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アルバム 東京文學散歩|野田宇太郎

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)です。

 神樂坂

 神楽坂は明治大正昭和にかけての東京に住む文学者のふるさとのやうなところである。この界隈が文学者に縁を持つやうになつたのは、横寺町尾崎紅葉が住み、矢来町広津柳浪が住み、そこに通ふ若い文人の数も多かつたのにはじまるとも云へるが、又赤城神社の境内の清風亭と云ふ貸席坪内逍遥の芝居台本朗読会や俗曲研究会が催されたり、その他の大小の文学関係の会合が行はれたりしてゐたこともその一つであらう。その清風亭がやがて長生館と云ふ下宿屋に変ってからは、片上伸や後には近松秋江なども住んだことがあつた。

貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷や家。

 大正時代になると矢来町に飯田町から移って来た新潮社が出来、新潮社を中心にこの附近には色々な文士が集つた。同時に島村抱月芸術座が旗上げして芸術倶楽部が出来たのが横寺町である。逍遥や片上伸や抱月などの早稲田大学の教授連の名が出たことでも判るやうに、大正初期になるとこの界隈は早稲田の学生で賑ひはじめた。そこから多くの現代文学の詩人や作家が出たことは今更喋々もあるまい。わけても神楽坂は毘沙門天を中心に花柳粉香の漂ふ町でもあり、ロマンチシズムに胸ふくらませた明治大正の清新な青年文士と、紅袂の美女とのコントラストは如何にも似つかはしいものとなった。
 泉鏡花がすず夫人との新婚生活を営んだのもこの神楽坂であつた。それは明治三十六年頃からのことであるが、その場所は今の牛込見附から神楽坂を登らうとする左側の小路の奥であつたらしい。だが、もはや街は全貌を変へてしまつたので偲ぶよすがとてない。

飯田町 右図で描いたのは昭和16年頃の飯田町です。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月氏と女優の松井須磨子氏を中心に、主に研究劇を行いました。
喋々 ちょうちょう。しきりにしゃべる様子。
 かなめ。ある物事の最も大切な部分。要点。
毘沙門天 仏教で天部の仏神。神楽坂では毘沙門天があり、正式には日蓮宗鎮護山善国寺。
花柳 かりゅう。紅の花と緑の柳。華やかで美しいもの。 遊女。芸者。
粉香 ふんこう。おしろいの匂い。女性の色香。
紅袂 「こうべい」「こうへい」「こうまい」でしょうか。国語辞典にはありません。赤いたもと。女性のたもと。
牛込見附 この場合は神楽坂通りと外堀通りを結ぶ4つ角。現在は「神楽坂下」に変更。
小路の奥 神楽坂二丁目22番地で、北原白秋が住んだ場所と同じでした。現在はが立っています。

東京理科大学(物理学校)裏。「アルバム 東京文學散歩」から

 北原白秋の詩に「物理学校裏」と云ふのがある。物理学校の講義の声と、附近のなまめいた街からきこえる三味や琴の音とを擬音風にとりあつかつて、牛込見附の土手下を走る今の中央線の前身の甲武線鉄道カダンスなどのことをも取り入れた、有名な詩である。白秋は神楽坂二丁目のニ十二番地に明治四十一年十月からしばらく住んでゐたのだが、それが丁度今の東京理科大学、以前の物理学校の裏に当る崖の上であつた。
「物理学校裏」と云ふ詩などは特別で、とりたてて神楽坂を文学の題材とした名作が多いと云ふわけではないが、この界隈は震災で焼け残つて以来、ぐんぐんと発展して、一時は山の手銀座とも称され、カフエーや書店をはじめ、学生や文士に縁の深い有名な店が沢山出来たものである。それに夜店が又たのしいものであつた。平和な昭和時代には真夜中かけてそこを歩きまはつた思ひ出が私などにもある。
 何と云つても神楽坂の生命はあの坂である。あの坂を登るとたのしい場所がある、と云ふやうな期待が、牛込見附の方からゆく私には、いつもあつた。
 戦後の荒廃がひどいだけに、神楽坂は又幻の町でもある。

神楽坂より牛込見附を望む

甲武線鉄道 正しくは甲武鉄道。明治時代の鉄道事業者。御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿から八王子に至りました。1870年(明治3年)に開業。1906年(明治39年)に国有化
カダンス 仏語から。詩の韻律、リズム。
震災 大正12年の関東大震災です。
山の手銀座 銀座は下町。神楽坂は山の手。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では「大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた」と書いています。詳しくは山の手銀座を参照。
カフエー 喫茶店というよりも風俗営業の店。 詳しくはカフェーを参照。
 
 

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北原白秋|物理学校裏

文学と神楽坂

 石川啄木はこう書いています。

明治41年10年29日 啄木の日記から。
北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行ってゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上った。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒ってるといふ。

深井天川 ほとんどわかりません。詩人、小説家で、新詩社脱退事件の1人でした。

 この「物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える」については、北原白秋氏は詩集『東京景物詩及其他』の「物理学校裏」でこう描いています。

物理学校裏

Borum. Bromun. Calcium.
Chromium. Manganum. Kalium. Phosphor.
Barium. Iodium. Platinum. Hydrogenium.
Sulphur. Chlorum. Strontium……….
(寂しい声がきこえる、そして不可思議な……)

