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分水嶺「神楽坂界隈」|吹田順助

文学と神楽坂

吹田順助

 すいじゅんすけ氏の「分水嶺」(精興社、昭和37年)の「神楽坂界隈」を読んでみました。氏はドイツ文学者で、東京帝国大学独文科を卒業し、東京商大、中央大学などの教授を歴任。札幌で有島武郎と交遊。文芸思想史を研究し、ヘッベル、ヘルダーリンなどの作品を翻訳。
 生年は明治16年12月24日、没年は昭和38年7月20日、死亡は79歳。

神楽坂界隈
 私の少年時代はいわゆる日清戦争の前後で、戦争は別として、今から考えると、どこか大まかな、いい時代――ドイツ語でいうと、eine gute alte Zeit――で、殺人強盗というような殺伐な事件も、戦後のアプレ時代とははんたいに、数えるほどしか起らず、おこの殺しばかりでなく、野口男三郎――有名な漢詩寧斎のむこ――ので、、ん肉斬取り事件にせよ、クリスチアンの染井一郎――私の生れた二十騎町に住んでいた――の女房殺しにせよ、わりにはっきりと記憶に残っている。雨後の筍のように続出したいわゆるアプレ時代の、その種の犯罪、礼会悪ときたら、とても覚え切れるものではない。
 神楽坂は震災後、とりわけ戦災でやられてからというもの、銀座や新宿街にすっかりお株を奪われた形であるが、私の少年時代は、老舗の立ち並んだ具合といい、毘沙門の縁日の夜の賑いといい、一方、山の手らしい、どことなくおっとりした気分のたたずまいといい、私たち、牛込ッ子にとっては、ただただなつかしい思い出の町である。
 今の神楽坂停留所の近くにあった牛鍋やのいろは、、、、古い講釈席で、むかしは例の「ぼたん燈籠」の円朝なども出たらしい鶴扇亭肴町の角のたこ市という玩具や、その一、二軒先きの菓子舗の紅屋相馬屋という大きな紙問屋、和良店亭という寄席のあった坂道の降り口の武田芳信(?)堂という古本店、そこから一、二軒向うの浅岡という大きな洋品店、その筋向うの尾沢薬舗、毘沙門天の向って右どなりにあった田原屋という果物店、その店の奥がその後のいわゆるグリル・ルームで、文士なども一時よく出人りした。毘沙門から先へ行くと、洋品店のサムライ堂宮坂金物店盛文堂という新刊書店――あのころの出版書肆というと、何といって博文館が筆頭で、私はよくそこで、『少年世界』や、小波(巌谷)山人の『二人椋助』、『黄金丸』、『近江聖人』というような本を買ったものだが、その店の後を廻ると、立ちならんだ待合の先に、青陽楼とかいった西洋料理屋……こう書いてくると、どうもきりがないようなものだが、坂下を右へまがってとっつき島金――ときどき父に連れてってもらった、この古風な鰻やの名も、ぜひここに付け加えて置かねばならないであろう。
 私たちはその時分、今の神楽坂通りのことを寺町と呼んでいたが、今もあると思う郵便局寄りの通りは、むかしは通寺町と呼ばれ、そこから左へ曲ったところに、飯塚というどぶろくやがあり、紅葉山人浅田宗伯という当時有名な漢法医の住んでいた横寺町、その横寺町の通寺町寄りの左手に、大正五、六年ごろだったか、芸術倶楽部のけいこ場のような建物があって、そこは島村抱月のあとを追った松井須磨子縊死したところである。郵便局の方から神楽坂の方へ向かってダラダラと降りてゆくと、右手に獅子寺(?)があり、その境内ではいわゆるお盆の十六日におえ、、んま、、さま、、開帳され、そこで私は子供のころ佐倉宗五郎のぞき、、、からくり、、、、などを見たものである。その寺の先きにひところ、牛込勧工場というのがあり、それはその後のデパートの前身ともいうべきか、両側にいろいろの商店の並んでいる細い廊下のような路をグルグルと廻ると、また外へ出られるというしくみになっていた。そのはいり口の隣りあたりの路地をはいると、明進軒という西洋料理店があり、紅葉山人の日記をみると、訪客の誰彼を連れてときどきその店を訪れたことが書いてある。もう大正になってからであろうか、松山省三さんがその店の跡に、一時カフェー・プランタンを開店したことがある。通寺町をまがった岩戸町には、足立屋という大きな呉服屋と糸屋とが両側に向かい合い、そこの路地には川鉄という鳥料理店があり、箪笥町(まち)の区役所の前には、吉熊という牛込一の料理やの堂々たる二階建てが、あたりを圧してそびえていた。
