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浅田宗伯|夏目漱石と正宗白鳥

文学と神楽坂

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 新宿区立図書館資料室紀要の『神楽坂界隈の変遷』(新宿区立図書館、1970)の「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」には牛込横寺町に住んでいた漢方の名医、浅田宗伯あさだそうはく氏のことが出ています。まず、生年は文化12年5月22日(1815年6月29日)。享年は明治27年(1894年)3月16日でした。

 この『神楽坂界隈の変遷』では「明治になっても依然として慈姑くわい(あたま)に道服を着て、長棒の桐の駕籠(かご)に乗って診療廻りをして歩いた」そうです。この慈姑頭は、束髪ともいい、髪はクワイの芽に似ていることから付きました。江戸時代、医者などの髪の結い方で、頭髪を剃らず、すべて後頭部に束ねたものです。道服(どうふく)とは道士の着る衣服、袈裟(けさ)、僧衣で、先生は礼服である十徳という上着を着用していました。

 また、幕末には浅田宗伯は横浜駐在中のフランス公使レオン・ロッシュの治療に成功します。

 宗伯はロッシュを詳しく診察します。
 そして、左足背動脈に渋滞があるのを発見する。その渋滞は、脊柱左側に傷が原因と見極めます。
 傷の原因をロッシュに問うと、18年前に戦場で何回も落馬したことがあるという。
 で、脊椎を詳しく診ると、脊椎の陥没が2か所あるとわかった。
 この診断に基づき、宗伯が薬を調合し治療を行うと、なんと、ロッシュを苦しめたあの腰痛が、たった1週間でピタリと治ってしまったのです。

(ねずさんのひとりごと。「漢方医学と浅田宗伯」)

浅田宗伯は、徳川将軍家の典医となり、維新後には、皇室の侍医として漢方をもって診療にあたっています。漢方医の侍医は最後の医者だといいいます。
 また、浅田飴も浅田宗伯の名前から来ています。浅田飴を作った人は堀内伊三郎氏ですが、氏が「よこてらまち」では浅田宗伯の駕篭かき(浅田飴によると書生)をしていたそうです。浅田から水飴の処方を譲り受けて、浅田飴を売り出しました。
「よこてらまち」(新宿区横寺町交友会 今昔史編集委員会、2000年)でも浅田宗伯のことは半ページだけですが出ています。

 横寺町には明治四年(一八七一年)から大正十三年頃まで、現在の英検(旧旺文社本社)敷地の東端付近、五十三番地に住んでいた。
 宗伯は容貌魁偉で酒好きであったが、医業の傍ら医学医史、史学、詩文等数多くの書を著わしたが、浅田家ではその散佚を恐れ、一括して東大図書館に寄贈した。また宗伯は幕府時代から千両医者としての名声があり、明治四年(一八七一年)五十七歳のとき、牛込横寺町に移って以来診察治療を請負う者が引きも切らず、浅田邸付近は順番待ちの患者が休む掛け茶屋が幾軒もできたとのことである。漢洋医競合の時勢のなかで宗伯は塾を開いて門弟の養成にも力を尽くした。
 ところで浅田宗伯と浅田飴とのことであるが、浅田飴の製造元の堀内家は、長野県上伊那郡青島村の出身で、明治十九年四代伊三郎のとき家は破産し、夫婦で上京、伊三郎は浅田家の駕篭かきとなり、妻は青物売りをしていたが、宗伯はこれを励まして金と三種類の薬の処方を与えて独立させた。その処方のひとつが「御薬さらし飴」である。夫婦は水飴製造販売に全力を注ぎ、明治二十二年神田鍋町に浅田飴本舗を構えたのが起こりである。

散佚 さんいつ。散逸。まとまっていた書物・収集物などが、ばらばらになって行方がわからなくなること。散失。
掛け茶屋 道端などに、よしずなどをかけて簡単に造った茶屋。茶店。

 この「御薬さらし飴」こそが後の「浅田飴」になっていきます。
 夏目漱石氏は「吾輩は猫である」の中でこう書いています。

 主人の小供のときに牛込の山伏町浅田宗伯あさだそうはくと云う漢法の名医があったが、この老人が病家を見舞うときには必ずに乗ってそろりそろりと参られたそうだ。ところが宗伯老が亡くなられてその養子の代になったら、がたちまち人力車に変じた。だから養子が死んでそのまた養子が跡をいだら葛根湯かっこんとうアンチピリンに化けるかも知れない。に乗って東京市中を練りあるくのは宗伯老の当時ですらあまり見っともいいものでは無かった。こんな真似をしてすましていたものは旧弊亡者もうじゃと、汽車へ積み込まれる豚と、宗伯老とのみであった。
 主人のもその振わざる事においては宗伯老のと一般で、はたから見ると気の毒なくらいだが、漢法医にも劣らざる頑固がんこな主人は依然として孤城落日を天下に曝露ばくろしつつ毎日登校してリードルを教えている。

山伏町 新宿区の東部に位置する町名。全体としては主に住宅地として利用する。浅田宗伯は山伏町に住んではいない。
葛根湯 かっこんとう。主要な活性成分は、エフェドリンとプソイドエフェドリン。発汗作用を強め、また鎮痛作用があるという
アンチピリン 最初のすぐれた合成解熱薬。 内服でアンチピリンしん(ピリン疹)という皮膚疹を起こすことがあり、現在は使わない。
旧弊 古い考え方やしきたりにとらわれている状態
亡者 金銭や色欲などの執念にとりつかれている人
孤城落日 こじょうらくじつ。孤立無援の城と、西に傾く落日。勢いが衰えて、頼りないこと
リードル reader。リーダー。読本。アルファベットの習得と単語の発音から、さらに初等教育課程・中等教育課程を教えた。

