新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17581-82は令和4年10月、赤城神社の鳥居と拝殿などを撮っています。鳥居は昭和44年、令和元年、また拝殿は昭和44年、昭和50-51年、平成29年でも出ています。
(1)鳥居
左側から…… |
(2)拝殿
左側から……
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17581-82は令和4年10月、赤城神社の鳥居と拝殿などを撮っています。鳥居は昭和44年、令和元年、また拝殿は昭和44年、昭和50-51年、平成29年でも出ています。
(1)鳥居
左側から…… |
(2)拝殿
左側から……
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」 ID 14134は昭和44年頃に赤城元町の日蓮宗清隆寺を撮ったものです。
「一実」は仏語で、絶対平等の真実、「会堂」は集会の大きな建物のこと。表札は「日蓮宗本光山 清隆寺」。
「牛込区史」(昭和5年、576頁)では
本光山清隆寺、中山法華経寺末 起立不明、開基妙行院日徳、慶安四年九月九日遷化、旧境内年貢地百二十八坪、借地百四十四坪半。 |
と極めて簡潔に書いています。なお「中山法華経寺」は千葉県市川市中山にある正中山法華経寺、「遷化」は高僧の死亡したこと。
「当山縁起」によれば、寛永15年(1638年)、妙行院日徳が開基として創建したといいます。
清隆寺には初代・立花家橘之助の墓があることでも知られます。橘之助は明治から大正にかけで活躍した女流音曲師で、名人と呼ばれました。
平成29年に三遊亭小円歌師匠が二代目立花家橘之助を襲名し、82年ぶりに名跡が復活したことで改めて注目されました。
二代目は清隆寺で初代の遠忌の供養をしています。
また、後ろにはお墓以外に「神楽坂樹木葬あかぎガーデン」があります。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14133、ID 14159-60は昭和44年頃の赤城神社の写真を撮っています。ID 14133は神輿蔵を、ID 14159は赤城神社からの眺めを、ID 14160は赤城神社境内を撮っています。
(1)神輿蔵
神輿蔵は下の地図で「おみこしソーコ」と書いてある所です。氏子が町会ごとに神輿や山車を保管しておく建物で、左側の2棟には赤城神社の社紋である左三つ巴紋()と「水道町」や「細工町」の町名があります。石造りの立派なものも、木造の漆喰塗りらしき小ぶりなもの、木の扉や錆びた扉もあり、管理状態はまちまちです。
ただ終戦直後の航空写真には何も映っていないので、いずれも戦後に再建されたものでしょう。これらの神輿蔵は、平成22年(2010年)の新社殿では本殿の下(人工地盤の下)に移設されました。
冬に撮影らしく立木は葉が落ちて、幹には「こも巻き」をしています。
(2)赤城神社からの眺め
左に赤城神社北参道の門柱。右側のビルの塔屋には「はいばら」と書かれていて「榛原記録紙工場」でしょう。左端には崖下の店の「小料理」の看板が見えます。
(3)赤城神社境内
石敷きの参道の左側から北参道の方向を写しています。境内では子供が何人か遊んでいます。
左から……
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13977は平成29年、赤城神社の社殿と狛犬などの写真を撮っています。赤城神社の境内は建築家の隈研吾氏が設計したもので、平成22年(2010年)に完成しました。
神社の社殿とは本殿や拝殿、舞殿などといった境内の重要な建物のことです。また、本殿とは神様がいらっしゃるとされている社殿のことで、拝殿とは参拝者が拝礼を行う社殿。したがって、この写真は拝殿です。屋根には簡単な切妻屋根です。
新社殿は、旧社殿の跡に築いた人工地盤の上に建っています。鳥居から長い階段を上って、写真の拝殿前に出ます。
拝殿の下は氏子参集殿(あかぎホール)、本殿の下は人工地盤を貫く基礎になっています。
では左側から……