 毘沙門の縁日(寅の日)の寺町の賑いはまた格別で、とりわけ夏の晩方などは、夕涼みがてらの男と女や、子供づれが、浴衣がけでゾロゾロと練り歩き、まるで肩と肩とが擦れあうよう、通りにはそのころはやりだしたアセチレンガスをともした夜店が、両側に立ち並び、境内にはときどき江川一座の玉乗りの一座や、田舎廻りの女相撲の小屋がかかったり、坂下へ近づくと、虫や朝顔の鉢や植木を売る店が見付の方へかけて並んでいた。そういう人込みをかきわけるようにして左棲(づま)を取った芸者や、高木履を穿いた雛妓が、提灯をぶらさげた男衆に伴われ、横丁の路地へ消えてゆく光景なども、神楽坂という町のアクセサリーであったであろう。
日清戦争 明治27年7月25日~明治28年4月17日、日本と清国(中国)での戦争。
eine gute alte Zeit 訳すと「古き良き時代」
殺伐 人を殺すこと。人を殺そうとするような荒々しさが満ちている様子
アプレ時代 アプレゲール(après-guerre)の略。戦後派。第二次大戦後、従来の思想・道徳に拘束されずに行動できる若い人
おこの殺し 明治30年4月27日、金貸しの松平紀義(39歳)が内縁の妻・御代みようめこの(40歳)を牛込区若宮町にある四軒長屋の自宅で絞殺し、お茶の水まで運んで遺棄した。死体は全裸だった。
漢詩 漢詩は本来は日本人の作で、漢字を用い、中国詩の形式に従った詩。
寧斎 野口寧斎。ねいさい。明治時代の漢詩人。
のでん肉斬取り事件 臀肉でんにく事件。明治35年3月27日、東京市麹町区下二番町(現在の東京都千代田区二番町)で、少年が何者かに殺され尻の肉を切り取られた殺人事件。なお、傍点は「ので、、ん」ではなく「のでん、、」が正しく、「斬取り」は「きりとり」「切り取り」です。
雨後の筍 うごのたけのこ。雨が降ったあと、たけのこが次々に出てくるところから、物事が相次いで現れること”>
山の手 東京23区では本郷・小石川・牛込・四谷・赤坂・青山・麻布などの台地の地域
神楽坂停留所 現在の都バスでは「牛込神楽坂駅前」です。
ぼたん燈籠 「怪談牡丹燈籠」です。お露の幽霊が牡丹灯籠の光に導かれ、カランコロンと下駄の音を響かせて恋しい男のもとへ通う話。
円朝 幕末~明治時代の落語家。怪談噺、芝居噺を得意として創作噺で人気をえた。生年は天保10年4月1日、没年は明治33年8月11日。死亡は満62歳。
肴町 現在、神楽坂4丁目に代わりました。
武田芳信(?)堂 正しくは武田芳進堂です。
少年世界 博文館が明治28年1月に創刊、昭和8年頃まで出版した、少年向けの総合雑誌。主筆は巖谷小波。
二人椋助 ふたりむくすけ。元々は『アンデルセン童話全集』の「大クラウス小クラウス」で、設定が日本に置き換えたもの。尾崎紅葉氏が翻案し、明治24年3月、博文館刊『少年文学』第2編に所収。
黄金丸 こがね丸。日本で最初の創作児童文学。巌谷漣(小波)氏の童話。明治24年、博文館刊『少年文学』第1編に所収。犬の黄金丸が牛、犬、鼠などの仲間と一緒に仇討ちを成し遂げる。
近江聖人 江戸時代前期の陽明学派の開祖である中江藤樹氏の伝記を、明治25年、村井弦斎氏が博文館刊『少年文学』第14編に載せたもの
とっつき いくつかあるうちのいちばん手前
神楽坂通り 神楽坂1丁目から5丁目までが本当の神楽坂通りで、6丁目については通寺町でした。
浅岡 藁店の入り口にある小間物の浅井でしょうか? ここに以前は「鮒忠」がありました。
書肆 しょし。書店や本屋のこと
郵便局 神楽坂6丁目にある「音楽之友社別館」が以前の郵便局でした。
どぶろく 清酒の醸造過程でできるもろみから、かすはそのままにして出てくる日本酒。白濁しているので「にごりざけ」ともいう。
縊死 いし。くびをくくって死ぬこと。
その境内 獅子寺は保善寺のこと。一方「おえんまさま」は正蔵院の脇本尊のこと。
おえんまさま お閻魔様。本尊は正蔵院の「草刈薬師」。明治44年7月、合併した養善院の本尊(脇本尊)は「閻魔大王尊」。
開帳 厨子ずしのとびらを開いて、安置する本尊秘仏などを拝観させること
佐倉宗五郎 正しくは佐倉惣五郎。江戸前期、下総佐倉領の印旛郡公津村の名主。領主の重税を将軍に直訴して処刑。江戸後期、実録本・講釈などで有名
のぞきからくり 箱の前面にレンズを取り付けた穴数個があり、内に風景や劇の続き絵を、左右の2人の説明入りでのぞかせるもの。幕末〜明治期に流行した。
松山省三 まつやましょうぞう。洋画家、明治43年からカフェー・プランタンの経営者。生年は明治17年9月8日。没年は昭和45年2月2日。
区役所 新宿区箪笥町15番地の昔の区役所です。現在は新宿区箪笥町特別出張所や牛込箪笥区民ホールなど。
左棲を取る 芸者の勤めをする。
高木履 たかぼくり。歯の高い足駄あしだ。高下駄。高足駄
雛妓 すうぎ。まだ一人前になっていない芸妓。半玉はんぎょく
男衆 おとこしゅう。花柳界で芸者などの身のまわりの世話をする男

