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糞尿の話|金子光晴

文学と神楽坂

金子光晴

 安岡章太郎編の短編集『滑稽糞尿譚』(文春文庫、1995年)のうち、金子光晴氏の「糞尿の話」です。これは新宿区立図書館にはないと思って、古本を買いました。しかし、『滑稽糞尿譚』のもとは単行本で、講談社の『ウィタ・フンニョアリス』(1980年)です。これは図書館にありました。「糞尿の話」はいわば「選集」なので、元の文章はどこかにあるはずなのですが、2冊とも説明はなく、原典は不明です。

 なお、この挿話の時代は、関東大震災が起こる以前だと思います。

 さて、甚だ、前置がながくなったが、僕はこの小文で、若い時にじぶんが経験した二つの小話を紹介させていただきたいとおもう。
と言っても、それほど、人類、国家のためになる話ではない。その一つは、まだ二十二、三歳の頃、房州布良という漁村にあそびにいった。偶然にも、そこで川崎の佐藤惣之助の友達とめぐりあい、村の海岸づたいの磯で、夜の更けるまで、なにか御きげんで大ぼらを吹きあった。そのはてに、いっしょにうんこをして、「太平洋にけつを洗わせよう」と、大波に尻をむけて、ずぶぬれになり、豪快を味わったつもりでいた。

房州 安房あわ国の別名。現在の千葉県南部。
布良 めら。現在は千葉県南部、館山市の一地区。
佐藤惣之助 さとうそうのすけ。詩人。作詞家。人道主義詩人として出発。陽気で饒舌な詩風に転ずる。作詞は「赤城の子守唄」「人生劇場」など。生年は明治23年12月3日。没年は昭和17年5月15日。享年は満53歳。
御きげん ごきげん。御機嫌。気分のよいさま。上機嫌。

いま一つは、午後三時頃、神楽坂の毘沙門前をすこし肴町よりのところを通りかかって、僕は、凄まじい下痢の発作をおぼえた。夕化粧をすませた芸者たちがたえまもなく往来している。あいにくそのへんにをかりる懇意な店もなく、殆んどそんなとき、施設のないにひとしい東京の街のことをはら立ちながらも、生理の欲求は容赦なく、猿股はもう重くなり、なにやら、内股をつたわってながれ下りつつある気配、そのうち、さし込んでくるような腹痛を横腹におぼえて、道の小わきにしゃがみこんだ。それから、おもむろに猿股から片足を外し、一わたり、そのへんを始末してから後続部隊を待った。
昔の町のことで、町の両側には、細い溝があり、それをつたってうんこ大将軍は、すこしもさわがず、うしろにつづくもののふに押されて、どぶ板の下、かなたに渡御あったが、それでさっぱりというような、やさしいことではすまず、おならまじりにしぶきをたてるので、こうなっては、悪びれてもあしかりなんとおもった僕は、半眼を閉じてなりゆきにまかせることにした。

肴町 現在の神楽坂五丁目
夕化粧 夕方にする化粧。
たえまもなく 絶え間無く。とだえることがない。休みない。
 かわや。便所。川の上に設けた川屋か、家の外側に設けた側屋の意味
施設 ある目的のために建造物などをつくること。この場合は便所
猿股 パンツ形式の丈の短い男性用下着。
始末 片付けること。処理。
もののふ 武士。武をもって主君に仕え、いくさに出て戦う人。武人。もののべ。
渡御 とぎょ。天皇や将軍などがお出ましになること。
あしかりなん 悪しかりし。よくない。

 たちは、情しらずなもので、みぬふりをして通りすぎてくれるどころか、わざわざ立止って、顔をのぞいてゆくものもあった。
そんな妓と座敷で顔があったりしたら、「まあ、こちら、どっかで、お目にかかったことがあったわね」と、神経のぬけた顔で平気でいうかもしれない。それが縁となれば、ほんとうにくさい仲だ。当分のあいだ、あの社会では、話の種になったことであろう。
その後、別の土地で、気のおけない老妓にその笑話をすると、
「この社会は、案外、世間が狭くて、針ほどのことが棒のようになってしまいますから、その後、どんなふうな大きなことになったかがきいてみたいもんですわね」
布良の海で太平洋に尻を洗わせることと、座敷姿の芸者衆の前で下痢を公開することと、あなたは、どちらをおえらびになりますか。また、どちらが、男々しい、人にじまんできることとお考えになりますか。それは、僕にとってはなかなか大事なことで、僕の生きてきたねうちもそれによって変ってくることになるのです。

