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寺内で会った人々|水野正雄

文学と神楽坂

 平松南氏が編集する「神楽坂まちの手帖」第5号(けやき舎、2004年)で、水野正雄氏は寺内で起きた喜怒哀楽(というと大げさだけど)を取り上げます。神楽坂はん子、柳町金語楼、若山富三郎と勝新太郎、花柳小菊、水谷八重子、泉鏡花などのオールドスターがでてきます。

「新宿・神楽坂暮らし80年」④
新宿郷土研究会会長 染め物洗張り「神楽坂 京屋」 水野 正雄
 歌手で有名な神楽坂はん子さん。はん子さんも芸者だったが、神楽坂5丁目読売新聞販売所があるでしょ、あの隣りがはん子さんの家でした。それが白銀町の私の家の隣りのお風呂屋に来るんですよ。私もその頃、お風呂屋に行ってましたけど。見はからって? いいや偶然(笑)。そうするとね、女湯の方で「あらこんにちは」なんて挨拶しているのが聞こえた。それがいい声でね。
 はん子さんの隣りが金語楼お妾さんの家で、今の読売新聞販売所の所です。金語楼の息子、山下敬二郎はあそこで生まれて、いっつも路地でくるくる回って遊んでいたの。金語楼の弟で昔々亭桃太郎(せきせきてい・ももたろう)というのが横寺に住んでましたが。金語楼も桃太郎も家のお客でしたが、勘定ぱらいが悪くてね。はん子さんは勘定ぱらいはよかったですよぉ。それから今の高層マンションの中央あたりに、杵屋勝東治っていう長唄のお師匠さんが住んでいて、そのお妾の子が若山富三郎勝新の兄弟。彼らが20代早々のときに3年ほど神楽坂に住んでいた。出口の床屋(お風呂屋へ抜ける道の大久保通りのところにあった床屋)で何回か会ったことがあるんだが、勝新太郎は生意気なことばかりいっていたよ。映画界に入る前で、なんだかアメリカへ行ってきたらしく、そのことを鼻高々で話していた。
 それから花柳小菊さんも、毘沙門さまの地蔵坂から入ったところに住んでいました。小菊さんも芸者で。はん子さん、小菊さん、水谷八重子、鏡花の嫁さんの桃太郎さんもみんな家のお客さんです。水谷八重子は守田勘弥お妾さんだが、6丁目の横寺のちょっと手前に金物を売っている家があるでしよ、そこは墓場なんですけど、そこに「蒲(かば)」つていう医者の家があって、その隣りが先代の水谷八重子の家でした。兄貴の竹紫っていうのと住んでいたの。神楽坂にはずいぶん、お妾さんが住んでいたんだね。
 鎗花のおかみさんの桃太郎さんは、親父の話ではちょっときつい顔をしていたから、あんまり売れっ子じゃなくて。それで鏡花とお座敷で同席して仲良くなったっていうんだね。

読売新聞販売所 現在はなくなった販売所ですが、1990年には道路の一番左側から3番目にありました。1963年ではやはり左側から3番目に山下氏があり、ちなみに、その2番目は「〇〇〇焼」でした。1960年では、三幸、お好焼き、山下、安井と並んでいます。1952年も左側から3番目は料理・山下でした。

1990年と1963年。住宅地図。

1960年。住宅地図。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

あの隣り 1960年、山下氏の一方の隣りはお好焼き。したがって反対側の安井氏の家の方でしょう。
お風呂屋 1960年には熊乃湯でした。
お妾さん 実際の愛人。愛人の子として山下敬二郎氏がいる。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

 ここで新宿区が編集した「新宿時物語」(星雲社、2007年)の「神楽坂の料亭街」を簡単に見ておきます。地元の人は神楽坂5丁目の一部だといっていて、私もそうだと思っています。
 赤丸はカメラの本体、赤い線はその画角です。

新宿時物語

 ここで➃は「料理 山下」で、柳家金語楼のお妾さんの家、後に読売新聞販売所になり、大久保通り拡幅工事のため、市谷柳町の牛込神楽坂読売センターと統合し移転し、現在はLe petit Bistro RACLER(ル・プティ・ビストロ・ラクレ)になりました。➂は民家で、一時は神楽坂はん子の家になり、現在はなくなり、普通の道路になりました。➀は「芸妓 分まん」、➁は「法律OF 野町」で、➀➁ともに神楽坂アインスタワーになり、➄は「芸妓 富沢」、現在神楽坂茶寮本店です。

