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横寺町|アルバム 東京文學散歩

文学と神楽坂

野田宇太郎 野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)の「横寺町」です。氏は昭和時代の詩人で文芸評論家。第一早稲田高等学院英文科中退。詩作を開始。新聞記者を経て、昭和15年、小山書店に入社。第一書房に続き、河出書房では「文芸」の編集に。昭和26年、日本読書新聞に『新東京文学散歩』を連載し、ベストセラーに。

 今から二十年にも近い昔のことであるが、九州から文学を志して上京したほんの青年になつたばかりの私は牛込の横寺町に下宿暮しをしてゐたことがあつた。その頃の横寺町は賑やかな神楽坂から肴町通寺町にそのまま続いて、まだ賑ひの絶えないやうな一筋の町であつた。
 その頃の記憶として今もありありと眼に浮ぶのは先づ町の途中の官許にごりの大看板もなつかしい縄暖簾飯塚酒場である。と云つても私は全くの下戸で、少しでも酒を飲むとすぐに心悸が乱れるやつかいな病気があつて定連と云ふわけではなかつたが、一杯十銭? の安酒と五銭の湯豆腐か何かにあこがれてそこに通ふ友人に誘はれては恐る恐る中にはいつたものである。冬でも浴衣の極貧書生や絵描きの玉子と云つた哀しい連中も、そこでは王者のやうな怪気焔をあげ、どぶろくの臭ひや煮物の湯気の立ちこめる酒場の中は妙に私の感傷をそそつたのである。今にして思ふと、あの酒のみの和製ベルレエヌのやうな熱血薄倖の詩人児玉花外翁などもその中の王者然と鎮座してゐたのであらう。
 その隣りの奥まつた所に、幽霊アパートの異名をもつた小林と云ふ、名ばかりの見るからに不潔で今にも毀れさうに軒を傾けたかなり大きなアパートがあつたが、或日それがかつての島村抱月松井須磨子芸術惧楽部のなれのはてで、ここで抱月が大正七年十一月に急性肺炎で死に二ヶ月日の命日に須磨子が抱月の後を追つて自殺した因縁深い家だと知り、一二度そこをのぞきに行つたりした。極貧画家がそこにゐて須磨子の幽霊を天井か何処かに落書さしてゐると云ふことだつた。
肴町 現在の神楽坂5丁目
通寺町 現在の神楽坂6丁目
官許 政府から民間の団体や個人に与える許可
にごり 白く濁っている酒。どぶろくと同じことが多い。「官許にごり」を看板にして稼ぎまくったどぶろく酒場が多いという。
縄暖簾 なわのれん。多くの縄を結びたらしてつくったのれん。店先にのれんがかかっているから、居酒屋、めしなど
定連 興行場、酒場などでいつも来るなじみの客。常客。
玉子 修業中の人
ベルレエヌ ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)。1844〜96。フランス象徴主義の代表的詩人。天才少年詩人ランボーを熱愛し、2人でイギリス・ベルギーを放浪するが口論となり発砲し、外傷を負わせる。酒・女が好きで、堕落放浪の日々を送ったが、すぐれた叙情詩を残した。

(2)現在の飯塚酒店前付近

(2)は昭和28年頃、朝日坂の途中から神楽坂通りの方を見下ろしたもの。坂は舗装されていません。見えている店先の看板は「マルキン」の上にで、これは「マルキン醤油」。さらに塩、酒焼酎、飯塚本店で、2棟とも同じ酒店と思われます。その先の角の「野口商会」の看板は、道を入った奥の不動産の会社(最下図)。

(3)芸術倶楽部の跡

(3)は「芸術倶楽部館|神楽坂」と最下図を参照。

 又、横寺町には何よりも尾崎紅葉が永年住みついて明治三十六年十月三十日に死ぬまでゐたと云ふ家も下宿の近くにあると聞いてゐたが、そこには遂にゆく機会もなく私は横寺町から飯田町へと下宿を移らねばならなかつた。
 戦後になつて私が横寺町に行つたのは先づ四十七番地の紅葉の所謂「十千とちまん」跡を調べることからであつたが、すつかり酷く戦火の犠牲となつた横寺町に、なつかしい想ひ出を豊かに抱いてゐた私にとつて全く悪夢のやうな場所であつた。やうやく紅葉に家を貸してゐたと云ふ家主の小さな家を見つけ出したが、そこが十千万堂の跡でもあつた。鏡花秋声風葉春葉などの紅葉門下の四天王と謳はれた作家たちの勉学のあとなど偲ぶよすがとてなく、ただ私の自由な幻想だけが、荒れはてた焼土の上をかけめぐつた。そして芸術倶楽部の跡に立つと、再び私は呆然とたたずむより外はなかつた。ただ赤く焼けた瓦礫だけがその場所と覚しい所に散乱して、僅かに昔の敷地の周囲をおぱろげにみせてゐるだけであつた。「カチューシヤの唄」の哀調が故もなく私の心の奥からシャボン玉のやうに浮びあがつて、ぽつんと消えた。
 飯塚酒場は然し何処かに昔の形をとどめて、ただわびしげなバラック風の洒店として昔の場所に建つてゐた。もう私の夢は現実の陽照りにからからに乾いて、何もそこに思ひ描くことさへ出来なかつた。
飯田町 旧東京府麹町区飯田町。九段や飯田橋など。
十千万堂 「十千万堂」は尾崎紅葉の雅号、また東京府牛込横寺町(新宿区横寺町)の紅葉の住居
カチューシヤの唄 トルストイの小説『復活』主人公の女性の名前。芸術座の第3回目の公演である『復活』の劇中歌。主演女優の松井須磨子が歌唱し、作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。「カチューシャかわいや わかれのつらさ」で始まる。