 かごについては、薬箱を持たせた供を連れて歩く医者と、より格式があり、駕籠を使用する乗物医者に分けられたようです。駕籠は町奉行から許可を得た御免駕籠でした。
 正宗白鳥氏が書いた「神楽坂今昔」には、氏が大学生になって、初めての春、こんな体験をしています。

 馴れない土地の生活が身體に障つたのか、熱が出たり、腸胃が痛んだり、或ひは脚氣のやうな病狀を呈したりした。それで近所の醫師に診て貰つてゐたが、或る人の勸めにより、淺田宗伯といふ當時有名であつた漢方醫の診察をも受けた。その醫者の家は、紅葉山人邸宅の前を通つて、横寺町から次の町へうつる、曲り角にあつたと記憶してゐる。見ただけでは若い西洋醫者よりも信賴されさうな風貌を具え、診察振りも威厳があつた。生れ故郷の或る漢方醫は私の文明振りの養生法を聞いて、「牛乳や卵を飮むやうぢや日本人の身體にようない。米の飯に魚をうんと食べなさい。」と云つてゐたものだ。
 淺田宗伯老の藥はあまり利かなかつたようだが、「米の飯に魚をくらへ」と云つた田舎醫者の言葉は身にしみて思ひ出された。

 住んだ場所は『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち』によれば、横寺町53番地でした。昭和12年の「火災保険特殊地図」で赤い中央は「浅田医院」になっています。左上は52で、つまり横寺町52番地では、といぶかるのも当然ですが、いつの間に変わったのか、分かりません。それとも、となりの家(桃色)が53なので、53は外来だったのでしょうか。あるいは、『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち』が単に間違ったのでしょうか。明治20年の地図も浅田宗伯邸がでていますが、番号はわかりません。

浅田医院
「よこてらまち」では「浅田医院」は現「あさひ児童遊園」だと描いています。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、ここは赤色の横寺町52番地でした。CCF20130810_000305


2014/11/18→2019/7/1

文学と神楽坂

宇野浩二と神楽坂

文学と神楽坂

宇野浩二2 宇野(うの)浩二(こうじ)氏は私小説が有名な作家ですが、他の文学作品の切れ味はすごく、芥川賞の審査員にもなっていました。また氏も神楽坂界隈に住んでいた時期があります。昭和17年8月、51歳のときに『文学の三十年』を書き、そこで、明治44年3月(数え年で21歳、満年齢では19歳)には、白銀町の()(づき)という下宿に住んだことを書いています。

雑司ヶ谷の茶畑の中の一軒家で、一人で自炊しながら、寒い冬を越して、翌年の三月頃、私は、牛込白銀(しろがね)の素人下宿に引っ越した。明治四十四年、私が二十一歳の年である。今の電車の道で云えば、築土八幡前の停留所を出て暫く行くと、肴町の方へ殆ど直角に曲る角がある。あの角を、電車の道の方へ曲らずに、赤城神社へ出る方へ行って、すぐ左に曲った所に、その素人下宿があった。その素人下宿は、大きな家で、間取(まど)りもよく、部屋も大きく、部屋の中の造作(ぞうさく)も整っていた上に、中二階まであった。そうして、その中二階には三上於菟吉が陣取っていた。それから、母屋の二階には、竹田敏彦の同級の、今は「サンデー毎日」の編輯長で収まっている、大竹憲太郎や、泉鏡花の弟の泉斜汀夫婦や、えたいの知れない四十歳ぐらいの一人者などがいた。そうして、その風変りな素人下宿には、前の章に書いた、三富朽葉今井白楊浦田芳朗、(前の章では、大阪毎日新聞社の機械部艮、と書いたが、この快兼怪漢は、その後、大阪毎日新聞社名古屋総局長になり、今は、京都日日新聞社長になっている、)その他がしばしば現れた。

牛込白銀町 明治44年6月以前は「牛込白銀町」、以降は「白銀町」です。下の青く描いた多角形は「白銀町」です。この中に氏の下宿がありました。
下宿 かつての路面電車を停留場①「筑土八幡前」で降ると、そのまま進み、②道はY字に分かれます。左側に行くと停留場「肴町」に着き、右側を行くと赤城神社につながります。「赤城神社へ出る方へ行って、③すぐ左に曲った所に、その素人下宿があった」ので、おそらくこのどこかでしょう。

