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尾崎紅葉の臨終②徳田秋声

文学と神楽坂

 徳田秋声氏の『黴』三十七章(1911年)では、この「先生」の臨終の様子をあっさりと書いています。もちろん「先生」は尾崎紅葉氏です。(青空文庫から)

三十七
 一時劇しい興奮の状態にあった頭が、少しずつしずまって来ると、先生は時々近親の人たちとことばを交しなどした。その調子は常時いつもと大した変りはなかった。
 興奮――むしろ激昂げっこうした時の先生の頭脳あたまはいたましいほど調子が混乱していた。死の切迫して来た肉体の苦痛に堪えかねたのか、それとも脱れることの出来ぬ冷たい運命の手を駄々ッ子のように憤ったのか、すすりあげるような声でいろいろのことが叫び出された。
 苦痛が薄らいで来ると、先生の様子は平調にかえった。時々うとうとと昏睡状態に陥ちることすらあった。長いあいだの看護に疲れた夫人を湯治につれて行ってやってくれとか、死骸しがいを医学界のために解剖に附してくれとかいうようなことが、ぽつぽつ言い出された。
「死んでしまえば痛くもなかろう。」先生はこうも言って、淋しく微笑ほほえんだ。
「みんなまずい顔を持って来い。」と叫んだ先生は、寄って行った連中の顔を、うるんだ目にじろりと見廻した。
「……まずい物を食って、なるたけ長生きをしなくちゃいけない。」先生は言い聞かした。
 腰にまつわりついている婦人連の歔欷すすりなきが、しめやかに聞えていた。二階一杯にふさがった人々は息もつかずに、静まり返っていた。後の方には立っている人も多かった。
 先生の息を引き取ったのは、その日の午後遅くであった。

湯治 とうじ。温泉に入って病気などを治療すること。

和解|徳田秋声

文学と神楽坂

 徳田秋声氏の『和解』(昭和8年)の最終場面です。

 徳田氏と泉鏡花氏の曰く言い難い関係が出ています。

徳田秋声

徳田秋声

 K―の流儀で、通知を極度に制限したので、告別式は寂しかつたけれど、惨めではなかつた。順々に引揚げて行く参列者を送り出してから、私達は寺を出た。
「ちよつと行つてみよう。」K―が言ひ出した。
 それは勿論O―先生の旧居のことであつた。その家は寺から二町ばかり行つたところの、路次の奥にあつた。周囲は三十年の昔し其儘であつた。井戸の傍らにある馴染の門の柳も芽をふいてゐた。門が締まつて、ちやうど空き家になつてゐた。
「この水が実にひどい悪水でね。」
 K―はその井戸に、宿怨でもありさうに言つた。K―はここの玄関に来て間もなく、ひどい脚気に取りつかれて、北国の郷里へ帰つて行つた。O―先生はあんなに若くて胃癌で斃れてしまつた。
「これは牛込の名物として、保存すると可かつた。」
「その当時、その話もあつたんだが、維持が困難だらうといふんで、僕に入れといふんだけれど、何うして先生の書斎なんかにゐられるもんですか(おつ)かなくて……。」
 私達は笑ひながら、路次を出た。そして角の墓地をめぐつて、ちやうど先生の庭からおりて行けるやうになつてゐる、裏通りの私達の昔しのの迹を尋ねてみた。その頃の悒鬱(むさくる)しい家や庭がすつかり潰されて、新らしい家が幾つも軒を並べてゐた。昔しの面影はどこにも忍ばれなかつた。
 今は私も、憂鬱なその頃の生活を、まるで然うした一つの、夢幻的な現象として、振返ることが出来るのであつた。それに其処で一つ鍋の飯を食べた仲間は、みんな死んでしまつた。私一人が取残されてゐた。K―はその頃、大塚の方に、祖母とT―と、今一人の妹とを呼び迎へて、一戸を構へてゐた。
 私達は神楽坂通りのたはら屋で、軽い食事をしてから、別れた。
 数日たつて、若い未亡人が、K―からの少なからぬ手当を受取つて、サクラをつれて田舎へ帰つてから、私達は銀座裏にある、K―達の行きつけの家で、一夕会食をした。そしてそれから又幾日かを過ぎて、K―は或日自身がくさぐさの土産をもつて、更めて私を訪ねた。そして誰よりもK―が先生に愛されてゐたことと、客分として誰よりも優遇されてゐた私自身が一つも不平を言ふところがない筈だことと、それから病的に犬を恐れる彼の恐怖癖を、独得の話術の巧さで一席弁ずると、そこそこに帰つていつた。
 私は又た何か軽い当味を喰つたやうな気がした。
(昭和8年6月「新潮」)