 酒席で、音曲・歌舞などで客をもてなす女。芸妓。芸者。
座敷姿 酒宴の席で正式な身なり。

 で、しばらくは臭いや色について話が続き、最後になってもう一度、神楽坂の下痢の話が出てきます。

最後の清掃には、肌じゅばんをぬぎ、それをもって一応に身近をきれいに処理し、立ち去ろうとしたが、狭い溝にながれもあえずそのままのこしておいてもと反省して、丁度、その前が、瀬戸物屋の店先だったので、一荷の水槽を拝借し、暗渠に落ちるぐらいまで始末をし、あわてず、さわがず、一生涯のうち、この事件に関しては貝原益軒にもひけをとらない気ばたらきをして、勝安房等のように、もう一度ぐらいは大丈夫な顔つきで家路をさして引きあげたが、あの話は当分、神楽坂の上下をさわがしたらしく、現に、僕は、あの土地のだだらとよばれた友から、「呆れた奴がいたものだ」と、僕とは知らずに語る我身の噂をきき、「神楽坂署では、その犯人を追跡中だとさ」とおもいがけぬおち、、まできいたものだった。
〔かねこ・みつはる(1895―1975)詩人〕

肌じゅばん 肌に直接つける和服用肌着。ジュバンは本来,素肌に着る肌着で、ポルトガル語gibãoから来たもの
 ぶん。その人の持っている身分や能力。身の程。分際。
あえず 完全にはできない。しきれない。
瀬戸物屋 新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)では「神楽坂上」交差点の瀬戸物屋(河合陶器店)しかありません。しかし、これは遠すぎます。また、岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」では「松岡陶苑」は、以前の「西善セトモノ」だったといいます。しかし「毘沙門前をすこし肴町よりのところ」ではありません。現在は不明としておきます。
一荷 いっか。一つの荷。
暗渠 地下に埋設した、または地表でふたをした導水路。排水、下水、用水などに使う。閉水路。暗溝。
貝原益軒 かいばらえきけん。江戸前中期の儒学者、本草家、教育思想家。長崎で医学を修め、福岡藩医に。経学、医学、民俗、歴史、地理、教育などの各分野で先駆者的業績を残した。生年は寛永7年11月14日(1630年)。没年は正徳4年8月27日(1714年)。享年は85歳
気ばたらき 気働き。その場に応じて、よく気が利くこと。機転。
勝安芳 かつやすよし。別名は勝海舟。かつかいしゅう。幕末から明治初期の武士、幕臣、政治家。生年は文政6年1月30日(1823年3月12日)、没年は明治32年(1899年)1月19日。享年は満75歳。
だだら だだらだいじん(駄駄羅大尽)と同じでは。遊里で、金銭を湯水のように使って豪遊する客。
神楽坂署 昔は神楽河岸にありました。

白昼見|稲垣足穂

文学と神楽坂

 稲垣足穂氏の『白昼見』の1部です。昭和23年に書かれた自伝的な作品で、前半は「新潮」に、後半は「思潮」に出ています。ここで扱う時間は昭和12年5月ごろ。氏は牛込区横寺町37番地の旺山荘アパートに移りました。

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)

