カテゴリー別アーカイブ: 平成の作家

新版私説東京繁昌記|小林信彦

文学と神楽坂

 平成4年(1992年)、小林信彦氏による「新版私説東京繁昌記」(写真は荒木経惟氏、筑摩書房)が出ています。いろいろな場所を紹介して、神楽坂の初めは

 山の手の街で、心を惹かれるとまではいわぬものの、気になる通りがあるとしたら、神楽坂である。それに、横寺町には荒木氏のオフィスがある。

以下、永井荷風「夏すがた」からの引用、加能作次郎「大東京繁昌記」山手篇の〈早稲田神楽坂〉からの引用、サトウ・ハチロー「僕の東京地図」からの引用、野ロ冨士男氏「私のなかの東京」からの引用があり、続いて

 神楽坂について古い書物をめくっていると、しばしば、〈神楽坂気分〉という表現を眼にする。いわゆる、とか、ご存じの、という感じで使われており、私にはほぼわかる

「山の手銀座」はよく聞きますが、「神楽坂気分」という言葉は加能作次郎氏が作った文章を別として、初めて聞いた言葉です。少なくとも神楽坂気分という表現はなく、国立図書館にもありません。しかし、新聞、雑誌などでよく耳に聞いた言葉なのかもしてません。さて、後半です。

 荒木氏のオフイスは新潮社の左側の横町を入った所にあり、いわば早稲田寄りになるので、いったん、飯田橋駅に近い濠端に出てしまうことに決めた。
 そして、神楽坂通りより一つ東側の道、軽子坂を上ることにした。神楽坂のメイン・ストリートは、 いまや、あまりにも、きんきらきん(、、、、、、)であり、良くない、と判定したためである。
 軽子坂は、ポルノ映画館などがあるものの、私の考えるある種の空気(、、、、、、)が残っている部分で、本多横町 (毘沙門さまの斜め向いを右に入る道の俗称)を覗いてから、あちこちの路地に足を踏み入れる。同じ山の手の花街である四谷荒木町の裏通りに似たところがあるが、こちらのほうが、オリンピック以前の東京が息づいている。黒塀が多いのも、花街の名残りらしく、しかも、いずれは殺風景な建物に変るのが眼に見えている。
 大久保通りを横切って、白銀(しろがね)公園まえを抜け、白銀坂にかかる。神楽坂歩きをとっくに逸脱してい るのだが、荒木氏も私も、〈原東京〉の匂いのする方向に暴走する癖があるから仕方がない。路地、日蔭、妖しい看板、時代錯誤な人々、うねるような狭い道、谷間のある方へ身体が動いてしまうのである。
「女の子の顔がきれいだ」
 と、荒木氏が断言した。
白銀坂 おかしいかもしれませんが、白銀坂っていったいどこなの? 瓢箪坂や相生坂なら知っています。白銀坂なんて、聞いたことはないのでした。と書いた後で明治20年の地図にありました。へー、こんなところを白銀坂っていうんだ。知りませんでした。ただし、この白銀坂は行きたい場所から垂直にずれています。
きれい 白銀公園を越えてそこで女の子がきれいだというのもちょっとおかしい。神楽坂5丁目ならわかるのですが。
 言うまでもないことだが、花街の近くの幼女は奇妙におとなびた顔をしている。吉原の近くで生れた荒木氏と柳橋の近くで生れた私は、どうしてそうなるのかを、幼時体験として知っているのだ。
 赤城神社のある赤城元町、赤城下町と、道は行きどまるかに見えて、どこまでも続く。昭和三十年代ではないかと錯覚させる玩具と駄菓子と雑貨の店(ピンクレディ(、、、、、、)の写真が売られているのが凄い)があり、物を買いに入ってゆく女の子がいる。〈陽の当る表通り〉と隔絶した人間の営みがこの谷間にあり、 荒木氏も私も、こちらが本当の東京の姿だと心の中で眩きながら、言葉にすることができない。
 なぜなら、言葉にしたとたんに、それは白々しくなり、しかも、ブーメランのように私たちを襲うのが確実だからだ。私たちは——いや、少くとも、私は、そうした生活から遁走しおおせたかに見える贋の山の手人種であり、〈陽の当る表通り〉を離れることができぬ日常を送っている。そうしたうさん臭い人間は、早々に、谷間を立ち去らなければならない。
 若い女を男が追いかけてゆき、争っている。「つきまとわないでください」と、セーターにスラックス姿の女が叫ぶ。ちかごろ、めったに見かけぬ光景である。
 男はしつこくつきまとい、女が逃げる。一本道だから、私たちを追い抜いて走るしかない。
 やがて、諦めたのか、男は昂奮した様子で戻ってきた。
 少し歩くと、女が公衆電話をかけているのが見えた。
 私たちは、やがて、悪趣味なビルが見える表通りに出た。
どこまでも続く う~ん、かなり先に歩いてきたのではないでしょうか。神楽坂ではないと断言できないのですが。そうか、最近の言葉でいうと、裏神楽坂なんだ。
表通り おそらく牛込天神町のど真ん中から西の早稲田通りに出たのでしょう

