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私のなかの東京|野口冨士男|1978年①

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の『私のなかの東京』「神楽坂から早稲田まで」は昭和53年(1978年)に「文學界」に書かれています。やはり「神楽坂」から「早稲田」までを描いています。

神楽坂から早稲田まで

 神楽坂もまた戦災によっていったん亡滅したのち、戦後に再生した市街の一つである。東京の繁華街では、もっとも復興のおくれた街路の一つといったほうがより正確だろう。が、よしんば戦後いちはやく立ち直ったとしても、あるいはまた戦災をまぬがれたとしても、神楽坂の繁華街としての命運は、いまからいえばすでに半世紀前に尽きていた。

 私達は両側の夜店など見ながら、ぶらくと坂の下まで下りて行った。そして外濠の電車線路を越えて見附の橋の所まで行った。丁度今省線電車の線路増設や停車場の位置変更などで、上の方も下の方も工事の最中でごった返していて、足元も危うい位の混乱を呈している。
 

『大東京繁昌記=山手篇』におさめられている、加能作次郎の『早稲田神楽坂』の一節である。文中の≪坂≫は神楽坂で、≪見附≫は牛込見附だから、≪停車場≫が現在の国電飯田橋駅であることは言うまでもない。
 昭和二年に書かれたこの文章には、その工事中のありさまが写し取られているわけで、≪位置変更などで、上の方も下の方も工事の最中≫と記されているように、現在の千代田区側からいえば左手の直下にみおろされる濠ぞいの位置にあった牛込駅が廃されて、千代田区と新宿区とをむすんでいる牛込橋の右手前にあたる現在の場所に飯田橋駅が開業したのは、昭和三年の十一月五日であった。
 江戸期まで、両側が武家屋敷と寺院によって占められていた神楽坂通りが商店街となったのは維新後で、毘沙門さまとしてしたしまれている坂上の善国寺の縁日に夜店が出るようになったのは明治二十年以後だが、≪東京で縁日に夜店を出すようになったのはここがはじまり≫だと、昭文社版エアリアマップ『東京みてあるき地図』には記されている。その後、夜店は縁日にかぎらず夜ごと通りの両側を埋めるに至ったが、下町一帯を焼きつくした大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれたのは、飯田橋駅の開業に前後している。
 飯田橋駅ホーム下の飯田堀がわずかな水路をのこして埋め立てられたことは、第一章でも触れておいた。そこには高層ビルの建設が予定されているとのことだから、ビルの収容人員いかんによっては神楽坂に昔日の繁栄がもどる日もないとは断じきれないが、たとえば霞が関ビルほか多くのビルを擁する虎ノ門一帯にしろ、日没後の人通りは絶える。神楽坂の場合は、どうであろうか。
 関東大震災後のきわめて短い数年間を頂点に、繁華街としての神楽坂という大輪の花はあえなくしおれたが、いまも山ノ手の花の一つであることには変りがない。そのへんが、毘沙門さまをもつ神楽坂に対して金毘羅さまをもつ虎ノ門あたりとの相違で、小なりといえども花は花といったところが、現在の神楽坂だといえるのではなかろうか。
 開けっぴろげな原宿の若々しい明るさに対して、どこか古風なうるおいとかすかな陰翳とをただよわせている神楽坂は、ほぼ対極的な存在といってまちがいないとおもうが、将来はいざ知らず、現状に関するかぎり、その両極のゆえに私の好きな街の双璧といってよい。この両者の対置関係は六本木と人形町についてもほぼ同様にいえるかもしれないが、裏側に花街があるというだけの理由で神楽坂に下町情緒をみとめる人に、私は同意しかねる。本郷台をあいだにはさんで近接している下谷池之端と白山の花柳界には、下町と山ノ手の明らかな相違がある。神楽坂は山ノ手でしかないし、私はそれでいいとおもう。

