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書かでもの記|永井荷風

文学と神楽坂

永井荷風

 大正7(1918)年、永井荷風氏が39歳の時に書いた『書かでもの記』です。矢来町で永井氏と師匠の広津柳浪氏が初めて出会いました。

 永井荷風は小説家で『あめりか物語』『ふらんす物語』『すみだ川』などを執筆、耽美派の中心的存在になりました。また、花柳界の風俗を描写しています。生年は明治12年12月3日。没年は昭和34年4月30日。享年は満79歳でした。

 そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、すだれの月』と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町うしごめやらいちょうなる広津柳浪ひろつりゅうろう先生の門を叩きし日より始まりしものといふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしがひとばしなる校舎におもむく日とてはまれにして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席よせを見歩きたまさかいえにあれば小説俳句漢詩狂歌のたわむれに耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四、五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念ようやく押へがたくなりければ遂に何人なんびとの紹介をもたず一日いちにち突然広津先生の寓居ぐうきょを尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしはあらかじめ電話にて春陽堂に聞合せたるによつてなり。
 余はその頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。『今戸心中いまどしんじゅう』、『(くろ)蜥蜴とかげ』、『河内屋かわちや』、『亀さん(とう)の諸作は余の愛読してあたはざりしものにして余は当時紅葉こうよう眉山びざん露伴ろはん諸家の雅俗文よりも遥に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。
 先生が寓居は矢来町の何番地なりしや今記憶せざれど神楽坂かぐらざかを上りて寺町てらまちどおりをまつすぐに行く事数町すうちょうにして左へ曲りたる細き横町よこちょうの右側、格子戸造こうしどづくり平家ひらやにてたしか門構もんがまえはなかりしと覚えたり。されど庭ひろびろとして樹木すくなからず手水鉢ちょうずばちの鉢前には梅の古木の形面白くわだかまたるさへありき。格子戸あけて上れば三畳つづいて六畳(ここに後日門人長谷川濤涯はせがわとうがい机を置きぬ。)それより枚立まいだてふすまを境にして八畳か十畳らしき奥の一間こそ客間を兼ねたる先生の書斎なりけれ。とこには遊女の立姿たちすがたかきし墨絵の一幅いっぷくいつ見ても掛けかへられし事なく、その前に据ゑたる机は一閑張いっかんばりの極めて粗末なるものにて、先生はこの机にも床の間にも書籍といふものは一冊も置き給はず唯六畳のとの境の襖に添ひて古びたる書棚を置き麻糸にてしばりたる古雑誌やうのものを乱雑に積みのせたるのみ。これによりて見るも先生の平生へいぜい物に頓着とんじゃくせず襟懐きんかい常に洒々落々しゃしゃらくらくたりしを知るに足るべし。

簾の月 その原稿は今でも行方不明になったままで、荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものだという。
外国語学校 旧制東京外国語学校。現在は東京外国語大学。略称は外語大、外大、東京外大など
たまさか 思いがけず、そのような機会を得る。たまたま
 ぎ。たわむれ。面白半分にふざける
寓居 仮の住まい。わび住まい
今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描く
黒蜥蜴 くろとかげ。明治28年発表。醜女お都賀が無頼の(しゅうと)を毒殺し、自殺するまでの人生を描く。
河内屋 かわちや。明治29年発表。封建主義の制度下にある家の問題点を明るみにだす
亀さん 明治28年発表。遊女と遊んだ亀麿は、女性数名に強姦未遂を起こす。一方、遊女は火災で死亡する。
雅俗文 雅俗折衷文。がぞくせっちゅうぶん。地の文は文語文(雅文)で書き,会話は口語文(俗文)で書く文体
格子 対話体 話し言葉(口語文)の文体。
何番地 牛込矢来町3番地中の丸52号(http://www.library.shinjuku.tokyo.jp/jinbutuyukari/detail.php?id=63)でした。3番地は大きすぎて、大正か昭和になってから新しい番地をあてています。では新番地ではどこにあるのでしょうか。「広津和郎の生家」で考えをまとめて、73番地でした。
寺町 寺院が集中して配置された町。ここでは牛込区横寺町と通寺町のこと。
格子戸造 こうしどづくり。格子状の引き戸や扉が主の建造物。採光や通風もできる。
門構 もんがまえ。門をかまえていること
蟠り わだかまり。心の中に解消されないで残っている不信や疑念・不満など
手水鉢 ちょうずばち。手を洗ったり、口をすすいだりするための水(=手水)を溜めておく鉢。寺社の境内に置かれるほか、茶庭や日本庭園の重要な構成要素
長谷川濤涯 はせがわとうがい。明治40年から大正2年まで「東京の解剖」「誤られたる現代の女」「海外移住新発展地案内」「婦人と家庭」などを書いています
4枚立4枚立 よまいだち。柱と柱の間に4枚の襖が入るもの
一閑張 竹や木で組んだ骨組みに和紙を何度も張り重ねて形を作り、柿渋や漆を塗る。食器や笠、机などの日用品に使いました。
襟懐 きんかい。心の中。胸のうち。
洒洒落落 しゃしゃらくらく。性質や言動がさっぱりして、物事にこだわらない

