カテゴリー別アーカイブ: 夏目漱石

漱石山房記念館

文学と神楽坂

2017年9月24日、漱石山房記念館が開館します。

今日(8月15日)、そのパンフレットが自宅にやって来ました。

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漱石と『硝子戸の中』29

文学と神楽坂

二十九

 私は両親の晩年になってできたいわゆるすえである。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々はかえされている。
 単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私をにやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人ののち聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世とせいにしていた貧しい夫婦ものであったらしい。
 私はその道具屋の我楽多がらくたといっしょに、小さいざるの中に入れられて、毎晩四谷よつやの大通りの夜店にさらされていたのである。それをある晩私のが何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、可哀想かわいそうとでも思ったのだろう、ふところへ入れてうちへ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父からしかられたそうである。
 私はいつごろその里から取り戻されたか知らない。しかしじきまたある家へ養子にやられた。それはたしか私の四つの歳であったように思う。私は物心のつく八九歳までそこで成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻るような仕儀となった。
 浅草から牛込うつされた私は、生れたうちへ帰ったとは気がつかずに、自分の両親をもと通り祖父母とのみ思っていた。そうして相変らず彼らを御爺おじいさん、御婆おばあさんと呼んでごうも怪しまなかった。むこうでも急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしていた。
 私は普通のすえのようにけっして両親から可愛かわいがられなかった。これは私の性質が素直すなおでなかったためだの、久しく両親に遠ざかっていたためだの、いろいろの原因から来ていた。とくに父からはむしろ苛酷かこくに取扱かわれたという記憶がまだ私の頭に残っている。それだのに浅草から牛込へ移された当時の私は、なぜか非常にうれしかった。そうしてその嬉しさが誰の目にもつくくらいに著るしく外へ現われた。
 馬鹿な私は、本当の両親を爺婆じじばばとのみ思い込んで、どのくらいの月日をくうに暮らしたものだろう、それをかれるとまるで分らないが、何でも或夜こんな事があった。
 私がひとり座敷に寝ていると、枕元の所で小さな声を出して、しきりに私の名を呼ぶものがある。私は驚ろいて眼をましたが、周囲あたり真暗まっくらなので、誰がそこに蹲踞うずくまっているのか、ちょっと判断がつかなかった。けれども私は小供だからただじっとして先方の云う事だけを聞いていた。すると聞いているうちに、それが私のうちの下女の声である事に気がついた。下女は暗い中で私に耳語みみこすりをするようにこういうのである。――
「あなたが御爺さん御婆さんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたの御父おとっさんと御母おっかさんなのですよ。先刻さっきね、おおかたそのせいであんなにこっちのうちが好なんだろう、妙なものだな、と云って二人で話していらしったのを私が聞いたから、そっとあなたに教えて上げるんですよ。誰にも話しちゃいけませんよ。よござんすか」
 私はその時ただ「誰にも云わないよ」と云ったぎりだったが、心のうちでは大変嬉しかった。そうしてその嬉しさは事実を教えてくれたからの嬉しさではなくって、単に下女が私に親切だったからの嬉しさであった。不思議にも私はそれほど嬉しく思った下女の名も顔もまるで忘れてしまった。覚えているのはただその人の親切だけである。

四つの歳  荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、養子に行った年月は4説あります。
(1)明治1年4~5月頃。(関荘一郎)
(2)「明治元年11月中私2歳の砌」(金之助・昌之助・直克・田中重兵衛(親類)らの連署を下谷区長に提出した「戸籍正誤願」から)
(3)「明治2年11月中右金之助3歳の砌養子に差出置候處」(金之助の父小兵衛(直克)と塩原昌之助の間に紛争が生じた際の「手続書」から)
(4)「それは慥私の四つの歳であつたやうに思ふ。」(『硝子戸の中』)
 荒正人氏は(3)より(2)が正しいと考えられると述べています。つまり数え年で2歳、満年齢では1歳です。

両親の晩年 夏目小兵衛(こへえ)直克(なおかつ)は51歳、母の千枝は42歳で、漱石が生まれました。漱石は8人兄弟の末子でした。
年歯 ねんし。年齢。とし。よわい。
間もなく 生後4ヶ月です。
 さと。養育費を出して子供を預けておく家。
渡世 生活する職業。なりわい。生業。稼業。
夫婦もの 漱石は最初は里子として夏目鏡子氏によれば四谷の古道具屋に、小宮豊隆氏によれば源兵衛村(現・新宿区戸塚)の八百屋に出されています。
 ざる。細長くそいだ竹や針金・プラスチックを編んで作った中くぼみの器
四谷 新宿区の1地名。旧四谷区の地域
 夏目鏡子氏の『漱石の思ひ出』によれば「高田の姉さん」でした。漱石の腹違いの二番目の姉で、房です。
ある家 内藤新宿の塩原昌之助・妻やすを養父母に。
ごたごた 養父の不倫と、引き続く養父母の離婚でした。
実家へ戻る 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、明治8年12月末から9年初めまでに、塩原家に在籍のまま、再び夏目家に引き取られたといいます。満8歳でした。
牛込 牛込馬場下横町です。
 事実でないこと。よりどころのないこと。
耳語 みみこすり。耳擦り。そっとささやくこと。耳打ち

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漱石山房の推移3

漱石山房の名残り

 ところで、この一文の本当の目的は、この前芥川のことを書いたので、そのころ瞥見した漱石山房の推移をちょっとしるして置きたかったのである。というのは、たまたま漱石山房より数軒しか離れていない牛込弁天町の豊陽館という下宿屋に、ぼくは割りに長く下宿していて、始終その前を通っていたからである。
 “矢来の坂下から榎町通りを真直ぐいって、初めての十字路を左に柳町の電車の停留所の方へ折れ、少し行くと右に曲って弁天橋を渡る狭い路がある。これを少し行って、だらだら坂の途中の右手にあるのが、漱石の晩年に住んでいた、七番地のである”
 小宮豊隆の言っているこの家だ。
 ぼくが豊陽館に下宿したのは大正十一年頃で、その時はもう改築されていたが、早稲田に入った大正八年に初めてその前を通った時には、まだ大正五年に亡くなった漱石の在世の時の儘だった。狭い坂道に面して高く地盛りした上に、赤い新芽を持った青々としたカナメモチの低い生垣がつづき、その生垣越しに、芭蕉など植わっているちょっとした庭を隔てて書斎のガラス戸か光って見えた。が、さして広くない古ぼけたひら家で、その質素振りに驚いたものだった。

