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野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈③

   白秋と「物理学校裏」

 マスコミにかまけて俗物繁栄時代の文学界では、純粋で高度の文学者の研究は立ち遅れ気味で、北原白秋ほどの卓越たくえつした詩人さえ、もう歿後二十七年というに、まだ完全な年譜も見当らない。いくらか良心的と思われるもっとも新らしい白秋年譜で、例えば牛込山伏町から神楽坂二丁目に移った年代を調べようとすると相変らず明治四十二年十月末となっている。これは昭和十八年六月発行の雑誌「多摩」北原白秋追悼号に、側近の人々によってかなり詳しく書かれた年譜をよく検討せずにそのまま孫引している結果らしい。わたくしは昭和二十六年に『新東京文学散歩』で神楽坂の白秋を書いたとき、石川啄木の日記によって「明治四十一年十月の末近く」と訂正しておいた。それは啄木の四十一年七月二十七日の日記に「北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。」とあり、また同年十月二十九日には「北原君から転居のハガキ」「北原君の新居を訪ふ」として、やがて白秋が「物理学校裏」という詩を作ることになった神楽坂二丁目の家のことが、あたかもその詩の情景を裏書きでもしたように詳しく記録されているからであった。戦後に一応は流布るふした筈の『石川啄木日記』やわたくしの『新東京文学散歩』も、近頃の研究家にはもう活用されていないのであろう。
 わたくしは神楽坂をニ丁目から三丁目へようやく坂の頂上近くまで登り着き、三丁目と二丁目の境に当る左側の横丁に折れた。その三丁目角は戦前しばしば寄ったことのある田原屋というフルーツ・パーラーの跡で、今は山本という薬店になっているが、表口を注意して見ると、まだフルーツ・パーラー時代のモザイク模様のタイル敷きの断片がのこっている。その横丁の小路をそのまま南へ辿ってゆけば旧物理学校東京理科大学裏の崖上に出る。それは戦前の地図も現在の地図も同じである。小さなアパートや小料理店などが両側に並んで、小型自動車一台がやっと通れるほどのトンネルのような小路を、わたくしは北原白秋の「物理学校裹」という詩を切れぎれに思い出しながら歩いた。
 「物理学校裏」は大正二年七月刊行の白秋第三詩集『東京景物詩及其他』に収められ、「明治四十三年三月」作となっている。白秋は九州柳河の実家の破産問題などがあって明治四十二年秋にはもう神楽坂を去って本郷動坂に移り、翌四十三年二月には牛込新小川町に移るというあわただしい時代を迎えたが、創作慾はいよいよ(さか)んで、またその頃はパンの会もようやく隆盛期に入っていたから、「物理学校裏」は市街情調詩として新小川町で書きあげた名作の一つに違いないが、内容はあくまでも初夏の神楽坂の強烈な印象である。(この章は以下略)

41年7月27日の日記 石川啄木の日記から。

 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍つて、耳が――左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴つてゐた。
 いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言つてゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなつてから辞した。途中まで送つて、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。
 北原君は十一円の家賃の家に住つて、老婆を一人雇つてゐる。
 その時は余程頭に余裕が出てゐた。
 神楽坂の中腹のトアル氷屋に入つた。夕日の光で、坂を上る人も下る人も、長い長い影法師を逆まに坂に落して歩いてゐた。ガツカリした気持でそれを眺めてゐて、やがて遣瀬もない“放浪”の悲みを覚えた。そこを出て間もなく、卜ある店の時計を覗くと、恰度午後六時を示してゐた。
同年10月29日 石川啄木の日記から。

 九時頃起きると直ぐ吉井君が来た。吉井君も小説をかくと言つてゐる。一緒に昼飯を食つてると、北原君から転居のハガキ。二時頃、栗原君へ小説の予告文をかいて手紙。それを投函し乍ら二人で平野君を訪ふたが不在。
 吉井君とは別れて帰つた。何となく気が落付かぬ。堀合君へ行つて一円借りて、出かけた。大学の前で横浜工学士に逢つた。北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上つた。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒つてるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一日の談話につかれてゐてすぐ床についた

かまける あることに気を取られて、他のことをなおざりにする。
歿後二十七年 北原氏は昭和17年に死亡し、それから27年も時が経ち、現在は昭和44年です。
山本 小路の直後は山本漬物店(山本薬局)でした。細かくは3丁目南側最東部で。
横丁の小路 おそらく右の無名の小路です。
トンネルのような小路 おそらく小栗横町でしょう。
本郷動坂 本駒込4丁目と千駄木4丁目の境
新小川町 1982年から単独町名。「丁目」は消えている。詳しくは地図の新小川町
情調 その物のかもし出す雰囲気。心にしみる趣。感覚に伴って起こるさまざまな感情。

 以下の文章はここでは省略。それでも注釈はあります。

この詩 この詩は「物理学校裏」で細かく書いています。
深い 原文は「うすい」
Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。
浮彫 平らな面に模様や形が浮き出すように彫り上げた彫刻。あるものがはっきりと見えるようにすること
甲武鉄道 御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿を経由、八王子に至る鉄道を保有・運営した。1889年(明治22年)新宿と立川で開業。1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により10月1日に国有化。
飯田町駅 1895年(明治28年)、中央本線を敷設した甲武鉄道の東京側のターミナル駅として開設。
牛込駅 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近。細かくは牛込駅
明星 1900年(明治33年)4月、同人結社東京新詩社の機関誌として、与謝野鉄幹が主宰となり創刊。詩歌を中心とする月刊文芸誌。1908年(明治41年)11月の第100号で廃刊。
スバル 1909年から1913年まで発刊。創刊号の発行人は石川啄木。他に木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載。スバル派と呼ばれた。

神楽坂の今昔3|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。氏は小説家と随筆家で、1926(大正15)年、日本国有鉄道(国鉄)本社に入社し、1932(昭和7)年には、法政大学高等師範部を卒業しています。

 ◆ 面白い口上とサクラ
 現在は五の日だけ、それも毘沙門さんの前に出るだけだが、当時は、天気さえよければ、神楽坂両側全部に夜店がならんだ。
 まず思い出すのは、バナナのたたき売りだ。
 戸板の上に、バナナの房を並べ、竹の棒で板をたたきながら、「さあ、どうだ、一円五十銭」と値をつけて、だんだん安くしていく。取りかこんだお客に、「お前たちの目は節穴か、それとも余程の貧乏人だな」などと毒舌をはきながら、巧みに売りつける。こちらも、そんな手にはのらない。大きな房が五十銭、中くらいが三十銭まで下がるのを待つ。そのカケヒキが楽しかった。一篭十二貫入りが十篭も売れたものだ。
 万年筆売りの口上は、いつでも倒産の整理品か、火事の焼け残り品にきまっていた。店が倒産して、給料代わりにもらった品だから、二束三文で売るのだという。また万年筆にわざわざ泥をつけて、いかにも火事場から持ってきたように見せかけ、泣きを入れてお客の同情をそそった。
 毎晩同じセリフで商売になったのだから、悠長な時代でもあったし、同時にその品物が、それほどのゴマカシものではなかったわけだ。
 サクラ専門の男がいて、「おー、これは安い。三本もらおう」といって買って行くが、一時間もすると、再びやってきて、今度は五本も買う。
 彼は、万年筆屋専属でなく、カミソリ屋にも頼まれていて、「おや、これはドイツのゾリンゲンじゃないか。日本製と同じ値段だな」などといって買うのであった。
 ガマの油売りもいた。暗記術というのもあった。その他屋台では、すし、おでん、串カツ、それから熊公焼きというアンコ巻きもよく売れていた。カルメ焼き電気アメ、七色とうがらし、小間物、台所用品、ボタン、衣料、下駄などの日常必需品、植木、花、金魚、花火なんでもあった。

口上 口頭で事柄を伝達すること。俳優が観客に対して、舞台から述べる挨拶。
ゴマカシもの いんちきな品。にせもの
サクラ 露店商などの仲間で、客のふりをし、品物を褒めたり買ったりして客に買い気を起こさせる者。
ゾリンゲン Solingen. ドイツ西部、ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。刃物工業で有名
ガマの油売り 筑波山のガマガエルから油をとり、傷を治す軟膏を売る人
あんこ巻き 小麦粉の生地で小豆餡を巻いた鉄板焼きの菓子。
カルメ焼き 砂糖を煮つめて泡立たせ、軽石状に固まらせた菓子。語源はポルトガル語のcaramelo(砂糖菓子)から。
電気アメ 綿菓子のこと。