K― 泉鏡花のこと
O― 尾崎紅葉のこと
二町 1町は約109m
宿怨 しゅくえん。かねてからの恨み。年来の恨み。旧怨。宿恨。宿意
夢幻 むげん。夢や幻のようにはかないこと
 詩星堂、または十千万堂塾
手当 心付け。支払う金銭。基本給のほかに支給する資金
サクラ 泉斜汀の子
くさぐさ 種種。種類や品数の多いこと。さまざま。いろいろ。なお、青空文庫では「くさくさ」と書いていますが、意味は不明です。「くさぐさ」は新潮社の「名短篇」(新潮別冊、新潮創刊100周年記念、平成17年)から取りました。
当味 あてみ。当身。古武術等の打撃技の総称。ひじ、拳、足先などで相手の急所を打ったり突いたりする技。

この関係は里見弴氏の随筆「二人の作家でも出ています

光を追うて|徳田秋声

文学と神楽坂

 徳田秋声氏が「光を追うて」(1938年)で書いた新宿区(牛込区)の十千万堂塾に入ったいきさつです。

 その時分は後の鳥屋の川鉄、その頃はまだ蕎麦屋であった肴町(さかなまち)の万世庵で、猪口(ちよく)を手にしながら、小栗の小説の結構を聴いていたが、彼も等などの行き方と違って、遣ってつけの仕事はしなかったから、書きたいと思う材料や筋立(すじだて)に軽々しく筆をつけず、懐ろに温めつゝ百方工夫を凝し、(おもむ)ろに練りあげた上、彫心(ちようしん)鏤刻(るこく)の文章で織りあげるのだったが、等は筋を立てず、いきなりに書く方だったので、折角の小栗の話も馬の耳に念仏のような形になってしまった。小栗はその時今日は少し相談があるから乗ってくれないかというので等は傾聴した。
「僕も柳川も先生んとこの玄関じゃ、落著いて書けないんです。第一狭くもあるし、来客は多いし、お嬢さんがちょろちょろと出て来て目障りだし、是からみっちり仕事をしようというには、何とかしなくちゃなるまいと、色々考えた結果、玄関番は交替でやることにして、先生の近所に一軒家を借りようかと思いましてね、それにはちょうど打ってつけの家が一軒、先生の家の裏にあるんです。先生んとこの垣根の一方に囗をつければ、直ぐお庭から降りて行けるような工合になっているんですがね。差当り上の家の女中に手伝いに来てもらって、柳川と僕とで自炊生活をはじめようという話なんですか、君も()うでしよう、加ってもらえませんか知ら。そうしてお互に先生の傍でみっちり勉強しようじやありませんか。」

 この文章を書いている筆者のこと。
肴町 現在の神楽坂五丁目
結構 けっこう。全体の構造や組み立てを考えること。その構造や組み立て。構成。
遣ってつけ いいかげんにやってしまう
懐ろ ふところ。外界から隔てられた安心できる場所
百方 ひゃっぽう。あらゆる方面にわたって
彫心 ちょうしん。心に刻み込む。
鏤刻 ろうこく。るこく。文章や詩句を推敲すること。
馬の耳に念仏 馬にありがたい念仏を聞かせても無駄。いくら意見をしても全く効き目のないことのたとえ。

 そこは箪笥町の一区画で、通りから石段を上つて横寺町の先生の家の二階から見下されるお寺の墓地の横へ出る、ちよつと高台に蕎麦屋や馬具屋や大工などの立てこんだ人家の路地の奥になつており、風流な枝折(しおり)(もん)と竹で(ゆわ)えた(かなめ)の垣根の外に総井戸があり、赤松やなどの枝をひろげた前庭があり、濡縁のある四畳半が、板戸を締めたまゝに、町中の静かな隠居所といった風で、飛石や下草にも風情があつた。小栗は台所口から上り、崖下の裏庭に面した座敷や、四畳の中の間なども見せ、三畳の玄関から上るようになつている、物置同様の二階へも案内したが、高窓をあけると、真面(まとも)に先生の書斎が見えるのだつた。古いだけに趣があり、健康には悪いが感じは好かった。
「これは借家に建てたものじゃないんですが、間取りが面白いから、借りることにしたんですがね。」
 小栗はそう言って、戸閉めをして外へ出た。小栗は先生のところへ来るまでの、暫くの学生生活のあと、早熟であったゞけに少しぐれていたとみえて、二の腕に女の首の入墨があり、後にそれを消すのに骨折っていたが、生い立ったのは半田(はんだ)堅気(かたぎ)な旧家であり、等から見ると、一廉(ひとかど)の生活者のように見え、細いところに頭脳も能く働いたが、実は底ぬけのロオマンティストであった。

