橋本」タグアーカイブ

牛込から早稲田へ

文学と神楽坂

 サトウハチロー氏が書いた『僕の東京地図』(春陽堂文庫出版、昭和15年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「牛込から早稲田へ」です。生年は1903年(明治36年)5月23日。没年は1973年(昭和48年)11月13日。享年は71歳でした。

牛込から早稲田へ
 お堀のほうから夜になって坂をのぼるとする。左側に屋台で熊公くまこうというのが出ている。おこのみやきの鉄砲巻の兄貴みたいなものを売っているのだ。一本五銭だ。長さがすん、厚さが一寸、幅が二寸はたッぷりある。熊が二匹同じポーズで踊っているのが、お菓子の皮にやきついてうまい。あんこの加減がいゝ。誰が見たツて、十銭だ。
 白木屋はその昔の牛込会館のあとだ。地震後に、こゝで水谷みずたに八重子やえこが芝居をやったところだ。その先に木村屋がある。木村屋といえばパン屋だ。東京中に、この屋号のうちは何軒となくあるが、みんな銀座の店とは関係がない、こゝはそうではない。それが証拠には、GINZA DOTENとローマ字で書いてある。もう少し行く。左へ這入はいると寄席よせだ。僕が小さい時に、この寄席の突きあたりに青洋軒なるトツクニのタベモノをヒサグ店ありて、ことにオムレツなどのうまかッたことをいまでもおぼえている。この間通って、のぞいてみたら、そんなうちは影も形もなくなって、オムレツの代わりに女の子のお尻が、横丁へゆれてゆくのが見えた。
六寸一寸二寸 一寸は約3.03cm、二寸は約6cm、六寸は約18cm
GINZA DOTEN 英語は正しいですが、銀座のDotenは不明。「同店」か?
トツクニ 外つ国。外国。異国。「つ」は「の」の意の格助詞
ヒサグ 鬻ぐ。販ぐ。売る。商いをする。

待ってくれ、牛込で僕の好きなものはまだある。新小川町しんおがわまち花屋だ。新小川町なんていうより大曲おおまがりの方が早わかりだ。横浜植木会社の東京売店だ。こゝにスガヤ、、、君なる揚げ、、まん、、じゅう、、、みたいな青年がいる。僕は、花を買う時は、どんな時でも、こゝまで行って買う。スガヤ君のくれる花を持って行って恋人に、つれなくされたことはない。
 大曲へ来てしまったか! 電車でんしゃみちを早稲田へ行く。石切いしきりばし。――向こう側に橋本という鰻屋、こいつは有名すぎるほど有名だ。その隣の丸屋まるやのそば、こいつも有名だ。この二軒は小石こいしかわに属するが、ついでだからこゝに書いておく。左側が改代かいだいちょう。講談本だとムッシュウ・クラヤミのウシマツが住んでいたところだ。こゝにフタバヤというエプロン屋がある。これが大変だ、と言ったら諸君はおどろくだろう。だが、この家を大変だと感ずるのは僕ばかりだ、このフタバヤは僕の家の家主なのである。なアーンだ。
花屋 横浜植木は現在も神奈川県横浜市で営業中。1890年(明治23年)鈴木卯兵衛を代表者として「有限責任横浜植木商会」を創業。1913年(大正2年)4月、東京市牛込区新小川町に東京売店を開設。
電車道 路面電車が敷設してある道路。電車通り。ここは現在は目白通り。
橋本 文京区水道2-5-7にある鰻の「はし本」。創業は天保6年(1835年)。
丸屋 現在不明。
小石川 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
ムッシュウ・クラヤミのウシマツ 暗闇の丑松。戯曲。昭和九年(1924)、六世尾上菊五郎が初演。一時の激情から殺人を犯した料理人丑松は、愛妻お米を親方四郎兵衛にあずけて江戸を立退いた。一年たって戻るときに、丑松は女郎になったお米に再会。四郎兵衛に騙され売り飛ばされたと事情を聞いても信じられず、激怒。お米が首を吊って死んだ後になって、やっと真実を理解した丑松は、非道に気づき、江戸へ帰るや四郎兵衛夫妻を殺し、何処ともなくのがれて行く。

