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夜のタクシー|海老沢泰久

文学と神楽坂

 海老沢泰久氏の「夜のタクシー」(「青春と読書」、集英社、昭和60年。文藝春秋、平成9年)です。

 氏は国学院大学折口博士記念古代研究所に勤務し、昭和49年、「乱」で小説新潮新人賞。昭和52年、文筆生活に。平成6年、「帰郷」で直木賞を受賞。自動車レースなどのスポーツもので注目を集めました。

「お客さん」
 運転手が前を向いたままで呼びかけていた。守谷良子が注意を向けると、左手の上を見てくださいと彼はいった。窓のすぐ上のところに読書灯がとりつけられていた。
「はい、それではうしろを見てください」
 振り向くと、シートのうしろに雑誌類がたくさん置いてあった。
「明りをつければ退屈しのぎになりますよ」
「ありがとう」
 と彼女はいった。「でもわたし、車の中では本を読めないの。一ページも読まないうちに気分がわるくなるの」
 運転手は柤当の老人だった。彼女は背を伸ばしてタクシーの登録許可証を見てみた。個人タクシーだった。彼女はまた父親を思い出した。
「お客さん。いま通ったところね。右へ登る細い坂があったでしょう」
「ええ」
矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じやないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」
「自衛隊の裹には合羽坂という坂があります。雨合羽のカッパなんて字になってますが、あれは本当は河童という字を当てなくちゃならないんです。あのへんに河童のお化けが出たというんで、カッパ坂なんですから」
「はい、それじゃこんどは市ヶ谷駅ですよ。ちょうど左側です。このあたりは、お堀をはさんで、外側が牛込区、内側が麹町区といったんです。それが昭和二十二年三月十五日の区制改革で、牛込区と四谷区と淀橋区が一緒になって新宿区、麹町区と神田区が一緒になって千代田区になったんです。ということは、はい、中央線の駅名が市ヶ谷というのはおかしいことになりませんか。中央線はお堀の内側、麹町側を走ってるんですから。あ、ごめんなさい。お客さん、年よりのおしゃべり、うるさかありませんか?」
「いいえ」
 と彼女はミラーの中の老運転手に笑いかけた。「きいておいて無駄になる話ってありませんもの」

鰻坂と北西の坂、昭和56年

いまの坂 うなぎ坂と平行する坂は払方町の坂ですが、芦田伸介氏の家はどこだかわかりません。
芦田伸介 あしだしんすけ。東京外語を1年で中退、昭和12年、旧満州で新京放送劇団。昭和14年、森繁久彌等と満州劇団を結成。昭和24年、劇団民芸に入団。テレビ「七人の刑事」をはじめ、映画や舞台で活躍。生年は大正6年3月14日、没年は平成11年1月9日。享年は満81歳。
区制改革 昭和22年、以前の35区から23区になりました。千代田区は麹町区と神田区から、中央区は日本橋区と京橋区から、 港区は芝区と麻布区と赤坂区から、新宿区は四谷区と牛込区と淀橋区から、文京区は小石川区と本郷区から、台東区は下谷区と浅草区から、墨田区は本所区と向島区から、江東区は深川区と城東区から、品川区は品川区と荏原区から、大田区は大森区と蒲田区から、北区は滝野川区と王子区から。板橋区は板橋区と練馬区に分離。目黒区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、豊島区、荒川区、足立区、葛飾区、江戸川区は不変。