Borumの1行 ラテン語で金属元素のホウ素。次は正しくはbromumで臭素。カルシウム。
Chromiumの1行 クロム、マンガン、カリウム、リン
Bariumの1行 バリウム、ヨード、プラチナ、水素
Sulphurの1行 硫黄、 塩素、ストロンチウム

日が暮れた、うすい銀と紫――
蒸し暑い六月の空に
暮れのこる棕梠の花の悩ましさ。
黄色い、新しい花穂ふさ聚団あつまり
暗い裂けた葉の陰影かげからせるやうに光る。
さうして深い吐息といき腋臭わきがとを放つ
歯痛しつうの色のきな沃土ホルムきな、粉つぽい亢奮きな

C2H2O2N2+NaOH=CH4+Na2CO3……….
蒼白い白熱瓦斯の情調ムウド曇硝子を透して流れる。
角窓のそのひとつの内 部インテリオル
光のない青いメタンの焔が燃えてるらしい。
肺病院のやう東京物理学校うす青 灰 色せいくわいしよくの壁に
いつしかあるかなきかの月光がしたるる。

棕梠 シュロ。普通のヤシのこと。写真は…シュロ
花穂 かすい。穂のような形で咲く花のこと。ススキ、エノコログサ、ケイトウなど
聚団 しゅうだん。聚は「しゅう」か「じゅう」で、「多くのものを一所に集める」
 九州で「黄色」のことを「きな」と呼びます。(きな)()もそう。
沃土ホルム ヨードホルム。殺菌剤などに使う。
亢奮 興奮/昂奮/亢奮は物事に感じて気持ちが高ぶること。 刺激によって神経の働きが活発になること
C2H2O2N2・ 正しくはCH3COONa(酢酸ナトリウム) +NaOH(水酸化ナトリウム)→CH4(メタン)+Na2CO3(炭酸ナトリウム)
ムウド ムード
くもりガラス すりガラス
メタン 燃料用のガスになります
東京物理学校 現在の東京理科大学

Tîn ……tîn……tîn. n. n. n……tîn.n ……
 tire……tire……tîn. n. n. n. …… syn ……
t……t……t……t……tote……tsn. n.……
 syn.n.n.n.n………

静かな悩ましい晩!
何処かにお稽古けいこの琴の音がきこえて、
崖下の小さい平家ひらやの亜鉛屋根に
コルタアが青く光り、
やはらかい草いきれの底に Lamp の黄色い赤みが点る。
その上の、見よ、すこしばかりの空地あきちには
湿しめつた胡瓜と茄子の鄙びた新らしいにほひ
あわただしい市街生活の哀 愁あいしゆうに縺れる…………

Tînの1行 琴の音でしょうか
コルタア コールタール。トタン屋根の塗料として使う
Lamp ランプ
胡瓜と茄子 キュウリとナス

汽笛が鳴る……四谷を出た汽車のCadence(カダンス)が近づく…………
暮れ悩む官能の棕梠
そのわかわかしい花穂ふさにほひが暗みながらむせぶ、
歯痛の色の黄、沃土ホルムの黄、粉つぽい亢奮の黄。

Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。

寂しい冷たい教師の声がきこえる、そして不可思議な…………
そこここのあかるい角窻のなかから。
Sin……, Cosin…….Tan……,Cotan…….Sec……,Cosec……. etc ……
Ion. Dynamo. Roentgen. Boyle. Newton.
Lens. Siphon. Spectrum. Tesla の火花
摂氏、華氏、光、Bunsen. Potential. or, Archimedes. etc, etc…………
棕梠のかげには野菜の露にこほろぎが鳴き、
無意味な琴の音のをさなびた Sentiment
何時までも何時までもせうことなしに続いてゆく。
汽笛が鳴る……濠端ほりばたうすい銀と紫との空に
停車とまつた汽車が蒼みがかつた白い湯気を吐いてゐる。
静かな三分間。

角窓 カクマド。四角形の窓
sinの一行 サイン、コサイン、タンジェント、コタンジェント、セカント、コセカントで三角関数です
ionの一行 イオン、発電機、レントゲン、ボイル、ニュートン
lensの一行 レンズ、サイホン、スペクトル、テスラ(磁束密度の単位)
Bunsenの一行 ブンゼン、電位、アルキメデス
Sentiment センチメント。情緒,情操
せうことなし しょうことなし。すべき手段がない。しかたない

悩ましい棕梠の花の官能に、今、
蒸し暑い魔睡がもつれ、
暗い裂けた葉のふちから銀の憂 欝メランコリイがしたたる。
その陰影かげ捕捉とらへがたき Passion の色、
歯痛の色のきな、沃土ホルムのきな、粉つぽい亢奮のきな

Neon. Flourum. Magnesium.
Natrium. Silicium. Oxygenium.
Nitrogenium. Cadimium. or, Stibium.
        etc., etc.………… 四十三年三月

メランコリイ メランコリー。落ち込んだ気分
Passion パッション。情念, 感情, 激情, 熱情
Neonの一行 ネオン、ラテン語のfluorumが正しくフッ素、マグネシウム
Natriumの一行 ナトリウム、ケイ素、酸素
Nitrogeniumの一行 窒素、カドミウム、スチビウム

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