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浅田宗伯|夏目漱石と正宗白鳥

文学と神楽坂


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 新宿区立図書館資料室紀要の『神楽坂界隈の変遷』(新宿区立図書館、1970)の「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」には牛込横寺町に住んでいた漢方の名医、浅田宗伯あさだそうはく氏のことが出ています。まず、生年は文化12年5月22日(1815年6月29日)。享年は明治27年(1894年)3月16日でした。

 この『神楽坂界隈の変遷』では「明治になっても依然として慈姑くわい(あたま)に道服を着て、長棒の桐の駕籠(かご)に乗って診療廻りをして歩いた」そうです。この慈姑頭は、束髪ともいい、髪はクワイの芽に似ていることから付きました。江戸時代、医者などの髪の結い方で、頭髪を剃らず、すべて後頭部に束ねたものです。道服(どうふく)とは道士の着る衣服、袈裟(けさ)、僧衣で、先生は礼服である十徳という上着を着用していました。

 また、幕末には浅田宗伯は横浜駐在中のフランス公使レオン・ロッシュの治療に成功します。

 宗伯はロッシュを詳しく診察します。
 そして、左足背動脈に渋滞があるのを発見する。その渋滞は、脊柱左側に傷が原因と見極めます。
 傷の原因をロッシュに問うと、18年前に戦場で何回も落馬したことがあるという。
 で、脊椎を詳しく診ると、脊椎の陥没が2か所あるとわかった。
 この診断に基づき、宗伯が薬を調合し治療を行うと、なんと、ロッシュを苦しめたあの腰痛が、たった1週間でピタリと治ってしまったのです。

(ねずさんのひとりごと。「漢方医学と浅田宗伯」)

浅田宗伯は、徳川将軍家の典医となり、維新後には、皇室の侍医として漢方をもって診療にあたっています。漢方医の侍医は最後の医者だといいいます。
 また、浅田飴も浅田宗伯の名前から来ています。浅田飴を作った人は堀内伊三郎氏ですが、「よこてらまち今昔史」では氏は浅田宗伯の駕篭かき(浅田飴によると書生)をしていたそうです。浅田から水飴の処方を譲り受けて、浅田飴を売り出しました。
「よこてらまち今昔史」(新宿区横寺町交友会 今昔史編集委員会、2000年)でも浅田宗伯のことは半ページだけですが出ています。

 横寺町には明治四年(一八七一年)から大正十三年頃まで、現在の英検(旧旺文社本社)敷地の東端付近、五十三番地に住んでいた。
 宗伯は容貌魁偉で酒好きであったが、医業の傍ら医学医史、史学、詩文等数多くの書を著わしたが、浅田家ではその散佚を恐れ、一括して東大図書館に寄贈した。また宗伯は幕府時代から千両医者としての名声があり、明治四年(一八七一年)五十七歳のとき、牛込横寺町に移って以来診察治療を請負う者が引きも切らず、浅田邸付近は順番待ちの患者が休む掛け茶屋が幾軒もできたとのことである。漢洋医競合の時勢のなかで宗伯は塾を開いて門弟の養成にも力を尽くした。
 ところで浅田宗伯と浅田飴とのことであるが、浅田飴の製造元の堀内家は、長野県上伊那郡青島村の出身で、明治十九年四代伊三郎のとき家は破産し、夫婦で上京、伊三郎は浅田家の駕篭かきとなり、妻は青物売りをしていたが、宗伯はこれを励まして金と三種類の薬の処方を与えて独立させた。その処方のひとつが「御薬さらし飴」である。夫婦は水飴製造販売に全力を注ぎ、明治二十二年神田鍋町に浅田飴本舗を構えたのが起こりである。

散佚 さんいつ。散逸。まとまっていた書物・収集物などが、ばらばらになって行方がわからなくなること。散失。
掛け茶屋 道端などに、よしずなどをかけて簡単に造った茶屋。茶店。

 この「御薬さらし飴」こそが後の「浅田飴」になっていきます。
 夏目漱石氏は「吾輩は猫である」の中でこう書いています。

 主人の小供のときに牛込の山伏町浅田宗伯あさだそうはくと云う漢法の名医があったが、この老人が病家を見舞うときには必ずに乗ってそろりそろりと参られたそうだ。ところが宗伯老が亡くなられてその養子の代になったら、がたちまち人力車に変じた。だから養子が死んでそのまた養子が跡をいだら葛根湯かっこんとうアンチピリンに化けるかも知れない。に乗って東京市中を練りあるくのは宗伯老の当時ですらあまり見っともいいものでは無かった。こんな真似をしてすましていたものは旧弊亡者もうじゃと、汽車へ積み込まれる豚と、宗伯老とのみであった。
 主人のもその振わざる事においては宗伯老のと一般で、はたから見ると気の毒なくらいだが、漢法医にも劣らざる頑固がんこな主人は依然として孤城落日を天下に曝露ばくろしつつ毎日登校してリードルを教えている。

山伏町 新宿区の東部に位置する町名。全体としては主に住宅地として利用する。浅田宗伯は山伏町に住んではいない。
葛根湯 かっこんとう。主要な活性成分は、エフェドリンとプソイドエフェドリン。発汗作用を強め、また鎮痛作用があるという
アンチピリン 最初のすぐれた合成解熱薬。 内服でアンチピリンしん(ピリン疹)という皮膚疹を起こすことがあり、現在は使わない。
旧弊 古い考え方やしきたりにとらわれている状態
亡者 金銭や色欲などの執念にとりつかれている人
孤城落日 こじょうらくじつ。孤立無援の城と、西に傾く落日。勢いが衰えて、頼りないこと
リードル reader。リーダー。読本。アルファベットの習得と単語の発音から、さらに初等教育課程・中等教育課程を教えた。

 かごについては、薬箱を持たせた供を連れて歩く医者と、より格式があり、駕籠を使用する乗物医者に分けられたようです。駕籠は町奉行から許可を得た御免駕籠でした。
 正宗白鳥氏が書いた「神楽坂今昔」には、氏が大学生になって、初めての春、こんな体験をしています。

 馴れない土地の生活が身體に障つたのか、熱が出たり、腸胃が痛んだり、或ひは脚氣のやうな病狀を呈したりした。それで近所の醫師に診て貰つてゐたが、或る人の勸めにより、淺田宗伯といふ當時有名であつた漢方醫の診察をも受けた。その醫者の家は、紅葉山人邸宅の前を通つて、横寺町から次の町へうつる、曲り角にあつたと記憶してゐる。見ただけでは若い西洋醫者よりも信賴されさうな風貌を具え、診察振りも威厳があつた。生れ故郷の或る漢方醫は私の文明振りの養生法を聞いて、「牛乳や卵を飮むやうぢや日本人の身體にようない。米の飯に魚をうんと食べなさい。」と云つてゐたものだ。
 淺田宗伯老の藥はあまり利かなかつたようだが、「米の飯に魚をくらへ」と云つた田舎醫者の言葉は身にしみて思ひ出された。

 住んだ場所は『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち今昔史』によれば、横寺町53番地でした。昭和12年の「火災保険特殊地図」で赤い中央は「浅田医院」になっています。左上は52で、つまり横寺町52番地では、といぶかるのも当然ですが、いつの間に変わったのか、分かりません。それとも、となりの家(桃色)が53なので、53は外来だったのでしょうか。あるいは、『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち』が単に間違ったのでしょうか。明治20年の地図も浅田宗伯邸がでていますが、番号はわかりません。

浅田医院
「よこてらまち今昔史」では「浅田医院」は現「あさひ児童遊園」だと描いています。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、ここは赤色の横寺町52番地でした。CCF20130810_000305


2014/11/18→2019/7/1


女坂|円地文子

文学と神楽坂

円地文子

 昭和32年1月、円地文子氏は「女坂」を「別冊小説新潮」に発表しました。さらに、昭和24年から1連の物語を「女坂」の章に加えて「角川小説新書」の1つとして発表します。ここでも神楽坂は「お神楽芸者などと安く扱われる山ノ手の二、三流地」、つまり依然ぱっとしない場所でした。
 氏は小説家、劇作家。生年は明治38年(1905年)10月2日。没年は昭和61年(1986年)11月14日。国語学者上田万年かずとし(あるいは、まんねん)の二女。戯曲から小説に転じ、女の業や怨念を官能美の中に描写。源氏物語の現代語訳にも尽力。「ひもじい月日」「女坂」など。

 神楽坂の坂上で、友禅の長い雛妓追羽根を突いている。それを傍に立って見ている(ねえ)さん芸者はまだ昼間だというのに変り色の御座敷着(つま)をとって鹿の子絞り長襦袢をこれ見よがしにのぞかせていた。ここらの芸者にしては、着物も帯も品がよく、殊に手に下げている吉右衛門の「石切梶原」の大羽子板は、薬研堀(やげんぼり)の市でも二十円よりは値切れまいと思う上物である。三、四年続いたヨーロッパの大戦争のお蔭で、軍需品や船会社の株は驚くばかり騰貴(とうき)した。有名な船成金が大阪の 芸者の()裾模様にダイヤの大粒をちりばめた噂さえあって花柳界は戦争景気でどこも繁盛(はんじよう)している。お神楽芸者などと安く扱われる山ノ手の二、三流地でもこの程度の(こしら)をするのだから一流どころでは猶更だろう。倫は恰好よく(びん)の張った芸者の横顔を眺めて歩き過ぎながら、もうこの二十年ほど近づきなしに過した昔の新橋の芸者達の顔をあれこれ思い浮べた。夫の行友が警視庁の高級官吏だった時代には官宅で宴会をすると云えば新橋の芸者が酌人に招ばれて来た。その中には何人か行友の馴染もあって、そんな女達が待合の女将(おかみ)や女中頭と一緒に堅気な縞物に玩具のような小綺麗な手土産を下げて、昼間機嫌ききに来ることもよくあった。今からみれば思いきって赤い色を嫌う地味な年増づくりだった けれどもあの芸者たちは大方二十歳をちょっと越えたぐらいの若さだったであろう。

友禅 染め物の1手法。糊置(のりお)き防染法。特色は人物・花鳥などの華麗な絵模様。本来はすべて手描(てが)き。明治以降型紙を用いた型友禅ができ、量産に
 たもと。和服のそでの下の袋状の所
雛妓 すうぎ。一人前でない芸妓。半玉(はんぎょく)
追羽根 おいばね。二人以上で交互に一つの羽根を羽子板で落とさないようにつく正月の遊び。
姐さん芸者 先輩を呼んでいう語
変り色 かわりいろ。普通とは違った珍しい色
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
 長着の(すそ)の左右両端の部分。裾の左右両端が褄(褄先、つまさき)。そこから(えり)までが立褄。

鹿の子絞り かのこしぼり。布を小さくつまんでくくった絞り染め。鹿の背の白いまだらに似ている
長襦袢 和服の間着(あい)ぎで、長着と同じ長さの襦袢
http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/f83a62462cfb7355382301d0b56f5423
 すそ。衣服の下の(へり)
吉右衛門 歌舞伎俳優。屋号は播磨屋。東京生まれ
石切梶原 いしきりかじわら。人形浄瑠璃の時代物「三浦(みうらの)大助(おおすけ)紅梅(こうばい)(たづな)」(長谷川千四ら作。1730年初演)三段目切の通称。梶原景時(かげとき)が石の手洗い鉢を切って名刀の切れ味を示す所。下図は石切梶原の羽子板です。もちろん吉右衛門が登場します。

http://mimosa24.exblog.jp/19024370/
薬研堀 江戸時代、現在の東京都中央区東日本橋両国にあった堀の名。江戸中期に埋め立てられました。不動堂があり、また付近は芸者や中条流の医師が多く居住しました
大戦争 第一次世界大戦です。大正3年(1914年)から大正7年(1918年)まで行いました。
騰貴 物価や相場があがること
 出どころ。出身地・出身校など
裾模様 すそもよう。着物の裾につけた模様。その模様をつけた衣服
お神楽芸者 御神楽芸者。おかぐらげいしゃ。牛込区神楽町に住む芸妓のこと
二、三流地 酔多道士戯著「東京妓情」の「巻の上」(明治16年)で花柳地24ヶ所を1等地より5等地までに分けていました。下図を見てください。1等地は両国橋の柳橋、銀座通の新橋。2等地は銀座の数寄屋橋、人形町の葭町(よしちょう)。3等地は鳥森、日本橋、芳原、芝神明、講武所、湯島天神。4等地は深川仲町、日本橋本石町、神楽坂。5等地は新富町、猿若町、向島、浅草広小路、糀町、本所松井町、蒟弱島、西ノ久保、三田、赤坂、根津でした。昔は4等地だったんですね。「全国花街めぐ里」(昭和4年)では二等地になっていますが、赤坂は一等地になっています。
東京妓情 拵え 準備。用意。支度(したく)
 ビン。耳ぎわの髪。頭髪の左右側面の部分
酌人 しゃくにん。宴席で酒の酌をする人
馴染 同じ遊女のもとに通いなれること。その人。客にも遊女にもいう
縞物 縞織物(しまおりもの)に同じ。縞模様を織り出した織物
機嫌きき 安否やようすを聞く
年増づくり 年増は娘盛りを過ぎた女性。年増づくりはそのよそおい、身なり、化粧


文豪の素顔|森鴎外(1)

文学と神楽坂

 長田幹彦氏が1953年の66歳の際に書かれた『文豪の素顔』です。氏は1887年3月1日に生まれ、没年は1964年5月6日なので、これは21歳に起きたことです。この日、森鴎外氏、上田敏氏、夏目漱石氏が一か所に集まったのです。これはその時の話です。

 森鴎外
 今夜の青楊会の会合は午後六時の開宴である。今は丁度三時だ。まだ彼これ三時間間があるわけである。はその間に何んとかして兄秀雄と二人分の会費を算段してこなくてはならないのである。二人で十円あれば、悠々と会へ出られるのだが、打つてもみしやいでも僕のガマロには五十銭玉がたつたひとつしか残つてゐない。まことにお寒い昨今である。兄秀雄は昨夜七時すぎに吉井勇と落合つて家を飛び出してしまつたきり、例によって膿んだでもなけりやつぶれたでもない。きつと又あのまま神楽坂の小待合へでも溺没してしまつたのであらう。きつと会がはじまる頃に、白粉くさくなつて、ひよろりと現はれるに相違ない。

森鴎外

森鴎外

森鴎外 明治・大正期の小説家、評論家。軍医総監。医学博士・文学博士。本名は(もり)林太郎(りんたろう)。生年は1862年2月17日(文久2年1月19日)。没年は1922年(大正11年)7月9日。明治41年に行った上野精養軒の会合は46歳になっていました。
青楊会 せいようかい。森鴎外氏が作った送別会などの、文学者の宴会です。「鷗外日記」によれば明治41年(1908年)「四月十八日(土) 夜上野の青楊會に往く。夏目金之助等来会す」と書いています。また、これは3回目の青楊会でした。4月25日の上田敏宛の手紙では「君を送りまつりし會より生れし青楊會の三度目に又々夏目君などと出逢い候」と書いています。

長田幹雄

長田幹雄

 長田幹雄。ながたひでお。小説家。東京の生まれ。生年1887年3月1日、没年は1964年5月6日。秀雄の弟。「明星」「スバル」に参加。小説「(みお)」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名。この日は21歳でした。

長田秀雄

長田秀雄

秀雄 長田秀雄。ながたひでお。詩人・劇作家。生年は1885年(明治18年)5月13日。没年は1949年(昭和24年)5月5日。東京の生まれ。明治大学で学ぶ。幹彦の兄。「明星」「スバル」に参加。新劇運動に加わり、史劇で新分野を開きました。この時は23歳。
みしやい 「みしゃぐ」でしょうか。押しつぶす。ひしゃぐ

吉井勇

吉井勇

吉井勇 よしいいさむ。歌人・劇作家。生年は1886年(明治19年)10月8日。没年は1960年(昭和35年)11月19日。東京の生まれ。早稲田大学中退。耽美派の拠点となる「パンの会」を結成。歌集は「酒ほがひ」「祇園歌集」「人間経」、戯曲は「午後三時」「俳諧亭句楽の死」など。22歳。
膿んだ ()む。化膿(かのう)すること
溺没 できぼつ。おぼれて沈むか、死ぬこと

 何よりも困つたのは、僕が虎の子のやうに愛蔵してゐた、あの「ゾラ全集」と「ゴンクール全集」をまんまと持ち出されてしまつたことである。兄貴のこの頃の御乱行は実さい眼にあまるものがあつた。悪友勇と一しよになると、手あたり次第に何んでもかでも持ち出してしまふ。一昨日なぞは親父の外套をきていつてしまつたので、親父は患家へ回診に出かけることも何も出来ず診察室でぷんぷん代診たちに当りちらしてゐた。真正直な温良な、実にいい親父であるだけに、僕はすつかり義憤を発して、もし深夜に兄貴が酔つぱらつて帰つてきたら今夜こそとたんにひつぱたいてやらうと思つて手ぐすねひいて待つてゐた。僕はボートできたへた腕なので、腕力では誰れにもまけない自信があつた。
 秀雄はたうとうその晩も帰つて来ず、昨日の正午頃、親父の外套は質にぶちこんだらしくふらりと帰つてきて、そのまま飯もくはずに二階へあがつて夜着をひつかぶつて寝てしまつた。実さい呆れ返つて、口がきけない。
 夕方になると、勇が叉現はれて、僕がちよつと出た留守に、二人でくだんの全集をひつかつぎ出したものに相違ない。四ケ月も五ケ月も学資の残余をこつこつためて、やつと買つた全集であるだけに、まんまとシテやられた口惜しさ! さすがの僕も腹をすゑかねた。弟のものはおれもの、おれのものはおれのもの式な、兄貴のわがままな横暴さが骨髄に徹して僕はどうしてくれようかと、全く切歯扼腕したのであつた。一たい兄貴のやうなぐうたらな土性骨のない人間はその時分でも珍らしかった。親父ももう此頃では、持余して、毎日心の中では血の涙をのんでゐるらしかった。
虎の子 虎は自分の子をかわいがって育てる。それと同じで、大切に持ち続けて手放さない。
ゾラ Émile Zola。フランスの小説家。生年は1840.4.2。没年は1902.9.29。「実験小説論」を著し、自然主義文学の方法を唱道。
ゴンクール Edmond & Jules Huot de Goncourt。フランスの兄弟の小説家。自然主義の小説を合作。また、日本の浮世絵の研究・紹介にも努めました。
代診 担当の医師に代わって診察すること
切歯扼腕 せっしやくわん。歯ぎしりをし腕を強く握り締めること。残念や怒ったりすること
土性骨 どしょうぼね。性質・性根を強めて、ののしっていう語
 さうかといって、今夜の会費だけは何んとかしてこしらへておいてやらないと、僕までが皆の前で恥ぢをかかなくちやならない。今夜は珍らしく森鴎外、上田敏夏目漱石の三先生がみえるといふので、われわれ文学青年にとつては、又とないかき入れの会合であつた。
 僕は万策つきて、たつた一枚しかないオーバーで金をこしらへるより外に手段はなかつた。幸ひ行きつけの質屋が、本郷にあるので、電車でそこへいつて、店先でオーバーをぬいで、やつと五円紙幣を二枚うけとつた。もう四月も十日過ぎ、桜の花もぽつぽつ咲きそろふ頃なので、薄地の背広一枚でもさうたいして寒くなかった。

