月別アーカイブ: 2017年9月

神楽坂をはさんで|都筑道夫①

文学と神楽坂

 都筑道夫氏は早川書房で「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長を勤め、昭和34年、作家生活に入りました、本格推理、ハードボイルド、ショート-ショートと活躍。平成13年には「推理作家の出来るまで」で日本推理作家協会賞賞。

 この文章は『色川武大 阿佐田哲也全集・13』の月報から取っています。

   神楽坂をはさんで
都筑道夫
 色川武大さんとは、深いつきあいはなかった。けれど、共有していることがあって、尊敬のまなざしで、遠くから眺めていた。共有していたのは、場所と時間の記憶である。
 東京の新宿区と文京区のさかい目、矢来の坂の上のほうで、色川さんは生れた。私は坂の下のほうで、生れた年もおなじだった。近くの神楽坂の夜店を歩き、はるばる浅草へ遊びにいって、成長してから、おなじように小説家になった。
 もの書きになったのは、私のほうが早く、はじめて顔をあわせたのは、ある推理小説雑誌の編集部でだった。こんど入った色川君、と編集長から紹介されたのだが、私の担当にはならなかったので、ほとんど話はしなかった。したがって、おなじ台地の上と下とで、育ったことは、知らずじまいだった。
 私は麻雀をしないから、阿佐田哲也の小説とは、縁がなかった。色川武大の小説がではじめて、雑誌に写真がのったときに、名前に聞きおぼえがあり、顔に見おぼえがあって、ひょっとすると、と思った。やがてパーティであって、やはり推理小説雑誌の編集者だった色川さんだ、と確認できた。
 印刷会社のひと部屋を借りた編集室で、はじめて顔をあわせてから、二十年はたっていたろう。作品を読んで、牛込矢来の生れらしい、とわかっていたから、そのことが話題になった。以来、色川さんの名前を見ると、江戸川橋から矢来、矢来から飯田橋へかけて、のぼりおりする坂の家なみが、目に浮かんでくる。大学通りの夜店、赤城神社の縁日、神楽坂の夜店、飯田橋をわたって、靖国神社例大祭の露店までが、ひとつひとつ思い出される。

色川さんは生れた 色川氏の誕生は矢来町です。
坂の下のほう 都筑道夫氏によると、誕生は小石川区関口水道町62番地(現在は文京区関口1丁目)でした。
生れた年 2人とも昭和4年(1929年)でした。
もの書きになった 都筑氏がもの書きになったのは昭和24年、色川氏は昭和30年でした。
ある推理小説雑誌の編集部 桃園書房の『小説倶楽部』誌の編集者でしょう
台地 豊島台地です。
阿佐田哲也 阿佐田氏は色川武大氏が麻雀を書くときのペンネーム。
江戸川橋、矢来、飯田橋、大学通り、赤城神社、神楽坂 地図を参照
靖国神社 1859(明治2)年、戊辰戦争による官軍側の死者を弔うため、明治政府が「東京招魂社しょうこんしゃ」を創建。1879年に「靖国神社」と改称
例大祭 その神社の、毎年定まった日に行う大祭。

 私は往時をなつかしんで、言葉による絵として、思い出を書こうとするだけだが、色川さんは過去の記憶、現在の観察のなかに、自分の生きかた、自分のであった人びとの生きかたを、考えようとしていた。逃げ腰にならずに、小説を書いている。だから、傍観者である私は、尊敬のまなざしを、遠くから投げていたのである。
 色川さんは、『怪しい来客簿』のなかの一篇、「名なしのごんべえ」で、神楽坂の夜店を書いている。昭和六年にでた『露店研究』という、横井弘三の著書を援用して、昭和ひとけたの神楽坂に、どんな夜店がならんでいたかを列挙し、自分のみた昭和十年代の店、ひとの記憶を書いている。
 もっと古い資料としては、尾崎紅葉が『紅白毒饅頭』という明治ニ十四年の作品に、毘沙門びしゃもんさまの縁日の露店を記録している。色川さんは利用していないが、参考のために、品物のいくつかを、解説つきで抄録しよう。
 太白飴、これは白い棒餡だと思う。文字焼、お好み焼の一種で、近年、もんじや、、、、という小児なまりの名で、復活した。椎実しいのみ、これは椎の実を炒ったものだろう。説明不要の丹波ほうずき海ほうずき智恵の智恵の板、これはタングラムで、いまは夜店の商品ではない。化物ばけもの蝋燭ろうそく、青い火がとろとろ燃えて、幽霊の影がうつる花火の一種で、神楽坂の夜店では、昭和十年代にも売っていた。現に私が買っている。玻璃がらすふで、これは森村誠一さんが愛用しているガラスペンにちがいない。私が見たのは、たいがい細いガラス棒とバーナーをつかって、実演販売していた。たけ甘露かんろ、砂糖を煮つめて、ゆるい寒天状に冷やしたものを、細い竹筒につめて、穴をあけて吸う。銀流し、銅製品につけて磨くと、銀のように見える液体だ。早継はやつぎ、割れた陶器をつける接着剤である。