枝折門 しおりど。折った木の枝や竹をそのまま使った簡単な開き戸。多く庭の出入り口などに設ける
 要。カナメ。カナメモチの別称。バラ科の常緑小高木、園芸植物
 カエデ科カエデ属の木の総称
濡縁 ぬれえん。外側に雨戸のない縁側。常に雨露にさらされる
飛石 とびいし。日本庭園などで少しずつ離して据えた表面の平らな石
一廉 ひとかど。ひときわすぐれている。

一区画

十千万堂塾はどこにあったのでしょうか。まず徳田秋声氏の年表から

明治二十九年(一八九六) 二十六歳
 十一月、博文館を退社。十二月、小栗風葉の誘いを受け十千万堂塾(詩星堂とも、紅葉宅と裏つづきの家)に入り、柳川春葉を加えた三人で共同生活。やがて田中凉葉、中山白峰、泉斜汀らが加わる。

明治29年 明治29年の『牛込区全図』で、赤丸は十千万堂(詩星堂)の場所です。したがって、十千万堂塾は箪笥町4から7ぐらいのいずれかでしょう。
 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997)で飯野二郎氏が書いた「神楽坂と文学」の「横寺町四七番地と箪笥町五番地のこと」を読むと、「ここ(箪笥町五番地)は神楽坂とは離れているが、紅葉宅と筆笥町の方は紅葉の庭から崖を下りて続きになったところで『紅葉塾』があったところである。塾の盟主小栗風葉徳田秋声外数人(前述)が同宿し、文学修業と若い文士の育成の場であった。ここに関係した文人たち皆の記録に当れば必ずや神楽坂界隈のことや明治文学の動向を知る資料があろうと思われるが、これは未調査であり後日にしたい」と述べています。しかし、文献はなく、どうして五番地になるのか、私にはわかりません。大家さんの言葉なのでしょうか。
 現在は4番地か5番地がよさそうに見えます。しかし当時の状況は全くわかりません。十千万堂

里見弴|私の一日

文学と神楽坂

 里見弴氏の『私の一日』(中央公論社、昭和55年)の「泉鏡花」には、この泉鏡花と徳田秋声の曰く言いがたい関係がもっと細かく書いてあります。

その話も詳しくさせられるのかい?……厄介だな。……改造の社長の山本実彦が、円本のうちに紅葉編も出したいんだが、お宅には未亡人やお子さんばかりで、細い相談にのつてもらひたいといふので、徳田秋声の所に出かけて行つたんだとさ。そしたら秋声が、「おれもなんか口をきくけれど、それはに話さなくちやだめだ」といふので、二人で泉家に乗りつけたわけだ。鏡花は、自分の紋に源氏五十四帖香の図のうちから「紅葉の賀」といふのにきめて、使つてゐたし、玄関のくもりガラスの掛あんどんにまで、そいつを透かしに摺り出させてゐるんだ。ちと頂きかねるがね。しかし、尾崎紅葉に対する気持は、「師匠」なんてもんぢやあない、正に「神様」だつたね。
 でまあ、二人を二階、八畳間の仕事部屋に通したんだね。鏡花のもの書き机は長さ二尺ほど、幅は一尺かそこらの存外小さなものなんだ。そこに小さな硯と筆とが置いてある。のちには、日本紙でなく、罫のある西洋紙にしたが、あれはたしか水上にすすめられたんだ。万年筆も買つてあげたかどうか、晩年にはペンで書くやうになつたがね。初めの頃は、まだ筆の時代でね、朱筆と墨のとがきちんと揃へてあつたな。ついでに言へば、床の間の違ひ棚には紅葉の、春陽堂で出した全集がずらつと並べてあつて、その前にキャビネ型の紅葉の写真が飾つてあり、毎朝、起きぬけにそれに向かつて礼拝するんださうだ。それから、下でお茶がはひると、必ず自分が持つてあがつて供へる。人にものをもらつても、お初穂といふやつで、まづ「神様」に供へるわけだね。
 机の左側に手あぶりの火鉢がある。木の根つ株を錮りぬいた「胴丸」つてやつで、寸法はほぼ机と同じくらゐ。赤や緑の漆で描いてある葉が、やつぱり紅葉、つまり楓の葉なんだ。これは、女流画家で、大変な鏡花崇拝だつた池田蕉園から贈られたんださうだ。蕉園は或る期間鏡花とこのすぢ向かひの有島家の長屋に住んでたこともあつたしね。