 ◆ 文士と芸者とたちんぼ
 大正から昭和へかけて、牛込界隈には多くの文士が住んでいた。また関東大震災で焼け残った情緒のある街神楽坂へ、遠くからやってくる文士もあった。それらの人たちが、うまいフランス料理を食べさせる田原屋へみんな集まったのであった。夏目漱石吉井勇菊池寛佐藤春夫永井荷風サトウハチロー今東光今日出海、その他、芸能人の顔も見られた。
 このうちの幾人かは、自分のウイスキー(ジョニ赤)を預けておき、料理を取って、それを飲むという習慣だったそうだ。いま流行しているキーボックス・システムのはしりといっていい。
 文士の皆さんも、田原屋だけでなく、神楽坂三丁目裏の待合でお遊びになったと思うが、当時は芸者が千五百人もいた。だから、夕方になると左褄(ひだりづま)をとった座敷着の芸者が、神楽坂を上ったり下ったりする姿が見られた。
 現在は、わずかに二百人である。しかも、ホステスともOLとも区別がつかぬ服装で、アパート住まいの芸者が出勤して来るのだから、風情も何もないのである。
 神楽坂下には、たちんぼと呼ばれる職業の人が二、三人いた。四十過ぎの男ばかりで、地下足袋股引(ももひき)しるしばんてんという服装だった。
 八百屋、果物屋その他の商売の人たちが、神田市場、あるいはほかの問屋から品物を仕入れ、大八車を引いて坂下まで帰ってくる。一人ではとても坂はあがれない。そこで、たちんぼに坂の頂上まで押してもらうのであった。
 いくばくかの押し賃をもらうと、彼らは再び坂下に戻って、次の車を待つのであった。この商売は、神楽坂だけのものだったにちがいない。

ジョニ赤 スコッチウイスキーの銘柄ジョニー・ウォーカー・レッドラベルの日本での愛称
キーボックス・システム 現在はボトルキープと呼びます。酒場でウイスキーなどの酒を瓶で買って残った分を店で保管するシステム。
左褄を取る 芸者が左手で着物の褄を取って歩くところから、芸者になる。芸者勤めをする。
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
ホステス hostess。バーやナイトクラブなどで、接客する女性。
OL 和製英語 office lady の略。女性の会社員、事務員。
たちんぼ 道端、特に坂の下などに立って待ち、通る荷車の後押しをして駄賃をもらう者。
地下足袋 じかに地面を歩く足袋。「地下」は当て字
股引 ズボン状の下半身に着用する下ばき。江戸末期から、半纏はんてん、腹掛けとともに職人の常用着。
しるしばんてん 印半纏。襟や背などに、家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から、職人などが着用した。
神楽坂だけのもの 昭和初期まで東京中で見られ、神楽坂だけではないようです。

大震災②|昭和文壇側面史|浅見淵

文学と神楽坂

 いっぽう、神楽坂の横丁の植木垣のつづいたもの静かな屋敷町に、医院の跡を買って銀座のプランタンが進出して来たりもした。このプランタンは近年文春クラブの面倒を見ていた洋画家の松山省三氏(前進座河原崎国太郎の父)の店で、銀座で開店している時には、正宗白鳥小山内薫吉井勇なども現われ、また「荷風日記」などにも屢〻出てくる。最近故人となった文春社長の佐佐木茂索がまだ「時事新報」の文芸記者を勤めていた時代で、茂索は当時新潮社の通りの突き当たりの矢来下にあった、兄さんの経営する骨董屋の別棟の洋館に住んでいたと思うが、プランタンが神楽坂に引越してくると、目立つその常連の一人となっていた。また広津和郎氏などもよく姿を見せ、みんなは別室で麻雀の卓を囲んでいたようだった。その時分はまだ麻雀クラブなど無い時代だった。この二人に限らず、広津、佐佐木氏たちの年代の作家たちが、大勢出入りして人目を惹いていた。ぼくが徳田秋声の愛人の山田順子をはじめて見たのもここだった。なかなかの北国美人だったが、秋田なまりが気になった。その時分はカクテルが流行した時分で、ここの一杯三十銭のマンハッタン・カクテルというのが口当りがよくて評判になり、早稲田の文科生なども大勢通っていた。

屋敷町 岩戸町二十四番地で、川喜田屋横丁と呼んでいます
カフェープラントンプランタン Café Printemps。飲食店。1911年(明治44年)、銀座に開業し、「日本初のカフェ」。喫茶店とはいえ、洋食がメニューの中心。料理はソーセージ、マカロニグラタンなど珍しいメニューや「焼きサンドイッチ」など。関東大震災後の1、2年間は牛込岩戸町二十四番地に。戦争中は休業状態、1945年(昭和20年)3月、建物疎開で店は取壊されました。
文春クラブ 文春クラブは文春地下にあったクラブ。作家や職員用に作ったものでしょう。
前進座 昭和6年(1931年)に歌舞伎界の因襲的な制度に反発して松竹を脱退した中村翫右衛門、河原崎長十郎、市川荒次郎を中心に結成された劇団。古典歌舞伎のみならず、現代劇、大衆演劇、児童演劇など多くのジャンルの演劇作品を上演。
河原崎国太郎 5代目。1909―90。本名松山太郎。洋画家松山省三の子。2世市川猿之助の門に入り、市川笑也(えみや)と名のり、劇団前進座の結成に参加。1932年(昭和7)5代目国太郎を襲名。前進座の(たて)女方(おやま)(女形の中で、最高位の俳優)として活躍。
荷風日記 『断腸亭(だんちょうてい)日乗(にちじょう)』のこと。永井氏は1917年(大正6年)9月16日から、死の前日、1959年(昭和34年)4月29日まで日記をつけていました。
時事新報 福沢諭吉が1882年3月1日に創刊した日刊紙。当時の東京の政論新聞は自由党、改進党、帝政党の機関紙の全盛時代でしたが、「独立不羈、官民調和」を旗印とする中立新聞として、大正の中期まで日本の代表的新聞。「日本一の時事新報」と称しました。 本社は東京日本橋区
マンハッタン矢来下 酒井家屋敷の北側の早稲田(神楽坂)通りから天神町に下る一帯を矢来下といっています。
マンハッタン・カクテル Manhattan cocktail. 通称カクテルの女王。ライ・ウイスキーなどを2、スイートベルモットを 1、アンゴスチュラビターズ数滴で作ります。色は琥珀色(ブラウン)

文豪の素顔|森鴎外(1)

文学と神楽坂

 長田幹彦氏が1953年の66歳の際に書かれた『文豪の素顔』です。氏は1887年3月1日に生まれ、没年は1964年5月6日なので、これは21歳に起きたことです。この日、森鴎外氏、上田敏氏、夏目漱石氏が一か所に集まったのです。これはその時の話です。

  森鴎外

 今夜の青楊会の会合は午後六時の開宴である。今は丁度三時だ。まだ彼これ三時間間があるわけである。はその間に何んとかして兄秀雄と二人分の会費を算段してこなくてはならないのである。二人で十円あれば、悠々と会へ出られるのだが、打つてもみしやいでも僕のガマロには五十銭玉がたつたひとつしか残つてゐない。まことにお寒い昨今である。兄秀雄は昨夜七時すぎに吉井勇と落合つて家を飛び出してしまつたきり、例によって膿んだでもなけりやつぶれたでもない。きつと又あのまま神楽坂の小待合へでも溺没してしまつたのであらう。きつと会がはじまる頃に、白粉くさくなつて、ひよろりと現はれるに相違ない。
 何よりも困つたのは、僕が虎の子のやうに愛蔵してゐた、あの「ゾラ全集」と「ゴンクール全集」をまんまと持ち出されてしまつたことである。兄貴のこの頃の御乱行は実さい眼にあまるものがあつた。悪友勇と一しよになると、手あたり次第に何んでもかでも持ち出してしまふ。一昨日なぞは親父の外套をきていつてしまつたので、親父は患家へ回診に出かけることも何も出来ず診察室でぷんぷん代診たちに当りちらしてゐた。真正直な温良な、実にいい親父であるだけに、僕はすつかり義憤を発して、もし深夜に兄貴が酔つぱらつて帰つてきたら今夜こそとたんにひつぱたいてやらうと思つて手ぐすねひいて待つてゐた。僕はボートできたへた腕なので、腕力では誰れにもまけない自信があつた。