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13303-06は、令和元年(2019)5月、赤城神社裏(北側)駐車場からの写真4枚です。この部分は高台の崖上になっており、昭和28年、平成31年などの撮影もあります。
最近の写真なので建物が特定するのも簡単で、手前のえんじ色のマンションで屋上に白い正方形の模様がたくさんあるのは「ライオンズマンション神楽坂第三」(地上5階)で、同じく北に見えるえんじ色のマンションは「神楽坂ココハイツ」(地上11階)、ID 13303-05の薄い茶色のマンションは「グラーサ 神楽坂」(地上8階)です。
ID 13305の奥は、池袋周辺の高層ビル群です。同時期の撮影であるID 14051で詳しく見ています。ただし、豊島区役所、つまり「ブリリアタワー池袋」(地上49階 / 地下3階)は、薄い茶色のマンションの右側で、半分は隠れています。
ID 13303-04の奥は、早稲田方面のマンションなどが写っています。左側から見ていくと、屋上に貯水槽がある青灰色のビルは赤城下町にある旭創業東京支店の「神楽坂アサヒビル」、「BELISTA 神楽坂」は地上13階/地下1階、白い「グランスイート神楽坂」は地上14階で、天神町交差点の近くです。
水色は「菱秀神楽坂ビル」(地上10階)、その右は「フリーディオ神楽坂」(地上11階)、薄い茶色は「パーク・ハイム神楽坂」(地上14階)、全部マンションであり、江戸川橋通り沿いの渡邊坂と呼ばれているあたりです。
中央の一番奥、高い建物は山手線高田馬場駅に近い「住友不動産新宿ガーデンタワー」(地上37階/地下2階)で、ガラスの外装が濃紺に写っています。
ID 13303-4の下を走る道路は無名ですが、そのまま上に行くと「赤城坂」と一緒になってT字をつくります。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9899、ID 9900、ID 9901は昭和50-51年頃、赤城神社からの眺めを撮っています。天気は曇りで、遠くがよく見えません。トタン屋根が光っているので、雨上がりかもしれません。
ID 9899で目立つのは、中央にある「大日本印刷」の広告です。左手前には電柱から街灯がつき出していて、その街灯は消えていません。この下に道路があるのでしょう。
ID 9900では、左端の石柱に「大正十一(年)」と彫られています。その右のビルの塔屋に「はいばら」の広告看板。煙突が何本かあり、右には「竹の湯」とあります。
ID 9901は、少し引いた位置からの撮影です。石柱は屋根つきで、門灯のようなデザインです。「竹の湯」の煙突も確認できます。遠くの集合住宅の上には広告がありますが「日本火災」以外は読めません。
さて以上です。撮影場所の特定は難しい。ところがわかりました。
赤城神社から西の方角に「大日本印刷㈱榎町工場」、北西に「竹の湯」があります。屋根つきの石柱は赤城神社北参道の門柱です。北参道から境内に入ったところ、鳥居の下あたりから撮影したのでしょう。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13302は令和元年(2019年)5月、赤城神社鳥居を撮ったものです。
鳥居は「一の鳥居」(神社の境内に入って最初の鳥居)で、中央に神額(鳥居等の高い位置に掲げた額)として「赤城神社」が書かれ、左には社号標(入口に石柱などの神社名)として「赤城神社」があります。昭和44年のID 8298にあった玉垣はなくなり、鳥居も二回りほど大きくなって道路ギリギリに立っています。これから参道が続きます。
鳥居の前の左側には立て看板2つがありますが、「あかぎカフェ」の広告でしょうか、しかし読めません。右側には掲示板があり、「御大礼」以外は読めません。大礼とは冠婚葬祭などの最も重要な礼式です。この年の5月1日に今上天皇が即位されましたが、これでしょうか。
境内には巨大な広葉樹があり、両側には春日灯籠、遠くに創作した灯籠があります。
社殿などの境内は建築家の隈研吾氏が設計したもので、平成22年(2010年)に完成しました。立木の奥に見える縦縞の建物は地上6階・地下1階のマンション「パークコート神楽坂」で、これも隈氏の設計です。赤城幼稚園の跡地を中心に境内の東側に建てられました。