昭和5年の地図

昭和5年の「市区改正番地入 牛込区全図」の1部

造作 構造部以外で大工職が作る部分。木造建築では天井、床、階段、建具枠、床の間、押入れなど。
竹田敏彦 たけだとしひこ。生年は1891(明治24)年7月15日。没年は1961(昭和36)年11月15日。劇作家、小説家。早稲田大学英文科中退。「大阪毎日新聞」記者をへて、1924年新国劇に入り、文芸部長に。のちに小説家。1936年業績全般で直木賞候補。
大竹憲太郎 新しい情報はなく本文の通りで、当時は「サンデー毎日」の編輯長
三富朽葉 みとみきゅうよう。生年は1889(明治22)年8月14日。没年は1917(大正6)年8月2日。詩人。早稲田大学英文科卒業。自由詩社同人。自由詩風で認められ、またフランス文学批評も。犬吠埼君ヶ浜で溺れた今井白楊を助けようとしてそのまま水死。
今井白楊 いまいはくよう。生年は1889(明治22)年12月3日。没年は1917(大正6)年8月2日。詩人。早稲田大学英文科卒業。1909年、自由詩社に参加。1917年、千葉県犬吠埼で遊泳中に親友三富朽葉とともに溺死。そのために単行本になった詩集はない。
浦田芳朗 うらたよしろう。大正15年、『南米ブラジル渡航案内』の筆者(大阪毎日新聞社)。その後、大阪毎日新聞社名古屋総局長になり、この時は京都日日新聞の社長。

 本文ではもう少し下宿の都築を紹介しています。

この素人下宿(()(づき)という名)の事を少しくだくだしく書いたのは、この都築には、前にも述べたことがあるが、当時、『別れた妻』に別れたばかりの、赤城神社の境内の下宿に住んでいた、近松秋江が毎日ほど現れたり、この都築にいた頃、三上が、その道の猛者になる下地を初めて作ったり、したからである。又、この都築にしばしば現れた、三富、今井、浦田、という、三人の、それぞれ形は違うが、颯爽とした青年の中で、三富と今井は、十九世紀のフランスの象徴派の詩人の故事を真似て、『薄命詩人会』と称する会を作り、「象徴」という雑誌まで創刊し有為な豊富な才能を持ちながら、その頃から十年も立たないうちに、大正六年八月二日、僅か二十九歳で、犬吠岬で水泳中に溺死する、という運命を持ち、私に、(ほの)かな恋愛小説を作って一世を風靡したことのある水野葉舟を紹介したり、レエルモントフの『現代の英雄』の英訳を貸してくれたり、しているうちに、いつの間にか政治運動に這入った、というような浦田が、浦田流の生活を押し切って、壮健に生きている、という、そういう私だけに悲しくも面白くもある事が都築と共に思い出されるからである。

その道の猛者(もさ) 猛者とは「力のすぐれた勇猛な人。荒っぽい人」。「その道」ははっきりしないが、ウィキペディアでは「流行作家時代の三上は放蕩、浪費し、作品のほとんどを待合で書いた」としている。待合とは芸妓との遊興や飲食を目的とする風俗業態。
象徴派 1870年頃、自然主義などの反動としてフランスとベルギーの文学芸術運動。象徴派は事物を忠実には描かず、主観を強調し,外界の写実的描写よりも内面世界を表現する立場。サンボリスム。シンボリズム
水野葉舟 みずのようしゅう。生年は1883(明治16)年4月9日。没年は1947(昭和22)年2月2日。詩人、歌人、小説家、心霊現象研究者。
レエルモントフ ミハイル・レールモントフ。Михаи́л Ю́рьевич Ле́рмонтов。1814年10月15日~41年7月27日。帝政ロシアの詩人、作家

疑惑|近松秋江

文学と神楽坂

近松秋江全集 第一巻。

 何か面白いことはないかと図書館で調べると、中谷吉隆氏の『神楽坂Story』(清流出版、2006年)に「神楽坂界隈が登場する明治・大正文学作品」がありました。明治、大正で神楽坂界隈を描く文学作品をリストでまとめたものです。中に近松秋江氏の小説、『疑惑』がすごい。なんと『疑惑』の中に赤城、赤城元町、矢来町、神楽坂の文言がきちんとはいっているのです。図書館で『近松秋江全集 第一巻』を借りて、調べてみました。『近松秋江全集 第一巻』の本はこの通り、典雅な、上品な本です。

 では本の内容は。ううううむ。近松氏が書いた『別れたる妻に送る手紙』と全く同じ内容で、明治44年に別れた妻を捜す小説です。初版は大正2年。若い男性の篠田が妻と一緒に駆け落ちして、日光に行き、それを発見し、恨み言がこれでもかこれでもかと出てくる小説でした。しかも、ひとつひとつの土地の言葉は、ほんの一語ぐらいしか出てきません。なお、下の最後の文章は妻が喋る文章です。

 日光に行く旅費としてまた五円の金を拵へるに、頭が全然(すつかり)疲れて乱れ
てゐるから、三日も四日も掛つて僅かに十枚ばかりのつまらぬ物を書い
て、それで懇意な本屋の主人に拝むように言つて貸して貰った。
 さうしてそれを借りると、直ぐその足で、神楽阪の雑誌屋の店頭(みせさき)で旅
行案内を繰つて見て、上野のステーションに行つて、三時何十分かの汽
車に乗つた。それは五月の四日だつた。

 遣る瀬のない涙が(まなこ)(にじ)んだ。それでも私は、『草を分けても探し
出さずに置くものか。』と矢来の婆さんの処で、何度も歯を喰ひしばつ
た決心を、夕暮方の寒さと共に、ます〳〵強く胸に引締めて、宿屋に着
いて、夕飯を済ますと、すぐ(日光)警察署に行つた。

 その通り手帳に写し取らうと思つて尚ほよく見ると、宿処といふ処に、
『東京牛込区若松町何百何十何番地』
と書いて、二人一(ところ)にゐたらしい。見るに付け〳〵残念で堪らない。