神楽坂|江戸情趣、毘沙門天に残りけり

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「色街濡れた街」の「神楽坂」では…

「東京物語」辞典

「東京物語」辞典

 楽坂の町は、く開けた。いまあのを高く揃えた表通りの家並を見ては、薄暗い軒に、蛤の形を、江戸絵のはじめ頃のような三色に彩って、(なべ)と下にかいた小料理屋があったものだとは誰も思うまい。
 明治の終りから大正の初年にかけてのことだが、その時分毘沙門の緑日になると、あそこの入口に特に大きな赤い二提灯が掲げられ、あの狭い境内に、猿芝居やのぞきからくりなんかの見世物小屋が二つも三つも掛ったのを覚えている。

 屋根の最も高い所。二つの屋根面が接合する部分。
家並 家が並んでいること。やなみ。
江戸絵 浮世絵版画の前身となった紅彩色の江戸役者絵。江戸中期から売り出され、2、3色刷りからしだいに多彩となり、錦絵にしきえとして人気を博した。
 ちょう。提灯、弓、琴、幕、蚊帳、テントなど張るもの、張って作ったものを数える助数詞。
提灯 ちょうちん。照明具。細い竹ひごの骨に紙や絹を張り、風を防ぎ、中にろうそくをともし、折り畳めるようにしたもの。
のぞきからくり 箱の前面にレンズを取り付けた穴数個があり、内に風景や劇の続き絵を、左右の2人の説明入りでのぞかせるもの。幕末〜明治期に流行した。
見世物小屋 見世物を興行するために設けた小屋。見世物とは寺社の境内、空地などに仮小屋を建てて演芸や珍しいものなどを見せて入場料を取った興行。

 鏡花夫人は神楽坂の芸者であったが、神楽坂といえばつくりの料亭と左棲の芸者を想起するのが常であった。
 下町とは趣き異にした山の手の代表的な花街として聞こえており、同時に早稲田の学生が闊歩した街でもあった。
 神楽坂のイメージは江戸情趣にあふれた街であるが、大正十三年頃から昭和十年頃にかけては、レストランやカフェー、三越や松屋などの百貨店も出来、繁華を極めた。夜の殷賑ぶりは銀座に勝るとも劣らず「牛込銀座」の異称で呼ばれもした。
 しかし終戦後の復興によっても昔の活気が思うように戻らなかった。

鏡花夫人 泉すず。芸者。泉鏡花(1873~1939)の妻。旧姓は伊藤。芸者時代の名前は「桃太郎」。生年は1881年(明治14年)9月28日、没年は1950年(昭和25年)1月20日。享年は69歳。
 気風、容姿、身なりなどがさっぱりとし、洗練されていて、しゃれた色気をもっていること。
つくり つくられたようす。つくりぐあい。よそおい。身なり。化粧。
左棲 ひだりづま。和服の左の褄。(左手で着物の褄を持って歩くことから)芸者の異名。
趣き おもむき。物事での感興。情趣。風情。おもしろみ。あじわい。趣味。
異にする ことにする。別にする。ちがえる。際立って特別である。
山の手 市街地のうち、高台の地区。東京では東京湾岸の低地が隆起し始める武蔵野台地の東縁以西、すなわち、四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりをいう。
花街 はなまち。芸者屋・遊女屋などが集まっている町。花柳街。いろまち。
闊歩 大またにゆっくり歩くこと。大いばりで勝手気ままに振る舞うこと
江戸情趣 江戸を真似するしみじみとした味わい。
殷賑 いんしん。活気がありにぎやかなこと。繁華
牛込銀座 「山の手の銀座」のほうが正確。山の手随一の盛り場。

