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女坂|円地文子

文学と神楽坂

円地文子

 昭和32年1月、円地文子氏は「女坂」を「別冊小説新潮」に発表しました。さらに、昭和24年から1連の物語を「女坂」の章に加えて「角川小説新書」の1つとして発表します。ここでも神楽坂は「お神楽芸者などと安く扱われる山ノ手の二、三流地」、つまり依然ぱっとしない場所でした。

 氏は小説家、劇作家。生年は明治38年(1905年)10月2日。没年は昭和61年(1986年)11月14日。国語学者上田万年かずとしの二女。戯曲から小説に転じ、女の業や怨念を官能美の中に描写。源氏物語の現代語訳にも尽力。「ひもじい月日」「女坂」など。

 神楽坂の坂上で、友禅の長い雛妓追羽根を突いている。それを傍に立って見ている(ねえ)さん芸者はまだ昼間だというのに変り色の御座敷着(つま)をとって鹿の子絞り長襦袢をこれ見よがしにのぞかせていた。ここらの芸者にしては、着物も帯も品がよく、殊に手に下げている吉右衛門の「石切梶原」の大羽子板は、薬研堀(やげんぼり)の市でも二十円よりは値切れまいと思う上物である。三、四年続いたヨーロッパの大戦争のお蔭で、軍需品や船会社の株は驚くばかり騰貴(とうき)した。有名な船成金が大阪の 芸者の()裾模様にダイヤの大粒をちりばめた噂さえあって花柳界は戦争景気でどこも繁盛(はんじよう)している。お神楽芸者などと安く扱われる山ノ手の二、三流地でもこの程度の(こしら)をするのだから一流どころでは猶更だろう。倫は恰好よく(びん)の張った芸者の横顔を眺めて歩き過ぎながら、もうこの二十年ほど近づきなしに過した昔の新橋の芸者達の顔をあれこれ思い浮べた。夫の行友が警視庁の高級官吏だった時代には官宅で宴会をすると云えば新橋の芸者が酌人に招ばれて来た。その中には何人か行友の馴染もあって、そんな女達が待合の女将(おかみ)や女中頭と一緒に堅気な縞物に玩具のような小綺麗な手土産を下げて、昼間機嫌ききに来ることもよくあった。今からみれば思いきって赤い色を嫌う地味な年増づくりだった けれどもあの芸者たちは大方二十歳をちょっと越えたぐらいの若さだったであろう。
二、三流地 酔多道士戯著「東京妓情」の「巻の上」(明治16年)で花柳地24ヶ所を1等地より5等地までに分けていました。下図を見てください。1等地は両国橋の柳橋、銀座通の新橋。2等地は銀座の数寄屋橋、人形町の葭町(よしちょう)。3等地は鳥森、日本橋、芳原、芝神明、講武所、湯島天神。4等地は深川仲町、日本橋本石町、神楽坂。5等地は新富町、猿若町、向島、浅草広小路、糀町、本所松井町、蒟弱島、西ノ久保、三田、赤坂、根津でした。昔は4等地だったんですね。「全国花街めぐ里」(昭和4年)では二等地になっていますが、赤坂は一等地になっています。
東京妓情