豊陽館 大正11年、東京旅館組合『東京旅館下宿名簿』では豊陽館は弁天町8にありました。下図で赤い丸が弁天町8に当たります
漱石の家 緑色の右端は矢来の坂下です。左の緑の丸は漱石の家です。青い色は川を示し、そこに弁天橋がかかっていました。
地図。昭和5年の牛込区全図。緑色は矢来の坂下から漱石山房の行き方。赤色は弁天町の豊陽館。ピンクは床屋。

昭和5年の牛込区全図の一部。

瞥見 べっけん。ちらっと見ること。
カナメモチ バラ科の常緑小高木。樹高は3~5m。
芭蕉 バショウ科の多年草。英名をジャパニーズ・バナナ。高さは2~3m。花や果実はバナナとよく似ています。耐寒性にあり、関東地方以南では露地植えも可能。主に観賞用。種子が大きく、タンニン分を多く含み、多くは食用には不適。

カナメモチとバショウ

カナメモチとバショウ

 ところか、改築されたものは、カナメモチの生垣は屋根を持った高い土塀にかわり、大きな冠木門の奥には、洋館もある宏壮な二階家がそびえ、すっかり見違えるように立派になっていた。ぼくはいささかがっかりしたものの、しかし、あたりの風物は、漱石在世当時とたいして変わっていないふうだったので、せめてそれを満足に思った。「硝子戸の中」に書かれている小さな床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていたし、漱石がそこの人力車によく乗ったという、薄汚い車宿も門のまん前に健在だった。ただ、この車宿の連中は改築に反感をもったのだろう、漱石未亡人のことを余りよくいわなかった。そのほか、「三四郎」を思いついた田中三四郎(石垣綾子さんのお父さんだという)いう家も、「彼岸過まで」の中の須永を思いついた須永という産婆の家も、まだ近所にあった。
 が、終戦後である。じつに久し振りでその小路を辿ったら、漱石山房はすっかり戦災で焼けうせ、白い安手の都営アパートがその跡に建っていて驚いた。片隅にコスモスがさき乱れていたが、そこに漱石の出世作「吾輩は猫である」の五輪塔の猫の墓が焼けただれて残っており、それが碌かに漱石山房の名残りをとどめているに過ぎなかった。
床屋

夏目漱石は『硝子戸の中』16で、

(うち)の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度そこで髪を刈かって貰った事がある。

と書いています。この文章の「床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていた」と一緒に考えると、前の図で桃色の四角の範囲に床屋はあったと考えます。

田中三四郎

 石垣綾子氏の『わが愛の木に花みてり』(婦人画報社、昭和62年)では

 わたし、生まれたのは市谷ですけれど、二歳になったとき、早稲田南町に移って、それから長く住むことになります。この町名はまだ残っていますね。あの頃はまだ庭にホタルが見られたくらいでしたけど、その辺は中産階級の住宅地として開けつつあった頃でした。ほんの三軒か四軒か先に夏目漱石のお宅があって、聞くところによると漱石は、わたしの父の“田中三四郎”という表札を見て、『三四郎』の主人公の名前にされたんだそうです。たぶん散歩姿なんかも目にしているんでしょうけれど、今みたいにマスコミで顔を知られる世の中じゃありませんから、わたし全然記憶はありませんね。ただ、お嬢さんの愛子さんとは早稲田小学校でど一緒でしたけど、あちらは背が小さかったし、わたしは高い方で席も離れてましたから、そう親しくはしていませんでした。でも、長女の筆子さんてかたは、わたしの姉と仲よしで、よく家にも遊びにいらしてたようですよ。
 で、この早稲田南町の家は、広い芝生の庭にひょうたん池があったんです。その辺りで姉とわたしは鬼ごっこするんですけど、姉は身軽に、その池のくぴれた辺りにある中島から向こうへ飛び移るんです。わたしはできないんですよ。立ち止まっちゃう。そうすると姉は、向こうの築山からわたしを見おろして、「のろまさん、捕まえてごらん」ってはやし立てるの。悔しかったものですよ。
早稲田南町の一部

早稲田南町の一部

 早稲田南町は漱石公園を含む広大な敷地です。ひょうたん池はまったくわかりません。また、同氏の『いのちは燃える』(偕成社、1973年)では

 早稲田(わせだ)南町のわが家から数軒(すうけん)さきに、夏目(なつめ)漱石(そうせき)(1867~1916年)のお宅があった。()(がき)をめぐらした屋敷で木の(しげ)る広い庭にとりかこまれていた。三百(つぼ)(約1000平方メートル)の、家賃三十五円の借家(しやくや)だということだが、うっそうとしていて暗く、神秘的(しんぴてき)(かん)じであった。(略)
 私の父は田中三四郎といって、漱石の『三四郎』という小説とおなじ名前である。漱石は散歩のとき、父の標札に目をとめて、『三四郎』の題名を思いついたということである。
 父は科学者で教育家であった。軍人の士官(しかん)を養成する幼年(ようねん)学校をふりだしに、岡山と山形の旧制高校で物理を教え、晩年は中央大学につとめた。八十七才で亡くなる直前まで、教壇を離れようとしなかった。
 家庭では五百坪(約1650平方メートル)の早稲田の家を支配する絶対の権威者(けんいしや)であった。私は父を尊敬はしても、厳格なその前ではびくびくした。言葉使いも、よそゆきのていねいさで話しかけなければならない。
昭和5年の牛込区全図。緑色は漱石が住んだ場所。青色はおそらく田中三四郎の場所

牛込区全図、昭和5年

 田中三四郎氏の建物は500坪で、漱石(緑色の場所)は300坪。これからすると、田中氏はたぶん青色で囲った場所(の一部)でしょう。

 一方、『ここは牛込、神楽坂』第10号(平成9年、1997年)で、河合正氏が「魚屋などが申し上げることではあるませんので……」では

 うちは創業が亨保十七年で、はじめは三河屋三四郎でしたが、その後肴屋三四郎を名乗るようになり、代々当主がその名を継いできました。
 漱石先生の『三四郎』とのことは昭和の終わり頃、毎日新聞にも出たことがありますが、そのときは肴屋風情が何をというようなお叱りがあちこちからきて。漱石先生には熱心な読者や研究者がいますからね。もうそのことには触れないことにしているんですよ。」

 これについて『ここは牛込、神楽坂』の編集部は

 ご主人はいかにも江戸っ子という感じの方で、お店は榎町交差点そば榎町児童館の隣。念のため毎日新聞で調べてもらいましたが10年以上前のことらしくわかりませんでした。『三四郎』の名は漱石の家の近くにいた田中三四郎(石垣綾子さんの父上とか)から思いついたという説がありますが、地方出の若者にご近所のご主人の名を?という疑問もあり、やはり近くの江戸前の肴屋三四郎さんに親近感をもって付けたというほうが妥当な気がします。
現在の地図。漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)