神楽坂|大東京案内(3/7)

文学と神楽坂


 通りで目貫(めぬ)の大店は、酒屋の万長(まんちよう)、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢(おざわ)、糸屋の菱屋(ひしや)、それらの老舗(しにせ)の間に割り込んで日蓮宗(にちれんしう)辻説法でその店(うた)はれるカグラ屋メリンス店。山の手一流の菓子屋紅谷は、今では楼上を喫茶部、家族づれの人達の上りいゝ店として評判が高い。

目貫き めぬき。目抜き。目立つこと。中心的。市街で最も人通りの多い、中心的な通り。
尾沢 尾沢薬局。現在は喫茶店の「Veloce神楽坂店」
菱屋 創業は明治3年(1870)。「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが並んでいます。現在も営業中。
辻説法 道ばたに立ち、通行人を相手に説法すること。カグラ屋メリンス店については、インターネットの「西村和夫の神楽坂」(15)「田原屋そして紅屋の娘」はこう書いています。

古い神楽坂ファンなら忘れてはならぬ店が毘沙門前のモスリン屋「警世文」である。店の主人は日蓮宗の凝り屋らしく、店先に「一切の大事のなかで国が亡ぶるが大事のなかの大事なり」といったのぼりを掲げ、道行く人に「思想困難」とか「市会の醜事実」を商売をよそに論じ、その周りに人だかりができ、暗がりには易者が店を出すといった、神楽坂が銀座や新宿の繁華街と違った雰囲気を持っていた。

 実はこの元がありました。大宅壮一氏が書いた「神楽坂通り」でした。なお、モスリンとは「唐縮緬とうちりめん」です。

カグラ屋メリンス店 5丁目で、神楽屋とも。「カグラ屋メリンス店」は現在の「Paul神楽坂店」です。メリンス店とは「メリノ種の羊毛で織ったところから薄く柔らかい毛織物」
楼上 階上。紅谷の場合、1階は菓子屋、2階は喫茶店。大正10年、3階建てに改築。3階はダンスホールでしたが、大震災後は喫茶店に。

4丁目と5丁目2

火災保険特殊地図 都市製図社 昭和12年

 明治製菓白十字船橋屋はりまや等から、よく売り込んだ()(よし)()()鹿()()半玉(はんぎよく)(ねえ)さんなどになくてならない店。今は店がかりもみすぼらしい山本もこゝでの喫茶店の草分(くさわ)けだ。
 カフエ・オザワ、それから牛込演芸館下のグランド女給のゐるカフエの大どころ。田原屋は果実店の(かたは)らレストランをやつてゐるが、七面鳥とマカロニを名物に一流の洋食を喰はせるので通人間(つうじんかん)に響いてゐる。

明治製菓 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

明治製菓の神楽坂分店で相當に大きい構へです

と書いてありました。「明治食堂」の場所は5丁目の白十字の左隣で、現在はパチンコ・スロット「ゴードン神楽坂店」、さらには椿屋珈琲店になりました。
白十字 新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)で大正11年頃から昭和8年は5丁目にあったようです。「大東京うまいもの食べある記」では

白十字の神楽坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同様喫茶、菓子、輕い食事等

と出ています。現在はパチンコ・スロット「ゴードン神楽坂店」です。また、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば、昭和12年頃は2丁目でした。現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
船橋屋 広津和郎氏の『年月のあしおと』(初版は昭和38年の『群像』、講談社版は昭和44年発行)では

船橋屋本店の名を見つけたので、思わず立寄って見る気になったのである。昔は如何にも和菓子舗らしい店構えであったが、今は特色のない雑菓子屋と云った店つきになっていた。

今は「神楽坂FNビル」に変わりました。
はりまや 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば2丁目にあった喫茶店です。10年ぐらい前には「はりまや」のあった場所には「夏目写真館」でした。しかし夏目写真館も引っ越し、現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
緋鹿ノ子 ひがのこ。真っ赤な鹿()()絞り。鹿の子とは模様が子鹿の斑点に似ているところから来た言葉
緋鹿ノ子
山本 4丁目。白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