山下敬二郎 ロカビリー歌手。ポール・アンカの「ダイアナ」の日本語カバーで有名。生年は1939年2月22日。没年は2011年1月5日。享年は満72歳。
昔々亭桃太郎 落語家。柳家金語楼の弟。生年は1910年1月2日。没年は1970年11月5日。享年は満60歳
高層マンション 神楽坂アインスタワーです。
杵屋勝東治 きねや かつとうじ。長唄三味線方。生年は1909年10月16日。没年は1996年2月23日。
お妾 実は正式な妻。
若山富三郎 わかやま とみさぶろう。俳優。本名は奥村勝。生年は1929年9月1日、没年は1992年4月2日。
勝新 勝 新太郎。かつ しんたろう。俳優。若山富三郎の弟。本名は奥村利夫。生年は1931年(昭和6年)11月29日、没年は1997年(平成9年)6月21日。
床屋 1952年の地図で、赤い四角の「トコヤ」
花柳小菊 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」(2008年)では

馬場さん 塀じゃなくてさ。壁が。「三笠屋」側は波板が貼って鳴らしながら通ったんだよ。子どもんときに。
相川さん ちょっと記憶がないな。その後ろに小菊さんがいたんだよ。花柳小菊さん。三笠屋の真後ろ。私んところの玄関の前に小菊さんがいた。

三笠屋は現在の手打ちそば「山せみ」なので、「三笠屋の真後ろ」は4枚目ほど前の図になるのでしょうか。
アメリカへ行く 1954年、23歳で、アメリカの巡業を行った。映画の撮影所で俳優ジェームス・ディーンに出会い、感化されて映画俳優になることを決意する。
守田勘弥 もりた かんや。歌舞伎役者。昭和10年、14代勘弥を襲名。江戸前の二枚目を得意とした。初代水谷八重子と結婚。実子に水谷良重。生年は明治40年3月8日、没年は昭和50年3月28日。享年は満68歳。
お妾さん 水谷八重子氏は「お妾さん」ではなく、正式に妻でした。
水谷八重子の家 ブログによれば、通寺町61でした。

(昭和12年)火災保険特殊地図




ごくぼその路地(360°パノラマVRカメラ)

「鮨・酒・肴 杉玉すぎだま」(以前は「あわや」)と「ワヰン酒場」の間に1つ路地があります。神楽坂では最も狭い路地で、しかし、先の狭い路面には居酒屋も数軒あります。

 正式にはこの路地の名前は付いていません。たとえば中村友香氏、梅崎修氏の「景観としての路地維持の可能性」(地域イノベーション第3号、法政大学地域研究センター、2010年)では「毘沙門向かいの細い路地」と書いてあります。

 もちろん、何かあった方がいいと考える人もいて、たとえば、平松南氏の『神楽坂おとなの散歩マップ』(けやき舎、2007年)では

ごくぼその路地…神楽坂4丁目
神楽坂ではもっとも狭い路地。表通りから身を隠すのに便利。狭い路に面して居酒屋もあり、路地の多彩さを感じさせる。

 牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』平成10年(1998年)夏号で提案した地名は「デブ止め小路」「細身小路」でした。

井上 で、この最後の難所で、しのび坂(註:現在は「兵庫横丁」が普通)と交わる伊勢藤の近くの、「みさか」のところを抜けて帰りたいが。あの、ほんの狭い小道を。
  デブは通れないから『デブ止め小路』にとか(笑い)。逆に『細身小路』とか。
井上 「みさか」のママは秋田美人だが、細身とはいえないなあ。名もなきままの小路を一つぐらい残しておくのも愛敬あいきょう

 西側の店舗4軒がここ「ごくぼその路地」で開店し、2019年はさけことぶき、ちょいしてっぺい、バー ソルト、シゲ テイです。一方、東側の店舗はどれも裏側でして、たとえば「ル・ブルターニュ」。これは東は酔石横丁に接して堂々と開き、一方、西は「ごくぼその路地」で、勝手口だけです。