現在の地図。漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)

 で、漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)です。かなり離れています。

 もし近所で名前をつける場合、私は単に近所で肴屋三四郎よりも田中三四郎のほうに軍配を上げてしまいます。

 また、漱石氏の卒業生に堀川三四郎という人もいました。これは明治38年4月10日の漱石氏から大谷繞石宛の手紙に出ています。三四郎のモデルはわからないといった方が正しいのでしょう。

都営アパート 都営アパートは区営の早稲田南町第3アパートになりましたが、29年7月に予定する「漱石山房記念館」の建設のため、解体されてしまいました。

冠木門 冠木を渡した、屋根のない門
車宿 くるまやど。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。車屋。

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漱石先生の書き潰し原稿|内田百閒

文学と神楽坂

内田百閒 内田百閒(ひゃっけん)氏の「漱石山房の記」(昭和29年、角川文庫)です。

 氏は小説家、随筆家で、生年は明治22年5月29日。没年は昭和46年4月20日。東京帝大独文科卒。夏目漱石に私淑し、在学中から俳句や写生文を発表。代表作は『贋作吾輩は猫である』『阿房列車』など。法政大教授でした。

 漱石先生が朝日新聞に「道草」を連載せられた當時、木曜日の晩に漱石山房へ行
つて見ると、板敷の書齋の絨氈の上に、こつち向きに据ゑてある先生の黒檀の机の
脚の外側に何か少し書いた原稿用紙が積み重ねてあつて、それが毎週見る毎に次第
に高くなる樣であつた。あれは何ですかと尋ねて見たら、書き潰しが溜まつたのだ
よと云はれた。
 漱石先生に消したり直したりして汚くなつた原稿用紙は新聞社へ渡されなかつた
樣で、その度に紙を新らしくして、初めから書き直されたらしい。先生の專用せら
れた原稿用紙は橋口五葉氏の考案した木版を刷つたものであつて、縁の額には竜の
模樣があつた。判は大きかつたけれど、半切であつたから、書き直しをされても大
した事はなかつたと思はれる。
 しかしその書き潰しが段段高くなつて、七八寸もある様に見えて来ると、私には
それが気になり出した。先生は一枚一枚破いてそこいらに散らかすよりは、さうし
てきちんと重ねておいた方が始末がいいと云ふだけの事でさうして居られるに違ひ
ないが、もつと溜まつて、邪魔になり出したら、どうするのであらうかと云ふ事が
心配になつた。先生が捨ててしまはない内に買ひたいものだと考へて、同じく漱石
山房へ出入してゐた岡田耕三君と、も一人だれだつたか忘れたが、私と三人でその
書き潰しの原稿用紙を頂戴したいと云ふ事を、恐る恐る先生に申し出たところが、
そんな物がいるなら持つて行つてもいいよと先生が云つたので、早速三人で分けた。
(中略)
 さうして貰つて来た書き漬しの原稿用紙を私は大切にしまつておいたが、長い間
にその内の幾枚かを二三の知友に割愛した。近年になつて郷里岡山の恩師木畑竹三
郎先生にも二三葉を差上げたところが大変にお喜びになつて巻物にして保存したい
から、その由来書を私に書けと命ぜられたので、右の次第を拙文に綴つたのである。

 で、「新宿区夏目漱石記念施設整備基金」を出すと必ず新宿区から貰える『道草』の草稿、つまり書き潰しです。道草

文学と神楽坂

夏目漱石と中村武羅夫

文学と神楽坂

 中村武羅夫(むらお)氏が書いた「文壇随筆」(感想小品叢書、第10編、新潮社、大正14年) の一節です。ちなみに中村氏(1886(明治19)/10/4~1949(昭和24年)/5/13)は明治から大正にかけて活躍した編集者、評論家で、『新潮』訪問記者を振り出しに「新潮」の中心的編集者となりました。大衆小説も量産しますが、現在はほとんど残っていません。

私が、湯の中で小便して、漱石に顏をあらはせて、大いに漱石をおこらしたといふやうなゴシツプが、つたへられたことがある。が、これはまちがひである。私だつて、まさか自分の小便で、人に顏をあらはせるやうな、そんな人の惡いまねをする筈はない。
 それは多分、次ぎのやうな話しが、誤傳されたものだと思ふ。
 その當時、漱石の家に、湯殿があつたかどうかを、私は知らない。漱石の家は、やつぱり現在の、早稻田南町だつたが、今のやうな堂々たる邸宅ではなく、確に家賃は四十五圓とかと漱石自身の口から聞いたことがあると思ふが、借家だつた。勿論、湯殿はあつたことだらう。が、直き前の錢湯に、よく出かけて來た。大抵、一番()いた十時ごろから二時ごろまでの間だつた。私もよくその錢湯に行つたので、時々湯の中で出逢ふことがあつて、「やあ」「やあ」と、裸で挨拶するのであつた。
「先生、湯に入ると、自然に小便が出たくなりませんか?」
 或時、私が、風呂の中で聞いた。
「湯の中でか?」
 漱石は、やつぱり湯に浸りながら、斯う反問した。
「さうです。」
「ないね。――君は、そんなことがあるか?」
「ぢや、僕だけですかね。僕は湯に入ると、自然に小便がしたくなるんです。」
「汚いね。」漱石は口尻をしかめて苦笑したが、急に立ち上がつて、「そんなことをいつて、君は今、したんぢやないか?」と詰問した。
「そんなことがあるもんですか。」と私は笑つた。
「どうだか、怪しいものだ。君が小便したんだと、僕は、君の小便で顏をあらつたことになる。汚いね。」
 漱石は、もう一度顏をしかめて、苦笑した。
 そんなことが、私が、自分の小便で、漱石に顏をあらはせたなどゝいふゴシツプに、誤りつたへられたのであらう。お蔭で私は、その後時々、德田秋聲氏と一緒に旅行などして、風呂には入つたり、溫泉に浸つたりする度に、「君、小便をしはしまいね。」などゝ、念を押されるのである。「僕と一緒の時には、それつだけは、一つ勘辨してくれたまへ。」と秋聲は、私をからかふのである。

ここで徳田秋声氏の話が入っているのがうまく、最後で笑ってしまいます。徳田秋声氏も自然主義の小説家で、1872年2月1日(明治4年12月23日)に生まれました。ちなみに漱石氏は、徳田秋声氏よりも5年早く生まれ、1867年2月9日(慶応3年1月5日)でした。中村武羅夫氏は漱石氏よりも約20年も若い人でした。