上田敏

上田敏

夏目漱石

夏目漱石

上田敏 うえだ びん、文学者、評論家、翻訳家。生年は1874年(明治7年)10月30日。多くの外国語に通じて名訳を残しました。明治38年、訳詩集「海潮音」を刊行。明治41年、欧州へ留学し、帰国後、京都帝大教授に。没年は1916年(大正5年)7月9日。死亡は41歳でした。この日は34歳でした。
夏目漱石 なつめ そうせき。小説家、評論家、英文学者。生年は1867年2月9日(慶応3年1月5日)。没年は1916年(大正5年)12月9日。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を教え「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になりました。41歳。

 僕はその足で白山の御殿町にゐる木下杢太郎が一番鵬外先生に親 近してもゐたし、信用も一番あつたので、木下杢太郎のところへ廻つた。といふのは杢太郎が先生のお宅へ誘ひにあがつて、ごいつよに会場である上野の精養軒へお連れするのではないかと思つたからであった。もしかさうだつたらかねがねから近づきがたい先生にたつたひと言でも話しかけてみたいと、柄にもない念願をおこしたからであった。
 その時分の一しよのグループであった北原白秋、木下杢太郎、吉井勇の面々の間で、僕は年も二つや三つ下だし、それよりも第一秀 雄の舎弟とあっては一向に頭角を現はすわけにいかない。皆さうさうたる売り出しの詩人達であるから僕のやうな才の薄い散文家は、いつも卑屈な立場に立たされた。上眼づかひをしながら心にもないおベンチャラをいつてゐるしか手がない。だから秘蔵の書籍なんか遊蕩費がはりに持ち出されても実さいは、先輩や兄貴を張り倒すわけにもいかない退け目があつたわけである。お前はまだ処女膜が破けてゐねえんだなぞと人前でボロクソにいはれて、三下奴でへこへこしながらくッついて歩いてゐる情なさといったら全くなかった。一度なぞは勇が幹さん、その時計をかせッと叫んで僕の袴の紐へ手をかけて、何んともいへぬ貧ランな殺気をみせた。つまり僕の時計で金をこさへてもうひと晩吉原へいかうといふのである。僕はこれが文学のうへの先輩でなければ、むろん地面へ叩きつけてやつたに相違ない。僕だつて反面は狭量な一徹者であつたから、酔つてフラフラしてゐる勇ぐらゐひッぱたくのはへいちやらであつた。
 しかし彼の「酒ほがひ」にある一連の名歌を思ふと、碌すつぽなものもかけない自らを省みて何としても彼の頭へ鉄拳を加へるなんていふ勇気は、いつの間にかへなへなと消し飛んでしまふのである。しかし心の中ではいつも今にみやがれッと絶叫して虎視たんたんとしてゐたのは事実である。全くあの時分の吉井勇は名詮自称、無頼漢であり、智能人にすぐれてゐるくせに、手のつけられぬ洛陽の酒徒であった。秀雄、勇の徒は自分で質屋で金をこさへてくると、こっそり一人遊びをやるし、他人が金をもつてゐると弟だらうが先輩だらうが卜コトンまでタカつて素裸にしてしまふ。古風な蕩児らしいエゴイズムと残忍さをつぶさに身につけてゐた。

御殿町御殿町 白山御殿町。町の大部分は白山御殿の跡です。左手に東京大学付属の小石川植物園があります。

木下杢太郎

木下杢太郎

北原白秋

北原白秋

木下杢太郎 きのした もくたろう。詩人、劇作家。後に東京大学医学部皮膚科教授。生年は1885年(明治18年)8月1日。没年は1945年(昭和20年)10月15日。本名は太田正雄。23歳。
精養軒 明治期の上野精養軒せいようけん。東京都台東区上野恩賜公園内にある最も古い西洋料理の店。図は明治期の上野精養軒
北原白秋 きたはら はくしゅう。詩人、童謡作家、歌人。生年は1885年(明治18年)1月25日。没年は1942年(昭和17年)11月2日。23歳。
三下奴 さんしたやっこ。博打(ばくち)打ちの仲間で下っ端の者。
貧ラン どんらん。貪婪。とんらん。ひどく欲が深いこと
一徹者 いってつもの。思いこんだことはあくまで押し通す人
酒ほがひ さかほがひ。吉井勇の歌集。 1910年刊。718首を収録した第1歌集。青春の挫折感から酒と愛欲に耽溺した境地をうたったものが多く祇園を舞台とした歌が特に有名。「ほかう」は望む結果が得られるようなことばを唱えて神に祈ること。後世には濁って「ほがう」の形になりました。
虎視たんたん 虎視眈眈。こしたんたん。虎が鋭い目つきで獲物をねらっている様子。転じて、じっと機会をねらっているさま
名詮 みょうせん。仏語。名がそのものの性質を表していること
洛陽 後漢は、前漢(西漢)の都である長安から東の洛陽に遷都したため、洛陽を「東京」と呼びました。洛陽に京都という意味もありますが、吉井勇氏は東京生まれなので、この場合は洛陽は東京でしょう。
蕩児 とうじ。正業を忘れて、酒色にふける者

文豪の素顔|森鴎外(5)

文学と神楽坂

 あとから考へると、もうあの時分から鷗外先生は、『ヰタ・セクスアリス』の下ごしらへにかかつてをられたのである。あのお作は僕が後年「スバル」の編集をやつてゐる時によせられたものだが、鉛筆で走りがきした、無雑作な草稿であつた。一読びつくり仰天して、なんぼ鷗外先生のものでも、これがどうして発禁にならずにゐようかと早速大あはてにあはてて、相棒の江波文三君のところへすッ飛んでいつた。
 江波君はその時分、本郷弓町の素人下宿にゐて、あの肥つた夫人と同棲したばかりのところであつた。あの通りの変人であつたからその生活振りもずいぶん脱線したものであつた。本立と本立との間の薄暗い谷間へ七りんをすへて、何かじいじいやつてゐる。みると古ぽけたフライパンへ四五日来のボロボロな冷飯を山もりに入れて、へットをぶちこんで、それへ又カレー粉をまぶして、焼飯にいりあげてゐるのである。まアこれをたべてからゆつくり話をしよう、幹さんもくへよといふので、ふちのかけたお椀にこてこてつけてくれる。中に何かソーセージのくさいのや、ぐにやぐにやした椎茸のやうなものが入つてゐるのが、どうにも気味がわるかつた。
 江波はそれをうまさうにかッ込みながら、わきの本立のうへへ、『ヰタ・セクスアリス』の草稿をひろげて、体ごとのめり込んだやうな格好で読み耽つてゐる。真黄色な飯粒がボロボロこぼれるのも忘れて夢中である。
 やがて読み了ると、大きな鼻の穴をふくらかして、感に堪へないやうに、
「鷗外先生はこれから二三十年後になつて価値を認められる大作家だね。こりや発禁をくらうやうな誨淫の書じやむろんないよ。平出さんにすすめてむりに出させようじやないか。」
最新大東京案内図 昭和17年(1942年)

最新大東京案内図 昭和17年(1942年)

ヰタ・セクスアリス イタ・セクスアリス。題名はラテン語のvita sexualisで、性生活の意味。森鴎外の小説で、明治42年(1909)に発表。幼年期から青年期に至る性欲を自叙形式で描いて、発禁に。
江波文三< 江南文三。えなみぶんぞう。明治から昭和時代前期の詩人、歌人。生年は明治20年12月26日。東京帝大に入学した明治43年から石川啄木のあとをうけて「スバル」の発行・編集人となり、同誌の全盛期をつくりました。詩歌、小説などを発表。卒業後千葉や東京などの中学でおしえ、没年は昭和21年2月8日。60歳。
本郷弓町 春日通りに添い、地下鉄「本郷3丁目」のそば
七りん しちりん。七輪。七厘。土製のこんろ。ものを煮るのに炭の価が七厘ですむといわれていました。
へット ドイツ語ヘット(Fett)とは牛の脂を精製した食用油脂で、牛脂とも
誨淫 カイイン。みだらなことを教えること

 校正の出たときにも僕はどうも何んだか不吉な予感があつた。それでもみんなが相談した結果、たうとう発行したが、案の定、配本してから二十七八日目に発禁のうき目をみた。しかしその時分にはもう殆んど売り切れてゐて、全国の小売屋で押収されたのは大した部数ではなかつた。
 その次に先生にお眼にかかつたら、平気なお顔で、近いうちにあの続篇をかくといつてをられた。その不敵な文学精神には、僕たちもすつかり圧倒されてしまつた。それから『阿部一族』までの道はずゐぶん長かつたがやはり江波がいつたやうに、死後三十年も五十年も経つてから初めて光芒を放つお作もずゐぶんあるのぢやないか。僕は夏目漱石先生なんか、鷗外先生にくらべたら太陽の前の月ほどにも買つてゐないのである。昔から僕はさうであつた。
 北原白秋は、鷗外先生の『即興詩人』を四十何回とかよんだといふ。僕なんかにしても確実に三十回は反読してゐる。こんな老年になつても、 心寂しい晩なぞにはあの死せる白鳥の浮べるがごときヴェニスの情景に恍惚とするのである。
 僕が北海道の荒凍たる山野を放浪して歩いてゐる間、つねに幻影のごとくに胸中にほうふつしたのは、あの『即興詩人』と、そして泉鏡花先生の『照葉狂言』である。それが僕に『零落』『みお』あの一連の旅役者ものをかかしてくれたモチーフになつたのである。その恩義は今だに忘れてゐない。
 それに、あの『埋木』のゲザも、西欧文学が僕に与へてくれた、忘れ得ぬ性格のひとつである。函館の裏町で、僕はブリュッセルのあの貧民窟のたそがれ時を、いつも心に描いた。ブリュッセルと同じやうにカトリック修道院の鐘の音が雪催いの空からいんいんと落ちてきた。

阿部一族 森鷗外の短編小説。大正2年(1913年)、『中央公論』で発表。阿部一族が上意討ちで全滅した事件を中心に殉死をとりあげて書いています。
光芒 こうぼう。尾を引くように見える光のすじ。ひとすじの光
即興詩人 デンマークの童話作家として知られるハンス・クリスチャン・アンデルセンの出世作となった最初の長編小説。森鴎外がドイツ語版から約10年の年月をかけて翻訳し、単行本初版は、明治35年(1902年)に春陽堂から出ました。
ほうふつ 髣髴。彷彿。ありありと想像すること。ぼんやりしていること。
照葉狂言 泉鏡花の小説。明治29年(1896)発表。孤児の美少年(みつぎ)が姉と慕うお雪や照葉狂言師匠小親(こちか)に寄せる清純な愛を叙情的に描いています。
みお 澪、水脈、水尾。浅い湖や遠浅の海岸の水底に、水の流れによってできる溝。河川の流れ込む所にできやすく、小型船が航行できる水路となる。船の通ったあとにできる跡。航跡。長田幹彦氏の『澪』は明治45年に出版しました。
モチーフ 仏語のmotif。創作の動機となった主要な思想や題材
埋木 うもれぎ。ドイツの女流作家オシップ・シュピンの「一人の天才の物語」を森鴎外が訳出。音楽家ゲザが、高名のピアニスト、ステルニイの知遇を得て、バイオリニストとして成功し、続いて作曲も始めますが、ステルニイの奸計にかかって挫折します。
ゲザ その主人公がゲザ・フアン・ザイレンです。
雪催い ユキモヨイ。今にも雪の降りそうな空模様。雪模様

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(7)

文学と神楽坂

 きちんと二十分お邪魔をして、それから千駄木の裏坂を根津権現の方へおりていつた。もう夕暮れで、あの崖下の町はすつかりたそがれかかつてゐる。豆腐屋のラッパがあつちでも、こつちでも聞えて、吹く風も寒々としてゐる。
 とある横丁の角を曲ると、そこに二階建ての、こぢんまりした下宿屋がある。ずらりと並んだ二階障子に赤黄い灯がともつて、樹影からすけてみえる崖上の灯影の重なりをみてゐると、旅にゐるやうな情趣と哀愁が限りなく湧いてくる。
「ねえ、杢さん。あすこにみえてゐるあの灯が鷗外先生のお書斎ぢやないですか。」と、いふと、杢さんは脊丈のびをして、
「さうだ。あれメートルの書斎だ。わりに近くみえるね。」
「僕、この下宿へ移つて来ようかしら。」といふよりも早く、もう僕の決断はたちどころに極つていきなり入口の硝子戸をあけて入ると、髪の毛のふさふさしたおかみさんか応対に出てくる。二階の四畳半が賄つきで、月十一円五十銭だといふ。幸ひ千朶山房の真下に窓があいてゐる部屋なので、私は一も二もなくその場で契約をきめてしまつた。玄関の土間へつッたつて待つてゐた杢さんの大学生姿が、きつとおかみさんの信用をかつたのであらう。僕一人だつたら、或は断わられたかもしれなかつた。何にしろもう十二月にかからうといふのに、寸のつまつた一枚、よれよれになつた繩のやうなボロ兵児帯といふ僕のかつかうは、決して、見よい風態ではなかつた。三寸以上もある長髪を蓬々とちぢらして頬骨のつッぱつた血色のよくない顔に、鉄ぶちの眼鏡をかけてゐようといふのであるから、どうみたつてヤクザな文学青年か、雑誌ゴロ以上にはふめなかつた。
千朶山房と根津神社

千朶山房(赤い矢印)と根津神社(緑)

根津権現 ネズゴンゲン。根津神社。東京都文京区根津にある神社。地図では緑色で描いてあります。
賄つき 賄い付き。まかないつき。下宿・寮などで、食事も付いていること
千朶山房 せんださんぼう。森鴎外氏は1年2か月ほど暮らし、地名である千駄木に由来して「千朶山房」と呼びました。また夏目漱石もここに居を構え、このときは「猫の家」と言われています。この家屋は愛知県犬山市にある「明治村」に移築、公開されています
 あわせ。裏地のある和服。10月から5月までの間に着るもの
<b兵児帯> へこおび。男子、子供用の帯。並幅の布を胴に2、3重に回し、うしろで結ぶ。
蓬々 ほうほう。髪やひげがのびて乱れているさま
ゴロ 「ごろつき」の略。あちこちをうろついて他人の弱みにつけこんで嫌がらせをする悪者のこと
ふむ 前もって見当をつける。見積もりや値ぶみなどをする

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(8)

文学と神楽坂


 その晩、杢さんは久しぶりだからといつて永代橋畔の都川といふ鳥屋へ連れていつて、ふんだんに飲ましてくれた。盃の間にも鷗外先生がああいつてくれたのだから、北原や吉井とは、別な方面から先生の支持をつけるやうにしたらどうだと親切にアドバイスしてくれる。君はいつも自分でミソッカスだといつて、好んで卑屈な態度に出るからいかんのだ、詩なんかつくれなくたつて、何も文学の道は外にいくらだつてある。
 僕は心の中で涙をおさへて、
「ねえ、杢さん、さつきも鴎外先生がいつとられたが、兄貴の『司祭と猫』つていふものは、ほんとにそんなにいい詩なんですか。どうか本当のことをいつて下さい。」僕はせめてそれで自分に自信をつけたかつた。
 杢さんはカツカツと舌を嗚らして、
「いい詩だつたよ。多分に性的な皮肉が歌はれていて、けんらんなものだつた。白秋もおれは震駭したといつてたな。しかし秀さんらしからぬ、光沢のありすぎる詩だつたよ。」
「兄貴はなんていつてゐるんですか。ほめると、何か反撥しますか。」
「うむ、おれはデーメルを捨てゝもう一度ヴェルレーヌからやり直すといつてるんだ。『司祭と猫』みたいなものを今後、いくつもかくと興奮してゐたな。」

都川都川 京橋区(現在の中央区)の隅田川の川縁、永代橋に近くにあった料理屋。この図は東京紅團(東京紅団)の『パンの会を歩く』 http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm からとりました。
ミソッカス みそっかす。味噌っ滓。子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。
震駭 しんがい。驚いて、ふるえあがること
デーメル リヒャルト・フェードル・レオポルト・デーメル。Richard Fedor Leopold Dehmel。ドイツの詩人。1863年11月18日~1920年2月8日
ヴェルレーヌ ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)(1844年3月30日 – 1896年1月8日)は、フランスの詩人。日本語訳では上田敏による「秋の日のヰ゛オロンのためいきの……」が有名