これで終わりです。なお、写真は1枚を出すと神楽坂の写真

これは神楽坂通りそのものの写真です。場所は神楽坂3丁目で、この万平ビルは現在、クレール神楽坂になりました。

1990年の神楽坂

1990年の神楽坂

文学と神楽坂

チッチと子|石田衣良

文学と神楽坂

石田衣良 石田衣良(いら)氏が平成21年(2009年)に書いた本『チッチと子』です。主人公は作家で、神楽坂のマンションに住んでいます。最初は「オール秋冬」の編集者と話が始まります。ちなみに「オール讀売」は文藝春秋が発行する月刊小説誌です。
 氏は広告会社をへて、コピーライターに。生年は昭和35年3月28日。成蹊大卒。平成15年、東京月島を舞台に家庭内暴力や援助交際の中学生をえがいた短編集「4TEEN フォーティーン」で直木賞を受賞しています。

「お疲れさまでした。お原稿、いただきました」
 さすがに若い米山も声がやつれていた。
「またぎりぎりになっちゃった。ごめんなさい」
 耕平は恐るおそる質問した。
「また、ぽくがラストだったのかな」
 米山が(せき)払いをして、耕平は跳びあがりそうになった。迷惑をかけたあとの編集者は怖い。
「いえ、まだ吉原(あかね)さんがはいってないんです。青田さんと吉原さんがいっしょの月は、ほんとにカンベンしてほしいんですけどね」
「そうだよねえ」
「なんですか、他人事みたいに。原稿はあとでゆっくりと拝読させてもらいます。ゲラがでるのはお昼すぎになりますから、今日中におもどしください。どうもお疲れさまでございました」
 最後の挨拶(あいさつ)だけは、歴史ある出版社らしくていねいだった。編集者にはまだまだこのあと入稿作業があるのだ。たいへんな仕事である。普通の作家なら書きあがったとたんにベッドに倒れこめばいい。このまま眠れたら、どんなに楽だろうか。
 耕平は書斎の壁の時計を見あげた。もうすぐ朝の六時になる。窓の外、マンションの十二階のバルコニーのむこうに、おもちゃのような神楽坂の街が広がっていた。空は夜明けまえの透きとおった明るい紺色だ。
(また徹夜してしまった)
 耕平のマンションは神楽坂の住宅街にある。昼間からいつもふらふらしているので、なるべく近所を歩くときでも、きちんとジャケットを着るように心がけていた。もちろん作家という仕事柄、ある程度の人目も気にしなければならなかった。ごく少数とはいえ、いつファンだという人間に出会うかわからない。
 もう四シーズン目になるネイビーのカシミアジャケット(一週問悩んで買ったもの)にダメージ加工のされていないプレーンなジーンズとタートルネックのセーターをあわせた。セーターはあざやかなウルトラマリンだ。これなら休日の会社員に見えなくもないだろう。さて、ランチはどの店でたべようか。和食だけでなく、イタリアン、フレンチ、チャイニーズとおいしいけれど、財布にやさしい店がそろっているのが、この街の成熟したところである。(略)
 耕平がむかったのは神楽坂の坂したにある喫茶店だった。ログキャビン風の重厚な造りで、ギャラリーを兼ねているのか、二階には美術品が飾られている。その日は針金細工の立体作品だった。いつも空いているので、編集者との打ちあわせによくつかうカフェである。
 耕平のむかいに座るのは、英俊館の第二文芸部に籍をおく編集者、岡本静江だった。多くの出販社では第一文芸部が純文学で、第二文芸部がエンターテインメントの小説を担当している。作家の分類はどの賞をとり、どの文芸誌でデビューしたかで、自動的に振り分けられているようだった。

 主人公の住処はマンションの12階にあり、住宅街にあります。これはおそらく神楽坂6丁目や白銀町などを指すのでしょう。また、確かに神楽坂のレストランはほかの場所と比べて安いものが多いと思います。ただし、最近の店では正々堂々とほかの東京と同じ値をつけることもありますが、借料がない人なら昔と同じ値段で店を開くことができます。