(1)十千万堂(尾崎紅葉)邸跡、前方樹木の茂る向うは箪笥町。その崖下に紅葉の文学塾があった

(1)は、昭和28年頃で、十千万堂は戦災で焼失し、その後に木造平屋が立ち始めています。下の図は最近の同じ場所。十千万堂跡は庭木が茂っていて、中が見えません。

 それても私は必要があつて其後幾度も横寺町を訪れた。その町の名の出所と思はれる寺院もすべて焼けはてて、古い墓石だけが通りからあらはに見えたが、私の下宿の場所はつひに思ひ出せなかつた。さうした焼土の中にも次々に新しい家が建ちはじめ、十千万堂あとは地元の新宿区の史跡となつて片づけられ、芸術倶楽部の跡には、新しい住宅がどしどし出来てしまつた。然し飯塚はにごりの官許がとれないとかで、さみしげに酒店を開いてゐるばかりであつた。
 そこから歩いても大して遠くない牛込弁天町多聞院にある須磨子の墓へも、横寺町に行つたついでに私は詣でた。さみしい焼け寺の墓地のさみしい墓だつた。その前の抱月須磨子の慰霊のための芸術比翼塚も、何だかわびしいばかりで、そぞろに恋の哀れが感じられた。
多聞院 真言宗豊山派に属する照臨山吉祥寺多聞院。
比翼塚 ひよくづか。愛し合って死んだ男女、心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚。
そぞろに これといった理由・目的はないが。わけもなく。なんとなく。

(4)松井須磨子の墓(多聞院)(5)多聞院内の芸術比翼塚

1960年 住宅地図

方南の人|稲垣足穂

文学と神楽坂


 昭和23年、稲垣足穂氏は「方南かたなみの人」を発表しました。
 この主役は「俺」とヤマニバーで働いていた女性トシちゃんです。彼女は神楽坂をやめると、しばらくの間、杉並区方南に住んでいました。

 ヤマニバーの、ヒビ割れの上に草花をペンキで描いた鏡の傍に、褐色を主調にした油絵の小さな風景画が懸かっている。「これはあたしのお父さんの友達が描いたのよ」と彼女は教えた。それは清水銀太郎と云って、俺の二十歳頃に聞えていたオペラ役者である。「あれは分家の弟だ」とは、縄暖簾のおかみさんの言葉である。「縄暖簾」というのは、彼女らが本店と呼んでいる横寺町どぶろく屋のことである。この古い酒造家と表通りのヤマニバーとは同姓であるが、そうかと云って、常連が知ったか振りに吹聴しているような繋りは別にないらしい。其処がどうなっているのか見当が付かぬけれど、然し何にせよ、彼女の家庭を今のように想像してみると、俺の眼前には下げ髪姿の少女が浮ぶ。立込んだ低い家並の向うのの夕空。縄飛び。千代紙。ビイ玉。そしてまた〽勘平さまも時折は……。

 横寺片隅の孤りぼっちの起臥は、昔馴染の曲々のおさらいをさせた。俺の口から知らず知らずに、〽千鳥の声も我袖も涙にしおるる磯枕………が出ていたらしい。トシちゃんが近付いてきて、「あら、謡曲ね」と云った。彼女は「うたい」とも「お能」とも云わなかった。「謡曲ね」と云ったのである。また彼女は何時だって「酔払ったのね」とは云わない。「ご酪酊ね」である。
方南 東京都杉並区南東部の地名。方南一丁目と方南二丁目。地名は「ほうなん」ですが、この小説では「かたなみ」と読みます。
それ 「清水銀太郎」は「お父さん」か「友達」ですが、全体を見ると、おそらくこのお父さんが清水銀太郎なのでしょう。なお、このオペラ役者の詳細は不明です。
オペラ役者 歌って、演技する声楽家。現在は「オペラ歌手」のほうがより普通です。
分家 家族員がこれまで属した家から分離し、新たにつくった家。なお、元の家は本家。
縄暖簾 飯塚酒場のこと。横寺町にありました。
どぶろく 日本酒と同じく米こうじ、蒸し米と水で仕込み、発酵したもろみを濾過はなくそのまま飲む。
同姓 どちらも「飯塚」だったのでしょう。
繋り 現在は「繋がり」。つながり。結びつき。関係があること。
下げ髪 さげがみ。髪をそのまま、あるいはもとどりで束ねて後方に垂れ下げた女性の髪形。
家並 いえなみ。家が続いて並んでいること。
 あかね。黄みを帯びた沈んだ赤色。暗赤色。
〽勘平さまも… おそらく「仮名手本忠臣蔵」から。謡曲ようきょくの一種でしょう。
横寺片隅 稲垣足穂氏の住所は「横寺町37番地 東京高等数学塾気付」でした。
起臥 きが。起きることと寝ること。生活すること。
〽千鳥の声も… 能楽「敦盛あつもり」の一節。源平の合戦から数年後、源氏の武将、熊谷直実は平敦盛の菩提を弔うため、須磨の浦に行き、敦盛の霊に出会う。正しくは「千鳥の声も我が袖も波にしおるる磯枕」
謡曲 能の脚本部分。声楽部分、つまりうたいをさすことも。
酩酊 めいてい。非常に酔うこと。
 白銀町から赤城神社境内へ抜ける鈎の手が続いた通路。紅いに絡まれた箱形洋館の脇からはいって行く小径。幾重にも折れ曲っだ落葉の道。何時だって人影が無い。トシちゃんはいまどんな用事をしているであろう?