http://plaza.rakuten.co.jp/michinokugashi/diary/201511060000/

太白飴 タイハクアメ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴
文字焼 もじやき。熱した鉄板に油を引き、その上に溶かした小麦粉を杓子で落として焼いて食べる菓子。
椎実 椎の果実。形はどんぐり状で、食べられる。
丹波ほうずき 植物のほおづき。京都の丹波地方で古くから栽培されている品種。皮を口に含み、膨らませて音を出して遊ぶ。
海ほうずき うみほうづき。巻貝の卵嚢で同様の遊び方ができる。
智恵の環 いろいろな形の金属の輪を組み合わせ、解く玩具。
智恵の板 正方形の板を7つに切り、並べかえて色々な物の形にするパズル。
タングラム tangram。正方形の板を三角形や四角形など七つの図形に切り分け、さまざまな形を作って楽しむパズル。

http://file.sechin.blog.shinobi.jp/e9394230.jpeg

化物蝋燭 影絵の一種。紙を幽霊・化け物などの形に切り、二つを竹串に挟んで、その影をろうそくの灯で障子などに映すもの
硝子筆 ガラス製のペン
竹甘露 青竹に流し込んだ水羊羹。
銀流し 水銀に砥粉とのこを混ぜ、銅などにすりつけて銀色にしたもの
早継の粉 割れた陶器をつける接着剤
 

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神楽坂をはさんで|都筑道夫②

 この月報の読者は、すでにでた第一巻に、『怪しい来客簿』が入っているから、お読みになっているだろう。だから、昭和ひとけたの夜店明細表は、ここに引用はしない。赤城神社あたりから、夜店がはじまって、大久保通りを越してからは、両側になる、と書いてある。それが、昭和十年代になると、大久保通りから、飯田橋の手前まで、右がわだけになっていたように、私はおぼえている。
 リストのなかの帽子洗いは、私の好きな店だった。古ぼけたパナマ帽ソフト帽が、きれいになるのを、うっとりと眺めていた。そのくせ、洗う手順はわすれているのだから、記憶はおかしなものだ。口絵とあるのは、雑誌の色刷の口絵だけを切りとって、売っていたのだろう。風景画、美人画と分類して、茣蓙の上にならべていた。
 有名だった熊公焼のことは、色川さんも書いているが、毘沙門さまのむかって左角に、いつも出ていたように思う。父といっしょに行くと、これを買ってくれるので、楽しみにしていたものだ。音譜売りが、舌の裏に入れていた笛というのは、小さなブリ片を、ふたつ折りにしたものだろう。あいだに、薄いかんな屑かなにかを挾んで、ブリキ片の上から、いくえにも糸を巻きつける。それを、舌の裏に入れたのでは、吹きようがない。舌の先にのせて、上顎に押しつけながら、口笛の要領で吹くのである。
 食べあわせの薬売り、というのは、見たことがない。台などはおかずに、立つたまわりに人をあつめて、口上を長ながとのべる薬売り、睡眠術や記憶術の本をうる連中は、じめ、、という。靖国神社の例祭には、いつも二、三人、これが出ていた。明治の大盗、官員小僧のなれのはて、と称して、防犯心得の本をうる老人もいた。稽古着に袴という恰好で、八の字髭をはやして、気合術の本をうる男もいた。
 そうした露天商の紹介につづいて、色川さんは戦後、その人びとがどうなったかを、書こうとする。安田銀行のすじむこうの映画館の焼跡から、南京豆売りのお婆さんが、出てくるのを書く。
 私はその映画館が、神楽坂東宝ではなかろうか、と考える。同時に神楽坂を書いて、牛込館田原屋に筆がおよばないのに、ひそかな不満を持つ。色川さんは戦後、三十年もたってから、当時の無名の人びとを回想して、書こうとする。人びとのその後を、知ろうとする。
 色川さんのえがく神楽坂を読んで、私が尊敬のまなざしをむけるようになったわけは、わかっていただけるだろう。矢来の通りと神楽坂をはさんで、おなじ少年期を送った色川さんを、私はいまも、なつかしく思う。色川さんは、からだが大きく、私は小さい。子どものころ、青瓢箪と呼ばれた虚弱児だった。どうして、大きな色川さんが、先に死んでしまったのだろう。

リストのなかの帽子洗い 『露店研究』では「帽子洗ひ」、『怪しい来客簿』では「帽子洗い」で出ています。
パナマ帽 パナマ草の若葉を細く裂いて編んだひもで作った夏帽子。
ソフト帽 フェルトなどの柔らかい生地で作った男性用の帽子。山の中央部に溝を作ってかぶる。
口絵 図書の巻頭に入れる絵や図の類。和書では標題紙の次に、洋書では標題紙の対向面に入れるのが一般的。
茣蓙 ござ。イグサを編んだ敷物。
音譜売り 「音譜」は「①レコード盤のこと。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜」。「音譜売り」は当時のレコード盤は高価なので、やはり、楽譜を売っていたのでしょう。
食べあわせの薬売り たとえば「鰻と梅干を同時に食べると消化不良になる」と食材の取り合わせが悪いといい、薬を売る人。
官員小僧 講談師、落語が語る登場人物。懺悔談のあと、高座から盗犯防止のリーフレットを売った。
大じめ 広い場所を占領して、黒山の如き群衆を集めて長口舌を振い、商品を売る人
安田銀行  大久保通りの西側でも5丁目があります。昔の5丁目の安田銀行は大久保通りの西側で、現在の薬のココカラファインです。
映画館の焼跡 鶴扇亭、柳水亭、勝岡演芸場、東宝映画館は同じ場所を占めていた建物で、現在はおそらく神楽坂5丁目13です。しかし、大久保通りに拡張計画があり、すべては巨大な大久保通りの下になる予定です。
南京豆売り 南京豆とはピーナッツのこと
神楽坂東宝 はい、そうです。
 

