カテゴリー別アーカイブ: 硝子戸の中

漱石と『硝子戸の中』29

文学と神楽坂

二十九

 私は両親の晩年になってできたいわゆるすえである。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々はかえされている。
 単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私をにやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人ののち聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世とせいにしていた貧しい夫婦ものであったらしい。
 私はその道具屋の我楽多がらくたといっしょに、小さいざるの中に入れられて、毎晩四谷よつやの大通りの夜店にさらされていたのである。それをある晩私のが何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、可哀想かわいそうとでも思ったのだろう、ふところへ入れてうちへ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父からしかられたそうである。
 私はいつごろその里から取り戻されたか知らない。しかしじきまたある家へ養子にやられた。それはたしか私の四つの歳であったように思う。私は物心のつく八九歳までそこで成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻るような仕儀となった。
 浅草から牛込うつされた私は、生れたうちへ帰ったとは気がつかずに、自分の両親をもと通り祖父母とのみ思っていた。そうして相変らず彼らを御爺おじいさん、御婆おばあさんと呼んでごうも怪しまなかった。むこうでも急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしていた。
 私は普通のすえのようにけっして両親から可愛かわいがられなかった。これは私の性質が素直すなおでなかったためだの、久しく両親に遠ざかっていたためだの、いろいろの原因から来ていた。とくに父からはむしろ苛酷かこくに取扱かわれたという記憶がまだ私の頭に残っている。それだのに浅草から牛込へ移された当時の私は、なぜか非常にうれしかった。そうしてその嬉しさが誰の目にもつくくらいに著るしく外へ現われた。
 馬鹿な私は、本当の両親を爺婆じじばばとのみ思い込んで、どのくらいの月日をくうに暮らしたものだろう、それをかれるとまるで分らないが、何でも或夜こんな事があった。
 私がひとり座敷に寝ていると、枕元の所で小さな声を出して、しきりに私の名を呼ぶものがある。私は驚ろいて眼をましたが、周囲あたり真暗まっくらなので、誰がそこに蹲踞うずくまっているのか、ちょっと判断がつかなかった。けれども私は小供だからただじっとして先方の云う事だけを聞いていた。すると聞いているうちに、それが私のうちの下女の声である事に気がついた。下女は暗い中で私に耳語みみこすりをするようにこういうのである。――
「あなたが御爺さん御婆さんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたの御父おとっさんと御母おっかさんなのですよ。先刻さっきね、おおかたそのせいであんなにこっちのうちが好なんだろう、妙なものだな、と云って二人で話していらしったのを私が聞いたから、そっとあなたに教えて上げるんですよ。誰にも話しちゃいけませんよ。よござんすか」
 私はその時ただ「誰にも云わないよ」と云ったぎりだったが、心のうちでは大変嬉しかった。そうしてその嬉しさは事実を教えてくれたからの嬉しさではなくって、単に下女が私に親切だったからの嬉しさであった。不思議にも私はそれほど嬉しく思った下女の名も顔もまるで忘れてしまった。覚えているのはただその人の親切だけである。

四つの歳  荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、養子に行った年月は4説あります。
(1)明治1年4~5月頃。(関荘一郎)
(2)「明治元年11月中私2歳の砌」(金之助・昌之助・直克・田中重兵衛(親類)らの連署を下谷区長に提出した「戸籍正誤願」から)
(3)「明治2年11月中右金之助3歳の砌養子に差出置候處」(金之助の父小兵衛(直克)と塩原昌之助の間に紛争が生じた際の「手続書」から)
(4)「それは慥私の四つの歳であつたやうに思ふ。」(『硝子戸の中』)
 荒正人氏は(3)より(2)が正しいと考えられると述べています。つまり数え年で2歳、満年齢では1歳です。

両親の晩年 夏目小兵衛(こへえ)直克(なおかつ)は51歳、母の千枝は42歳で、漱石が生まれました。漱石は8人兄弟の末子でした。
年歯 ねんし。年齢。とし。よわい。
間もなく 生後4ヶ月です。
 さと。養育費を出して子供を預けておく家。
渡世 生活する職業。なりわい。生業。稼業。
夫婦もの 漱石は最初は里子として夏目鏡子氏によれば四谷の古道具屋に、小宮豊隆氏によれば源兵衛村(現・新宿区戸塚)の八百屋に出されています。
 ざる。細長くそいだ竹や針金・プラスチックを編んで作った中くぼみの器
四谷 新宿区の1地名。旧四谷区の地域
 夏目鏡子氏の『漱石の思ひ出』によれば「高田の姉さん」でした。漱石の腹違いの二番目の姉で、房です。
ある家 内藤新宿の塩原昌之助・妻やすを養父母に。
ごたごた 養父の不倫と、引き続く養父母の離婚でした。
実家へ戻る 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、明治8年12月末から9年初めまでに、塩原家に在籍のまま、再び夏目家に引き取られたといいます。満8歳でした。
牛込 牛込馬場下横町です。
 事実でないこと。よりどころのないこと。
耳語 みみこすり。耳擦り。そっとささやくこと。耳打ち

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漱石と『硝子戸の中』14

文学と神楽坂

十四
 ついこの間むかし私のうちへ泥棒の入った時の話を比較的くわしく聞いた。
 姉がまだ二人ともかたづかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行はやったやかましい頃なのである。
 ある夜一番目の姉が、夜中よなか小用こように起きたあと、手を洗うために、潜戸くぐりどを開けると、狭い中庭のすみに、壁をしつけるようないきおいで立っている梅の古木の根方ねがたが、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらすいとまもないうちに、すぐ潜戸をめてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。
 私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらいあざやかである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時縁側えんがわに立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。
 広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確はっきりした輪廓りんかくを具えている鼻、人並ひとなみより大きい二重瞼ふたえまぶちの眼、それから御沢おさわという優しい名、――私はただこれらを綜合そうごうして、その場合における姉の姿を想像するだけである。