 若松町にゐた時分のことが思はれてならぬ。篠田の奴二十(はたち)や二十一の
癖に、ひどい、酒の好きな奴だつた。
『こんな大きな家に入つて、詰らない。赤城で拾円の家賃さへ困つてゐ
たのに、貴下月々出来ますか。もう此度私に借金の言ひ訳をさしたら、
私はもう貴下の処にはゐませんよ。』



 ある地域を巡って回想や思い出などを一杯にして話す小説や随筆もあります。しかし、その地域の名前は出るけれどまたたく間に消えるものもあります。これも後者の方で、「神楽坂」を「上野」や「新宿」に変えても何の問題もありません。

 なお、若松町はとてもとても大きな場所です。何度か町や村の合併を繰り返し、女子医大など含む巨大な町になっていったようです。戦時中では陸軍が大きな場所を占めていました。下の図は若松町です。若松町

文学と神楽坂

わが自然と人生|中村武羅夫

文学と神楽坂

中村武羅夫 昭和10年、中村武羅夫(むらお)氏の随筆『わが自然と人生』が出版されました。過去10年ほどの文章をまとめたものです。氏の生年は1886年(明治19年)10月4日。没年は1949年(昭和24年)5月13日で、この出版は49歳のことです。
『文章世界』の投稿から文学活動を始め、小栗風葉に師事。『新潮』の編集に参加。1925年には『不同調』を創刊。大正末の私小説論争、29年の『誰だ? 花園を荒す者は!』でマルクス主義文学批判など新興芸術派運動の中心的人物でした。

   神樂坂
 都會の散歩街としては、銀座などよりも、私に取つて、遙かに牛込の神樂坂の方が、親しみがある。
 神樂坂は、私に取つて長い間の馴染みのある町だ。私が東京へ出て來たのは、今から殆んど二十年近くも以前のことである。私は、最初、その頃麹町の三番町に住んで居た伯母の家に一先づ落着いた。私の上京したのは、故郷の北海道の山野も、畑も、村も、町も、まだ、深々と雪に埋まつて居る三月のことだつた……
 私が、初めて神樂坂を知つたのは、その年の六月、ちやうど梅雨晴れの苛ら苛らしたやうな日の光りが、かつ(、、)と眩しく照りつけた眞晝時のことだつた。私は、大町桂月の紹介狀を持つて、その頃矢來の奥の方に居た小栗風葉を訪ねて行つたのであつたが、その時通つた神樂坂の印象を忘れるととが出来ない。
 江戸名所圖繪を見ると、江戸時代の神樂坂には、一段々々の段々が附いて居る。今から約二十年ぱかり前は、まさか段々こそ附いては居なかつたけれども、勿論、今のやうな完全なアスハルトの道ではなかつたし、道幅なども、もう少し狹かつたやうに覺えて居る。

麹町 こうじまち。東京都千代田区の地名。旧麹町区の三番町は赤い太線で示しました。三番町1
その年 中村武羅夫氏は上京したのは明治40年(1907年)の21歳の時です。
奥の方 小栗風葉はこの時牛込矢来町3にいました。矢来町3は巨大な住所であり、どこに住んでいたのかわかりません。
江戸名所図絵 確かに階段ができていました。

御旅所 江戸名所図絵

江戸名所図会

アスハルト 炭化水素を主成分とする黒色の固体~半固体。ほとんどは石油精製過程で得られます。道路舗装のほか絶縁材・塗料などに利用。昭和10年、坂上はアスファルト舗装になっていました。

 狹い往來には、兩側の店のが、蔽ひかぶさるやうに突き出て居る。濡れた地べたからは苛ら苛ら暑い日光に照らされるので、むつ(、、)と暑苦しい水蒸氣が立ち昇り、狹い往來を、大勢の人々が右往左往して居る……そこへ一疋の痩犬が、ひよろひよろしながらやつて來た。私は、その時の神樂坂の息苦しいやうに狹い、しかも雜沓した光景に、よぼよぼの惨めな痩犬を點出して「痩犬」といふ文章を書いた。田山花袋氏は、その文章を讀んで、「作者のデカダン的苦悶の影が、よく出てゐる。」と批評してくれた。私が、デカダンといふ言葉を初めて知つたのは、その時だつた。
 その時分から見ると、神樂坂の面目も、なかなか變つて來た。今から約二十年以前の神樂坂は、もつと日本的な、古風な感じがあつたやうに思ふ。十四五年來、いろんな生活樣式の上に、俗悪なアメリカ文化が、非常な勢ひで取り入れられるやうになつてから、まだ、いくらかは古風な感じを持つて居た神樂坂も、西洋館の銀行などが幾軒となく出來たり、安つぽい西洋館まがひの店舗が出來たりして、大分變つて來た。道路の幅なども廣くなり、アスハルトを敷き詰めて、だんだん文化的になつて來た。
 さういふ點に厭味があると言へば、厭味がないこともないが、私は、そゞろ歩きなどする場合に、銀座などよりは、どうしても神樂坂の方が好ましい氣がする。これは何も私が、神樂坂を初めて見て以來、私の生活が、神樂坂に深い緣故がつゞいて來たからといふわけではない。一面には、さういふ親しみもあるかも知れないけれども、肴町の停留場から坂下までの間は、町幅と言ひ、家並の工合と言ひ、往来の適度なくねり(、、、)方、波打つやうな起伏――さういふ點に趣きがあつて、私は神樂坂の通りを大へん氣持のいい町だと思ふ。
 銀座のやうに電車の走る町、ちつとも曲線を持たない、真直ぐな町、あゝいふ町よりも、神樂坂の方が、遙かに私に取つては風情がある。