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怪しい来客簿①|色川武大

文学と神楽坂

 今、私の机の上に、昭和六年刊露店ろてん研究』という奇妙きみような書物がのっている。著者は横井弘三氏。研究、とあるが、たとえばその道に有名な『香具師やし奥儀書おうぎしよ』(和田信義氏著)のように、俗にいうテキヤの実態を解剖かいぼう探究するというような内容ではない。
 ひとくちに露店といっても、縁日をめあてにするいわゆるテキヤ的なホーへーと、一定の場所に毎日出る商人あきんど的なヒラビとあり、この本は地味なヒラビの方に焦点しようてんを当てて記述してある。横井氏自身が五反田ごたんだで古本の露店をやっていたらしい。
 横井さんは本来は画家で、中年で露店商人に転業した。そう簡単な転業ではなかったと察しられる。で、職を失い、資本もなく、生きる方向を求めてウロウロしている大勢おおぜいの人たちに、思いきって露店商の世界に飛びこむための案内人を買って出ている。いかにも世界的な経済恐慌きようこうに明け暮れた昭和初年の刊行物らしい。冒頭ぼうとうに近い一節をチラリと引用するが、情が濃くて、ヴィヴィッドで、なかなか読ませる記述ぶりである。

 案ずるより産むかやすいよ、さあ、いらっしゃい、決心がつきましたら、なに、こわいことも、面倒なこともありゃしませんよ。
 さあ、しかしですねえ。露店で一家がべていかれたのは震災前後でした。我々は欲ばってはいけませんよ。今日不況ふきようの場合、一店の夜店から、一家三人の生活、五人の生活ができるものなどと、そんな考えをおこしてはいけません。露店は一人一個の生活ができるくらいと思うているべきです。一家三人、四人と喰べていくなれば、夜店を、二か所三か所に出して、一家の者じゅうで働くとか、昼、どこぞへ勤めるとか、妻君が内職するとか、してでなければ、とても生活してゆけるものではありません(私とてべつに煙草屋たばこやをしています)。

『露店研究』 横井弘三著。出版タイムス社。昭和6年。
香具師 縁日・祭礼など人出の多い所で商売する露天商人。
『香具師奥儀書』 大正昭和初の香具師事情紹介書。和田信義著。文芸市場社。1934年。
テキヤ 縁日や盛り場などで品物を売る業者。
ホーへー 縁日を目当てにする露店
ヒラビ 「縁日」に対する「平日」。転じて、一定の場所に毎日出る露店
ヴィヴィッド vivid。生き生きとしたさま。ありありと。
 

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怪しい来客簿②|色川武大

 しかし、この本の不思議なところは別にある。当時の東京のさか上野浅草日本橋にほんばし京橋銀座神保町じんぽうちよう四谷よつやから新宿渋谷しぶや道玄坂どうげんざか牛込うしごめ神楽坂かぐらざか人形町大崎おおさき五反田ごたんだ、などの常設露店が、無類の熱心さで一店残らず記録されていて、かなりのスペースがそのことのためにさかれている。
 たとえば神楽坂のこう
 かみ赤城あかぎ神社のあたりから出発して、右側に、寿司すし、おでん。左側に、古本、八百屋やおや、ミカン、古本、表札、古本、古着、眼鏡めがね、電気器具、靴墨くつずみ、洋服直し、古本、靴、ブラッシュ、古本、名刺めいし刷り、古本、やなぎ行李ごうり。ここで肴町さかなまち電車路(現在の大久保おおくぼ通り)にぶつかり、ここから先、神楽坂下までは毎夜、車馬通行止めで、散歩の人波で雑踏ざつとうした。
 で、露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キャラメル、古本、表札、切り抜き、眼鏡、古本、地図、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホオズキ、古道具、寿司、焼鳥、おでん、おもちや、南京豆なんきんまめ、寿司、古道具、半衿はんえり、ドラ焼、かなばさみのこぎり唐辛子とうがらし、焼物、足袋たび、文房具、化粧品けしようひん、シャツ、印判、ブラッシュ、石膏細工せつこうざいく、ハモニカ、メリヤス、古本、茶碗ちやわんかばん玩具がんぐ煎餅せんべい、古本、大理石、さびない針、万年筆、人形、熊公焼、花、玩具、くし類、古本、花、種子、ブラッシュ、古本、ペン字教本、鉛筆えんぴつ、文房具、万年筆、額、足袋、ミカン、古本、古本、シャツ、帽子ぼうし洗い、焼物、植木、植木、寿司。
 左側が、茶碗、金物、眼鏡、まくら下駄げた、柱掛け、ブラッシュ、金物かなもの、アルバム、うでゴム、スリッパ、雑貨、絆創膏ばんそうこう、ガラス、メリヤス、雑貨、モダンペン、がまぐち、雑貨、櫛、口絵、玩具、下駄、古本、台、スリッパ、化粧品、古本、万年筆、金魚、草花、鼻緒はなお、ツツジのえだ、メリヤス、エプロン、草履ぞうり、羽織ひも、バナナ、八百屋、刺繍ししゆう音譜おんぷ屏風びようぶメモリーマッチペーパー、下駄、ミカン、古本、呼鈴よびりん反物たんもの、文房具、紙、片布、ゴム紐、肺量器、古本、八百屋、八百屋、新聞、古本、犬の玩具、櫛、納豆、箱、マーク、ブラッシュ、手品、焼鳥、将棋しようぎ、箱、植木、植木、盆石ぼんせき