 五月上旬になって、山上二郎の下宿から電車道をへだてた高台に、やっと自分の居場所を定めることが出来ました。衣巻の住いで書いた短篇が売れたことがありましたが、百円など何の役に立つかとわたしは思っていたので、二日間でつかいはたしてしまいました。そこで、改めて、旧知の江戸川乱歩に金三十円を無心し、ほかに玉虫色の背広と夜具の上下の寄附を受けました。こんなことで落付けるものならば、先の百円があればなんだって出来る、そういうことが判りましたが、かと云って、この次の百円は分けて使おうなどとは、わたしは勿論考えませんでした。
 わたしがこの横寺町の一隅に住いをきめたのは、飯塚という酒造家が経営している縄のれんがあったことに依ります。旧臘の或る晩初めて山上に案内されて、其処に、長大なけやきの一枚板の卓に向って、濁り酒というものを飲んでいる人々と、背後の壁面にずらりと掛け並べられた品目の廉価に、わたしは驚きました。けれども勿論、それらのたべものや鍋類に箸をつける気持は起りませんでした。ところがそのうちに、何しろこの店では十銭あれば泡盛ブランかが飲めます。便利に思って通っているうちに、五銭のゴッタ煮やにしんの煮付がなかなか美味おいしいのだ、ということが判ってきました。同時に、印半纏をまとうた人々のあいだには、紳士と称する曖昧あいまい模糊もこたる存在のあずかり知らぬ渋味と真実があるということが、――それは既に鯛太郎及び鯖吉を通して感付いていましたが――その理解がいっそう打ち拡げられることになりました。こうして、宮比町の友人がくれた青い背広はたちまちのうちに質にはいってしまいました。次に靴がなくなりました。神楽坂であがなった格子こうしじまハンティングも、ワイシャツも、蝙蝠こうもりがさも、相続いて姿を消すに到りました。同じ酒造家の金融部でしたから、インキや便箋を質草にしても一杯か二杯のブラン代に立替えられ、わたしはやがて夜具のほか身辺無一物になってしまいました。考えてみると然し、馬込の旧友の家ではわたしは着の身着のままで、あの朝たもとには二円あったきりなのです。「こんなことぐらいは何か」と思っていたものの、さて困ったのは、こちらへ移った当座こそ何彼と口実を見つけて、三円なり五円なり、時には二十円と集めることのできた金も、既に引き出すたねが尽きてきたことでした。洋服の寄進者が、こんなことではいけないと云って、食堂の回数券を買ってくれましたが、この神楽坂食堂が矢張り飯塚酒店の直営でしたから、食券で飲ませてくれるようにとの交渉が、縄のれんのねえさんとのあいだに取交されたのでした。これでわたしへの助力者はあきれました。こうなると、再び周辺が急に余所余所しくなり出したことを、わたしは感付かぬわけにはまいりません。――「君と僕とはどうも空間の性質が異なるらしい。ぼくの住む世では遺憾ながら、君の常数を発見することは不可能だ」このたび上京して数回逢った同窓の友が、彼は官立美術学校の解剖美学教授でしたが、十円だけ送ってくれと、二度目に云ってやった時に、いまのような返事を寄越しました。――「小生は今後きみをもって過ぎ去った人間と見なすであろう、ではさようなら」こんな速達の葉書をくれたのは、芥川賞の受領者石川淳でした。衣巻からは其後いっこうに音沙汰がありません。慈眼山室生犀星もついに云い出しました。「苦労が遅過ぎた、あれはあれで滅びる人間じゃ」
 八月に入ると、三日間なにも口へほうり込まない日を迎えました。九月になると、湯屋の計り台に乗ってみて、十五キログラム体重が減っていることが判りました。

電車道 現在の大久保通り
高台 当時の稲垣氏の住所は牛込区(現在は新宿区)横寺町37番地でした。
衣巻 衣巻省三。きぬまきせいぞう。詩人、小説家。同級生の稲垣足穂と一緒に佐藤春夫の門下生に。昭和10年、小説「けしかけられた男」で第1回芥川賞候補。生年は明治33年2月25日。没年は昭和53年8月14日。享年は満78歳。
無心する 遠慮せず物品や金銭をねだること。
縄のれん 縄を幾筋も結び垂らして作ったのれん。店先にこののれんを下げたところから、居酒屋や一膳飯屋
旧臘 きゅうろう。去年の12月。新年になってから用いる。臘は陰暦12月。
濁り酒 にごりざけ。発酵させただけで、糟かすを漉こしていない白くにごった酒。どぶろく。
泡盛 あわもり。沖縄産の焼酎。
ブラン デンキブラン。明治15年、浅草の酒店主が開発したブランデー風カクテル。詳しくはhttp://www.kamiya-bar.com/denkibran.html
印半纏 しるしばんてん。家号などを染め出した半纏。江戸後期から職人などが着用。半纏は防寒用や仕事用の和服の上着。
鯛太郎 不明。鯛太郎は鯛の料理の総称でしょうか。鯖吉も同じです。さらにこの1文も意味不明です。「飲み屋にいる庶民にとって紳士は独特の意味がある」でしょうか。でもこれでもやっぱりわからない。
宮比町 戦前、宮比町は上宮比町と下宮比町の2つに分かれていました。戦後、上宮比町だけが名前が変わり「神楽坂4丁目」です。