森鴎外森鴎外 明治・大正期の小説家、評論家。軍医総監。医学博士・文学博士。本名は(もり)林太郎(りんたろう)。生年は1862年2月17日(文久2年1月19日)。没年は1922年(大正11年)7月9日。明治41年に行った上野精養軒の会合は46歳になっていました。
青楊会 せいようかい。森鴎外氏が作った送別会などの、文学者の宴会です。「鷗外日記」によれば明治41年(1908年)「四月十八日(土) 夜上野の青楊會に往く。夏目金之助等来会す」と書いています。また、これは3回目の青楊会でした。4月25日の上田敏宛の手紙では「君を送りまつりし會より生れし青楊會の三度目に又々夏目君などと出逢い候」と書いています。
 長田幹雄。ながたひでお。小説家。東京の生まれ。生年1887年3月1日、没年は1964年5月6日。秀雄の弟。「明星」「スバル」に参加。小説「(みお)」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名。この日は21歳でした。
秀雄 長田秀雄。ながたひでお。詩人・劇作家。生年は1885年(明治18年)5月13日。没年は1949年(昭和24年)5月5日。東京の生まれ。明治大学で学ぶ。幹彦の兄。「明星」「スバル」に参加。新劇運動に加わり、史劇で新分野を開きました。この時は23歳。
みしやい 「みしゃぐ」でしょうか。押しつぶす。ひしゃぐ
吉井勇 吉井勇よしいいさむ。歌人・劇作家。生年は1886年(明治19年)10月8日。没年は1960年(昭和35年)11月19日。東京の生まれ。早稲田大学中退。耽美派の拠点となる「パンの会」を結成。歌集は「酒ほがひ」「祇園歌集」「人間経」、戯曲は「午後三時」「俳諧亭句楽の死」など。22歳。
膿んだ ()む。化膿(かのう)すること
溺没 できぼつ。おぼれて沈むか、死ぬこと
虎の子 虎は自分の子をかわいがって育てる。それと同じで、大切に持ち続けて手放さない。
ゾラ Émile Zola。フランスの小説家。生年は1840.4.2。没年は1902.9.29。「実験小説論」を著し、自然主義文学の方法を唱道。
ゴンクール Edmond & Jules Huot de Goncourt。フランスの兄弟の小説家。自然主義の小説を合作。また、日本の浮世絵の研究・紹介にも努めました。
代診 担当の医師に代わって診察すること

 秀雄はたうとうその晩も帰つて来ず、昨日の正午頃、親父の外套は質にぶちこんだらしくふらりと帰つてきて、そのまま飯もくはずに二階へあがつて夜着をひつかぶつて寝てしまつた。実さい呆れ返つて、口がきけない。
 夕方になると、勇が叉現はれて、僕がちよつと出た留守に、二人でくだんの全集をひつかつぎ出したものに相違ない。四ケ月も五ケ月も学資の残余をこつこつためて、やつと買つた全集であるだけに、まんまとシテやられた口惜しさ! さすがの僕も腹をすゑかねた。弟のものはおれもの、おれのものはおれのもの式な、兄貴のわがままな横暴さが骨髄に徹して僕はどうしてくれようかと、全く切歯扼腕したのであつた。一たい兄貴のやうなぐうたらな土性骨のない人間はその時分でも珍らしかった。親父ももう此頃では、持余して、毎日心の中では血の涙をのんでゐるらしかった。
 さうかといって、今夜の会費だけは何んとかしてこしらへておいてやらないと、僕までが皆の前で恥ぢをかかなくちやならない。今夜は珍らしく森鴎外、上田敏夏目漱石の三先生がみえるといふので、われわれ文学青年にとつては、又とないかき入れの会合であつた。
 僕は万策つきて、たつた一枚しかないオーバーで金をこしらへるより外に手段はなかつた。幸ひ行きつけの質屋が、本郷にあるので、電車でそこへいつて、店先でオーバーをぬいで、やつと五円紙幣を二枚うけとつた。もう四月も十日過ぎ、桜の花もぽつぽつ咲きそろふ頃なので、薄地の背広一枚でもさうたいして寒くなかった。

切歯扼腕 せっしやくわん。歯ぎしりをし腕を強く握り締めること。残念や怒ったりすること
土性骨 どしょうぼね。性質・性根を強めて、ののしっていう語
上田敏 うえだ びん、文学者、評論家、翻訳家。生年は1874年(明治7年)10月30日。多くの外国語に通じて名訳を残しました。明治38年、訳詩集「海潮音」を刊行。明治41年、欧州へ留学し、帰国後、京都帝大教授に。没年は1916年(大正5年)7月9日。死亡は41歳でした。この日は34歳でした。
夏目漱石夏目漱石 なつめ そうせき。小説家、評論家、英文学者。生年は1867年2月9日(慶応3年1月5日)。没年は1916年(大正5年)12月9日。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を教え「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になりました。41歳。

 僕はその足で白山の御殿町にゐる木下杢太郎が一番鵬外先生に親 近してもゐたし、信用も一番あつたので、木下杢太郎のところへ廻つた。といふのは杢太郎が先生のお宅へ誘ひにあがつて、ごいつよに会場である上野の精養軒へお連れするのではないかと思つたからであった。もしかさうだつたらかねがねから近づきがたい先生にたつたひと言でも話しかけてみたいと、柄にもない念願をおこしたからであった。
 その時分の一しよのグループであった北原白秋、木下杢太郎、吉井勇の面々の間で、僕は年も二つや三つ下だし、それよりも第一秀 雄の舎弟とあっては一向に頭角を現はすわけにいかない。皆さうさうたる売り出しの詩人達であるから僕のやうな才の薄い散文家は、いつも卑屈な立場に立たされた。上眼づかひをしながら心にもないおベンチャラをいつてゐるしか手がない。だから秘蔵の書籍なんか遊蕩費がはりに持ち出されても実さいは、先輩や兄貴を張り倒すわけにもいかない退け目があつたわけである。お前はまだ処女膜が破けてゐねえんだなぞと人前でボロクソにいはれて、三下奴でへこへこしながらくッついて歩いてゐる情なさといったら全くなかった。一度なぞは勇が幹さん、その時計をかせッと叫んで僕の袴の紐へ手をかけて、何んともいへぬ貧ランな殺気をみせた。つまり僕の時計で金をこさへてもうひと晩吉原へいかうといふのである。僕はこれが文学のうへの先輩でなければ、むろん地面へ叩きつけてやつたに相違ない。僕だつて反面は狭量な一徹者であつたから、酔つてフラフラしてゐる勇ぐらゐひッぱたくのはへいちやらであつた。
 しかし彼の「酒ほがひ」にある一連の名歌を思ふと、碌すつぽなものもかけない自らを省みて何としても彼の頭へ鉄拳を加へるなんていふ勇気は、いつの間にかへなへなと消し飛んでしまふのである。しかし心の中ではいつも今にみやがれッと絶叫して虎視たんたんとしてゐたのは事実である。全くあの時分の吉井勇は名詮自称、無頼漢であり、智能人にすぐれてゐるくせに、手のつけられぬ洛陽の酒徒であった。秀雄、勇の徒は自分で質屋で金をこさへてくると、こっそり一人遊びをやるし、他人が金をもつてゐると弟だらうが先輩だらうが卜コトンまでタカつて素裸にしてしまふ。古風な蕩児らしいエゴイズムと残忍さをつぶさに身につけてゐた。

御殿町木下杢太郎御殿町 白山御殿町。町の大部分は白山御殿の跡です。左手に東京大学付属の小石川植物園があります。
木下杢太郎 きのした もくたろう。詩人、劇作家。後に東京大学医学部皮膚科教授。生年は1885年(明治18年)8月1日。没年は1945年(昭和20年)10月15日。本名は太田正雄。23歳。
精養軒 明治期の上野精養軒せいようけん。東京都台東区上野恩賜公園内にある最も古い西洋料理の店。図は明治期の上野精養軒
北原白秋 北原白秋きたはら はくしゅう。詩人、童謡作家、歌人。生年は1885年(明治18年)1月25日。没年は1942年(昭和17年)11月2日。23歳。
三下奴 さんしたやっこ。博打(ばくち)打ちの仲間で下っ端の者。
貧ラン どんらん。貪婪。とんらん。ひどく欲が深いこと
一徹者 いってつもの。思いこんだことはあくまで押し通す人
酒ほがひ さかほがひ。吉井勇の歌集。 1910年刊。718首を収録した第1歌集。青春の挫折感から酒と愛欲に耽溺した境地をうたったものが多く祇園を舞台とした歌が特に有名。「ほかう」は望む結果が得られるようなことばを唱えて神に祈ること。後世には濁って「ほがう」の形になりました。
虎視たんたん 虎視眈眈。こしたんたん。虎が鋭い目つきで獲物をねらっている様子。転じて、じっと機会をねらっているさま
名詮 みょうせん。仏語。名がそのものの性質を表していること
洛陽 後漢は、前漢(西漢)の都である長安から東の洛陽に遷都したため、洛陽を「東京」と呼びました。洛陽に京都という意味もありますが、吉井勇氏は東京生まれなので、この場合は洛陽は東京でしょう。
蕩児 とうじ。正業を忘れて、酒色にふける者

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(8)