 しかし、戦後のしばらくの昭和27年、「ごくぼその路地」は酔石横丁よりも大きい時代がありました。(☞一番狭く細い路地

 この路地の神楽坂通りに出る南端はわずか91cm、四つ角にぶつかる北端は122cmでした。

ごくぼそ10

ごくぼそ10

ごくぼその路地。2013年

ごくぼその路地。2013年

袋町|光照寺

文学と神楽坂

 光照(こうしょう)()です。はいる手前で右手は光照寺の碑、左手は新宿区登録史跡があります。場所はここです。

光照寺の碑

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録史跡
(うし)(ごめ)(じょう)(あと)

    所 在 地  新宿区袋町15番地
登録年月日 昭和六十年十二月六日

(こう)(しょう)()一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。
 堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
 牛込氏は、赤城山の(ふもと)上野国(群馬県)勢多(せた)大胡(おおご)の領主大胡氏を祖とする。天文年間(一五三二~五五)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文二十四年(一五五五)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正十八年(一五九〇)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取壊された。
 現在の光照寺は正保二年(一六四五年)に神田から移転してきたものである。
 なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「(しょ)(こく)(りょ)(じん)()(よう)()」、「便(べん)(べん)(かん)()()()の墓」などがある。

平成七年八月     東京都新宿区教育委員会

 では中に入ってみると最初に鐘楼(しょうろう)堂が見えます。やはり説明文が出ています。

 光照寺は慶長八年(一六〇三年)浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺寺町に起立、正保二年(一六四五年)ここ牛込城跡に移転してきました。徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、開基の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名から由来するものです。
 鐘楼堂は、明治元年(一八六八年)神仏分離令の発布に伴って各地に起こった廃仏毀釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)の難により取り壊されたと伝えられています。その後、六十年の歳月を経て昭和十二年(一九三七年)に復興を見ましたが、昭和二十年(一九四五年)第二次世界大戦中に空襲を受け旧本堂と共に焼失しました。
 梵鐘(富樫むら殿寄進)は、戦時中供出されていたため戦災を免れ、戦後光照寺に返還され永く境内に保存されていましたが、この度の鐘楼堂の新築により復元しました。

    平成五年(一九九三年)一月 浄土宗 光照寺

鐘楼堂と本堂

水 拝啓、父上様では第9話で出てきます。

石畳の道
  除夜の鐘がゴーンと、神楽坂に流れる。
 り「2007年の元旦を、僕は1人でアパートで迎えた。
  地蔵坂にある光照寺から響く除夜の鐘が、神楽坂一帯に流れており」
神楽坂・裏路地
  門松。
  しんと眠っている。
 り「拝啓。
  父上様。
  除夜の鐘です」

 では左側から右側に見ていきましょう。まず、Google航空写真です。

 ①最初は左奥にある諸国旅人供養碑です。

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録有形文化財 歴史資料 諸国(しょこく)旅人(りょじん)()(よう)()

         所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日  昭和61年6月6日

神田松永町の旅籠(はたご)()紀伊(きの)(くに)()主人(しゅじん)利八(りはち)が、旅籠屋で病死者の菩提(ぼだい)をともらうため、文政八年(一八二五年)に建立(こんりゅう)した供養碑である。
 はじめは、文政二年(一八一九)から建立までの七年間に死亡した六名の名が刻まれ供養されたが、その後死亡者があるたびに追刻され、安政五年(一八五八)まで合計四十九名の俗名と生国が刻まれた。
 当時は旅先で客死する例が多く、これを示す資料として、また供養塔として貴重なものである。
 なお、当初は「紀伊国屋」と記した台座があったが、現在は失われている。

   平成七年八月 東京都新宿区教育委員会

諸国旅人供養碑諸国旅人供養碑2

②狂言師「便(べん)(べん)(かん)()()()(はか)」は諸国旅人供養碑のすぐ右奥に建っています。

便々館湖鯉鮒の墓文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク) 新宿区登録史跡 便(べん)(べん)(かん)()()()(はか)

  所 在 地 新宿区袋町15番地 登録年月日 平成二年三月二日

江戸時代中期の狂言師便々館湖鯉鮒は、本名を大久保平兵衛正武といい、寛延二年(一七四九)に生まれた。
 幕臣で小笠原若狭守支配、禄高一五〇俵、牛込山伏町に居住した。
 はじめ朱楽菅江門下で狂歌を学び、福隣堂巨立と名乗った。
 その後故あって唐衣橘州門下に変り、世に知られるようになった。
 大田南畝と親交があり、代表作「三度たく 米さへこはし やはらかし おもふままには ならぬ世の中」は、南畝の筆になる文政二年(一八一九)建立の狂歌碑が西新宿の常圓寺にあり、区指定文化財に指定されている。
 文化一五年(一八一八)四月五日没した。享年七〇歳であった。
 墓石は、高さ一五二センチである。