文学と神楽坂

英国帰りの漱石|矢来町

文学と神楽坂

 英国から帰った明治36年1月24日(1903年、37歳)から3月3日まで、漱石は妻の鏡子氏がいた牛込矢来町3番地中ノ丸の中根宅に滞在しました。

 『ここは牛込、神楽坂』の編集人 立壁正子氏は第10号で「漱石夫人が悪妻だったなんて」を書き

旧姓中根キヨ(後に鏡子)。明治十年、中根重一の長女として福山に生まれる。中根家は代々福山藩の武士。明治維新後、父は藩の秀才として選抜され大学で経済学を学ぶことになり、それに必要なドイツ語を学ぶため医科へ。長女の鏡子さんが生まれる前後に、新潟の病院へ赴任。ドイツ人の院長の通訳を務め、後に副院長に。鏡子さんが五歳のときに帰京。牛込矢来町二番地中の丸六十、現七十一番地、いま新潮杜のあるところに住む。父上はその後官吏となり、鏡子さんが結婚する頃は貴族院の書記長をしていた。(『漱石の思い出』より)
 かくて鏡子さんは松山から上京した漱石と東京で見合。翌年、漱石の赴任先の熊本で結婚。そのとき鏡子さんは十九歳。
 以後、単子、恒子の二児をもうけ、漱石はイギリスヘ国費留学。鏡子さんは牛込矢来町の実家の離れで休職手当て二十五円で耐乏生活(実家も父上が相場で失敗、窮乏)。漱石が帰国した際は、衣類も夜具もぽろぽろという状態だった

 矢来町について、夏目鏡子述、松岡譲筆談の『漱石の思い出』では極めて書いてあることは少なく、

そのころの中根の家は牛込矢来の、ちょうど今の新潮社のところで、あすこは私たち思い出の深い土地なのです。(略)
 それからすぐと矢来の、三年間畳替えもしなければ何の手入れもしない、ただ留守中雨露(うろ)(しの)いでいたというだけの荒れに荒れた家に入りました。

 「漱石夫人が悪妻だったなんて」の話で出てきた「牛込矢来町二番地中の丸六十、現七十一番地」とありますが、二番地ではなく三番地でした。大正11年には、字「中の丸」は下の範囲でした。「六十、現七十一番地」は大正11年の地図ではわかりませんが、昭和5年の七十一番地はこうなっています。

 昭和5年の71番地と63番地の間を上下に続く道路は将来の「牛込中央通り」です。現代ではここの薄青の円が昔の71番地になります。

新潮社T11とS5と現代
 しかし漱石は「牛込区矢来町三番地中ノ丸中根方」と書いたようです。また義父中根重一に対しても「牛込区矢来町三番地中ノ丸中根重一」と書いたようです。つまり、「六十、現七十一番地」は誰が書いたのでしょうか?
 同書の中根眞太郎氏の「大伯母鏡子のいるところは花が咲いたようでした」によれば

矢来町の中根家のことは、小学校4年の頃、父と近くを通った際、あそこだと教えられたことがあります。いま新潮社の本社のあるあたりでしょうか。(略)
大伯母の鏡子は、すばらしいおばあちゃんでした。江戸っ子気質で、ウイットがあって。彼女がいるところは周り中に花が咲いたようでした。弟子たちにも人気があって、よく面倒を見ていたようです。岩波書店の創立の際には株券で3千円を融通していますし、たいした人でした。

 さらに新潮社の初代社長、佐藤義亮氏の「出版おもいで話」(昭和11(1936)年11月)では

大正二年(1913)七月に、はじめて現在の牛込区矢来町に家屋を買い求めて移った。(中略)
 牛込矢来の現在の地に移ったのである。現在の地といっても大通りでなく、細い路地をはいったところで、前の空地ヘ事務所を建てた。木造ペンキ塗りの小さなもので、二階は編集と応接の二間、下は営業部一間だけのものだった。それでも若い中村、加藤氏などは「こんな立派なところで仕事をするのかな」と、ひどく喜ばれた。(中略)
 社業次第に進展して、従来の家ではどうにも始末がつかぬようになり、いよいよ社屋新築ということに決した。
 まず近隣の地所を買うための交渉をはじめた。通りに面している家(今の新潮社の玄関のある辺り)はかつて漱石氏の岳父中根貴族院書記官長の住まいだったもので、漱石氏もしばらくいたことがある。横は広津柳浪氏が住み、中村吉蔵氏が玄関にいたという、これまた文学的由緒ある家だ。それらの五、六軒を買い受け、相当地所が広くなったので、四階の鉄筋コンクリートを建てることとなり、東洋コンクリート株式会社が工事に着手したのは大正十一年(1922)の八月。翌年の八月になって全く竣工した。そこで、九月一日の午後一時をもって新館開きの記念会を開き、文芸映画をはじめ各種の余興を揃え、御馳走も然るべく用意して、今やただ時間の来るのを待っている時に、待ち設けぬ大地震がやって来たのである。

漱石氏は1年強この矢来町にいました したがってこれから考えると、この赤く塗った場所が中根貴族院書記官長の住まいでしょう。漱石氏もしばらくいたことがある場所でした。(地図は新宿区が作った『新宿文化絵図―重ね地図付き新宿まち歩きガイド』「明治」から)。大正になったころ番号が変わり、71番地でした。
新潮社と社長邸 右に掲げた昭和12年の『火災保険特殊地図』では、当時の71番地には西方に新潮社、東方に住んだ新潮社の初代社長・佐藤義亮邸があり、東のほうが西の新潮社よりも大きかったようです。
 なお、これと違った地図もあります。新宿区の『漱石山房秋冬』です。しかし、⑥の場所は字「中の丸」ではなく「山里」になるので、違います。
漱石山房秋冬

 現在の71番地は3つに分かれています。写真は新潮社の本館です。漱石は「新潮社の本館」の北半分に住み、実際、新潮社本館の玄関の場所と、夏目漱石が使った玄関の場所は、よく似た場所にあったといえるでしょう。新潮社本館
新潮社の地図

最後に寺田寅彦氏が書く「夏目漱石先生の追憶」(昭和7年)の一節です。

 帰朝当座の先生は矢来町(やらいちやう)の奥さんの実家中根氏邸に仮寓して居た。自分の訪ねた時は大きな木函に書物の一杯つまつた荷が着いて、土屋君といふ人がそれを開けて本を取出して居た。そのとき英国の美術館にある名画の写真を色々見せられて、その中ですきなのを二三枚取れと云はれたので、レイノルヅの女の子の絵やムリリヨのマグダレナのマリアなどを貰つた。先生の手かばんの中から白薔薇の造花が一束出て来た。それは何ですかと聞いたら、人から貰つたんだと云はれた。たしか其時に(すし)の御馳走になつた。自分はちつとも気が附かなかつたが、あとで聞いたところによると、先生が海苔巻(のりまき)に箸をつけると自分も海苔巻を食ふ。先生が卵を食ふと自分も卵を取上げる。先生が海老(えび)を残したら、自分も海老を残したのださうである。先生の死後に出て来たノートの中に「Tのすしの喰ひ方」と覚書のしてあつたのは、比時のことらしい。