 すると、あのノートの中にはまだ『民族の果樹園』や『黒と金の饗宴』『夜の円舞曲』なんていふのが、七つも八つも残つてゐるから、それが兄貴の署名で一つ一つ些細な原稿料に化けるかもしれない。それとも、もう僕が北海道から帰つてきたから、これでやめるかな。
 さう僕は秀雄と杢さんの友情を思ふと、それから先のことは何んにもいへなかつた。まつたくいふに忍びなかつたのである。それほどに杢さんは清潔な芸術家であつたし、立派な人格であつた。
 すぐ下の隅田川では、曳船の小蒸汽船がしつきりなしに含み声なスクリューの音を水にこもらせてどんどん溯上してゐる。月がゆらゆらほの白く砕けてゐるところをみると、丁度今上げ潮らしい。川口の方では模糊とした月光の果てに、大島通いの東京丸がぼつッぼつッと汽笛を吹嗚してゐる。もうぢき出航するのであらう。
 その汽笛の音を聞いてゐると、僕の眼には宝蘭港の月夜や、吹雪の小樽港が今みるやうにまざまざと浮んでくる。空きッ腹に、幾度かうした、うら寂しい汽笛の音を聞き送つたことか。
 考へれば佗びしい二ヶ年にあまる旅路ではあつた。僕は涙がボロボロ溢れて、とめどがなかつた。

『民族…』の3編 残念ながらこの名前を使って小説になっているものはありません。
曳船 ひきふね。水路に浮かべた船を水路沿いの陸路から牽引すること。 曳舟(ひきふね)は東京都墨田区東向島の地名
溯上 流れをさかのぼっていくこと
川口 川口市。かわぐちし。埼玉県南東部の荒川北岸にある人口約57万人の市
宝蘭港 宝蘭港はありません。室蘭港ではないのでしょうか。むろらんこう。北海道室蘭市にある港湾です
小樽港 北海道小樽市にある港湾

小樽

 その晩、僕は本田といふ品川の友だちのところへ帰るにしては、とても酔ひすぎてゐたので、杢さんと一しよに、さつき契約をきめたばかりのあの根津の下宿屋へいつて、むりやりに泊めてもらつた。夜具がないので、おかみさんに頼んで、近辺の貸布団屋からやつとひと組コスメチック臭い木綿夜具を借りてもらつた。もう午前の一時すぎであつた。おかみさんはいやな顔もせず、親切に世話を焼いてくれた。
 あとから聞いて、さすがの僕もひと縮みになつてしまつたか、それは村松梢凰氏の伯母さんだつたのださうである。
 それを聞いたのは、彼れこれ二十年もたつてからであるが、いろいろ御迷惑をかけた昔日のことを思ふと、何ともかとも慚愧にたへない思ひである。
 翌朝、味噌汁の煮える匂ひで眼を覚ましてみると、案外落着いたいい部屋である。手拭から歯みがきまで一々買つてもらつて、近所の銭湯へいつて、湯だけは浴びてきたが、何分にも綻びの切れた、銘仙の袷が、垢でピカピカひかつてゐて、どうにも見すぼらしくつて、気がひけてならない。早速親父の家へいつて、ひと先づ机や行李や本の類を人力車にのせて運んできた。親父は、古い瀬戸ものの火鉢をひとつくれて、今度はしつかりやれと愛情をこめて激励してくれた。親父は兄貴よりも、僕にむろん全幅の信頼をかけてゐたのである。
 すつかり家具のおきどころをきめてから、その下宿ではじめての夕飯をくつた。塗膳には牛肉のすき焼きなんかがついてゐて、その時分にしてはとても扱ひのいい賄いであつた。一本つけてもらつて時間をかけてゆつくり飲んだ。こんな穴ぼこみたやうなところであるから、杢さんさへ黙つてゐてくれれば、誰れにもかぎつけられることはあるまい。秀雄や吉井勇なぞから全く隔絶して、僕は僕自身の道を歩こうと、深くふかく決心をきめた。
 北窓をあけると、すぐ真上は鴎外先生のお書斎の窓である。
 先生は午前の二時までも三時までも仕事をなさるらしく、いつみても黄色い灯が窓のカーテンにほのめいてゐる。それが消えるまで、僕は決して寝なかつた。僕はそこで出世作といはれる『零落』を、中央公論にかかしてもらつてやつと大正文壇に華々しくデビューしたのである。
 こないだ僕のところの近辺の娘さんが小堀杏奴女史のところへ伺つたら、僕がそこの下宿の窓から汚いドテラを着て、よく顏を出してゐたのを、子供心に覚えてゐるといはれたさうである。申す迄もなく、杏奴女史は鴎外先生の令嬢である。
 その時分おいくつ位だつたかしらないか、あのお宅におかつぱ頭の可愛らしいお嬢さんがゐられたとは想像も出来ない。それほどに先生の千朶山房は粛殺とした、冷厳な印象を僕に与へてゐる。それが先生の持つてをられた雰囲気そのものであつた。

コスメチック 化粧品・頭髪用化粧品の総称
村松梢凰 むらまつ しょうふう。小説家。1889年(明治22年)9月21日~1961年(昭和36年)2月13日。
慚愧 ざんき。自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること
銘仙 めいせん。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物
零落 れいらく。落ちぶれること。大正元年、長田幹彦氏は旅役者の生活を描いた『澪』『零落』で作家としてデビューしました。
小堀杏奴 こぼり あんぬ。森鴎外と志げの次女。随筆家。生年は1909年(明治42年)5月27日。没年は1998年(平成10年)4月2日。
粛殺 しゅくさつ。厳しい秋気が草木を枯らすこと

文豪の素顔|森鴎外

文豪の素顔|森鴎外(2)

文学と神楽坂

 その間にあつて、杢太郎ばかりは、いはゆる朱に染まない、純真な学徒であり、芸術家であつた。僕のやうな三下奴が心ひそかに敬慕もし、頼りにするのは当然の話であつた。
 杢太郎の家へいくと、彼はもうきちんと大学の制服にきかへてゐて、にやにやしながら「今君の親父の家へ電話かけたら、秀さんは昨夜つから帰らんといふぢやないか。吉井と一しよなら、どうせ悪所だな。あのディオ二ソスにも困つたもんだよ。はゝゝゝ。」と真四角な口をあけて、歯並のそろつた歯を出して大きく笑ふ。意志的な、英知の表情である。
 僕がソラやゴンクールが消えた話をすると「そいつは愉快だなア、彼らにはソラやゴンクールは、およそ猫に小判だからね。仕様がないな。幹さん、そば杖で大損害だつたね。しかし秀さんも勇も、何んにも読まずに、徒らにヴィナスバッカスばかり追つかけてるのはつまらんな、今にアルチザン以上のものにはなれんぞ。」と、いつになく、生真面目な顔になる。一たい杢さんの顔の皮膚は血行が不安定で、笑ふとみずみずしい赤色を呈してくるが、渋面つくると、毛細管が皺にそうて収縮するかして、黄色い太い線を残すのが特徴であつた。
 僕は今更ら秀雄や勇の愚痴をいふのも馬鹿くさいので、鷗外先生の方へ話をもつていくと、杢さんは例のくせの鼻をクンクン鳴らして、

悪所 悪いところ。花街でしょう。
ディオ二ソス Dionysos。ギリシャ神話で、酒の神。バッカス。
猫に小判 貴重なものを与えても、本人にはその値うちがわからないことのたとえ
そば杖 喧嘩のそば(づえ)。他人の喧嘩のとばっちりをうけること。
ヴィナス ビーナス。Venus。ローマ神話の愛と美の女神。
バッカス Bacchus。ローマ神話のワインの神。ディオ二ソスの異名バッコスがラテン語化してバックス、英語化してバッカス。
アルチザン artisan。技術的には熟練し精妙な腕を発揮しながらも芸術的感動に乏しい作品を作る人々を批判的にいう言葉。

「いや、千駄木町のメートルはね、陸軍省から、真直に精養軒へいくといつてたよ。だから、もし幹さんがいくんなら、精養軒へずつと一しよにいかうか。」と、すつかり当てがはずれたことになつてしまふ。
 僕は杢さんと一しよに歩くだけでもむろん楽しいので、二人肩を並べて、戸外へ出た。杢さんはとてもよく歩く人で、白山の停車場へきても、電車に乗らうとはいはない。追分の方へどんどん歩いていく。どうやら向岡へ出て、上野までぽくぽく歩いていくつもりらしい。
 僕も何んにもいはずに、歩いていつた。
 杢さんはしきりに鼻をクンクンやる。さういふ時には、至極御機嫌なのである。
「ねえ、幹さん、君一昨日蒲原さんのところをベズーフしたさうだね、君はよくいくんだね。」
「え、僕、とつても、有明先生が好きになつちやつたんですよ。あのビンズル尊者はお顔をみてるだけでも、深遠で、神聖で、頭がさがりますね。」
「僕らはもつと、有明を勉強しなくちやいかんな。上田敏や白秋のけんらんもいいが、技巧ばかりで内容は稀薄だね。」
「さういふ感じがしますね。」

メートル フランス語maîtreから。先生。親方。長。この場合は森鴎外です。
白山、追分、向岡 白山は現在の「白山上」、追分町は「本郷追分」、向岡は当時の「向ケ丘弥生町」で、これは現在の「弥生町」の方が現在の「向丘」よりもいいと思います。ここを通って精養軒に行くわけです。

精養軒

最新大東京案内図 昭和17年(1942年)から

Kambara_Ariake蒲原 蒲原(かんばら)有明(ありあけ)。詩人。東京生れ。生年は1875年(明治8年)3月15日。没年は1952年(昭和27年)2月3日。複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人で、薄田泣菫と併称し、北原白秋、三木露風たちに影響を与えました。
ベズーフ ドイツ語でBesuch(ベズーフ)は「訪問」「訪問する」
ビンズル 賓頭盧(ビンズル)。釈迦の弟子。十六羅漢の第一
白秋 北原白秋のこと。

「何か面白い話あつたの。」
「例によつて、アーサー・シモンズでもちきりで、とても僕、興奮しちやつた。一たい先輩つてものは、やけにわれわれに布教したがるもんですけど、有明先生ばかりは御自分の傾向にあふやうなことばかりひとりでしづかにアーサイドしてゐて、ちつとも教化しませんね。いやならそッぽむいてろつて調子で、妙に相手を突き放してゐる態度が僕、立派だと思ふんです。青年にちつとも媚びませんからね。」
「君は散文的なみかたをするから、リアルをみるんだね。」
「今度の『河岸蔵』の詩なんか、まるで印象派の画だな。魂に黒点を印しますよ。僕はね正直のところ、北原君や吉井君のあの朗々すべき声調つていふかな、ああいふのは才気だけの問題であつて、もうぢき飽きられやしないかと思ふんですがね。」
「いや、さうでもないよ。あれはあえかな青春といふものにつながつてるからね。人間が不朽のリリシズムを謳歌する以上、やはりあの浪曼主義は、亡びないね。はゝゝゝ。但しちと甘いがね。」と、杢さんはいたずららしくちよいと舌の先を出す。
 池の端へ出ると、東照宮五重塔がぼやッと夕靄にとけて、縮緬皺の無数によつた不忍池には、立ちおくれた真鴨が暖かさうに浮んでゐる。ぬくたい夕風がほこりッぽく顔を撫でてくる。
「どつだい、池の水が白く光つてゐるところへ蓮の枯れた幹がによきによき突つたつてゐる効果はちょいとオツじやないか。日本の風景にだつてなかなかいいニュアンスがあるんだよ。なにも、パリまで出かけなくたつていいさ。」と、自嘲の調子でいつたかと思ふと、藪から捧に、「ああ、こんな風が吹くと長崎へいきたくなるな。あの支那寺ドラが聞きたくなるよ。はゝゝゝゝ。」
と、板ッ片をぶッつけるやうに笑ひだして、急に大股にとつとと歩きだす。これは杢さんの一流のくせであり、発想法であつた。

アーサー・シモンズ Arthur William Symons。英国のデカダン詩人。生年は1865年2月28日。没年は1945年1月22日。「デカダン詩人」は長田幹雄氏自身の『青春時代』解説による評価で、「デカダン」は退廃的なという意味です。
アーサイド あまりいい英語やフランス語はありません。arsideはあればいいのですが、ありません。asideは英語もフランス語もわきへ、かたわらに、離れて
リアル real 。真実の
河岸蔵 かしぐら。河岸に建っている倉庫
黒点 太陽の光球面に出現する黒い斑点
北原 北原白秋。詳しくはここに
 ぎん。声を出して詩や歌を歌うか作ること
あえか か弱く、頼りない。きゃしゃで弱々しい
リリシズム lyricism。叙情詩的な趣や味わい
浪曼主義 Romanticism。ロマン主義。主として18世紀末から19世紀前半にヨーロッパや諸地域で起こった運動。感受性や主観に重きをおいた運動。恋愛を賛美し、民族意識を高揚し、中世への憧憬があります。その反動として写実主義・自然主義などを出てきました。
東照宮 上野東照宮(とうしょうぐう)。東京都台東区上野恩賜公園内にある神社。旧正式名称も東照宮。他の東照宮との区別のために上野東照宮と名前を付けています。
五重塔 元々は上野東照宮の五重塔でしたが明治の神仏分離によって寛永寺の帰属となり、戦後は東京都が管理。現在、上野動物園の中にあります。
夕靄 ゆうもや。夕方に立ちこめるもや
縮緬皺 ちりめんじわ。縮緬のように一面に細かく寄ったしわ。支那寺
不忍池 上野公園南西部にある池。台地の谷間に入り込んだかつての海が潟湖として残りました
ぬくたい (ぬく)い。ぬくとい。あたたかい。
藪から捧 藪から棒。やぶからぼう。予期せぬことが唐突に起こること。また、出し抜けに物事を行うことのたとえ。
支那寺 長崎市鍛冶屋(かじや)町にある黄檗(おうばく)崇福寺(そうふくじ)のこと。聖寿(しょうじゅ)山と号し、俗に福州寺(ふくしゅうでら)あるいは支那寺(しなでら)とよばれます
ドラ 銅鑼。中国の楽器。
dora_zildjianッ片 「いたっぺん」と読むのでしょうか。板の切れ端。

文豪の素顔|森鴎外

文豪の素顔|森鴎外(6)

文学と神楽坂

 僕は二年間の旅をおわつて、又風のごとくにへうへうと東京へ帰つてきた。明治四十四年の秋である。親父の家へ帰り度くても何だか敷居が高くて、帰りにくい。とにかく僕は、早稲田大学で相当真剣に勉強をしてゐて、決して学生として恥ずべき行為はしてゐなかつたにも拘らず、父がたうとう最後の手段として兄貴にの勘当をくはした。僕も実はそのそば杖をくつて、勘当の同伴を命じられたわけである。それといふのも僕の母親が秀雄を糞ッ可愛がり可愛がつてゐたので、親父への面当てに僕も追ひ出してしまへといふことになつたのである。こんな不条理な、封建的なことが平気で親子の間で行はれた時代が、日本にもごく最近まであつたのである。
 僕は窒息しさうな汚濁の雰囲気を離脱してたつた一人で北海道へ渡つてしまつた。二年間の放浪でずゐぶん苦労もしたので、人生の甘くないこともしみじみ感じとつてゐた。もう二度とふた度ああいつた詩人のグループなんかへ帰つていく気はしない。多愛のない芸術至上主義なんてものか、阿呆ッくさくみえてたまらなかつた。
 何にしろ長い間、東京を留守にしたのであるから、再び生活の根拠をきづきあけるのにひと骨折りをしなければならなかつた。当分の間は、収入の道が全くないのであるから、やむを得ず、友人の家をごろごろして歩くより外に暮らしやうがない。
 さういふ場合詩人たちは全然頼りにならなかつた。酒を飲むときには莫逆の友になるが、いざ生活のことになると、実さい酷薄をきはめたものであつた。尤も自分自身が既に無能力者で、手も足も出なかつたからであらう。いつの世にもさうだが、詩人の生活なんていふものは、溝川に消えてゆくあぶくのやうな頼りないものである。
 そこにまた美しさがあるのかもしれない。
 僕はある日杢さんを訪ねていつた。いつも変らなかつたのは、杢さんひとりである。
「やあ、よく帰つてきたね。たびたびおたよりありがたう。今度はほんとにいい経験をしたな。はゝゝゝゝ。」と、心から温情を示してくれる。
 さしづめ兄貴のゐどころが分らないので、それを聞くと、
「秀さんかね。秀さんは相変らず、あの浜町の桶屋の二階にくすぶつてるよ。一昨日もちよつと永代橋附近をスケッチして歩いたんでその帰りに寄つたがね。あすこは相変らす、梁山泊だな。今にあの天井裏のサロンもやがて壊滅するね。秀さんには、生活能力なんてものは全くないんだからな。」
「吉井君は。」
「吉井は下谷あたりに隠れてるらしいね。この頃ちつともパンの会も出て来ないがね。」といつて杢さんはぶきつちよな手つきで煙草に火をつけながら、「とにかく北海道のくさい匂ひのぬけないうちに、何かいいものをかくんだな。幹さん、今がチャンスだよ。」

へうへう 「へうへう」と書いて「ひょうひょう」と読みます。漢字では「飄飄」。足元がふらついているさま。また、目的もなくふらふらと行くさま。
たうとう 「たうとう」と書いて「とうとう」と読みます。物事が最終的にそうなるさま。ついに。結局
 「おさ」でも「ちょう」でも。多くの人の上に立ち、統率する人。
面当て つらあて。快く思わない人の面前で、わざと、あてこすりを言ったり意地悪をしたりすること。また、その言動。あてつけ
汚濁 よごれること。にごること。
多愛のない 他愛無い。たあいのない。しっかりした考えがない。また、幼くて思慮分別がない
芸術至上主義 芸術のための芸術を主張し、芸術の社会的・道徳的効用を否定する思潮
莫逆 ばくげき。 心に逆らうこと()しの意で、非常に親しい間柄。ばくぎゃく。
酷薄 こくはく。残酷で薄情なこと。
溝川 どぶがわ、どぶかわ。雨水・汚水などが流れる小さな川。どぶのように汚い川
浜町 日本橋浜町。下図を参照
永代橋 隅田川に架かる橋。中央区新川と江東区永代とを結ぶ。
梁山泊 りょうざんぱく。豪傑や野心家の集まる場所
下谷 したや。東京都台東区の町名。地図では赤くて長い場所
 ニシン。鰊とも。全長約30センチ。北太平洋に広く分布し、沖合を回遊。春季、産卵のために接岸する。卵は数の子です。