鳥居の前はT型の三叉路で、女性がスマホで鳥居や社号標を撮影しています。
後は左から……
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9902、ID 9903、ID 9904は昭和50-51年頃、赤城神社を撮っています。
赤城神社の拝殿を正面から撮りました。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、入母屋造風で破風が正面を向いています。これは権現造と呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。鈴緒は賽銭箱に向かって垂れています。表柱(向拝柱)は4本見え、回廊の欄干には擬宝珠の飾りがあります。
狛犬は一対で、その台座に改代町の銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
右端に金網フェンスがあります。
右から赤城神社の拝殿、おそらく杉1本、赤城会館です。赤城会館には左三つ巴紋()がつけられています。会館は結婚式などを行っています。
右から赤城会館、昭忠碑の台座、鳥居、下に行く北参道。「昭忠」とは忠義を明らかにすること。日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫、しかし、平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。かわって赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社という3神社が建立。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8298とID 14161は「赤城神社」を「昭和44年頃か」に撮ったと備考で書かれています。この2枚の写真は人間がわずかに違うだけで、連続して撮影したものでしょう。
ID 8293とよく似ていますが、相違点があります。
第一に、左の玉垣の一部がないことです。ID 8293をよく見ると、玉垣の上部に黒い筋があります。この位置で計画的に除却したのか、あるいは継ぎ目が割れて外れたのか、分かりません。
第二に、このID 8298は好天で、建物の影が出ていることです。また境内の駐車車両も違っており、別の日の撮影と推測できます。
それ以外はよく似ています。看板は「昭和四十五年度園児募集」、写っている人もコート姿や厚着で、季節は冬です。ちなみにID 389とID 390は昭和44年12月でした。
では、左から見ておきます。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6869とID 6870は、1945-55年(昭和20-30年)に、赤城神社で七五三のお祝いを撮ったものです。
赤城神社は昭和20年4月13日、戦災で全てなくなりましたが、本殿は昭和26年に再建。拝殿などの再建は昭和34年なので、この撮影は拝殿の再建前の出来事でした。赤城神社の七五三は他にもID 388があり、こちらは昭和28年11月に撮影しています。この写真2枚(ID 6869とID 6870)も同じく昭和28年11月に撮影した可能性があります。
(1)ID 6869 七五三詣り
正面で神職が向き合っているのが再建した本殿です。本殿には簾(和風カーテン)、お供え、三宝(お供えを盛る台)と高坏、金襴の布などが並び、回廊には擬宝珠の飾りがあります。神職の左右は榊の枝です。
その前に神主が座り、さらに手前に七五三詣りの家族たちが並んで座っています。これは仮設の拝殿であり、木造がわかる安普請であり、天井からは裸電球が下がっています。柱の前には賽銭箱が置かれ、通常はここで参拝するのでしょう。この仮拝殿はID 388でも確認できます。右の手前には母親の手を握る子供もいて、早く見たいといっているようです。
高札様の看板(屋根付きの看板)では「復興瓦奉納受付/御奇篤の方は復興計画中の拝殿の/瓦を御寄進願います/御氏名記入の上葺上げます/1枚金五拾圓」、下には「富◯冩眞舘で/神楽坂五ノ三二」。左の立て看板は「七五三お祝いの方は/御祈祷料を添へて/受付之お申出で/下さい」。「葺上げ」は 屋根を仕上げることです。