「洗濯物なんか神楽坂の姐さんが控えているじゃないか」と銀座裏の社長が云った。
「それにはお白粉が入用なんだ」
「おしろいまで買わせるのか」ちょび髭の森谷氏はそう云って、別に札を一枚出し、これで向いの店で適当なのを買ってこい、と校正係の若者に命じた。白粉はトシちゃん行きではない。沖縄乙女のヨッちゃんの為にである。
 縄暖簾を潜ると、武田麟太郎白馬を飲んでいた。約束の金を持ってきてくれたのである。五、六本明けてからヤマニヘ引張って行く。
「師匠から女の子を見せられようとは、これはおどろいた!」
 そう云いながら、彼は濁り酒を四本明けた。いっしょに日活館の前まで来たが、此処で彼の姿は児雷也のように、急に何処かへ消え失せてしまった。

鉤の手 かぎのて。かぎ(鈎)の形に曲がっていること。ほぼ直角に曲がっていること。
 つた。ブドウ科のつる性落葉木本。
社長 森谷均。1897~1969。編集者。昭森社を創業。神保町に喫茶店や画廊を開き、出版社を二階に移転。思潮社の小田久郎氏やユリイカの伊達得夫氏は同社の出身。
白馬 しろうま。どぶろくと同じ。ほかに、濁り酒、濁酒、もろみ酒も。
濁り酒 にごりざけ。これもどぶろくと同じ。
日活館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地にあった映画館。日活館。現在はスーパーの「よしや」
児雷也 じらいや。江戸時代の読本・草双紙・歌舞伎などに現れる怪盗。中国明代の小説で門扉に「自来也」と書き残す盗賊の我来也があり、翻案による人物。がまの妖術を使う。

 そのトシちゃんがヤマニバーをやめ、神楽坂からも消えてしまいます。

 トシちゃんは去った――二月に入って、二週間ほど俺が顔を出さなかったあいだに。「お目出度う」と彼女が云ってくれた俺の本の刷上りを待たずにトシちゃんは神楽坂上を去った。きょうも時刻が来て、酒呑連の行列がどッとヤマニヘなだれこんだ時、何処かのおっさんが、混乱の渦の真中で、「背の高い女中が居ないと駄目だあ!」と呶鳴ったけれど、その、客捌きの鮮かな、優い、背の高い女中は最早このバーヘは帰ってこないのである。足掛六年の月日だった。俺には未だよく思い出せない数々のことが、今となってよく手繰り出せない事共がひと餅になっている。暑い日も寒い日も変りなく立働いていたトシちゃん。「おひたし? おしたじ? いったいどっちなの?」と甲高い声でたずねてくれるトシちゃん。俺が痩せ細った寒鴉になり、金具の取れた布バンドを巻くようになっても態度の変らなかった唯一の人。何時だって、あの突当りに前田医院の青銅円蓋が見える所へ帰ってきた時に、俺の心を明るくした女性。朋輩が次々に入れ変っても一人居残って、永久に此処に居そうに見えた彼女は、とうとう神楽坂を去った。

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)


呶鳴る どなる。激しく言葉をだす。
客捌き きゃくさばき。客に対応して手際よく処理する。
手繰り てぐり。工夫して都合をつけること。やり繰り。
ひと餅 不明。「一緒になって」でしょうか。
おしたじ 御下地。醬油のこと。
寒鴉 かんあ。冬のからす。かんがらす。
前田医院 神楽坂6丁目32にありました。現在は菊池医院に変わっています。

 昭和20(1945)年4月13日午後8時頃から、米軍による東京大空襲がありました。

 正面に緑青の吹いた鹿鳴館風の円屋根が見える神楽坂上の書割は、いまは荒涼としていた。これも永くは続かなかった。俺がトシちゃんへご機嫌奉仕をし、合せて電車通の天使的富美子さんの上に、郵便局横丁のみどりさんの上に、そのすじ向いの菊代嬢に、日活会館前のギー坊に、肴町のヨッちゃんの上に、さては「矢来小町」の喜美江さんを繞って、それぞれに明暗物語が進捗していた時、旧神楽坂はその周辺なる親しき誰彼にいまはの別れを告げていたのだ。電車道の東側から始まった取壊し作業の鳶口が、既に無住のヤマニバーまで届かぬうちに、四月半ばの生暖い深更に、牛込一帯は天降った火竜群の舌々によって砥め尽されてしまった。お湯屋の煙突と、消防本部の格子塔と、そして新潮社のたてに長い四階建を残したのみで、俺の思い出の土地は何も彼もが半夜の煙に。そして起伏した一望の焼野原。ヤマニの前に敷詰められた鱗形の割栗ばかりが昔なりけり――になってしまった。