橋名前

「さういつてもらうとほんとにうれしいんですが、……実はひとつかいたものがあるんで「スバル」の編集へ届けてあるんですがね。」
 杢さんは思ひ出したやうに、
「あ、それかね。平出君は推せんしてゐるが吉井が反対なんで、のせられないんださうだね。もつともあの連中は、散文は分らないからね。」
 僕はそんな消息は全く初耳なのである。とにかく僕のかいたものが、編集で一応問題にはなつてゐるのだなと思ふと、胸が熱くなつてきた。
 杢さんはしばらくすると、とにかく久振りだから何処かへ出ようといふ。例の小型のスケッチ・ブックをポケットヘ押し込んで、大学の制帽を眼深かにかぷつて、自分が先に格子戸を出る。
 追分のところまで来かかると、杢さんはふつと立ち止つて、
「ねえ、幹さん、ちよつと千駄木町のメートルのところへ伺候してみようぢやないか。」といつて「今日は日曜だからむろん家にをられるだらう。」
 僕は願つたり、叶つたりである。鴎外先生にお眼にかかれやうなんていふことは、北海道以来考へたこともなかつた。最近のお作を拝見すると、何んだかあまりにも底光りがしてゐて、全くこわれわれ青年には近づき難かつた。
 千駄木町のお宅へいつてみると何のこともない、先生は無雑作に御自分で玄関へ出てみえて、
「やあ、木下君、今日は生憎仕事をやり出したんでね、長くは逢つてゐられないが、まあ二十分位ならいいだらう。」と、笑つて奥へ入つていかれる。
 すぐ下に崖地のみえる八畳で先生と対座した時には僕はもういくらか気持が落ちついてゐた。うつかりしたことをしゃべつて、軽蔑されては大変だと思ふせいか、つい言葉も淀みがちである。両肩はしきりにこつてくる。喉は乾いてくる。
 先生は夜来のお仕事で疲労してゐられるとみえ、お顔色も冴えないし、眼も濁つてゐた。はじめは杢さんと、何か独逸語で、医学上の話をしてをられたが、やがて僕の方をむいて、煙草の火をみながら、
「長田君、君は長田フイスとでも呼ぶべきだね。ジュマフイスのフイスだ」と、かうかふやうに笑つて、「昨日、平出君がきてね。今度君は大変にいいものを「スバル」にかいたやうだね。どういふもんだ。いづれ北海道の材料なんだらう。」
 僕はどもりながら、煙草をもつ手をふるはして、
室蘭でみてきた事実なんです。」
「なるほどね。噴火湾の夜景が実によくかけてゐるといつて、平出君が激賞しとつたよ。君は詩をやめて、小説をかくんだな。」

平出修スバル 「明星」の後進の詩歌雑誌。平出修が経営。同人平野万里、石川啄木、吉井勇が交互に編集。スバルは森鴎外の命名。
平出 平出(ひらいで)(しゅう)。評論家、小説家、歌人、弁護士。浪漫主義系の文学者。生年は1878年(明治11年)4月3日。没年は1914年(大正3年)3月17日。明治法律学校卒業。「明星」の同人として活躍し,その廃刊後は石川啄木や吉井勇らと「スバル」を刊行。一方で神田神保町に法律事務所を開業するリベラルな弁護士でもあり、幸徳事件(大逆事件)で弁護人をつとめた。
消息 動静。様子。状態
眼深か めぶか。目が隠れるほど、帽子などを深くかぶるさま。
千駄木町 千駄木町。東京都文京区の町名。ここに森鴎外が住んでいました。住所は本郷ほんごう駒込こまごめせん町57番地。現在は文京区向丘2丁目20番7号です。下図を。猫の家
伺候 しこう。目上の人のご機嫌伺いをすること
底光り そこびかり。うわべだけの飾った輝きではなく,その物の本質に根ざした光
> フイス アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils)。フランスの劇作家、小説家。小さな世界をしっとりと描くのが作風。高級娼婦(クルチザンヌ (英語版))マリー・デュプレシと出会い、1848年2月、24歳の時に思い出を小説『椿姫』として書き上げて出版し、これが代表作です。
室蘭 北海道南西部の市。内浦湾(噴火湾)に突き出す絵鞆(えとも)岬と地球岬がある
噴火湾 内浦湾。うちうらわん。北海道渡島(おしま)半島東側にあるほぼ円形の湾。実際は噴火ではないと考えられる。

噴火湾

 杢さんは自分のことのやうによろこんで、
「僕も常にそれをいつとるんです。われわれとはテムペラメントのうへでも、幹さんは既に異端者なんだから。はゝゝゝゝゝ。ゾラと懸命にとッ組んでゐるのはいいことですよ。」
「ゾラヘ入つていくのか。フローベルは何を読んだ。」
「『ボバリー』と『感情教育』と『セント・アントアヌの誘惑』です。」
「フランス語でよんどるのかね。」
「とんでもない。むろん英訳です。」
「ふむ。君は早稲田だつたね。」
「は、英文科です。」
坪内君のシェークスピアの講義は面白いといふぢやないか。」
「は、声色入りで、寄席へいくより面白いです。」と、答へて、私は苦いお茶をいただきながら、
「いつでしたか『マクベス』をやつとられてあんまり歌舞伎調の台詞が神に入りすぎたんで、学生たちがうつかりわッと拍手喝釆をしたんです。ところが先生は激怒されて、それつきり講義はふいになつてしまひまして。」
 鴎外先生はさも可笑しさうに、大笑されて
「はゝゝゝゝ。面白いね。僕はシェークスピアのやうなクラシックでもやはり現代語で訳した方がいいんぢやないかと思ふんだ。それで何かい、君はもう早稲田を出たのかね。」
「いいえ、これから論文を出して、むりにも卒業させてもらはうと思つてゐるんです。」

テムペラメント temperament。気質、気性。character は特に道徳的・倫理的な面における個人の性質。personality は対人関係において行動・思考・感情の基礎となる身体的・精神的・感情的特徴。individuality は際立った個人特有の性質。temperament は性格の基礎をなす主として感情的な性質
ゾラ エミール・フランソワ・ゾラ。Émile François Zola。フランスの小説家。生年は1840年4月2日。没年は1902年9月29日。自然主義文学の方法を唱道。その実践として「居酒屋」「ナナ」「大地」などの作品を含む「ルーゴン‐マッカール叢書」20巻を発表しました。
フローベル ギュスターヴ・フローベール。Gustave Flaubert。フランスの小説家。生年は1821年12月12日。没年は1880年5月8日。ルーアンの外科医の息子として生まれ、てんかんの発作を起こしたことを機に文学に専念。1857年、4年半の執筆を経て『ボヴァリー夫人』を発表、ロマンティックな想念に囚われた医師の若妻が、姦通の果てに現実に敗れて破滅に至る様を怜悧な文章で描き、文学上の写実主義を確立した。
ボバリー ボヴァリー夫人 。田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリーが、不倫と借金の末に追い詰められ自殺するまでを描いた作品で、作者の代表作。1856年10月から12月にかけて文芸誌『パリ評論』に掲載、1857年に風紀紊乱の罪で起訴されるも無罪判決を勝ち取り、同年レヴィ書房より出版されるやベストセラーに
感情教育 19世紀も半ば、2月革命に沸く動乱のパリを舞台に多感な青年フレデリックの精神史を描く。小説に描かれた最も美しい女性像の一人といわれるアルヌー夫人への主人公の思慕を縦糸に、官能的な恋、打算的な恋、様々な人間像や事件が交錯。
セント・アントアヌの誘惑 聖アントワヌの誘惑。フローベールが30年の歳月をかけて完成した夢幻劇的小説。紀元4世紀頃、テバイス山上にて隠者アントワヌは、一夜の間に精神的生理的抑圧によって見たさまざまな幻影に誘惑されながら、十字架の許を離れず、生命の原理を見出して歓喜する。
坪内 坪内逍遥。つぼうち しょうよう。小説家、評論家、翻訳家、劇作家。生年は1859年6月22日(安政6年5月22日)。没年は1935年(昭和10年)2月28日。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』とシェイクスピア全集の翻訳
シェークスピア ウィリアム・シェイクスピア。William Shakespeare。イングランドの劇作家、詩人。洗礼日は1564年4月26日。没年は1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日)。「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」、「ロミオとジュリエット」、「ヴェニスの商人」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残しました
マクベス 荒筋は11世紀スコットランドの勇敢な武将マクベスは魔女の暗示にかかり王ダンカンを殺し悪夢の世界へ引きずり込まれていくというもの。

「北海道にをつた間、休んでをつたのかい。」
「さうです。」
「論文は何をかく。」
「思ひ切つてスカンヂナビアの文学をやつてみようと思つてゐます。」
イプセンか、ストリンドベリーかい。」
「いいえ、僕はビヨルンソンです。」
 先生はさも意外さうに、
「ビヨルンソンとは不思議なものを掘り出してきたね。何を読んだの。」
「『マンサナ大尉』や『母の手』『ソルバッケン』」
 先生は煙草の吸殻をぽいと放つて、
「まあ、とにかく勉強することだね。小説は四十過ぎてからかいて丁度いいんだから、あせる必要はない。君の兄さんが此間何かにかいとつかね。『司祭と猫』といふ詩さ。あれはいいものだつたね。」
 杢さんは傍から口を入れて、
「ありやいい詩でしたね。秀雄にしちや珍らしく色感のすぐれたもんでしたね。」
「まるで白秋そつくりだつたね。」
 僕はぎよッとしてしまつたのである。兄貴はあの『司祭と猫』まで自分のものにかきかへて世間へ出してゐるのかと思ふと、僕は腹がたつよりも、兄貴の生活の窮迫さが眼にみえるやうで、脊筋がひやッこくなつてきた。『司祭と猫』はわづか二枚ほどの散文詩で、僕はノートの隅へかきつけて机の抽出しへ放り込んでおいたのである。道理でそのノートは、今度かへつてきて調べてみると、いつの間にか紛失してしまつてゐた。僕が北海道へいつてゐた間ぢゆう、僕の机と木箱は親父の家へ頂かつてもらつてゐたのである。その机の抽出しから持出したものらしい。

スカンヂナビア スカンジナビア(Scandinavia)。ヨーロッパ北部の半島。西をノルウェー、東をスウェーデンが占めます
イプセン ヘンリック・イプセン。Henrik Johan Ibsen。ノルウェーの劇作家、詩人、舞台監督。生年は1828年3月20日。没年は1906年5月23日。近代演劇の創始者であり、「近代演劇の父」。シェイクスピア以後、世界でもっとも盛んに上演されている劇作家る。代表作には『ブラン』『ペール・ギュント』『人形の家』『野鴨』『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガーブレル』など。
ストリンドベリー ユーアン・オーグスト・ストリンドバーリィ。Johan August Strindberg。スウェーデンの作家。生年は1849年1月22日。没年は1912年5月14日。
ビヨルンソン ビョルンスティエルネ・ビョルンソン。Bjørnstjerne Bjørnson。ノルウェーの作家。生年は1832年12月8日。没年は1910年4月26日。1903年にノーベル文学賞を受賞。
意外 実は鴎外が訳したものもあるのです。これから22年ほど先の1913年、「新一幕物 人力以上」です。
マンサナ大尉 原語ではKaptejn Mansana。英語訳はCaptain Mansana。日本語訳はなさそうです
母の手 不明です。
ソルバッケン Wikipediaの訳書では「アルネ シンネエヴェ・ソルバッケン 手套」。原語ではSynnøve Solbakken。農夫の物語
司祭と猫 本当にあったのでしょうか。ほとんどの詩集には出ていません。不思議です。

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(4)

文学と神楽坂

 さて食堂でどんなことかあつたか、さすがに今では一々記憶してゐないが、秀雄は二度立つてきて、底光りのする眼でおどかすやうに、
「おい、幹さん。金もつてないか。」と、酒くさい口でしつこくこだはつた。それからすぐ斜向ふで、上田先生が、自分の煙草の煙にむせながら、ルノアールの話をしてをられたのを、はつきり覚えてゐる。あの角刈りの頭を横にふつて、煙草のやにで黒くなつた歯を出してあッはッはッはッとあけッぱなしに笑はれる顔を思ひ出すと、今でもとてもなつかしい。上田先生はなかなかの男前であつた。
 夏目先生は、一番むッつりであつた。面白くなささうな白ばッくれた顔をして腕ぐみばかりしてをられた。『猫』のクシヤミ先生が鼻毛をぬいてゐるかつかうそつくりである。
 鷗外先生はお酒をあがると、つやつやしたお顔になつた。細い鬚をふるはして、感慨深さうに何かしきりに杢さんに話してをられる。
 ひよいとした拍子に、「センズリ」といふ言葉が、かなり高調子にはつきりと先生のお口から洩れたので、一座の人たちはぎよッとしたらしかつた。さうした露骨な下品な表現は、その時分の文壇では許されなかつたものである。あんまり唐突であり、しかも先生は笑ひもせずに話してをられるので、若いわれわれが聞き耳をたてたのはむりもあるまい。
 だんだん伺つてゐると、やつと話の経緯がわかつてきた。何んのきつかけからか性的事実の話題がもちあがつて、先生はつまりキンゼイ報告のやうなものを、平気でしやべつてをられるのであつた。或ひは軍医学上の観点から兵営に於ける兵士たちの性生活に関する()()()()を傾けてをられるらしくも思はれた。何にしろさながら試験管中の現象について語るごとくに、いかにも平静に、しかも科学的に、露骨な固有名詞を用いて滔々と諭じてをられるので、私たちはうつかり笑ふことも出来ない。みんな息をつめて、厳粛な顔をして傾聴してゐた。
 その中で今でも覚えてゐるのは、某師範学校の女子部の寄宿舎における夜中の自瀆行為の描写であつた。若い女教員の卵たちが性慾の悩みにたへかねて、いろんな不自然な行為をするのが、私たちの好奇心を極度にそそつた。深夜突如、非常呼集をやつて、女学生たちのベットを一々視察してみたら、実に意外な性器具を発見した。なかでも一番傑作だつたのは、宵のうちに校外から焼芋をかつてきて、さんざ食ひ散らかしたあげく、そのあまりをつぶして、克明にコンドームヘつめ、それを体温で温めて用いてゐたといふ実例である。
 夏目先生もその話の時はくすくす笑つてをられた。腕組が一層堅つくるしくなつた。
「どうも、手数のかかつた、浅間しいことをやるもんだなあ。」と、感嘆してをられたが、それは数の少い発言の中の一番出色のものであつた。その晩は夏目先生の、胆汁質な、対抗意識みたいなものばかり、僕はみせつけられた。

ルノアール ピエール・オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)。フランスの印象派の画家。生年は1841年2月25日。没年は1919年12月3日。
白ばッくれた しらばくれる。知っていて知らないさまを装う。しらばっくれる
センズリ 千摺り。 男性の自慰。手淫。
キンゼイ報告 米国の動物学者キンゼイ(A.C.Kinsey)が全米の男女を対象に行った性行動に関する調査の報告書。1948年に男性編、53年に女性編を発表。Sexual Behavior in the Human Male。キンゼイ報告はまだこの時代では発表されていないので、「ようなもの」なのです。
うんちく 蘊蓄。薀蓄。蓄えた深い学問や知識。
滔々 とうとう。次から次へとよどみなく話すさま
師範学校 旧制の小学校教員養成機関
自瀆 自慰。マスターベーション
堅苦しい かたくるしい。気楽なところがなくて窮屈
胆汁質 ヒポクラテスの体液説に基づく気質の4分類の一。激情的で怒りっぽく攻撃的な気質。胆液質。

 上田先生は知らん顔で、誰れかと巴里のオペラの話をしてをられた。先生のとこまでは聞えなかつたらしい。
 誰れだつたか、へうきんな調子で、
「ねえ、先生。僕がきいたところでは、電燈のグローブなんかも用ゐるさうですね。」
 鷗外先生は尢もらしく鬚をひねるかつかうをしながら、
「いや、それは何処でもやるらしいね。敬天堂病院の医員にきくと、一遍腟内で破裂して早速手術をしたんだが、手術が不成功に終つてたうとう死んだといふ実例もあるさうだよ。」
「いよいよもつて、浅間しき限りですね。」
「腟内で粉々に破裂したんぢや処置なしだよ。危いことをやるもんさ。」
 それから性病の話になつて、モウパッサン脳梅毒の話にまで発展していつた。勇はしかめッ面をして、わざと大向うめあてに、
「われわれも慎しむべきだなア。」なんて、場あたりめかしいことをのめのめといつて、わあッと皆を笑はせる。
 と鴎外先生は、
「ほんとに気をつけないといかんよ。吉井君なんざその方にかけちや猛者中の猛者だからなあ。長田秀雄君の『歓楽の鬼』のテーマもそれだからな。」
 秀雄は盃をふくみながらジロリと僕の方を睨んだ。
 小山内薫氏が自由劇場で演出した兄貴のあの有名な『歓楽の鬼』は、今だから白状するけれど、あれは実は僕がかいたものなのである。僕は一生懸命に苦心をして、脳梅毒の末期の患者を主題として、『暗い血の谿谷』といふひと幕ものの習作をかいてゐた。僕がそれを朗読して聞かせると、兄貴ドラマツルギーとしては成つてゐないなぞと、酔つぱらつてさんざんコキ下ろしたくせに、いつの間にかその原稿が僕の机の抽出からふつと姿を消してしまつた。
 兄貴の『歓楽の鬼』は、三田文学に掲載されたものである。兄貴は度はづれの怠けものなので、折角三田文学から執筆を頼まれてゐながら、どうしても締切に間に合はない。そこで苦しまぎれに僕の『暗い血の谿谷』を『歓楽の鬼』と改題して、僕に断りもしないで「三田文学」へ送つたわけである。むろん自己流にだいぶ手は入れてあつたが、台詞なんか、利きぜりふは僕のほとんどそのままそつくり使つてゐた。しかしさすがに兄貴だけあつて、幕切れなんかあの通り、実にうまく改作してあつた。
 後年小山内薫氏が僕のことを罵倒して秀さんは『歓楽の鬼』をかいてすぐれた芸術的純粋さを示したが、幹さんは依然としてセンチメンタルメロドラマチストだと面と向つて僕を批難したのには、まことに恐入つた。それ以来僕は批評家といふものを心から信じることか出来なくなつたのである。
 それからも秀雄は僕のものでしばしば原稿料をかせいだ。第二次世界大戦の初まる頃まで兄弟義絶して、十数年間遂にお互に仲直りをしなかつたのも、兄貴のあまりにも放埒な破廉恥な所業が原因をなしてゐるのである。兄貴は自分の債務のためにしばしば僕の家へまで執達吏をよこした。僕は肉親を超えた芸術家として兄貴の背徳行為を今でもいいことだとは思つてゐない。
 だから故久米正雄氏が、「新潮」にかかれた『文壇会合史』なるものをよんだ時には、ひそかに哄笑するより外はなかつた。世の中には裏の裏までみぬく人はないものである。僕は久米氏に「不徳のいたすところ」などとまるで筋遠ひなことをいはれても、いささかも俯仰天地恥ぢない。通俗作家が不道徳で純文芸の作家はみんな清節の士のやうにいつたあの時分のヘナチョコなヒロイズムほどあべこべに文壇を毒したものはあるまい。『会合史』は僕に関する限り相当出鱈目なものであることを、数々の資料によつて実証することが出来る。