ハンチング

ハンティング 狩り。狩猟。青空文庫によれば「ハンチング(hunting cap)」と同じ用法もあり、これば鳥打ち帽子のこと。
馬込の旧友の家 大森馬込に住んでいた衣巻省三氏の家でした。
着の身着の儘 きのみきのまま。いま着ている着物以外は何も持っていないこと。
たもと 和服のそでの下の袋状の所。
飯塚酒店の直営 神楽坂大衆食堂は東京市営の食堂でした。酒店の直営ではないと思います。
石川淳 小説家。小説「普賢ふげん」で第4回芥川賞。無頼ぶらい派や戯作派で、理想の喪失と絶望からの再生を描く。生年は明治32年3月7日、没年は昭和62年12月29日。享年は満88歳。
慈眼山 室生犀星氏の住所は「大森区(現大田区)馬込町久保763番地」ですが、その隣に慈眼山萬福寺がありました。

飯塚酒場|横寺町

文学と神楽坂

飯塚酒場

横寺町2

新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』から

飯塚酒場の官許にごり

 三叉路を越えての場所、内野医院の手前、龍門寺と神楽坂中央整骨院の反対側、現在は家1軒と4台の駐車場になっていますが、この横寺町7番目が飯塚酒場でした。有名な居酒屋で自家製のどぶろく「官許どぶろく」「官許にごり」が有名で、文士もこれを目当てに並んでいました。

 井伏鱒二は『人と人影』(1972年)で

この店は江戸時代から続いて来た店で、土間の入口に「官許どぶろく」と書いた古めかしい看板を掛けていた。土間のなかは古風なままに簡素なつくりだが、幕末のころ札束に黴をわかしたという噂が立っていたほどの店である。町奉行から呼出しがあって「牛込には官札に黴が生えるほど金があるのか」と皮肉を云われたそうだ。

 中屋金一郎編著「東京のたべものうまいもの」(北辰堂, 1958年)では

「飯塚酒店」。弘化四年(1847)創業。にごり酒で有名。戦中統制以来、戦後も作っていないが、お客相手のなわのれんの方は、おばあさんが帳場を、八十すぎたおじいさんが、酒をだしたり、料理をこしらえていた。おじいさんの丹精する、いかの白づくりと、なすのからし漬けはそろばんずくではできない手の込んだすばらしい味だったが、近ごろ休んでいる。さびしいことである。早稲田派の作家・詩人がよくきていた。かつて、稲垣足穂氏のあらわれなかった晩はなく、また、明大の校歌を作った、そしてロマンチックな社会主義詩人の児玉花外が晩年困っていたとき、ここのおばあさんが家作の長屋に住まわせ、三度の食事を運んで面倒を見ていた。養育院へ入ったのちも、明大の学生とともに最後まで世話したことが伝えられている。

