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川柳江戸名所図会④|至文堂

文学と神楽坂

 善国寺の川柳についてです。

鎮護山善国寺

さてまたもとへ戻って、濠端から神楽坂を上り切った辺り、左側、古くは肴町、今は神楽坂五丁目という所にがある。
 そもそもは馬喰町にあり、寛文十年、麹町六丁目横町、御厩谷という所へ移った。そこでその谷を善国寺谷というように成る。
     谷の名に寺名末世置みやげ      (六六・36
いうような句のできるわけは、さらに「武江年表」寛政五年の項に「麹町善国寺去年火除のため地を召上げられ、神楽坂に代地を給はりけるが、今年二月普請成就して、二十七日毘沙門天遷座あり」と記されているようにまた移転したのである。
     あら高くなる谷から坂の上      (六六・31)
     三度目面白い地へ御鎮座       (六六・30)
     所かへてんてこまふかぐら坂     (八一・3)
 本尊毘沙門天は加藤清正守護仏であったとも伝え、尊仰篤く、芝金杉の正伝寺品川の連長寺と共に知られた。
     むりな願ひも金杉と神楽坂       (六六・29)

 日蓮宗鎮護山善国寺です。
馬喰町 東京都中央区日本橋馬喰町です。
御厩谷 おんまやだに。御厩谷坂とは千代田区三番町の大妻通りを北から南に下がる坂。
善国寺谷 現在は千代田区下二番町の間より善国寺谷に下る坂。坂上に善国寺があり、新宿通りから北へ向って左側にありました。坂下のあたりを善国寺谷といい、御厩谷とは無関係。
末世  仏教で、末法の世。仏法の衰えた世。のちの世。後世。道義のすたれた世の中。
置き土産 前任者が残した贈り物、業績、負債。
六六・36 この「川柳江戸名所図会」にはどこにも書いてありませんが、江戸時代の川柳の句集「誹風はいふうやなぎ多留だる」があり、この本も「誹風柳多留」の句集でした。「誹風柳多留」は明和2年から天保11年(1765-1840)にかけて川柳167篇をまとめました。これは66篇の句集36です。ちなみにこの作者は「百河」です。
武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。1848年(嘉永1)に正編8巻、1878年(明治11)に続編4巻が成立。正編の記事は、徳川家康入国の1590年(天正18)から1848年(嘉永1)まで、続編はその翌年から1873年(明治6)まで。内容は地理の沿革、風俗の変遷、事物起源、巷談、異聞など。
普請 家を建築したり修理したりすること。多数の僧に呼びかけて堂塔建造などの労役に従事してもらうこと。
遷座 せんざ。神仏や天皇の座を他の場所に移すこと。
あら 驚いたり、意外に思ったり、感動した時などに発する語。
てんてこ 「てんてこ」とは里神楽などの太鼓の音で、その音に合わせた舞
まふ 舞う。音楽などに合わせて手足を動かし、ゆっくり回ったり、かろやかに移動したりする。
加藤清正 かとうきよまさ。安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。
守護仏 守護本尊。守り仏。一生を守り続けている仏。生年の十二支を求め、8体の仏から決定する。
芝金杉の正伝寺 港区芝の日蓮宗の寺院。寺内に毘沙門天がある。
品川の連長寺 正しくは蓮長寺。品川区南品川の日蓮宗の寺院。寺内に毘沙門天像を祀る。

 縁日の日である。
     ゑん日が千里もひゞく神楽坂      (一五〇・10)
虎は千里行って千里かへる」ということわざをふまえている。
     寅の日におばゞへこ/\善国寺     (六六・30)
「おばゞへこ/\」というのは、当時の流行語であったらしい。ここでは老婆が腰をへなへなと動かす形容である。
 他に句もある。
     おばゞへこ/\の気あるやかましい  (天二満2)
     おばゞへこ/\の気あるでむつかしい  (二〇・26 末四・18)
     おばゞへこ/\がおすきで困り    (一〇三・4)
 これらの句は姑婆がまだ色気があって、聟を困らせるというようなことであろう。
     きざな事おばゞへこ/\罷出る     (傍三・41)
 これは吉原遣り手か。
     寅詣牛へひかれし善国寺        (六六・35)

縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すると御利益があるという。
 十二支の第3番目。寅の日には婚礼などを避けたが、「虎は千里を行って千里を帰る」といい、出戻ることを避けるためだった。時刻では、午前4時の前後2時間を「寅の刻」「寅の時」という。方角は東北東。
ひびく 音が遠くまで達する。ある場所で大きな音や声が発せられて、大きく聞こえる。
虎は千里行って千里かへる 虎が、一日のうちに千里もの距離を行き、さらに戻って来ることができる。活力に満ちた、行動力のあるなどを表す言い回し。
おばば 御祖母。祖母や老年の女性を親しんでいう語
へこへこ 張りがなく、へこんだり、ゆがんだりしやすいさま。頭をしきりに下げるさま。また、へつらうさま。ぺこぺこ。
気ある  興味や関心がある。特に、恋い慕う気持ちがある。
やかましい 音や声が大きすぎて、不快に感じられる。さわがしい。
 もこ。むこ。結婚して妻の家系に入った男性。
姑婆 「こば」? 祖父の姉妹。父方の叔母。
きざな 服装・態度やものの言い方などが気取っていて、いやみだ。
罷出る まかりでる。人前に出る。出てくる。
吉原 江戸幕府が公認した遊廓。浅草寺裏の日本堤で、現在は千束4丁目付近。
遣り手 遊郭で客と遊女との取り持ちや、遊女の監督をする年配の女。
寅詣 とらまいり。寅の日に毘沙門天に参詣すること。

 神楽坂のさらに上、通寺町の右側に多くの寺があり、その一つに龍峯山保善寺というのがあった。ここは山門に「獅子窟」というがかけられていて、世俗獅子寺〉といった。この寺は今は中野区昭和通りに面した所に移っている。
 またその先隣に蒼龍山松源寺という寺があった。俗に〈猿寺〉という。この寺では猿を飼っていた。ある時、住持が江戸川の渡船に乗ろうとした時、猿に引留められて乗船を思い止まり、そのため沈没溺死を免れたという話が伝えられている。この寺も獅子寺と同様中野区昭和通りに移転しており、門前に猿の像を載せた「さる寺」という柱を立てている。
     牛込で獅々猿よりもはやる寅      (六六・35)
 この句はこれらの寺々と善国寺とを獣で比べたのである。
 さて神楽坂や善国寺関係の句が多く六六篇にあるのは、同篇に「牛込神楽坂毘沙門天奉納額面会」が催された時の句、一四八句が載っているからであって、ここにあげた外にも、いろいろあるが省略する。しかし他の篇にはあまりこの寺の句は見当らない。

明治20年「東京実測図」(新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」から)

龍峯山保善寺 盛高山保善寺(赤)。現在は中野区上高田1-31-2に移動。
獅子窟 ししくつ。「窟」はあな、ほらあなの意味。
 書画を枠に入れて室内の壁などに掛けた文句や絵画。その枠。
世俗 せぞく。俗世間。俗世間の人。世の中の風俗・習慣。世のならわし。
獅子寺 三代将軍徳川家光が牛込の酒井家邸を訪問した折り保善寺に立寄り、獅子に似た犬を拝領した。これから「獅子寺」という
蒼龍山松源寺 蒼龍山松源寺(青)。現在は中野区上高田1-27-3に移動。
猿を飼っていた 佐藤隆三氏や芳賀善次朗氏の「猿寺」を参照。
江戸川 これは利根川の支流です。千葉県北西端の野田市関宿せきやどで分流し、東京湾に注ぐ。
はやる ある一時期に多くの人々に愛好する。流行する。 客。

地上の楽園|杉本苑子

文学と神楽坂

 杉本その氏は東京市牛込区(現東京都新宿区)若松町に生まれた小説家です。吉川英治に師事し、歴史小説を発表。1963年、「孤愁の岸」で直木賞を受賞。現在まで大量の歴史小説は書いているのですが、それ以外の随筆やインタービューは極めて稀か、書いても全集等には載りません。生年は1925年6月26日、没年は2017年5月31日。享年は満91歳。これは神楽坂に関するインタービューです。


地上の楽園    杉本苑子 作家
 ハイカラに神楽坂でココア

  お年玉のギザ(50銭硬貨)を握りしめ、岩波文庫を読んだ。文学という病に取りつかれるまでの幸せな日々は、両親と歩いた神楽坂の縁日や新宿の雑踏の淡い記憶に彩られている。