春月の向ふ側にあつて喫茶、菓子、中でもコーヒーとアイスクリームがこゝの自慢です。

現在は「魚さん」。楽山ビルを正面に向かって右隣りです。
カフエ・オザワ 4丁目。一階は女給がいるカフェ、二階は食堂。現在はcafe VELOCE ベローチェに。

牛込演芸館 現在は神楽坂3丁目のコンビニの「サークルK」に。大正12年(1923年)9月1日、関東大震災の頃は貸し座敷「牛込會館」に。同年12月17日、女優、水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。水谷八重子は18歳でした。大好評を博したそうです。
グランド 3丁目。白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)では

野球おでんを看板のグランド

と書いています。現在はコンビニの「サークルK」に。
女給 カフェやバーなどの飲食店で客の接待や給仕をする女性

 日本料理では芸者の入る末よし吉新吉熊橋本常盤指折(ゆびを)りの家。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金など、なかなかの老舗(しにせ)で芸者も入る。さうでないのは鳥料理(とりれうり)川鉄、家族づれの客にはうつてつけの心持のいゝ家。

末よし 末吉末吉は2丁目13番地にあったので左のイラストで。地図は現在の地図。

吉新 よしん
神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には

相川さん 三尺の路地がありまして、奥に「吉新」という割烹店があった。
佐藤さん ああ、魚金さんの奥の二階家だ。
馬場さん 戦後はね。いまの勧銀(注)のところまでつながっているとこだ。
 (注) この勧銀は現在の百円パーキング

 百円パーキングは今ではなく、PAUL神楽坂店などに変わりました。

吉熊 「東京名所図会」(睦書房、宮尾しげを監修)では

箪笥町三十五番吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。

 箪笥町三十五番にあるので、牛込区役所と相対しています。

橋本 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では

◇橋本――毘沙門裏に昔からある山手一流の蒲燒料理、花柳の繩張内で座敷も堂々たるもの。まあこの邉で最上の鰻を食べたい人、叉相當のお客をする場合は、こゝへ招くのが一番お馳走でせう。

橋本

 現在は高村ビルで、一階は日本料理「神楽坂 石かわ」です。石かわはミシュランの三ツ星に輝く名店です。

常盤 当時は上宮比町(現在の神楽坂4丁目)にあった料亭常盤です。昭和12年の「火災保険特殊地図」で、常磐と書いてある店だと思います。たぶんここでしょう。上宮比町
紀の善 東京神楽坂下の甘味処。戦前は寿司屋。
島金 現在は志満金。昔は島金。鰻屋で、創業は明治2年(1869)で牛鍋「開化鍋」の店として始まりました。その後、鰻の店舗に転身しました。さらに鰻の焼き上がりを待つ間に割烹料理をも味わえるし、店内には茶室もあります。

次は大東京案内(4/7)です。

伝統の店々|昭和30年 (3/4)

文学と神楽坂

 そばの春月永坂更科池端蓮玉と共に東都三老舗と謳われたのれんで、更科とやぶの中間を行くのが特徴とされている。また毘沙門天との間を横丁に入るとうなぎの橋本、神楽坂随一の繁栄と格を有する料亭松ケ枝がある。また表通りの毘沙門天安置する善国寺は始め麹町にあり、家康自ら鎮護山善国寺と命名したもので、代々将軍家および江戸市民の信仰篤く二百三十余年前此地に移ってより、その緑日の賑わいは一層名高く、神楽坂繁栄の一因をなしたことは人形町水天宮と好一対をなすものといえよう。その隣りが果物の田原屋。明治四十年頃創業、明治末年日本で始めてのフルーツパーラーを始めたものである。