文学と神楽坂

 その晩、杢さんは久しぶりだからといつて永代橋畔の都川といふ鳥屋へ連れていつて、ふんだんに飲ましてくれた。盃の間にも鷗外先生がああいつてくれたのだから、北原や吉井とは、別な方面から先生の支持をつけるやうにしたらどうだと親切にアドバイスしてくれる。君はいつも自分でミソッカスだといつて、好んで卑屈な態度に出るからいかんのだ、詩なんかつくれなくたつて、何も文学の道は外にいくらだつてある。
 僕は心の中で涙をおさへて、
「ねえ、杢さん、さつきも鴎外先生がいつとられたが、兄貴の『司祭と猫』つていふものは、ほんとにそんなにいい詩なんですか。どうか本当のことをいつて下さい。」僕はせめてそれで自分に自信をつけたかつた。
 杢さんはカツカツと舌を嗚らして、
「いい詩だつたよ。多分に性的な皮肉が歌はれていて、けんらんなものだつた。白秋もおれは震駭したといつてたな。しかし秀さんらしからぬ、光沢のありすぎる詩だつたよ。」
「兄貴はなんていつてゐるんですか。ほめると、何か反撥しますか。」
「うむ、おれはデーメルを捨てゝもう一度ヴェルレーヌからやり直すといつてるんだ。『司祭と猫』みたいなものを今後、いくつもかくと興奮してゐたな。」

都川都川 京橋区(現在の中央区)の隅田川の川縁、永代橋に近くにあった料理屋。この図は東京紅團(東京紅団)の『パンの会を歩く』 http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm からとりました。
ミソッカス みそっかす。味噌っ滓。子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。
震駭 しんがい。驚いて、ふるえあがること
デーメル リヒャルト・フェードル・レオポルト・デーメル。Richard Fedor Leopold Dehmel。ドイツの詩人。1863年11月18日~1920年2月8日
ヴェルレーヌ ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)(1844年3月30日 – 1896年1月8日)は、フランスの詩人。日本語訳では上田敏による「秋の日のヰ゛オロンのためいきの……」が有名

 すると、あのノートの中にはまだ『民族の果樹園』や『黒と金の饗宴』『夜の円舞曲』なんていふのが、七つも八つも残つてゐるから、それが兄貴の署名で一つ一つ些細な原稿料に化けるかもしれない。それとも、もう僕が北海道から帰つてきたから、これでやめるかな。
 さう僕は秀雄と杢さんの友情を思ふと、それから先のことは何んにもいへなかつた。まつたくいふに忍びなかつたのである。それほどに杢さんは清潔な芸術家であつたし、立派な人格であつた。
 すぐ下の隅田川では、曳船の小蒸汽船がしつきりなしに含み声なスクリューの音を水にこもらせてどんどん溯上してゐる。月がゆらゆらほの白く砕けてゐるところをみると、丁度今上げ潮らしい。川口の方では模糊とした月光の果てに、大島通いの東京丸がぼつッぼつッと汽笛を吹嗚してゐる。もうぢき出航するのであらう。
 その汽笛の音を聞いてゐると、僕の眼には宝蘭港の月夜や、吹雪の小樽港が今みるやうにまざまざと浮んでくる。空きッ腹に、幾度かうした、うら寂しい汽笛の音を聞き送つたことか。
 考へれば佗びしい二ヶ年にあまる旅路ではあつた。僕は涙がボロボロ溢れて、とめどがなかつた。

『民族…』の3編 残念ながらこの名前を使って小説になっているものはありません。
曳船 ひきふね。水路に浮かべた船を水路沿いの陸路から牽引すること。 曳舟(ひきふね)は東京都墨田区東向島の地名
溯上 流れをさかのぼっていくこと
川口 川口市。かわぐちし。埼玉県南東部の荒川北岸にある人口約57万人の市
宝蘭港 宝蘭港はありません。室蘭港ではないのでしょうか。むろらんこう。北海道室蘭市にある港湾です
小樽港 北海道小樽市にある港湾

小樽

 その晩、僕は本田といふ品川の友だちのところへ帰るにしては、とても酔ひすぎてゐたので、杢さんと一しよに、さつき契約をきめたばかりのあの根津の下宿屋へいつて、むりやりに泊めてもらつた。夜具がないので、おかみさんに頼んで、近辺の貸布団屋からやつとひと組コスメチック臭い木綿夜具を借りてもらつた。もう午前の一時すぎであつた。おかみさんはいやな顔もせず、親切に世話を焼いてくれた。
 あとから聞いて、さすがの僕もひと縮みになつてしまつたか、それは村松梢凰氏の伯母さんだつたのださうである。
 それを聞いたのは、彼れこれ二十年もたつてからであるが、いろいろ御迷惑をかけた昔日のことを思ふと、何ともかとも慚愧にたへない思ひである。
 翌朝、味噌汁の煮える匂ひで眼を覚ましてみると、案外落着いたいい部屋である。手拭から歯みがきまで一々買つてもらつて、近所の銭湯へいつて、湯だけは浴びてきたが、何分にも綻びの切れた、銘仙の袷が、垢でピカピカひかつてゐて、どうにも見すぼらしくつて、気がひけてならない。早速親父の家へいつて、ひと先づ机や行李や本の類を人力車にのせて運んできた。親父は、古い瀬戸ものの火鉢をひとつくれて、今度はしつかりやれと愛情をこめて激励してくれた。親父は兄貴よりも、僕にむろん全幅の信頼をかけてゐたのである。
 すつかり家具のおきどころをきめてから、その下宿ではじめての夕飯をくつた。塗膳には牛肉のすき焼きなんかがついてゐて、その時分にしてはとても扱ひのいい賄いであつた。一本つけてもらつて時間をかけてゆつくり飲んだ。こんな穴ぼこみたやうなところであるから、杢さんさへ黙つてゐてくれれば、誰れにもかぎつけられることはあるまい。秀雄や吉井勇なぞから全く隔絶して、僕は僕自身の道を歩こうと、深くふかく決心をきめた。
 北窓をあけると、すぐ真上は鴎外先生のお書斎の窓である。
 先生は午前の二時までも三時までも仕事をなさるらしく、いつみても黄色い灯が窓のカーテンにほのめいてゐる。それが消えるまで、僕は決して寝なかつた。僕はそこで出世作といはれる『零落』を、中央公論にかかしてもらつてやつと大正文壇に華々しくデビューしたのである。
 こないだ僕のところの近辺の娘さんが小堀杏奴女史のところへ伺つたら、僕がそこの下宿の窓から汚いドテラを着て、よく顏を出してゐたのを、子供心に覚えてゐるといはれたさうである。申す迄もなく、杏奴女史は鴎外先生の令嬢である。
 その時分おいくつ位だつたかしらないか、あのお宅におかつぱ頭の可愛らしいお嬢さんがゐられたとは想像も出来ない。それほどに先生の千朶山房は粛殺とした、冷厳な印象を僕に与へてゐる。それが先生の持つてをられた雰囲気そのものであつた。

コスメチック 化粧品・頭髪用化粧品の総称
村松梢凰 むらまつ しょうふう。小説家。1889年(明治22年)9月21日~1961年(昭和36年)2月13日。
慚愧 ざんき。自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること
銘仙 めいせん。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物
零落 れいらく。落ちぶれること。大正元年、長田幹彦氏は旅役者の生活を描いた『澪』『零落』で作家としてデビューしました。
小堀杏奴 こぼり あんぬ。森鴎外と志げの次女。随筆家。生年は1909年(明治42年)5月27日。没年は1998年(平成10年)4月2日。
粛殺 しゅくさつ。厳しい秋気が草木を枯らすこと

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(6)

文学と神楽坂

 僕は二年間の旅をおわつて、又風のごとくにへうへうと東京へ帰つてきた。明治四十四年の秋である。親父の家へ帰り度くても何だか敷居が高くて、帰りにくい。とにかく僕は、早稲田大学で相当真剣に勉強をしてゐて、決して学生として恥ずべき行為はしてゐなかつたにも拘らず、父がたうとう最後の手段として兄貴にの勘当をくはした。僕も実はそのそば杖をくつて、勘当の同伴を命じられたわけである。それといふのも僕の母親が秀雄を糞ッ可愛がり可愛がつてゐたので、親父への面当てに僕も追ひ出してしまへといふことになつたのである。こんな不条理な、封建的なことが平気で親子の間で行はれた時代が、日本にもごく最近まであつたのである。
 僕は窒息しさうな汚濁の雰囲気を離脱してたつた一人で北海道へ渡つてしまつた。二年間の放浪でずゐぶん苦労もしたので、人生の甘くないこともしみじみ感じとつてゐた。もう二度とふた度ああいつた詩人のグループなんかへ帰つていく気はしない。多愛のない芸術至上主義なんてものか、阿呆ッくさくみえてたまらなかつた。
 何にしろ長い間、東京を留守にしたのであるから、再び生活の根拠をきづきあけるのにひと骨折りをしなければならなかつた。当分の間は、収入の道が全くないのであるから、やむを得ず、友人の家をごろごろして歩くより外に暮らしやうがない。
 さういふ場合詩人たちは全然頼りにならなかつた。酒を飲むときには莫逆の友になるが、いざ生活のことになると、実さい酷薄をきはめたものであつた。尤も自分自身が既に無能力者で、手も足も出なかつたからであらう。いつの世にもさうだが、詩人の生活なんていふものは、溝川に消えてゆくあぶくのやうな頼りないものである。
 そこにまた美しさがあるのかもしれない。
 僕はある日杢さんを訪ねていつた。いつも変らなかつたのは、杢さんひとりである。
「やあ、よく帰つてきたね。たびたびおたよりありがたう。今度はほんとにいい経験をしたな。はゝゝゝゝ。」と、心から温情を示してくれる。
 さしづめ兄貴のゐどころが分らないので、それを聞くと、
「秀さんかね。秀さんは相変らず、あの浜町の桶屋の二階にくすぶつてるよ。一昨日もちよつと永代橋附近をスケッチして歩いたんでその帰りに寄つたがね。あすこは相変らす、梁山泊だな。今にあの天井裏のサロンもやがて壊滅するね。秀さんには、生活能力なんてものは全くないんだからな。」
「吉井君は。」
「吉井は下谷あたりに隠れてるらしいね。この頃ちつともパンの会も出て来ないがね。」といつて杢さんはぶきつちよな手つきで煙草に火をつけながら、「とにかく北海道のくさい匂ひのぬけないうちに、何かいいものをかくんだな。幹さん、今がチャンスだよ。」