友禅 染め物の1手法。糊置(のりお)き防染法。特色は人物・花鳥などの華麗な絵模様。本来はすべて手描(てが)き。明治以降型紙を用いた型友禅ができ、量産に
 たもと。和服のそでの下の袋状の所
雛妓 すうぎ。一人前でない芸妓。半玉(はんぎょく)
追羽根 おいばね。二人以上で交互に一つの羽根を羽子板で落とさないようにつく正月の遊び。
姐さん芸者 先輩を呼んでいう語
変り色 かわりいろ。普通とは違った珍しい色
褄 座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
 長着の(すそ)の左右両端の部分。裾の左右両端が褄(褄先、つまさき)。そこから(えり)までが立褄。http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/f83a62462cfb7355382301d0b56f5423
鹿の子絞り かのこしぼり。布を小さくつまんでくくった絞り染め。鹿の背の白いまだらに似ている
長襦袢 和服の間着(あい)ぎで、長着と同じ長さの襦袢
 すそ。衣服の下の(へり)
吉右衛門 歌舞伎俳優。屋号は播磨屋。東京生まれ
石切梶原 いしきりかじわら。人形浄瑠璃の時代物「三浦(みうらの)大助(おおすけ)紅梅(こうばい)(たづな)」(長谷川千四ら作。1730年初演)三段目切の通称。梶原景時(かげとき)が石の手洗い鉢を切って名刀の切れ味を示す所。右の図は石切梶原の羽子板です。もちろん吉右衛門が登場します。
http://mimosa24.exblog.jp/19024370/
薬研堀 江戸時代、現在の東京都中央区東日本橋両国にあった堀の名。江戸中期に埋め立てられました。不動堂があり、また付近は芸者や中条流の医師が多く居住しました
大戦争 第一次世界大戦です。大正3年(1914年)から大正7年(1918年)まで行いました。
騰貴 物価や相場があがること
 出どころ。出身地・出身校など
裾模様 すそもよう。着物の裾につけた模様。その模様をつけた衣服
お神楽芸者 御神楽芸者。おかぐらげいしゃ。牛込区神楽町に住む芸妓のこと
拵え 準備。用意。支度(したく)
 ビン。耳ぎわの髪。頭髪の左右側面の部分
酌人 しゃくにん。宴席で酒の酌をする人
馴染 同じ遊女のもとに通いなれること。その人。客にも遊女にもいう
縞物 縞織物(しまおりもの)に同じ。縞模様を織り出した織物
機嫌きき 安否やようすを聞く
年増づくり 年増は娘盛りを過ぎた女性。年増づくりはそのよそおい、身なり、化粧
 
 
 
 

伝統の店々|昭和30年(2/4)

文学と神楽坂

伝統の店々(昭和30年)で、まず助六、丸岡、塩瀬、柏屋、サムライ堂です。

その向いは履物の助六、その名のごとく江戸趣味豊かな粋な履物で有名な店である。大正三年創業で昔の不粋なさつま下駄を改め歯を薄く背を低くした粋な下駄を創案して履物界に大いなる改革を与え、花柳界は勿論、高松宮山階宮の愛顧をうけ、また吉右衛門玉堂菊池寛等と文士著名人の愛用も多かつたといわれている。

さつま下駄 薩摩(さつま)下駄(げた)。駒下駄に似た形で、台の幅が広く、白い太めの緒をすげた男性用の下駄。多く杉材で作る。ちなみに、(こま)下駄(げた)は台も歯も1枚の板からくりぬいて作ったもの。雨天だけではなく晴天にも履ける。17世紀末期に登場し、広く男女の平装として用いられた。明治以前におけるもっとも一般的な下駄。日和(ひより)下駄(げた)は歯の低い差し歯下駄。主に晴天の日に履く。雨天にも爪皮(つまかわ)をつけて用いる。
高松宮 かつて存在した日本の皇室の宮家。1913年(大正2年)7月6日創設。
山階宮 山階(やましなの)(みや)。江戸時代末期、伏見宮邦家親王の王子、(あきら)親王が創設した宮家。なお、山階芳麿氏は山階鳥類研究所を創設し所長に
吉右衛門 中村(なかむら)吉右衛門(きちえもん)。初代。生まれは1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。明治末から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。若宮町31~2番地に住みました。若宮会と若宮町自治会が書いた『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)です。吉右衛門と川合玉堂が道を接して住んでいました。なお、新坂はここで若宮町

頼戸物の丸岡は、創業六十年、三代目。和菓子の塩瀬は、明治四十四年塩頼総本家の神楽坂支店としてこの地にできたものである。呉服の柏屋の主人山浦岩男氏は神楽坂振興会々長として、戦後の神楽坂振興のために多大の尽力貢献をした人で神楽坂一丁目から六丁目までの統合から軍用道路徹回や車留制夜店の復活請願等老齢にもかかわらず昔の神楽坂の繁栄を呼びもどさんと積極果敢な活躍をつづけている。向いの洋品のサムライ堂は明治四十年創業で、今三代目「御値切お断り申上候」の正札主義で看板に偽りなし、武士道精神を商道に生かすものとして当時は乃木大将お気に入りの洋品店で、良品堅実な店という評判が高い。

3丁目1

丸岡 丸岡陶苑。創業明治24~25年。渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』によれば「明治25年和陶器の「丸岡陶苑」創業。神楽坂3丁目」と書いてあります。牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第14号には「坂を上がって左手の丸岡陶苑さん。ここのウインドーは季節感豊かで、閉店後も灯りがついているので、夜遅く通りがけに足を留める人も多いのですが、とくにうれしいのが、箱根細工の小さな懐かしい道具類。茶箪笥、鏡台などは引き出しも開くという凝りよう。これはセットでなく、バラ売りで、今度はこれをと思いながら見るのも楽しみ」