 昭和二十七年、神楽坂はん子がうたう「芸者ワルツ」がヒットした。その名のとおり、神楽坂の芸者だという、当時としては意表をついた話題性も手伝っての大ヒットであった。
 日頃、料亭とか芸者とかに縁のない庶民を耳で楽しませてくれたが、現実に足を運ぶ客の数が増えたというわけではなかった。
 しかし近年、再び神楽坂が脚光を浴びている。
 マガジンハウス系のビジュアルな雑誌などで紹介されたせいか、レトロブームの影響か、若者の間で関心が強い。
 坂の上には沙門天で知られる善国寺があり、縁日には若いカップルの姿も見られるようになった。

神楽坂はん子 芸者と歌手。本名は鈴木玉子。16歳から神楽坂で芸者に。作曲家・古賀政男の「こんな私じゃなかったに」で、昭和27年に歌手デビュー。同年、「ゲイシャ・ワルツ」もヒット、一世を風靡するが、わずか3年で引退。生年は1931年3月24日、没年は1995年6月10日。享年は満64歳。
意表をつく 意表を突く。相手の予期しないことをする。
マガジンハウス 出版社。1983年までの旧名は平凡出版株式会社。若者向け情報誌やグラビアを多用する女性誌の草分け。
レトロブーム ”retro” boom。懐古趣味。復古調スタイル
縁日 神仏との有縁の日のこと。神仏の縁のある日を選び、祭祀や供養を行う日。東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。

①神楽坂は飯田橋駅から神楽坂三丁目へ上り、毘沙門天前を下る坂道である。
 坂の名の由来は、この坂の途中で神楽を奏したからだとも、筑土八幡市ヶ谷八幡など近隣の神楽の音が聞こえて来たからだともいう。
 町名はもちろん、この坂の名にちなむ。現在は六丁目あたりにまでを神楽坂通りと呼んでいる。

②明治十年代の後半、坂をなだらかにしてから、だんだん開けてきた。何よりも関東大震災の被害を殆んど蒙らなかったことが、大正末から昭和十年にかけての繁栄の原因であろう。

③現在でも黒板塀の料亭が立ち並ぶ一角は、昔の花街の佇いをそっくり残している。

山手(新宿)七福神の一つ。七福神のコースを列記すると、
畏沙門天(善国寺)→大黒天(経王寺)→弁財天(巌島神社)→寿老人(法善寺)→福録寿(永福寺)→恵比寿(稲荷鬼王神社)→布袋(太宗寺)
 である。

*鏡花の引用文の世界を垣間みたかったら、毘沙門天の露地を入った所にある居酒屋伊勢藤がある。
 仕舞屋風の店構えに縄のれんをさそう。
 うす暗い土間、夏は各自打扇の座敷。その上酒酔い厳禁で徳利は制限付き
 悪口ではなく風流を求めるならこれくらいのことは忍の一字。否、だからこそ、江戸情緒にもひたれるのだと、暮色あふれる居酒屋で一献かたむけてみてはいかが。

筑土八幡 東京都新宿区筑土八幡町にある神社
市ヶ谷八幡 現代は市谷亀岡八幡宮。東京都新宿区市谷八幡町15にある神社
蒙る こうむる。こうぶる。被害を受ける。
黒板塀 くろいたべい。黒く塗った、板づくりの塀。黒渋塗りの板塀。防虫・防腐・防湿効果がある。
佇い たたずまい。その場所にある様子。あり方。そのものから醸し出されている雰囲気
仕舞屋 今までの商売をやめた家。廃業した家。しもたや。
縄のれん 縄を幾筋も結び垂らして作ったのれん。縄のれんを下げていることから、居酒屋、一膳飯屋などをいう語
 おもむき。味わい。面白み。
打扇 うちあおぐ。うちあおぎ。扇やうちわなどを動かしてさっと風を起こす。
徳利は制限付き 「徳利」はとっくり、とくり。どんなふうに「制限付き」なのか不明。現在は制限がない徳利です。
暮色 ぼしょく。夕暮れの薄暗い色合い。暮れかかったようす。
一献 いっこん。1杯の酒。お酒を飲むこと。酒をふるまうこと。