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神楽坂の今昔3|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。氏は小説家と随筆家で、1926(大正15)年、日本国有鉄道(国鉄)本社に入社し、1932(昭和7)年には、法政大学高等師範部を卒業しています。

 ◆ 面白い口上とサクラ
 現在は五の日だけ、それも毘沙門さんの前に出るだけだが、当時は、天気さえよければ、神楽坂両側全部に夜店がならんだ。
 まず思い出すのは、バナナのたたき売りだ。
 戸板の上に、バナナの房を並べ、竹の棒で板をたたきながら、「さあ、どうだ、一円五十銭」と値をつけて、だんだん安くしていく。取りかこんだお客に、「お前たちの目は節穴か、それとも余程の貧乏人だな」などと毒舌をはきながら、巧みに売りつける。こちらも、そんな手にはのらない。大きな房が五十銭、中くらいが三十銭まで下がるのを待つ。そのカケヒキが楽しかった。一篭十二貫入りが十篭も売れたものだ。
 万年筆売りの口上は、いつでも倒産の整理品か、火事の焼け残り品にきまっていた。店が倒産して、給料代わりにもらった品だから、二束三文で売るのだという。また万年筆にわざわざ泥をつけて、いかにも火事場から持ってきたように見せかけ、泣きを入れてお客の同情をそそった。
 毎晩同じセリフで商売になったのだから、悠長な時代でもあったし、同時にその品物が、それほどのゴマカシものではなかったわけだ。
 サクラ専門の男がいて、「おー、これは安い。三本もらおう」といって買って行くが、一時間もすると、再びやってきて、今度は五本も買う。
 彼は、万年筆屋専属でなく、カミソリ屋にも頼まれていて、「おや、これはドイツのゾリンゲンじゃないか。日本製と同じ値段だな」などといって買うのであった。
 ガマの油売りもいた。暗記術というのもあった。その他屋台では、すし、おでん、串カツ、それから熊公焼きというアンコ巻きもよく売れていた。カルメ焼き電気アメ、七色とうがらし、小間物、台所用品、ボタン、衣料、下駄などの日常必需品、植木、花、金魚、花火なんでもあった。

口上 口頭で事柄を伝達すること。俳優が観客に対して、舞台から述べる挨拶。
ゴマカシもの いんちきな品。にせもの
サクラ 露店商などの仲間で、客のふりをし、品物を褒めたり買ったりして客に買い気を起こさせる者。
ゾリンゲン Solingen. ドイツ西部、ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。刃物工業で有名
ガマの油売り 筑波山のガマガエルから油をとり、傷を治す軟膏を売る人
あんこ巻き 小麦粉の生地で小豆餡を巻いた鉄板焼きの菓子。
カルメ焼き 砂糖を煮つめて泡立たせ、軽石状に固まらせた菓子。語源はポルトガル語のcaramelo(砂糖菓子)から。
電気アメ 綿菓子のこと。