丸岡

塩瀬 雑誌『かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では塩瀬
「築地の有名な老舗の支店があった。来客用の上等な和菓子は塩瀬で買ったけど、揚げ煎やおかきのような庶民的なものもおいしかった」
久保たかし氏の『坂・神楽坂』(平成2年)では
「和菓子の老舗「塩瀬」がつい最近まであったが、今は無い」
柏屋 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第5号「本多横丁」によれば創業は大正7(1918)年。振袖、訪問着、染帯、染額の作品を展示。現在は「芸者新路」にありますが、『ここは牛込、神楽坂』第5号の平成7(1995)年には、本多横丁に。さらに昔の昭和30年には「向いの洋品のサムライ堂」となっています。つまり、この時代、柏屋とサムライ堂とは神楽坂通りの対面になっていたのです。サムライ堂の対面は生花なので、生花かその右手の土地を借りて柏屋を開いていたのでしょう。
軍用道路 軍隊の移動,補給など軍事上の目的によりつくられた道路。戦略的には国防道路で、平時の軍隊の高速移動、補給、軍事施設への通行のため、直線、立体交差を原則としました。形、幅、勾配、カーブ、路面、路床を、機械化部隊の連続移動に耐えうるよう頑強につくります。日本にも第二次大戦前は軍港や要塞への軍用道路がありました。しかし、神楽坂通りは戦後の進駐軍の専用道路でした。
『まちの想い出をたどって』第4集の岡崎公一氏は「神楽坂の夜店」を書き

 戦後は、神楽坂に闇市が出なかった。それは、神楽坂下のたもとに神楽坂瞥察署があり、また神楽坂の通りが進駐軍の専用道路(立川方面)となったためでもある。ただ、昭和二十四年十月十五日発行の露店商の縁日暦(非売品)によれば、神社、佛閣の境内などに縁日が出ていた。神楽坂でも、若宮八幡神社、筑土八幡神社、赤城神社などにも毎月、日によって出ていた。
 神楽坂の夜店を復活させようと当時の振興会の役員が、各方面に働きかけて、ようやく昭和三十三年七月に夜店が復活。私が振興会の役員になって一番苦労したのは、夜店の世話人との交渉だった。その当時は世話人(牛込睦会はテキヤの集団で七家があり、若松家、箸家、川口家、会津家、日出家、枡屋、ほかにもう一家)が、交替で神楽坂の夜店を仕切っていた
車留制夜店 くるまどめ。車を禁止し、夜店を出すこと。
サムライ堂

野口冨士男氏の『私のなかの東京』(文藝春秋、昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では

 洋品店のサムライ堂で、私などスエータやマフラを買うときには、母が電話で注文すると店員が似合いそうなものを幾つか持って来て、そのなかからえらんだ。反物にしろ、大正時代には背負い呉服屋というものがいて、主婦たちはそのなかから気に入ったものを買った。当時の商法はそういうものであったし、女性の生活もそういうものであった。

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また新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(平成13年)では

『サムライ堂』の創業は明治年間(岩動景爾『東京風物名物誌』によると明治四〇年)、創業者は伊賀上野出身の英二郎氏である。はじめは神楽坂の検番近くで娘二人とともに西洋料理店を営業していたが、その後当地に唐物(輸入品)を扱う店を開いた。そのころ乃木希典が当店の軍足を愛用し、店名を『サムライ堂』と命名したと伝えられる。
 店で扱った商品は、シルクハツト・麦わら帽子・パナマ帽・カンカン帽などの他、ステッキやゴルフ用のニッカボッカなどであった。…下着も上等品を置き、ラクダの上下などにはサムライ堂で独自に作ったタグを付けて売っていた。…
 関東大震災の直後、朝方に店を開けると下着やシャツを求める人々が並んで待っていた。店には在庫が沢山あったので、仕入れに困るということもなく、このような需要にも応えることができた。
 サムライ堂の看板は青銅製で、馬に乗った武士を描いていた。戦時下に金属を供出することになり、これを出版クラブの所まで運んで行った。…
 四代目の店主が平成三年に亡くなり洋品店は閉店したが、五代目の当主が平成九年にインポートショップ「woods」を開店した。

これは平成10年の「ゼンリン住宅地図」ではサムライ堂ビルになります。これは、2014年か15年に建て替えし、現在、このビルにはWorld Wine Barなどがはいっています。