 神楽坂は大正の震災で下町の盛り場が焼けたことがきっかけになって、人出が盛るようになった。それから大戦争突入とつにゆうするまで、毎夜、散歩の人波で道路がまった。
 私は牛込の生まれで、したがってこの盛り場は我が家の庭のようなものであった。ただし、前記の昭和六年時の露店の様子は、当然いくらかはちがう。一見してすぐに売り手のイメージが出てくるのと、まったくわからないのとある。私が知っているのは昭和十年代の神楽坂である。

上野、浅草、日本橋、京橋、銀座、神保町、四谷、新宿、牛込神楽坂、人形町 右の地図を参照。
渋谷、道玄坂、大崎五反田 さらに南になります。
赤城神社 新宿区赤城元町の神社。江戸時代、徳川幕府が江戸大社の一つで、牛込の鎮守として信仰を集めた。
ブラッシュ ブラシのこと。はけ。獣毛や合成樹脂などを植え込んだ、ごみを払ったり物を塗ったりする道具。
柳行李 コリヤナギの枝の皮をはいで干したものを麻糸で編んで作った収納用の箱。
肴町 現在の神楽坂5丁目
電車路 大久保通りのこと。路面電車(チンチン電車)が走っていました。
白布 白いぬの。白いきれ。
切り抜き 「切り抜き絵」「切り抜き細工」。物の形を切り抜いてとるように描かいた絵や印刷物。
メリヤス ポルトガル語のmeias(靴下)から。機械編みによる薄地の編物全般。
風船ホオズキ このホオズキの実から中身を取り代わりに実に空気を入れると、風船様になる。
南京豆 ピーナッツのこと
半衿 装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢じゅばんなどのえりの上に縫いつけた替え襟。
 かなばさみ。金鋏。金鉗。金属の薄板を切る鋏。
さびない針 現在ならばプラスチック製。当時はアルミ製か、日本に入ってきたばかりのステンレス製。おそらくステンレス製でしょう。
口絵 図書の巻頭に入れる絵や図の類。和書では標題紙の次に、洋書では標題紙の対向面に入れるのが一般的。
音譜 ①レコード盤。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜。
メモリー 記憶術でしょうか。
マッチペーパー マッチ箱を収集したもの。この頃マッチペーパー(マッチのラベル)の収集が流行した。
反物 和服・帯・夜具などの一枚分に仕上げた布。
肺量器 肺の換気機能を検査する装置。主に肺活量を測定。
マーク 記号。レッテルでしょうか。
盆石 趣のある自然石を盆の上に配して風景を写したもの
大戦争 第二次世界大戦のこと  

怪しい来客簿③|色川武大

文学と神楽坂

 べ合せ、というタンカを使う薬売りが坂の途中の小暗いところに居たが、前記にはのっていない。
うなぎ梅干うめぼしを一緒に喰べたら大変だぞ、胃袋いぶくろ梅酢うめずいろに染まってタラタラとくさっちまう――」
「天ぷらを喰ったあと、西瓜すいかを喰った人がいる。このあいだ、その人は、喰って便所へけこんだのが最後だった。大きな音がして、胃と腸が破裂はれつしちまったね――」
 大仰おおぎようなのであるが風采ふうさいのあがらないあか深そうな三十男がやるのでかえって不思議な迫力が出て、何度きいても子供心にひきつけられた。そういう喰べ合せを羅列られつしていって、食当り予防の本を売ったか、薬を売ったか、今記憶かない。
 坂上の音譜売りのおじさんは、舌の裏に小さなふえを入れて、器用にいろいろなメロディを吹いた。汚れたソフトに眼鏡、まるい鼻からまっ黒い鼻毛がき出ており、メロディにつれてその鼻毛がふるえたりした。
 有名だったのは熊公焼で、鍾馗しょうきさまのようなひげを生やしたおっさんが、あんこまきを焼いて売っていた。これは神楽坂名物で、往年の文士の随筆にもよく登場する。戦時ちゅうの砂糖の統制時に引退し、現在は中野の方だったかで息子さんが床屋をやっているそうである。
 もう一人、人気者はバナナのたたりであった。この商売、当時は新鮮な感じがあり、そのタンカでいつも黒山のように人を集めていた。この吉本よしもとさんは叩き売りで財を作り、『ジョウトウ屋』という果実店を坂上に開いていたが、半年ほど前に亡くなったらしい。

タンカ 啖呵。香具師やしが品物を売るときの口上
梅酢色 「梅酢」とは「梅の実を塩漬にしてしぼり取った汁。酸味が強く、風味がある」。「梅酢色」は定型ではないが、たとえば右図。
大仰 おおぎょう。大げさ。誇大。
風采が上がらない 見た目や服装がぱっとしない。外見が野暮ったい。
音譜売り 「音譜」は「①レコード盤のこと。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜」。「音譜売り」は当時のレコード盤は高価なので、やはり、楽譜を売っていたのでしょう。
ソフト 「ソフト帽」の略。フェルトなどの柔らかい生地で作った男性用の帽子。山の中央部に溝を作ってかぶる。
鍾馗 しょうき。濃いひげをはやした疫病をふせぐ中国の鬼神。(右図)