 ――全集が刊行中ですね。
 二十二巻あっても、入るのは書いたものの半分ですね。習作時代からだと五十年。木の机なんか体の形にすり減ってるの。
 二十代の初めに小脱を書こうと志し、まっすぐにきてしまった。物語に打たれ、触発され、ものを考え出すようになってからは、どこへ行っても、何をしていても、深刻な無念や憎悪、外的・内的な怒り、屈託というものがいつも一緒だった。
 ――早熟な子だった。
 英語が敵性語とされ、短歌が必修科目になったときの女学校時代に「思うこと無げに遊べる童らよ找にもありきかかる遠き日」という歌を作った。十四、五歳の小娘が「かかる遠き日」なんていうのは生意気だけど、ちょっとおませな子どもだったら、子どもなりのもの思いが生じてくる。そういう悩みがまつたくなかったころだけが、楽園だという思いは今も同じ。
 ――楽園の風景は?
 あなたがたは戦前世代というと、もんぺで雑炊、空襲と条件反射みたいに想像するけど、大正末年生まれの子ども時代は、クリスマスだってお正月だって今と同じですよ。東京の小さな薬屋の娘だったわたしでも、よそいきは真っ赤なビロードの生地にウサギの毛のついたオーバー。赤い靴に子ども用の帽子、ハンドバッグはブロンドのフランス人形で、背中にファスナーがついていて、ハンカチとかキャンデーが入れられるの。
 ――ハイカラですね。
 神楽坂のビシャモン縁日に、両親に連れられてよく出かけたものです。お参りの人と夜店とで明るい活気があった。とくに紅家という子どもの目にもモダンな喫茶店があって、そこでケーキを食べてココアを飲むのがとっても楽しみだった。大きならせん階段があるの。その木の手すりに乗っかってツーッて滑り降りたわ。
 両親も若かったし時代にも関東大震災からの復興の雰囲気があった。あのころのビシャモンの縁日のにぎわいを思い出すと、いい雰囲気の幼児期だったなあって思いますよ。
 ――そんな子がなぜ文学へ。
 どうしてでしょうねえ。やみくもに小説が好きだった。お年玉をもらっても、岩波文庫を買って読みふけっていた。『幸福な王子』『青い鳥』だとか、子ども心にどれだけ打たれたか。小説の持つ力を、もしわたしのものにできたらと思ったのかもしれません。
 子どもの時から、長生きはしないだろうなあと予感して、自分の限られた時間は自分ひとりのためだけに使おうと決めた。夫とか子どもなど執着の対象を持つと、どうしたって時間がとられるでしよ。そういうのはいやだったの。エゴイストよね。
 ――死後は家も何もかも、熱海市に託すとか。
 ええ、本当にさっぱりした。物欲も生への執着もあまりない。もともと生存本能が淡いのかも。来世とか前世は信じてないけど、無だった状況から間違って生まれてきたような気がしてしようがない。わたしの作品にも、そんな虚無感がずっと通っている気がします。
(朝日新聞。1998.1.8.)

ビロード パイル織物の一種。綿・絹・毛などで織り、細かい毛をたて、なめらかでつやのある織り方。ポルトガル語のveludo、スペイン語のvelludoから来たもので、ベルベットvelvetと同義語。
ビシャモン 日蓮宗鎮護山善国寺毘沙門天。東京の縁日発祥の地です。
縁日 特定の神仏に縁のある日。有縁うえんの日。その日に参詣すると、特別な功徳があるという。
紅家 正しくは紅谷
『幸福な王子』 英国作家O・ワイルドの童話。1888年刊。黄金の王子像がツバメを通して黄金や宝石を貧しい人たちに配る。像は火に溶かされるが、美しい心臓だけは残ったという。
『青い鳥』 メーテルリンクの戯曲。六幕。1908年初演。チルチルとミチルの兄妹は、夢の中で幸福の使いである青い鳥を求める。翌朝目覚めて、鳥籠に青い鳥をみつけ、幸福は身近にあることを知る。

善國寺の文化財

文学と神楽坂

では本堂に走る前に、文化財の説明を見てみましょう。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定有形文化財 彫刻
善國寺(ぜんこくじ)毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)
所在地 新宿区神楽坂5丁目36番地
指定年月日 昭和60年7月5日