へうへう 「へうへう」と書いて「ひょうひょう」と読みます。漢字では「飄飄」。足元がふらついているさま。また、目的もなくふらふらと行くさま。
たうとう 「たうとう」と書いて「とうとう」と読みます。物事が最終的にそうなるさま。ついに。結局
 「おさ」でも「ちょう」でも。多くの人の上に立ち、統率する人。
面当て つらあて。快く思わない人の面前で、わざと、あてこすりを言ったり意地悪をしたりすること。また、その言動。あてつけ
汚濁 よごれること。にごること。
多愛のない 他愛無い。たあいのない。しっかりした考えがない。また、幼くて思慮分別がない
芸術至上主義 芸術のための芸術を主張し、芸術の社会的・道徳的効用を否定する思潮
莫逆 ばくげき。 心に逆らうこと()しの意で、非常に親しい間柄。ばくぎゃく。
酷薄 こくはく。残酷で薄情なこと。
溝川 どぶがわ、どぶかわ。雨水・汚水などが流れる小さな川。どぶのように汚い川
浜町 日本橋浜町。下図を参照
永代橋 隅田川に架かる橋。中央区新川と江東区永代とを結ぶ。
梁山泊 りょうざんぱく。豪傑や野心家の集まる場所
下谷 したや。東京都台東区の町名。地図では赤くて長い場所
 ニシン。鰊とも。全長約30センチ。北太平洋に広く分布し、沖合を回遊。春季、産卵のために接岸する。卵は数の子です。

橋名前

「さういつてもらうとほんとにうれしいんですが、……実はひとつかいたものがあるんで「スバル」の編集へ届けてあるんですがね。」
 杢さんは思ひ出したやうに、
「あ、それかね。平出君は推せんしてゐるが吉井が反対なんで、のせられないんださうだね。もつともあの連中は、散文は分らないからね。」
 僕はそんな消息は全く初耳なのである。とにかく僕のかいたものが、編集で一応問題にはなつてゐるのだなと思ふと、胸が熱くなつてきた。
 杢さんはしばらくすると、とにかく久振りだから何処かへ出ようといふ。例の小型のスケッチ・ブックをポケットヘ押し込んで、大学の制帽を眼深かにかぷつて、自分が先に格子戸を出る。
 追分のところまで来かかると、杢さんはふつと立ち止つて、
「ねえ、幹さん、ちよつと千駄木町のメートルのところへ伺候してみようぢやないか。」といつて「今日は日曜だからむろん家にをられるだらう。」
 僕は願つたり、叶つたりである。鴎外先生にお眼にかかれやうなんていふことは、北海道以来考へたこともなかつた。最近のお作を拝見すると、何んだかあまりにも底光りがしてゐて、全くこわれわれ青年には近づき難かつた。
 千駄木町のお宅へいつてみると何のこともない、先生は無雑作に御自分で玄関へ出てみえて、
「やあ、木下君、今日は生憎仕事をやり出したんでね、長くは逢つてゐられないが、まあ二十分位ならいいだらう。」と、笑つて奥へ入つていかれる。
 すぐ下に崖地のみえる八畳で先生と対座した時には僕はもういくらか気持が落ちついてゐた。うつかりしたことをしゃべつて、軽蔑されては大変だと思ふせいか、つい言葉も淀みがちである。両肩はしきりにこつてくる。喉は乾いてくる。
 先生は夜来のお仕事で疲労してゐられるとみえ、お顔色も冴えないし、眼も濁つてゐた。はじめは杢さんと、何か独逸語で、医学上の話をしてをられたが、やがて僕の方をむいて、煙草の火をみながら、
「長田君、君は長田フイスとでも呼ぶべきだね。ジュマフイスのフイスだ」と、かうかふやうに笑つて、「昨日、平出君がきてね。今度君は大変にいいものを「スバル」にかいたやうだね。どういふもんだ。いづれ北海道の材料なんだらう。」
 僕はどもりながら、煙草をもつ手をふるはして、
室蘭でみてきた事実なんです。」
「なるほどね。噴火湾の夜景が実によくかけてゐるといつて、平出君が激賞しとつたよ。君は詩をやめて、小説をかくんだな。」

平出修スバル 「明星」の後進の詩歌雑誌。平出修が経営。同人平野万里、石川啄木、吉井勇が交互に編集。スバルは森鴎外の命名。
平出 平出(ひらいで)(しゅう)。評論家、小説家、歌人、弁護士。浪漫主義系の文学者。生年は1878年(明治11年)4月3日。没年は1914年(大正3年)3月17日。明治法律学校卒業。「明星」の同人として活躍し,その廃刊後は石川啄木や吉井勇らと「スバル」を刊行。一方で神田神保町に法律事務所を開業するリベラルな弁護士でもあり、幸徳事件(大逆事件)で弁護人をつとめた。
消息 動静。様子。状態
眼深か めぶか。目が隠れるほど、帽子などを深くかぶるさま。
千駄木町 千駄木町。東京都文京区の町名。ここに森鴎外が住んでいました。住所は本郷ほんごう駒込こまごめせん町57番地。現在は文京区向丘2丁目20番7号です。下図を。猫の家
伺候 しこう。目上の人のご機嫌伺いをすること
底光り そこびかり。うわべだけの飾った輝きではなく,その物の本質に根ざした光
> フイス アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils)。フランスの劇作家、小説家。小さな世界をしっとりと描くのが作風。高級娼婦(クルチザンヌ (英語版))マリー・デュプレシと出会い、1848年2月、24歳の時に思い出を小説『椿姫』として書き上げて出版し、これが代表作です。
室蘭 北海道南西部の市。内浦湾(噴火湾)に突き出す絵鞆(えとも)岬と地球岬がある
噴火湾 内浦湾。うちうらわん。北海道渡島(おしま)半島東側にあるほぼ円形の湾。実際は噴火ではないと考えられる。

噴火湾

 杢さんは自分のことのやうによろこんで、
「僕も常にそれをいつとるんです。われわれとはテムペラメントのうへでも、幹さんは既に異端者なんだから。はゝゝゝゝゝ。ゾラと懸命にとッ組んでゐるのはいいことですよ。」
「ゾラヘ入つていくのか。フローベルは何を読んだ。」
「『ボバリー』と『感情教育』と『セント・アントアヌの誘惑』です。」
「フランス語でよんどるのかね。」
「とんでもない。むろん英訳です。」
「ふむ。君は早稲田だつたね。」
「は、英文科です。」
坪内君のシェークスピアの講義は面白いといふぢやないか。」
「は、声色入りで、寄席へいくより面白いです。」と、答へて、私は苦いお茶をいただきながら、
「いつでしたか『マクベス』をやつとられてあんまり歌舞伎調の台詞が神に入りすぎたんで、学生たちがうつかりわッと拍手喝釆をしたんです。ところが先生は激怒されて、それつきり講義はふいになつてしまひまして。」
 鴎外先生はさも可笑しさうに、大笑されて
「はゝゝゝゝ。面白いね。僕はシェークスピアのやうなクラシックでもやはり現代語で訳した方がいいんぢやないかと思ふんだ。それで何かい、君はもう早稲田を出たのかね。」
「いいえ、これから論文を出して、むりにも卒業させてもらはうと思つてゐるんです。」