 ◆ 文士と芸者とたちんぼ
 大正から昭和へかけて、牛込界隈には多くの文士が住んでいた。また関東大震災で焼け残った情緒のある街神楽坂へ、遠くからやってくる文士もあった。それらの人たちが、うまいフランス料理を食べさせる田原屋へみんな集まったのであった。夏目漱石吉井勇菊池寛佐藤春夫永井荷風サトウハチロー今東光今日出海、その他、芸能人の顔も見られた。
 このうちの幾人かは、自分のウイスキー(ジョニ赤)を預けておき、料理を取って、それを飲むという習慣だったそうだ。いま流行しているキーボックス・システムのはしりといっていい。
 文士の皆さんも、田原屋だけでなく、神楽坂三丁目裏の待合でお遊びになったと思うが、当時は芸者が千五百人もいた。だから、夕方になると左褄(ひだりづま)をとった座敷着の芸者が、神楽坂を上ったり下ったりする姿が見られた。
 現在は、わずかに二百人である。しかも、ホステスともOLとも区別がつかぬ服装で、アパート住まいの芸者が出勤して来るのだから、風情も何もないのである。
 神楽坂下には、たちんぼと呼ばれる職業の人が二、三人いた。四十過ぎの男ばかりで、地下足袋股引(ももひき)しるしばんてんという服装だった。
 八百屋、果物屋その他の商売の人たちが、神田市場、あるいはほかの問屋から品物を仕入れ、大八車を引いて坂下まで帰ってくる。一人ではとても坂はあがれない。そこで、たちんぼに坂の頂上まで押してもらうのであった。
 いくばくかの押し賃をもらうと、彼らは再び坂下に戻って、次の車を待つのであった。この商売は、神楽坂だけのものだったにちがいない。

ジョニ赤 スコッチウイスキーの銘柄ジョニー・ウォーカー・レッドラベルの日本での愛称
キーボックス・システム 現在はボトルキープと呼びます。酒場でウイスキーなどの酒を瓶で買って残った分を店で保管するシステム。
左褄を取る 芸者が左手で着物の褄を取って歩くところから、芸者になる。芸者勤めをする。
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
ホステス hostess。バーやナイトクラブなどで、接客する女性。
OL 和製英語 office lady の略。女性の会社員、事務員。
たちんぼ 道端、特に坂の下などに立って待ち、通る荷車の後押しをして駄賃をもらう者。
地下足袋 じかに地面を歩く足袋。「地下」は当て字
股引 ズボン状の下半身に着用する下ばき。江戸末期から、半纏はんてん、腹掛けとともに職人の常用着。
しるしばんてん 印半纏。襟や背などに、家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から、職人などが着用した。
神楽坂だけのもの 昭和初期まで東京中で見られ、神楽坂だけではないようです。

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神楽坂の今昔2|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。氏は小説家兼随筆家で、1926(大正15)年、日本国有鉄道(国鉄)本社に入社し、1932(昭和7)年には、働きながら、法政大学高等師範部を卒業しました。なお、ここで登場する写真は、例外を除き、毎日新聞社刊の「大学シリーズ法政大学」に出ていた写真です。

 ◆ 学生は飲んで突いた
 豊かでない私たちは、安い店を選んで飲んだ。白十字の近くに樽平があった。お銚子の金印が二十銭、銀印が十五銭で、当時の安い店――須田町食堂渋谷食堂の八銭から十二銭にくらべると少し高いが、おと・・()を四品つけてくれるのが魅力であった。もちろん私たちは銀印であった。
 右側の頂上近くの横丁に、東京亭というカフェーがあった。そこの女給さんが、私の友だちのS君にほれて、つれて来てくれと頼まれるのだが、彼は運げまわるのだから閉口した。若いころから私は運が悪かった。東京亭の近くのおでん屋いくよにはよく通った。
  学生の遊びとしては、まだ麻雀屋のない時代で、もっぱら悠長で上品な玉突きを楽しんでいた。地元の商店の若主人などもビリヤードのお客であった。
 右側の下から二つ目の横丁をまがった左側のビリヤードに、先代の林家正蔵がよく来ていた。神楽坂演芸場へ出演の合間の暇つぶしだったのだろう。彼は少しヤブニラミの気味だったがよく当たった。

須田町食堂

 大正13年、須田町食堂は東京神田須田町で値段が手ごろな「簡易洋食」として創業しました。やがて、大きくなり、大衆食堂チェーンをつくりました。これが聚楽じゅらくの始まりです。