 衣巻省三氏の「馬込牛込」(「文藝世紀」、昭和15年、文藝世紀社。再録は「タルホスペシャル」別冊幻想文学➂、1987年、幻想文学会出版局)では

 横寺町の通りに「飯塚」と呼ばれる牛込名代の飲屋があつた。その裏手の同名の質屋と兄弟分で、自分の家で種々の酒を醸造し、安く、うまく飲ませた。その道のものは誰知らぬものもない老舗だつた。十錢もあればブランデーが一杯五銭もあればおがとれた。此處では細かい神經など用をなさない。他の、新興の、文化的な薄手のものとちがひ、古風に、どつしり落着いてゐた。時分どきには、さしもの廣いこの店も唯嗷々、此の店の「ごつた」のお皿盛りのやうに一杯だつた。家庭と云ふものを知らぬは毎日ここに来た。この店については――誰か餘り見かけない客が便所へ行かうと立上つたとしよう。お爛場にゐるでつぷり血色のいい梅ちゃんが、「ハイお便所!」と喚くやうに云ふ。すると奥で仕事してゐた若い衆が、「こちらヘ!」と誘導してくれる。斷らうものなら道に迷つて了ふ。廣い、薄暗い酒造場をくねくね廻つて、大酒樽の乾された裏庭へ出てから、その片隅に隠れてゐる便所に案内してくれるのだ。丁度胸のへんに鐵棒が一本横に渡してあつた。成程上手に出来てゐるわいと、醉つたお客は思はず胸を當てた。こんな仕掛けを見ただけで大方客種も知れる。お天気の好い晝間は、鷄が餌を拾ひ、雄鷄が千鳥足を突つきに来た。皆んなは怖い鷄だと云つてゐた。ダットサンや乳母車もおかれ、子守娘がこの家の美しい末娘を遊ばせてゐた。牛込の飲屋の裏に、こんな長閑な風景もあるのかと、感心しながら戻ると又道を失ふ。まごまごしてゐると。さつきの若い衆が「こちらヘ!」と導いてくれた。この便所行は。退窟した酒間の気持らしにもなり、運動にもなつた。もう、「 ハイお便所!」と云はれなくなつたら、常連の一人となつた證證である。常迪は此の飲屋を愛する者ばかりの寄り合ひだつた。身なりこそ凡て卑しいと云へるが、たちの惡い客は見當らなかつた。不思議に喧嘩がなかつた。主人は茶色の圓帽をかぶつて、ほんの時たま顔を見せた。帳場に坐る時は眼鏡をかけた。店の長テーブルの奥の端に席をとると、帳場越しにお座敷が見渡された。夕飯時には、お櫃を抱へた女中を侍らし、一家うち揃つての團欒だつた。大きな食卓の上になごやかな笑ひが溢れてゐた。家庭を失つた者、故鄕を去つてうらぶれた者などにとつて、たまらぬ程なつかしい一瞥だつた。それは店の方とちがひ、上品な格をそなへた一家の夕餉だつた。

 酒や飯に添えて食べるもの。おかず。副食物。
嗷々 ごうごう。口やかましい。騒々しい。声がうるさい。
 小説家の稲垣足穂氏です。
長閑 のどか。静かでのんびりして落ち着いている。
円帽 正教会で長輔祭・長司祭に与えられる円筒形の帽子。カミラフカ。日本正教会では円帽子という。
朝日坂の名前 神楽坂5丁目 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁 一水寮

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方南の人|稲垣足穂

文学と神楽坂

 昭和23年、稲垣足穂氏は「方南かたなみの人」を発表しました。
 この主役は「俺」とヤマニバーで働いていた女性トシちゃんです。彼女は神楽坂をやめると、しばらくの間、杉並区方南に住んでいました。

 ヤマニバーの、ヒビ割れの上に草花をペンキで描いた鏡の傍に、褐色を主調にした油絵の小さな風景画が懸かっている。「これはあたしのお父さんの友達が描いたのよ」と彼女は教えた。それは清水銀太郎と云って、俺の二十歳頃に聞えていたオペラ役者である。「あれは分家の弟だ」とは、縄暖簾のおかみさんの言葉である。「縄暖簾」というのは、彼女らが本店と呼んでいる横寺町どぶろく屋のことである。この古い酒造家と表通りのヤマニバーとは同姓であるが、そうかと云って、常連が知ったか振りに吹聴しているような繋りは別にないらしい。其処がどうなっているのか見当が付かぬけれど、然し何にせよ、彼女の家庭を今のように想像してみると、俺の眼前には下げ髪姿の少女が浮ぶ。立込んだ低い家並の向うのの夕空。縄飛び。千代紙。ビイ玉。そしてまた〽勘平さまも時折は……。