テムペラメント temperament。気質、気性。character は特に道徳的・倫理的な面における個人の性質。personality は対人関係において行動・思考・感情の基礎となる身体的・精神的・感情的特徴。individuality は際立った個人特有の性質。temperament は性格の基礎をなす主として感情的な性質
ゾラ エミール・フランソワ・ゾラ。Émile François Zola。フランスの小説家。生年は1840年4月2日。没年は1902年9月29日。自然主義文学の方法を唱道。その実践として「居酒屋」「ナナ」「大地」などの作品を含む「ルーゴン‐マッカール叢書」20巻を発表しました。
フローベル ギュスターヴ・フローベール。Gustave Flaubert。フランスの小説家。生年は1821年12月12日。没年は1880年5月8日。ルーアンの外科医の息子として生まれ、てんかんの発作を起こしたことを機に文学に専念。1857年、4年半の執筆を経て『ボヴァリー夫人』を発表、ロマンティックな想念に囚われた医師の若妻が、姦通の果てに現実に敗れて破滅に至る様を怜悧な文章で描き、文学上の写実主義を確立した。
ボバリー ボヴァリー夫人 。田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリーが、不倫と借金の末に追い詰められ自殺するまでを描いた作品で、作者の代表作。1856年10月から12月にかけて文芸誌『パリ評論』に掲載、1857年に風紀紊乱の罪で起訴されるも無罪判決を勝ち取り、同年レヴィ書房より出版されるやベストセラーに
感情教育 19世紀も半ば、2月革命に沸く動乱のパリを舞台に多感な青年フレデリックの精神史を描く。小説に描かれた最も美しい女性像の一人といわれるアルヌー夫人への主人公の思慕を縦糸に、官能的な恋、打算的な恋、様々な人間像や事件が交錯。
セント・アントアヌの誘惑 聖アントワヌの誘惑。フローベールが30年の歳月をかけて完成した夢幻劇的小説。紀元4世紀頃、テバイス山上にて隠者アントワヌは、一夜の間に精神的生理的抑圧によって見たさまざまな幻影に誘惑されながら、十字架の許を離れず、生命の原理を見出して歓喜する。
坪内 坪内逍遥。つぼうち しょうよう。小説家、評論家、翻訳家、劇作家。生年は1859年6月22日(安政6年5月22日)。没年は1935年(昭和10年)2月28日。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』とシェイクスピア全集の翻訳
シェークスピア ウィリアム・シェイクスピア。William Shakespeare。イングランドの劇作家、詩人。洗礼日は1564年4月26日。没年は1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日)。「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」、「ロミオとジュリエット」、「ヴェニスの商人」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残しました
マクベス 荒筋は11世紀スコットランドの勇敢な武将マクベスは魔女の暗示にかかり王ダンカンを殺し悪夢の世界へ引きずり込まれていくというもの。

「北海道にをつた間、休んでをつたのかい。」
「さうです。」
「論文は何をかく。」
「思ひ切つてスカンヂナビアの文学をやつてみようと思つてゐます。」
イプセンか、ストリンドベリーかい。」
「いいえ、僕はビヨルンソンです。」
 先生はさも意外さうに、
「ビヨルンソンとは不思議なものを掘り出してきたね。何を読んだの。」
「『マンサナ大尉』や『母の手』『ソルバッケン』」
 先生は煙草の吸殻をぽいと放つて、
「まあ、とにかく勉強することだね。小説は四十過ぎてからかいて丁度いいんだから、あせる必要はない。君の兄さんが此間何かにかいとつかね。『司祭と猫』といふ詩さ。あれはいいものだつたね。」
 杢さんは傍から口を入れて、
「ありやいい詩でしたね。秀雄にしちや珍らしく色感のすぐれたもんでしたね。」
「まるで白秋そつくりだつたね。」
 僕はぎよッとしてしまつたのである。兄貴はあの『司祭と猫』まで自分のものにかきかへて世間へ出してゐるのかと思ふと、僕は腹がたつよりも、兄貴の生活の窮迫さが眼にみえるやうで、脊筋がひやッこくなつてきた。『司祭と猫』はわづか二枚ほどの散文詩で、僕はノートの隅へかきつけて机の抽出しへ放り込んでおいたのである。道理でそのノートは、今度かへつてきて調べてみると、いつの間にか紛失してしまつてゐた。僕が北海道へいつてゐた間ぢゆう、僕の机と木箱は親父の家へ頂かつてもらつてゐたのである。その机の抽出しから持出したものらしい。

スカンヂナビア スカンジナビア(Scandinavia)。ヨーロッパ北部の半島。西をノルウェー、東をスウェーデンが占めます
イプセン ヘンリック・イプセン。Henrik Johan Ibsen。ノルウェーの劇作家、詩人、舞台監督。生年は1828年3月20日。没年は1906年5月23日。近代演劇の創始者であり、「近代演劇の父」。シェイクスピア以後、世界でもっとも盛んに上演されている劇作家る。代表作には『ブラン』『ペール・ギュント』『人形の家』『野鴨』『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガーブレル』など。
ストリンドベリー ユーアン・オーグスト・ストリンドバーリィ。Johan August Strindberg。スウェーデンの作家。生年は1849年1月22日。没年は1912年5月14日。
ビヨルンソン ビョルンスティエルネ・ビョルンソン。Bjørnstjerne Bjørnson。ノルウェーの作家。生年は1832年12月8日。没年は1910年4月26日。1903年にノーベル文学賞を受賞。
意外 実は鴎外が訳したものもあるのです。これから22年ほど先の1913年、「新一幕物 人力以上」です。
マンサナ大尉 原語ではKaptejn Mansana。英語訳はCaptain Mansana。日本語訳はなさそうです
母の手 不明です。
ソルバッケン Wikipediaの訳書では「アルネ シンネエヴェ・ソルバッケン 手套」。原語ではSynnøve Solbakken。農夫の物語
司祭と猫 本当にあったのでしょうか。ほとんどの詩集には出ていません。不思議です。

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(3)

文学と神楽坂

 精養軒へあがると、玄関のホールのダイバンのところには、もうちやあんと秀雄と勇が一足先にやつてきて、ビールなんか飲んでゐる。秀雄の方は宿酔とみえ顔も何も土気色をしてゐたが、フラフフラたつてきて、杢さんと挨拶をかはしたあとで、駄々ッ子のやうに、「杢さん、ちよつと。」と、眼顔で合図をする。
 杢さんは秀雄と一しよに奥廊下の入口まで入つていつたが、頭をかきながら帰つてきて「あひにく、僕は余分なラルジャンをもつとらんのだよ。」と、赤い顔をしてゐる。
 ははア、こりや二人とも杢さんに会費をタカるつもりだなと気づくと、僕は恥かしくなつて、耳たぶが熱くなつてきた。
 早速帳場へいつて、僕は秀雄と自分のと二人分払つた。たしか三円だつたから六円払つたと思ふ。と、秀雄はそれをみてゐて、
「おい、幹さん、吉井のも払はなけやダメぢやないか。」と、口を尖らかして、そんなことは当りまへだといふやうにカサにかかつていふ。
 僕は忌々しいとは思つたが、年少の人のよさでいはれるとほり潔よく払つた。あと一円しか殘らない。外套をころして、人の分まで払はせられるとは、全く情けなかつた。そのオーバーも今入れたんぢや、今年の十二月まではむろん出せッこないのはわかつてゐる。

ダイバン ダイバンには大盤、台盤、台板などがあるようです。大盤は食物や水などを入れるための大きな器。台盤は、食卓の一種で、食物を盛った(さら)をのせる台のこと、台板は物や人をのせる板のこと。
土気色 つちけいろ。土のような色。生気を失った人の顔色
ラルジャン l’argent。銀貨のこと
たかる (たか)る。人に金品をせびる
かさにかかる 嵩にかかる 威圧的な態度でのぞむ
ころす 質屋の担保(質草)に入れる