 ひさし。建物の窓・出入り口・縁側などの上部に張り出す片流れの小屋根。(のき)
点出 画面に目立つように描き出すこと。
痩犬 国立国会図書館で調べましたが、残念ながら中村武羅夫氏の『痩犬』という文章はありませんでした。
デカダン 「衰退」を意味するフランス語から、退廃的な態度をとること
そぞろ歩き 当てもなく、気の向くままにぶらぶら歩き回ること
肴町の停留場 市営電車(チンチン電車)の停留場で、現在の四つ角「神楽坂上」(昔は「肴町」)よりも大久保寄りの場所にたっていました。現在の都営バスの停留所に近い場所です。
肴町

正宗白鳥|毒

文学と神楽坂

正宗白鳥2 正宗白鳥氏の『毒』です。氏の生年は明治12年(1879年)3月3日。没年は昭和37年(1962年)10月28日。『毒』は明治45年、作者が33歳になる時に出版されています。なお、差別用語や放送禁止用語になる言葉もありそうですが、原文を尊重して、そのままにしておきます。

 そして賑かな神樂坂の方へ足が向いたが、其處は緣日らしくて、平生(ふだん)よりも一層雜杳してゐた。
 彼れは次第に足を緩めて、夜店などを傍見してゐたが、毘沙門(びしゃもん)境内の見世物小屋から、客を呼ぶ皺嗄れた聲が聞えると、何氣なく其處へ近寄つた。
 左右に汚れた小屋が向合つてゐる。
 左の長い小屋には、鷄のやうな手足を備へた若い女が、さまざまの藝をしてゐる繪看板が掛つてゐる。右の小さい小屋には、入口に細長い爺さんが突立つてゐて、幕の内に鐡漿(おはぐろ)をつけた婆さんが坐つてゐる。そして婆さんの命令に應じて、幕の影から幼い細い聲が洩れて來た。

傍見 直接的なかかわりをもたずに,近くからながめていること。傍観。
境内の見世物小屋 境内に見世物小屋がありました。明治の毘沙門堂縁日の画(明治37年1月初寅の日、東京名所絵図、東陽堂、1904)では
新撰東京名所図会 善国寺毘沙門堂縁日の画 昭和の境内を書いた図は『ここは牛込、神楽坂』第3号に書いてあります。毘沙門の境内
 この第3号の説明で、新小川町のますだふみこ氏は

 毘沙門様で、一番始めに思い出すのは、はずかしながら御門を入って左右にあった「ダガシヤ」さん。両方ともおばあさんが一人でお店番。焼麩に黒砂糖がついたのが大好物でした。
 塀のところには「新粉ざいく」の小父さん。彩りも美しい犬や鳥、人物では桃太郎、金太郎などが、魔法のように小父さんの指先から生まれてきます。
 それから御門の脇のお稲荷さんにちょっと手を合わせ、次は浄行菩薩様のおつむを頭がよくなるようにタワシでゴシゴシ。虎さんの足をちょんちょん。一番最後にごめんなさい、御本尊様に『頭がよくなりますように』と無理なお願い。

 おそらくこの前にある庭に見世物小屋もあったのでしょう。

鐡漿 おはぐろ。御歯黒、鉄漿。歯を黒く染めること。江戸時代には既婚婦人のしるしとなりました。

「生れましたは下谷したや竹町(たけちやう)三十番地。お手々が四つであんよ(、、、)が四つ……」
「これは新聞にも出ました因果な子供で御座います。今暫らくの壽命ですから、息のある(うち)に御覧を願ひます」と、爺さんが後から付足した。
「これは麹町(こうぢまち)二丁目鷄屋の娘、親の囚果が子に報い……」と、左の方でも木戸番が平気な顔して叫んでゐる。濃い白粉と濃い臙脂(べに)で色取った女の顏のみが幕の中に見えた。
 香取は顏を背けて逃げるやうに其處を出て、濠端へ下りた。

下谷竹町 御徒町駅を西に見て、現在は台東区台東3丁目です。昭和17年(1942年)の『最新大東京案内図』では下谷竹町
麹町二丁目 これは千代田区(以前は麹町区)麹町二丁目です。現在の地図では麹町2丁目
囚果 いんが。以前に行ったことが原因となり、その結果が現れること。
報い むくい。受けた行為に対して、同じような行為で返すこと。
臙脂 べに。べにばな(紅花)から作った染料。べに。紅花はキク科の越年草で、口紅や染料の紅を作ります。