 神楽坂の須田町食堂は神楽坂一丁目10にありました。現在は、三経第22ビルという雑居ビルになっています。

 安井笛二氏は「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)で…

◇須田町食堂 れいの須田町食堂の神樂坂支店であります。此のへんに氣の利いた大衆たいしう食堂しよくだうがありませんので擧生やサラリーマンなとの人氣にんきを一手に引き受けてゐます。カツライス(十三錢)が人氣ものでよるはお酒(一本十三錢)に湯豆腐ゆどうふや肉なぺの客が多い。」と書いてあります。

この右図は、志満金などを中心に神楽坂下から上にかけて左側の商店だけを抜き出したものです。右図の左側は平成29年、中央は平成8年12月、右側は昭和5年頃の商店です。

白十字 現在はポルタ神楽坂に隠れてしまいました
樽平 現在はラーメン屋「天下一品」
金印 昔は中国の皇帝がその地位に応じて玉印・金印・銀印・銅印などが与えられました。これが元でしょうか。
渋谷食堂 渋谷区宇田川町にあった大衆食堂。
おとおし お通し。日本料理で、その注文を帳場へ通すときに出す、簡単な料理。
東京亭 神楽坂仲通りにあったカフェーです。安井笛二氏の『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』では

白木屋横町――小食傷(せうしよくしやう)新道(しんみち)の観があって、おでん小皿盛りの「(はな)()」 カフェー「東京亭」 野球(やきう)おでんが看板(かんばん)の「グランド」 縄のれん式の()料理(れうり)「江戸源」 牛鳥鍋類の「笑鬼(しうき)」等が軒をつらねてゐます。

いくよ わかりません。近くにおでん屋「お豊」がありました。これと間違えていた?
玉突き ビリヤードのこと
先代の林家正蔵 6代目のこと。生年は1888年11月5日。1918年4月、6代目正蔵。没年は1929年4月25日。当たりネタは「居残り佐平次」
 
 

 ◆ 学生の娯楽は映画と寄席
 レストラン田原屋の裏に、洋画のセカンドランで有名な牛込館があった。弁士は、これも一流の徳川夢声山野一郎松井翠声で、学校をさぼった法政の学生でいつも満員だった。
 肴町都電通りを越えて、通寺町へはいった右側に、日本映画専門の文明館があった。坂の左側の宮坂金物店の角を曲がった横丁に、神楽坂演芸館があって、講語、落語がかかっていた。当時は、金語楼が兵隊落語で売り出していて、入場料を一円二十銭も取られた覚えがある。お客は法政や早稲田の学生が多いので、三語楼は、英語入りの落語をあみだして、これも人気があった。

 ◆ 歩行者天国のはしり
 神楽坂は、私の知るかぎり、空気が汚染されていない数十年前から、歩行者天国を実行していた。冬は午後五時、夏は六時ごろから夜中まで、諸車通行止の札が立てられた。たしか麻布十番と八丁堀も、同じように歩行者天国を実行していた。
 夏になると、たいていの家では、夕食後一家そろって、浴衣がけで神楽坂へ出たものだ。背広で歩いているのは、会社の帰りか、用事のある人であった。だから、遠くから眺めると、一本の白い帯のように見えた。
 歩道と車道の区別はなかったから、道いっぱいにあふれた人たちが、両側にぎっしり並んでいる夜店をひやかしながら、アセチレン灯に照らされて、一度ではなく、二度、三度往復したものだ。

セカンドラン 映画を封切り館後の二番目に上映すること。
肴町 神楽坂五丁目のこと
都電通り 大久保通りのこと
通寺町 神楽坂六丁目のこと
アセチレン灯 アセチレンを燃料とする照明用の灯火。すすが多く、独特の臭いがある。

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神楽坂の今昔1|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。なお、『ここは牛込・神楽坂』第17巻にも「残っている老舗」だけを除いた全文が出ています。余計なことですが、『ここは牛込・神楽坂』の「特別になつかしい街だ」でなく、毎日新聞社には「特殊になつかしい街だ」と書いてあります。(意味は「特別になつかしい街だ」が正しいような気もしますが)
 なお、ここで登場する写真は、例外を除き、毎日新聞社刊の「大学シリーズ法政大学」に出ていた写真です。