亡滅 ぼうめつ。滅亡と同じ
半世紀前 関東大震災が終わって数年後の昭和初年ごろに終わったと考えます
東京みてあるき地図 昭和59年に発行。毘沙門天については

毘沙門天 国電飯田橋、地下鉄東西線神楽坂下車
 神楽坂に繁華街ができるもととなった社で、正しくは善国寺毘沙門堂という。この寺は文禄4年(1595)に池上本門寺の日惺土人によって麹町に屹立されたが寛政4年(1792)火災にあって、神楽坂に移転してきた。本尊は高さ約30センチの木彫の毘沙門天。東京で縁日に夜店を出すようになったのはここがはじまりという。

劫火 こうか。ごうか。世界が壊滅する時に、この世を焼き尽くしてしまう大火
飯田堀 第一章の「外濠線にそって」では「反対に飯田橋の橋下から牛込見附に至る、現在の飯田橋駅ホームの直下にある、ホームとほぽ同長の短かい掘割が飯田堀で、その新宿区側が神楽河岸である。堀はげんざい埋め立て中だから、早晩まったく面影をうしなう運命にある」と書いてあります。

飯田橋 夢あたらし

東京都の『飯田橋 夢あたらし』。外堀通りの水辺に家が沢山建っていました。

高層ビル ラムラ(RAMLA)が飯田堀にできました。住宅棟と事務棟の2棟からできており、事務棟は20階です。
金毘羅 金刀比羅宮。ことひらぐう。ここでは東京都港区虎ノ門一丁目にある神社
虎ノ門 虎の門に花街はなさそうです
六本木と人形町 六本木と原宿は若々しい明るい繁華街、人形町と神楽坂は古風な情緒にあふれる花街にあたりそうです。
下谷池之端と白山の花柳界 池之端は下町、白山は山の手です。2つの花街の気っ風がやはり違います。

城跡と色町

文学と神楽坂

 国友温太氏は『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)で、新宿のいろいろな事柄を書いています。この文章は色町たる神楽坂を描いています。

城跡と色町(昭和47年1月)

「お元日ね、そりゃ忙しかった。ご祝儀は背中に入れてもらうんです。家に帰ってね帯をほどくとバサって落ちるほど」
 神楽坂の待合のおかみ(元芸者・六十歳)は全盛時代を振り返る。三業地待合、料理屋、芸者屋の三種の営業が許可された区域)といえば、新宿区内ではまずここがあげられる。だが戦後、町の賑わいは昔日のそれと比すべきもない。三業地そのものが、バー、キャバレーに押されたのも原因だろう。(中略)
 ここは明治中期から盛んになった所だが、当時その道の案内書のランク付では、一等地は柳橋、新橋で、神楽坂は四等地。が、善国寺(俗に毘沙門さま)の縁日もあって、山の手随一の景況だった。
 昭和初期に至り、その隆盛を新宿駅周辺に奪われ、また、関東大震災の被害を受けなかったので「空襲も大丈夫と夕力をくくった」(町の古老)結果、焦土と化し復興も遅れた。ちなみに、昭和四年の芸者の数六百十九、四十四年十二月調べでは百七十二。

さて、この文章は簡素なものですが、問題は同時に付く写真です。下の「大正時代の神楽坂通り」はどこなのでしょうか。左手の前方には「琴三味線洋楽器」が見えます。続いて「正確なメガネ」が見え、さらに後方には「ほていや」が見えます。新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)によれば「ほていや呉服店」はかつて肴町(現、神楽坂5丁目)にありました。しかし、これ以外はなにもわかりません。
大正時代の神楽坂通り。菊岡三味線、機山閣、三角堂、ほていやが見えます
では、岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」の肴町(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年)を見てみると、

L

昭和五年頃、「ほていや」は同じように出てきますが、他に昭和5年頃に「菊岡三味線」が出てきます。写真に出てくる「琴三味線洋楽器」はこれではないでしょうか。しかも、店舗には「岡」の文字が浮かんでいます。その右側に「菊」もすこしだけ写っています。

さらに逆さまの「岡菊」の隣の店舗は「本」を売っているのではないでしょうか。これは上の写真で店舗には機山閣(KIZAN-KAKU)と書いていると思います。

拡大図(本と三角堂)