手帳|同時代の作家たち

文学と神楽坂

広津和郎 広津ひろつ和郎かずお氏が書いた『同時代の作家たち』(岩波書店)の「手帳」(昭和25年)です。

 氏は生まれは1891年(明治24年)12月5日。没年は1968年(昭和43年)9月21日。文芸評論家、小説家、翻訳家です。

 氏は先輩作家の近松秋江氏の質草の話を新潮社の社長から聞き、まだ売れていない宇野浩二氏に書かせると面白いと考えます。

が小説を書いて文壇に出るようになったのは大正六年であるが、たしかその翌年の初夏の頃であったと思うが、或日新潮社をたずねると、当時の同社社長の佐藤義亮(ぎりょう)氏との間に近松秋江の話が出、氏の口から秋江の逸話を幾つか聞かされた。秋江はなかなかあれで自分の肉体美が自慢で、丁度神楽坂毘沙門前の本多横丁の角に、後にヤマモトという珈琲を飲ませる店になったが、昔そこに汁粉屋があり、その汁粉屋のおかみさんがちょっとイキな女だったので秋江はそれに興味を持ち、自分の肉体美をそのおかみさんに見せたくなり、その家の裏側に風呂屋があったので、秋江は赤城神社の境内の下宿屋からわざわざそこまで風呂に入りに行き、しかも風呂に入る前にその汁粉屋に寄って、そこでおかみさんの前で浴衣に著更(きが)えて自分の肉体美をおかみさんに見せようとしたというのである。

 広津和郎氏です。
新潮社 文芸書を初めとした大手出版社。1896年に新聲社として創立
新潮社
本多横丁 「神楽坂最大の横丁」で、飲食店をなど50軒以上の店舗があります。この名前は、江戸中期から明治の初期まで、この通りの東側全域が本多家の屋敷であり、 「本多修理屋敷脇横町通り」と呼ばれていたことに由来します。
ヤマモト 『ここは牛込、神楽坂』第5号の「戦前の本多横丁」にでていた松永もうこ氏の絵です。サトウハチローとドーナツについてはここに
本多横丁戦前
風呂屋 この近くの風呂屋は「第2大門湯」だけです。青で書いてあります。下の山本コーヒーの想像図は赤で書いています。現在の大門湯は理科大の森戸記念館の一部になりました。なお地図は都市製図社製の『火災保険特殊地図』( 昭和12年)です。大門湯
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。
下宿屋 この矢印は昔の「清風亭」の場所で、赤丸で囲んだ清風亭とは違っています。近松秋江は赤い矢印のここに住んでいました。清風亭1

 それから秋江はまた非常に著物(きもの)が好きで、季節季節には新しく著物を作るが、貧乏なので直ぐそれを質屋に持って行ってしまう。それで次にその季節が来たらその著物を出して著れば好いのに、そうはしないでまた新たに著物を作る、しかし直ぐまたそれも質屋にはこんでしまう、そんな風にして質屋に預けた著物がいっぱい溜ってしまったが、虫干頃になると秋江は質屋の番頭がどんな虫干の仕方をするかとそれが信用が出来ずに、自分で質屋に出かけて行き、自分で質屋の蔵の中に細引を引きまわして自分の質物を懸けつらね、その下にそれも彼が入質した蒲団を敷いてその上に横たわり、自分の著物を頭上に眺めながら悠々と昼寝をして来るというのである。……そんな話を義亮氏の口から聞きながら、私は通寺町の路地の洋食屋で、秋江が芸妓に電話をかけて、「この間は散財した、あれだけあれば米琉が出来るんだのに」といっていた例の電話を思い出した。あの時にはあれがやりきれなく厭味に感じられたが、しかしこんな話を聞きながら今になって思い出すと、いかにも秋江の秋江らしさとして頬笑まれて来るのである。そしてその時佐藤義亮氏から聞いた話を、「これは面白い。これは小説になる。しかし自分に向く材料ではない。多分これは宇野浩二なら書けるだろう」と考えたものであった。
 宇野はその時はまだ文壇に出ていなかったが、私は彼にその話をして、「君なら書けるだろう」というと、「うん、僕なら書ける」と彼は答えた。それから一、二ヶ月後に宇野は実際にそれを小説に書いた。それが宇野の文壇的処女作となった「蔵の中」であるが、その事については私は以前「蔵の中物語」という文章に詳しく書いた事がある。

著物 着物のこと。この時代には「著物」と書いたんですね。
質屋 品物を担保(質草)として預かり、代わって品物の価値にみあう金銭を融資する商売
虫干 日光に当て,風を通して湿りけやかび,虫の害を防ぐこと。日本で6~7月のつゆ明けの天気のよい日に行います。
番頭 商店などの使用人の長。主人に代わり店の一切のことを取りしきる者
細引 ほそびき。麻などをより合わせてつくった細目の縄。
通寺町 現在は神楽坂6丁目のこと
洋食屋 上から下に神楽坂を下って左側にある洋食屋はわかりません。
米琉 よねりゅう。米琉(つむぎ)、正確には米沢(よねざわ)琉球(りゅうきゅう)(がすり)(つむぎ)。山形県米沢地方で生産される紬織物。米沢紬の中で、琉球絣に似た柄のもの
>蔵の中物語 これは同じ本『同時代の作家たち』で「『蔵の中』物語――宇野浩二の処女作」という1章になって出ています。

文学と神楽坂

神楽坂矢来の辺り|尾崎一雄

文学と神楽坂

尾崎一雄 尾崎一雄氏が書く『学生物語』(1953年)で「神楽坂矢来の辺り」の一部です。これは(1)になります。
 氏は小説家で、生年は明治32年12月25日。没年は昭和58年3月31日。早大卒。志賀直哉に師事。昭和12年、「暢気眼鏡」で芥川賞。戦後は「虫のいろいろ」「まぼろしの記」など心境小説を発表。昭和50年、自伝的文壇史「あの日この日」で野間文芸賞受賞を受賞しました。