(2)ID 6869 露店
石敷の参道の左右に露店が連なっています。参道の奥の仮設拝殿の屋根の下に参拝者が並んでいます。参道の左右に狛犬。右の台座は「改代町」と読むのは、ID 389と同じです。
右の狛犬の背には鉄製の天水桶が見えます。また、左の狛犬のやや左上に石碑がありそうで、茂みから頭をのぞかせています。昭忠碑と同時期にあった少し低い石碑かもしれません。
写真の右端に小さな鳥居があり、参道が分かれています。その先には出世稲荷神社があります。
露店では香具師がさまざまなものを売っています。右手前の黒い服の人は風船、その次の白い服の人はおそらく菓子、その次は千歳飴の屋台です。さら奥に見える壺は甘酒売りでしょうか。左手前は刀や人形などのおもちゃを並べ、奥にも露店が続きます。風船の影はまるで「日の丸」のようです。
参道には親子連れなどが行き交い、振袖と髪飾りをつけた女の子もいます。
左奥は木造の簡素な民家が並びます。その前の枯れたような木は「巨大なやけぼっくいになった大銀杏」でしょうか。さらに左に行けば赤城下町へ下る北参道の階段があるはずですが、この写真には写っていません。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」でID 389は「昭和44年(1969年)12月」に「赤城神社本殿」を撮り、ID 390は「同年12月」「赤城神社」を、ID 8262は「昭和44年頃か」と疑っていて「赤城神社(改代町の狛犬)」を、ID 8292とID 8293は「昭和44年頃か」「赤城神社」を撮ったと備考で書かれています。
戦後の1951年(昭和26年)、本殿を再建し、さらに1959年(昭和34年)、鉄筋コンクリートで拝殿などを再建しています。
(1)赤城神社拝殿
ID 389とID 8262は、いずれも赤城神社の拝殿を正面から撮っています。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、入母屋造風で破風が正面を向いています。これは権現造と呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。垂木飾りがあり、鈴緒が左三つ巴()の賽銭箱に向かって垂れています(図)。表柱(向拝柱)は4本見え、回廊の欄干には擬宝珠の飾りがあります。
狛犬は一対で、その台座に改代町の銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
向かって左の建物の看板には「館」が見えます。これは結婚式場の赤城会館でした。右は同様に社務所と、その奥は赤城幼稚園のようです。赤城幼稚園は1950年頃に開園し、2009年に閉園しました。
赤城会館、赤城幼稚園とも(3)赤城神社の遠景に案内看板が出ています。
ID 8262では右の手前に金網フェンスがあります。
(2)神門と鳥居
門(神社なので神門と呼ぶそうです)の直前から内部への写真を撮っています。左側の玉垣に「赤城神社」、右側は無地の玉垣で、高札様の看板(屋根付きの看板)「赤城(会館)」と看板「之より境内につき 神社関係以外の 自動車通行止」と門灯があり、次に大きな社号標(神社名を建てたもの)の「赤城神(社)」です。参道を進むと、左手にドラム缶数個と二輪手押し車1台、砂1山があります。
鳥居はID 388で遠くに見えていて、おそらく戦前からあるものです。鳥居の礎石の「通寺町」は現在の「神楽坂6丁目」です。左側には民家があり、舞踊などを教える「教授」、読めない看板と自動車1台があります。右側にも民家があります。
さらに進むとアーチ型(⨅)の車止めが参道の中央に置かれ、その右側には「駐車禁止」と書かれ、また幹巻きを行っている木も数本あります。
(3)赤城神社の遠景
さらに赤城神社から遠くなります。左から。
住宅地図 1965年。赤丸の上はID 389とID 8262、真ん中はID 390とID 8293、下はID 8292。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 388は、昭和28年11月に、赤城神社の入り口付近を撮った写真です。