食べ合わせ 同時に食べると害があると信じられている食品の組み合わせ。
あんこ巻 小麦粉の生地で小豆餡を巻いた鉄板焼きの菓子
半年ほど前に亡くなった この本は昭和49年から昭和52年にかけて『話の特集』で連載しています。

怪しい来客簿④|色川武大

 しかし、私にとって一番印象に残っているのは、毘沙門天の石塀のあたりに立っていた南京豆売りのお婆さんであった。
 南京豆ばかりとに限らない。季節によって、玉蜀黍を焼いたり、焼き栗、浅蜊若布など売物が変わる。しかしいつも一品で、他の露天のように三寸と称する陳列台を持たず、ミカン箱二つに板きれをわたし、そのうえに売物を投げだすようにおくだけ。
 コードを頭上に張り、各店いくらかずつ出しあって、裸電球をつけているが、この婆さんのところだけは電球もない。
 乞食同然のまっくろい顔で、夏も冬も紺のに商店の名入りの前かけ、着たきり雀じゃなかったかと思う。
「キッタないねえ――」と私の母親などはその前を通るたびにいった。
「食べものをあっかっていてあれじゃ、売れやしないよ」
 婆さんの方は恬淡としたもので、似たような意味のことを夜店の仲間が注意すると、きまってこういったという。
「儲けなくてもいいンだよ」
 露店には場所割りがあって、多少の変動はありがちだったが、みすぼらしさでNO・1のくせに、婆さんの毘沙門天前の位置は終始不動だった。そこは通りのほぼ中央部で大変にいい場所だったのである。その理由は誰にきいてもはっきりしない。

南京豆 ピーナッツのこと。
浅蜊 あさり。マルスダレガイ科の二枚貝。淡水の混じる浅海の砂泥地にすむ。
若布 わかめ。褐藻綱コンブ目ワカメ属の海藻。
三寸 昔、露店は6尺3寸の大きさだった。この当時には、露店の広さは横2メートル、縦1メートルだった。
 あわせ。裏をつけて仕立てたきもの。表と裏との布地の間に空気層をつくり保温効果を高め、初夏と初秋に着た。
着たきり雀 着たきりの人
恬淡 てんたん。無欲であっさりしていること。

 突然、戦争が終って、焼けたところと焼けないところが、くっきり差がついた。神楽坂は、見渡すかぎりの焼野原であった。一時期、歩く人もまったくなかった。(中略)
 安田銀行の筋向かいに小さな映画館があり、焼失して映写室の外郭だけになっていたが、その中から、根強く生き残ったきのこのように、南京豆の婆さんが現われたのには驚いた。
 おそらく、誰にもことわらずに入りこんでしまったのだろう。が、そんなことはどうでもよい。私は祝盃しゆくはいをあげたいような気分になった。そうしてまた、生きていたと知ると、なんだかまがまがしいものがそこに居るような、気がかりな気分になる。
 不気味なものというものはやはりこの世にあるのであり、それどころか、人間が本当に生きようとすると、恰好が整わなくなって化け物のようにならざるをえない。大仰であろうか。
 婆さんは、あいかわらずぶあいそな顔つきで、苦行僧のような感じだった。私はその映写室をのぞいたことはないが、フィルムを映写する小さないくつかの穴以外、窓もなく、夏は風呂ぶろのようであり、冬は冷蔵庫のように冷えただろう。婆さんの持物はコンクリートのゆかの上に敷く茣蓙ござと、玉蜀黍時代からの七輪一個だけで、電気もなかった。
 そんなに条件が悪くても、この新居が気に入っていたようで、夜店仲間の近藤さんなどと顔を合わせると、
「遊びにおいでよ――」
 と誘ったという。
 うんざりするほど長年月の時、係累けいるいを作らず、ペットすらなしですごしてきたこの人物が、ときにつぶやく「遊びにおいでよ――」というセリフは、ぜひ一度私もきいておきたかった気がする。
 婆さんはかつぎ屋などして細い生計をたてていたようだが、焼跡が旧に復し、映写室もとりこわされる頃、忽然こつぜんと姿を消した。方面委員の手で養老院に送られ、そこではじめてせきを切ったようにがっくりとおとろえ、まもなく板橋の病院に廻されたという。今度の調べで、やっと彼女のせいだけはわかったが、わざとここには記さない。

安田銀行 現在薬屋さんが入っている神楽坂上交差点の西端(右図)。
映画館 神楽坂上交差点の東端(右図)。
祝盃 祝いの酒を飲むさかずき。
まがまがしい 禍禍しい。不吉な。悪いことが起こりそうだ。
気がかり どうなるかと不安で、心から離れない様子
苦行僧 悟りを開くために厳しい修行をする人。山野を歩いて修験道を修める行者。
蒸し風呂 四方を密閉し湯気を出して体を温める風呂。
玉蜀黍 とうもろこしのこと
七輪 土製のこんろ。煮るのに炭の単価が七厘ですむことから。
係累 心身を拘束するわずらわしい事柄。面倒を見なければならない親・妻子など。
かつぎ屋 食料を生産地から運んできて売る人。第二次世界大戦中~戦後は特に闇物資を運ぶ人
忽然 にわかに。突然
方面委員 ほうめんいいん。民生委員の前身。生活困窮者救護のため、昭和11年、制度化。
養老院 老人を収容救護する施設。公的機関としては1932年施行の救護法に基づいて設置、65歳以上の生活困窮者を収容救護した。おそらく東京都立養育院(現在は老人総合研究所から東京都健康長寿医療センター)に入院したのでしょう。
堰を切る 川の流れが堰を壊してあふれでる。転じて、おさえられていたものが、こらえきれずにどっとあふれでる。
板橋の病院 都立豊島病院(現在は東京都保健医療公社豊島病院)に転院したのでしょう。
 同じく『怪しい来客簿』の「ふうふう、ふうふう」では宇佐美のお婆さんとして登場します。