永坂更科 子母沢寛氏の『味覚極楽』「竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」で竹内薫兵氏は
 私の一番いいのは、月並だが矢張り、麻布(あざぶ)永坂(ながさか)の「更科(さらしな)」で、あのうちの更科そばには何んともいえない風味がある。はじめは「並の盛り」といういわゆる駄そばばかりを食った。しかしこれを段々やっている中にあの白い細い更科の方がよろしくなる。駄そばの方もうまいにはうまいが、味が重いし、舌へ残る気持も、少しべとりッとする。更科は少しあっさりとしすぎる位に、淡々たるところがいいようである。
 子母沢寛氏の「寸刻の味」では
 永坂の「更科」も先生のおっしゃる通り。だがわたしは「さらしな」よりは、駄蕎麦の方が好きである。書生の頃十二銭の大盛、あれをよく食べた。一度に大盛三つを注文したら、女中さんに笑われた。「とても三つは無理ですから二つにしては」「いや、いいから持って来てくれ」、がやっぱり二つで閉口していると、その美しい女中さんがざる(、、)蕎麦につく「わさび」を持って来て「これを入れると食べられます」という。が、遂に駄目であった。駄蕎麦一筋で「さらしな」は余り淡泊すぎて、味をぬいた素麺をたべてるような、ただ、下地に何にかつけて食べてるというようなそんな感じで感心しなかった。この頃は「更科」へ行かないので、どんな事になっているか知らない。
 終戦後しばらくは営業をやっていますが、昭和30年には空き地になります。
池端蓮玉 子母沢寛氏の『味覚極楽』「竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」の竹内薫兵氏は
下谷池の端の「蓮玉庵」もなかなかうまいもので、十四、五年前は、そば食いたちは東京第一の折紙をつけ、私なども毎日のように通ったが、これも今はいけない。そばそのものの味と下地の味とが、どうもぴったりと来ないようになったのである。
 子母沢寛氏の「寸刻の味」では
池の端の蓮玉庵の、蕎麦と下地の関係については、それからずいぶん長い間通ったが、いつ行っても行く度に先生の言柴を思い出して感心した。しかし考えて見ればこれが蓮玉庵というものの独自の「味」だったかも知れない。

東都三老舗 へー、そうなんだ。実は辞書で「東都三老舗」を調べてみても何もありません。現在の江戸そばの三老舗は普通、砂場、更科、薮です。
やぶ 藪蕎麦は醤油の味がつよい、塩からいそばつゆ。一方、更科蕎麦は蕎麦殻を外し、精製度を高め、胚乳内層中心の蕎麦粉(更科粉、一番粉)を使った、白く高級感のある蕎麦。中間というのは、そばつゆなのか、蕎麦粉なのか、あるいは両方なのか、全体なのか、どれをさすのかはっきりしません。

 都市製図社の「火災保険特殊地図」(昭和27年)で赤で囲んだ場所はここで出てきた場所です。蕎麦の春月、蒲焼の橋本、松ケ枝、毘沙門天、田原屋
橋本 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では
◇橋本――毘沙門裏に昔からある山手一流の蒲燒料理、花柳の繩張内で座敷も堂々たるもの。まあこの邉で最上の鰻を食べたい人、叉相當のお客をする場合は、こゝへ招くのが一番お馳走でせう。
 現在は高村ビルで、一階は日本料理「神楽坂 石かわ」です。石かわはミシュランの三ツ星に輝く名店です。
橋本

現在は石かわ


松ケ枝 創業は明治38年。水野正雄氏は『神楽坂まちの手帖』第5号『花街・神楽坂の中心だった料亭「松ケ枝」』で、
「松ヶ枝がどんなに大きくて繁盛していたかは、下働きの女中だけで50人はいたことを話せば想像できるでしょう。下働きの女中さんというのは、料理もここで作っていましたから食器を洗ったり、掃除をしたり浴衣や敷布を洗濯したり。」
松ケ枝

現在はマンション


毘沙門天 仏教で天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
安置 丁重に据え置くこと。特に、神仏の像などを据え祭ること
善国寺 新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺院
麹町 千代田区の地名で、旧麹町区にあたる。
緑日 神仏との有縁(うえん)の日。この日に参詣(さんけい)すれば特に御利益があると信じられています
人形町 中央区の地名で、旧日本橋区にあたる