潜戸

勤王 江戸末期、佐幕派に対し、天皇親政を実現しようとした一派
佐幕 幕末、江戸幕府を支持した一派
一番目の姉 漱石の兄弟は、先妻「こと」の子供として「(さわ)」「(ふさ)」の漱石の姉2人と、後妻の「千枝」の子供として、大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直短)の兄3人がいました。一番目の姉なので「沢」です。「沢」と漱石とは21歳も違っていました。房は17歳年上でした。
潜戸 門の扉などに設けた、くぐって出入りする小さい戸口。 切り戸。くぐり
根方 木の根もと。下部
歯を染めた 歯を黒く染める習俗。お歯黒ともいいます。鉄くずを焼いて濃い茶に浸し、酒などを加えて発酵させた液で歯を染めること。江戸時代には既婚婦人のしるしでした。
娘盛り 若い女性として最も美しい年ごろ。
御沢 姉は「さわ」です。

しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念けねんが起った。それで彼女は思い切ってまた切戸きりどを開けて外をのぞこうとする途端とたんに、一本の光る抜身ぬきみが、やみの中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚いて身をあと退いた。そのひまに、覆面をした、龕灯提灯がんどうぢょうちんげた男が、抜刀のまま、さい潜戸から大勢うちの中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数にんずはたしか八人とか聞いた。

龕灯提灯切戸 潜戸と同じです。
抜身 鞘(さや)から抜いた刀
龕灯提灯 強盗(がんどう)提灯とも書き、銅やブリキで釣鐘形の枠を作り、中に自由に回転できるろうそく立てを取り付けた提灯。光が正面だけを照らすので、持つ人の顔は見えません。
抜刀 刀を鞘から抜くこと。その刀

彼らは、ひとあやめるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金せと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今かど小倉屋こくらやという酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性ふしょうぶしょうに、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。
 その事があって以来、私の家では柱をくみにして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束くろそうぞくを着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切組きりくみにしてある柱かまるで分らなくなっていた。

軍用金 軍事上の目的で使う金銭。軍資金。幕末期に軍用金調達のための強盗や強迫事件は多かったといいます
小倉屋 酒屋。生け垣を隔てたお隣同士でした
不精無性 いやいやながら。現在は「不承不承」と書く
小判 江戸時代における金貨。
切り組 材木を切り組むこと。材木などを切って組み合わせる仕組み

泥棒が出て行く時、「このうちは大変しまりの好いうちだ」と云ってめたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日からかすきずがいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしてもうちにはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文もられずにしまった。
 私はこの話をさいから聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受話ちゃうけばなしに聞いたのである。

締りの好い 倹約家。しまつや。
茶受話 茶飲み話

神楽坂の通りと坂

神楽坂 作家と文化人

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漱石と『硝子戸の中』16と17

文学と神楽坂

 十六

うちの前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があつて、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたつた一度そこで髪をつて貰った事がある。
 平生は白い金巾かなきんの幕で、硝子戸ガラスどの奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立つて、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。
 亭主は私の入つてくるのを見ると、手に持った新聞紙をほうしてすぐ挨拶あいさつをした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私のうしろへ廻つて、はさみをちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼はむか寺町郵便局そばに店を持つて、今と同じように、散髪を渡世とせいとしていた事が解った。
高田の旦那だんななどにもだいぶ御世話になりました」
 その高田というのは私の従兄いとこなのだから、私も驚いた。
「へえ高田を知ってるのかい」
「知つてるどころじゃございません。始終しじゅうとくとく、つて贔屓ひいきにして下すったもんです」
 彼の言葉づかいはこういう職人にしてはむしろ丁寧ていねいな方であった。
「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚びっくりした調子で「へッ」と声をげた。
「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつごろ御亡おなくなりになりました」
「なに、つい此間こないださ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」
 彼はそれからこの死んだ従兄いとこについて、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日きのうの事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。

金巾(かなきん) 金巾平織りの綿。生地は薄く、のぼりの綿はほとんどこの金巾で作成しています。チェーン店の暖簾などでも多く使われています。
寺町 神楽坂6丁目は以前は通寺とおりてら町と呼びました。これと昔から名前は変わらない横寺よこてら町を併せて寺町と呼んでいました。
郵便局 T11郵便局図は大正11年の地図です。郵便局は〒で書かれ、神楽坂6丁目で今でいう新内横丁の西側に建っていました。現在は音楽之友社別館です。
高田の旦那 高田庄吉。漱石の父の弟の長男で、漱石の腹違いの姉・(ふさ)の夫です。
しっきゃ 「しか」。昨日の事と「しか」思われないのに。江戸なまりです。

宅の前 うちはこのころは漱石山房でした。下の地図は明治40年のものです。青い丸で囲んだ場所が漱石山房です。小川は同じく青で書いてあります。「一間ばかり」は1.8メートルぐらいです。赤い丸は橋の候補です。2つあり、下の赤い丸は漱石山房に近く、『ここは牛込神楽坂』第10号に書いてある場所です。もう1つは上の赤い丸で、弁天町に近く、北野豊氏の『漱石と歩く東京』(雪嶺叢書)ででてくる場所です。

M40

 

最初の説は『ここが牛込、神楽坂』第10号の「金之助少年の歩いた道を行く」で書いています。編集発行人の立壁正子氏と、先生、というのは「牛込のさんぽみち」の筆者高橋春人氏のことですが、2人の話があり、区立漱石公園の話に続いて

(漱石公園の)門を出、左へ坂を下ると小さな十字路に出る。「ほら、ここが例の小川だよ」という先生の説明に、え!と『硝子戸の中』を開く。
(『硝子戸の中』の引用文があり)
見逃すところだった。先生は「ここは暗渠になっているはず」と、そばのマンホールを覗きこむ。坂を横切る道の曲がり具合からもなるほどと納得。そして左角の印刷屋さんの先が「そう、床屋があったとこだね」

第2の説は北野豊氏の『漱石と歩く東京』にあり

 当時、漱石山房の東側に弁天堂の裏手を流れてくる小川があり、宗参寺の東側で鍵の手に曲って、早稲田田圃の方へ流れ下りていた。その鍵の手に曲った辺りに、南北に轟橋という小橋が架けられ、この床屋はその向こう側にあった。

第1の説と第2の説と、どちらがいいのでしょう。ここで、浅見潤氏が書いた『昭和文壇側面史』を読むと

“矢来の坂下から榎町通りを真直ぐいって、初めての十字路を左に柳町の電車の停留所の方に折れ、少し行くと右に曲がって弁天橋を渡る狭い路がある。これを少し行って、だらだら坂の途中の右手にあるのが、漱石の晩年に住んでいた、早稲田南町7番地の家である”
 小宮豊隆の言っているこの家だ。
(中略)
 小さな床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていた。