左に石の社号標(神社名を石柱などに刻んで建てたもの)の「赤城神社」、右に看板「赤城神社御造営作事場」があります。「造営」とは神社・寺院・宮殿などを建てることで、「作事場」とは土木建築の仕事場や 工事現場のこと。赤城神社のウェブサイトによると…。
残念なことに、その立派なお社も昭和20年4月13日夕刻の戦災により、ことごとく焼失してしまいました。 終戦後、昭和23年より復興の計画を立て昭和26年10月16日には本殿を竣功、最終的に拝殿、幣殿ができあがったのは、復興計画から10有余年を経た昭和34年5月でした。 |
つまり、この撮影の時は戦災からの再建途上で、本殿はあっても拝殿はまたできていません。参道の右奥のトラックも工事のためでしょうか。
社号標の手前は側溝をはさんで道路がありますが、よく見ると現在の神楽坂の路地のようにピンコロ石を扇状に並べた石畳でした。
参道は未舗装で、鳥居の跡に礎石があります。後に鳥居は写真より奥まった位置に再建され、社号標も別のものになりました。
参道の両脇は民家のようです。右の電柱の看板は「赤城〇〇建設中」と読めますが、詳細は不明です。左にはいかにも昔の自動車が停まっています。
左に5角形の板「赤城〇〇」があり、正面奥には中鳥居、その奥に本殿が見えます。中鳥居の奥にはガーデンパラソルが見え、何かを売っているようです。
参道には晴着姿の親子連れが目立ち、七五三の参拝客でしょう。1人の女の子は洋服と千歳飴を持ち、もう1人の女の子は着物と帯を着て、隣の母親でしょうか、千歳飴を持っています。ID 388の説明は11月ですが、おそらく11月15日頃です。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 564は昭和27年(1952年)の、ID 13029は、昭和28-29年の、赤城神社の台地からの遠望写真です。
以下は地元の方の解説です。へーっと驚くことばかり。たとえば、台地と上の建物、これってなんでしょう。
ID 13029では、写真左の水平線に早稲田大学の校舎と大隈講堂が見えます。正面の高台は文京区の関口台で、植物に覆われた斜面は現在の文京区立江戸川公園です。明治以来ソメイヨシノの名所として知られ、この斜面に沿って神田川が流れています。 台地の上はホテル椿山荘です。戦災で三重塔以外が焼け落ちましたが、戦後に椿山荘は建物を再建して昭和28年3月に営業再開しました。ID 12145(昭和36年)の最遠部でも確認できます。 さらに右側の白い建物は分かりませんが、獨協学園の校舎と思われます。右端の水平線のビルは講談社かもしれません。 つまり撮影したのは北西方向でした。この台地の眺望を野田宇太郎は「文学散歩」でパリのモンマルトルの丘に例えました。現在はビルですっかり視界が狭まりましたが、ID 14051(平成31年)のように、まだ眼下に「赤城下町」を見ることが出来ます。 一帯は戦災焼失区域ですが、戦後10年にならないのに家で埋め尽くされています。ただ終戦直後のにわか作りと思われる平屋が目立ちます。煙突が多数あることも印象的です。銭湯ばかりでなく店や会社が自前でゴミ焼却炉を備えていた時代でした。 正面手前、細い鉄柱からポールが伸び、最上部に黒っぽい丸い玉がついているものは、恐らく航空障害塔です。夜には赤い光を発したでしょう。赤城台が、それだけ高く感じられていたことだと思います。 ID 564は、ID 13029と似た写真ですが、少し左を向いています。大きな煙突が左端に写り、大隈講堂の塔も右に寄った位置に写っています。 |
ゴミ焼却炉 環境省の「日本の廃棄物処理の歴史と現状」(2014年)を簡単にまとめると
航空障害灯 航空機に対し、航行の障害となる高い建物などの存在を知らせるために設置する灯火。昭和35年から高さ60m以上の物件。その以前の高さは未詳。
赤城の丘 昨年秋、パリのモンマルトルの丘の街を歩いていたわたくしは、何となく東京の山の手の台地のことを思い出していた。パリほどに自由で明るい藝術的雰囲気はのぞめないにしても、たとえばサクレ・クール寺院あたりからのパリ市街の展望なら、それに似たところが東京にもあったと感じ、先ず思い出したのは神田駿河台、そして牛込の赤城神社境内などだった。規模は小さいし、眼下の市街も調和がなくて薄ぎたないが、それに文化理念の磨きをかけ、調和の美を加えたら、小型のモンマルトルの丘位にはなるだろうと思ったことであった。 |