「そうですとも。あたしはね、書くことがうまくないもんですから、こうやって毎日お客さんに東京の話をしてるんですよ。一人でも多くの人に古い東京のことを覚えておいてもらいたいと思ってね。あ、右折車線に気がつかないでどうもすみません。あたしの不注意でした。だいじょうぶです。はい、出ました」
「さて、どこまで話しましたっけ。あ、そうそう、あたしは牛込弁天町の生れでしてね、いまは新宿区弁天町でちゃんと手紙が届きますが、あたしが子供のころはそうはいきませんでしてね。長々とこう書いたもんですよ。いいですか、東京府、東京市、牛込区、牛込弁天町。筆じゃなかなか一行に書けなくてね、そりゃあたいへんなもんでした。新宿といえば、大久保。なんでオオクボというか御存知ですか」
大久保彦左衛門のお屋敷でもあったのかしら?」
「いいえ、とんでもない。新宿なんてのは、ついこのあいだまでは“四谷から枯野へつづく馬糞かな”なんていわれてたぐらいでしてね、お武家が住むようなところじゃありませんでした。新宿がいかに田舎だったかという話をしましょう。あたしが小学生のとき、代々木八幡というところがありましょう。新宿から小田急で五分か十分のところ。あそこの八幡様へ遠足に行ったんですよ。ところがどうなったと思います。家も何もない野っ原でしてね、引率の先生が一日中そこらをさがしまわっても、当の八幡様が見つからなくて、日か暮れてあぶないから帰ろうって、そのまま帰ってきちゃいました。そんなところだったんです。さて、どこまで話しましたか」
「オオクボです」
「ああ、そうでした。あのオオクボは、大の字に荻窪の窪という字を書くんです。もうお分りですね。あのあたりは広大な窪地なんです。本当に退屈じゃありませんか? うるさいっていやがるお客さんもいるもんですから」
「いやじゃないわ」
 彼女はやさしく答えた。さっきからずっと父親のことを考えていたのである。父親もこうしてお客と愚にもつかない話をしているのだろうか。ときにはうるさいといやがられながら。もしそうだとしても誰にも責める権利はない。たった一人の話し相手だった娘に家を出られてしまったのだから。彼女はつまらぬことだと思いながら、老運転手にきいてみた。
「運転手さんは家族の人とご一緒に暮らしてるんですか?」
「いいえ。あたしはもうずっと一人です。息子も娘も、みんな外に出しちゃいましたから」
「さびしくない?」
「さびしいったって、あたしは家も財産も持ってないもんですからね。子供たちにしてやれることといったら、自由にしてやることだけなんですよ」
[おいくつ?]
「あたしですか。七十四です。でも、まだまだはたらけますよ」
「あのね、わるいんだけど」
 彼女は父親の顔を思いだしながらいった。
「行きさきを変えたいんだけど」
 老運転手が心配そうに振り向いた。
「失礼ですが、お客さん。さっきの男のところじゃないでしょうね」
「ちがうわ」
 と彼女は笑った。「わたしの父も一人で住んでいて、わたしはもう半年も父と会っていないの」

 これで小説は終わりです。

牛込弁天町 右図を。
なんでオオクボというか 4説があり、①江戸時代、この地に大きな窪地があって大窪村と呼ばれた。②永福寺の山号である大窪山から。③小田原北条氏の家来である太田新六郎寄子衆に大久保という姓の者がいて、この地を領していた。④江戸幕府によって諸組の同心の総取締に大久保氏が任じられた。史料では大久保・諏訪・戸塚一帯を富塚(戸塚)村とされていたものが、ある時期を境に大久保村に置き換わっており、①の地形関係や②を由来とするのは不自然、④も元々の地名が変わるに足るような理由とは考えづらく、③がベスト。江戸時代は農村で、戦後、ロッテの工場や歌舞伎町の労働力として朝鮮系の人々が集まりだした。
四谷から枯野へつづく馬糞かな 正しくは「四ツ谷から馬糞のつづく枯野かな」(青蛾)
代々木八幡 代々木八幡宮のこと。渋谷区代々木5丁目1-1にある。

上田敏|『海潮音』

文学と神楽坂

 この詩は聞いたことはありますか。30代以下の人はまず知らないでしょう。

  やまのあなた
やまのあなたのそらとほ
さいはひむとひとのいふ。
あゝ、われひととめゆきて、
なみださしぐみ、かへりきぬ。
やまのあなたになほとほ
さいはひむとひとのいふ。

 もとはドイツ語からやって来ました。原文は

Über den Bergen,weit zu wandern,
sagen die Leute,wohnt das Glück.
Ach, und ich ging,im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zurück.
Über den Bergen,weit, weit drüben,
Sagen die Leute, wohnt das Glück.

 一応、英語の翻訳もあります。

Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.
Alas, and I went in the crowd of the others,
and returned with a tear-stained face.
Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.

 有名な人が翻訳していますが、その人の姓名は知っていますか? 

 次も同じ人が訳した有名な文章です。

「秋の日の」の次は「ヸオロンの」が縦書きとして続き、それから「ためいきの」と続きます。「うら悲し」の後、一行空き、「てくてく牛込神楽坂」では改行も行い、「鐘のおとに」になります。
 すいません。あくまでも空白をつくらないと考えて、途中で改行するように決めています。

 1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦の時に、BBCのフランス語放送で流れた詩でもあります。各地のレジスタンスに命令を出す暗号なのです。

 フランス語の原文、英語の翻訳も出しておきます。

 翻訳者は上田びん氏です。夏目漱石氏と比べると、年齢は8歳若く、東大には明治27年、21歳で入学しています。1905年(明治38年)、数え32歳になってから訳詞集『海潮音かいちょうおん』は発行しました。どちらの訳詞も『海潮音』からとってあります。

 では、他の『海潮音』の訳詩を知っている人は? 残念ながら、私はこれ以外の訳詩はなにも知りません。他の人も同じでは?