また、神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では「三角堂」というめがね屋もありました。右端に「三角」が出ています。店舗の上にも「堂角三」と書いてあるようです。

以上、この写真は肴町(現、神楽坂5丁目)から坂下を見た写真だと思っています。

浄瑠璃坂|砂土原町

文学と神楽坂

浄瑠璃坂

 浄瑠璃坂の地図はここで。浄瑠璃坂はJR市ケ谷駅と飯田橋駅のちょうど中間に位置し、この付近は高額マンションが並び、比較的静かな地域です。ここでは名前の由来に限って話を進めます。つまり浄瑠璃坂の仇討については調べてはありません。

 最初に夏目漱石の俳句で

雨がふる浄瑠璃坂の傀儡師(明治29年、「漱石全集」句番号662)

 傀儡師とは新年に各戸を回る門付けの一種。門付けとは家の門口で雑芸を演じたり,経を読んだりして金品を乞うこと。

 浄瑠璃坂の標柱は坂下にあります。

じょう  坂名の由来については、あやつり浄瑠璃が行われたため(『紫の一本』)、かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため(『再校江戸砂子』)、などの諸説がある。江戸時代、坂周辺は武家地であった。この一帯で寛文十二年(一六七二)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ、江戸時代の三大仇討の一つとして有名である。

あやつり浄瑠璃 操り浄瑠璃。三味線を伴奏とした浄瑠璃に合わせて、人形を操る芝居。
光円寺 浄瑠璃坂の仇討から200年が流れ、万延元年(1860年)の『礫川牛込小日向絵図』では当然ですがすでに光円寺はわからなくなっていました。しかし、横関英一氏はこの光円寺について調べています。あとで見ます。
浄瑠璃世界 [仏教]薬師如来の浄土。地は瑠璃から成り、建物・用具などがすべて七宝造りで、無数の菩薩が住んでいる世界。薬師浄土

横関英一氏の『続江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和50年)の「再考 浄瑠璃坂」では、標柱で書いた①②以外に③④があります。

1. 昔この坂の上に、操り浄瑠璃の芝居があったとするもの。(紫の一本)
2. この坂の近くに、天台宗の光円寺というお寺があって、その本尊は薬師瑠璃光如来で、須弥山の東方浄瑠璃国の教主であるということから、この坂を浄瑠璃坂と名づけたとするもの。(江戸砂子
3. 水野土佐守の長屋が六段になっていたので、浄瑠璃になぞらえて、この坂を浄瑠璃坂と呼んだとするもの。(江戸鹿子)
4. 水野の屋敷が六段になっていたので、浄瑠璃坂と名づけたのだというが、水野家の屋敷がこの坂にできる前からこの名はあったのだ。水野家の屋敷がないころは、六段の長屋もなにのであるから、この六段の長屋によって、坂の名前ができたという説は疑わしいとするもの。(新編江戸志)

 さらに、山野勝氏の『古地図で歩く江戸と東京の坂』(日本文芸社)では、これを詳しく説明し

 浄瑠璃坂の坂名の由来には諸説ある。①昔、この坂上に操り人形浄瑠璃の芝居小屋があったからという説。②かつて、坂の近くに天台宗・光円寺という寺があり、その本尊は薬師如来だったが、この如来は須弥山にある東方浄瑠璃国の教主であることから浄瑠璃坂の名が生まれたという説。③切絵図に見えるように、坂の南東に和歌山藩付家老・水野土佐守(3・5万万石)の上屋敷があり、屋敷の長屋が坂に沿って6段になっていた。ここから浄瑠璃の6段にかけて浄瑠璃坂と呼んだという説。④いやいや、浄瑠璃坂という地名は水野家の屋敷ができる前からあって、実は坂そのものが6段に波うっていて、六段坂と呼ぶべきを浄瑠璃の段になぞらえて浄瑠隅坂といったとする説などがある。