 ◆ 舗装のはしり
 大正十五年の春、旧制の松本中学を卒業した私は、すぐ東京鉄道局に就職し、小石川区小日向水道町の親戚に下宿したから、朝夕神楽坂を歩いて通勤したのであった。だから、私にとっては、特殊になつかしい街だ。
 関東大震災で、市外の盛り場の大部分は灰燼に帰したが、運よく神楽坂は焼け残ったので、人々が方々から集まって来て、たいへんにぎやかであった。
 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物佐和屋あたりに、昔は段があった。
 御影石も摩滅するとすべった。そこで、時々石屋さんが道に坐りこんで、石にきざみを入れていた。戦後、アスファルトにし、次にコンクリートにしたのである。

東京鉄道局 鉄道省東京鉄道局。JRグループの前身。
小石川区小日向水道町 現在は文京区水道一丁目の一部。
関東大震災 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方南部を襲った大震災。
木煉瓦 もくれんが。煉瓦状に作った木製のブロック。
御影石 みかげいし。花崗かこう岩や花崗閃緑せんりょく岩の石材名。兵庫県神戸市の御影地区が代表的な産地。
小間物 日常用いるこまごましたもの。日用品、化粧品、装身具、袋物、飾りひもなど

 ◆ 残っている老舗
 久しぶりに神楽坂を歩いてみた。戦災で焼かれ、復興がおくれたために、今度はほかの盛り場よりさびれてしまった。しかし、坂を上り また下って行くというこの坂の街には、独特の風情がある。
 神楽坂下側から、坂を上りながら、昭和のはじめからの老舗を私は数えてみた。右側から見て行くと、とっつけに、ワイシャツ・洋品の赤井商店、文房具の山田紙店、おしるこの紀の善(戦前は仕出し割烹)、化粧品・小間物の佐和屋、婦人洋品の菱屋、パンの木村屋、生菓子の塩瀬坂本硝子店、文房具の相馬屋などが今も残っている。
 左側では、きそばのおきな庵、うなぎの志満金夏目写真館戦前は右側)、広東料理の竜公亭、袋物・草履の助六、洋品のサムライ堂、果物・レストランの田原屋などが老舗である。まだあるはずだが思いだせない。

とっつけ カ行五段活用の動詞「取っ付く」から。「取っ付く」は物事を始めること。
戦前は右側 戦後は夏目写真館は左側(南側)でしたが、2011年に「ポルタ神楽坂」ができると、右側(北側)の陶柿園の二階になりました。右の写真は「わがまち神楽坂」(神楽坂地区まちづくりの会、平成7年)から。当時は夏目写真館は坂の南側にありました。

◆ 消えたなつかしい店
 戦後か、その少し前に消えたなつかしい店がいく軒かある。左側上り囗に、銀扇という喫茶と軽食の店があった。コーヒー、紅茶が八銭、カレーライス十五銭。法政の学生のたまり場であった。
 坂の頂上近くに、果物とフルーツパーラーの田原屋があった。銀座の千匹屋にも負けないいい店だった。
 毘沙門さんの手前に、喫茶の白十字があった。女の子はみんな白いエプロンをつけ、後ろで蝶結びにしていた。この清純な娘さんと法政の学生との恋愛事件がいくつかあった。
 現在の三菱銀行のところに、高級喫茶の紅谷があった、水をもらうと、レモンの輪切りが浮いていた。田舎者の私はすっかり感心した。
 右側では、頂上から肴町のほうへ少し下ったあたりに、山本コーヒー店があり、うまいドーナッツで知られていた。その先におしるこの三好野があった。芸者さんにお目にかかるために、時々寄ったものだ。
白十字  神楽坂には白十字に新旧の2つの喫茶店がありました。安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では

◇白十字――白十字の神樂坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同樣喫茶、菓子、輕い食事等。

 1つは坂の上り口で、1つは毘沙門から大久保通りに近い場所にありました。「毘沙門さんの手前」は坂の上り口を示しているのでしょうか。

三菱銀行のところ 大正6年、3丁目の三菱銀行のところには川崎銀行がありました(飯田公子「神楽坂 龍公亭 物語り」サザンカンパニー、平成23年)。紅谷は五丁目でした。

