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クーデンホーフ光子

文学と神楽坂

 実はクーデンホーフ光子という名前はよく知っていました。19世紀後半にボヘミア(チェコの西部)の貴族と結婚した人です。でも、欧州に関わる逸話はあまり伝わらないし、 この事件とあの事件はどちらが先なのかともよくわからない。 随想や話はたくさん読みました。でも、結局わからない。どうしてなんだろう。1つ、理由がありました。年表がなかったのです。そのため、95%は知ってはいるけど、100%ではなく、書けない、という中途半端な状態でした。
 新宿区の「居住の地」でもいったんボヘミアに出て行くと、それからはわからない。
 でも、結局、年表はありました。なるほどそうだったんだと判明するものもありました
。年表は、折井美耶子と新宿女性史研究会編の「新宿 歴史に生きた女性100人」(ドメス出版、2005年)に出ていました。以下はその「女性100人」と年表です。

ヨーロッパ貴族と結婚した日本女性
クーデンホーフ光子(くーでんほーふ・みつこ)
 クーデンホーフ光子は、ヨーロッパ貴族に見初められ正式に結婚した初めての日本女性である。また二男リヒアルトが構想した「汎ヨーロッパ」思想とその運動が、今日のEU統合に発展したことから「欧州連盟案の母」とも呼ばれた。
 光子は、佐賀県出身の商人で骨董屋と油屋を営む父青山喜八と母津弥つやの三女みつとして、1874(明治7)年、牛込区牛込納戸町26番地に生まれた。当時の裕福な商家の町娘がそうであったように光子も稽古事を広く習得していたが、年ごろになると芝に和風の高級社交場として開業した紅葉館で働くようになり、三味線、琴、茶の湯、和歌、絵画などの素養もここで身につけたと思われる。

汎ヨーロッパ思想 汎ヨーロッパ主義。汎欧州主義。Pan-Europeanism。欧州の平和や統合を主張する思想や運動。欧州全体を一体的に捉え、1つに統合し、一体性を高める思想
EU European Union。欧州連合。外交・安全保障政策の共通化と通貨統合の実現を目的とする統合体。27か国が加盟。
牛込区牛込納戸町26番地 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)の明治20年では赤い3角形です。このなかの公園に「クーデンホーフ光子 居住の地」の史跡があります。

明治20年(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「5000分1東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

 この下図を見ると。26番地には2軒か1軒しかありません。おそらく26番地は1軒で、巨大な青山家だけあるのでしょう。ちなみに、ハンガリー公使館は青い四角です。
紅葉館 芝区芝公園20号地にあった会員制の高級料亭。1881年に開設、1945年3月の東京大空襲で焼失、跡地には東京タワーが立っている

 92年2月、オーストリア・ハンガリー帝国代理公使ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵が日本に赴任した。当時ハンガリー公使館は牛込納戸町28番地にあったことから、おそらく伯爵が近くにあった光子の父親の店を訪れたのが二人の出会いになったと思われる。また納戸町の坂で落馬した伯爵を光子が助けたというエピソードもある。光子は背が高く群をぬいた美少女であったようで、二人はまもなく結婚した。光子17歳、ハインリッヒ32歳であった。
 クーデンホーフ・カレルギー家は、ヨーロッパを通じての旧家であり、ハプスブルク王家にもっとも近い名家である。夫は父の跡を継いで外交官の道を歩み、18ヵ国語を操り、政治、外交にも優れた才能に恵まれていた。二人の結婚は当然両家の猛反対にあった。

