、わかりません。やはり露店はもうかるのでしょうか。儲かる露店のエピソードではここでもでてきます。
ジョウトーヤ2

元禄寿司

なお、戦前は盛文堂などがありました。

神楽坂演芸場

文学と神楽坂

神楽坂演芸場(えんげいじょう)は神楽坂3丁目にありました。坂下から神楽坂3丁目のお香と和雑貨の店「椿屋」の直前を左に曲がると、左手に広々とした駐車場があります。

駐車場

この駐車場は「神楽坂演芸場」があったところです。場所はここです。昭和10年に「演舞場」に改名しました。戦後まで営業したという説(『新宿区の民俗』、新宿歴史博物館、平成13年)もありますが、戦災で終わったという説(吉田章一『東京落語散歩』平成9年、メディカピーシー)の方が有力でしょう。戦争の火災でなくなり、1952年、『火災保険特殊地図』では何も残らず、1960年、住宅協会の『新宿区西部』では、夜警員詰所になっています。

講談・義太夫・落語に対して、彩りとして演ずる漫才・曲芸・奇術・声色・音曲などの色ものが有名でした。

『新宿区の民俗』によれば、「二階建ての建物で一五〇席ほどあった。他の二館は木戸銭が三〇から五〇銭であったのに対し、演芸場は七〇銭とった。他の館よりきれいで芸者衆もよくきていた」と書いてあります。
写真も残っています。柳家金語楼(きんごろう)などが有名人でした。

なお、新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)には

大久保孝氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号の「懐かしの神楽坂」で『その路地の奥に』を書き、

神楽坂演芸場
 本多横丁の手前、盛文堂という本屋と宮坂金物店の間の道を入るとすぐに「神楽坂演芸場」があった。ここは芸術協会の砦であったから、金語楼、柳橋、柳好(先代)、金馬、小文治、桃太郎などが出ており、講談では一竜斎貞山、大島伯鶴、神田伯竜、小金井芦州など、その他色ものでは、新内の富士松宮古太夫など。
 後年好きになった、桂文楽、三遊亭円生、古今亭志ん生は落語協会の所属なので、聞いていない。
 金語楼はもっぱら兵隊もの。貞山は義士外伝。貞山の息子が府立四中にいたので、中学でも彼の談を聞いたものである。柳好はまだ「がまの油」くらいで、得意の「野ざらし」をやったのは、四十過ぎであったろう。三平の父親の林家正蔵は頭のてっぺんから声を出して、「相撲見物」とか「源平盛衰記」をやった。春風亭柳橋の養子さんは兄の友人で、赤城さんの近くに住んでいたが、この人は「時そば」を脚色した「支那そばや」をやっていた。
 暮は客が入らないので、木戸銭を十銭にしたが、あまり入らない。でも金語楼が怪しげな日本舞踊をやったり、柳橋が座ぶとんをひっくりかえして、紙をめくって次の出演者を知らせたり、お茶をだしたりするのがおかしかった。
 正月になると、木戸銭は一円になり、惣出は良いが、まくらもそこそこにひっこんでしまうのは、いただけなかった。でもやっと稼ぎ時になったのだから仕方あるまい。

中村武志氏が「神楽坂の今昔」(毎日新聞社刊『大学シリーズ 法政大学』昭和46年)に書き、

坂の左側の宮坂金物店の角を曲がった横丁に、神楽坂演芸館があって、講談、落語がかかっていた。
 当時は、金語楼が兵隊落語で売り出していて、入場料を一円二十銭も取られた覚えがある。お客は法政や早稲田の学生が多いので、三語楼は、英語入りの蔽落語をあみだして、これも人気があった。

最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。映画館と寄席

牛込会館 牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 柳水亭 牛込亭 文明館

神楽坂の通りと坂に戻る場合

最新東京繁昌記|伊藤銀月

文学と神楽坂

 伊藤銀月氏が書いた「最新東京繁昌記」(内外出版協会、明治36年、1903年)の牛込区です。
 氏は評論家・小説家で、生年は明治4年10月21日。秋田中学中退。「よろず(ちょう)(ほう)」の記者でした。没年は昭和19年1月4日、73歳でした。この文章は32歳に書いています。ほかの区には悪口いっぱいで、牛込区はまだいいほうです。
 

まず、現代文に直してみます。

その7。夏のような風
 四谷は麴町と親しく、小石川は本鄕といい関係があるが、牛込だけは他の区と親しくしていない。神楽坂は牛込の目になっている。目がキラキラしていないと東京っ子の目ではない。神楽坂は肥えていて、お尻も大きな女性が、帯が解けてもわからず、街にいるようなものだ。神楽坂をぞろぞろ登ってくるのは、髪を西洋風に組み、帽子をもってくる西洋風の人が多い。
 牛込の気風。
 神楽坂は牛込衆が展覧場にいるようなもので、牛込衆は自分を陳列しようとしてここに集合してくる。なお、牛込ッ子という言葉はどうもおかしい。牛込人や牛込者というも何か臭く、面白くはない。牛込衆というのは穏便で、これが一番よかろう。
 旦那、続いて細君、それから子供、最後に下女がゾロリゾロリと牛込風に歩くと、ゆっくり歩くので、下駄の摩耗も一種違う。この区の人間ほど悠々と暮らし、生活も困っていないと見えるが、しかし、必ずしも暇は多くはなく、生活も困っている場合もある。そう見えないのは牛込風の気風だ。
 牛込には、いつでも夏の初めに似たなまぬるい柔かい風が吹いてくる。この風に吹かれて麦の穗を出すように、髯が生えそうな先生がいる。つきたての餅に目鼻を書いたように、手でなでると消えような笑顏の令嬢もいる。
 神楽坂の芸妓が鳴らす三味線の音は、雨が降ってくるようだ。牛込には神楽坂の芸妓がいて、麹町には富士見の芸妓がいる。富士見の芸妓は蒔いた種に肥やしをふりかけ、芽になったものだが、神楽坂の芸妓はどぶばたにこぼれた種が自然にふやけて、芽になったものだ。つまり、同じように土臭いが、神楽坂の芸妓は、より自然で、より詩趣がある。
 士官学校や監獄署もある市ケ谷は、牛込の布地に一層粗い模樣を染め出したものだ。牛込では座布団を出るが、市ケ谷は敷布団に出す以外に方法はない。
 根岸は下谷の別の区域で、根津は本郷の別の区域であり、早稲田は牛込の別の区域に似ている。しかし実際には極めて異なり、別の区域ではなく「新牛込」である。神楽坂の繁華は早稲田の趣味に伴くように、早稲田の将来には神楽坂の趣味の繁華があるようだ。
 WindowやMacでは黄色の文字の上で1~2秒ポインターを動かさない場合に吹き出しが出てきます。残念ながらiPodでは出てきませんので、最後に同じ文章を書いておきました。
 