鹿鳴館

緑青 ろくしょう。金属の銅から出た緑色の錆。腐食の進行を妨げる働きがある。
鹿鳴館 ろくめいかん。明治16年(1883)、英国人コンドルの設計で完成した洋館。煉瓦造り、二階建て。高官や華族の夜会や舞踏会を開催。
円屋根 稲垣足穂氏は「世界の巌」(昭和31年)で「彼らの思い出の神楽坂、正面にM医院の鹿鳴館式の青銅の円蓋が見える書割は、――あの1935年の秋、霧立ちこめる神戸沖の幻影ファントム艦隊フリートと共に――いまはどこに求めるよすがも無い。」と書いています。したがって、これも前田医院の描写なのでしょう。
書割 かきわり。芝居の大道具。木製の枠に紙や布を張り、建物や風景などを描き、背景にする。
繞る めぐる。まわりをぐるりと回る。とりまく。
進捗 物事が進みはかどること。
電車通 現「大久保通り」のこと。
郵便局横丁 郵便局は通寺町(現神楽坂6丁目)30番地でした。前の図で右側の横丁を指すのでしょう。
日活会館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地。
肴町 現「神楽坂5丁目」
鳶口 とびぐち。竹や木製の棒の先端に鉄製のかぎをつけ、破壊消防、木材の積立・搬出・流送などを行う道具。
深更 しんこう。夜ふけ。深夜。
天降った火竜群 航空機B29による無差別爆撃と、焼夷弾による爆発と炎上がありました。

牛込区詳細図。昭和16年

お湯屋 「藤乃湯」が横寺町13にありました。
消防本部 消防本部は矢来町108にありました。
新潮社 新潮社は矢来町71にありました。
半夜 まよなか。夜半。
割栗 割栗石。わりぐりいし。岩石や玉石を割った砕石。直径は10〜20cm。基礎工事の地盤改良などで利用した。

 それから戦後数年たって、トシちゃんの話が出てきます。

武蔵野館の前を曲りながら、近頃休みがちの店が本日も閉っていることを願わずに居られなかった。タール塗の小屋の表には然し暖簾が出ていた。俺は横丁へ逸れて、通り過ぎながら、勝手口から奥を窺った。俯いて何かやっている小柄な、痩ぎすの姿があった。
「奥さん」と俺は声を掛げた。「表は未だなのですか?」
 顔を上げて、それからおかみは戸口まで出てきた。
 持前のちょっと皮肉な笑みを浮べると、
「まだ氷がはいらないので、お午からです」
 五、六秒の間があった。
「おトシはお嫁に行って、もうじき子供が生まれるそうです」
「それはお目出度い……」と俺は受け継いでいた。このおかみの肌の木目が細かいこと、物を云いかけるたびに、揃いの金歯がよく光ることに今更ながら気が付いた。
「東京ですか」と自動的に俺は口に出した。
「いいえ田舎で――」
 その田舎は……? とは、はずみにもせよ口には出なかった。この上は何時かひょっくり逢えばよいのだ。逢わなくてもよいのである。
 その代り接穂は次のようになった。
「姉さんの方はどちらに?」
「千葉とか聞いています」
「こちらは相変らずの宿無しで」と、俺は吃り気味に、此場から離れる為に言葉を引張り出した。
「――いま、戸塚の旅館にいるんですよ」それはまあ! という風におかみは頷いた。
「ではまた」と云って、俺は歩き出した。

武蔵野館 前後の流れを読むと、神楽坂6丁目にあった日活館で、それが戦後になって「武蔵野館」に変わったものではなく、新宿の「武蔵野館」でしょう。
タール コールタール。石炭の高温乾留で得られる黒色の油状液体。そのまま防腐塗料として使う。
暖簾 のれん。商店で、屋号などを染め抜いて店先に掲げる布。部屋の入り口や仕切りにたらす短い布。
木目 皮膚や物の表面の細かいあや。また、それに触れたときの感じ。
はずみに そのときの思いがけない勢い。その場のなりゆき。
接穂 つぎほ。話を続けて行くきっかけ。言葉をつぐ機会。

 次で小説は終わりです。

「涙が零れたのよ」釣革を持った婦人同士の会話中に、こんな言葉が洩れ聞えた。僅かに上下動して展開してくる夏の終りの焼跡風景を見ている俺は、一九四七年八月二十五日、交響楽『神楽坂年代記』も愈々終ったことを知るのだった。
 電車は劇しく揺れながら代々木に向って走っていた。

零れる こぼれる。液体が容器から出て外へ落ちる。抑え切れなくて、外に表れる。
釣革 つり革。吊革。吊り手。つりて。電車・バスなどの中で、乗客が体を支えるためにつかまる、上から吊り下げられた輪。
1947年 足穂氏は46歳でした。なお、終戦の日は1945年8月15日です。
愈々 いよいよ。待望していた物事が成立したり実現したりするさま。とうとう。ついに。

神楽坂|大東京案内(6/7)