 ちょうど1987年、俵万智氏の『サラダ記念日』は大ブームになり、中学校の教科書にも取り上げられましたが、1句あげてといわれると、うーんというのと同じです。まあ、これが詩の生き方。『海潮音』は青空文庫で全部が載っています。

 上田敏氏は東京高等師範学校教授、東大講師、京大教授を歴任し、死亡は数え43歳、満41歳で、萎縮腎と尿毒症でした。

上田敏|横寺町

文学と神楽坂

 上田敏氏について知られていない事実があり(知っている人はいる?)、子供時代は矢来町と横寺町に住んでいたのです。

 以下は安田保雄氏の『上田敏研究 増補新版-その生涯と業績』(有精堂、昭和44年)からの引用です。

明治二十年(十四歳)四月、父が大蔵省に轉任することになつたので、一家とともに上京し、牛込區矢來町三番地に移り、六月、神田區錦町の私立東京英語學校に入學した。
 明治二十一年(十五歳)、父は四十三歳で歿し、この年、彼は第一高等中學校の入學試験に合格したが、父の死のため入學を果さず、牛込區横寺町五十八番地の伯父乙骨太郎乙の邸内に移つた。(中略)
 明冶二十二年(十六歳)九月、第一高等中學校(後の第一高等學校、當時は、五年制であつた)に入學、豫科英三級ニノ組に編入され、乙骨太郎乙の弟子である本郷區西片町十番地田口卯吉方に寄寓するやうになつた。

 まず矢来町三番地です。矢来町の90%は小浜藩酒井家の矢来屋敷でした。三番地はなかでも広く、図の赤い部分です。あまりにも大きく、このどれかに住んでいたのでしょうが、これ以上は不明です。

東京実測図(明治28年)

 次は横寺町58番地です。青い場所で、将来はこの1部分を牛込中央通りが通過し、完全に西半分だけが生き残ります。現在は下の地図での所です。

 以上、住んだのは短期間でしたが、上田敏氏も矢来町や横寺町に住んでいたのです。

矢来町|「東京物語」辞典①

文学と神楽坂

 現在言語セミナー編「『東京物語』辞典」(平凡社、1987年)からです。最初は矢来町。

文士罷り通る

 私の生家がある東京牛込の矢来町というところは、ものの本によると、江戸期にお化けの名所だったのだそうである。矢来のもみ並木というと泣く児を黙らせるときの言葉に使われたらしい。樅並木は、今、ほんの名残りという形で残っているが、お化けという言葉はすでにリアリティを失ってしまった。
「幻について」色川武大

罷り通る まかりとおる。「通る」「通用する」を強制し、わがもの顔で通る。堂々と通用する。
矢来町 左図を参照
 もみ。マツ科の常緑高木。本州中部から九州の低山に生える。
名残り ある事柄が過ぎ去ったあとに、なおその気配や影響が残っていること。
リアリティ 現実感。真実性。迫真性。

 もう少しこの文章を読むと(色川武大阿佐田哲也全集・3、福武書店、1991年)

 もっとも、因縁という言葉を上調子に使えば、以下のことを書き記すにいたった発表誌の社屋も、その牛込矢来町に建っている。
 小学校の五年生頃、頻々とズル休みをしたのが祟って父兄呼出しを喰らい、おくれた勉学の埋め合わせに、夜教頭の家に通って特別講習を受けることを命じられた。折角のご配慮であったが、私はそれも途中からズルけて家を出ると映画館や寄席に入り浸ってしまう。
 というのは、私はもともとはきはきしない子供だったが、教頭先生の前にきちんと坐っていると、トイレに行きたい、ということがなかなかいいだせない。そうなるとなおさら行きたくなるもので、ある夜、猛烈な我慢の末に、座布団の上で小便を垂れ流してしまった。しかも、私はなおうじうじとして、失態のお詫びもせずに黙って帰ってきてしまう。それで行きにくくなったこともある。
 矢来町にはその頃、某大名の末裔の広大な邸があり、その裏手の長い塀に沿った小道の向こう側は学校と空地で、ところどころにぽつんと街燈がある。教頭宅からの帰途だから十時近くで、寒い晩だった。私は子供用のマントを羽織っていたが、級友はみなオーバーなので私はその服装が嫌でしょうがなかった記憶がある。
 その道を、ぽっつりと和服の女の人が歩いてきた。変った姿をしていたわけではないが、ただ遠眼に顏が白すぎる。白っぽさが眼につきすぎる。子供心に、おや、と思っているうちに近づき、すれちがった。
 その女の人は、お面をつけていた。