改造 大正8年(1919)4月、山本実彦創立の改造社が創刊。大正デモクラシーの思潮を背景に進歩的な編集方針をとり、文芸欄にも力をそそいだ。昭和30年(1955)廃刊。
円本 えんぽん。一冊一円の全集類の総称。1926年(大正15年)末から改造社が『現代日本文学全集』の刊行を始めた。各出版社からも続々と出版された。
源氏五十四帖 源氏物語は全体で五十四巻から構成する。紅葉賀(もみじのが)は第7帖で、光源氏の18歳の秋から19歳の秋までの1年の出来事を描いたもの。
香の図と紅葉の賀 illust_23-4源氏の香は香を使った遊び。5つの香りを聞いた後、同香だと思ったものを横線でつなぐ。たとえば「紅葉賀」では右のようになる。泉鏡花は式服の紋に紅葉賀を使っていた。
掛あんどん かけあんどん。家の入り口や店先の柱や廊下などにかける行灯
春陽堂 春陽堂が1890-91年に尾崎紅葉らの作品を収めた叢書『新作十二番』『文学世界』『聚芳十種』を出版し、以後明治期の文学出版をリードした。
初穂 はつほ。古来より神様に祈りを捧げる儀式の際には農作物が供物として奉納された。初穂とは、その年に最初に収穫した農作物。初穂料とは、この初穂(神様に捧げる農作物)の代わりとする金銭のこと
手あぶり 手をあぶるのに使う小形の火ばち
胴丸 火鉢胴丸ではなく、本当は胴丸火鉢のこと。丸太をくりぬいて、中に灰や炭火をいれ、手先を暖めたり湯茶を沸したりするもの。なお、胴丸は鎧の1形式で、着用者の胴体周囲を覆い、右脇で開閉(引合わせ)する形式のもの。
池田蕉園 いけだ しょうえん。1886年5月13日 – 1917年12月1日。明治、大正の女性浮世絵師、日本画家。
有島 有島武郎、有島生馬、里見弴の3人は横道の東側、麹町区下六番町(現・千代田区六番町三)の旗本屋敷に住み、横道の西側、下六番町11(現・六番町七)には二軒長屋で泉鏡花が住んでいました。

さて、円本に紅葉を入れる相談を三人でしてゐるうちに……ここから先は、山本実彦の直話で、詳しく聞いたんだから、ほぼ間違ひはあるまいと信じてゐるんだが、その後いくたりかの人にも話してるかどうか……。紅葉が三十六歳の若死だつたといふ話の間に、秋声が「だけどほんといふと、あんなに早く死ななくてもすむのに、あの年で胃ガンなんぞになるなんてのも、甘いものを食ひすぎたせゐだよ。あの人ときたら、甘いものには目がなくて、餅菓子がそこに出れば、片つ端から食つちやつたからな」とかなんとか言つたらしいんだな。それはうそぢやなくて本当の話なんだらうけど、とにかく泉鏡花にとって氏は「神様」だ、朝晩拝んでるその方の写真の前で、そんなすつぱぬきみたいな口をきいたんだから、これはカーッとくるに違ひない。聞くが早いか、いまいつた胴丸火鉢をひとつ飛びに、ドスンと秋声の膝の上にのつかつてパッパッパッと殴つたんだとさ。その素早いことと言ったら……。
「泉さんつていふ人は手が早いですなあ」つて、山本がほとほと感心してゐだがね。どうにも収拾がつかないところを、まあまあと山本が割つてはひつて引きずるやうにして二階から徳田をつれおろして、外に待たせてあつた車に乗っけたんだけど、秋声は、ただもうワンワン声をあげて泣くばかり……。その時分、「水際の家」つていふのがよく秋声の作品に出てゐた、その浜町だか中洲だつたかの待合に連れて行つたんださうだ。下六番町から水際の家までいくら自動車だつて二十分か三十分はかかるよ。その間ずつと泣き続けてゐたさうだ。よほどくやしかつったんだらうし、びつくりもしたんだらう、可笑しいけど、……子供時分からのほんとの友達つて、こんなもんぢやないだらうかね。