文学と神楽坂

 ここでは主に横寺町を書いています。

書き落してならないのは、神楽坂本通り(プロパア)からすこし離れこそすれ、こゝも昔ながらの山手風のさみしい横町の横寺町第一銀行について曲るとやがて東京でも安値で品質のよろしい公衆食堂。それから縄暖簾(なはのれん)で隠れもない飯塚、その他にもう一軒。プロレタリアの華客(とくゐ)が、夜昼ともにこの横町へ足を入れるのだ。独身の下級(かきふ)俸給(ほうきふ)生活者(せいくわつしや)、労働者、貧しい学生の連中にとって、十銭の朝食、十五銭の昼夕食は忘れ得ないもの。この横町には松井須磨子で有名な芸術座の跡、その芸術クラブの建物は大正博覧会演芸館を移したもので、沢正なども須磨子と「(やみ)(ちから)」を演じて識者(しきしや)(うな)らせたことも一昔半。その小屋で島村抱月が死するとすぐ須磨子が縊死(いし)したことも一場の夢。今はいかゞはしい(やみ)の女などが室借りをするといふアパートになつた。変れば変る世の中。この通りの先きに明治文壇(めいぢぶんだん)を切つて廻した尾崎紅葉の住んだ家が残ってゐる。

横寺町 神楽坂5丁目から6丁目にはいると、南西に出ていく通りはいくつかあります。最初の小さな通りは川喜田屋横丁で、それから無名の通りが何本かあり、スーパーのキムラヤの前を左側にはいっていく通りが朝日坂(旭坂)です。この両側が横寺町(よこてらまち)です。
第一銀行 前身の第一国立銀行は、1873年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行。1896年に普通銀行の第一銀行に改組。1943年に三井銀行と合併して帝国銀行(通称・帝銀)に。
公衆食堂 1919年(大正9年)に東京市営の庶民の公営食堂として神楽坂に開設。大正12年3月には神田食堂、9月1日に関東大震災。これでますます必要性が強まり、大正13年九段食堂。昭和7年(1932年)の深川食堂まで、16か所ができました。
縄暖簾 なわのれん。縄を幾筋も結び垂らして作ったのれん。転じて居酒屋、一膳飯屋
飯塚 横寺町7。飯塚酒場はなくなって、代わりに現在は、家1軒と駐車場4台用になっています。飯塚酒場があったころは有名な居酒屋で、特に自家製のどぶろく「官許にごり」が有名でした。文士もこれを目当てに並んでいました。
一軒 火災保険特殊地図の昭和12年版では「床屋、タバコ、米ヤ、喫茶、ソバヤ」などがありましたが、居酒屋はありません。昭和10年の様子を書いた新宿区横寺町交友会、今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(2000年)では神楽坂通りから入ると左は「1.米屋、2.パーマネント、3.公証人役場、4.目覚し新聞、5.マッサージ業、6.靴修理店、7.歯医者、8.若松屋、9.大工職、10.洋服店、11.おでん屋、12.仕立屋、13.屋根屋、14.紙箱製造業、15.駄菓子店、16.大工職、17.米屋、18.下駄屋、19.駄菓子店、20.棒屋と芋の壺釣焼、21.ミルクホール、22.そば屋、23.髪結、24.お花の先生」。右は「68.救世軍、69.床屋、70.中華料理店、71.髪結師、72.パン屋、73.歯科医院、74、製本業、75.医院、76.質店、77.酒屋(にごり酒、ここが飯塚酒場です)、78.質店」となり、やはり、居酒屋はありません。しかし、ここで8.若松屋って。若松屋が酒店の可能性が大いにあります。
若松屋
十銭の朝食 東京都民生局の『外食券食堂事業の調査』(1949年)では、定食は朝10銭、昼15銭、タ15銭。うどんは種物15銭、普通10銭。牛乳一合7銭。ジャムバター付半斤8銭。コーヒー5銭
芸術座 島村抱月が1913年に松井須磨子を中心俳優として結成した劇団
芸術クラブ 島村抱月の新劇運動の中心となった劇場兼研究所
大正博覧会 大正3(1914)年3月20日~7月31日、上野公園で東京大正博覧会が開催。目玉としてロープウェーとエスカレータ。
演芸館 松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(筑摩書房、1966年)では

演芸館

第一会場 演芸館 東京都立図書館

すでにたびたび述べたように大正三年七月十八日より二十四日まで、大正博覧会の演芸館に『復活』を一日二回、五十銭の奉仕料金で出演して大好評をうけた関係で、博覧会終了後の解体に際し、安い値段で木材の払下げを受けて改築したものであった。設計図が出来上がったのは『クレオパトラ』『剃刀』の帝劇公演が終わった同年十月末のことであった。はじめ神楽坂肴町停留場付近の土堤の上の展望のきく高台に柱を組み立てたが、四年二月四日の暴風雨のために倒壊してしまったので、工事中止のやむなきにいたり、さらに牛込横寺町九番地に敷地を改めて、七ヵ月目に完成したのであった。「幾多の困難を排して予定を実現するに到ったのは当事者一同密かに誇りとするところである」と控え目に喜びを語っているだけである(払下げの入札価格と建築費その他でだいたい七千円と推定される)。