巴里 パリ。フランス共和国の首都。パリ盆地の中心にあり、セーヌ川が貫流。川中島のシテ島を中心に同心円状に発展。
グローブ globe。電灯の光をやわらかく広く散らすための、ガラスなどで作った球状の覆い。
モーパッサン アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant)。フランスの自然主義の作家、劇作家、詩人。生年は1850年8月5日。没年は1893年7月6日。先天性と後天性梅毒があったと考えています。
脳梅毒 梅毒第三期に主として神経系がおかされた状態。
歓楽の鬼 明治43年、長田秀雄はイプセンの影響を受けて戯曲「歓楽の鬼」を発表、 翌年小山内薫の自由劇場で上演、新進劇作家として注目されました。「歓楽の鬼」の主人公は洋行したパリで性病になりますが、この時代では脳梅毒などが大きな原因でした。
自由劇場 2世市川左団次と小山内薫が主宰。 1909年11月イプセン作の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を有楽座で2日間試演。10年間に9回の公演と試演を断続的に行い、日本の新興脚本や新興演劇術のために一つの道を開いた。
ドラマツルギー 戯曲の創作や構成についての技法。作劇法。戯曲作法。演劇に関する理論・法則・批評などの総称。演劇論。
抽出 ひきだし。引き出し、引出し、抽き出し、抽斗。たんす・机などの物をしまっておく抜き差しできる箱。
三田文学 文芸雑誌。 1910年5月創刊。森鴎外、上田敏の斡旋で新帰朝の永井荷風を慶應義塾大学教授に迎え、同大学文科の発展を期して創刊された。
利きぜりふ 普通の会話の中に、金言や格言のようなセリフを入れること
センチメンタル 感じやすく涙もろい。感傷的
メロドラマチスト メロドラマとは音楽の伴奏が入る娯楽的な大衆演劇から、今日では、通俗的、感傷的な演劇、映画、テレビドラマなど。メロドラマチストはその作者、演者など
債務 借金を返すべき義務。
執達吏 執行官の旧称。国の代理人として、強制執行の具体的作業を取り仕切る人
久米正雄 久米正雄小説家・劇作家。生年は1891年(明治24年)11月23日。没年は1952年(昭和27年)3月1日。第三、四次「新思潮」同人。のち感傷的作風の通俗小説に転じ流行作家となりました。
新潮 佐藤義亮が新潮社を興し、1904年、『新潮』は創刊。100年以上も続いています。
文壇会合史 『微苦笑随筆』という本の「文士會合史」を読んでいますが、この「文士會合史」では「不徳のいたすところ」と話す場面はありません。おなじ通俗作家とレッテルを張られた人同士、久米正雄氏が長田幹彦について話すときに、あまり悪意は感じられません。
哄笑 こうしょう。大口をあけて笑う。どっと大声で笑う。
俯仰天地… ふぎょうてんちにはじず。俯仰天地に愧じず。孟子の言葉で「かえりみて、自分の心や行動に少しもやましい点がない」

文豪の素顔|森鴎外

神楽坂、今日は|小野十三郎

文学と神楽坂

小野十三郎全詩集 1924年6月発行『赤と黒』号外

神楽坂、今日は⁉︎

黄桜の悽愴な枝を担いで
僕は

神楽坂を登つてゐた
三月だ
泣いても笑つても
手品のやうな詩的仮構だ
でつちあげた妄想と
虚栄心の強い狂人を抱いて
さて何 に尖鋭な悩みがあつたか

僕はしかも挨拶をしなければいけない
 「神楽坂、今日は」

おの とおざぶろう、本名は小野 藤三郎。詩人。生まれは1903年(明治36年)7月27日。没年は1996年(平成8年)10月8日。伝統的抒情を否定し、批評性、即物性に富むリアルな詩風を確立

文学と神楽坂

手帳|同時代の作家たち

文学と神楽坂

広津和郎 広津ひろつ和郎かずお氏が書いた『同時代の作家たち』(岩波書店)の「手帳」(昭和25年)です。

 氏は生まれは1891年(明治24年)12月5日。没年は1968年(昭和43年)9月21日。文芸評論家、小説家、翻訳家です。

 氏は先輩作家の近松秋江氏の質草の話を新潮社の社長から聞き、まだ売れていない宇野浩二氏に書かせると面白いと考えます。

 が小説を書いて文壇に出るようになったのは大正六年であるが、たしかその翌年の初夏の頃であったと思うが、或日新潮社をたずねると、当時の同社社長の佐藤義亮(ぎりょう)氏との間に近松秋江の話が出、氏の口から秋江の逸話を幾つか聞かされた。秋江はなかなかあれで自分の肉体美が自慢で、丁度神楽坂毘沙門前の本多横丁の角に、後にヤマモトという珈琲を飲ませる店になったが、昔そこに汁粉屋があり、その汁粉屋のおかみさんがちょっとイキな女だったので秋江はそれに興味を持ち、自分の肉体美をそのおかみさんに見せたくなり、その家の裏側に風呂屋があったので、秋江は赤城神社の境内の下宿屋からわざわざそこまで風呂に入りに行き、しかも風呂に入る前にその汁粉屋に寄って、そこでおかみさんの前で浴衣に著更(きが)えて自分の肉体美をおかみさんに見せようとしたというのである。
 広津和郎氏です。
新潮社 文芸書を初めとした大手出版社。1896年に新聲社として創立
新潮社
本多横丁 「神楽坂最大の横丁」で、飲食店をなど50軒以上の店舗があります。この名前は、江戸中期から明治の初期まで、この通りの東側全域が本多家の屋敷であり、 「本多修理屋敷脇横町通り」と呼ばれていたことに由来します。
ヤマモト 『ここは牛込、神楽坂』第5号の「戦前の本多横丁」にでていた松永もうこ氏の絵です。サトウハチローとドーナツについてはここに
本多横丁戦前
風呂屋 この近くの風呂屋は「第2大門湯」だけです。青で書いてあります。下の山本コーヒーの想像図は赤で書いています。現在の大門湯は理科大の森戸記念館の一部になりました。なお地図は都市製図社製の『火災保険特殊地図』( 昭和12年)です。大門湯
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。
下宿屋 この矢印は昔の「清風亭」の場所で、赤丸で囲んだ清風亭とは違っています。近松秋江は赤い矢印のここに住んでいました。清風亭1
 それから秋江はまた非常に著物(きもの)が好きで、季節季節には新しく著物を作るが、貧乏なので直ぐそれを質屋に持って行ってしまう。それで次にその季節が来たらその著物を出して著れば好いのに、そうはしないでまた新たに著物を作る、しかし直ぐまたそれも質屋にはこんでしまう、そんな風にして質屋に預けた著物がいっぱい溜ってしまったが、虫干頃になると秋江は質屋の番頭がどんな虫干の仕方をするかとそれが信用が出来ずに、自分で質屋に出かけて行き、自分で質屋の蔵の中に細引を引きまわして自分の質物を懸けつらね、その下にそれも彼が入質した蒲団を敷いてその上に横たわり、自分の著物を頭上に眺めながら悠々と昼寝をして来るというのである。……そんな話を義亮氏の口から聞きながら、私は通寺町の路地の洋食屋で、秋江が芸妓に電話をかけて、「この間は散財した、あれだけあれば米琉が出来るんだのに」といっていた例の電話を思い出した。あの時にはあれがやりきれなく厭味に感じられたが、しかしこんな話を聞きながら今になって思い出すと、いかにも秋江の秋江らしさとして頬笑まれて来るのである。そしてその時佐藤義亮氏から聞いた話を、「これは面白い。これは小説になる。しかし自分に向く材料ではない。多分これは宇野浩二なら書けるだろう」と考えたものであった。
 宇野はその時はまだ文壇に出ていなかったが、私は彼にその話をして、「君なら書けるだろう」というと、「うん、僕なら書ける」と彼は答えた。それから一、二ヶ月後に宇野は実際にそれを小説に書いた。それが宇野の文壇的処女作となった「蔵の中」であるが、その事については私は以前「蔵の中物語」という文章に詳しく書いた事がある。
著物 着物のこと。この時代には「著物」と書いたんですね。
質屋 品物を担保(質草)として預かり、代わって品物の価値にみあう金銭を融資する商売
虫干 日光に当て,風を通して湿りけやかび,虫の害を防ぐこと。日本で6~7月のつゆ明けの天気のよい日に行います。
番頭 商店などの使用人の長。主人に代わり店の一切のことを取りしきる者
細引 ほそびき。麻などをより合わせてつくった細目の縄。
通寺町 現在は神楽坂6丁目のこと
洋食屋 上から下に神楽坂を下って左側にある洋食屋はわかりません。
米琉 よねりゅう。米琉(つむぎ)、正確には米沢(よねざわ)琉球(りゅうきゅう)(がすり)(つむぎ)。山形県米沢地方で生産される紬織物。米沢紬の中で、琉球絣に似た柄のもの
蔵の中物語 これは同じ本『同時代の作家たち』で「『蔵の中』物語――宇野浩二の処女作」という1章になって出ています。

松井須磨子|黒柳徹子

文学と神楽坂

 黒柳徹子氏の『トットチャンネル』(1984年)です。松井須磨子さんのことが書いてあります。

 青山先生の授業は、実際の演技指導より、昔の新劇の話や、俳優の、心がまえ、などが多かった。先生は、トットたち若い人と話すのも、楽しくて好きだ、と、よく自由に会話をした。
 そんな、ある日、卜ッ卜は、前から知りたいと思ってたことを聞いた。
松井(まつい)須磨子(すまこ)って、どういう人でしたか?」
 山田(やまだ)五十鈴(いすず)が、松井須磨子になった「女優」という映画も見ていたし、日本最初の 近代劇をやった女優として、卜ッ卜は、興味を持っていた。日本で最初にイプセンの「人形の家」のノラをやり、トルストイの「復活」のカチューシャをやり、しかも恋人の島村(しまだ)抱月(ほうげつ)のあとを追って首をつって死んだ人。その人と一緒に芝居(しばい)をした人が、ここにいる! そんな人と話をすることがあるだろうなどと、(ゆめ)にも考えたことはなかったから、トットは、ワクワクしながら、聞いたのだった。青山先生は、いつも、とても物静かだった。しゃべるとき、いつも真直(まっす)ぐに首をのばし、ゆっくりとした、口調だった。トットの質問に、青山先生は、少し微笑(びしょう)すると、いった。

トット 黒柳徹子本人のこと
山田五十鈴 やまだ いすず。生まれは1917年2月5日。死亡は2012年7月9日。女優。戦前から戦後にかけて活躍した、昭和期を代表する映画女優の1人
女優 1947年(昭和22年)公開の日本映画。主演は山田五十鈴。モノクロ、115分。松井須磨子と島村抱月の恋愛事件を題材にした作品
ノラ 『人形の家』の女性主人公。弁護士の妻ノラは人形のように愛玩され、安易な生活をおくるが、秘密にしていた借金のことで夫になじられ、一個の独立した人間として家を出る過程を描く作品。女性解放運動に大きな影響。
カチューシャ おじ夫婦の下女カチューシャは貴族ドミートリイ・イワーノヴィチ・ネフリュードフ公爵の子供を産んだあと、娼婦に身を落とし、ついに殺人に関与。カチューシャが殺意をもっていなかったことが明らかとなり、しかし手違いでシベリアへの徒刑に。ネフリュードフはここで初めて罪の意識に目覚め、恩赦を求めて奔走し、彼女の更生に人生を捧げる決意を。
その人と これは「松井須磨子と青山杉作が一緒に舞台をやった」ということですが、ほんとうでしょうか。これは次の質問でも出てきます。
青山 青山杉作。あおやま すぎさく。生まれは1889(明治22)年7月22日。没年は1956(昭和31)年12月26日です。演出家、俳優。早稲田大学英文科中退。在学中より小劇場運動に参加。1917年(大正6年)2月17日、村田、関口存男、木村修吉郎、近藤伊与吉らと(とう)()(しゃ)を創立。牛込芸術倶楽部で長与善郎原作の『画家とその弟子』を公演して旗揚げ。

画家とその弟子

画家とその弟子

 一応、さらに伝記を読むと

1918年(大正7年)4月、イプセン原作の『幽霊』にマンデルス牧師を演じ、好評を。映画芸術協会に参加。1924年(大正13)、築地小劇場の創立とともに参加。その後、昭和5~15年松竹少女歌劇団、昭和17~28年NHK放送劇団の指導に。この間、昭和19年俳優座同人、昭和24年俳優座養成所所長に。新劇、映画、放送劇、オペラなどの演出に幅広く活躍しました。

 あれ、どこにも松井須磨子の名前はでてきません。
 氏の生涯を描いた本『青山杉作』(昭和57年)があります。500冊の限定出版です。読んでみましたが、やはり松井須磨子氏はほとんどでません。
 ただし、2人は1か所、同じ場所に行ったことはあります。それはここ芸術倶楽部でした。ここで踏路社が旗揚げしたと書いてあります。
この芸術倶楽部は島村抱月氏がつくったものです。大正2年に島村抱月氏が芸術座を作り、大正4年に研究所兼劇場の芸術倶楽部を誕生させたのです。
 大正6年に、青山杉作氏は27歳、松井須磨子氏は31歳でした。
 松井須磨子氏とよく似たところを歩いていますが、完全に違う場所などです。この2人はやっていることは同じ芝居ですが、台本も違うし、師匠も違う。友人も違う。松井須磨子氏にとっては、年齢が4年も下の青山杉作氏については、おそらく紹介があれば名前はわかっていても、あとはなにも知らないのではなかったでしょうか。「一緒に芝居をした人が、ここにいる」といえなかったと思います。

「あなたが、あの時代に女優になってたら、もっと有名になってたかも知れませんよ。つまり、それまで、男の役者が女形として、やってた中に、女が入っていって、しかも西洋の芝居をやったんですから、新らしい、というか、変ってるというか、そういうことで、もてはやされたのであって、あなたのように、個性的じゃありませんでした。ふつうの人でしたよ」
……トットは、びっくりした。はじめは、卜ッ卜の元気がいい事を、皮肉って、先生がいったのか、と思ったくらいだった。でも先生の表情も話しかたも、そういう風には見えなかった。でも、映画の主人公になるような情熱的で、美しく、常人とは(ちが)う人、と思っていたそれか、ふつうの人だったなんて……。
「そう、本当に、ふつうの人でした」
 青山先生は、くり返した。それは、まるで、女優としては、すぐれてはいない、とでもいうように聞こえた。たしかに、ドットかその前にラジオで聞いた松井須磨子のカチューシャのセリフや、「羊さん/\」とかいう歌を思い出してみると、当時の録音技術のせいもあるかもしれないけど、女優らしいメリハリはなく、歌の音程も悪く、素人(しろうと)のようだった。でもやっぱり、(だれ)もやっていないことを始めたのだから、(えら)い人だ、と、ドットは考えた。

ふつうの人 松井須磨子が「ふつうの人」でしょうか。実際に同時代人は「ふつうの人」とはいわず、むしろ「我が儘」「傲慢」だと書いています。たとえば、秋田雨雀と仲木貞一合著の『愛の哀史 須磨子の一生』(大正8年)では
舞台に於いては飽くまでも華やかに、旅宿にあっては益々放縦に、そうして散歩などの時には何処までも自由な気分で、旅に於ける須磨子の生活は、実に/\我儘(わがまヽ)の仕通しであった。今では()う抱月氏の心をも支配し得た彼女は、其の(てつ)を以て多くの座員も、自分の意の(まヽ)だと思うようになった。

河竹繁俊氏の『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』(昭和41年)では
いったい須磨子という人間は、のちに諸家が言うように野性的な自我性狂暴性を発抑するようになったのは、「故郷」(マグダ)の初演あたりからである。わたくしどもが「まアちゃん」の愛称で呼んでいたころは、飾りけのない、さっぱりとした丸顔で、バッチリとした眼の示しているとおりの女性であった。打ち前の勝気と捨て身の態度とを、舞台にも楽屋でもさらけ出すようにだったのはそれ以後のことで、抱月に()れ、甘え、わがままを張り通させたから、傲慢な女王気取りにもなったのであった。

 ではなぜ青山杉作は松井須磨子を「ふつうの人」と呼んだのでしょうか。結局女優ではなく、一つの女性としてみると「ふつうの人」になるのでしょう。傲慢、横柄、威圧といった性徴を全部剥ぎ取ってみると「ふつうの人」だけが残る。松井須磨子ではなく、本名の小林正子が残る。青山杉作氏にとっては女優の松井須磨子氏は美人でもなく、知的でもなく、いい点はつけられなかった。純粋で、無邪気で、ふつうの人で、いわゆる女優ではなかったのでしょう。
 しかし、開始日でも最終日でも全く同じ芝居を全く同じように見せるのは普通はできません。本当に「誰もやっていないことを始めたのだから、偉い人だ」と私も考えます。