神楽坂矢来の辺り 学校の近くに下宿してゐた。早稲田界隈から最も手近な遊び場所と云へば、どうしても神楽坂である。そこには、寄席も活動小屋も飲み屋もカフェーも喫茶店も洋食屋もあった。牛込郵便局(当時の)あたりから肴町をつっ切り、見附に逹する繁華な遊歩街には、両側に鈴蘭燈がつき、夜店も出た。両側の商店も名の通った家が多かった。
 神楽坂が最も繁華を誇ったのは、例の関東大震災のあとだったらう。(略)
 十二年の九月一日に大震災である。(略)
 牛込区は大体無事だった。神楽坂にも被害は無かった。丸焼けの銀座方面から神楽坂へ進出する店があり、また客も神楽坂へ移ったやうであった。
大正11年 東京市牛込区

大正11年 東京市牛込区

牛込郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば「矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。」となっています。右の「大正11年の東京市牛込区」の郵便局の記号は丸印の中に〒で、通寺町30番地でした。現在は神楽坂6-30で、会社「音楽の友社」がはいっています。
肴町 さかなまち。現在は神楽坂5丁目です。
見附 牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。これが原義ですが、しかし、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、神楽坂通りと外堀通りが交差する所を「牛込見附」と言ったりするのも正しいようで、ここでは交差点の「牛込見附」でしょうか。
鈴蘭燈鈴蘭燈 すずらんとう。鈴蘭はユリ科の高原の草地に生える多年草。高さ約30センチの花茎を出し、五、六月ごろ鐘形の白花を十数個下垂します。鈴蘭燈は鈴蘭の花をかたどった装飾電灯。左は昭和30年代の神楽坂の写真の1部ですが、こんな具合に見えたわけです。

 それは、――私がこの神楽坂プランタンに出入りしてゐた時分、或る夜のこと、寺町通りを坂の方へ元気よく歩いてゆくと、向うから、背の高い長髪の人物が、手下を四五人引き連れて悠々とやって来るのを見つけたのである。――ははん、広津和郎だな、と思った。雑誌の口絵写真で見知ってゐるし、それに、学校へ講演で来たこともあったから、その時見覚えたに違ひないが、確かに広津氏である。は、すれ違ひざまに凝っと見て、それを確かめた。
 二三間行過ぎてから、心を決めて取って返し、
「失礼ですが、広津さんですか」
 さう声をかけた。
 長身の広津氏は、うん? といふふうにこっちの顔を見下して、立止まり、
「広津ですが――」お前は? といふ顔をした。その時私は、学生服に、学帽をつけてゐた。すでにどこかで少し飲んでゐたが、当時の私は二本や三本飲んでも、全然外見に変りはなかったから、広津氏の目には、普通の(大体真面目な)早稲田の学生とうつっただらう。
「私は、早稲田の文科の者で、尾崎と云ひます。実は、ちょっとお話をうかがひたいことがあるのですが――志賀さんについて」
「あ、さう、志賀さんのこと……」
 広津氏は、目をぎょろりとさせ、ちょっと考へるふうだったが、連れの人たちに向って、
「ぢやあ、先に行ってゐてくれたまへ、僕ちょっと――」
 四五人の、いづれも髮の長い連中が、うなづき合って歩き出した。広津氏は、来た方ヘ大跨に戻ってゆくので、私も大跨について歩いた。どこへ行くのかな、と思ってゐると、肴町の電車道をつっきると間もなく右手に折れて、神楽館といふ下宿へ入っていった。二階だったか階下だったか忘れたが、六畳位の部屋に通された。そこには、二十いくつといふ女の人がゐだ。夫人だなと思った。

寺町通りを… 神楽坂6丁目を交差点「神楽坂上」に向かって
 尾崎一雄です。
電車道 路面電車が敷設されている道路。ここでは大久保通りのこと。
神楽館 昭和12年の地図の『火災保険特殊地図』ではっきりわかります。神楽坂2丁目21でした。細かくは神楽館で。

「早稲田の尾崎君」
 広津氏が云ふと、夫人はお叩頭をした。私もイガグリ頭を深く下げた。
 広津氏は、こまかい紺絣着流しで、きちんと坐ってゐた。私も制服の膝を正しく折ってゐた。
「あの、『志賀直哉論』といふのをお書きになりましたが……」と云って、ちよっとつまった。
「ええ、書きましたが――」
 大きな目をして、凝っとこっちを見てゐる。で、それが? とうながされる思ひで、私はうろたへて、
「あれを拝見したのですか、あれは、――良いと思ひました」
「あ、さう」
 この時、夫人が茶をすすめた。しかし、私はそれに手を出してゐる余裕がなかった。あれも云はう、これも云ひたい、と頭の中はいっぱいなのだが――いや、いっぱいな筈なのだが、まるでこんぐらかってしまって、焦れば焦るほど、言葉が見つからなくなった。私は、確かに寒い時だったにかかはらず、汗をじとじと感じた。
 広津氏が、言葉少なに何か云ったが、それがどういふことだったか覚えてゐない。私自身の云ったことも覚えてゐない。志賀さんの小説か大好きで、全部熟読してゐるし、志賀さんに関する批評も落ちなく読んでゐる――といふやうなことを、どもりどもり云ったぐらゐのところであらう。
 とにかく、広津氏を呼び留めた時の元気は更に無く、私は逃げ出すやうにいとまを告げたのである。