「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。木彫で像高30センチ、右手に鉾、左手に宝塔(ほうとう)を持ち、磐座(いわざ)に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃と推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の(まもり)本尊(ほんぞん)だったとも、土中より出現したともいわれる。善國寺は、文禄4年(1595)徳川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は、日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。毘沙門天は、別名を多聞(たもん)天と称し、持国(じこく)天・増長(ぞうちょう)天・広目(こうもく)天と共に四天王の1つである。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい、北方の守護神とされる。善國寺の毘沙門天は、江戸の3毘沙門と呼ばれ、多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・五月・九月の初寅の日に毘沙門天を開帳し、賑わいを見せている。
平成21年12月    新宿区教育委員会

毘沙門天の生まれは寅の年、寅の日、寅の刻といわれ、化身である寅の石像は1対境内に向かい合って鎮座しています。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定有形民俗文化財
善國寺の石虎(いしとら)
所在地 新宿区神楽坂5丁目36番地
指定年月日 平成21年11月6日

G 安山岩製の虎の石像で、像高は阿形あぎょう(右)が82センチ、吽形うんぎょう(左)は85センチで、台石、基壇部も含めた総高は、両像ともに2メートルをこえる。台石正面には浮彫があり、虎の姿を動的に表現している。嘉永元年(1848)に奉納されたもので、阿形の台石右面には、「岩戸町一丁目」「藁店わらだな」「神楽坂」「肴町さかなまち」などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者は善國寺周辺の住民であったことがわかる。石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳村長右衛門である。善國寺は毘沙門天信仰から「虎」を重視し、石虎の造立も寄進者らの毘沙門天信仰によると考えられる。まら、台石に残された寄進者名や地名は、江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。石虎は都内でも珍しく、区内では唯一の作例である。戦災による傷みが見られるが、貴重な文化財である。なお、阿形の台石正面にある「不」に似た刻印は、明治初年のイギリス式測量の几号きごう水準点で、残存している数は全国的にも少ない。
平成21年12月  新宿区教育委員会

この刻印は「几」と書いて「キ」と読むもので、高低几号または几号高低標とも漢字の「不」に似ているので不号水準点ともいわれるようです。

「大江戸歴史散歩を楽しむ会」によれば

明治7年(1874)に開始した几号高低測量で刻まれた標高は18m76cm44mmであった。その後、大正12年(1923)関東大震災(-86mm)、平成23年3月11日東北大震災(-24mm)の地盤沈下(国会議事堂前の日本水準原点)を参考にすると虎石像台座の標高は現在18m65cm44mmとなる。

毘沙門児童遊園

文学と神楽坂

毘沙門天の一角に児童遊園がありました。新宿区のマークも付いているので、公的なのですが、あるのは椅子2つとトイレ。せめてスイング遊具にしてもいいのにね。場所はここです。児童遊園

山本祥三氏の『東京風物画集 PARTⅡ』(雪華社、昭和56年)では「街の中程はこぢんまりした毘沙門天の境内に子供の遊び場。」と書かれています。

ひめ小判守|毘沙門天

文学と神楽坂

まず「ひめ小判守」について。神楽坂アーカイブスチームの樋川豊氏は「かぐらむら」65号にこう書いています。

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 江戸時代…百足は毘沙門天のお使いで、百の足で福をかきこみ、開運・招福のご利益をもたらすと信じられていました。…山の手随一の賑わいだった神楽坂の毘沙門天では、「ひめ小判守」という名の百足小判が評判で「新撰東京名所図会」にも小判を手にとる紳士が描かれています。「財布に入れると小銭に不自由しない」とされたのですが、寅の日の縁日がなくなるとともにひめ小判も姿を消します。
 昨年、私たち神楽坂アーカイブスチームは毘沙門天善国寺様を取材した際、「ひめ小判守」の事を知り残念に思っていましたが、先日、嶋田ご住職様から「ひめ小判守を復活する」というご連絡を頂きました。お聞きすると百年振りの復刻で、ご開帳の時限定でお配りするとか。