神楽坂の通りと坂に戻る

文学と神楽坂

浅田宗伯|夏目漱石と正宗白鳥

文学と神楽坂

asada-b 新宿区立図書館資料室紀要の『神楽坂界隈の変遷』(新宿区立図書館、1970)の「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」には牛込横寺町に住んでいた漢方の名医、浅田宗伯あさだそうはく先生のことが出ています。
 生年は文化12年5月22日(1815年6月29日)。享年は明治27年(1894年)3月16日です。

 この『神楽坂界隈の変遷』では「明治になっても依然として慈姑くわい(あたま)に道服を着て、長棒の桐の駕籠(かご)に乗って診療廻りをして歩いた」そうです。この慈姑頭は、束髪ともいい、髪はクワイの芽に似ていることから付きました。江戸時代、医者などの髪の結い方で、頭髪を剃らず、すべて後頭部に束ねたものです。道服(どうふく)とは道士の着る衣服、袈裟(けさ)、僧衣で、先生は礼服である十徳という上着を着用していました。

 また、幕末には浅田宗伯は横浜駐在中のフランス公使レオン・ロッシュの治療に成功します。このエピソード

 宗伯はロッシュを詳しく診察します。
 そして、左足背動脈に渋滞があるのを発見する。その渋滞は、脊柱左側に傷が原因と見極めます。
 傷の原因をロッシュに問うと、18年前に戦場で何回も落馬したことがあるという。
 で、脊椎を詳しく診ると、脊椎の陥没が2か所あるとわかった。
 この診断に基づき、宗伯が薬を調合し治療を行うと、なんと、ロッシュを苦しめたあの腰痛が、たった1週間でピタリと治ってしまったのです。

浅田宗伯は、徳川将軍家の典医となり、維新後には、皇室の侍医として漢方をもって診療にあたっています。漢方医の侍医は最後の医者だといいいます。
 また、浅田飴も浅田宗伯の名前から来ています。浅田飴を作った人は堀内伊三郎氏ですが、氏が「よこてらまち」では浅田宗伯の駕篭かき(浅田飴によると書生)をしていたそうです。浅田から水飴の処方を譲り受けて、浅田飴を売り出しました。
「よこてらまち」(新宿区横寺町交友会 今昔史編集委員会、2000年)でも浅田宗伯のことは半ページだけですが出ています。

 横寺町には明治四年(一八七一年)から大正十三年頃まで、現在の英検(旧旺文社本社)敷地の東端付近、五十三番地に住んでいた。
 宗伯は容貌魁偉で酒好きであったが、医業の傍ら医学医史、史学、詩文等数多くの書を著わしたが、浅田家ではその散佚を恐れ、一括して東大図書館に寄贈した。また宗伯は幕府時代から千両医者としての名声があり、明治四年(一八七一年)五十七歳のとき、牛込横寺町に移って以来診察治療を請負う者が引きも切らず、浅田邸付近は順番待ちの患者が休む掛け茶屋が幾軒もできたとのことである。漢洋医競合の時勢のなかで宗伯は塾を開いて門弟の養成にも力を尽くした。
 ところで浅田宗伯と浅田飴とのことであるが、浅田飴の製造元の堀内家は、長野県上伊那郡青島村の出身で、明治十九年四代伊三郎のとき家は破産し、夫婦で上京、伊三郎は浅田家の駕篭かきとなり、妻は青物売りをしていたが、宗伯はこれを励まして金と三種類の薬の処方を与えて独立させた。その処方のひとつが「御薬さらし飴」である。夫婦は水飴製造販売に全力を注ぎ、明治二十二年神田鍋町に浅田飴本舗を構えたのが起こりである。

散佚 さんいつ。散逸。まとまっていた書物・収集物などが、ばらばらになって行方がわからなくなること。散失。
掛け茶屋 道端などに、よしずなどをかけて簡単に造った茶屋。茶店。

 この「御薬さらし飴」こそが後の「浅田飴」になっていきます。
 夏目漱石氏は「吾輩は猫である」の中でこう書いています。

 主人の小供のときに牛込の山伏町浅田宗伯あさだそうはくと云う漢法の名医があったが、この老人が病家を見舞うときには必ずに乗ってそろりそろりと参られたそうだ。ところが宗伯老が亡くなられてその養子の代になったら、がたちまち人力車に変じた。だから養子が死んでそのまた養子が跡をいだら葛根湯かっこんとうアンチピリンに化けるかも知れない。に乗って東京市中を練りあるくのは宗伯老の当時ですらあまり見っともいいものでは無かった。こんな真似をしてすましていたものは旧弊亡者もうじゃと、汽車へ積み込まれる豚と、宗伯老とのみであった。
 主人のもその振わざる事においては宗伯老のと一般で、はたから見ると気の毒なくらいだが、漢法医にも劣らざる頑固がんこな主人は依然として孤城落日を天下に曝露ばくろしつつ毎日登校してリードルを教えている。

山伏町 新宿区の東部に位置する町名。全体としては主に住宅地として利用する。浅田宗伯は山伏町に住んではいない。
葛根湯 かっこんとう。主要な活性成分は、エフェドリンとプソイドエフェドリン。発汗作用を強め、また鎮痛作用があるという
アンチピリン 最初のすぐれた合成解熱薬。 内服でアンチピリンしん(ピリン疹)という皮膚疹を起こすことがあり、現在は使わない。
旧弊 古い考え方やしきたりにとらわれている状態
亡者 金銭や色欲などの執念にとりつかれている人
孤城落日 こじょうらくじつ。孤立無援の城と、西に傾く落日。勢いが衰えて、頼りないこと
リードル reader。リーダー。読本。アルファベットの習得と単語の発音から、さらに初等教育課程・中等教育課程を教えた。

かごについては、薬箱を持たせた供を連れて歩く医者と、より格式があり、駕籠を使用する乗物医者に分けられたようです。駕籠は町奉行から許可を得た御免駕籠でした。
 正宗白鳥氏が書いた「神楽坂今昔」には、氏が大学生になって、初めての春、こんな体験をしています。