闇の力 ロシアの作家L.トルストイの戯曲。愚かさにより父殺しと嬰児殺しへと転落する人間を描いた戯曲。須磨子はアニーシャ役で、裕福な百姓の妻です。
識者 しきしゃ 物事の正しい判断力を持っている人。見識のある人。有識者
一昔半 一昔は10年前。一昔半は15年の昔
縊死 いし。首をくくって死ぬこと。首つり死。縊首(いしゅ)
いかがわしい 下品でよくない。風紀上よくない
暗の女 娼妓の仕事をする女性。私娼

漱石と『硝子戸の中』19

文学と神楽坂

十九

私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、そのじつ小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、さびってかつさむしく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引しゅびきうちか朱引外か分らない辺鄙へんぴすみの方にあったに違ないのである。

馬場下 馬場下町で、東京都新宿区の町名です
宿場 江戸時代、街道の要所要所にあり、旅行者の宿泊・休息で宿屋・茶屋や、人馬の継ぎ立てをする設備をもった所。
高田の馬場 東京都新宿区の町名
朱引 江戸の図面に朱線を引いて、府内(江戸市内)と府外(郡部)を分けたもの。朱引内は江戸の管轄内、朱引外は管轄外です。馬場下はかろうじて朱引内(江戸市内)になっています(図)。一方、高田の馬場は朱引外です。

馬場下

それでも内蔵くらづくりうちが狭い町内に三四軒はあつたろう。坂をあがると、右側に見える近江屋伝兵衛おうみやでんべえという薬種屋やくしゅやなどはその一つであった。それから坂をった所に、間口の広い小倉屋こくらやという酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛ほりべやすべえが高田の馬場でかたきを打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒ますざけを飲んで行ったという履歴のある家柄いえがらであった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるといううわさの安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北おきたさんの長唄ながうたは何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私のうちの玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過ひるすぎなどに、私はよく恍惚うっとりとした魂を、うららかな光に包みながら、御北さんの御浚おさらいを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身をたせて、佇立たたずんでいた事がある。その御蔭おかげで私はとうとう「旅のころも篠懸すずかけの」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。
近江屋 『吾輩は猫である』第7章でも「近江屋」は登場します。『猫』に出てくる爺さんの言葉を引用すると…

「ゆうべ、近江屋おうみやへ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。あの戸のくぐりの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずにんだげな。御巡おまわりさんか夜番でも見えたものであろう」とおおいに泥棒の無謀を憫笑びんしょうした」
御北さん 『草枕』では「御倉さん」として登場します。

小供の時分、門前に万屋よろずやと云う酒屋があって、そこに御倉おくらさんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚おさらいをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前にひかえて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松はまわり一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好かっこうを形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠かなどうろうが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺かたくなじじいのようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、こけ深き地をいて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、ひとり匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかにひざるるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠をにらめて、この草のいで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。

内蔵造 土蔵づくりの家。土蔵のように家の四面を土や漆喰で塗った家屋。倉のように四面を壁で作った家屋。
薬種屋 薬を調合・販売する店。平成21年施行の改正薬事法で登録販売者制度が創設し、薬種商制度は廃止に。
小倉屋 延宝4年(1678年)、初代小倉屋半右衛門が牛込馬場下の辻で開業。元禄7年(1694年)、二代目半右衛門の頃、堀部安兵衛は高田馬場の決闘の前に、小倉屋に立ち寄り升酒を飲みました。
渡辺翠氏の「高田馬場の仇討」では、江戸時代、米の酒は奈良でしか作られず、江戸では1升3万円かかったそうで(若松地域センター「地域誌 このまちに暮らして」平成9年)、芋酒を飲んだといいます。またこの升は現在まで帛紗に包まれて貸金庫に保管されているそうです。
倉造り 土蔵づくりの家。内蔵造と同じ。
堀部安兵衛 赤穂事件四十七士のひとり。
枡酒 枡に盛って売る酒
長唄 古典的な三味線歌曲
篠懸 修験者(しゅげんじゃ)が衣服の上に着る麻の法衣。この文言は長唄「勧進帳」の歌い出しです。

このほかには棒屋が一軒あった。それから鍛冶屋かじやも一軒あった。少し八幡坂はちまんざかの方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃもあった。私の家のものは、そこの主人を、問屋とんやの仙太郎さんと呼んでいた。仙太郎さんは何でも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、交際つきあいからいうと、まるで疎濶そかつであった。往来で行き会う時だけ、「好い御天気で」などと声をかけるくらいの間柄あいだがらに過ぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水ていすいと好い仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事も人聞ひとぎきに聞いて覚えてはいるが、まとまった記憶は今頭のどこにも残っていない。小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、矢立やたてと帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢の好い声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方がよっぽど面白かった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度にげて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじ、、、だのがれん、、、だのという符徴ふちょうを、ののしるように呼び上げるうちに、しょうが茄子なすとう茄子のかごが、それらの節太ふしぶとの手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。

八幡坂

棒屋 樫材の木工品を作る家。臼、まな板のみならず、大型水車や荷車も作りました。木工品ならなんでもつくったようです。
鍛冶屋 金属を打ち鍛え、諸種の器具をつくることを仕事とする人
八幡坂 高田町の坂。馬場下町から西北に向かいます。西に穴八幡神社があります。下は馬場下町と穴八幡幡神社を地下鉄早稲田駅前から見たものです。八幡坂
やっちゃ場 青物市場のこと。「大言海」(昭和7-10年)によれば「やっちゃば」は「やさいいちば」から訛ったものではないかという。
貞水 講釈師真龍斎貞水のこと