 横寺片隅の孤りぼっちの起臥は、昔馴染の曲々のおさらいをさせた。俺の口から知らず知らずに、〽千鳥の声も我袖も涙にしおるる磯枕………が出ていたらしい。トシちゃんが近付いてきて、「あら、謡曲ね」と云った。彼女は「うたい」とも「お能」とも云わなかった。「謡曲ね」と云ったのである。また彼女は何時だって「酔払ったのね」とは云わない。「ご酪酊ね」である。

方南 東京都杉並区南東部の地名。方南一丁目と方南二丁目。地名は「ほうなん」ですが、この小説では「かたなみ」と読みます。
それ 「清水銀太郎」は「お父さん」か「友達」ですが、全体を見ると、おそらくこのお父さんが清水銀太郎なのでしょう。なお、このオペラ役者の詳細は不明です。
オペラ役者 歌って、演技する声楽家。現在は「オペラ歌手」のほうがより普通です。
分家 家族員がこれまで属した家から分離し、新たにつくった家。なお、元の家は本家。
縄暖簾 飯塚酒場のこと。横寺町にありました。
どぶろく 日本酒と同じく米こうじ、蒸し米と水で仕込み、発酵したもろみを濾過はなくそのまま飲む。
同姓 どちらも「飯塚」だったのでしょう。
繋り 現在は「繋がり」。つながり。結びつき。関係があること。
下げ髪 さげがみ。髪をそのまま、あるいはもとどりで束ねて後方に垂れ下げた女性の髪形。
家並 いえなみ。家が続いて並んでいること。
 あかね。黄みを帯びた沈んだ赤色。暗赤色。
〽勘平さまも… おそらく「仮名手本忠臣蔵」から。謡曲ようきょくの一種でしょう。
横寺片隅 稲垣足穂氏の住所は「横寺町37番地 東京高等数学塾気付」でした。
起臥 きが。起きることと寝ること。生活すること。
〽千鳥の声も… 能楽「敦盛あつもり」の一節。源平の合戦から数年後、源氏の武将、熊谷直実は平敦盛の菩提を弔うため、須磨の浦に行き、敦盛の霊に出会う。正しくは「千鳥の声も我が袖も波にしおるる磯枕」
謡曲 能の脚本部分。声楽部分、つまりうたいをさすことも。
酩酊 めいてい。非常に酔うこと。

 白銀町から赤城神社境内へ抜ける鈎の手が続いた通路。紅いに絡まれた箱形洋館の脇からはいって行く小径。幾重にも折れ曲っだ落葉の道。何時だって人影が無い。トシちゃんはいまどんな用事をしているであろう?

「洗濯物なんか神楽坂の姐さんが控えているじゃないか」と銀座裏の社長が云った。
「それにはお白粉が入用なんだ」
「おしろいまで買わせるのか」ちょび髭の森谷氏はそう云って、別に札を一枚出し、これで向いの店で適当なのを買ってこい、と校正係の若者に命じた。白粉はトシちゃん行きではない。沖縄乙女のヨッちゃんの為にである。
 縄暖簾を潜ると、武田麟太郎白馬を飲んでいた。約束の金を持ってきてくれたのである。五、六本明けてからヤマニヘ引張って行く。
「師匠から女の子を見せられようとは、これはおどろいた!」
 そう云いながら、彼は濁り酒を四本明けた。いっしょに日活館の前まで来たが、此処で彼の姿は児雷也のように、急に何処かへ消え失せてしまった。

鉤の手 かぎのて。かぎ(鈎)の形に曲がっていること。ほぼ直角に曲がっていること。
 つた。ブドウ科のつる性落葉木本。
社長 森谷均。1897~1969。編集者。昭森社を創業。神保町に喫茶店や画廊を開き、出版社を二階に移転。思潮社の小田久郎氏やユリイカの伊達得夫氏は同社の出身。
白馬 しろうま。どぶろくと同じ。ほかに、濁り酒、濁酒、もろみ酒も。
濁り酒 にごりざけ。これもどぶろくと同じ。
日活館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地にあった映画館。日活館。現在はスーパーの「よしや」
児雷也 じらいや。江戸時代の読本・草双紙・歌舞伎などに現れる怪盗。中国明代の小説で門扉に「自来也」と書き残す盗賊の我来也があり、翻案による人物。がまの妖術を使う。