 馴れない土地の生活が身體に障つたのか、熱が出たり、腸胃が痛んだり、或ひは脚氣のやうな病狀を呈したりした。それで近所の醫師に診て貰つてゐたが、或る人の勸めにより、淺田宗伯といふ當時有名であつた漢方醫の診察をも受けた。その醫者の家は、紅葉山人邸宅の前を通つて、横寺町から次の町へうつる、曲り角にあつたと記憶してゐる。見ただけでは若い西洋醫者よりも信賴されさうな風貌を具え、診察振りも威厳があつた。生れ故郷の或る漢方醫は私の文明振りの養生法を聞いて、「牛乳や卵を飮むやうぢや日本人の身體にようない。米の飯に魚をうんと食べなさい。」と云つてゐたものだ。
 淺田宗伯老の藥はあまり利かなかつたようだが、「米の飯に魚をくらへ」と云つた田舎醫者の言葉は身にしみて思ひ出された。

 住んだ場所は『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち』によれば、横寺町53番地でした。昭和12年の「火災保険特殊地図」で赤い中央は「浅田医院」になっています。左上は52で、つまり横寺町52番地では、といぶかるのも当然ですが、いつの間に変わったのか、分かりません。それとも、となりの家(桃色)が53なので、53は外来だったのでしょうか。あるいは、『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち』が単に間違ったのでしょうか。明治20年の地図も浅田宗伯邸がでていますが、番号はわかりません。
浅田医院
「よこてらまち」では「浅田医院」は現「あさひ児童遊園」だと描いています。CCF20130810_000305

文学と神楽坂

漱石と『硝子戸の中』14

文学と神楽坂

十四
 ついこの間むかし私のうちへ泥棒の入った時の話を比較的くわしく聞いた。
 姉がまだ二人ともかたづかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行はやったやかましい頃なのである。
 ある夜一番目の姉が、夜中よなか小用こように起きたあと、手を洗うために、潜戸くぐりどを開けると、狭い中庭のすみに、壁をしつけるようないきおいで立っている梅の古木の根方ねがたが、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらすいとまもないうちに、すぐ潜戸をめてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。
 私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらいあざやかである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時縁側えんがわに立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。
 広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確はっきりした輪廓りんかくを具えている鼻、人並ひとなみより大きい二重瞼ふたえまぶちの眼、それから御沢おさわという優しい名、――私はただこれらを綜合そうごうして、その場合における姉の姿を想像するだけである。

潜戸

勤王 江戸末期、佐幕派に対し、天皇親政を実現しようとした一派
佐幕 幕末、江戸幕府を支持した一派
一番目の姉 漱石の兄弟は、先妻「こと」の子供として「(さわ)」「(ふさ)」の漱石の姉2人と、後妻の「千枝」の子供として、大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直短)の兄3人がいました。一番目の姉なので「沢」です。「沢」と漱石とは21歳も違っていました。房は17歳年上でした。
潜戸 門の扉などに設けた、くぐって出入りする小さい戸口。 切り戸。くぐり
根方 木の根もと。下部
歯を染めた 歯を黒く染める習俗。お歯黒ともいいます。鉄くずを焼いて濃い茶に浸し、酒などを加えて発酵させた液で歯を染めること。江戸時代には既婚婦人のしるしでした。
娘盛り 若い女性として最も美しい年ごろ。
御沢 姉は「さわ」です。

しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念けねんが起った。それで彼女は思い切ってまた切戸きりどを開けて外をのぞこうとする途端とたんに、一本の光る抜身ぬきみが、やみの中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚いて身をあと退いた。そのひまに、覆面をした、龕灯提灯がんどうぢょうちんげた男が、抜刀のまま、さい潜戸から大勢うちの中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数にんずはたしか八人とか聞いた。

龕灯提灯切戸 潜戸と同じです。
抜身 鞘(さや)から抜いた刀
龕灯提灯 強盗(がんどう)提灯とも書き、銅やブリキで釣鐘形の枠を作り、中に自由に回転できるろうそく立てを取り付けた提灯。光が正面だけを照らすので、持つ人の顔は見えません。
抜刀 刀を鞘から抜くこと。その刀

彼らは、ひとあやめるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金せと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今かど小倉屋こくらやという酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性ふしょうぶしょうに、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。
 その事があって以来、私の家では柱をくみにして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束くろそうぞくを着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切組きりくみにしてある柱かまるで分らなくなっていた。

軍用金 軍事上の目的で使う金銭。軍資金。幕末期に軍用金調達のための強盗や強迫事件は多かったといいます
小倉屋 酒屋。生け垣を隔てたお隣同士でした
不精無性 いやいやながら。現在は「不承不承」と書く
小判 江戸時代における金貨。
切り組 材木を切り組むこと。材木などを切って組み合わせる仕組み

泥棒が出て行く時、「このうちは大変しまりの好いうちだ」と云ってめたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日からかすきずがいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしてもうちにはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文もられずにしまった。
 私はこの話をさいから聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受話ちゃうけばなしに聞いたのである。

締りの好い 倹約家。しまつや。
茶受話 茶飲み話

神楽坂の通りと坂

神楽坂 作家と文化人

漱石公園と猫塚|早稲田

文学と神楽坂

 最初は昭和3年(1928)に立てられた一代目の猫塚です。まず夏目漱石氏が詠んだ句は

此の下に稲妻起る宵あらん(句番号2085。猫塚の裏に書いた句)
ちらちらと陽炎立ちぬ猫の塚(句番号2380)
吾猫も虎にやならん秋の風(句番号2518)

 猫塚「吾猫も…」の猫は「吾輩は猫である」の猫と同じ猫かはわかりません。

 夏目伸六氏の『父・夏目漱石』で「猫の墓」についてこう書いています。

一代目の猫塚 漱石公園確かに、この石塔は、私の母が、初代の猫を弔うために建てたのだけれど、実際を云うと、この猫だけを供養する積りで建てた訳ではないのである。というのも、今でこそ、戦火に焼かれて、その石面は、見分けのつかぬほどに焼けただれてはいるけれども、以前は、台石の表面に、猫をはさんで、犬と文鳥の3つの像が、仲良く刻み込まれていたのである。

 一番目の塔は3つの像はあったといいますが、下のほうが何かがあったのでしょうか、何も見えないように見えます。ただし、いまあるものよりも立派な9重の塔で、屋根のむくりもあります。より荘重で、より墓らしい場所なのでしょうか。

母が、猫と犬と文鳥の遺骨を、1つにまとめて、すでに朽ちかけた墓標の代りに、九重の石塔を建てたのは、丁度、初代名無しの十三回忌にあたる年で、その台石の正面には、津田青楓さんの筆で、猫と犬と文鳥の像が、三尊式に、並んで彫りつけられていたのである。