自然主義小説のころ|柳田国男

文学と神楽坂

 日本民俗学の創始者だった柳田国男ですが、10代のころは、新進気鋭の短歌の歌人でした。明治25(1892)年、数えで18歳、やはり短歌の田山花袋(数えで22歳)が初めて柳田氏に会いにきています。二人は親友になりました。それから時は流れ、20代後半から30代には、柳田氏の邸宅での土曜会がでてきました。やがて、この会は自然主義の文士が集まる竜土会になっていきます。これは柳田国男が自叙伝『故郷七十年』で描いた、その当時の会の様子です。

 自然主義という言葉を言い出したのは、田山であったろう。しかも英語のナチュラリズムという言葉をそのまま直訳したのだが、はじめは深い意味はなかったと思う。田山は何か私らの分らない哲学的なことを言い出したりしたが、それはもう後になってからの話であった。それよりはもっと平たく言えば、やはり通例人の日常生活の中にもまだ文学の材料として採るべきものがあるということを認めて、それを扱ってみようとしたといえると思う。
 別に私が田山に話したような奇抜なものだけを書かなければならないわけはない。たとえば二葉亭の「浮雲」や坪内さんの「書生気質」だって、別に変ったところもないだけに、かえって広い意味の自然主義の発端といえないこともなかろう。田山は私の犯罪調査の話ばかりでなく、私が旅行から帰って来ると、何か珍しい話はないかといって聞くことが多かった。私が客観的に見て話してやったのを彼が書いたものの中には、特赦の話以外にも多少注目に値するものもあった。不思議なことには、文学者というものは、われわれの話すことを大変珍しがるものである。想像もできないとかいって感心する。いわゆる「事実は小説よりも奇なり」というわけだろう。それにこちらもいくらか彼等にかぶれて、西洋の写実派の小説などを読んでいるために、そんな例までくらべて話してやるものだから、一時は大変なものであった。そしてとうとう、あすこへ行きさえすればたねがあるというようなことになった。
 小栗風葉など一番熱心に参加した。家があまり困らないものだから不勉強で、代作などを盛んにさせた元祖であった。真山(まやま)青果(せいか)などは初めのうち、ずっと風葉の名前で書いて生活をしていた。青果の方では自分の名で出せるようになるまでは、練習のつもりで代筆をしていたわけであろう。ともかく風葉などは、私のところへ来れば新しい話があるという気で、私に対していたのである。
 それからもう一人は、硯友社の川上眉山(びざん)であった。眉山は家庭が複雑で、気になることが多いためか、酒でまぎらすことが多かった。それに文筆で生活をする必要があって、骨が折れたらしい。しかも硯友社同人の立場にいながら、新興文学の端緒にも触れようという気持が強くて、森鴎外さんのものを片っ端から読んでいた。それに続いては国木田のものなどをよく読んでいた。死ぬ一年か一年半くらい前は、よく私のところに来た。
 それで十人ばかりの仲間が私の家に集まった。土曜日に催したから土曜会ということにしたが、毎週ではなく、たしか月二回ぐらいやっていたと思う。国木田がもちろん陰の黒幕で、島崎君もときどきは加わった。皆が集まった動機といえば、田山ばかりがたねをもらいに行って、うまいことをしているからということであった。明治三十七、八年のころだと思う。欧州でも二十世紀の初めで、英国の文学の一つの変り目にあたり、大陸の文学を盛んに英訳をしだした、ちょうどその時期に当っていた。フランスのドーデのものの英訳などが出始めたので、私が田山にすすめたことを憶えている。船に乗る人が盛んに買ったジャックの船上本などという英訳本が、日本にも来たものである。私は丸善に連絡をとっておいて、手元に届くたびに土曜会の連中に紹介した。この土曜会が後に快楽亭の会になり、三転して竜土(りゅうど)(かい)となったのである。
柳田国男の邸宅