 そこへあまり脊丈のたかくないひとりの軍人が、かちやかちや剣鞘をつきならしながら颯爽と入つてきた。鷗外先生であつた。声望隆々たる陸軍軍医局長であるから、昭和時代ならむろんピカピカした四万台の自動車で、威風堂々あたりを払つて御入来といふところであらう。しかし明治四十何年かのことであるから、電車でさへも珍らしい時代であつた。先生は山下の広小路まで市電でみえて、あれから人力車に乗られたんぢやないかと思ふ。上田敏先生も、夏目漱石先生も辻待ちの人力車であつた。鷗外先生はまつ先に杢さんをみつけて、片頬でにつこり笑つて、無雑作に会釈をされる。頭も軍人風のイガ栗ではなくうすい髮毛を分けてゐられるので、何んだかちつとも軍服がイタにつかない感じである。ただ少し右の肩がいかつてゐるのが、いかにもきかぬ気らしいヒョウ悍さをみせてゐる。その時分、雑誌ゴロか、暴力団か何かが、陸軍省の玄関先で先生に失礼なことをいひかけて、突き倒されたとか、殴られたとかいふデマが盛んにとんでゐた。とにかく日露戦争からずつとつなかつてゐる初期軍国主義的気分が社会にほうはくしてゐる時代であつた。
 杢さんは例の真赤な顔でいんぎんに挨拶をしたが、吉井勇はにやにやするばかりで、たちもしなかつた。それでゐて気嫌をとるでもなく、お愛想をするでもなく、にいッと唯笑うだけのそのかねあひが、実に勇の名演技中の名演技であつた。やはり伯爵の御曹子だけの貰祿はあつて、誰れでも勇のこの表情にはころりとまゐらせられたものである。薩摩人らしいおほらかな怜悧さである。
 鴎外先生もこつちへ歩いてみえて、
「吉井君、昨日與謝野君から手紙をもらつたよ。」と、笑ひながら煙草に火をつけられる。
 勇はコップをもつたまま、例のコツで、
「さうでしたか。僕もこの頃は御無沙汰してゐるんです。」
と、極めて素朴な青年らしさをみせる。
「與謝野君は晶子さんが歌集を出すさうだから、何かかいてくれといふんだが。」
「さうですか。何かかいてやつて下さい。お願ひします。」
「しかし僕は、今ひどく忙かしいんでね。もし君逢つたら、うまく断つといてくれないかね。」
 さういひながら鴎外先生は杢さんと二人で、食堂の控室の方へ入つていつてしまはれた。僕はていねいにお辞儀をしたが、一顧にも値しなかつたらしく、むろん黙殺である。
 寂しかつた。急にウイスキーががぶ飲みしたくなつた。

剣鞘 けんしょう。剣の刀身の部分を納めておく筒
颯爽 さっそう。姿や態度・行動がきりっとして、見る人にさわやかな印象を与える
四万台 4万円台と書き換える以外にいい方法はなさそうです。
辻待ち つじまち。人力車などが道ばたで客を待つこと
板につく 経験を積んで、動作や態度が地位・職業などにしっくり合う
きかぬ気 人に負けたり、人の言うなりになったりすることを激しく嫌う性質
ヒョウ悍 剽悍。ひょうかん。すばやい上に、荒々しく強いこと
雑誌ゴロ ゴロは「ごろつき」の略。無職・住所不定で人の弱点につけいる、ならずもの<
ほうはく 磅礴。広がり満ちること。満ちふさがること
怜悧 れいり。賢いこと。利口なこと
與謝野 与謝野寛晶子与謝野鉄幹。詩人・歌人。本名は(ひろし)。生年は1873年(明治6年)2月26日。没年は1935年(昭和10年)3月26日。新詩社を創立し、「明星」を創刊。妻晶子とともに明治浪漫主義に新時代を開きました。
晶子 与謝野晶子。よさの あきこ。歌人、作家、思想家。生年は1878年(明治11年)12月7日。没年は1942年(昭和17年)5月29日。
一顧 いっこ。ちょっと振り返って見ること。ちょっと心にとめてみること

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(9)

文学と神楽坂

 もうひとつかきそえておきたいのは例のパンの会のことである。パンの会は僕らの青春の旗みたいなものである。野田宇太郎君の好著「パンの会」の記述は、まことにきれいごとでけつかうだが、やはりあらゆる芸術運動がさうであつたやうに内部的には感情の疎隔や嫉妬反ぜいがあつた。木下杢太郎君や石井柏亭君のやうなユニークな存在がなかつたらあんなけんらんとした足跡を大正芸術史に残したかどうか疑がはしい。
 今思ひ出してもパンの会の帰りが凄まじかつた。みんな泥酔して深夜の街頭を放浪して歩く。女郎屋へでもいかなけりや興奮の捨て場所がない。吉井勇君はその晩洲崎の遊廓へいきたがつて、味噌ッかすのぼくに金を出せとおどかす。たつた十三銭しか残つてゐなかつたので正直にそつくり出すと吉井君は忽ち例の無頼漢と化していきなりぼくの手をひつぱたいた。
 僕もさうさう卑屈になつてはゐられないのでやにはに彼を路上へ突き倒して下駄でぶンなぐつた。杢太郎君がとんできてひき分けてくれる。
 いつの間にか別れ別れになつて、僕は北原白秋君と二人ッきりになつてしまつた。白秋は腰がぬけちまつてやたらところぶ。ころびながら「空に真紅な雲の色」を胴間声で歌つては、おい幹彦ッ、おれを家までおぶつて帰れッといばりくさる。僕は唯々だくだく路傍にあつた荷車へ彼をのせて懸命に引つぱつていつた。白秋家は神楽坂下なのでいくら若い臂力でもそこまで曳いていけるものぢやない。途中でほッたらかして遁げようとすると白秋はおいおい泣きだして、幹彦お前はいい奴だ、おれを捨てるなとかじりついてきて生温い舌でぺロペロなめる。
 僕も胸がいつぱいになつてやつと人力車を一台さがしてそれへ乗せて帰してやつた。街燈の光で彼の財布をしらべてみると、なんと彼は三円なにがしか隠しもつていやがるのである。車代を先払ひしてあとは僕がねこババきめてやつた。

反ぜい はんぜい。反噬。動物が恩を忘れて、飼い主にかみつくこと。転じて、恩ある人に背きはむかうこと。恩をあだで返すこと
石井柏亭 いしい はくてい。版画家、洋画家、美術評論家。生年は1882年(明治15年)3月28日。没年は1958年(昭和33年)12月29日
けんらん 絢爛。華やかで美しい。詩歌や文章の表現が、豊富な語彙や凝った言い回しなどで美的に飾られていて、華麗な印象を与える様子。
洲崎 すさき。東京都江東区東陽一丁目の旧町名
味噌ッかす みそっかす。味噌っ滓。子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。
空に真紅… 白秋の「邪宗門」のなかにある詩です。玻璃は「はり」と読み、ガラスのことで、ガラス製の器に酒を注いだ事を意味します。またこの詩はパンの会の会歌にもなっています。

 「空に真赤な」
(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。
玻璃(はり)真赤(まつか)(さけ)(いろ)。
なんでこの()(かな)しかろ。
(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。
   明治四一年五月作

胴間声 どうまごえ。調子はずれの太く濁った下品な声。
唯々だくだく 唯唯諾諾。いいだくだく。 何事にもはいはいと従うさま。他人の言いなりになるさま
神楽坂下 神楽坂1丁目の全てと2丁目の部分。白秋はここに
臂力 ひりょく。うでの力

 僕だつて行きどころがないのだ。そこへあひにく阪本紅蓮洞が幽霊のやうに横町から現はれてきた。酔ひがさめてみると吉原の女郎屋の二階で寝てゐた。夜が明けてゐる。その時分吉井君たちと女郎屋へ泊ると紅蓮洞と版画家の伊上凡骨がいつも勘定の代りに居残りをさせられる。その朝はあの老残の紅蓮洞が可哀想になつて僕自身が始末屋へさがつた。始末屋といふのは札つきのコロンボがやつてゐる車宿のことである。勘定不足の客には入墨をしたあんちやんがダニのやうにくッついてくる。
 僕は本郷の質屋へいつて身ぐるみぬいで八円こしらへた。学生のくせに親父の洋服屋をだまかしてこしらへさせた自慢の背広を店先でぬいで、前に入れてあつた袷に着かへ革のバンドをしめてやつと家へ帰つた。
 その晩雷門前のヨカ楼で飲んでゐると高村光太郎君と市川猿之助君に逢つた。べろんべろんに酔つてまた吉原である。金が足りないのでワリ床といふやつである。びとつの部屋を古屏風で仕切つて寝るのである。夜が明けるまでカンカンガクガクの芸術論をたたかはしてゐるので、女郎たちが怒つて、女同士で寝てしまつた。やはり今のやうにさかんにパリを謳歌する時代だつたが、象徴派や後期印象派の論議ばかりでキンゼイ報告のやうなえげつない話はしなかつた、みづみづしかつたわけである。高村君はパリにゐた間この黄色い皮膚と高い頬骨が恥かしくて町が歩けなかつたなぞといつて、エクゾティシズ厶をかきたてた。
 僕は背広をなくしたので早稲田大学の制服をきてゐた。あの変テコな角帽が制定されたころで、あれを文学科で真先にかぷりだしたのは猿之助君と長谷川時雨の弟の虎太郎君と僕と三人であつた。

 酒と女では実に難行苦行したものである、谷崎潤一郎君が文化勲章をもらひ、吉井君が芸術院会員、高村君は高名な彫刻家、みんなずゐぷん年季を入れて古さびてしまつたもんである。
 今では名前も顔も忘れ果てたあの時分の一夜泊りの安女郎たちがもし生きてゐたらキラ星のごときお歴々の壮観にさぞかしおッ魂消ることであらう。
 それにしてもあの清純そのものであつた杢太郎君の姿が最前列にみえないのは何んとしてもさびしい。生きてゐたら第二の鷗外としてもてはやされたであらうのに。