大久保通り(筑土八幡町ー神楽坂上ー牛込北町)|拡幅計画

文学と神楽坂

 平成31(2019)年度に、「筑土八幡町」から「神楽坂上」を通り、「牛込北町」までの「大久保通り」が拡張して終了します。幅員は18メートルだったのが、30メートルになります。つまり、小さな小さな道路だったのを、巨大な巨大な都道に変えていくのです。いわばもう1本「外堀通り」ができるのです。神楽坂も大久保通りの北と南、西と東で、かなり違っている可能性があります。

 神楽坂上交差点から飯田橋交差点に行くところでは、店舗がなくなるものもあります。青線が新しい道路ができるはずのことろです。(ただし正確なものはありません。)まず遠くに半分見えるのが消防署です。

 遠くの角にあるフランス料理の「レ・グルモンディーズ FRENCH-DINING」はなくなり、途中の鉄板焼きの「円居-MADOy-神楽坂」やカフェ「ムギマル2」も確実に消滅します。 
 神楽坂通りにある「河合陶器店」「山下漆器店」はすでに消滅し、ケーキ店の「チカリシャスニューヨークアマリージュ」はまだ不明ですが、おそらく方向性は決定しているはず。

 次は反対側で、牛込北町交差点にいくものです。
「牛込神楽坂駅」のすぐ前に大久保通りがやってきます。しかし、これぐらいです。

 新しい建物はできていません。はるか昔からこの話を聞いていたからです。

 問題は袖摺坂の周辺です。南蔵院の墓地はなくなりません。しかし、パン屋の「MAISON KAYSER 神楽坂店」はなくなります。

 最も不思議なS型に上がる道路(私の命名では新蛇段々)です。どうなるのでしょうか。全く改修はないことはありません。小規模、あるいは大規模な改修があるはずです。その場合にはどう変貌するのでしょうか。 この拡幅は数十年前からあったものです。それがようやくできる。感無量です。

弁天坂|箪笥町

文学と神楽坂

 

 大久保通りに弁天坂という坂があります。例えば、江戸時代の「町方書上」では

同所南蔵院前脇、町内入口小坂弁天坂、是南蔵院地内名高弁才天安置有之、右故里俗唱來り候哉、縁(起)旧記等無御座候

 小さい坂というのもちょっと違うんでは…と考えますが、拡大する前の道路を考えると、まあ、これもありかぁと思います。

 明治20年ごろの拡大図では

 大久保通りの一部に弁天坂があります。また「新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

南藏院なんぞうゐんまへより市廛への入口に坂あり、辨天坂べんてんざかといふ、是、南藏院に辨天堂べんてんだうあるに因りて得たる名なり。

市廛 してん。町にある店。店のある町。市街地。

 横井英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)では

新宿区箪笥町、南蔵院前を山伏町のほうへ上る坂。南蔵院には弁天堂がある。

 山伏町は西にありますので、これは正しいと思います。ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

弁天坂(べんてんざか) 芥坂ともいった。箪笥町の南蔵院前旧都電通り、箪笥町四二番南蔵院の道向いを横寺町の南西部に上る小坂。「府内沿革図書」についてみると、この坂は延宝年中から段坂で、現在と形があまり変わらない。(中略)
 その境内に弁天堂があったのが、弁天坂のよび名になったものである。その弁天堂は本尊として尊崇されていたが、戦災後は再建されない。

 これでは弁天坂と袖摺坂を混同しています。これでは袖摺坂と全く同じです。

 東京都も弁天坂の標識をつくっています。ちょうど南蔵院の反対側です。内容は…

 坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には、南蔵院門前にあまざけやおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。
 坂上近くの横寺町四十七番地には、尾崎紅葉が、明治二十四年から三十六年十月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花小栗風葉が玄関番として住み、のちに弟子たちは庭つづきの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。

 また「新修新宿区町名誌」(新宿歴史博物館、平成22年)では

南蔵院前脇から町内入り囗への坂は南蔵院に弁財天が安置されていることから、弁天坂と呼ばれる。(町方書上)。

 以上、現在、弁天坂と考える坂は、大久保通りの一部だと考えています。

『燈火頰杖』加賀町の家|浅見淵

文学と神楽坂

 浅見ふかし随筆集『燈火頰杖』から「加賀町の家」です。浅見淵氏は作家論、作品論、私小説風の作品などを執筆し、評論では「昭和文壇側面史」「昭和の作家たち」、小説では「目醒時計」「手風琴」などを発表しています。