矢立 矢立(すずり)と筆を一つの容器におさめた筆記用具。
ろんじ 六の合い言葉
がれん 五の合い言葉

 どんな田舎いなかへ行ってもありがちな豆腐屋とうふやは無論あった。その豆腐屋には油のにおいんだ縄暖簾なわのれんがかかっていて門口かどぐちを流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗きれいだった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺せいかんじという寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門のうしろは、深い竹藪たけやぶで一面におおわれているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤おつとめかねは、今でも私の耳に残っている。ことにきりの多い秋から木枯こがらしの吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくてつめたい或物をたたき込むように小さい私の気分を寒くした。
豆腐屋

『二百十日』では圭さんの幼時の経験として出てきます。

「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒豆腐屋とうふやがあってね」
「豆腐屋があって?」
「豆腐屋があって、その豆腐屋のかどから一丁ばかり爪先上つまさきあがりに上がると寒磬寺かんけいじと云う御寺があってね。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だかかねたたく」(中略)
「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆をうすく音がする。ざあざあと豆腐の水をえる音がする」
しょう 鉦中国・日本・東南アジアなどで用いられる打楽器。銅や銅合金製の平たい円盤状で、撞木しゅもくばちで打ちます。カンカンと鳴るようです。 

ふたたび『二百十日』の圭さんの幼時の経験です。

「豆腐屋があって、その豆腐屋のかどから一丁ばかり爪先上つまさきあがりに上がると寒磬寺かんけいじと云う御寺があってね」
「寒磬寺と云う御寺がある?」
「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ大竹藪おおたけやぶばかり見えて、本堂も庫裏くりもないようだ。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だかかねたたく」
「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」
「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でかんかんとかすかに敲くのさ。冬の朝なんぞ、しもが強く降って、布団ふとんのなかで世の中の寒さを一二寸の厚さにさえぎって聞いていると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分らない。僕は寺の前を通るたびに、長い石甃いしだたみと、倒れかかった山門さんもんと、山門をうずめ尽くすほどな大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかをのぞいた事がない。ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具のうち海老えびのようになるのさ」
「海老のようになるって?」
「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」

縄暖簾 縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。転じて、居酒屋・一膳飯屋などのこと。
門口 家や門の出入り口
西閑寺 喜久井町にある誓閑寺のこと。今では小さな小さな寺になっています。誓閑寺の梵鐘は天和2年(1682)製作。区内最古の梵鐘です。文化財は2つあります。
御勤 おつとめ。御勤め。仏前で読経すること。勤行ごんぎよう

誓閑寺

漱石と『硝子戸の中』20|矢来町

文学と神楽坂

      二十

この豆腐屋の隣に寄席よせが一軒あったのを、私は夢幻ゆめうつつのようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場ひとよせばのあろうはずがないというのが、私の記憶にかすみをかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。
 その席亭の主人あるじというのは、町内の鳶頭とびがしらで、時々目暗縞めくらじまの腹掛に赤いすじの入った印袢纏しるしばんてんを着て、突っかけ草履ぞうりか何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤おふじさんという娘があって、その人の容色きりょうがよくうちのものの口にのぼった事も、まだ私の記憶を離れずにいる。のちには養子を貰ったが、それが口髭くちひげやした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
 この養子が来る時分には、もう寄席よせもやめて、しもうたになっていたようであるが、私はそこのうちの軒先にまだ薄暗い看板がさむしそうにかかっていた頃、よく母から小遣こづかいを貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟なんりんとかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男のうちはどこにあったか知らないが、どの見当けんとうから歩いて来るにしても、道普請みちぶしんができて、家並いえなみそろった今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像をたくましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし 花魁おいらんえ、と云われてはしなんざますえとふり返る、途端とたんに切り込むやいばの光」という変な文句は、私がその時分南麟からおすわったのか、それともあとになって落語家はなしかのやる講釈師真似まねから覚えたのか、今では混雑してよく分らない。

人寄場 日雇い労働の求人業者と求職者が多数集まる場所のこと。
鳶頭 土木・建築工事に従事する人の長、かしらです。明治以降も消防職員の俗称として使われました。
目暗縞 経糸緯糸とも紺染めにした最も細かい綿糸で織った無地の木綿の織物です。
印袢纏 襟・背などに,家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から,職人などが着用しました。
めくらじまと半纏
突っかけ草履 草履を足の指先にひっかけるようにして無造作に履くこと。
しもうた屋 仕舞た屋 (シモタヤ)と同じ。商店でない、普通の家。
南麟 講釈師の田辺南麟
見当 大体の方向・方角
道普請 道路を直したり、建設したりすること。道路工事
家並 立ち並んでいる家。その並び方。家ごと。どの家もみな。軒並み。よその家と同じ程度。世間なみ。
もうし 申し申し。もうしもうし。人に呼びかける時に用いる語。もしもし。
花魁 吉原遊廓の遊女で最高妓。広く遊女一般を指して花魁ということもある。
八ツ橋 元禄年間(1688~1704)百姓次郎左衛門が吉原の花魁・八ツ橋を殺した事件があった。多くの講談や戯曲になった。岩波書店の漱石全集によれば、「野州(栃木県)佐野の百姓次郎左衛門が江戸吉原大兵庫屋の花魁ハツ橋を殺害した江戸享保頃の事件は、『佐野八ツ橋』と称されて多くの小説や戯曲に作られた。ここで述べられているのは、その話を講談に仕組んだもの。歌舞伎脚本『籠釣瓶(かごつるべ)花街(さとの)酔醒(ゑひざめ)』(三世河竹新七作。明治二十一年初演)が有名。」
講釈師 軍談や講談の講釈を職業とする人。講談師。軍談師。小さな机の前に座り、張り扇でそれを叩いて調子を取りつつ、主に歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げること