と書かれています。これで第1の説が正しいとわかります。現在は暗渠になっている、橋はなくなった場所が弁天橋の場所でした。

「あのそら求友亭きゅうゆうていの横町にいらしってね……」と亭主はまた言葉をぎ足した。
「うん、あの二階のあるうちだろう」
「えゝ御二階がありましたつけ。あすこへ御移りになつた時なんか、方々様ほうぼうさまから御祝ひ物なんかあつて、大変御盛ごさかんでしたがね。それからあとでしたつけか、行願寺ぎょうがんじ寺内じないへ御引越なすったのは」
 この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。
「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入つて見た事もないが」
「変つたの変らないのつてあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
 私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかつたので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋つたら、寺内にたつた一軒しきや無かつたもんでさあ。東家あずまやつてね。ちょうどそら高田の旦那の真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは

成金横丁求友亭 きゅうゆうてい。昔は通寺町、今は神楽坂6丁目にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。求友亭の横町は「川喜田屋横丁」のことです。
行願寺 ぎょうがんじ。昔はここあたり一帯は正しくは行元寺(行願寺は誤り)の土地でしたが、ここは行願寺で書いておきます。行願寺は明治40年に品川区に引越ししています。
古老の地図 寺内(じない)へ引っ越し 図は新宿歴史博物館『新宿区の民俗』(5)牛込地区篇から。寺内というのは寺の境内で、ここでは行願寺の境内です。一種の自治集落でした。この高田氏の家は万長酒店の貸し家(家作(かさく))でした。住んだ場所は下の絵に。これは『ここは牛込、神楽坂』の第10号で出ています。今では神楽坂アインスタワーの一角になりました。

待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
肴町 さかなまち。牛込区肴町は今の神楽坂5丁目です。行願寺、高田、足袋屋、誰が袖、東屋などは全て肴町で、かつ寺内でした
足袋屋 昔の万長酒店がある所に「丸屋」という足袋(たび)屋がありました。現在は第一勧業信用組合がある場所です。
誰が袖 たがそで。誰袖とは「匂い袋」のこと。しかし、ここでは、待合「誰が袖」のこと。後に「三勝さんかつ」という名になります。さらに現在は神楽坂アインスタワーの一角に。これを詠んだ漱石氏の俳句…

誰袖や待合らしき春の雨
(岩波書店『漱石全集 第17番』、句番号2344。)

東屋 あずまや。寺内の「吾妻屋」のこと。ここも現在は神楽坂アインスタワーの一角になっています。
御神灯 神に供える灯火。職人・芸者屋などで縁起をかついで戸口につるす「御神灯」と書いた提灯のこと。
 

 十七

私はその東家をよく覚えていた。従兄いとこうちのついむこうなので、両方のものが出入ではいりのたびに、顔を合わせさえすれば挨拶あいさつをし合うぐらいの間柄あいだがらであったから。
 その頃従兄の家には、私の二番目の兄がごろごろしていた。この兄は大の放蕩ほうとうもので、よく宅の懸物かけものや刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪いくせがあった。彼が何で従兄の家にころがり込んでいたのか、その時の私には解らなかつたけれども、今考えると、あるいはそうした乱暴を働らいた結果、しばらくうちを追い出されていたかも知れないと思う。その兄のほかに、まだ庄さんという、これも私の母方の従兄に当る男が、そこいらにぶらぶらしていた。
 こういう連中がいつでも一つ所に落ち合つては、寝そべつたり、縁側えんがわへ腰をかけたりして、勝手な出放題を並べていると、時々向うの芸者屋の竹格子たけごうしの窓から、「今日こんちは」などと声をかけられたりする。それをまた待ち受けてでもいるごとくに、連中は「おいちょっとおいで、好いものあるから」とか何とか云つて、女を呼び寄せようとする。芸者の方でも昼間は暇だから、三度に一度は御愛嬌ごあいきょうに遊びに来る。といつた風の調子であった。
 はその頃まだ十七八だったろう、その上大変な羞恥屋はにかみやで通っていたので、そんな所に居合わしても、何にも云わずに黙ってすみの方に引込ひっこんでばかりいた。それでも私は何かの拍子ひょうしで、これらの人々といっしょに、その芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。負けたものは何かおごらなければならないので、私は人の買った寿司すしや菓子をだいぶ食った。
 一週間ほどつてから、私はまたこののらくらの兄に連れられて同じ宅へ遊びに行ったら、例の庄さんも席に居合わせて話がだいぶはずんだ。その時咲松さきまつという若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」と云つた。私は小倉こくらはかま穿いて四角張つていたが、懐中には一銭の小遣こづかいさえ無かった。
「僕はぜにがないからいやだ」
「好いわ、わたしが持つてるから」
 この女はその時眼を病んででもいたのだろう、こういい、綺麗きれい襦袢じゅばんそででしきりに薄赤くなつた二重瞼ふたえまぶちこすっていた。
 その私は「御作おさくが好い御客に引かされた」といううわさを、従兄いとこうちで聞いた。従兄の家では、この女の事を咲松さきまつと云わないで、常に御作御作と呼んでいたのである。私はその話を聞いた時、心の内でもう御作に会う機会もないだろうと考えた。
 ところがそれからだいぶ経つて、私が例の達人たつじんといつしょに、芝の山内さんない勧工場かんこうばへ行つたら、そこでまたぱつたり御作に出会った。こちらの書生姿にえて、彼女はもうひんの好い奥様に変っていた。旦那というのも彼女のそばについていた。……
 私は床屋の亭主の口から出た東家あずまやという芸者屋の名前の奥にひそんでいるこれだけの古い事実を急に思い出したのである。
「あすこにいた御作という女を知つてるかね」と私は亭主に聞いた。
「知ってるどころか、ありや私のめいでさあ」
「そうかい」
 私は驚ろいた。
「それで、今どこにいるのかね」
「御作はくなりましたよ、旦那」
 私はまた驚ろいた。
「いつ」
「いつつて、もう昔の事になりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」
「へええ」
「しかも浦塩ウラジオで亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへいっしょに行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」
 私は帰って硝子戸ガラスどの中に坐って、まだ死なずにいるものは、自分とあの床屋の亭主だけのような気がした。