     平成三年一月 東京都新宿区教育委員会

 なお、大田南畝、別号は蜀山人はここで転んだら子供が手をたたいて喜び、そこで狂歌を1句詠みました。

こどもらよ笑はば笑へわらだなのここはどうしょう光照寺前

③これから少し前に行くと、奥右筆(おくゆうひつ)の「大久保北隠(ほくいん)」の墓があります。石庭のようにいくつもの石が並べてあり、一見して墓には見えません。徳川家の奥右筆であり、茶道の奥義を極めた大久保北隠の石庭風の墓です。大正6(1917)年没、享年81歳。 奥右筆という肩書きについて右筆(ゆうひつ)とは、武家の秘書役を行う文官のこと。徳川時代には一般行政文書の作成を行う既存の「表右筆」と、将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う「奥右筆」に分かれます。特に奥右筆は表右筆より一段上の位です。将軍への文書取次ぎは側用人か奥右筆のみが行なうことになっていました。 大久保北隠墓

④さらに右に進みます。奥田抱生墓 本堂の奥に三角形の形をした奥田抱生墓があります。その墓碑には奥田抱生の一生を概略を漢文で書いたものです。 奥田は文政8(1825)年10月10日生まれ、儒学者奥田大観の子であり、儒大観に学び、文教家で金石学研究家。魚貝や書画骨董を収集し、漢詩漢文を教え、上京して牛込に住み読書・旅行・古器物の研究し、考古学の先駆者です。 著書には「今瓦譜(いまがわらふ)」、「日本金石年表」、「明清書画名家年表」など。 昭和9(1934)年没、享年75歳。
 さらに中央に進みます。 森敦の墓森敦の碑文

⑥森(あつし)は作家で、明治45年生まれ。昭和49(1974)年、61歳で芥川賞を「月山」で受賞しました。平成元年没。享年76歳。右側にある碑文は

われ浮き雲の如く
放浪すれど こころざし
    常に望洋にあり
      森 敦

⑦本堂左側に東京都教育委員会が案内板2枚を書いています。

木造地蔵菩薩坐像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 彫刻 (もく)(ぞう)()(ぞう)()(さつ)()(ぞう)
所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日 平成9年3月7日
 (よせ)()造り、(くろ)(うるし)塗り。像高三一センチ。一三世紀末(鎌倉時代)の作品で区内でも最も古い仏像彫刻のひとつである。
 寺伝によると、この像はもともと近江国()()(でら)にあり、()()()天皇の皇后が弘安(こうあん)年間(一二七八~八八)に、のちの()二条(にじょう)天皇を出産する際、難産であったため、この像に祈ったところ無事出産されたところから「泰産(たいさん)地蔵」と呼ばれたという。江戸時代には芝増上寺(ぞうじょうじ)に移され、正徳(しょうとく)年間(一七一一~一六)に増上寺の(まつ)()である光照寺に安置され、「安産子育地蔵」として信仰をあつめた。光照寺前の地蔵坂はこの像に因むものである。
木造十一面観音坐像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録有形文化財 彫刻
 (もく)(ぞう)(じゅう)(いち)(めん)観音(かんのん)坐像(ざぞう)
登録年月日 平成9年3月7日
 一木(いちぼく)造り、素木(しらき)仕上げ。像高七〇センチ。一八世紀末(江戸時代後期)の作品で作者は木食(もくじき)明満(みょうまん)である。明満(一七一八~一八一〇)は、円空(えんくう)とならび称される(ぞう)(ぶつ)(ひじり)で、全国を旅して(なた)彫りの仏像を約千体彫ったと伝えられる。 平成九年五月 新宿区教育委員会