イガグリ頭イガグリ頭 いがぐり(毬栗)とは、いがに包まれた栗。イガグリ頭は髪を短く、丸刈りにした頭。
11_kasuri_image01紺絣 こんがすり。紺地に絣(かすり)を白く染め抜いた文様。その織物や染め物。かすりは文様の輪郭部がかすれて見えるから
 「お対」とも。「つい」とは長着と羽織りを同じ布地で仕立てたもの。
着流し 男性の羽織、袴をつけない略式のきもの姿のこと。きものだけの楽な姿のこと。

 この一件は、思ひ出すたびに冷汗の種で、すでに三十年近い昔のことながら、実は私は誰にも話さなかった。先日、ある雑誌の記者にふと話して一と笑ひしたら、何となく気が済んだ思ひがした。勿論広津氏にも話さない。もっとも広津氏は当事者の一人、と云ふより被害者なのだから、(おぼ)えて居られるとすれば改めて苦笑されるかも知れない。しかし、公平に見て、広津氏としては、左ほどの大被毒ではないし、もともとさっぱりした人だから忘れて居られるかも知れない。だが、私は忘れることが出来なかった。広津氏には、再々お逢ひしてゐるくせに、私はどうもこの昔話を持ち出す気がしなかったのである。
 広津氏が、仮りにあの件を覚えてゐるとしても、あの無邪気な文科生が、この私だったとは思って居られぬだらう。私は、そんなことがあってから少くとも二年位経って、初めての同人雑誌を持ったのである。――茫々三十年。私も純真なる文学青年であった。

茫々 ぼうぼう。広々としてはるかな様子

文学と神楽坂

初めて見た広津さん|尾崎一雄

文学と神楽坂

『群像』の「初めて見た広津さん」(68年12月号)で、実に15年後になりますが、続きを書いています。したがって(2)です。

 私としては志賀直哉の理解者たる広津和郎を相手に、思いきり志賀直哉について語りたかったのである。私には云いたいことがいっぱいあった。云いたいことか山ほどありながら、それを書いて発表する場をもたぬやるせなさを広津さんにぶちまけたかった。その意気込にかり立てられて、往来で未知の大先輩を呼び留めるという非礼を演じながら、いざというと舌が萎縮して何も云えなくなったのだ。
 私はそれから当分の間憂うつだった。多分ヤケ酒ばかり飲んだだろう。

 そんなことがあってから十何年のちには、広津さんともときどき会合などでお逢いするようになった。志賀先生のお宅で一緒になることもあった。それでも私は、文学青年時代にああいうことがあった、ということには絶対に触れないでいた。広津さんの方では疾うに忘れて居られるだろうが、こっちとしては、いつまで経ってもあの時の恥かしさが振り切れないのだ。

意気込 意気込み。いきごみ。さあやろうと勢いこんだ気持ち
往来 おうらい。人や乗り物が行き来する場所。道路。
疾うに とうに。ずっと前に。とっくに

 今から何年前になるか。どうも松川事件の裁判がうまくいったときだったように思うが、広津さんを囲んでお祝いの小集会があった折、私は初めてこのことをテープル・スピーチの形でしゃべった。その時記念品としてどこかから広津さんにテープ・レコーダーが贈られて、何人かの参会者のテーブル・スピーチが録音されたが、私の告白もそれに入っている。
 広津さんはやっぱり全然忘れて居られた。しかし私としては、広津さんの前でしゃべってしまったので、長年の重荷をおろしたような気持になった。

 初めてお逢いしたあの時の広津さんは、三十をいくらも出ていない年頃だったろうか。長身で、久留米絣がよく似合って、色白の顔に大きな目――あれで凝っと見つめられたときは手も足も出ない感じだった。大きな、澄んだ目だった。この人をつかまえて、自分は何を云う気だったのだろうか――私はほんとに恥かしかった。

 神楽館でお逢いした婦人は、はま夫人ではなかったように思う。筑摩書房版「現代文学大系『菊池寛・広津和郎集』」の年譜によると、大正十一年には「秘密」とか「ひとりの部屋」とか「隠れ家」とかいう作品が書かれている。次の十二年の項に「この年、松沢はまを知る」と記されている。彼れこれ思い合せると、私が神楽館に推参したのは、大正十一年のことかも知れない。だとすると広津さんは三十一歳である。

松川事件 1949年(昭和24)8月17日午前3時9分、東北本線松川駅付近で列車が転覆し、機関車乗務員3人が死亡した事件。広津和郎は1953年秋、『中央公論』に「真実は訴える」、1954年春、「松川第二審判決批判」を発表、無罪を勝ち取るべく世論をリードしました。1963年9月12日、最高裁は検察側上告を棄却し、無罪が確定。
久留米絣 久留米地方で作られる木綿の紺絣
神楽館 昔、神楽坂2丁目21にあった下宿。細かくは神楽館で。
はま夫人 広津氏の内縁の妻。
彼れこれ かれこれ。いろいろな物事を漠然とまとめて示す意。あれやこれや。何やかや
推参 すいさん。自分の方から相手のところに押しかけて行くこと、または、人を訪問することを謙遜していう言葉