二番目の兄 漱石の兄弟は大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直矩)、久吉(3歳で死亡)の4兄と、さわ、ふさの異母姉、ちか(1歳で死亡)の姉がいました。二番目の兄は栄之助です。大一と栄之助の2人の兄は漱石21歳の時に結核で死亡します。栄之助は漱石の10歳年上です。
庄さん 福田庄兵衛。漱石の従兄で姉婿で、芸者屋「吾妻屋」の旦那です。これは夏目伸六氏の『父・夏目漱石』「漱石の母とその里」に出ています。
芸者 昔は神楽坂は芸者がいっぱいにいました。
竹格子 細竹を組み合わせて作った格子
小倉 「小倉織り」。良質で丈夫な木綿布
例の達人 漱石全集(岩波書店)によれば、「太田(おおた)達人(たつと)。慶応2(1866)~昭和20(1945)年。漱石と達人は明治16年成立学舎で同期となり、17年に大学予備門に入学した。達人は岩手県盛岡生まれ。帝国大学理科大学物理学科卒」と書かれています。
芝の山内の勧工場 勧工場は建物1棟に種々の商品を陳列、販売した所。明治政府から芝の山内全域が芝公園と指定され、東の平地には勧工場(下図)ができました。現在の港区役所と共立薬科大学を併せた巨大な敷地でした、勧工場は明治20~30年代にかけ全盛期を迎えます。しかし、「勧工場もの」という言葉が、安物の代名詞とし広がり始めると、大正3年(1914)にはわずか5か所にまで減り、衰退していきます。かわって高級品を扱うデパートがでてきます。芝公園勧工場
浦塩 ウラジオ。ロシアの日本海岸にあるウラジオストクのことで、日本の札幌市とほぼ同緯度。もとは日本人の居留人が多いところでした。

神楽坂 作家と文化人

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漱石と『硝子戸の中』19

文学と神楽坂

十九

私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、そのじつ小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、さびってかつさむしく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引しゅびきうちか朱引外か分らない辺鄙へんぴすみの方にあったに違ないのである。

馬場下 馬場下町で、東京都新宿区の町名です
宿場 江戸時代、街道の要所要所にあり、旅行者の宿泊・休息で宿屋・茶屋や、人馬の継ぎ立てをする設備をもった所。
高田の馬場 東京都新宿区の町名
朱引 江戸の図面に朱線を引いて、府内(江戸市内)と府外(郡部)を分けたもの。朱引内は江戸の管轄内、朱引外は管轄外です。馬場下はかろうじて朱引内(江戸市内)になっています(図)。一方、高田の馬場は朱引外です。

馬場下

それでも内蔵くらづくりうちが狭い町内に三四軒はあつたろう。坂をあがると、右側に見える近江屋伝兵衛おうみやでんべえという薬種屋やくしゅやなどはその一つであった。それから坂をった所に、間口の広い小倉屋こくらやという酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛ほりべやすべえが高田の馬場でかたきを打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒ますざけを飲んで行ったという履歴のある家柄いえがらであった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるといううわさの安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北おきたさんの長唄ながうたは何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私のうちの玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過ひるすぎなどに、私はよく恍惚うっとりとした魂を、うららかな光に包みながら、御北さんの御浚おさらいを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身をたせて、佇立たたずんでいた事がある。その御蔭おかげで私はとうとう「旅のころも篠懸すずかけの」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。
近江屋 『吾輩は猫である』第7章でも「近江屋」は登場します。『猫』に出てくる爺さんの言葉を引用すると…

「ゆうべ、近江屋おうみやへ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。あの戸のくぐりの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずにんだげな。御巡おまわりさんか夜番でも見えたものであろう」とおおいに泥棒の無謀を憫笑びんしょうした」
御北さん 『草枕』では「御倉さん」として登場します。

小供の時分、門前に万屋よろずやと云う酒屋があって、そこに御倉おくらさんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚おさらいをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前にひかえて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松はまわり一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好かっこうを形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠かなどうろうが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺かたくなじじいのようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、こけ深き地をいて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、ひとり匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかにひざるるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠をにらめて、この草のいで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。

内蔵造 土蔵づくりの家。土蔵のように家の四面を土や漆喰で塗った家屋。倉のように四面を壁で作った家屋。
薬種屋 薬を調合・販売する店。平成21年施行の改正薬事法で登録販売者制度が創設し、薬種商制度は廃止に。
小倉屋 延宝4年(1678年)、初代小倉屋半右衛門が牛込馬場下の辻で開業。元禄7年(1694年)、二代目半右衛門の頃、堀部安兵衛は高田馬場の決闘の前に、小倉屋に立ち寄り升酒を飲みました。
渡辺翠氏の「高田馬場の仇討」では、江戸時代、米の酒は奈良でしか作られず、江戸では1升3万円かかったそうで(若松地域センター「地域誌 このまちに暮らして」平成9年)、芋酒を飲んだといいます。またこの升は現在まで帛紗に包まれて貸金庫に保管されているそうです。
倉造り 土蔵づくりの家。内蔵造と同じ。
堀部安兵衛 赤穂事件四十七士のひとり。
枡酒 枡に盛って売る酒
長唄 古典的な三味線歌曲
篠懸 修験者(しゅげんじゃ)が衣服の上に着る麻の法衣。この文言は長唄「勧進帳」の歌い出しです。

このほかには棒屋が一軒あった。それから鍛冶屋かじやも一軒あった。少し八幡坂はちまんざかの方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃもあった。私の家のものは、そこの主人を、問屋とんやの仙太郎さんと呼んでいた。仙太郎さんは何でも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、交際つきあいからいうと、まるで疎濶そかつであった。往来で行き会う時だけ、「好い御天気で」などと声をかけるくらいの間柄あいだがらに過ぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水ていすいと好い仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事も人聞ひとぎきに聞いて覚えてはいるが、まとまった記憶は今頭のどこにも残っていない。小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、矢立やたてと帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢の好い声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方がよっぽど面白かった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度にげて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじ、、、だのがれん、、、だのという符徴ふちょうを、ののしるように呼び上げるうちに、しょうが茄子なすとう茄子のかごが、それらの節太ふしぶとの手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。