 ここでは昭和39年3月、柳田国男の家について書いています。

 柳田国男氏の年譜を見ると、明治二十四年(一九〇一年)、数え年二十七歳の時、柳田家の養子になっておられるから、それから、昭和二年(一九二七年)、五十三歳の時、当時の砧村(現在の世田谷区成城町)に移居されるまで、足かけ二十七年の長きに亘って、牛込区(現在の新宿区)市ヶ谷加賀町二丁目に住んでおられた訳だ。
 柳田さんの養父司法官あがりで、柳田さんは前年東京帝大を卒業して農商務省官吏となってから柳田家に入っていられるが、柳田家は当時すでにその加賀町二丁目附近の地所持ちであり家作持ちだったので、そこに邸宅を構えていたからだ。
 ところで、ぽくは偶々この柳田邸の隣りの、しかも柳田家の家作に住んでいたことがあるのだ。明治四十四年から四十五年(七月に大正と改元)に掛けての小学生時代である。当時、ぼくの父は或る水力電気会社の技師をしていて、日光の近くの今市の奥にダムづくりに行っていたが、その留守宅を東京に置いていた。はじめはいま法政大学の敷地になっている当時の麹町区富士見町に住んでいたのだが、急に柳田家の借家へ引越すことになったのだ。
 ぼくの母の妹に当る叔母が、その頃、柳田さんの播州の郷里の村の村長の長男である工学士と結婚したので、その方面から話が出て、柳田家の借家のほうが富士見町の借家より広かったので、引越して行ったようである。
 柳田家の在った通りは、当時の府立四中の黒板塀が長くつづいたはずれの閑静な屋敷町であった。やはり黒塗りの太い四角の門柱が立っていて、これも黒塗りの大きな頑丈な開閉扉が附いていたが、日中はそれが大きく開かれていた。また門柱の脇には耳門くぐりもあった。そして、右の門柱には柳田国男と書いただけの標札が出ていた。門を入ったところはちょっとした植込みがあって、直ぐ玄関の式台になっていた。
 ぼくの家はこの柳田邸と植木垣つづきになっていて、植木垣の裾には竜の髯が植え込まれており、秋になると青玉のような実が一杯になった。式台、内玄関などもあり、なんだか御家人でも住んでいたような家だった。柳田邸と反対側の家との境は竹藪になっていた。七室ばかりあり、南に日当りのよい長い縁側があって、広い庭に臨んでいた。庭には一本大きなの樹が植わっていて、冬など座敷の障子に影を映していたが、他は全部であった。柳田邸の庭とは二重に編まれた竹垣で隔てられていたが、柳田邸の庭もほとんどが楓のように見受けられた。楓の新緑の美しさといったものを、子供ごころに初めて知った。

砧村 きぬたむら。東京都世田谷区の西部で、狛江市に近い場所
養父 直平。大審院判事。
司法官 司法権を行使する公務員。普通は裁判官。
農商務省 農林・商工業の行政を司る中央官庁。明治14年、設立。大正14年、農林省と商工省に分離。
家作 かさく。人に貸して収入を得る家。貸し家。
偶々 たまたま。時おり。時たま。たまに。
柳田邸の隣りの、しかも柳田家の家作 上の柳田邸の図で、おそらく右下側の家でしょう”。
今市 今市いまいちで、現在は日光市の一部
法政大学の敷地 図で法政大学があったところ
麹町区富士見町 図では黄色で囲んだ範囲。
播州 ばんしゅう。播磨はりま国の別名。現在は兵庫県西南部にあたる。
柳田家の在った通り 新たに「銀杏坂通り」と命名しました。
府立四中 現在の牛込第三中学校(上図)。
耳門 じもん。耳の穴の口。くぐり戸。「くぐり戸」とはくぐってはいる戸や門。
式台 しきだい。玄関の上がり口にある一段低くなった板敷きの部分。客を送り迎えする所。
竜の髯 リュウノヒゲ。キジカクシ科ジャノヒゲ属の常緑多年草。よく植え込みに使う
内玄関 家人など内輪の人が日常出入りする玄関。
 かしわ。ブナ目ブナ科の落葉中高木。
 かえで。ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属(Acer)の落葉高木。

 柳田さんは年譜を見ると、その頃、農商務省の役人と宮内省書記官を兼ねていられたようである。この宮内省書記官という関係からだったろうか、よく西洋人が柳田邸を訪問していたのを記憶している。というのは、楓の庭を逍遙しているその談笑の声が屢々聞こえて来たからである。西洋人の女の賑やかな笑い声もし、それに混って、柳田さんらしい流暢な英会話も洩れて来たからだ。
 しかしながら、へいぜいは柳田邸はいつも森閑としていた。物音は全くしなかった。ぼくはこの家で腸チフスに罹り三月ばかり病臥した。そのせいで、ぼくの家では柳田さんの家の電話をしょっちゅう借りていたようだったが、一度だって厭な顔を家の人は見せなかったと、ずっと後になって、母が感心して述懐していたことがある。また、柳田家の女中がよく電話を取次いでくれたが、この女中が躾けが行届いていで、じつに物静かな女中だった。
 加賀町のこの柳田邸へは、田山花袋国木田独歩をはじめ、そもそも竜土会は最初この家で始まっており、当時の新しい文学者たちがかず多く訪問しているばかりでなく、柳田さんの前期から中期にかけての劃期的な民俗学の研究は、ほとんどがこの家で成し遂げられている。その意味において、歴史的な家である。だが、今にして考えてみると、ずいぶん不便なところだったと思う。ぼくの家が住んでいた時分には、飯田橋から新宿に通じている今の都電が通じておらず、電車に乗ろうと思えば、秀英舎(現在の日本印刷)の前を通って左内坂を降り、市ケ谷見附まで出なけれぱならなかった。また、界隈の盛り場だった神楽坂へ行くにも、歩かねばならなかった。
 その代り、静かなことも静かだった。隔世の感がある。物音といえば、納豆売りの声か豆腐屋のチリンチリン、季節によって、竿竹売りや金魚売りの触れ声が聞こえてくるばかりだった。そのほかには、夕方になると、遙か市ケ谷見附のほうの士官学校から、号令の掛け声練習と、物哀しい喇叭の音が聞こえてくるだけである。従って、この屋敷町には店屋が少なく、洗濯屋が一軒と、洋食屋が一軒あるきりだった。病気になると、この洋食屋からオムレツと肉汁を取って貰うのが楽しみになっていた。
 いっぽう、至るところに大きな樹が陰森と茂っていて、夏になると蝉やトンボが多かった。ぼくの家の庭でも、蝉が抜け変るのを屢々瞥見した。柳田邸でも同様であったろう。ところが、戦後、といっても数年前だが、偶々加賀町へ足を踏みいれて吃驚してしまった。五十年前の閑静な屋敷町は、すっかりゴミゴミした印刷関係の会社町になりさがってしまっていたのである。昔の面影など、もうどこにも残っていなかった。どっしり落着いていた柳田邸も影も形もなくなって、その跡は或る女子短大の洋風の寮に変り果てていた。しかも、車の往来がはげしく、うっかり佇んでさえもおられなくなっていた。
(「定本柳田国男集月報」昭和三十九年三月)