パリでのそうした経験を再び思い出しだのは、筑土八幡宮の裏から横寺町に向うために白銀町の高台に出て、清潔で広々とした感じの白銀公園の前を通ったときであった。 ところで、駿河台の丘はしばしば通る機会もあるが、赤城神社の丘はもう随分長い間行ってみない。まだ戦災の跡も生々しい頃以来ではなかろうか。横寺町から矢来町に出たわたくしは、これも大正二年創立以来の文壇旧跡には違いない出版社の新潮社脇から、嘗ては廣津柳浪が住み、柳浪に入門した若き日の永井荷風などもしばしば通ったに違いない小路にはいり、旧通寺町の神楽坂六丁目に出て、その北側の赤城神社へ歩いた。このあたりは神社を中心にして赤城元町の名が今も残っている。 |
戦災後の人心変化で信仰心が急激にうすらいだせいもあろうが、わたくしが戦後はじめて訪れた頃に比べて大した変化はない。変化がないのはいよいよさみしくなっていることである。持参した『新東京文学散歩』を出してみると「赤城の丘」と題したその一節に、そのときのことをわたくしは書いている。――「赤城神社と彫られた御影石の大きな石碑は戦火に焼けて中途から折れたまま。大きな石灯籠も火のためにぼろぼろに痛んでゐる。長い参道は昔の姿をしのばせるが、この丘に聳えた、往昔の欝蒼たる樹立はすつかり坊主になって、神殿の横の有名な銀杏の古木は、途中から折れてなくなり、黒々と焼け焦げた腹の中を見せてゐる。それでもどうやら分厚な皮膚だけが、銀杏の木膚の色をみせてこの黒と灰白色とのコントラストは、青い空の色をバックにして、私にダリの絵の構図を思ひ出させる。ダリのやうに真紅な絵具を使はないだけ、まだこの自然のシュウルレアリスムは藝術的で日本的だと思つた。」 |
無惨に折れていた赤城神社の大さな標石が新らしくなっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変らず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたくしの記憶の通りと云ってよい。戦前までの平家造りの多かった市街と違って、やたらに安易なビルが建ちはじめた現在では、もう見晴らしのよいことで知られた時代の赤城神社の特色はすっかり失われたのである。それまで小さなモンマルトルの丘を夢見ながら来た自分が、恥かしいことに思われた。戦後は見晴らしの一つの目印でもあった早稲田大学大隈講堂の時計塔も、今は新らしいビルの陰にかくれたのか、一向にみつからない。 |
それでも神殿脇の明治三十七、八年の日露戦役を記念する昭忠碑の前からは急な石段が丘の下の赤城下町につづいている。その石段上の崖に面した空地は、明治三十八年に坪内逍遙が易風会と名付けた脚本朗読や俗曲の研究会をひらいて、はじめて自作の「妹山背山」を試演した、清風亭という貸席のあったところである。その前明治三十七年十二月には、雑誌「文庫」の「新体詩同好会」も開かれた家であったが、加能作次郎が昭和三年刊の『大東京繁昌記』山手篇に書いた「早稲田神楽坂」によると、明治末年からはもう清風亭は長生館という下宿屋に変り、「たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てゝ小石川の高台を望んだ静かな家」であった長生館には、早稲田大学の片上伸や、近松秋江や、加能作次郎自身も一時下宿したことがあったという。その前の清風亭はつぶれたのではなく、その経営者があらたに江戸川べりに新らしい清風亭を構えて移っていて、坪内逍遙の文藝協会以来の縁故からでもあったろうが、江戸川べりに移った清風亭では、島村抱月や松井須磨子が逍遥の許を去って大正二年秋に藝術座を起した、その計画打合せなどがひそかに行われたらしい、とこれも加納作次郎の「早稲田神楽坂」に書かれている。 |