八幡坂

棒屋 樫材の木工品を作る家。臼、まな板のみならず、大型水車や荷車も作りました。木工品ならなんでもつくったようです。
鍛冶屋 金属を打ち鍛え、諸種の器具をつくることを仕事とする人
八幡坂 高田町の坂。馬場下町から西北に向かいます。西に穴八幡神社があります。下は馬場下町と穴八幡幡神社を地下鉄早稲田駅前から見たものです。八幡坂
やっちゃ場 青物市場のこと。「大言海」(昭和7-10年)によれば「やっちゃば」は「やさいいちば」から訛ったものではないかという。
貞水 講釈師真龍斎貞水のこと

矢立 矢立(すずり)と筆を一つの容器におさめた筆記用具。
ろんじ 六の合い言葉
がれん 五の合い言葉

 どんな田舎いなかへ行ってもありがちな豆腐屋とうふやは無論あった。その豆腐屋には油のにおいんだ縄暖簾なわのれんがかかっていて門口かどぐちを流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗きれいだった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺せいかんじという寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門のうしろは、深い竹藪たけやぶで一面におおわれているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤おつとめかねは、今でも私の耳に残っている。ことにきりの多い秋から木枯こがらしの吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくてつめたい或物をたたき込むように小さい私の気分を寒くした。
豆腐屋

『二百十日』では圭さんの幼時の経験として出てきます。

「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒豆腐屋とうふやがあってね」
「豆腐屋があって?」
「豆腐屋があって、その豆腐屋のかどから一丁ばかり爪先上つまさきあがりに上がると寒磬寺かんけいじと云う御寺があってね。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だかかねたたく」(中略)
「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆をうすく音がする。ざあざあと豆腐の水をえる音がする」
しょう 鉦中国・日本・東南アジアなどで用いられる打楽器。銅や銅合金製の平たい円盤状で、撞木しゅもくばちで打ちます。カンカンと鳴るようです。 

ふたたび『二百十日』の圭さんの幼時の経験です。

「豆腐屋があって、その豆腐屋のかどから一丁ばかり爪先上つまさきあがりに上がると寒磬寺かんけいじと云う御寺があってね」
「寒磬寺と云う御寺がある?」
「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ大竹藪おおたけやぶばかり見えて、本堂も庫裏くりもないようだ。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だかかねたたく」
「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」
「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でかんかんとかすかに敲くのさ。冬の朝なんぞ、しもが強く降って、布団ふとんのなかで世の中の寒さを一二寸の厚さにさえぎって聞いていると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分らない。僕は寺の前を通るたびに、長い石甃いしだたみと、倒れかかった山門さんもんと、山門をうずめ尽くすほどな大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかをのぞいた事がない。ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具のうち海老えびのようになるのさ」
「海老のようになるって?」
「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」

縄暖簾 縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。転じて、居酒屋・一膳飯屋などのこと。
門口 家や門の出入り口
西閑寺 喜久井町にある誓閑寺のこと。今では小さな小さな寺になっています。誓閑寺の梵鐘は天和2年(1682)製作。区内最古の梵鐘です。文化財は2つあります。
御勤 おつとめ。御勤め。仏前で読経すること。勤行ごんぎよう

誓閑寺

漱石と『硝子戸の中』

 

神楽坂 作家と文化人

漱石と『硝子戸の中』20|矢来町

文学と神楽坂

      二十

この豆腐屋の隣に寄席よせが一軒あったのを、私は夢幻ゆめうつつのようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場ひとよせばのあろうはずがないというのが、私の記憶にかすみをかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。
 その席亭の主人あるじというのは、町内の鳶頭とびがしらで、時々目暗縞めくらじまの腹掛に赤いすじの入った印袢纏しるしばんてんを着て、突っかけ草履ぞうりか何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤おふじさんという娘があって、その人の容色きりょうがよくうちのものの口にのぼった事も、まだ私の記憶を離れずにいる。のちには養子を貰ったが、それが口髭くちひげやした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
 この養子が来る時分には、もう寄席よせもやめて、しもうたになっていたようであるが、私はそこのうちの軒先にまだ薄暗い看板がさむしそうにかかっていた頃、よく母から小遣こづかいを貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟なんりんとかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男のうちはどこにあったか知らないが、どの見当けんとうから歩いて来るにしても、道普請みちぶしんができて、家並いえなみそろった今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像をたくましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし 花魁おいらんえ、と云われてはしなんざますえとふり返る、途端とたんに切り込むやいばの光」という変な文句は、私がその時分南麟からおすわったのか、それともあとになって落語家はなしかのやる講釈師真似まねから覚えたのか、今では混雑してよく分らない。

人寄場 日雇い労働の求人業者と求職者が多数集まる場所のこと。
鳶頭 土木・建築工事に従事する人の長、かしらです。明治以降も消防職員の俗称として使われました。
目暗縞 経糸緯糸とも紺染めにした最も細かい綿糸で織った無地の木綿の織物です。
印袢纏 襟・背などに,家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から,職人などが着用しました。
めくらじまと半纏 
突っかけ草履 草履を足の指先にひっかけるようにして無造作に履くこと。
しもうた屋 仕舞た屋 (シモタヤ)と同じ。商店でない、普通の家。
南麟 講釈師の田辺南麟
見当 大体の方向・方角
道普請 道路を直したり、建設したりすること。道路工事
家並 よその家と同じ程度。世間なみ。
もうし 申し申し。もうしもうし。人に呼びかける時に用いる語。もしもし。
花魁 吉原遊廓の遊女で最高妓。広く遊女一般を指して花魁ということもある。
八ツ橋 元禄年間(1688~1704)百姓次郎左衛門が吉原の花魁・八ツ橋を殺した事件があった。多くの講談や戯曲になった。岩波書店の漱石全集によれば、「野州(栃木県)佐野の百姓次郎左衛門が江戸吉原大兵庫屋の花魁ハツ橋を殺害した江戸享保頃の事件は、『佐野八ツ橋』と称されて多くの小説や戯曲に作られた。ここで述べられているのは、その話を講談に仕組んだもの。歌舞伎脚本『籠釣瓶(かごつるべ)花街(さとの)酔醒(ゑひざめ)』(三世河竹新七作。明治二十一年初演)が有名。」
講釈師 軍談や講談の講釈を職業とする人。講談師。軍談師。小さな机の前に座り、張り扇でそれを叩いて調子を取りつつ、主に歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げること