柳田国男の邸宅

ナチュラリズム naturalism。自然主義。文学では客観描写を本領とする写実主義。哲学では自然を重視し、すべての現象を科学的法則で説明する。自然論。神学で、宗教的真理は自然の研究で得られるとする。
奇抜なもの 柳田国男が法制局で出会った特赦の例。子供や愛人が死亡し、自分だけが生きる悲惨な実例。
浮雲 小説。未完。明治20~89年発表。知識青年内海文三を通して明治の文明・風潮を批判し、自我の目覚めと苦悩とを写実的に描く、言文一致体の近代写実小説。
書生気質 当世書生気質。とうせいしょせいかたぎ。小町田こまちだ粲爾さんじという書生と芸妓との恋愛を中心に、当時の書生風俗の諸相を写実的に描き、「小説神髄」の理論の実践化を図ったもの
あすこ 牛込加賀町の柳田国男の邸宅。1901(明治34)年から1927(昭和2)年までこの加賀町に住んでいました。
土曜会 明治後期の文学者の集まり。1900年代初頭、東京牛込加賀町の柳田国男邸に田山花袋、国木田独歩、小栗風葉、柳川春葉、生田葵山、蒲原有明などが集まって文学談を交わした。次第に参加人数が増え、1902年1月、麴町の西洋料理店快楽亭の会合からは会場を外に設けた。牛込赤城神社下の清風亭、雑司ヶ谷鬼子母神の焼鳥屋などに移り、柳田国男氏の年譜では1905年7月、麻布竜土町のフランス料理店竜土軒が月例会場となった。近松秋江氏によれば「自然主義は龍土軒の灰皿から生まれた」という。
ドーデ フランスの小説家・劇作家。Alphonse Daudet。1840年~1897年。故郷プロバンス地方の風物を温かな人間味と詩的情緒豊かな作風で描いた。短編集「風車小屋便り」「月曜物語」、小説「プチ・ショーズ」、戯曲「アルルの女」など
ジャックの船上本 不明です。
快楽亭 麹町英国公使館裏通りの洋食店
竜土会 麻布竜土町のフランス料理店竜土軒から

亀十|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

「製菓実験」昭和13年4月号に「亀十」が出ています。肴町21番地(現在は神楽坂5丁目21)のパン屋さんです。現在は「‎おかしのまちおか」に変わりました。

龜十

倉本
 老廢的存在の設計屋や、教養のない大工さんなどが、新人の眞似をしてやると、こういふ設計が出來上るのである。この店ばかりでなく、到るところに、このやうにマゴツイた店が多いものである。感じは惡いけれども、俗つぽく目につくところは、カヘツテ強い存在を主張する。
 パンとサンドウヰツチと和菓子といふよくばつた多角的経營は果してどうだらうか。見かけたところどうしても、パン屋さんである。こういふ構えの店でも和菓子は賣れるに相違ないけれども、大したことではない。良い和菓子を買う人は、こういふ店へはよりつくまいとおもふ。
 などと、惡くいふが、しかし、大工さんは、この店構えを非常によいと思つて設計したのであらう如くに、一部大衆も亦、かういふのを好むのであるから、御主人は大いにお店を自慢しでよい筈である。


 可なり凝つたデザインではあるが、全体的に見てデテイルの調和が取れてゐない。その爲に何處なく素人臭い設計である。ケースの配置はかなりすつきりして面白いと思ふ。
 向つて右横の入口の處と左側の壁面の處が少し物足りないやうに思はれる。
 客が店頭のみで買物をする傾向が感じられるがもしそれが事實ならもつと奥迄客を導く手段を考へる必要があらう。

老廃 年をとったり、古くなったりして役に立たなくなること。
まごつく どうしていいかわからず、迷う。まごまごする。
如く 活用語の連体形、体言、助詞「の」「が」に付いて、比喩や例示を表す。…のように。…のとおり。「彼の言うごとく市場はまもなく安定した」「脱兎のごとく逃げ帰った」「10年前のことが今さらのごとく思い出される」
デテイル ディテール。detail。全体の中の細かい部分。細部。

 これを「かぐらむら」2009年12月号の「今月の特集第2部 戦前編 記憶の中の神楽坂」ではこう描いています。

肴町21番地。現在、ファミリーマートが在る場所(神楽坂6-77)で、大正末から平成の初めまでパンと菓子の店だった。この建物は調和に欠ける面があるものの、大工さんが凝りに凝ってデザインしたものだ。こうした存在感のある建物は、一般のお客さんに人気があるのだという。

 うまい。パチパチ。悪い点でも満点のように伝わるのは素晴らしい。なお、ここは(神楽坂6-77)ではなく、神楽坂5丁目21です。ここは神楽坂の坂道を通り過ぎ、大久保通りも通り過ぎると、神楽坂通りの北側は6丁目、でも、南側は5丁目なのです。