すっぱ抜き 隠し事・秘密を不意に明るみに出すこと
水際の家 水面が陸地と接している所に建てた家。ここでは中洲にあった「水際の家」という名前の待合。
浜町 中央区日本橋浜町
中洲 中央区日本橋中洲
待合 待合茶屋。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店

あとになつて、こんな二人を仲直りさせるといふ水上の発案があつて、「どうかな」つて気もしたんだけど、お客様として「九九九会」に招いたことがある。ところが鏡花は、ろくに話もしないうちから、やたらと酒ばかり飲んで、さも酔つたやうなふりをして寝ちまつてさ、……よくやる「たぬき寝入り」なんだよ。昔噺でもしようッて気で出て来た秋声だつて、どうにも手持ちぶさたで、いつの間にかスッと抜けて帰つちやう、といふ不首尾でね。にも拘らず、そのあとでも、秋声に会ふと、「この間はあんな具合で君たちの好意を無にしちやつたけど、なんとかもう一度機会をつくつてくれないか」つてね。実に素直な気持なんだよ。感動したけどね、心を鬼にして、「そんなこと何度やつたつて絶対に無駄だ、そのかはり、どちらが先かしらないけど、いざといふ時には必ず知らせるから」といつたんだ。それなのに鏡花の臨終の時に知らせが間に合はなかつた。陽のカンカン照つてる往来のまんなかで、ぼくは秋声にどなりつけられて、一言もなく頭を垂れたよ。
 とにかく、あの二人は生れつきの性分からして合はないんだね。ライバル意識なんてもんぢやない、紅葉以外はだあれも相手にしてゐない。当然のことだが、自分の仕事にそれくらゐの自信はもつてゐるからね。それからね、これは秋声が小説に書いてゐるけど、鏡花の実弟の斜汀が、秋声のやつてた本郷のアパートで死んだ時、葬式万端たいへん世話になつたといふんで、莫大なお礼をもって行ったんだね。その他人行儀なやり方にぐつと来たんだらうが、秋声流に、「またいつぱい食はされた」といつた風な、軽い結句でむすんでゐる。「神様」にだつて、どうしようもない、まあ、フェタルつてやつだな。別にさう珍しいことでもないしね。

九九九会 くうくうくうかい。九九九会は鏡花を囲む会で、1927年(昭和2年)、里見弴と水上瀧太郎が発起人、常連として岡田三郎助、鏑木清方、小村雪岱、久保田万太郎らが毎月集合。会の名は、会費百円を出すと一円おつりを出すというところから。
秋声が小説に書いている 昭和8年6月、随筆『和解』です。「てくてく牛込神楽坂」では『和解』で見られます。
結句 詩歌の終わりの句。実際には、この随筆は「私はまた何か軽い当身を食ったような気がした」と結んでいた。
フェタル fatal、fatale。致命的な、運命の、運命を決する、宿命的な、免れがたい。Famme fatale(ファム・ファタール)で「宿命の女」

文学と神楽坂

里見弴|二人の作家

文学と神楽坂

 まったくすごい殴打事件でした。たとえば

殴打事件は紅葉の何回忌だったか、とにかく衆人環視の中で鏡花が興奮して無抵抗の秋声をぽかぽか殴り付けたそうです。(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2478098.html

  ええー、うそでしょう。尾崎紅葉の問題で泉鏡花徳田秋声を殴るなんて。

  でも、ほかの例を見ても同じです。

秋聲が紅葉先生の死因を茶化したとかいう理由で鏡花が秋聲を殴打する事件などなど、いろいろ確執があってふたりの仲はよくなかったそうです。それでも晩年和解しています。( http://d.hatena.ne.jp/cho0808/20121118/p1 )