 大石学氏の『坂の町 江戸東京を歩く』(PHP研究所)では「坂名の由来に三つの説」があるとして

『東都紀行』には「(そもそも)此坂をかく云事は、紀州之御家司(けいし)(家臣)水野氏が、長屋の六段(ある)が故とかや、此浄瑠璃と云(きよく)(中略)六段宛に作り出す故、此坂の名も呼付けり」と、水野氏の長屋が六段あり、浄瑠璃が六段編成であることにかけたためとの説をあげている。
 しかし『紫の一本』によると、「浄瑠璃坂、おなじ片町の内、田町といふ町よりあがる坂をいふ、むかし此坂のうへにて(あやつり)浄瑠璃の芝居ありし故名とす、今水野土佐守の長屋六段あるゆゑ、浄瑠璃の六段によみかへて名付けたりといふ、嘘説なり」と『東都紀行』の説を否定し、浄瑠璃の芝居小屋があったことにちなむとする説をあげている。
 同様に『江戸砂子』では、「むかし此坂のうへに浄るり芝居ありしゆへの名也といふ。又水野家のやしき六段にたちしゆへにいふとも。しかし水野家のやしき此所になきまへよりの名なりと云」と、やはり『東都紀行』の説を否定し、浄瑠璃小屋の説をとっている。
 ただし時代が下って出された『続江戸砂子』では、「浄るり坂の事、前板の説とりがたし。考るに天台宗光円寺此所にちかし。かの寺の本尊薬師は、むかし諸人はなはだ信仰深かりし霊仏なりとかや。梅林坂より牛込へ寺をうつされしは元和(げんな)のはじめなりとあれば、東方浄瑠璃世界の主なるかゆへに薬師によりて浄るり坂といひたるかしらず」と、坂の近くにあった光円寺の本尊である薬師瑠璃光如来からの説をあげている。
 つまり浄瑠璃坂の由来には、①水野氏の長屋説、②浄瑠璃の芝居小屋説、③薬師瑠璃光如来説、これら三つの説があることになる。

 さて、横関英一氏の「再考 浄瑠璃坂」によれば、丸の中に「水ノツシマ」と書いてあり、水野土佐守(3.5万石)の上屋敷を示し、その上の階段と矢印は浄瑠璃坂を示すといいます。

新板江戸外絵図

寛文12年(1672年)

 また、横関英一氏は光円寺を探し当てます。

問題の光円寺というお寺を探すと、薬竜山正蔵院光円寺という寺があると思う。天台宗で正蔵院といったほうが有名で、本尊は草刈薬師である。しかも長禄年間千代田村に創建し、いまの地に移ってきたのは元和元年であったという。いまの地というのは、牛込は牛込だが、もとの牛込通寺町で、今日の新宿区神楽坂六丁目の正蔵院ということになるので、通寺町では距離からいっても、浄瑠璃坂からはあまりにも離れすぎている。

 実は江戸時代では決して遠くはないと思います。これぐらいなら簡単に行って帰ってくると、当時の人は考えます。しかし、これから横関氏は正蔵院は関係はないとして、結論として第四の説が正しいとします。

 この4の説はいちばん正しいと思う。この坂の名は、水野屋敷が六段になっていたので、その六段から浄瑠璃坂の名ができたのではなく、水野屋敷がここにできる前から、浄瑠璃坂という名はあったのだというのである。してみると、六段は水野屋敷が六段になっていたということではなくて、坂そのものが六段になっていたのだということになるが、それは大事なことである。
 九段坂だの五段坂だのという坂の名は、決して坂のそばの屋敷の造りの段数によって、唱えられたものではない。少なくとも、初めは段坂そのものの段数によったものであって、それが坂の名になったのである。浄瑠璃坂の名前も、段坂の数によって、六段坂と呼ぶべきを、浄瑠璃坂としゃれたのではないだろうか。