当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠ちゃばたけとか、竹藪たけやぶとかまたは長い田圃路たんぼみちとかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂かぐらざかまで出る例になっていたので、そうした必要にらされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来やらいの坂あがって酒井様の見櫓みやぐらを通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森いんしんとして、大空が曇ったように始終しじゅう薄暗かった。

寺町 「とおり寺町」と「横寺町」の2つをまとめて呼びます。ただし、通寺町を簡易にして寺町と書く場合もあったようです。自身番屋を越えると、まっすぐだと通寺町から神楽坂に行き、右に曲がると横寺町です。漱石の時代では通寺町ですが、今では通寺町は神楽坂6丁目に名前が変わっています。なお、自身番屋の左側は「矢来町」、右側は「通寺町」です。

矢来の坂

 もちろん、牛込天神町交差点から東に上がって南に牛込中央通りがでるまでの通りですが、ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』では違ったことが書いてあります。

滝の坂(たきのさか) 早稲田通から榎町四〇と四一番の間を南に上る坂で、坂上東に浄土宗大願寺がある。現矢来町一帯は、江戸時代は小浜藩主酒井氏の邸地で、明治維新後に分譲されて住宅地帯となった。……矢来の坂というのは現早稲田通りのことではなく、この滝の坂のことであったといわれ、酒井邸がまだ分譲されない明治初年のこのあたりの情景であった。

しかし、子供の漱石が「矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出よう」とする場合、滝の坂だとすると方向は全く違います。やはり矢来の坂というのは現早稲田通り、交差点「牛込天神町」の坂のことでしょう。これから上に行って酒井様の火の見櫓を通るのでしょう。

矢来町 歴史 江戸時代
交差点「牛込天神町」

酒井様の火の見櫓  どこにあったのでしょうか。江戸時代の地図(上を見て下さい)を見ると、まず穴あき四角で書いたものは「自身番屋」です。自身番は町内警備と火の番を主な役割としています。火の見櫓もここに建てました。その後の文章で「町の曲り角に高い梯子が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった」を読んでも、ここ「自身番屋」でしかありません。自身番屋は末寺横丁と矢来下の交叉するところにありました。
五六町の一筋道

5町は545メートル、6町は655メートルです。交差点「牛込天神町」から真っ直ぐ行って曲がるまで、つまり音楽の友ホールの前で曲がるまで、約470メートルです。現在は早稲田通りの道幅は大きくなって、さんさんと太陽が照り、陰惨ではないでしょう。しかし、芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社)ではこう書いています。

酒井邸あたりは薄暗く、屋敷の横手には大樹のモミ並木があった。江戸市中では化け物が出るといわれた場所がたくさんあったか、特に矢来は有名で、「化け物を見たければ矢来のモミ並木へ行け」とまでいわれたほどである。
 明治になっても矢来は薄暗く、作家武田仰天子は、「夜の矢来」(「文芸界」、明治三十五年九月定期増刊号)につぎのように書いている。
 “樹木の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。矢来町を夜籟町と書換へた方が適当でせう。何しろ栗や杉の喬木を受けて、ざァーざァと騒ぐ様は、是が東京市かと怪しまれるほどで、町の中だとは思へません。”

矢来町 漱石 現代

あの土手の上に二抱ふたかかえ三抱みかかえもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間すきま隙間をまた大きな竹藪でふさいでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄ひよりげたなどを穿いて出ようものなら、きっと非道ひどい目にあうにきまっていた。あすこの霜融しもどけは雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭にんでいる。
 そのくらい不便な所でも火事のおそれはあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子はしごが立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋いちぜんめしやもおのずと眼先に浮かんで来る。縄暖簾なわのれんの隙間からあたたかそうな煮〆にしめにおいけむりと共に往来へ流れ出して、それが夕暮のもやけ込んで行くおもむきなども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木かなという句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。

HinomiYagura_06g4599sx日和下駄 もとは平足駄ひらあしだと呼んで、歯が低い足駄。晴天に使用された。
半鐘 火の見櫓ではよく見られる小型の釣り鐘。
一膳飯屋 一膳飯(盛り切りの飯)を食べさせる簡易食堂。
縄暖簾 縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。なわのれん。店先に縄暖簾を下げたところから、居酒屋や一膳飯屋などのこと
煮〆 にしめ。煮染め。根菜・いも類・干ししいたけ・鶏肉・高野豆腐・こんにゃくなどに、しょうゆを主に砂糖・みりんなどで味つけした煮汁をしみ込ませ、煮汁の色がつくまで時間をかけて煮た、味の濃い煮物。おせちにも使う。
 おもむき。風情(ふぜい)のある様子
半鐘と並んで高き冬木哉 明治29年(1896)の作。

漱石と『硝子戸の中』21

文学と神楽坂

二十一

私の家に関する私の記憶は、そうじてこういう風にひなびている。そうしてどこかに薄ら寒いあわれな影を宿している。だから今生き残っている兄から、つい此間こないだ、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた時には驚ろいたのである。そんな派出はでな暮しをした昔もあったのかと思うと、私はいよいよ夢のような心持になるよりほかはない。
 その頃の芝居小屋はみんな猿若町さるわかちょうにあった。電車もくるまもない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、たいていの事ではなかったらしい。姉達はみんな夜半よなかに起きて支度したくをした。途中が物騒ぶっそうだというので、用心のため、下男がきっとともをして行ったそうである。
 彼らは筑土つくどを下りて、柿の木横町から揚場あげばへ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。私は彼らがいかに予期にちた心をもって、のろのろ砲兵工厰ほうへいこうしょうの前から御茶の水を通り越して柳橋までがれつつ行っただろうと想像する。しかも彼らの道中はけっしてそこで終りを告げる訳に行かないのだから、時間に制限をおかなかったその昔がなおさら回顧の種になる。