 ほんとうなの。やがてわかってきます。嘘が少し大きくなっていくのは仕方ないし、「和解」も「和解」なんだ。それでは、昭和25年、里見弴氏が満58歳に書いた、泉鏡花氏が徳田秋声氏を殴る「二人の作家」の始まりです。

里見弴

里見弴


 二十歳(はたち)(だい)で「白樺(しらかば)」に幼稚な作品を載せ始めたころの私からすれば、徳田秋声も、泉鏡花も、ともにひと干支(まわり)以上年長(としうえ)の、はるか彼方(かなた)鬱然(うつぜん)と立っている大家だった。この二人は、明治初葉に二年違いで北陸の都会に生を()けて、同窓の幼な馴染(なじ)みでもあり、上京後は、当時の小説家の大半を糾合、結束したかの観ある硯友社(けんゆうしや)の頭領で、かつまた読書子の人気の焦点となっていた尾崎紅葉の門下に加わり、一つ(かま)の飯を(わか)ち合った仲でもあったが、作風も人成(ひととなり)も、まるッきり異なったもの、――正反対とも云えるもののように思われたし、そのせいか、永らく交わりが()たれているという(うわさ)にも間違いはなさそうだった。尾崎紅葉が、行年三十七歳という夭折(わかじに)をしたあと、次第に衰退の色を濃くしつつあった硯友社一派の口マンティシズムから、いち早く離脱して、轗軻不遇(かんかふぐう)(かこ)っていた秋声も、日露戦役後、自然主義勃興(ぼつこう)の気運に迎え()れられて、国木田独歩田山花袋(たやまかたい)島崎藤村(しまざきとうそん)らと肩を並べ、じみ(、、)ながら、文壇の主流に堅実な位置を築いてしまった。一方、尾崎紅葉の愛弟子(まなでし)ではあり、年少にしてつとに鬼才の名をほしいままにしながら、幾多の傑作を発表し、二つ年嵩(としかさ)の秋声などを、はるか後方(しりえ)瞠若(どうじやく)たらしめて来た鏡花は、依然一部の愛読者によって偶像化されるほどの人気は保っていたにもせよ、一種傍系的存在として、とかく文壇人からの蔑視(べつし)は免れなかった。――「スバル」第二次の「新思潮」「三田文学」それに私たちの「白樺」などが、そろそろ世人の注目を惹ひくようになったのが、ちょうどそういう時代だった。

鬱然 物事が勢いよく盛んな様子
北陸の都会 石川県金沢市です。
硯友社 1885(明治18)年、尾崎紅葉が山田美妙・石橋思案らと結成した文学結社。同年五月、機関紙「我楽多文庫」を発行。同人に巌谷(いわや)小波(さざなみ)、広津柳浪、川上眉山らが参加、紅葉門下に泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声らが加わり、明治20~30年代の文壇中心勢力となり、硯友社時代を作った。
轗軻不遇 世に受け入れられず行き悩む状態。事が思い通りにいかず行き悩み、ふさわしい地位や境遇に恵まれないこと
自然主義 文学で、理想化を排し人間の生の醜悪・瑣末な相までをも描出し、現実をありのままに描写しようとする立場。19世紀後半、フランスのゾラ、モーパッサンなどが代表。日本では明治30年代の島崎藤村、田山花袋、徳田秋声、正宗白鳥らが代表。
瞠若 どうじゃく。驚いて目をみはること
スバル 文芸雑誌。明治42年(1909)1月~大正2年(1913)12月まで。森鴎外を中心に石川啄木、木下杢太郎、吉井勇らが発刊。詩歌中心で、新浪漫主義思潮の拠点に。
新思潮 文芸雑誌。1907年(明治40)小山内薫が海外の新思潮紹介を目的に創刊。第二次(1910年)以後は、東大文科の同人雑誌として継承さ。第二次で谷崎潤一郎、第四次で芥川竜之介が出た。
三田文学 文芸雑誌。明治43年(1910)5月、慶応義塾大学文学部の三田文学会の機関誌として、永井荷風らを中心に創刊。耽美的色彩が強く、自然主義文学系の「早稲田文学」と対立した。久保田万太郎・佐藤春夫・水上滝太郎・西脇順三郎らが輩出。断続しつつ現在に至る。
白樺 キリスト教、トルストイ主義などの影響を受け、人道主義、理想主義、自我・生命の肯定などを旗印に掲げ、武者小路実篤、志賀直哉、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、有島武郎、有島生馬など学習院出身者