92年2月 明治25年です。
牛込納戸町28番地 青い三角形です。
納戸町の坂 中根坂でしょう。
エピソード シュミット村眞寿美氏は「ミツコと七人の子供たち」(講談社、2001年)で…
 次男のリヒアルトは、「私たちの両親は、自分たちの出会いについての話を、全然してくれなかった。そこで私としては、私の両親や友人や、同時代の人々について詳しい木村毅の言葉を借りることにする」(『美の国』)として、有名な「落馬事件」に言及している。……凍てつく牛込の道で落馬した異国の青年を助けて看病した勇敢な美少女が光子で、これをきっかけに二人は愛し合うようになった……という伝説である。
 その木村毅は、「……出会いについては、一つの挿話が語られている」と前置きして、この出来過ぎた話を、事実だとは断言しないまでも、異人に対しても躊躇しなかったのは、紅葉館時代に受けた訓練のたまものと光子をほめて、まとめている。ほめられるような話だったら、なぜ光子自身が手記に書き残さず、子供たちにも語らなかったのだろう。
 木村毅も執筆している「国際時評」の同時代人吉岡義二などは、
「ときは今をさかのぽる明治23年の正月のこと、松飾りも凍り付くばかりの寒気の問屋町の朝まだき、騎馬の蹄の音たかく通りかかったのは、見るからに気品ある若い異国の貴公子、ある店先で馬は何に驚いたか突然跳ね上がったとたんに、氷に蹄をすべらせて人馬もろとも路上に横倒しになった。人々は傍観するまま、そこへ店舗の奥から、みめ麗しい十七、八の乙女がかけ寄って、われを忘れて介抱し……」
 と、まことしやかに書いている。
ハプスブルク王家 オーストリアの旧帝室で、中世以来ヨーロッパ随一の名家。スイス北部出自の貴族の家系で、家名は山城ハプスブルクHabsburg(たかの城の意)に由来する。

 結婚した翌年長男ハンス(光太郎)が生まれ、翌々年には二男リヒアルト(栄次郎)が生まれたが、戸籍簿には私生子として記載されている。その後夫が父の急死を機に帰国することになり、ようやく結婚の許可も得て妻、子どもとして認められた。渡欧に先立ち皇居で皇后から「日本人としての誇りを忘れないように」との言葉と象牙製の立派な扇が贈られ、これが光子の一生の支えになったという。
 96年1月、光子は牛込生まれの長男、二男とともに夫の故郷ロンスペルクヘ出発した。夫はボヘミアとハンガリーにある伯爵家の広大な上地や莫大な財産を管理するために外交官を退官し大地主としての生活を営むことになった。針のむしろに座すような周囲の目が厳しいなかで、光子は語学を始め立居振る舞いなど完全にヨーロッパ流に再教育され、七人の子どもの母となった。
 1906年、夫ハインリッヒが心筋梗塞のために46歳で急逝した。遺言状による膨大な遺産相続、子女教育の責任者という立場が光子を一変させ、優しく忍耐強かった光子は厳格で専制的にすらなったという。光子は子どもの教育のためにウィーンの宮殿近くに移住し、亡夫の精神を継いで子どもたちにヨーロッパ人としての最高の教育を受けさせる一方、自分はウィーン社交界の花として人々を魅了した。香水「ミツコ」はこうした光子をイメージして名づけられた。7人の子どもたちはみな多方面に活躍するが、とくに二男のリヒアルトは23年に『パン・ヨーロッパ』を出版、ナチスに命を狙われながらも欧州統合運動に奔走した。
 光子は、病と孤独のなかで再び日本の地を踏むことなくウィーン郊外で67歳の生涯を終えた。(藤目幸子)

ロンスペルク Ronsperk。西ボヘミア(現チェコ共和国)のロンスペルク村。ドイツ国境に近いこの小さな町は、チェコ語で正式名称を「ポビェジョヴィツェ」という。

Ronsperk

BS日テレの「大人のヨーロッパ街歩き」から

香水「ミツコ」 ゲラン社の香水「Mitsouko」はクーデンホーフ光子に由来するものではなく、1909年に発行されたクロード・ファレールの小説『ラ・バタイユ』に登場するミツコという。しかし、ジャック・ゲランが1919年にこの香水を製作した際、クーデンホーフ光子の名前を知らなかったということはなかろうと、ゲラン社フレグランス・エキスパートの社員が自社のコラムに記述しています。