 ところが第2次世界戦争で大空襲になり、どこを見ても塵や灰だという状態になります。このとき、猫の塔は

(第2次世界大戦の跡で)
 その眼に、空襲当夜のすさまじい火焔と熱気を、まざまざと石面に刻んで、すっかりぼろぼろに、周囲の欠け落ちた猫の塔だけが、未だに倒れもせず、夕日を浴びて、隅の方に立っているのが眺められた。

 現在の猫塚は二代目です。25年後の昭和28年、再度建立しています。
現在の猫塚 漱石公園
 これで、荘重さはどこにもなく、墓らしくない場所になりました。新宿区の職員がつくったものでしょうか。

 では1代目の猫塚の重要性といえば…1代目の猫の13回忌で夏目鏡子氏がつくったもの。不要性は…「吾輩は猫である」で有名な猫の死体がないこと。

 本来の猫塚では困る点は…まあそうだよね、どうせ嘘だからと、しらけた気分になる。本来の猫塚で困らない点は…まあそうだよね、どうせ嘘だし、それもいいんじゃないの。

 これまではほかを見るといっても他に見る物はなかったのが問題でした。2017年には張りぼての書斎と客間ができてきます。でも心の奥深くに猫塚は嘘だという叫びも実際ありますね。
 まあ、「今回は」嘘の猫塚でもいいんじゃないの。「将来は」変更の可能性を探る。と、これはいかにも大人で、まあこれも嘘だな。

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漱石と『硝子戸の中』16と17

文学と神楽坂

 十六

うちの前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があつて、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたつた一度そこで髪をつて貰った事がある。
 平生は白い金巾かなきんの幕で、硝子戸ガラスどの奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立つて、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。
 亭主は私の入つてくるのを見ると、手に持った新聞紙をほうしてすぐ挨拶あいさつをした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私のうしろへ廻つて、はさみをちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼はむか寺町郵便局そばに店を持つて、今と同じように、散髪を渡世とせいとしていた事が解った。
高田の旦那だんななどにもだいぶ御世話になりました」
 その高田というのは私の従兄いとこなのだから、私も驚いた。
「へえ高田を知ってるのかい」
「知つてるどころじゃございません。始終しじゅうとくとく、つて贔屓ひいきにして下すったもんです」
 彼の言葉づかいはこういう職人にしてはむしろ丁寧ていねいな方であった。
「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚びっくりした調子で「へッ」と声をげた。
「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつごろ御亡おなくなりになりました」
「なに、つい此間こないださ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」
 彼はそれからこの死んだ従兄いとこについて、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日きのうの事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。

金巾(かなきん) 金巾平織りの綿。生地は薄く、のぼりの綿はほとんどこの金巾で作成しています。チェーン店の暖簾などでも多く使われています。
寺町 神楽坂6丁目は以前は通寺とおりてら町と呼びました。これと昔から名前は変わらない横寺よこてら町を併せて寺町と呼んでいました。
郵便局 T11郵便局図は大正11年の地図です。郵便局は〒で書かれ、神楽坂6丁目で今でいう新内横丁の西側に建っていました。現在は音楽之友社別館です。
高田の旦那 高田庄吉。漱石の父の弟の長男で、漱石の腹違いの姉・(ふさ)の夫です。
しっきゃ 「しか」。昨日の事と「しか」思われないのに。江戸なまりです。

宅の前 うちはこのころは漱石山房でした。下の地図は明治40年のものです。青い丸で囲んだ場所が漱石山房です。小川は同じく青で書いてあります。「一間ばかり」は1.8メートルぐらいです。赤い丸は橋の候補です。2つあり、下の赤い丸は漱石山房に近く、『ここは牛込神楽坂』第10号に書いてある場所です。もう1つは上の赤い丸で、弁天町に近く、北野豊氏の『漱石と歩く東京』(雪嶺叢書)ででてくる場所です。

M40

 

最初の説は『ここが牛込、神楽坂』第10号の「金之助少年の歩いた道を行く」で書いています。編集発行人の立壁正子氏と、先生、というのは「牛込のさんぽみち」の筆者高橋春人氏のことですが、2人の話があり、区立漱石公園の話に続いて

(漱石公園の)門を出、左へ坂を下ると小さな十字路に出る。「ほら、ここが例の小川だよ」という先生の説明に、え!と『硝子戸の中』を開く。
(『硝子戸の中』の引用文があり)
見逃すところだった。先生は「ここは暗渠になっているはず」と、そばのマンホールを覗きこむ。坂を横切る道の曲がり具合からもなるほどと納得。そして左角の印刷屋さんの先が「そう、床屋があったとこだね」

第2の説は北野豊氏の『漱石と歩く東京』にあり

 当時、漱石山房の東側に弁天堂の裏手を流れてくる小川があり、宗参寺の東側で鍵の手に曲って、早稲田田圃の方へ流れ下りていた。その鍵の手に曲った辺りに、南北に轟橋という小橋が架けられ、この床屋はその向こう側にあった。

第1の説と第2の説と、どちらがいいのでしょう。ここで、浅見潤氏が書いた『昭和文壇側面史』を読むと

“矢来の坂下から榎町通りを真直ぐいって、初めての十字路を左に柳町の電車の停留所の方に折れ、少し行くと右に曲がって弁天橋を渡る狭い路がある。これを少し行って、だらだら坂の途中の右手にあるのが、漱石の晩年に住んでいた、早稲田南町7番地の家である”
 小宮豊隆の言っているこの家だ。
(中略)
 小さな床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていた。

と書かれています。これで第1の説が正しいとわかります。現在は暗渠になっている、橋はなくなった場所が弁天橋の場所でした。

「あのそら求友亭きゅうゆうていの横町にいらしってね……」と亭主はまた言葉をぎ足した。
「うん、あの二階のあるうちだろう」
「えゝ御二階がありましたつけ。あすこへ御移りになつた時なんか、方々様ほうぼうさまから御祝ひ物なんかあつて、大変御盛ごさかんでしたがね。それからあとでしたつけか、行願寺ぎょうがんじ寺内じないへ御引越なすったのは」
 この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。
「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入つて見た事もないが」
「変つたの変らないのつてあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
 私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかつたので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋つたら、寺内にたつた一軒しきや無かつたもんでさあ。東家あずまやつてね。ちょうどそら高田の旦那の真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは

成金横丁求友亭 きゅうゆうてい。昔は通寺町、今は神楽坂6丁目にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。求友亭の横町は「川喜田屋横丁」のことです。
行願寺 ぎょうがんじ。昔はここあたり一帯は正しくは行元寺(行願寺は誤り)の土地でしたが、ここは行願寺で書いておきます。行願寺は明治40年に品川区に引越ししています。
古老の地図 寺内(じない)へ引っ越し 図は新宿歴史博物館『新宿区の民俗』(5)牛込地区篇から。寺内というのは寺の境内で、ここでは行願寺の境内です。一種の自治集落でした。この高田氏の家は万長酒店の貸し家(家作(かさく))でした。住んだ場所は下の絵に。これは『ここは牛込、神楽坂』の第10号で出ています。今では神楽坂アインスタワーの一角になりました。