 そのトシちゃんがヤマニバーをやめ、神楽坂からも消えてしまいます。

 トシちゃんは去った――二月に入って、二週間ほど俺が顔を出さなかったあいだに。「お目出度う」と彼女が云ってくれた俺の本の刷上りを待たずにトシちゃんは神楽坂上を去った。きょうも時刻が来て、酒呑連の行列がどッとヤマニヘなだれこんだ時、何処かのおっさんが、混乱の渦の真中で、「背の高い女中が居ないと駄目だあ!」と呶鳴ったけれど、その、客捌きの鮮かな、優い、背の高い女中は最早このバーヘは帰ってこないのである。足掛六年の月日だった。俺には未だよく思い出せない数々のことが、今となってよく手繰り出せない事共がひと餅になっている。暑い日も寒い日も変りなく立働いていたトシちゃん。「おひたし? おしたじ? いったいどっちなの?」と甲高い声でたずねてくれるトシちゃん。俺が痩せ細った寒鴉になり、金具の取れた布バンドを巻くようになっても態度の変らなかった唯一の人。何時だって、あの突当りに前田医院の青銅円蓋が見える所へ帰ってきた時に、俺の心を明るくした女性。朋輩が次々に入れ変っても一人居残って、永久に此処に居そうに見えた彼女は、とうとう神楽坂を去った。

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)

呶鳴る どなる。激しく言葉をだす。
客捌き きゃくさばき。客に対応して手際よく処理する。
手繰り てぐり。工夫して都合をつけること。やり繰り。
ひと餅 不明。「一緒になって」でしょうか。
おしたじ 御下地。醬油のこと。
寒鴉 かんあ。冬のからす。かんがらす。
前田医院 神楽坂6丁目32にありました。現在は菊池医院に変わっています。

 昭和20(1945)年4月13日午後8時頃から、米軍による東京大空襲がありました。

 正面に緑青の吹いた鹿鳴館風の円屋根が見える神楽坂上の書割は、いまは荒涼としていた。これも永くは続かなかった。俺がトシちゃんへご機嫌奉仕をし、合せて電車通の天使的富美子さんの上に、郵便局横丁のみどりさんの上に、そのすじ向いの菊代嬢に、日活会館前のギー坊に、肴町のヨッちゃんの上に、さては「矢来小町」の喜美江さんを繞って、それぞれに明暗物語が進捗していた時、旧神楽坂はその周辺なる親しき誰彼にいまはの別れを告げていたのだ。電車道の東側から始まった取壊し作業の鳶口が、既に無住のヤマニバーまで届かぬうちに、四月半ばの生暖い深更に、牛込一帯は天降った火竜群の舌々によって砥め尽されてしまった。お湯屋の煙突と、消防本部の格子塔と、そして新潮社のたてに長い四階建を残したのみで、俺の思い出の土地は何も彼もが半夜の煙に。そして起伏した一望の焼野原。ヤマニの前に敷詰められた鱗形の割栗ばかりが昔なりけり――になってしまった。