其七 夏の初の如き風(牛込區)
  四谷は麴町と親しく、小石川は本鄕と交り好し。獨り牛込は誰とも親しからず。
神樂坂は牛込の眼也、眸に張りの無きは東京ッ兒の眼にあらず。
神樂坂は、肥つて御尻の()()つた女が、帶の解けたを知らずに往來を引きずつて居る形也、ソロ/\と登るものは、束髪帽子の蟻。
牛込ッ子にあ
らず牛込衆

牛込的氣風

神樂坂は牛込衆の展覧場也、牛込衆は己れ自身を陳列すべく此處に集合する也。牛込ッ兒と云ふは無論當らず、牛込人或は牛込者と云ふも何か臭ひがありさうに聞こえて面白からず、牛込衆と云ふの穩なるに如かず。
旦那とさうして細君、さうして子供、さうして下女、ゾロリ/\と牛込的に歩く也、牛込的下駄の()りやうは一種別也。此區の人間程悠々緩々、(ひま)(おほ)生活(くらし)困らなさゝうに見ゆるは無し。必ずしも暇多きにあらず、必ずしも生活(くらし)に困らざるにあらず、()か見ゆるは牛込的氣風也。
牛込には、何時(いつ)も夏の初めの如き生温(なまぬる)く柔かき風吹けり。此風に吹かれて麥の穗を出すが如く、髯の芽生(めば)()でゝ()はれさうな先生あり。()きたての餅に目鼻を惡戯(いたづら)()きしたるが如く、手で撫でれば消えさうな笑顏(えかほ)令嬢あり。
()神樂(かぐら)藝妓(げいしや)の三味線の音、雨を喚びさう也。
牛込に御神樂藝妓あるは、麹町に富士見藝妓あると異なれり。富士見藝妓は蒔いた種に(こや)しを施して芽を吹かせしものなれども、御神樂藝妓は溷端(どぶばた)にこぼれた種の自然にフヤケて芽を吹きしもの也。同じく土臭しと雖も、御神樂藝妓は、より自然的にして、より詩趣を帶べり
士官學校及び監獄署を圍める市ケ谷は、牛込の布地(きれぢ)に一層(あら)き模樣を染め出したるもの也。牛込は座蒲團に供すべきも、市ケ谷は(しき)蒲團(ぶとん)に用ふるの外無し。
根岸が下谷の別區域なる如く、根津が本鄕の別區域なる如く、早稲田は牛込の別區域なるに似たり。而も其實は大にそれらと異なり、別區域にあらずして新牛込也。神樂坂の繁華が早稲田趣味を帶ばしめらるゝが如く、早稲田の將來に神樂坂趣味の繁華を開かんとす。

眸に張り:ひとみ。開いた眼。 「張り」はひきしまって弾力がある。
肥つて御尻の出ッ張つた女:肥えていて、お尻も大きな女性が、だらしなく、街にいるという意味。 これでどうして神楽坂になるのでしょう。悪口でしょうね。しかし、ほかの区も相当ひどいと思います。
束髪:西洋婦人の髪形を真似して、 明治時代に上流階級の女性で登場した髷の一群。
蟻:多くの人
帽子:明治27~8年ごろ、帽子も流行しました。 西洋風にかぶれた人が多かったのでしょう
牛込衆:牛込ッ子、牛込人、牛込者はどれもだめ。牛込衆がいいのかなあ……と考慮中。『「牛込ッ子にあらず牛込衆也」と牛込の住人の気質を表現するなど、当時の様子には心惹かれるものがある』と『立壁正子の仕事』(「立壁正子の仕事」をつくる会、平成14年)では説明します。実際はどの区も皮肉いっぱいです。
下駄:ゆっくり歩くので、下駄の摩耗も著しい。
困らなさゝうに見ゆるは無し:悠々と暮らしもよさそうな人が 神楽坂で多そうだといっています。
先生:髯が生えそうな先生。 悪口にも聞こえる用語です
令嬢:「餅に目鼻を悪戯書きする」場合は悪口で、 「笑顔の令嬢」は賛辞です。
土臭し:これは皮肉
御神樂藝妓は、より自然的にして、より詩趣を帶べり:これは賛辞
牛込は座蒲團に:牛込が高級の座布団、市ケ谷は三級の敷き布団 ……どうしてこう区別するのか不明ですが 市ケ谷よりも牛込がいいと思っているのはわかります。
新牛込:早稲田は新牛込といったほうがいい。 この時代、早稲田の住宅が急速に増えていました