 坂下にある喫茶店というのは、本が出た時にはなくなっていましたが、「巴有吾有(パウワウ)」以外にあり得ません。場所はここ。木造の山小屋風で、2階はギャラリー、しかし、2006年にはなくなり、代わって理科大の巨大な「ポルタ神楽坂」の一部になりました。

かつての巴有吾有。今はなくなりました。

 でも、この本では神楽坂はあくまでも背景のひとつなのです。さっと終わってしまう。この本では一回も神楽坂独自の話はなく、昔の逸話なども触れないのです。「神楽坂」の言葉は多い、でもそれだけでした。

文学と神楽坂

三浦しをん『舟を編む』|神楽坂

文学と神楽坂

 三浦しをん著の『舟を編む』(光文社、2011年)では神楽坂の『月の裏』という料理屋が出てきます。主人公の馬締(まじめ)光也の妻、()()()が営む料理屋です。さて、ここはどこにあるのでしょう。本の163頁では

 神楽坂の入り組んだ細い道を行き、たどりついたのは、狭い石畳の路地のどんづまりにある、古くて小さな一軒家だった。軒下(のきした)に四角い外灯がついている。オレンジ色のやわらかな光を投げかける外灯には、『月の裏』と書かれていた。
 格子戸を開けると、板前の恰好をした青年が折り目正しく迎えてくれた。たたきで靴を脱ぐ。
 上がってすぐに、板張りの一間がある。広さは十五畳ほどだろうか。左手に白木のカウンターがあり、そのまえに五脚ほど木の椅子が置かれている。ほかに、四人がけのテーブル席が四つ。席は八割がた埋まっていた。接侍中のサラリーマンもいれば、自由業ふうの若い男女もいた。
「いらっしゃいませ」
 カウンターのなかから声をかけてきたのは、女性の板前だった。四十になるかならないかぐらいに見える。黒い髪をうしろでひとつにまとめた、すごくきれいなひとだ。
 青年に案内され、辞書編集部一行は玄関の右手にある階段を上った。二階は八畳の和室で、簡素な床の間にウツギの花枝がいけてあった。あとは廊下を隔てて、お手洗いの戸と店員の控え室らしき戸が並んでいるだけだ。
(中略)
「『月の裏』を営んでおります、(はやし)()()()です。今後もどうぞごひいきに」

210頁では

 神楽坂の夜の闇は、いつも濡れたような輝きを帯びている。
 石畳の小道をたどり、片辺は『月の裏』へ宮本を案内した。格子戸を開けると、「いらっしゃいませ」と香具矢がカウンターの向こうから挨拶を寄越す。精一杯、愛想よくしようと心がけているようだが、実際にはなめらかな頬の皮膚がちょっと動いただけだ。これ以上ないほど繊細に包丁を操るくせに、あいかわらず生きることに不器用そうなひとだ。

 つまり、『月の裏』は神楽坂の「狭い石畳の路地のどんづまりに」あり、「古くて小さな一軒家」で、「石畳の小道をたどり、格子戸を開け」、さらに「たたきで靴を脱」ぎ、「板前」がでてくる。「板前」なので「日本料理」で、フランス料理屋やイタリア料理屋、中国料理屋ではありません。
石畳は神楽坂中にあるというのではありません。意外と少ないのです。赤い道がピンコロの石畳です。神楽坂と石畳

 これで「路地のどんづまりに」ある、つまり、袋小路にある場合は1つだけで、「見返し横丁」だけです。ほかは袋小路ではなく、一方が入り口、別の1方が出口です。では、見返し横丁でいいのでしょうか。困ったことがあり、それは「格子戸を開け」て、「たたきで靴を脱ぎ」「板前がでる」ことはできないのです。「見返し横丁」のどんづまりには海鮮居酒屋『ろばた肴町五合』と最近できたイタリアンレストラン『Artigiano(アルティジャーノ)』があります。アルティジャーノは小さな店舗ですが、イタリアンだし、ろばた肴町五合はろばた焼きで、『月の裏』とは違う場所の気がします。

 それでは「かくれんぼ横丁」ではどうでしょうか。石畳の小道をたどり、格子戸を開け、たたきで靴を脱ぐ。ぜんぶ出来ます。しかし、ここにも問題が。場所は『レストランかみくら』が一番いいのですが、これはフランス料理屋なのです。それでは最近できた和食の『千』や割烹の『越野』でしょうか。しかし、どれも「どんづまり」ではなさそうです。
見返しとかくれんぼ
 まあ、結局、小説だからなあ。「路地のどんづまり」、「古くて小さな一軒家」、「格子戸を開け」、「たたきで靴を脱ぐ」のひとつやふたつがちゃんとあっても、全部はありえない。嘘で空想だし。でも、こんな料理屋があると、本当にはいいのになと思います。

文学と神楽坂