永井荷風氏とノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

 永井荷風氏が書いた『断腸亭日乗』を読むと、ノヱル・ヌーエー氏に会ったと書いています。昭和八年のことです。ヌーエー氏はフランス読みで、英語読み、あるいは筆名ではノエル・ヌエット氏になります。このとき、堀口大学氏も加わり、永井荷風氏は52歳、ヌエット氏は48歳、堀口大学氏は41歳でした。実は3人が3人とも同じ挿話を書いているのです。では、最初に永井荷風氏が書いた『断腸亭日乗』です。

 三月十六日。夜来の風雨午後に至りて霽る。夕陽燦然たり。銀座オリンピク徃き飰する時、高橋君の来るに会ふ。街上にて堀口大学君及夫人に会ふ。又始めて仏蘭西人ノヱルヌーエー氏に会ふ。一同相携へて珈琲店耕一路に至りて憩ふ。ヌーヱ氏は仏蘭西の詩壇に名ある人の由。既に詩集二三巻を刊行すと云ふ。数年前日本に来り目下外国語学校教師なる由。氏はまた絵事を善くす。東京市街の景をペンにて描ける絵葉書二三十種を刊行すと云ふ。
霽る はる【晴る/霽る】は晴れるの文語
燦然 さんぜん。きらきらと光り輝く様子
オリンピク 銀座通り東にあった米国風洋食堂。 現在はティファニー。
徃き 往く(新字体)。どんどんと前進する。いってしまう
飰する はんする【飯する/飰する】。食事する
 適を辞書でみると「たまたま」と書いてありました。「(たまたま)」を「適適」とか「適々」と書くこともあるようです。
高橋君 高橋 邦太郎(たかはし くにたろう)。生年は1898年9月5日。没年は1984年2月25日。フランス文学の翻訳家、NHK職員、共立女子大学教授、日仏文化交流史の研究家。
耕一路 コウイチロ。創業70年の歴史あるカフェ。喫茶店とワインバー。東京都丸の内3-1-1国際ビルB1
憩ふ いこう。【憩う/息う】。ゆったりとくつろぐ。休息する。
絵事 かいじ。絵をかくこと。

 では、ヌエット氏は同じことを書くとどうなるのでしょう? 以下は『三田文学』1959年49巻5号「永井さんのこと」です。この4月30日、永井荷風氏がなくなり、この『三田文学』の5号は追悼文をあつめたものにかわってしまいました。

 私は、パリにいたころ、セルジュ・エリセイエフ氏の仏訳した「牡丹の客」によってはじめて永井荷風さんの名を知りました。永井さんの作品で仏訳されたものは、これがただひとつではないでしょうか。もっとも、その道の人の話によれば、永井さんの作品を完全に外国語に移すことは至難のわざであるということであります。
 日本に来てから、私はいろいろ同氏のことを耳にしました。しかし、永井さんについてのはっきりした印象を持ったのは、昭和十一年、同氏と銀座でお会いしてからのことと言えるでしょう。そのとき私は、堀口大学、高橋邦太郎の両氏と一しょでした。そして、両氏から永井さんに紹介され、みんなは連れ立って近くのカフェーへ行ったのでした。
  私はそのころ、東京のスケッチを思い立って、それを画葉書に作らせていました。永井さんは、すでにそれを買っておいでだったということで、それについてのお褒めの言葉をいただきました。その折のお話から、私は、永井さんがフランス文学を高く評価しておいでになること、また江戸時代をしのばせるあらゆるものに深い愛着をもっておいでになることを知ったのでした。
 その後、お目にかかったことがあるかどうか記憶しませんが、私の目には、そのときの永井さんのことが、今もありありと思い浮かびます。上ぜいのある、痩せぎすな、頭にはベレーをのせ、下唇の突きだし加減なところ、そこには肉感と同時に、世の中を冷眼に見下すといった感じが受けとれました。
牡丹の客 小品をまとめて明治44(1911)年に出した本です。この「牡丹の客」という小品では本所の牡丹を見にいくため芸者と一緒に両国から舟に乗り、行くと全然面白くない光景が目の前に広がります。で最後は「『本所の牡丹てたった此れだけの事なの。』『名物に甘いものなしさ。』『歸りませう。』『あゝ。歸らう』」で終わります。
昭和十一年 間違いで、正しくは昭和八年です。
東京のスケッチ 1928年、スケッチは白水社の月刊誌『フランス』に掲載され、次いで、絵葉書に。おそらく「東京のスケッチ」はこの部分でしょう。ちなみに、1931(昭和6)年、『ジャパンタイムス』にスケッチの連載を開始、1934(昭和9)年、ジャパンタイムス社は五〇枚を集め、『Tokyo vu par un etranger (東京-一外国人の見た印象)』として出版しています。
しのぶ 偲ぶ。過ぎ去った物事や遠く離れている人や所などを懐かしい気持ちで思い出す。

 では最後に堀口大学氏はどう書いているのでしょう。随想をまとめた『季節と詩心』のなかで『自画像』の「日記」でこう書いています。

1933年3月16日。(省略)
 再び銀座の通へ出る。「ゑり治」の角にて、荷風先生の御散歩姿を拝す。高橋邦太郎君を伴わる。先生は何時お目にかかっても若々し。「変な珈琲()があるからつきあい給へ」とのたまふままに、細君を引き合せなどして從う。途中佛国の詩人ノエル・ヌエット氏も加わり、「耕一路」という先生近頃御贔屓の店へ行く。珈琲うまし。ジイドはよろし、ヴァレリイは如何なぞ仰せらる。家大人はすこやかなりや、今年は幾歳にやなど、いとねんごろなり。エリセイフ氏の近い來朝のことより、「牡丹の客」の佛譯のこと、さては小生がかつてルウマニアよりお送りせしとかいふ先生を評論した巴里新聞の記事の切抜き、とんで二十年も前にポオランドの野を走る汽車の中より小生が差上げし繪はがきの事なぞ、先生の強記驚くべし。
ゑり治 岸田劉生氏の『新古細句銀座通』(青空文庫)では「ゑり治は、ゑりえんと共に私の姉などのよく親しんだ店の一つで東都の半襟の大頭の一つである」と書いてありました。半襟とは和服の下着の襦袢に縫い付ける替え衿のことです。
ジイド アンドレ・ポール・ギヨーム・ジッド(André Paul Guillaume Gide, 1869年11月22日 – 1951年2月19日)は、フランスの小説家。
ヴァレリイ アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリー(仏: Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry, 1871年10月30日 – 1945年7月20日)は、フランスの作家、詩人、小説家、評論家
ねんごろ 親身であるさま。親しいさま。
強記 記憶力の強いこと

 ヌエット氏と永井荷風氏が会ったのいうことはもう出てきません。会ったのは1回だけなんでしょうね。以下は『断腸亭日乗』でヌエット氏のことを書かれた文章です。

 五月十二日。晴。高橋邦太郎氏よりNouet氏の詩集Le Parfum des Troènesを借りてよむ。

Parfum パルファン。香料。香水
Troènes トロエーヌ。イボタノキ属。生垣として使いました。

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昭和23年1月26日 陰。山内義雄氏ヌヱツト氏著宮城環景1巻を贈らる
昭和25年十月初八 日曜日。晴。陰。山内義雄氏よりヌヱツト氏著巴里寄贈
昭和26年4月27日 晴。山内義雄氏ヌヱツト氏新著眠れる蝶(Nouët: Papillons endormis)を贈らる。

山内義雄 やまのうち よしお。生年は1894年3月22日、没年は1973年12月17日。フランス文学者。30歳、アテネ・フランセ教授となり、34歳、早稲田大学の教職に


かくてありけり①|野口冨士男

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の「かくてありけり」で、神楽坂の土蔵づくりと絵はがきについて書いてあります。

 昭和四十五年三月発行の「新宿区立図書館資料室紀要」に、『古老の記憶による震災前の形』という副題をもつ、七十センチ近くもある横長な『神楽坂通りの図』というものが附載(ふさい)されている。大通りに面した商店はむろんのこと、裏通りに至るまで明細に詮索(せんさく)されている手書きの地図を恐らく縮写印刷したもので、それをみているとひとたびうしなわれた記憶が私のなかにもゆっくりよみがえってくるのだが、牛込見附のほうからいえば坂上の右側にあったパン屋の木村屋、毘沙門前の尾沢薬局や、それより先の相馬屋紙店などとともに黒い漆喰(しっくい)土蔵づくりであった。そのパン屋とせまい路地を一つへだてた先隣りが太白飴の宮城屋、それから筆屋、三味線屋で、その先が絵はがき屋であった。
 絵はがき屋も太白飴などとともに消え去った商売の一つで、今では私が知るかぎり浅草のマルベル堂などが都内唯一の生き残り専門店かとおもわれるが、時代のスターも幾度か交替して、芸者から映画俳優、そして歌手という経過をたどったとみて誤まりあるまい。新橋、柳橋、赤坂などの芸者が一世(いっせい)風靡(ふうび)した時代があって、ブロマイドになる以前の絵はがきが飛ぶように売れた。私の姉などは、それにあこがれた最後の世代に相当するのではなかろうか。

『神楽坂通りの図』 コピーはここでも手に入ることができます。
附載 本文に付け加えて掲載すること
詮索 細かい点まで調べ求めること
木村屋 酒種あんぱんなどパンを作っていました。創業は明治39年(1906)。平成17年(2005)になり、閉店しました。銀座木村屋の唯一の分家でした。
尾沢薬局 神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています

相馬屋 創業は万治2年(1659年)。雑誌『ここは牛込、神楽坂』で相馬屋の主人、長妻靖和氏は「森鴎外さんがいまの国立医療センター、昔の陸軍第一病院の院長さんをやっていた頃、よくお見えになったと聞いています。買い物のときはご自分でお金を出さず、奥様がみんな払っていらしたとか」と話しています。
漆喰 しっくい。消石灰に繊維質(麻糸等)、膠着(こうちゃく)剤(フノリ、ツノマタなど)、時に砂や粘土も加えて水で練ったもの。壁の上塗りや石・煉瓦(れんが)の接合に使います。

昭和初期の神楽坂(「牛込区史」昭和5年) 全て土蔵づくり

土蔵づくり 土蔵のように家の四面を土や漆喰で塗った構造や家屋。江戸時代には江戸や大坂で町屋を土蔵造にすることが奨励されて、特に明暦の大火後には御触書( おふれがき)まで出ています。なお、外壁を大壁とし土や漆喰を厚く塗って耐火構造にした倉庫が土蔵。
太白飴 たいはくあめ。精製した純白の砂糖(太白砂糖)を練り固めて作ったあめ
筆屋 魁雲堂でした。
絵はがき 裏面に写真や絵などのある葉書。1870年ごろ、ドイツで創案し、日本への渡来は明治20年代。
一世 その時代。当代
風靡 風が草木をなびかせるように、広い範囲にわたってなびき従わせること。また、なびき従うこと 「一世を風靡する」とは、ある時代に大変広く知られて流行する。
最後の世代 野口冨士男氏は1911年生まれです。姉は2歳上。中学校にはいるのは氏が12歳で、大正12年(1923年)。おそらくこの最後の世代は大正10年ぐらいに思春期になった世代でしょうか。

林原耕三|神楽坂今昔

文学と神楽坂

林原耕三

 林原(はやしばら)耕三(こうぞう)氏は自称最後の漱石門下生で、生年は1887年12月6日。没年は1975年4月23日。英文学者で俳人。1918年、東京帝国大学英文科卒。在学中から夏目漱石に師事し、芥川龍之介氏たちを漱石に紹介し、その後、法政大学、明治大学、専修大学、東京理科大学の教授になりました。
 なかでも東京理科大学の教授歴が長く、その結果、非常に神楽坂のことについては詳しい…はずです。しかし、昭和48年(85歳)に書いた『神楽坂今昔』では、ここかしこに、かなり記録の抜け落ちや嘘が出てきているようです。これは終わりに近い部分です。正しい点もたくさんあるのですが、うっかり抜けた内容がやっぱり出てきます。

 同じ側の矢来町には森田のおたまさんが住んでおり、彼女が三田へ移った跡は素木しづ子君が住んでゐたから、私には随分思ひ出が豊富である。森田草平氏の家も少し先の反対側の路地の奥にあって、思ひ出は一層深まる。最初の夫人お稲さん藤間勘衛門の高弟で、家中(かちゆう)踊舞台があり、そのお弟子が沢山あった。おたまさんもその一人だが、東大国文科に在学中のロシア人エリセイフ君も熱心で、筋がよかったやうだ。その頃、踊りに来たのではないが、少女時代の水谷八重子の「やっちゃん」がよく遊びに来た。それから文学の方で「まあちゃん」(本名豊田正子――今、ゲラに臨んで思ひ出した)といふ少女のお弟子が出入して、その処女作「綴方教室」といふ本が好評嘖々で、未来を大に嘱望されたが、不幸な結婚をして、その後筆を絶って、慧星の如く消えてしまった。
 私は、森田さんが忙しいので、頼まれておしづさんと長男の亮一君に英語を教へた。後におしづさんの自宅へ通はされた。そして、言はれるまゝに、洗濯物を持って行って、(おしづさんは隻脚なので)洗ふのはお毋アさん、縫ふのはおしづさんがしてくれた。森田家では文士の誰彼とも顔を合せ、後年深く交はった佐藤春夫君と相知ったのもこの家であった。森田さんが岩波版第一回漱石全集の校正主任の頃もあの家だから、勢ひ、その方の用件でも屢々訪問した。(略)
 私が大正十四年に都落ちして、昭和五年に東京へ舞ひ戻る五年間以外は生活の舞台はこゝにあったやうなものである。

三田 矢来町から三田にいった時間はわかりませんでした。森田たま氏の年譜はすかすかで、特に20代前半になるとまったくわかりません。森田たま氏も素木氏も矢来町から南榎町にいったことはわかっています。本当は南榎町ではないのでしょうか。たぶんこれも抜け落ちた内容でした。
路地の奥 『漱石全集』と『神楽坂界隈の変遷』によれば、森田草平氏は明治43年12月から大正9年1月にかけて牛込区矢来町62番地に住んでいました。下図では赤い場所です。
お稲さん 草平の妻。踊りの師匠としての名前は藤間勘次(女性です)。ただし草平とっては最初の夫人ではありません。
藤間勘衛門 正しくは藤間勘右衛門(ふじま かんえもん)。生年は天保11.2.12。没年は1925(大正14年)1.23。藤間流勘右衛門の家元。
踊舞台 おどりぶたい。踊りをする舞台
嘖々 さくさく。人々が口々に言いはやすさま。例は「好評嘖々」「評判嘖々たりし当代の佳人」など
森田 これは森田草平氏のほう
亮一 森田草平氏の長男
隻脚 せっきゃく。片足がなくなること。結核のためでした

『素木しづ作品集』によると……

「大正四、五の読売の『よみうり抄』と時事の『文芸消息』の記事から清貢・しづ関係の項を列挙する。(略)
<上野山清貢氏 牛込矢来町一番地二二号へ転居せり。>(『読売新聞』大正5・5・5)
<素木しづ子 上野山清貢氏と共に牛込区南榎町一五に転居した。>(『読売新聞』大正5・6・10)

 これから素木しづは矢来町1番地22号にいたとわかりました。しかし、1番地は巨大で、その22号はどこなのか、現在探すものはなく、全くわかりません。できれば緑の場所ならいいのですが、残念ながら、不明です。なお、赤い場所は森田草平氏が住んでいた場所です。大正11年矢来町

文学と神楽坂

夏目漱石と中村武羅夫

文学と神楽坂

 中村武羅夫(むらお)氏が書いた「文壇随筆」(感想小品叢書、第10編、新潮社、大正14年) の一節です。ちなみに中村氏(1886(明治19)/10/4~1949(昭和24年)/5/13)は明治から大正にかけて活躍した編集者、評論家で、『新潮』訪問記者を振り出しに「新潮」の中心的編集者となりました。大衆小説も量産しますが、現在はほとんど残っていません。

 私が、湯の中で小便して、漱石に顏をあらはせて、大いに漱石をおこらしたといふやうなゴシツプが、つたへられたことがある。が、これはまちがひである。私だつて、まさか自分の小便で、人に顏をあらはせるやうな、そんな人の惡いまねをする筈はない。
 それは多分、次ぎのやうな話しが、誤傳されたものだと思ふ。
 その當時、漱石の家に、湯殿があつたかどうかを、私は知らない。漱石の家は、やつぱり現在の、早稻田南町だつたが、今のやうな堂々たる邸宅ではなく、確に家賃は四十五圓とかと漱石自身の口から聞いたことがあると思ふが、借家だつた。勿論、湯殿はあつたことだらう。が、直き前の錢湯に、よく出かけて來た。大抵、一番()いた十時ごろから二時ごろまでの間だつた。私もよくその錢湯に行つたので、時々湯の中で出逢ふことがあつて、「やあ」「やあ」と、裸で挨拶するのであつた。
「先生、湯に入ると、自然に小便が出たくなりませんか?」
 或時、私が、風呂の中で聞いた。
「湯の中でか?」
 漱石は、やつぱり湯に浸りながら、斯う反問した。
「さうです。」
「ないね。――君は、そんなことがあるか?」
「ぢや、僕だけですかね。僕は湯に入ると、自然に小便がしたくなるんです。」
「汚いね。」漱石は口尻をしかめて苦笑したが、急に立ち上がつて、「そんなことをいつて、君は今、したんぢやないか?」と詰問した。
「そんなことがあるもんですか。」と私は笑つた。
「どうだか、怪しいものだ。君が小便したんだと、僕は、君の小便で顏をあらつたことになる。汚いね。」
 漱石は、もう一度顏をしかめて、苦笑した。
 そんなことが、私が、自分の小便で、漱石に顏をあらはせたなどゝいふゴシツプに、誤りつたへられたのであらう。お蔭で私は、その後時々、德田秋聲氏と一緒に旅行などして、風呂には入つたり、溫泉に浸つたりする度に、「君、小便をしはしまいね。」などゝ、念を押されるのである。「僕と一緒の時には、それつだけは、一つ勘辨してくれたまへ。」と秋聲は、私をからかふのである。