「新撰東京名所図会」の絵にある善国寺毘沙門堂縁日の画(明治37年1月初寅の日)では
新撰東京名所図会 善国寺毘沙門堂縁日の画

ここで中央の男性はよく見ると新撰東京名所図会 善国寺毘沙門堂縁日の画2
「小判を手にとる紳士」なのかなと、まあそうなのかなあ、と思えます。
で、本物の現在のひめ小判守は、結構小さく、4cm x 2.5cmで、値段は1000円です。これで交通安全……
ではなくって、開運・招福は大丈夫。
ひめ小判守ひめ小判守2ひめ小判守3

紅谷研究家 谷口典子さんに感謝します。ありがとうございました。

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善国寺|毘沙門天

文学と神楽坂

善國寺善國寺ぜんこくじです。正確には日蓮宗鎮護山善国寺。場所はここ。ほかに昭和60(1985)年の地図でも、明治20年(1887年)の地図でもほぼ同じ所にあります。

この前に標柱があります。

神楽坂 坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。

となっています。詳しくはここで

では中に入ると……

善國寺毘沙門天(びしゃもんてん)です。別名を多聞(たもん)天。開基は文禄4年(1595年)で、日本橋馬喰町に創建。寛文10年(1670)火災で麹町に移転。寛政4年(1792)、再度火災に会い、移転しました。また、よしず張りの店が9軒ほど門前に移転しました。芝金杉の正伝寺、浅草吉野町の正伝寺とあわせて江戸三毘沙門と呼ばれたといいます。

明治20年頃、初めて夜店が出でました。東京の縁日発祥の地です。夜店は夏目漱石を始め沢山の作家が書いています。

昭和20年5月25日夜半から26日の早朝にかけて大空襲で焼けましたが、昭和26年、木造の毘沙門堂を再建します。昭和46年に今の本堂を建てています。現在は新宿区の「山の手七福神」の1つ。

1、5、9月の寅の日に開帳します。ご利益は開運厄除け。

文化財についてはここに

「絵馬」は寺社に奉納する絵が描かれた木の板。ema 『続日本紀』には神の乗り物、(しん/じん)()を奉納したといいます。平安時代から板に描いた馬の絵に代り、室町時代では馬だけでなく様々な絵が描かれるようになりました。毘沙門天では寅が書かれています。

木柾を叩いて読経します。

「百足ひめこばん」については善国寺は「平成25年から開帳日に限り、100年ぶりに『百足(むかで)ひめこばん』を頒布することとなりました。古来より百足は毘沙門様の眷族であるといわれ、そのたくさんの足で福をかき込むと考えられております。ひめこばんを持ってたくさんの福を得てください」として2013年から1つ1000円で配布しています。

中を読むと

往古より“むかで”は毘沙門さまのおつかいと言われ百の足で福をかきこむことから福百足(むかで)と呼ばれ、開運、招福のご利益をもたらすことで知られています。
このたび当山では百年振りにひめ小判守を復刻致しました。
皆々様の福運向上をご祈念申し上げます。

ひめ小判 小判は4.0 cm X 2.5 cm。表は「開運 ひめこばん」。裏は

神楽坂
令百由旬内無諸衰患
南無 開運・除厄 大毘沙門天守
受持法華名者福不可量
善国寺

と書いてあります。児玉誉士夫建之さらにひめこばんについて、まとめてみました。
また、このお寺にロッキード事件で有名な故児玉誉士夫氏の名前が彫られています。一つは山門の右側の柱で

昭和四十六年五月十二日 児玉誉士夫建之

と書いています。
もう一つは境内のトイレのそばで

○○○○ 大東亜戦戦死病没 諸霊位追善供養 堂前児玉垣施入主

とかかれた慰霊塔の

昭和46年11月毘沙門天善国寺〇〇施主児玉誉士夫

と書いています。
ireihi 家畜慰霊碑は

東京都食肉環境衛生同業組合 牛込支部

と書いてあります。

浄行菩薩jpg 本堂左に浄行菩薩があり、身代わり菩薩としても知られています。柄杓で水をかけてお願い事をします。

またその奥、出世稲荷に小さな社があります。

 また書院では隔月で落語をやっています。
拝啓、父上様」では善國寺は何度も出てきますが、第1話では

毘沙門前
   通りをつっ切り境内へ入る一平。

毘沙門に

次は神楽坂3丁目
神楽坂4丁目
神楽坂5丁目
本多横丁では
毘沙門横丁
神楽坂の通りと坂に戻る場合は…

神楽坂 作家と文化人