* クーデンホーフ光子居住の地

 この地には、初めて西洋の貴族と結婚した日本女性であるクーデンホーフ光子[青山みつ](1874~1941)が、明治29年(1896)に渡欧するまで住んでいた。
 光子は、明治七年(1874)骨董商と油商を営んでいた青山喜八と妻つねの三女として生まれた。東京に赴任していたオーストリア・ハンガリー帝国代理公使のハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギーと知り合い、明治25年(1892)に国際結婚し、渡欧後は亡くなるまでオーストリアで過ごした。
 渡欧までの間、光子と共にこの地で暮らした次男のリヒャルト[栄次郎](1894~1972)は、後に作家・政治家となり、現在のEUの元となる汎ヨーロッパ主義を提唱したことから「EUの父」と呼ばれている。

年日年齢出来事
1874(明治7年)7.160歳東京市牛込区牛込納戸町で、青山喜八と津弥の三女として生まれる。
1881(M14)7歳 高級社交場である紅葉館が東京芝に開業。光子、一時働く
1891(M24)16歳紅葉館退職。光子、家業の骨董屋を手伝う
1892.2(M25)17歳ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵、オーストリア・ハンガリー帝国駐日代理公使として来日。3月ハインリッヒと光子結婚。ハインリッヒ32歳、光子17歳
1893.9(M26)19歳長男ハンス東京で生まれる。ハインリッヒの父フランツ・カール死去
1894.11(M27)20歳二男リヒアルト東京で生まれる
1895(M28)21歳教会で結婚式を挙げる。3月正式入籍。7月カトリックの洗礼(マリア・テクラ)を受ける
1896.1(M29)21歳宮中参賀で皇后に拝謁。夫の領地ロンスペルクヘ。三男ゲロルフ出産
1898(M31)24歳長女エリザベート出産
1900(M33)26歳 二女オルガ出産
1901(M34)27歳三女イダ出産
1903(M36)29歳四女カール出産。光子、喀血し肺結核と診断
1904(M37)30歳南チロルの結核療養所に入る
1905(M38)31歳修復の終わったロンスペルク城に戻る
1906.5(M37)31歳ハインリッヒ急逝、46歳。遺言により包括相続人、および子どもたちの後見入になる
1908(M41)34歳ウィーンに転居。社交界で活躍
1914(T3)40歳第一次世界大戦勃発。ストッカウの城に戻る仮設病院で娘だちと奉仕活動。長男、三男は戦場へ。二男リヒアルト、女優イダ・ロ-ランと結婚
1920(T9)前後46歳二女オルガを伴ってウィーン郊外のメードリンクへ移住。日本の要人が頻繁に光子を訪ねる
1923.10(T10)49歳リヒアルト著『パン・ヨーロッパ』出版
1924(T11) 秋50歳脳卒中の発作で右腕が麻庫、右足弱る、以後、娘オルガが代筆
1926(T15)1052歳第1回パン・ヨーロッパ会議開催。リヒアルト、パン・ヨーロッパ連盟の会長に選出
1941(S16)8.2867歳2度目の脳卒中発作にて死去。ウィーンのカレルギー家の墓地に葬られる

なぜ、小説家は昭和2年に洋行できたのか

文学と神楽坂

 はい、数年前から売れている小説家は豊かに、金持ちになっていったのです。巌谷大四氏が書いた「懐しき文士たち 昭和篇」(文藝春秋、1985年)では…

 大正15年10月19日、昭和改元の二ヵ月余前に、改造社が「現代日本文学全集」(全38巻)を大々的に発表した。三ヵ月遅れて新潮社が「世界文学全集」(全38巻)を、これまた大々的に発表した。どちらも定価一円ということで、円本合戦、円本時代という言葉が生れた。(中略)
 この二つの全集が口火となって、続々と全集が出はじめた。創業50年記念と銘うった春陽堂の「明治大正文学全集」(全50巻)、新潮社が「世界文学全集」に次いで打ち出した「現代長篇小説全集」(全24巻)、当時新興出版社であった平凡社の「現代大衆文学全集」(全40巻)(中略)といった具合に、次から次へと、全集が刊行され、漱石蘆花独歩啄木等の個人全集も続々刊行されて、まさに“円本全集黄金時代”を現出した。
 “円本時代”のもたらした印税の札束は、文壇に“洋行熱”を捲起した。昭和二年の末頃から、文士連が次々と憧れのソヴェート、ヨーロッパ、アメリカ、中国へ旅立って行った。