猿若町 江戸末期の芝居町。現在の東京都台東区浅草6丁目。ここには江戸三座(中村座、市村座、森田座)を初めとして常設の芝居小屋がありました。しかし明治政府は三座に移転を勧告し、関東大震災でほぼなくなります。
浅草の観音様 東京都台東区にある浅草寺(せんそうじ)の通称
きっと 屹度、急度。話し手の決意や強い要望などを表す。確かに。必ず。
明治8年の揚場 筑土 東京都新宿区にある地名。津久戸(つくど)町なのか、または筑土(つくど)八幡町なのか、明治8年の地図のように「つく土前丁」なのか、はたまた、大まかにここいら全体を指すのでしょうか。おそらく全体を指すのでしょう。
柿の木横町 『新宿区町名誌』では「(揚場町と)下宮比町との間を俗に柿の木横町といった。この横町の外堀通りとの角に、明治時代まで柿の大樹があった。幹の周囲一メートル、高さ十メートルの巨木で、神木としてしめ繩が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る柿の美しいのを遠くからみて、賞讃したので有名になり、そのことから名づいた」
揚場 船荷を陸揚げする場所。以上を明治8年の地図を使って書いています。
砲兵工厰 陸軍造兵廠の旧称。陸軍の兵器・弾薬・器具・材料などを製造・修理した軍需工場。東京砲兵工厰は広大な土地を所有し、高速道路の飯田橋を越えたところから、白山通りの水道橋交差点まで川から見えるものはすべて砲兵工厰でした。このなかには小石川後楽園もはいっていました。しかし一般には公開されず、国家的な慶事の場合や、公的な園遊会の場合にのみ使っていました。1935年(昭和10年)10月、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は後楽園球場となりました。 砲兵工厰
御茶の水 東京都千代田区北部(神田駿河台)から文京区南東部(湯島)にかけての地名。行政名ではありません
柳橋 東京都台東区南東部の地名。柳橋はAで書いてあります。ようやく船の中間地点になったのです。柳橋は船宿があり、芸者町でもありました。
全行程

大川へ出た船は、流をさかのぼって吾妻橋あずまばしを通り抜けて、今戸いまど有明楼ゆうめいろうそばに着けたものだという。姉達はそこからあがって芝居茶屋まで歩いて、それからようやく設けの席につくべく、小屋へ送られて行く。設けの席というのは必ず高土間たかどまに限られていた。これは彼らの服装なりなり顔なり、髪飾なりが、一般の眼によく着く便利のいい場所なので、派出を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。

大川 東京都を流れる隅田川で吾妻橋から下流の通称
吾妻橋 隅田川に架かる橋のひとつ
今戸 東京都台東区北東部の地名。隅田川西岸の船着き場として栄えました。
浅草猿若町有明楼 今戸橋のたもとにありました。成島柳北『柳橋新誌』では

   江戸の開府以来、都下の名妓で容色は絶倫、技芸にも通ぜざるなく、名を草紙紙に伝え、跡を芝居に残すものは数知れぬほど多い。しかし、現今はしからず、一統みな拮抗して、一人として群を越えて抜きんでた女人がいない。 強いて一人を挙げてみれば、両国橋東のお菊といえようか。かれに傾国の容色、絶世の技芸があるわけではない。かよわい女手で隅田川の西に宏大な料亭を営み、扁額をあげて有明楼という。有明楼の名は都下に鳴り響いている。豪興の士も風流の客も、この楼閣に遊ばぬものはない。

芝居茶屋 江戸から明治・大正期まで劇場付近で観劇客に各種の便宜を供した施設。江戸の芝居見物は早朝から夜までかかり幕間も長く、快適な観劇を望む客は多く茶屋を利用しました。また桟敷などで観劇するためには茶屋を通すほかなかったといいます。芝居茶屋の構造は2階建て。軒にのれん,提灯がかかり,内部の座敷が表から見える造りになっています。観劇のため早朝芝居茶屋に到着した客は休憩後茶屋の草履をはき劇場の桟敷席に案内しました。<
高土間 観客席が(ます)形式の時代の劇場では1階の東西桟敷の前通りに、土間より一段高く設けられた席。

幕の間には役者にいている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいましと云って案内に来る。すると姉達はこの縮緬ちりめんの模様のある着物の上にはかま穿いた男のあといて、田之助たのすけとか訥升とっしょうとかいう贔屓ひいきの役者の部屋へ行って、扇子せんすなどをいて貰って帰ってくる。これが彼らの見栄みえだったのだろう。そうしてその見栄は金の力でなければ買えなかったのである。
 帰りにはもと来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。無要心ぶようじんだからと云って、下男がまた提灯ちょうちんけてむかえに行く。うちへ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。だから夜半よなかから夜半までかかって彼らはようやく芝居を見る事ができたのである。……
 こんな華麗はなやかな話を聞くと、私ははたしてそれが自分の宅に起った事か知らんと疑いたくなる。どこか下町の富裕な町家の昔を語られたような気もする。
 もっとも私の家も侍分さむらいぶんではなかった。派出はで付合つきあいをしなければならない名主なぬしという町人であった。私の知っている父は、禿頭はげあたまじいさんであったが、若い時分には、一中節いっちゅうぶしを習ったり、馴染なじみの女に縮緬ちりめん積夜具つみやぐをしてやったりしたのだそうである。青山に田地でんちがあって、そこから上って来る米だけでも、うちのものが食うには不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三番目の兄などは、その米をく音を始終しじゅう聞いたと云っている。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄関げんか玄関ととなえていた。その時分の私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、式台のついたいかめしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。その式台を上った所に、突棒つくぼうや、袖搦そでがらみ刺股さつまたや、また古ぼけた馬上ばじょう提灯などが、並んでけてあった昔なら、私でもまだ覚えている。

ちりめん田之助 三代目沢村田之助。歌舞伎俳優。1845~78年。人気役者でした。
訥升 三代目沢村訥升。歌舞伎俳優。1838~86年。
侍分 武士階級
名主 領主の下で村政を担当した村の長。身分は百姓だが、在地有力者が多い
一中節 三味線の一流派。浄瑠璃節の一種。
縮緬 表面に細かいしぼ(凹凸)のある絹織物
式台1積夜具 遊郭で、馴染(なじみ)客から遊女に贈られた新調の夜具を店先に積んで飾ったもの
三番目の兄 直矩(なおたか)です。9歳年上。捕具
式台 玄関先に設けた板敷きの部分
玄関付の家 江戸時代、町人階級では名主だけが玄関を作ることを許されていた。
突棒、袖搦、刺股 捕手(とりて)が下手人を捕らえるために使った3つ道具。捕具
馬上提灯上提灯 乗馬で使う提灯。丸形で、腰に差すように長い柄がある