待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
肴町 さかなまち。牛込区肴町は今の神楽坂5丁目です。行願寺、高田、足袋屋、誰が袖、東屋などは全て肴町で、かつ寺内でした
足袋屋 昔の万長酒店がある所に「丸屋」という足袋(たび)屋がありました。現在は第一勧業信用組合がある場所です。
誰が袖 たがそで。誰袖とは「匂い袋」のこと。しかし、ここでは、待合「誰が袖」のこと。後に「三勝さんかつ」という名になります。さらに現在は神楽坂アインスタワーの一角に。これを詠んだ漱石氏の俳句…

誰袖や待合らしき春の雨
(岩波書店『漱石全集 第17番』、句番号2344。)

東屋 あずまや。寺内の「吾妻屋」のこと。ここも現在は神楽坂アインスタワーの一角になっています。
御神灯 神に供える灯火。職人・芸者屋などで縁起をかついで戸口につるす「御神灯」と書いた提灯のこと。
 

 十七

私はその東家をよく覚えていた。従兄いとこうちのついむこうなので、両方のものが出入ではいりのたびに、顔を合わせさえすれば挨拶あいさつをし合うぐらいの間柄あいだがらであったから。
 その頃従兄の家には、私の二番目の兄がごろごろしていた。この兄は大の放蕩ほうとうもので、よく宅の懸物かけものや刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪いくせがあった。彼が何で従兄の家にころがり込んでいたのか、その時の私には解らなかつたけれども、今考えると、あるいはそうした乱暴を働らいた結果、しばらくうちを追い出されていたかも知れないと思う。その兄のほかに、まだ庄さんという、これも私の母方の従兄に当る男が、そこいらにぶらぶらしていた。
 こういう連中がいつでも一つ所に落ち合つては、寝そべつたり、縁側えんがわへ腰をかけたりして、勝手な出放題を並べていると、時々向うの芸者屋の竹格子たけごうしの窓から、「今日こんちは」などと声をかけられたりする。それをまた待ち受けてでもいるごとくに、連中は「おいちょっとおいで、好いものあるから」とか何とか云つて、女を呼び寄せようとする。芸者の方でも昼間は暇だから、三度に一度は御愛嬌ごあいきょうに遊びに来る。といつた風の調子であった。
 はその頃まだ十七八だったろう、その上大変な羞恥屋はにかみやで通っていたので、そんな所に居合わしても、何にも云わずに黙ってすみの方に引込ひっこんでばかりいた。それでも私は何かの拍子ひょうしで、これらの人々といっしょに、その芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。負けたものは何かおごらなければならないので、私は人の買った寿司すしや菓子をだいぶ食った。
 一週間ほどつてから、私はまたこののらくらの兄に連れられて同じ宅へ遊びに行ったら、例の庄さんも席に居合わせて話がだいぶはずんだ。その時咲松さきまつという若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」と云つた。私は小倉こくらはかま穿いて四角張つていたが、懐中には一銭の小遣こづかいさえ無かった。
「僕はぜにがないからいやだ」
「好いわ、わたしが持つてるから」
 この女はその時眼を病んででもいたのだろう、こういい、綺麗きれい襦袢じゅばんそででしきりに薄赤くなつた二重瞼ふたえまぶちこすっていた。
 その私は「御作おさくが好い御客に引かされた」といううわさを、従兄いとこうちで聞いた。従兄の家では、この女の事を咲松さきまつと云わないで、常に御作御作と呼んでいたのである。私はその話を聞いた時、心の内でもう御作に会う機会もないだろうと考えた。
 ところがそれからだいぶ経つて、私が例の達人たつじんといつしょに、芝の山内さんない勧工場かんこうばへ行つたら、そこでまたぱつたり御作に出会った。こちらの書生姿にえて、彼女はもうひんの好い奥様に変っていた。旦那というのも彼女のそばについていた。……
 私は床屋の亭主の口から出た東家あずまやという芸者屋の名前の奥にひそんでいるこれだけの古い事実を急に思い出したのである。
「あすこにいた御作という女を知つてるかね」と私は亭主に聞いた。
「知ってるどころか、ありや私のめいでさあ」
「そうかい」
 私は驚ろいた。
「それで、今どこにいるのかね」
「御作はくなりましたよ、旦那」
 私はまた驚ろいた。
「いつ」
「いつつて、もう昔の事になりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」
「へええ」
「しかも浦塩ウラジオで亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへいっしょに行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」
 私は帰って硝子戸ガラスどの中に坐って、まだ死なずにいるものは、自分とあの床屋の亭主だけのような気がした。

二番目の兄 漱石の兄弟は大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直矩)、久吉(3歳で死亡)の4兄と、さわ、ふさの異母姉、ちか(1歳で死亡)の姉がいました。二番目の兄は栄之助です。大一と栄之助の2人の兄は漱石21歳の時に結核で死亡します。栄之助は漱石の10歳年上です。
庄さん 福田庄兵衛。漱石の従兄で姉婿で、芸者屋「吾妻屋」の旦那です。これは夏目伸六氏の『父・夏目漱石』「漱石の母とその里」に出ています。
芸者 昔は神楽坂は芸者がいっぱいにいました。
竹格子 細竹を組み合わせて作った格子
小倉 「小倉織り」。良質で丈夫な木綿布
例の達人 漱石全集(岩波書店)によれば、「太田(おおた)達人(たつと)。慶応2(1866)~昭和20(1945)年。漱石と達人は明治16年成立学舎で同期となり、17年に大学予備門に入学した。達人は岩手県盛岡生まれ。帝国大学理科大学物理学科卒」と書かれています。
芝の山内の勧工場 勧工場は建物1棟に種々の商品を陳列、販売した所。明治政府から芝の山内全域が芝公園と指定され、東の平地には勧工場(下図)ができました。現在の港区役所と共立薬科大学を併せた巨大な敷地でした、勧工場は明治20~30年代にかけ全盛期を迎えます。しかし、「勧工場もの」という言葉が、安物の代名詞とし広がり始めると、大正3年(1914)にはわずか5か所にまで減り、衰退していきます。かわって高級品を扱うデパートがでてきます。芝公園勧工場
浦塩 ウラジオ。ロシアの日本海岸にあるウラジオストクのことで、日本の札幌市とほぼ同緯度。もとは日本人の居留人が多いところでした。

神楽坂 作家と文化人