巌谷大四 いわやだいし。編集者、文芸評論家。巌谷小波の四男。早大卒。「戦後・日本文壇史」「波の跫音―巌谷小波伝」などを発表、平成3年「明治文壇外史」で大衆文学研究賞。生年は大正4年12月30日、没年は平成18年9月6日。享年は満90歳。
改造社 出版社。1919年(大正8年)、改造社を創立。総合雑誌『改造』を創刊。1944年(昭和19年)、軍部の圧力で解散。
新潮社 出版社。明治29年(1896)新声社を創立するも、失敗。明治37年(1904)、文芸出版社の新潮社を創業、『新潮』を創刊。大正3年(1914)、出版界初の廉価本(20銭)「新潮文庫」創刊。昭和2年(1927年)発刊の『世界文学全集』が大成功、現在に到る。
春陽堂 出版社。明治11年(1878年)創業。明治文壇の主要作家の作品を独占的に出版。しかし関東大震災に遭遇、日本橋の社屋全てを破壊される。昭和2年(1927)『明治大正文学全集』で成功し、社業を回復。戦後、春陽堂書店の社名で「春陽文庫」として大衆文学書を発行。
平凡社 出版社。大正3年(1914)小百科事典『や、此は便利だ』の刊行で創業。昭和2年(1927)「現代大衆文学全集」の成功で業界に進出、1931年『大百科事典』全28巻を刊行。1955年に『世界大百科事典』全32巻、同じく全34巻(2007)を刊行。
蘆花 徳冨蘆花。とくとみろか。小説家。小説「不如帰」、随筆「自然と人生」を発表。トルストイに心酔。生年は明治元年10月25日、没年は昭和2年9月18日死去。享年は満60歳。

 金力のため作家も欧米を訪ねることは簡単になりました。

 昭和2年10月13日の朝11時、秋田雨雀は一週間以上もかかったシベリア鉄道の旅を終って、夢にまで憧れたモスクワの駅に降り立った。うっすらと雪が積っていた。その日、モスクワは初雪であった。(中略)
 雨雀より二ヵ月遅れて、最初の夫と離別して心に傷を抱いていた中条百合子は、昭和2年11月30日東京を発ち、京都で湯浅芳子と落ち合って、12月2日、朝鮮―ハルビン経由でモスクワへ旅立った。
 百合子と湯浅芳子を乗せたシベリア鉄道は、ハルビンからバイカル湖畔をすぎ、はてしなく雪の降りしきるシベリアの礦野を七日間走りつづけて、12月15日の夕方、モスクワの北停車場に着いた。(中略)
 正宗白鳥久米正雄より一日遅れて、11月23日、これも夫人同伴で、横浜からアメリカへ旅立った。
 つむじまがりの正宗白鳥は、誰にも知らせず、こっそり旅立とうとしたが、事前にことがもれ、しぶしぶ白状したので、その日は横浜埠頭に、徳田秋声上司小剣近松秋江菊池寛山本有三中村吉蔵細田源吉小島政二郎岡田三郎ら30名余が見送った。
 白鳥はいつもの袴に白足袋といういでたちで、新聞社のマグネシウムをいやな顔をして、ぶつぶつ言っていたが、いざ出帆となると、下から投げられる赤、白、青、黄、さまざまのテープを迷惑そうにつかんでは、にこりともしなかった。
 船が出はじめると夫人の方は、流石に心ぼそくなったのか、べそをかきはじめ、顔をくちゃくちゃにして涙を流しっぱなしで、夢中で手を振ったが、白鳥は、一層しかめつらをして、ぶっとしたまま、それでも気がとがめたのか、大分はなれてから、やっと二度ほど手を振っただけだった。(中略)
 なおこの年は、その他、林不忘夫妻、三上於菟吉長谷川時雨夫妻、与謝野寛晶子夫妻、佐藤春夫中村星湖本間久雄木村毅らが、それぞれ、西欧、中国へ、世界漫遊へとにぎやかに旅立って行った。