 ここで徳田秋声氏の話が入っているのがうまく、最後で笑ってしまいます。徳田秋声氏も自然主義の小説家で、1872年2月1日(明治4年12月23日)に生まれました。ちなみに漱石氏は、徳田秋声氏よりも5年早く生まれ、1867年2月9日(慶応3年1月5日)でした。中村武羅夫氏は漱石氏よりも約20年も若い人でした。



[硝子戸]

東京震災記|田山花袋

文学と神楽坂

 さまざまな筆者達が関東大震災にどう向き合っていたのでしょうか。当時の東京では沢山の問題が出てきて、たとえば、伊豆大島が海に沈下し見えなくなったというデマまでが出ました。
 しかし、こと神楽坂に限ると、大々問題は起こらなかったといえます。震災が激しくなる場所は下町でした。
 例えば、田山花袋氏では『東京震災記』で関東大震災を描きましたが、一般的に神楽坂の震災は極めて軽微で、花袋氏もそこには触れていません。以下は田山花袋氏の『東京震災記』で牛込の場合です。

 ぬけ弁天から若松町に出て、それから弁天町へと行った。榎町の通りもかなりに混雑していた。私は横町から横町へと入って行った。川上眉山の自殺した天神町の家のある傍を山吹町へと抜けて、それから赤城下町改代町の方へと行った。そこはひどかった。家は家と重り合って倒されていた。二階がペシヤンコに潰れているような家もあれば、一気にのめって、滅茶滅茶に倒れているような家もあった、山の手では、被害はここあたりが一番ひどくはないだろうかと思われた。
 石切橋をわたって小石川に入った。そこらはことに警戒が厳重であった。

震災

田山花袋氏の『東京震災記』(地図は大正11年)

ぬけ弁天 厳嶋(いつくしま)神社、通称抜弁天(ぬけべんてん)は新宿区余丁町にある神社。苦難を切り開くための神社から抜弁天。
若松町 わかまつちょう。当地の松が江戸城に正月用の門松として献上されたことから。
弁天町 べんてんちょう。町域のほぼ中央を外苑東通りが南北に縦貫。牛込弁財天(べんざいてん)(ちょう)などの数町から現在の1町に。
榎町 えのきちょう。早稲田通りが南部を横に。町内に大きな榎の大木があったと言われます。
天神町 てんじんちょう。町域内を東西方向に早稲田通りが通ります。寛永のころ(1628-44)キリシタン大名の孫、大友義延の屋敷、大友屋敷がありました。「天神」はキリシタンの天の神(デウス)に。
山吹町 やまぶきちょう。町域内を東西方向に早大通りが、南北方向には江戸川橋通りが。「山吹の里」はこの地だというので名前がつきました
赤城下町 あかぎしたまち。地域北部は改代町に接します。俗称は赤城明神下。
改代町 かいたいちょう。この土地を代地として与えたので、改代町という説が。江戸時代には古着屋が並び、したがて古着(だな)と言われてきました。
石切橋 いしきりばし。石切とは石工のことで、このあたりに石工職人が多数住んでいました。
小石川 こいしかわ。東京都文京区のおよそ西半分。東京都文京区の町名、または旧東京市小石川区を指す地域名

里見弴|私の一日

文学と神楽坂

 里見弴氏の『私の一日』(中央公論社、昭和55年)の「泉鏡花」には、この泉鏡花と徳田秋声の曰く言いがたい関係がもっと細かく書いてあります。

 その話も詳しくさせられるのかい?……厄介だな。……改造の社長の山本実彦が、円本のうちに紅葉編も出したいんだが、お宅には未亡人やお子さんばかりで、細い相談にのつてもらひたいといふので、徳田秋声の所に出かけて行つたんだとさ。そしたら秋声が、「おれもなんか口をきくけれど、それはに話さなくちやだめだ」といふので、二人で泉家に乗りつけたわけだ。鏡花は、自分の紋に源氏五十四帖香の図のうちから「紅葉の賀」といふのにきめて、使つてゐたし、玄関のくもりガラスの掛あんどんにまで、そいつを透かしに摺り出させてゐるんだ。ちと頂きかねるがね。しかし、尾崎紅葉に対する気持は、「師匠」なんてもんぢやあない、正に「神様」だつたね。
 でまあ、二人を二階、八畳間の仕事部屋に通したんだね。鏡花のもの書き机は長さ二尺ほど、幅は一尺かそこらの存外小さなものなんだ。そこに小さな硯と筆とが置いてある。のちには、日本紙でなく、罫のある西洋紙にしたが、あれはたしか水上にすすめられたんだ。万年筆も買つてあげたかどうか、晩年にはペンで書くやうになつたがね。初めの頃は、まだ筆の時代でね、朱筆と墨のとがきちんと揃へてあつたな。ついでに言へば、床の間の違ひ棚には紅葉の、春陽堂で出した全集がずらつと並べてあつて、その前にキャビネ型の紅葉の写真が飾つてあり、毎朝、起きぬけにそれに向かつて礼拝するんださうだ。それから、下でお茶がはひると、必ず自分が持つてあがつて供へる。人にものをもらつても、お初穂といふやつで、まづ「神様」に供へるわけだね。
 机の左側に手あぶりの火鉢がある。木の根つ株を錮りぬいた「胴丸」つてやつで、寸法はほぼ机と同じくらゐ。赤や緑の漆で描いてある葉が、やつぱり紅葉、つまり楓の葉なんだ。これは、女流画家で、大変な鏡花崇拝だつた池田蕉園から贈られたんださうだ。蕉園は或る期間鏡花とこのすぢ向かひの有島家の長屋に住んでたこともあつたしね。

改造 大正8年(1919)4月、山本実彦創立の改造社が創刊。大正デモクラシーの思潮を背景に進歩的な編集方針をとり、文芸欄にも力をそそいだ。昭和30年(1955)廃刊。
円本 えんぽん。一冊一円の全集類の総称。1926年(大正15年)末から改造社が『現代日本文学全集』の刊行を始めた。各出版社からも続々と出版された。
源氏五十四帖 源氏物語は全体で五十四巻から構成する。紅葉賀(もみじのが)は第7帖で、光源氏の18歳の秋から19歳の秋までの1年の出来事を描いたもの。
香の図と紅葉の賀 illust_23-4源氏の香は香を使った遊び。5つの香りを聞いた後、同香だと思ったものを横線でつなぐ。たとえば「紅葉賀」では右のようになる。泉鏡花は式服の紋に紅葉賀を使っていた。
掛あんどん かけあんどん。家の入り口や店先の柱や廊下などにかける行灯
春陽堂 春陽堂が1890-91年に尾崎紅葉らの作品を収めた叢書『新作十二番』『文学世界』『聚芳十種』を出版し、以後明治期の文学出版をリードした。
初穂 はつほ。古来より神様に祈りを捧げる儀式の際には農作物が供物として奉納された。初穂とは、その年に最初に収穫した農作物。初穂料とは、この初穂(神様に捧げる農作物)の代わりとする金銭のこと
手あぶり 手をあぶるのに使う小形の火ばち
胴丸 火鉢胴丸ではなく、本当は胴丸火鉢のこと。丸太をくりぬいて、中に灰や炭火をいれ、手先を暖めたり湯茶を沸したりするもの。なお、胴丸は鎧の1形式で、着用者の胴体周囲を覆い、右脇で開閉(引合わせ)する形式のもの。
池田蕉園 いけだ しょうえん。1886年5月13日 – 1917年12月1日。明治、大正の女性浮世絵師、日本画家。
有島 有島武郎、有島生馬、里見弴の3人は横道の東側、麹町区下六番町(現・千代田区六番町三)の旗本屋敷に住み、横道の西側、下六番町11(現・六番町七)には二軒長屋で泉鏡花が住んでいました。
 さて、円本に紅葉を入れる相談を三人でしてゐるうちに……ここから先は、山本実彦の直話で、詳しく聞いたんだから、ほぼ間違ひはあるまいと信じてゐるんだが、その後いくたりかの人にも話してるかどうか……。紅葉が三十六歳の若死だつたといふ話の間に、秋声が「だけどほんといふと、あんなに早く死ななくてもすむのに、あの年で胃ガンなんぞになるなんてのも、甘いものを食ひすぎたせゐだよ。あの人ときたら、甘いものには目がなくて、餅菓子がそこに出れば、片つ端から食つちやつたからな」とかなんとか言つたらしいんだな。それはうそぢやなくて本当の話なんだらうけど、とにかく泉鏡花にとって氏は「神様」だ、朝晩拝んでるその方の写真の前で、そんなすつぱぬきみたいな口をきいたんだから、これはカーッとくるに違ひない。聞くが早いか、いまいつた胴丸火鉢をひとつ飛びに、ドスンと秋声の膝の上にのつかつてパッパッパッと殴つたんだとさ。その素早いことと言ったら……。
「泉さんつていふ人は手が早いですなあ」つて、山本がほとほと感心してゐだがね。どうにも収拾がつかないところを、まあまあと山本が割つてはひつて引きずるやうにして二階から徳田をつれおろして、外に待たせてあつた車に乗っけたんだけど、秋声は、ただもうワンワン声をあげて泣くばかり……。その時分、「水際の家」つていふのがよく秋声の作品に出てゐた、その浜町だか中洲だつたかの待合に連れて行つたんださうだ。下六番町から水際の家までいくら自動車だつて二十分か三十分はかかるよ。その間ずつと泣き続けてゐたさうだ。よほどくやしかつったんだらうし、びつくりもしたんだらう、可笑しいけど、……子供時分からのほんとの友達つて、こんなもんぢやないだらうかね。

すっぱ抜き 隠し事・秘密を不意に明るみに出すこと
水際の家 水面が陸地と接している所に建てた家。ここでは中洲にあった「水際の家」という名前の待合。
浜町 中央区日本橋浜町
中洲 中央区日本橋中洲
待合 待合茶屋。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店
 あとになつて、こんな二人を仲直りさせるといふ水上の発案があつて、「どうかな」つて気もしたんだけど、お客様として「九九九会」に招いたことがある。ところが鏡花は、ろくに話もしないうちから、やたらと酒ばかり飲んで、さも酔つたやうなふりをして寝ちまつてさ、……よくやる「たぬき寝入り」なんだよ。昔噺でもしようッて気で出て来た秋声だつて、どうにも手持ちぶさたで、いつの間にかスッと抜けて帰つちやう、といふ不首尾でね。にも拘らず、そのあとでも、秋声に会ふと、「この間はあんな具合で君たちの好意を無にしちやつたけど、なんとかもう一度機会をつくつてくれないか」つてね。実に素直な気持なんだよ。感動したけどね、心を鬼にして、「そんなこと何度やつたつて絶対に無駄だ、そのかはり、どちらが先かしらないけど、いざといふ時には必ず知らせるから」といつたんだ。それなのに鏡花の臨終の時に知らせが間に合はなかつた。陽のカンカン照つてる往来のまんなかで、ぼくは秋声にどなりつけられて、一言もなく頭を垂れたよ。
 とにかく、あの二人は生れつきの性分からして合はないんだね。ライバル意識なんてもんぢやない、紅葉以外はだあれも相手にしてゐない。当然のことだが、自分の仕事にそれくらゐの自信はもつてゐるからね。それからね、これは秋声が小説に書いてゐるけど、鏡花の実弟の斜汀が、秋声のやつてた本郷のアパートで死んだ時、葬式万端たいへん世話になつたといふんで、莫大なお礼をもって行ったんだね。その他人行儀なやり方にぐつと来たんだらうが、秋声流に、「またいつぱい食はされた」といつた風な、軽い結句でむすんでゐる。「神様」にだつて、どうしようもない、まあ、フェタルつてやつだな。別にさう珍しいことでもないしね。

九九九会 くうくうくうかい。九九九会は鏡花を囲む会で、1927年(昭和2年)、里見弴と水上瀧太郎が発起人、常連として岡田三郎助、鏑木清方、小村雪岱、久保田万太郎らが毎月集合。会の名は、会費百円を出すと一円おつりを出すというところから。
秋声が小説に書いている 昭和8年6月、随筆『和解』です。「てくてく牛込神楽坂」では『和解』で見られます。
結句 詩歌の終わりの句。実際には、この随筆は「私はまた何か軽い当身を食ったような気がした」と結んでいた。
フェタル fatal、fatale。致命的な、運命の、運命を決する、宿命的な、免れがたい。Famme fatale(ファム・ファタール)で「宿命の女」

坪内逍遥旧居跡

.坪内逍遥旧居跡jpg


新宿区指定史跡
坪内(つぼうち)逍遥(しょうよう)旧居(きゅうきょ)(あと)
(文芸(ぶんげい)(きょう)会演劇研(かいえんげきけん)(きゅう)所跡(じょあと))

所 在 地  新宿区余丁町七先
指定年月日  平成二十一年三月六日

 坪内逍遥は、明治二十二年(一八八九)から熱海の双柿舎(そうししゃ)へ居を移す大正九年(一九二〇)まで、余丁町に居住した。
 この約三十年間に坪内逍遥は、早稲田大学で教鞭を執る傍ら、雑誌『早稲田文学』の発行、シェークスピア作品の研究・翻訳等を行なった。
 また、後期の文芸協会を主宰し、明治四十二年(一九〇九)には敷地内に文芸協会演劇研究所を設け、基礎理論のほか、実際の演技指導が行われ、後の日本の演劇界を担う多くの人材を養成した。
 現在、自宅として使用した建物や演劇研究所は滅失しているが、この地は、日本近代文学及び演劇史上重要な場所である。
   平成二十一年三月

新宿区教育委員会

里見弴|二人の作家

文学と神楽坂

 まったくすごい殴打事件でした。たとえば

 殴打事件は紅葉の何回忌だったか、とにかく衆人環視の中で鏡花が興奮して無抵抗の秋声をぽかぽか殴り付けたそうです。(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2478098.html

  ええー、うそでしょう。尾崎紅葉の問題で泉鏡花徳田秋声を殴るなんて。
  でも、ほかの例を見ても同じです。

 秋聲が紅葉先生の死因を茶化したとかいう理由で鏡花が秋聲を殴打する事件などなど、いろいろ確執があってふたりの仲はよくなかったそうです。それでも晩年和解しています。( http://d.hatena.ne.jp/cho0808/20121118/p1 )

 ほんとうなの。やがてわかってきます。嘘が少し大きくなっていくのは仕方ないし、「和解」も「和解」なんだ。それでは、昭和25年、里見弴氏が満58歳に書いた、泉鏡花氏が徳田秋声氏を殴る「二人の作家」の始まりです。

里見弴

里見弴

 二十歳(はたち)(だい)で「白樺(しらかば)」に幼稚な作品を載せ始めたころの私からすれば、徳田秋声も、泉鏡花も、ともにひと干支(まわり)以上年長(としうえ)の、はるか彼方(かなた)鬱然(うつぜん)と立っている大家だった。この二人は、明治初葉に二年違いで北陸の都会に生を()けて、同窓の幼な馴染(なじ)みでもあり、上京後は、当時の小説家の大半を糾合、結束したかの観ある硯友社(けんゆうしや)の頭領で、かつまた読書子の人気の焦点となっていた尾崎紅葉の門下に加わり、一つ(かま)の飯を(わか)ち合った仲でもあったが、作風も人成(ひととなり)も、まるッきり異なったもの、――正反対とも云えるもののように思われたし、そのせいか、永らく交わりが()たれているという(うわさ)にも間違いはなさそうだった。尾崎紅葉が、行年三十七歳という夭折(わかじに)をしたあと、次第に衰退の色を濃くしつつあった硯友社一派の口マンティシズムから、いち早く離脱して、轗軻不遇(かんかふぐう)(かこ)っていた秋声も、日露戦役後、自然主義勃興(ぼつこう)の気運に迎え()れられて、国木田独歩田山花袋(たやまかたい)島崎しまざき藤村(とうそん)らと肩を並べ、じみ(、、)ながら、文壇の主流に堅実な位置を築いてしまった。一方、尾崎紅葉の愛弟子(まなでし)ではあり、年少にしてつとに鬼才の名をほしいままにしながら、幾多の傑作を発表し、二つ年嵩(としかさ)の秋声などを、はるか後方(しりえ)瞠若(どうじやく)たらしめて来た鏡花は、依然一部の愛読者によって偶像化されるほどの人気は保っていたにもせよ、一種傍系的存在として、とかく文壇人からの蔑視(べつし)は免れなかった。――「スバル」第二次の「新思潮」「三田文学」それに私たちの「白樺」などが、そろそろ世人の注目を惹ひくようになったのが、ちょうどそういう時代だった。

鬱然 物事が勢いよく盛んな様子
北陸の都会 石川県金沢市です。
硯友社 1885(明治18)年、尾崎紅葉が山田美妙・石橋思案らと結成した文学結社。同年五月、機関紙「我楽多文庫」を発行。同人に巌谷(いわや)小波(さざなみ)、広津柳浪、川上眉山らが参加、紅葉門下に泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声らが加わり、明治20~30年代の文壇中心勢力となり、硯友社時代を作った。
轗軻不遇 世に受け入れられず行き悩む状態。事が思い通りにいかず行き悩み、ふさわしい地位や境遇に恵まれないこと
自然主義 文学で、理想化を排し人間の生の醜悪・瑣末な相までをも描出し、現実をありのままに描写しようとする立場。19世紀後半、フランスのゾラ、モーパッサンなどが代表。日本では明治30年代の島崎藤村、田山花袋、徳田秋声、正宗白鳥らが代表。
瞠若 どうじゃく。驚いて目をみはること
スバル 文芸雑誌。明治42年(1909)1月~大正2年(1913)12月まで。森鴎外を中心に石川啄木、木下杢太郎、吉井勇らが発刊。詩歌中心で、新浪漫主義思潮の拠点に。
新思潮 文芸雑誌。1907年(明治40)小山内薫が海外の新思潮紹介を目的に創刊。第二次(1910年)以後は、東大文科の同人雑誌として継承さ。第二次で谷崎潤一郎、第四次で芥川竜之介が出た。
三田文学 文芸雑誌。明治43年(1910)5月、慶応義塾大学文学部の三田文学会の機関誌として、永井荷風らを中心に創刊。耽美的色彩が強く、自然主義文学系の「早稲田文学」と対立した。久保田万太郎・佐藤春夫・水上滝太郎・西脇順三郎らが輩出。断続しつつ現在に至る。
白樺 キリスト教、トルストイ主義などの影響を受け、人道主義、理想主義、自我・生命の肯定などを旗印に掲げ、武者小路実篤、志賀直哉、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、有島武郎、有島生馬など学習院出身者