とはいえ、この、同年輩、同郷、同窓、同門の、二大家の間に横たわる(みぞ)については、所詮(しよせん)、私には、埋まる望みがもてなかった。鏡花は、「師を敬うこと」文字通り「神のごとく」で、二階の八畳なる書斎の違い(だな)には、常に紅葉全集と、キャビネ型、七分身の写真が飾ってあり、香華(こうげ)や、時には到来の名菓とか、新鮮な果実(くだもの)とかの供えられているのを見かけることもあった。たぶん、朝夕の礼拝も欠かさなかったことだろう。みだりに話頭に登せず、語る場合は「横寺町の先生」と呼んだし、式服の紋には、(* )氏香の図のうち「紅葉(もみじ)()」を用いていた。目前(まのあたり)に見られる師弟の情誼(じようぎ)の、おそらくはこれが最後のものだろうと思われ、私の性分としては、批判を絶した敬虔(けいけん)の気に撃たれた。
 これに反して、秋声は、「紅葉さん」と呼び、少しの悪意も感じられはしないが、人間同士、飽くまで対等の口調で、――どうも、ひどい食いしんぼでね、好きな菓子なんかが出ると、一遍に五つも六つも平らげちまうんだもの、あれじゃア、君、胃癌(いがん)で死んでも仕様がないさ、などと、(あわ)れむとも、(あざけ)るともつかない、渋いような笑い顔をする。ここにも、しかし、決して反感の(いだ)けない、飄々(ひようひよう)たる(なご)やかさはあった。
 * 源氏香  「源氏物語」五十四帖にもとづいてつくられた組香のこと。それぞれの帖の題名に応じて縦ないし横に五線を画し、これによって図を作る。紅葉賀はその図柄の一つ。

香華 仏前に供える香と花
到来 他からの贈り物が届くことか、その物品
情誼 じょうぎ。真心のこもった、つきあい
飄々 考えや行動が世間ばなれしていて、つかまえどころのない様子

馬鹿正直者の私などは、いつごろ、どこでだったかは忘れたが、秋声から、――君たちはしょッちゅう泉と会ってるようだが、どうだろう、ひとつ、われわれが仲直りするような、うまい機会でもつくってもらえんもんかね、と云われ、一考の余地もないように、――それは、あなた方のどちらかが、もういけないとかなんとかいう時の、枕頭(まくらもと)ででもなければ、むずかしいんじやアないでしょうか、と、露骨な返答をしたことがある。――ずいぶんひどいことを云う人だね、と、秋声は、笑い顔ながらも、少しは(うら)めしそうだった。たぶんその後のことだったろう、某綜合(そうごう)雑誌社の社長から、こんな話を聞いたこともあった。何か新たな出版計画だったかに事寄せて、秋声と二人で鏡花を訪ね、たいそう(むつ)まじく懐旧談など(はず)んでいるうち、事たまたま紅葉に及ぶと、いきなり鏡花が、(なか)(はさ)んでいた径1尺あまりの(きり)(どう)丸火鉢(まる)()び越し、秋声を押し倒して、所嫌(ところきら)わずぶん(なぐ)ったのが、飛鳥のごとき早業(はやわざ)で、――泉さんって人は、文章ばかりかと思ったら、実に喧嘩(けんか)も名人ですなア、と、声はたてず、唇辺(くちもと)だけを笑った恰好(かつこう)にするいつもの癖を出して、――いやア、驚きましたよ。やっと引き分け、自動車に押し込んで、そのころ秋声の行きつけの「水際(みずぎわ)の家」というのへつれて行ったが、その道中も、先方へ着いてからも、見栄(みえ)も外聞もなく泣かれるので、ほとほともてあました、という話だった。この社長なる人は、豪放な見かけによらず、不思議なくらい芸術家に対する敬重の念が厚く、そんな話にも、少しも軽佻浮薄(けいちようふはく)の調子は感じられなかった。口止めはされないでも、めったな人には話せないという重味さえかかって来た。

一考の余地もない 少しも考えるに値しない、顧慮・検討する余地はまったくない
枕頭 まくらもと。寝ている人の枕のあたり。「死亡した場合には」と考えたい。
社長 改造社長の山本実彦です。
胴丸火鉢 丸太をくりぬいて、中に灰や炭火をいれ、手先を暖めたり湯茶を沸したりするもの。
飛鳥 ひちょう。空を飛ぶ鳥。非常に動作の速い様子
水際の家 水面が陸地と接している所に建てた家。ここでは実際に中洲にあった「水際の家」という名前の待合。
軽佻浮薄 けいちょうふはく。軽はずみでうわついている様子