清風亭はもちろん、長生館も戦災と共に消えた。赤城の丘から赤城下町へ、急な石段を下りてゆくと、いきなり谷間のような坂道の十字路に出た。そこから右へだらだらと坂が下り、左は曲折をもつ上り坂となる。わたくしは左の上り坂を辿って矢来町ぞいの道を右へ折れた。左は崖上、右の崖下には赤城下町がひろがっている。崖下の小路の銭湯から、湯上りの若い女が一人、赤い容器に入れた洗面道具を小腋に抱いて、ことことと石段を上って来たかと思うと、そのままわたくしの前を春風に吹かれながらさも快げに歩き、すぐ近くの、崖下の小さいアパートの中に姿を消した。 赤城の丘ではかなく消えていたモンマルトルの思い出が、また何となくよみがえる一瞬でもあった。 |
牛込区赤城元町〔新宿区赤城元町〕の赤城神社は始めは赤城明神。『江戸名所図会』では
同所北の裏通にあり、牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。往古 大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請して近戸明神と称す。その子孫重泰、当国に移りて、牛込に住せり。又大胡を改めて、牛込を氏とし、(其居住の地は牛込わら店の辺なり。先に弁ず。)祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり。(当社始めて勧請の地は、目白の下関口領の田の中にあり。今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり。) | ○赤城明神社
[現代語訳。一部は新宿歴史博物館「江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり」平成12年から]牛込の鎮守で、神社の境内の寺は天台宗東覚寺。祭神は上野国赤城山と同じで、本地仏は将軍地蔵菩薩という。昔、大胡氏がこの神を深く信仰し、始めは領地に祀って近戸明神と称した。その子孫重泰が武蔵国に移って牛込に住み、姓を改めて牛込氏とし(城館は牛込藁店の辺。前述した。)代々信仰してきたこの神を移し祀ったものである。祭礼は9月19日。始めに祀った場所は目白の下関口領の田圃の中であった。今も少しばかりの木立があり、これを赤城の森と呼んでいる。 |
江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌。神田雉子町の名主であった斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代の調査によって作成。名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪旦による絵入りで解説。7巻20冊。前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版
別当 別当寺。神社の境内にあり、供僧が祭祀・読経・加持祈禱を行い、神社の管理経営を行った寺。
正安2年(1300年)、群馬県赤城山赤城神社の分霊を早稲田の田島村(現在の新宿区早稲田鶴巻町、元赤城神社)に勧請。寛正元年(1460年)、牛込へ移動。明治6年に郷社に。郷社とは神社の社格で、府県社の下、村社の上に位置する神社。例祭日は毎年9月19日。
『新撰東京名所図会』牛込区(明治37年)では
赤城神社は赤城元町十六番地に鎮座す。社格郷社、石の鳥居あり、表門は南に面す、総朱塗、柱間二間、左に門番所あり、間口一間半奥行二間半、門内甃石一條、左に茶亭あり、赤城亭と稱し、参拝人の休憩所に充てたり。側らに藤棚一架及び桜を植ゑたり、右に卜者の宅並に格子造に住みなしたる家一と棟あり。更に進む事二十餘武、右に末社北野神社、出世稲荷、葵神社の小祠宇あり(中略) 本社間口三間奥行二間半、社の後、石の玉垣を繞らす、慶応二丙寅年十一月築造する所。此辺樹木、鬱として昼猶暗し。皆年経たる樅なり。即ち境内の北隅、崖に臨んで清風亭あり。 |
清風亭は貸座敷で、江戸川(現、神田川)の文京区水道町27(芳賀善次郎著『新宿の散歩道』三光社、昭和47年)に移ります。そのあとは下宿の長生館でした。明治36年、近松秋江氏は清風亭で慟く大貫ますと同棲し、明治40年6月、ますに赤城元町七番地で小間物屋を経営させていました。明治42年8月、ますに去られ、氏は『別れたる妻に送る手紙』(大正2年)を刊行し、また、大正2年10月から長生館に下宿しています。