 とはいえ、この、同年輩、同郷、同窓、同門の、二大家の間に横たわる(みぞ)については、所詮(しよせん)、私には、埋まる望みがもてなかった。鏡花は、「師を敬うこと」文字通り「神のごとく」で、二階の八畳なる書斎の違い(だな)には、常に紅葉全集と、キャビネ型、七分身の写真が飾ってあり、香華(こうげ)や、時には到来の名菓とか、新鮮な果実(くだもの)とかの供えられているのを見かけることもあった。たぶん、朝夕の礼拝も欠かさなかったことだろう。みだりに話頭に登せず、語る場合は「横寺町の先生」と呼んだし、式服の紋には、(* )氏香の図のうち「紅葉(もみじ)()」を用いていた。目前(まのあたり)に見られる師弟の情誼(じようぎ)の、おそらくはこれが最後のものだろうと思われ、私の性分としては、批判を絶した敬虔(けいけん)の気に撃たれた。
 これに反して、秋声は、「紅葉さん」と呼び、少しの悪意も感じられはしないが、人間同士、飽くまで対等の口調で、――どうも、ひどい食いしんぼでね、好きな菓子なんかが出ると、一遍に五つも六つも平らげちまうんだもの、あれじゃア、君、胃癌(いがん)で死んでも仕様がないさ、などと、(あわ)れむとも、(あざけ)るともつかない、渋いような笑い顔をする。ここにも、しかし、決して反感の(いだ)けない、飄々(ひようひよう)たる(なご)やかさはあった。
 * 源氏香  「源氏物語」五十四帖にもとづいてつくられた組香のこと。それぞれの帖の題名に応じて縦ないし横に五線を画し、これによって図を作る。紅葉賀はその図柄の一つ。

香華 仏前に供える香と花
到来 他からの贈り物が届くことか、その物品
情誼 じょうぎ。真心のこもった、つきあい
飄々 考えや行動が世間ばなれしていて、つかまえどころのない様子

 馬鹿正直者の私などは、いつごろ、どこでだったかは忘れたが、秋声から、――君たちはしょッちゅう泉と会ってるようだが、どうだろう、ひとつ、われわれが仲直りするような、うまい機会でもつくってもらえんもんかね、と云われ、一考の余地もないように、――それは、あなた方のどちらかが、もういけないとかなんとかいう時の、枕頭(まくらもと)ででもなければ、むずかしいんじやアないでしょうか、と、露骨な返答をしたことがある。――ずいぶんひどいことを云う人だね、と、秋声は、笑い顔ながらも、少しは(うら)めしそうだった。たぶんその後のことだったろう、某綜合(そうごう)雑誌社の社長から、こんな話を聞いたこともあった。何か新たな出版計画だったかに事寄せて、秋声と二人で鏡花を訪ね、たいそう(むつ)まじく懐旧談など(はず)んでいるうち、事たまたま紅葉に及ぶと、いきなり鏡花が、(なか)(はさ)んでいた径1尺あまりの(きり)(どう)丸火鉢(まる)()び越し、秋声を押し倒して、所嫌(ところきら)わずぶん(なぐ)ったのが、飛鳥のごとき早業(はやわざ)で、――泉さんって人は、文章ばかりかと思ったら、実に喧嘩(けんか)も名人ですなア、と、声はたてず、唇辺(くちもと)だけを笑った恰好(かつこう)にするいつもの癖を出して、――いやア、驚きましたよ。やっと引き分け、自動車に押し込んで、そのころ秋声の行きつけの「水際(みずぎわ)の家」というのへつれて行ったが、その道中も、先方へ着いてからも、見栄(みえ)も外聞もなく泣かれるので、ほとほともてあました、という話だった。この社長なる人は、豪放な見かけによらず、不思議なくらい芸術家に対する敬重の念が厚く、そんな話にも、少しも軽佻浮薄(けいちようふはく)の調子は感じられなかった。口止めはされないでも、めったな人には話せないという重味さえかかって来た。

一考の余地もない 少しも考えるに値しない、顧慮・検討する余地はまったくない
枕頭 まくらもと。寝ている人の枕のあたり。「死亡した場合には」と考えたい。
社長 改造社長の山本実彦です。
胴丸火鉢 丸太をくりぬいて、中に灰や炭火をいれ、手先を暖めたり湯茶を沸したりするもの。
飛鳥 ひちょう。空を飛ぶ鳥。非常に動作の速い様子
水際の家 水面が陸地と接している所に建てた家。ここでは実際に中洲にあった「水際の家」という名前の待合。
軽佻浮薄 けいちょうふはく。軽はずみでうわついている様子

 実際にあったのですね。また谷崎潤一郎氏も『文壇昔ばなし』で同じようなことを書いています。

 或る時秋聲老人が『紅葉なんてそんなに偉い作家ではない』と云ふと、座にあった鏡花が憤然として秋聲を擲りつけたと云ふ話を、その場に居合はせた元の改造社長山本實彦から聞いたことがあるが、なるほど鏡花ならそのくらゐなことはしかねない。私なんかももし紅葉の門下だったら、必ず鏡花から一本食はされてゐたであらう。

 では元の「二人の作家」にもどります。

 半年あまりして、秋声の発表した「和解」という短篇は、「お家の芸」ともいうべき、さらさらと身辺の瑣事(さじ)を書き流したような、得意の作風だったが、題材としては、(* )汀の死に(から)んでの、鏡花との交渉がとりあげられていた。その終りを、――鏡花が、弟のことでいろいろ世話になった礼に、たくさん土産物(みやげもの)を持ち込んで来て、自分が誰よりも紅葉に愛されていたこと、秋声は客分として誰よりも優遇されていたのだから、少しも不平を並べるところはないはずだということなど、独特の話術のうまさで一席弁じ立てて、そこそこに帰って行ったので……以下原文を()りると、「私はまた何か軽い当身を食ったような気がした」と結んであった。旧友の厚意を、そのまま()()()には受け取れないで、およその費用を()()ってみて、それ相応の礼物を持参し、綺麗(きれい)に決済をつけてしまわなければ気のすまないような、小心翼々たる鏡花の性分くらい、「苦労人」をもって自他ともに許す、しかも、何年か一つ(かま)の飯も食った仲の秋声に、わかっていないはずはないのだが、やはりその他人行儀には(かん)を立てさせられたのだろう、「軽く当身を食ったような気持」という、さも淡泊らしい言葉のなかにも、かなりの反感が(うかが)われないことはなかった。どういうつもりで「和解」という題を選んだのか、結末の一句が、その言葉のもつ和やかさを立派に踏み(にじ)っていた。
 何か少しでも金のかかりそうな話となると、――あなた方にお厭いはなかろうけれど、われわれは、とてもこのほうで、と、親指と人さし桁とを丸く(わが)ねてみせるような鏡花が、恩師に刃向う仇敵(きゆうてき)とも感じられている秋声に、弟の発病から思わぬ世話になったことを、心(ひそ)かに忌々(いまいま)しがり、右から左に物質で賠償し、毛ほども気持の上での負担など残すまいと焦慮(あせ)る、これは、ほかにどう変えようもない当然の帰趨(きすう)だった。森羅万象(しんらばんしよう)あるがままに観、そのあり形のままに写す、という、国産自然主義の極意に徹したように思われた秋声でも、生きているかぎり感情は殺せず、意識下はともあれ、意識するかぎりでは、重態に陥った旧友の弟のために出来るだけの親切を尽したつもりの、いい気持でいたところへ、手切金じみた返礼をされたのでは、さすがに、心平らかでなくなるのも、これまた当然の心理というべきだった。
 * 斜汀 泉斜汀(1880-1933)。泉鏡花の実弟。金沢に生まれ、兄とともに紅葉門下となった。代表作「深川染」。

当身 あてみ。古武術等の打撃技の総称
帰趨 帰着する。ゆきつくところ

 最後は鏡花が死亡する、その瞬間です。里見弴の文章もこれで終わりです。

 細君はもとよりのこと、国男、臨風、雪岱、万太郎、私の別宅に住む女、三角、私、それだけが、枕辺ちかく座を占めたと思う途端に、素人目(しろとめ)にもはっきりわかって、息が絶えた。(中略)
 午後三時少し前、目も眩むばかり照りつけた往来に出ると、むこうから、急ぎ足に秋声が来た。
「どう?」
「たった今……」
 キリキリと相好が変って、
「駄目じゃアないか、そんな時分に知らせてくれたって!」
 (むち)うつごとき(はげ)しさだった。
「どうも、すみませんでした」
 なんの思議するところもなく、私の頭はごく自然にさがった。

泉鏡花|南榎町

文学と神楽坂

 泉鏡花(みなみ)(えのき)(ちょう)に住んでいたことがあります。寺木定芳氏が書いた『人・泉鏡花』(昭和18年、再販は日本図書センター、1983年)では

大塚から牛込の南榎町に居を移したのは、たしか明治三十四年頃だったと思ふ。今は家が建てこんで到底其の面影もないが、その家は町の名の如き大榎が立ちこめて、是が東京市内の牛込區かと疑はれる程、樹木鬱蒼、野草蓬々、荒れに荒れた、猶暗い、古寺の荒庭のやうな土地に圍まれたすさみきつた淋しい二階家で、上下三間か四間の小い古びた家だつた。六疊の二階が先生の書斎で、下の六疊が令弟斜汀君の居間になつてゐた。
来客があまり多くて仕事の出來ない時なぞは、よく紅葉山人が、此の二階に來て仕事をしてゐた。又時に同門の面々や師匠も交つて、句會なぞを催した事も多く、壁に紅葉、鏡花、風葉春葉なぞの寄せ書きの樂書きなども殘つてゐた。此のおどろおどろした境地で、かの神韻渺茫たる『高野聖』や『袖屏風』『註文帳』などが物されたのだつた。同時に妖艶読む目もあやな『湯島詣』なども此時代の作物だつた。

大榎 おおえのき。ニレ科エノキ属の落葉高木
鬱蒼 うっそう。樹木が茂ってあたりが薄暗いさま。
蓬々 ほうほう。草木の葉などが勢いよく茂っているさま。
 昼の旧字体。
鬱蒼 うっそう。樹木が茂ってあたりが薄暗いさま。
神韻 しんいん。芸術作品などの人間の作ったものとは思われないようなすぐれた趣。
渺茫 びょうぼう。遠くはるかな。広く果てしないさま
高野聖 こうやひじり。泉鏡花の短編小説。泉鏡花の代表的作品の一つで幻想小説の名作。当時28歳の鏡花の小説家としての地歩を築いた出世作。高野山の旅僧が旅の途中に道連れとなった若者に、自分がかつて体験した不思議な怪奇譚を聞かせる物語。蛇と山蛭の山路を切り抜け、妖艶な美女の住む孤家にたどり着いた僧侶の体験した非現実的な幽玄世界が、豊かな語彙と鏡花独特の文体で綴られていました。
袖屏風 そでびょうぶ。泉鏡花の短編小説。占い師と観世物と娘の物語。
註文帳 泉鏡花の短編小説。無理心中を果たせず一人死んだ遊女の怨霊が、研ぎたての剃刀にとりついて起こる雪の夜の惨劇。
妖艶 あでやかで美しい。人を惑わすようなあやしい美しさ。
あや 物の表面に表れたいろいろの形・色合い、模様。言葉や文章の飾った言い回し。表面上は分かりにくい入り組んだ仕組み。
湯島詣 泉鏡花の小説。芸者蝶吉が主人公。華族の令嬢を妻にした青年神月梓を配し、梓が狂人となった蝶吉とついに心中するというお話。

泉鏡花。南榎町。

泉鏡花。南榎町。2014年7月

新宿区文化登録史跡も出ています。

新宿区登録史跡 (いずみ)鏡花(きょうか)(きゅう)(きょ)(あと)

所在地 新宿区南榎町二十二番地
登録年月日 平成七年二月三日


 このあたりは、明治から昭和初期にかけて、日本文学に大きな業績を残した小説家泉鏡花が、明治三十二年(一八九九)から四年間住んでいたところである。
 鏡花は本名を鏡太郎といい、明治六年(一八七三)石川県金沢市に生れた。十六歳の頃より尾崎紅葉に傾倒し、翌年小説家を志し上京、紅葉宅(旧居跡は新宿区指定史跡・横寺町四十七)で玄関番をするなどして師事した。
 この地では、代表作『湯島詣』『高野聖』などが発表された。鏡花はこのあと明治三十六年(一九〇三)に神楽坂に転居するが、『湯島詣』はのちに夫人となった神楽坂の芸妓によって知った花街を題材としており、新宿とゆかりの深い作品である。
  平成七年三月

東京都新宿区教育委員会

ヌエットと泉鏡花

文学と神楽坂

『婦系図』などの作者、泉鏡花氏は明治32(1899)年秋から明治36(1903)年2月、(みなみ)(えのき)(ちょう)に住んでいたことがあります。

 泉鏡花氏が南榎町22に住んだ約50年後、詩人兼画家のノエル・ヌエット氏は、1952年(67歳)、()(らい)町の小さな家に住み、1961年(76歳)、フランスに戻るまで住んでいました。ヌエット氏は神楽坂の寺内公園で一部の人に有名な版画『神楽坂』を作っています。

 えっ、どこにつながりがあるの。実はこの二人の家、非常に近いのです。

ヌエットと泉鏡花 地図は昭和5年「牛込區全圖」から

ヌエットと泉鏡花 地図は昭和5年「牛込區全圖」から

 左の小さい22番は泉鏡花氏の家で、右の大きい12番はヌエット氏などの数軒がありました。

 南榎町22は江戸時代には「御先手同心大縄地」と呼ばれていました。ここで「(ご )(せん)(て )」とは先頭を進む軍隊、先陣、先鋒のことで、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤め、平時は江戸城の各門の警備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持等を務めました。「同心」は江戸幕府の下級役人のこと。「(おお)(なわ)(ち )」とは与力や同心などの拝領地のことで、敷地内の細かい区分ではなく一括して一区画の屋敷を与え、大縄は同役仲間で分けることで、その屋敷地を大縄地と呼びました。今の公務員団地。これを明治政府はまた細分化したので、この場所には小さな小さな家がたくさん建っています。

 一方、矢来町12は明治時代では「矢来町3番地 (あざ) 山里」と呼ばれました。「山里」は庭園の跡があるという意味ですが、実際には江戸時代にはこの場所では酒井家の武士が住んでいました。



都館|文士が多し

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、サトウハチロー氏が都館に住んでいた宇野浩二氏を崇拝していたと言っています。

牛込郷愁(ノスタルジヤ)
 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈(けんとう)をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。現在は牛込館はLiberty houseと神楽坂センタービルに、都館支店はLog Salonに当たります。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。

いろは[昔]|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 牛肉「いろは」は6丁目にありました。
 森銑三氏の「明治東京逸聞史1」(平凡社、昭和44年)によれば……

牛肉店いろは  「読売新聞」明治24年12月25日から
 牛肉店のいろはは、すべて48の支店を作ることを目標としていた。その第18支店いろはが、牛込神楽坂上に出来て、新しく開店することを広告している。48作ることは、一つの夢として終ったが、当時のまだ狭かった東京に、18の店を持つたというだけでも、その盛んだったことが思い遣られる。

 また、泉鏡花氏が書いた「神楽坂七不思議」で「いろは」のことがでています。

神樂坂七不思議

奧行おくゆきなしの牛肉店ぎうにくてん。」
(いろは)のことなり、()れば大廈たいか嵬然(くわいぜん)としてそびゆれども奧行おくゆきすこしもなく、座敷ざしきのこらず三角形さんかくけいをなす、けだ幾何學的きかがくてき不思議ふしぎならむ。
        明治二十八年三月

 単に
大廈 たいか。大きな建物。りっぱな構えの建物。
嵬然 かいぜん。高くそびえるさま。つまり、外から見ると大きな建物なのに、内部は三角形で小さい。

 島崎藤村ほかの『大東京繁昌記 山手篇』(講談社)で加能作次郎氏の「早稲田神楽坂」ではこう書きます。

 その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青のいろガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑々そもそも私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかかるかと内心非常にびく/\しながら(はし)を取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭だしてお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。

 では、どこにあったのでしょうか。まず 間違えていた論点を見てみます。『ここは牛込、神楽坂』第18号の『遊び場だった「寺内」』では、

岡崎(丸岡陶苑) でも、ほんとうに遊ぶのは、安養寺の方で、狭いとこに駄菓子屋が二軒あったんで、そっちの方がわりあいにぎやかだった。安養寺の境内の往来に面したところに街灯があって、あそこはクルマ(人力車)がいつも二、三台、年中たむろしていたから。そこに「いろは」があった。牛鍋屋の。

地図1

「岡崎さんがお話ししながら描いてくださった明治40年前後の記憶の地図を描きおこしました」と書いてあり、図のような神楽坂の6丁目(昔の通寺町)の絵が書いてあります。図の左端の半分に「トケイ」や「安養寺」と書いてあり、その下に「いろは」が書いてあります。

 昭和12年の「火災保険特殊地図」を見てみるとかなり今とは違います。

神楽坂上2

「いろは」は昭和12年「火災保険特殊地図」の「精進寮」と同じ場所です。よく見ると三角形で、ここで名残をとどめています。このほかの建物はここにでています。

 しかし、まったく違ったように見える写真が出てきました。下右端の建物は「第十八いろは」(牛込区寺町)です。(「第六いろは」は神田区連雀町なので、違います)。

 最初は、上の写真でいうと、建物「3」と思っていました。困っていましたが、よくよく見ると、写真の左側には道路はありません。つまり、上図の右中央から見た写真、つまり「精進寮」の方から見た写真だと思っています。

 以上は間違えていた議論です。正しくは牛肉店『いろは』と木村荘平を見てください。