湯浅芳子 ゆあさよしこ。大正・昭和期の翻訳家、随筆家。早稲田大学露文科の聴講生だったが、中退後、雑誌・新聞記者となり、大正13年、中条(宮本)百合子と知り合い、一時、共同生活。昭和2年から3年間、2人でモスクワに留学。帰国後、プロレタリア文学に参加。22年「婦人民主新聞」編集長。生年は明治29年12月7日、没年は平成2年10月24日。享年は満93歳
中村吉蔵 なかむらきちぞう。劇作家。早大在学中、小説が新聞の懸賞に入選、卒業後、米国に留学,イプセンやショーの影響を受け、1909年、帰国後劇作家に転じた。1913年、芸術座に参加。社会劇「剃刀」や歴史劇「井伊大老の死」を執筆。生年は明治10年5月15日、没年は昭和16年12月24日。享年は満65歳
細田源吉 ほそだげんきち。プロレタリア作家。早大卒業後、春陽堂に入社。昭和7年検挙され転向する。以降は執筆はなく、府中刑務所の篤志面接委員を務めた。生年は明治24年6月1日、没年は昭和49年8月9日。享年は満83歳
小島政二郎 こじままさじろう。作家。慶応大学卒。通俗小説、大衆雑誌、婦人雑誌が主な活躍の舞台。講釈師の神田伯龍をモデルにした『一枚看板』で認められた。生年は明治27年1月31日、没年は平成6年3月24日。享年は満100歳
マグネシウム マグネシウムリボン発光器の意味。閃光粉ともいう。マグネシウムは空気中で強く熱すると閃光を放って燃える。1880年頃から使用。ところが、1929年ドイツで、昭和6年(1931年)日本で、危険性がより少ない閃光電球に変わった。
林不忘 はやしふぼう。小説家・翻訳家。初め谷譲次の名で渡米の経験をつづった『テキサス無宿』。その後、牧逸馬では海外探偵小説や、『地上の星座』など通俗小説を発表。林不忘では、時代物の『丹下左膳』を発表。小説を量産し「文壇のモンスター」との異名をもった。
三上於菟吉 みかみおときち。小説家。早大英文中退。長谷川時雨の夫。時代物の大衆小説を多く書いた。生年は明治24年2月4日、没年は昭和19年2月7日。享年は満54歳。
中村星湖 なかむらせいこ。小説家、翻訳家。早大英文卒。「少年行」が「早稲田文学」に一等当選。同誌の記者となり,島村抱月門下として自然主義を鼓吹した。戦後、山梨学院短大教授。生年は明治17年2月11日、没年は昭和49年4月13日。享年は満90歳。
本間久雄 ほんまひさお。評論家・英文学者。早大英文卒。「早稲田文学」同人、のち主宰者として活躍。英国留学後、早大文学部教授となる。関東大震災後から日本近代文学研究に専念。生年は明治19年10月11日、没年は昭和56年6月11日。享年は満94歳
木村毅 きむらき。小説家、評論家,文学史家。早大英文卒。明治文化研究会同人として、創作・翻訳・評論に幅広く活躍。日本労農党に参加、社会運動に関わる。著作に「ラグーザお玉」「小説研究十六講」など。生年は明治27年2月12日、没年は昭和54年9月18日。享年は満85歳。

 しかし、文士の洋行は長続きしません。まず、昭和4年、米国ニューヨーク市から世界恐慌が始まり、日本にも波及、空前の不況に襲われました。また、日本では言論弾圧が強まり、昭和8年、プロレタリア文学の小説家、小林多喜二氏は拷問死します。さらに昭和11年2月26日、クーデター未遂である2・26事件が起こり、昭和12年、日中戦争が始まり、ついに昭和14年、欧州で第2次世界大戦になり、昭和16年、日本では、米国ハワイで真珠湾攻撃が起こりました。