矢来屋敷 矢来公園 石畳と赤城坂[昔] 駒坂 瓢箪坂 白銀公園 一水寮 相生坂 成金横丁の店 魚浅 朝日坂 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁 寺内公園 神楽坂5丁目 4丁目 3丁目
神楽坂の通りと坂に戻る

漱石と『硝子戸の中』23

文学と神楽坂

二十三

今私の住んでいる近所に喜久井町きくいちょうという町がある。これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知っている。けれども私が家を出て、方々漂浪ひょうろうして帰って来た時には、その喜久井町がだいぶ広がって、いつの間にか根来ねごろの方まで延びていた。
 私に縁故の深いこの町の名は、あまり聞き慣れて育ったせいか、ちっとも私の過去を誘い出すなつかしい響を私に与えてくれない。しかし書斎にひとり坐って、頬杖ほおづえを突いたまま、流れを下る舟のように、心を自由に遊ばせておくと、時々私の聯想れんそうが、喜久井町の四字にぱたりと出会ったなり、そこでしばらく彽徊(ていかい)し始める事がある。

私の生れた所 酒店・小倉屋を南東に向かって歩くとすぐに「夏目漱石誕生之地」の石碑があります。
漂浪 さまよいあるくこと。放浪
縁故 えんこ。血縁や姻戚などによるつながり。人と人とのつながり。よしみ。縁
彽徊 一つの事をつきつめて考えずに、余裕のある態度でいろいろと思考すること。

喜久井町 東京都新宿区の町名。新宿区ではかなり大きな町で、早稲田から柳町に行く場所のほぼ半分を占めています。昭和22年の地図で見れば、右下は「市谷柳町」で、それから左上に行くと、「原町」の「1丁目」、「辨天町」(現在は弁天町)があり、その上に「喜久井町」、夏目坂を通り、「馬場下町」、それから「高田町」に行きます。なお、現在は「高田町」はありません。

喜久井町

根来 江戸時代には弁天町と原町1丁目の代わりに根来町があり、そこには根来組という先手組屋敷があり幕府の鉄砲隊の1つでした。現在は新宿区弁天町と原町1丁目の一部で、南東部にあります。これは江戸末期の牛込弁財町絵図です。

根来町

この町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっとのちになってからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父がこしらえたものに相違ないのである。
 私の家の定紋じょうもん井桁いげたに菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものからおすわったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。父は名主なぬしがなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、あるいはそんな自由もいたかも知れないが、それをほこりにした彼の虚栄心を、今になって考えて見ると、いやな心持はくに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。
 父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。

井桁に菊井桁に菊 右図を

夏目坂  坂の下は早稲田通りと交わる点です。早稲田通りは都道なので、区道はそこで終わりです。

夏目坂通り
 では、坂の上は? まず区はどういっているのでしょうか。残念ながら区は「夏目坂通り」についてしかいっておらず、「夏目坂」についてはなにもいっていません。ちなみに「夏目坂通り」はここから南の若松町交差点にいたる坂道をいっています。しかし、昔の「夏目坂通り」を見ると通りの幅は狭く、途中で90度も曲がっています。

M18-20s

   結局、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』の図が最もいいのでしょう。これは、夏目坂通りが南に流れを変えるその地点、三叉点までを夏目坂とするものです。はい。
しかし、まあ、夏目坂の上をはっきり言うなんて困難なのです。坂は正確にどこで、どうやって終わるのか、わかりません。

 なお、夏目坂について標柱があり、説明もあります。

夏目坂 夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名付けて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ、地図にものるようになった。
私が早稲田わせだに帰って来たのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。私は今の住居すまいに移る前、うちを探す目的であったか、また遠足の帰り路であったか、久しぶりで偶然私の旧家の横へ出た。その時表から二階の古瓦ふるがわらが少し見えたので、まだ生き残っているのかしらと思ったなり、私はそのまま通り過ぎてしまった。
 早稲田に移ってから、私はまたその門前を通って見た。表からのぞくと、何だかもとと変らないような気もしたが、門には思いも寄らない下宿屋の看板がかかっていた。私は昔の早稲田田圃たんぼが見たかった。しかしそこはもう町になっていた。私は根来ねごろ茶畠ちゃばたけ竹藪たけやぶ一目ひとめ眺めたかった。しかしその痕迹こんせきはどこにも発見する事ができなかった。多分この辺だろうと推測した私の見当けんとうは、当っているのか、はずれているのか、それさえ不明であった。

早稲田田圃 この写真は早稲田の田圃と東京専門学校(のちの早稲田大学)の校舎です。
茶畠 茶の木を植えた畑。茶園

早稲田の田圃

私は茫然ぼうぜんとして佇立ちょりつした。なぜ私の家だけが過去の残骸ざんがいのごとくに存在しているのだろう。私は心のうちで、早くそれがくずれてしまえば好いのにと思った。
「時」は力であった。去年私は高田の方へ散歩したついでに、何気なくそこを通り過ぎると、私の家は綺麗きれいに取り壊されて、そのあとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。そのそばには質屋もできていた。質屋の前にまばらなかこいをして、その中に庭木が少し植えてあった。三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど畸形児きけいじのようになっていたが、どこか見覚みおぼえのあるような心持を私に起させた。むかし「(かげ)参差しんし松三本の月夜かな」とうたったのは、あるいはこの松の事ではなかったろうかと考えつつ、私はまた家に帰った。

高田 高田町は馬場下町に接してその西北部でした。 穴八幡神社があるので有名です。 先ほど見た地図は、昭和22年に製作したので、 この地図に高田町はちゃんと載っています。 1975年(昭和50年)6月、新しい住居表示の ため消滅し、現在は西早稲田二丁目の一部に なっています。
影参差松三本の月夜かな 漱石自身の俳句です。明治28年の作
参差 参差とは長短・高低入り混じり、ふぞろいな様子

三本の松

『草枕』の第七章にでてきます。

 小供の時分、門前に万屋よろずやと云う酒屋があって、そこに御倉おくらさんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚おさらいをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前にひかえて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松はまわり一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好かっこうを形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠かなどうろうが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺かたくなじじいのようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、こけ深き地をいて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、ひとり匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかにひざるるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠をにらめて、この草のいで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。

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