伊上凡骨 神田の木版師。中沢、三宅氏等の水彩画を版画にし、ぼかしに長じていました。
始末屋 遊里で遊興費の不足した客を引き受け勘定を取り立てる商売
ゴロンボ ごろつき、ならずもの
車宿 くるまやど。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。
ヨカ楼 高村光太郎氏が書いた「ヒウザン会とパンの会」によれば

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、(よろい)(ばし)(わき)の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである

また、野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」で「よか楼」は

雷門前竝本通りにあつた三階建の塔のやうなレストラン

でした。細かくは東京紅團の「パンの会 -2-」で。
高村光太郎 高村光太郎たかむらこうたろう。詩人・彫刻家。1883年(明治16年)3月13日 – 1956年(昭和31年)4月2日。欧米に留学。ロダンに傾倒。帰国後、「パンの会」に加わり、「スバル」に詩を発表。岸田劉生らとフュウザン会を結成。詩集「道程」「智恵子抄」「典型」、翻訳「ロダンの言葉」、彫刻に「手」など
市川猿之助 いちかわえんのすけ。2世の歌舞伎役者。1888年(明治21年)5月10日 – 1963年(昭和38年)6月12日)。劇団春秋座を結成。多くの新舞踊・新歌舞伎を上演
ワリ床 割床。ワリドコ。何人もの人が屏風などで一室を仕切って寝ること。女郎屋で廻し部屋もふさがつている時、一つの部屋を屏風で仕切つて客を入れること
エクゾティシズ厶 exoticism。現在は「エキゾチシズム」のほうがよさそうです。異国趣味、異国情緒。異国の文物に憧れを抱く心境

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

わが青春の記|紀の善

文学と神楽坂

 長田幹彦氏が書いた「わが青春の記」には、明治41年1月、長田氏などの七人が新詩社から脱退する顛末を書いてあります。この決定は神楽坂の「紀の善」で行いました。

 長田幹彦氏(1887/3/1-1964/5/6)は小説家で、長田秀雄の弟にあたります。早稲田大学英文科卒業。炭鉱夫や鉄道工夫、或いは旅役者の一座に身を投ずるなどして各所を放浪。小説「(みお)」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名でした。

(しん)()(しや)(だつ)退(たい)()(けん)()れが(しゆ)(はう)(しや)であつたか、(いま)では()(おく)がはつきりしてゐない。とにかく(みんな)(うつ)(ぼつ)としてゐたのであるから、一人(ひとり)()をつければ(たちま)()(あが)るに(きま)つてゐる。(ちか)(ごろ)(りう)(かう)(しよく)(そく)(はつ)といふ(やつ)である。()んでも()(ぐら)(ざか)(した)()()(ぜん)といふ鮨屋(すしや)の二(かい)(あつま)つたのが、北原(きたはら)白秋(はくしう)吉井(よしゐ)(いさむ)木下(きのした)(もく)太郎(たらう)深井(ふかゐ)天川(てんせん)秋庭(あきば)俊彦(としひこ)秀雄(ひでを)(ぼく)この七(にん)で、新詩(しんし)(しや)脱退(だつたい)()(たちま)ちそこで一(けつ)してしまつた。その理由(りいう)は、とにかく()()()(くわん)()(たい)する()信任(しんにん)で、折角(せつかく)われわれが努力(どりよく)していい()をつくつても(みんな)()()()(くわん)()(きふ)(しう)されてしまふ。新詩社(しんししや)といふやうな團體(だんたい)結成(けつせい)してゐては、成長(せいちやう)()()みがない。だからこゝで分裂(ぶんれつ)して自由(じいう)天地(てんち)(およ)()ようといふやうなことだったと(おも)ふ。
 その翌晩よくばんぼくうちまたみんなあつまつて、仕出しだものかなにかとつて、おほいに氣焔きえんをあげたものである。そのくわはつたのが、蒲原かんばら有明ありあけ先生せんせい、それから瀧田たきた哲太郎てつたらうもゐた。瀧田たきたぼく親父おやじ患家くわんかだつた。で、それでんだのだつたとおもふ。むろんもうそのころには中央公論ちゆうわうこうろん編輯へんしふをやつてゐて、小栗風葉をぐりふうえう獨歩どつぽのものでおほいにつてゐた時代じだいであつた。

新詩社 明治32(1899)年、(かん)鉄幹てっかん)が設立した詩歌結社で、翌年、機関誌「明星」を創刊、多くの新人を育てましたが、41年に解体。
首謀者 中心になって陰謀・悪事を企てる人
鬱勃 内にこもっていた意気が高まって外にあふれ出ようとする様子。意気が盛んな様子
一触即発 ちょっとしたきっかけで大事件に発展する危険な状態
深井天川 ほとんどわかりません。詩人、小説家でした。
秋庭俊彦 あきば としひこ。早稲田大学英文科。はじめ短歌をこころざし新詩社同人に。チェーホフの作品を知り、英訳から翻訳。昭和にはいって句作をはじめ、句集に「果樹」。生年は明治18年4月5日。没年は昭和40年1月4日で、79歳。
仕出し屋 注文に応じて料理を作って配達する店。出前をする店。
気焔 燃え上がるように盛んな意気。議論などの場で見せる威勢のよさ。

 えんたけなはに、みんな唐紙たうしがきをやつたが、それは非常ひじよう面白おもしろ記念品きねんひんである。一さがしてみてもしあつたら、是非ぜひ寫眞版しやしんばんにして掲載けいさいしてもらはふとおもつてゐる。
 蒲原かんばら先生せんせいりんり、、、たる醉筆すゐひつふるつて白秋はくしう似顔にがほをかき、「白秋はくしうたいをしき」とさんをされたのであつた。
 さて脱退だつたいけつした翌日よくじつわれわれはかほをそろへて、新詩社しんししやしかけた。新詩社しんししや丁度ちやうどいま神宮外苑じんぐうぐわいえん裏参道うらさんだうのところにあつて、家賃やちんにして二十圓位ゑんぐらゐの、板羽目いたはめどぎどぎしたちひさな貸家かしやであつた。しもどけのころにたると、みちがどろどろにぬかつて、垣根かきねには山茶花さざんくわさびしくいてゐるやうなまちであつた。
 與謝野氏よさのしもたゞならぬ氣勢けわひ/かんじたとみえて、眉宇びうあひだ不安ふあんいろみなぎらせながら、我々われ/\むかへた。脱退だつたいのことはたれさきくちをきつたか、わすれたが、とにかく口頭こうとうで、勇敢ゆうかん聲明せいめいをやつてのけた。與謝野氏よさのしだまつていてゐゐたが、そこへ長男ちやうなん息子むすこさんがはひつてきてなにかいふと、與謝野氏よさのしはかツと激怒げきどして、眞鍮しんちゆう火箸ひばしぼつちやんへげつけた。往年わうねん朝鮮時代てうせんじだい鐵幹てつかんおもはしめるやうなそのかほじつおそろしかつた。ほくはそのときにもむろん味噌みそかすなので、すみほうへすツこんでちいさくなつてゐた。陣笠ぢんがさ悲哀ひあい何處どこまでもついてまはつた。與謝野氏よさのし居間ゐまには座敷ざしき半分はんぶんもあるやうなおほきな木製もくせい寢臺ねだいゑてあつたが、ぼくはそのかげすわつて、事件じけん推移すゐい固唾かたづをのんでてゐた。そのときぼくはいよいよ見限みきりをつける決心けつしんがついたのであつた。
(長田幹彦「わが青春の記」『中央公論』昭和11年4月)

りんり 淋漓。勢いなどが表面にあふれ出る様子。
酔筆 酒に酔って書画をかくこと。その作品。酔墨。
三位一体 さんみいったい。キリスト教で、父(神)・子(キリスト)・聖霊の三位は、唯一の神が三つの姿となって現れたもので、元来は一体であるとする教理。三つのものが一つになること。また、三者が心を合わせること。
 さん。ほめたたえること。その言葉。
板羽目 板で張った壁や塀。板張りの壁や塀
どぎどぎ 刃物の鋭利なさま。うろたえ、あわてるさま。
気勢 きせい。何かをしようと意気込んでいる気持ち。気配と間違えたもの? 気配は、はっきりとは見えないが、漠然と感じられるようす。
眉宇 まゆのあたり。まゆ。「宇」はのき。眉を目の軒と見立てていう
往年 おうねん。過ぎ去った年。昔。
思わしめる 古語。思わせる。「しめる」は使役の意味。
味噌っ滓 みそっかす。味噌をこした滓。価値のないもの。一人前にみなされない子供。
陣笠 下級の武士がかぶとの代わりにかぶった笠。政党などで一般の議員。ひら議員。政党の幹部に追従し、自分の主義・主張をもたない議員
寝台 寝るとき用いる台。ベッド。
固唾 かたず。緊張した時に口中にたまるつば。