当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠ちゃばたけとか、竹藪たけやぶとかまたは長い田圃路たんぼみちとかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂かぐらざかまで出る例になっていたので、そうした必要にらされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来やらいの坂あがって酒井様の見櫓みやぐらを通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森いんしんとして、大空が曇ったように始終しじゅう薄暗かった。

矢来の坂  もちろん、牛込天神町交差点から東に上がって南に牛込中央通りがでるまでの通りですが、ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』では違ったことが書いてあります。

滝の坂(たきのさか) 早稲田通から榎町四〇と四一番の間を南に上る坂で、坂上東に浄土宗大願寺がある。現矢来町一帯は、江戸時代は小浜藩主酒井氏の邸地で、明治維新後に分譲されて住宅地帯となった。……矢来の坂というのは現早稲田通りのことではなく、この滝の坂のことであったといわれ、酒井邸がまだ分譲されない明治初年のこのあたりの情景であった。

 しかし、子供の漱石が「矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出よう」とする場合、滝の坂だとすると方向は全く違います。やはり矢来の坂というのは現早稲田通り、交差点「牛込天神町」の坂のことでしょう。これから上に行って酒井様の火の見櫓を通るのでしょう。
矢来町 歴史 江戸時代
交差点「牛込天神町」
酒井様の火の見櫓 どこにあったのでしょうか。江戸時代の地図(上を見て下さい)を見ると、まず穴あき四角で書いたものは「自身番屋」です。自身番は町内警備と火の番を主な役割としています。火の見櫓もここに建てました。その後の文章で「町の曲り角に高い梯子が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった」を読んでも、ここ「自身番屋」でしかありません。自身番屋は末寺横丁と矢来下の交叉するところにありました。
寺町 「とおり寺町」と「横寺町」の2つをまとめて呼びます。ただし、通寺町を簡易にして寺町と書く場合もあったようです。自身番屋を越えると、まっすぐだと通寺町から神楽坂に行き、右に曲がると横寺町です。漱石の時代では通寺町ですが、今では通寺町は神楽坂6丁目に名前が変わっています。なお、自身番屋の左側は「矢来町」、右側は「通寺町」です。
五六町の一筋道 5町は545メートル、6町は655メートルです。交差点「牛込天神町」から真っ直ぐ行って曲がるまで、つまり音楽の友ホールの前で曲がるまで、約470メートルです。現在は早稲田通りの道幅は大きくなって、さんさんと太陽が照り、陰惨ではないでしょう。しかし、芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社)ではこう書いています。

酒井邸あたりは薄暗く、屋敷の横手には大樹のモミ並木があった。江戸市中では化け物が出るといわれた場所がたくさんあったか、特に矢来は有名で、「化け物を見たければ矢来のモミ並木へ行け」とまでいわれたほどである。
 明治になっても矢来は薄暗く、作家武田仰天子は、「夜の矢来」(「文芸界」、明治三十五年九月定期増刊号)につぎのように書いている。
 “樹木の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。矢来町を夜籟町と書換へた方が適当でせう。何しろ栗や杉の喬木を受けて、ざァーざァと騒ぐ様は、是が東京市かと怪しまれるほどで、町の中だとは思へません。”

矢来町 漱石 現代

あの土手の上に二抱ふたかかえ三抱みかかえもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間すきま隙間をまた大きな竹藪でふさいでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄ひよりげたなどを穿いて出ようものなら、きっと非道ひどい目にあうにきまっていた。あすこの霜融しもどけは雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭にんでいる。
 そのくらい不便な所でも火事のおそれはあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子はしごが立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋いちぜんめしやもおのずと眼先に浮かんで来る。縄暖簾なわのれんの隙間からあたたかそうな煮〆にしめにおいけむりと共に往来へ流れ出して、それが夕暮のもやけ込んで行くおもむきなども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木かなという句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。

HinomiYagura_06g4599sx日和下駄 もとは平足駄ひらあしだと呼んで、歯が低い足駄。晴天に使用された。
半鐘 火の見櫓ではよく見られる小型の釣り鐘。
一膳飯屋 一膳飯(盛り切りの飯)を食べさせる簡易食堂。
縄暖簾 縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。なわのれん。店先に縄暖簾を下げたところから、居酒屋や一膳飯屋などのこと
煮〆 にしめ。煮染め。根菜・いも類・干ししいたけ・鶏肉・高野豆腐・こんにゃくなどに、しょうゆを主に砂糖・みりんなどで味つけした煮汁をしみ込ませ、煮汁の色がつくまで時間をかけて煮た、味の濃い煮物。おせちにも使う。
 おもむき。風情(ふぜい)のある様子
半鐘と並んで高き冬木哉 明治29年(1896)の作。