宮内省 1885年、皇室関係の事務を取扱う機構。1947年,新憲法発布とともに宮内府、49年に宮内庁と改称。
逍遙 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。散歩。
屡々 しばしば。同じ事が何度も重なって行われるさま。たびたび。
森閑 しんかん。深閑。物音が聞こえずひっそりとしている様子
竜土会 明治後期の文学者の集まり。1900年代初頭、東京牛込加賀町の柳田国男邸に田山花袋、国木田独歩らが寄って文学談を交わしたのが始まり。柳田国男氏の年譜では1905年7月から、麻布竜土町のフランス料理店竜土軒が月例会場となったという。近松秋江氏によれば「自然主義は龍土軒の灰皿から生まれた」という。
都電 チンチン電車です。都営地下鉄は押上と人形町間の1路線しかなく、営団地下鉄はまだ全くありません。定期的なバスもなく、「都電」(つまり、チンチン電車)だけがありました。系統13の都電は「山伏町」や「牛込柳町」と「新宿駅」を結んでいました。
電車 これもチンチン電車を指しています
秀英舎 明治9年(1876年)9月、今日の大日本印刷の前身、秀英舎を設立。世界でも1位の印刷会社。
左内坂 さないざか。JR市ヶ谷駅の市谷見附交差点の北から北西に入り、防衛庁の裏側を市谷加賀町方向に向かう坂。
市ケ谷見附 これもチンチン電車の停留場です。
竿竹 竿にして使う竹。たけざお。洗濯した衣服を乾す目的で使う。
士官学佼 現在は防衛省
喇叭 ラッパ。特に無弁のナチュラルトランペットのこと
陰森< 樹木が茂り日をさえぎって暗い。うすぐらく、静かでさびしい様子。
瞥見 ちらっと見ること。短い時間でざっと見ること。
或る女子短大 大妻女子大学加賀寮です。
佇む たたずむ。彳む。しばらくの間ある場所に立ったまま動かないでいる。

銀杏坂と銀杏坂通り|薬王寺町~加賀町

文学と神楽坂

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

銀杏坂(いちょうざか)
 市谷薬王寺町の中央部の七二と七五番の間を、市谷加賀町二丁目のほうから西へ下る坂で、坂下は通称薬王寺通りである。昔この坂の北側にあった久貝囚幡守の邸内には銀杏稲荷とよばれた稲荷社があり、御神木の銀杏の大木があったのが坂名のおこりだと伝えられている。

 横関英一著の『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年)では

ちょう坂  新宿区市谷薬王寺町の中央七二、七五番の間を東から西に下る坂。昔、坂の北側に久貝因幡守の屋敷があって、この邸中に銀杏稲荷の社があった

『新宿区町名誌』(新宿区教育委員会、昭和51年)で

◎市谷薬王寺町
 町の東北を、バス通りに向って下る坂を銀杏いちょうといった。その横町北側に久貝くがい因幡いなばのかみの屋敷があり、その屋敷内に銀杏稲荷があったからである。

また『新修 新宿区町名誌』(新宿歴史博物館、平成22年)では

 外苑東通りから市谷薬王寺前町の北側を東に入る坂を銀杏坂という。坂の北側にある久貝甚三郎屋敷内に古くから銀杏稲荷という社があることに由来する。

 2009年、新宿区が道路通称名を公募、67路線で決定。「銀杏坂通り」もその1つで、標柱をつくっています。

 現在、茶色の「銀杏坂」で2つ、青色の「銀杏坂通り」は3つ、合計5つの標柱があります。

 当然ですが、「銀杏坂」のほうが「銀杏坂通り」よりも短いことがよくわかります。

 また銀杏坂は、坂として比べると、神楽坂よりも、また焼餅坂よりも、緩やかになっています。

 茶色の標柱は

この坂道の北側に旗本久貝家の屋敷があり、屋敷内に銀杏稲荷という社が古くからあったので銀杏坂と呼んだという(『御府内備考』)。

 青色の標柱は

坂の北側にあった久貝因幡守の邸内に銀杏稲荷があった。