 ちなみに、古浄瑠璃までは6段の構成が主流でした。現在は5段の構成です。日本芸術文化振興会の文章を簡単に書くと「初段は事件の発端を書き、二段目は善と悪との争いで、三段目は善の抵抗とその悲劇、四段目には雰囲気が変り、悪の末路を示し、五段目は、秩序の回復と大団円」で終わるようです。

芥坂|鷹匠町と砂土原町

文学と神楽坂

 芥坂(ごみざか)です。都内には沢山の芥坂がありますが、ここでは新宿区の鷹匠町と砂土原町との間の芥坂を取り上げます。場所はここ

 まず横関英一氏の『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年。中央公論社、昭和56年)では

 芥坂と鉄砲坂とは、特別に関連はないのだが、ただともに坂路の崖下の特徴をつかんで、施設され、活用されているところが似ているのである。芥坂はその崖下に芥捨場ができていた。それから鉄砲坂は、崖下に特別な施設をした幕府の鉄砲練習所があった。坂を利用した施設と言えば、これら二つのもの以外にはなかったようである。もっとも、展望のよい坂の上などを利用して、火の見櫓を立てて、そこへ火消屋敷を施設したということはあるが、それが坂の名になったものは一つもない。小石川伝通院前の安藤坂の定火消屋敷、市ヶ谷左内坂上、駿河台紅梅坂上、溜池の霊南坂上などの火消屋敷が、この例である。

 ただし、鷹匠町と砂土原町の芥坂はこの本ではありません。

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

芥坂(ごみざか) 鷹匠町二番と砂土原町一丁目二番の間を長延寺町へ南下する石段坂。芥坂という坂名は江戸の坂にすいぶん多く残っている。文字通り芥捨て場にした坂であろうが、痩嶺坂、蜀江坂というような漢学流に凝った坂名より、むしろ何気なくつけられたまま何百年もそれが呼名として現存しているのが、かえって親しみやすい気がするのである。今でもちょっと裏町の坂路には塵芥のポリバケツが坂下などに集積されていたり、小型トラック、中古自動車などが片側にならんで置かれてたりして、カメラの邪魔になって腹立しい気がすることもあるが、それは昔も今もさしたる変わりはなく、裏町の坂が芥捨ての場であったり、夜泣きそばの屋台車などがひっそりとおかれていたのであろう。
 この芥坂の下は大日本印刷の工場の片隅であるが、坂上は高級住宅のならぶ道である。鷹匠町という町名はここが江戸時代には御鷹匠組の組屋敷だったためで、「府内備考」に「鷹匠町 昔御鷹匠の組屋敷ありしといふ。」と記されている。
ごみ坂と歩道橋

ごみ坂

地図の芥坂

地図の芥坂

 現在、芥坂の一部が残り、残りは「ごみ坂歩道橋」になっています。

 道家剛三郎氏の「東京の坂風情」(東京図書出版社、2001年)では

 鰻坂の西はずれは浄瑠璃坂上でもある。もとは南西へ急落する段坂があって、崖地の藪や樹木のために別名のような坂名がふさわしかった。崖上の武家屋敷からのゴミも捨てられていたことであろう。ところが今ではこの坂の様子は一変している。崖下のこの辺り一帯は大日本印刷の工場構内であって、かつての公道でもうかつに歩いていようものなら、守衛がとんできて誰何(すいか)(あなたは誰ですか)されることになる。そのような環境であるから、芥坂を崖上から下りてきて、その辺りを関係者以外の方がうろうろされては、会社としましてはなはだ困るのであります。というわけで、市谷左内町、本村町の方へ往来なさるかたのために、石段坂上あたりから歩道橋となって構内の低いところを跨いでいるのである。つまり段坂は消えて、歩道橋の入口に芥坂の存在していたことを記した案内表示があることで、やっと捜しあてた安堵のあとに虚しさを感じたのは、非生産的な人間の身勝手さなのであろうか。もとの段坂ならば八五点くらいの評点であるのが、あまい六〇点となったのは、それでも坂上付近にわずかな面影が残っていたからである。

神楽坂の通りと坂に戻る場合は
ほかに歌坂鼠坂鰻坂中根坂