発表誌 昭和54年、「別冊小説新潮」に発表
うじうじ 決断力がなく、思いためらう。ぐずぐず。
某大名の末裔 若狭わかさ国(福井県)小浜藩の酒井邸。
小道 右図を参照
学校 商業学校がありました。

 この本文に対する「解説」は……

 江戸名物の一つ、小浜藩主酒井邸の竹矢来が、明治五年の町名決定に際しそのまま「矢来町」となる。現在の東京の町名で旧地名が残る数少ない町の一つである。
 また明治期の矢来町は、多くの文学者が居住した町としても名高い。「海潮音」の上田敏が明治二十年。「今戸心中」の広津柳浪、実子で『神経病時代』の広津和郎が、二十四年からほぼ十年間居住。その他、小栗風葉川上眉山硯友社組に私小説の極北といわれる嘉村磯多など。
 英国留学より帰国した夏目漱石が、妻鏡子の実家のあるここ矢来町に三ヶ月いて、明治三十六年三月、本郷区千駄木町へ居を構えた。

竹矢来 竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲い。

 最後は章の脚注です。

*現在でも都心とは思えぬほど静かな住宅街である。矢来町の中心には地下鉄東西線の「神楽坂」駅がある。本来、「矢来町」駅でもよかったはずなのだが、知名度を考えて神楽坂駅としたらしい。もっとも神楽坂の毘沙門天まで僅か二、三百メートルの距離でしかないが。
矢来能楽堂の近くに、新潮社の社屋がある。創設者佐藤義亮が「中央文壇にあこがれて十八歳の時、裸一貫で上京して以来、新聞配達をやり、牛乳配達をやり……辛酸を重ね、初め《新声社》を起したが倒産、捲土重来を期し改めて文芸出版社、新潮社を設立」(村松梢風「佐藤義亮伝」)した。出版界に大きなトレンドをつくった新潮社がここに出来たのは大正二年のことであった。

矢来能楽堂 1908年、神田西小川町に舞台を設けたが、関東大震災で焼失。1930年に牛込矢来町60の現在地に移って復興。1945年5月24日、空襲で再度焼失。昭和27年、現在の舞台・建物が完成。
捲土重来 けんどちょうらい。けんどじゅうらい。物事に一度失敗した者が、非常な勢いで盛り返すこと。
トレンド trend。動向。傾向。趨勢。風潮

新潮社

文学と神楽坂

佐藤義亮氏

 佐藤義亮氏は1896年に新声社を創立、しかし失敗。そこで1904年、矢来町71で文芸中心の出版社である新潮社を創立。雑誌は『新潮』。この時、編集長は中村武羅夫氏でした。自然主義文学運動と結んで多くの文学作品や雑誌を出版し、文壇での地位を確立します。

 今では新宿区矢来町に広大な不動産があります。

 佐藤義亮氏の『出版おもいで話』から。

 退社後しばらく姿を見せなった正岡芸陽氏が、ひょっくりやって来て、「あなたも近ごろ経済上お困りのようですが、新声社を手離す気持はありませんか」というのである。私は驚いた。これは、私を簡単に都合よく転身させるために、神業としてこの人が出て来たのではないか――とさえ思ったのである。
 話はその場ですんだ。
 誰一人相談もせず、譲渡の条件も一切先方まかせ。ただ「結構です、結構です」と、猫の子一匹の受けわたしよりも手軽に終った。
 明治二十九年以来の、私の新声社は、こうして幕が閉ざされたのである。(中略)
 いよいよ雑誌を出すことに決めた。
 が、金が一文もない。質草も大抵尽きてしまった。実際当惑したが、思いついたのは、その時の借家は、飯田町赤十字の下のかなり大きな庭のある家で、敷金が二百五十円入れてある。敷金の少ない家ヘ引越して、敷金の差を利用するということだった。牛込区新小川町一丁目のすこぶる家賃のやすい家に大急ぎで越したのはそのためであって、敷金の差約百五十円――、これが私の更生の仕事の全資金だった。
 新潮社かくして明治三十七年(1904)五月十日、『新潮』第一号は、発行所を新潮社と名づけて世に出たのである。真先きに喜びの言葉を寄せられたのは、中村吉蔵氏だった。

正岡芸陽 まさおかげいよう。明治時代の評論家。『嗚呼売淫国』『人道之戦士 田中正造』『裸体の日本』などを刊行。明治36年「新声」主筆。人道主義の立場から社会批判を行った。生年は明治14年9月5日。没年は大正9年3月24日。享年は満40歳
中村吉蔵 なかむらきちぞう。劇作家。早稲田大学教授。米国やドイツ等を外遊。近代劇の影響を受けて帰国。芸術座に参加。生年は明治10年5月15日、没年は昭和16年12月24日。享年は満64歳。