 地蔵坂のいわれになっている子安地蔵は本堂に安置しています。子安地蔵は別の場所で書いています。

阿弥陀三尊来迎図文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 絵画 ()()()(さん)(ぞん)(らい)(ごう)()
所 在 地 新宿区袋町十五番地
指定年月日 平成十年二月六日
 絹本(けんぼん)着色、木製の板に貼り付けられた状態で、厨子(ずし)に納められている。縦一〇二・二センチ、横三九・四センチ(画像寸法)。
 画面左上から右下に向かって、阿弥陀如来が観音・勢至の二菩薩を従えて来迎する(臨終の床についた者を極楽に迎えるために降りて来る)様子を描いたもので、一四世紀後半(室町時代)の作品と推定される。
法然上人画像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 絵画
法然ほうねん上人しょうにん画像がぞう
指定年月日 平成一〇年二月六日
 絹本(けんぼん)着色、掛軸(かけじく)装されている。縦八九・五センチ、横四一・三センチ(画像寸法)。 浄土宗の宗祖(しゅうそ)法然上人の肖像で、一五世紀後半(室町時代)の作品と推定される。    平成一〇年三月 新宿区教育委員会

海ほおずき

⑦自動車が駐車する場所で光照寺の鐘楼堂の右隣には「海ほおずき供養塔」が建っています。昭和16年7月に東京のほうずき業者が建てたものです。 海ほおずきとはテングニシという巻き貝の卵嚢です。この卵嚢を口に入れてキュッキュと音を出して遊びます。神楽坂の縁日で飛ぶように売れたため業者が供養しました。 ここの檀家にその業者がいて、そこで都内販売同業者41店主が発起人になってやることになり、毎年7月の浅草でほおずき市が終わると供養をしていました。現在住職がひとりで盆に供養しています。

⑧最後に右奥にある出羽の松山藩主(山形県飽海(あくみ)松山(まつやま)(まち))酒井家(大名家)の墓です。広さ150坪におよびます。現在は出入りはできず、外から内部を覗くだけです。 出羽守酒井家の墓石

   お知らせとお願い
此れより先立ち入り禁止

墓石が古く、先の東日本大震災により1部転倒し大変不安定
で危険になっております。
関係者以外立ち入りを禁止いたします。

               当山住職

平松南氏は 「神楽坂をめぐる・まち・ひと・出来事」の一章でこう書いています。

 光照寺の住職は、代々直系が継承している。現在のご住職とは、神楽坂まちづくりの会のイベントのときにお寺を拝借した関係で、会員たちがいろいろお話しをさせてもらった。そんな会話のなかで、7年前のこと、ご住職からこんなはなしを伺ったことがあった。酒井家の子孫がキリスト教に改宗したため、光照寺にある43基の墓石群が宙に浮いてしまったというのである。通常これだけの墓があれば、酒井家の子孫はお寺に対しては多額の管理費を収めることになろう。しかしクリスチャンになった現在の子孫は、現在酒田市にある致道博物館の館長になっていて、山形県松山町に酒井家の小規模なお墓も持っているそうである。
 寺院経営の観点からすれば、都心にある光照寺の墓地用地は大変な資産価値がある。この酒井家の墓石群を撤去して、墓地にして売り出したら、相当な金額のお金がころがりこむ。もし酒井家が光照寺にある祖先のお墓の墓守をしないなら、いっそ撤去してほしい。
 光照寺のご住職に山形までご同行願って、酒井家のご子孫に面会をもとめて、現在の光照寺側の実情を知っていただき、何らかの対処をお願いしようということになった。
 光照寺さんは酒井のお殿様の末裔さんを前にして立ちあがり、ひたすら実情を伝えた。末裔さんは、やはりたったまま聞いていた。光照寺さんの訴えは切々としていたが、ただひたすら自身が困っているという訴えであった。末裔さんがなぜ光照寺をはなれていったかについては、聞くことはなかった。その点交渉ではなく、一方的なものであった。光照寺さんにとっては、相手の立場を忖度するなど、とてもそんな余裕はないということなのだ。
 末裔さんはご住職の訴えを注意深く聴いていたが、その窮状に対して助け船を出すことはなかった。強力な反論もしなかった。いまの末裔さんには、43の墓が神楽坂の住民のまちおこしや新宿区の歴史的遺産にとっていかに重要であっても、もはや自分とは何ら関係のないはなしなのである。末裔さんは恬淡として静寂であった。
 350年続いたある一族の墓の歴史が物理的にも消滅したとき、わたしたちの次世代が光照寺で見るものは、真新しく売り出された都心の墓地であり、境内にそっと立つ新宿区教育委員会の酒井家43の墓跡の説明板である。

 切支丹の仏像については別に書きます。鈴木桃野の墓石の場所はまだ不明です。