鹿鳴館

緑青 ろくしょう。金属の銅から出た緑色の錆。腐食の進行を妨げる働きがある。
鹿鳴館 ろくめいかん。明治16年(1883)、英国人コンドルの設計で完成した洋館。煉瓦造り、二階建て。高官や華族の夜会や舞踏会を開催。
円屋根 稲垣足穂氏は「世界の巌」(昭和31年)で「彼らの思い出の神楽坂、正面にM医院の鹿鳴館式の青銅の円蓋が見える書割は、――あの1935年の秋、霧立ちこめる神戸沖の幻影ファントム艦隊フリートと共に――いまはどこに求めるよすがも無い。」と書いています。したがって、これも前田医院の描写なのでしょう。
書割 かきわり。芝居の大道具。木製の枠に紙や布を張り、建物や風景などを描き、背景にする。
繞る めぐる。まわりをぐるりと回る。とりまく。
進捗 物事が進みはかどること。
電車通 現「大久保通り」のこと。
郵便局横丁 郵便局は通寺町(現神楽坂6丁目)30番地でした。前の図で右側の横丁を指すのでしょう。
日活会館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地。
肴町 現「神楽坂5丁目」
鳶口 とびぐち。竹や木製の棒の先端に鉄製のかぎをつけ、破壊消防、木材の積立・搬出・流送などを行う道具。
深更 しんこう。夜ふけ。深夜。

牛込区詳細図。昭和16年

お湯屋 「藤乃湯」が横寺町13にありました。
消防本部 消防本部は矢来町108にありました。
新潮社 新潮社は矢来町71にありました。
半夜 まよなか。夜半。
割栗 割栗石。わりぐりいし。岩石や玉石を割った砕石。直径は10〜20cm。基礎工事の地盤改良などで利用した。

 それから戦後数年たって、トシちゃんの話が出てきます。

武蔵野館の前を曲りながら、近頃休みがちの店が本日も閉っていることを願わずに居られなかった。タール塗の小屋の表には然し暖簾が出ていた。俺は横丁へ逸れて、通り過ぎながら、勝手口から奥を窺った。俯いて何かやっている小柄な、痩ぎすの姿があった。
「奥さん」と俺は声を掛げた。「表は未だなのですか?」
 顔を上げて、それからおかみは戸口まで出てきた。
 持前のちょっと皮肉な笑みを浮べると、
「まだ氷がはいらないので、お午からです」
 五、六秒の間があった。
「おトシはお嫁に行って、もうじき子供が生まれるそうです」
「それはお目出度い……」と俺は受け継いでいた。このおかみの肌の木目が細かいこと、物を云いかけるたびに、揃いの金歯がよく光ることに今更ながら気が付いた。
「東京ですか」と自動的に俺は口に出した。
「いいえ田舎で――」
 その田舎は……? とは、はずみにもせよ口には出なかった。この上は何時かひょっくり逢えばよいのだ。逢わなくてもよいのである。
 その代り接穂は次のようになった。
「姉さんの方はどちらに?」
「千葉とか聞いています」
「こちらは相変らずの宿無しで」と、俺は吃り気味に、此場から離れる為に言葉を引張り出した。
「――いま、戸塚の旅館にいるんですよ」それはまあ! という風におかみは頷いた。
「ではまた」と云って、俺は歩き出した。

武蔵野館 前後の流れを読むと、神楽坂6丁目にあった日活館で、それが戦後になって「武蔵野館」に変わったものではなく、新宿の「武蔵野館」でしょう。
タール コールタール。石炭の高温乾留で得られる黒色の油状液体。そのまま防腐塗料として使う。
暖簾 のれん。商店で、屋号などを染め抜いて店先に掲げる布。部屋の入り口や仕切りにたらす短い布。
木目 皮膚や物の表面の細かいあや。また、それに触れたときの感じ。
はずみに そのときの思いがけない勢い。その場のなりゆき。
接穂 つぎほ。話を続けて行くきっかけ。言葉をつぐ機会。

 次で小説は終わりです。

「涙が零れたのよ」釣革を持った婦人同士の会話中に、こんな言葉が洩れ聞えた。僅かに上下動して展開してくる夏の終りの焼跡風景を見ている俺は、一九四七年八月二十五日、交響楽『神楽坂年代記』も愈々終ったことを知るのだった。
 電車は劇しく揺れながら代々木に向って走っていた。

零れる こぼれる。液体が容器から出て外へ落ちる。抑え切れなくて、外に表れる。
釣革 つり革。吊革。吊り手。つりて。電車・バスなどの中で、乗客が体を支えるためにつかまる、上から吊り下げられた輪。
1947年 足穂氏は46歳でした。
愈々 いよいよ。待望していた物事が成立したり実現したりするさま。とうとう。ついに。