 実際にあったのですね。また谷崎潤一郎氏も『文壇昔ばなし』で同じようなことを書いています。

或る時秋聲老人が『紅葉なんてそんなに偉い作家ではない』と云ふと、座にあった鏡花が憤然として秋聲を擲りつけたと云ふ話を、その場に居合はせた元の改造社長山本實彦から聞いたことがあるが、なるほど鏡花ならそのくらゐなことはしかねない。私なんかももし紅葉の門下だったら、必ず鏡花から一本食はされてゐたであらう。

 では元の「二人の作家」にもどります。

 半年あまりして、秋声の発表した「和解」という短篇は、「お家の芸」ともいうべき、さらさらと身辺の瑣事(さじ)を書き流したような、得意の作風だったが、題材としては、(* )汀の死に(から)んでの、鏡花との交渉がとりあげられていた。その終りを、――鏡花が、弟のことでいろいろ世話になった礼に、たくさん土産物(みやげもの)を持ち込んで来て、自分が誰よりも紅葉に愛されていたこと、秋声は客分として誰よりも優遇されていたのだから、少しも不平を並べるところはないはずだということなど、独特の話術のうまさで一席弁じ立てて、そこそこに帰って行ったので……以下原文を()りると、「私はまた何か軽い当身を食ったような気がした」と結んであった。旧友の厚意を、そのまま()()()には受け取れないで、およその費用を()()ってみて、それ相応の礼物を持参し、綺麗(きれい)に決済をつけてしまわなければ気のすまないような、小心翼々たる鏡花の性分くらい、「苦労人」をもって自他ともに許す、しかも、何年か一つ(かま)の飯も食った仲の秋声に、わかっていないはずはないのだが、やはりその他人行儀には(かん)を立てさせられたのだろう、「軽く当身を食ったような気持」という、さも淡泊らしい言葉のなかにも、かなりの反感が(うかが)われないことはなかった。どういうつもりで「和解」という題を選んだのか、結末の一句が、その言葉のもつ和やかさを立派に踏み(にじ)っていた。
 何か少しでも金のかかりそうな話となると、――あなた方にお厭いはなかろうけれど、われわれは、とてもこのほうで、と、親指と人さし桁とを丸く(わが)ねてみせるような鏡花が、恩師に刃向う仇敵(きゆうてき)とも感じられている秋声に、弟の発病から思わぬ世話になったことを、心(ひそ)かに忌々(いまいま)しがり、右から左に物質で賠償し、毛ほども気持の上での負担など残すまいと焦慮(あせ)る、これは、ほかにどう変えようもない当然の帰趨(きすう)だった。森羅万象(しんらばんしよう)あるがままに観、そのあり形のままに写す、という、国産自然主義の極意に徹したように思われた秋声でも、生きているかぎり感情は殺せず、意識下はともあれ、意識するかぎりでは、重態に陥った旧友の弟のために出来るだけの親切を尽したつもりの、いい気持でいたところへ、手切金じみた返礼をされたのでは、さすがに、心平らかでなくなるのも、これまた当然の心理というべきだった。
 * 斜汀 泉斜汀(1880-1933)。泉鏡花の実弟。金沢に生まれ、兄とともに紅葉門下となった。代表作「深川染」。

当身 あてみ。古武術等の打撃技の総称
帰趨 帰着する。ゆきつくところ

 最後は鏡花が死亡する、その瞬間です。里見弴の文章もこれで終わりです。

 細君はもとよりのこと、国男、臨風、雪岱、万太郎、私の別宅に住む女、三角、私、それだけが、枕辺ちかく座を占めたと思う途端に、素人目(しろとめ)にもはっきりわかって、息が絶えた。(中略)
 午後三時少し前、目も眩むばかり照りつけた往来に出ると、むこうから、急ぎ足に秋声が来た。
「どう?」
「たった今……
 キリキリと相好が変って、
「駄目じゃアないか、そんな時分に知らせてくれたって!」
 (むち)うつごとき(はげ)しさだった。
「どうも、すみませんでした」
 なんの思議するところもなく、私の頭はごく自然にさがった。