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猿寺|佐藤隆三と芳賀善次朗

文学と神楽坂

 猿寺について佐藤隆三氏と芳賀善次朗氏を取り上げます。
 最初は佐藤隆三氏で、氏は昭和6年には東京市主事であり、『江戸の口碑と伝説』(郷土研究社、昭和6年)という本を書いています。ちなみに口碑こうひとは、古くからの言い伝えや伝説のことです。
 元禄の頃、住職の徳山和尚が渡船に乗ろうとすると猿が現れ、自分の裾を取り、また他の主人との話もあり、乗船できませんでした。しかし、目の前で、この渡船は沈没してしまいます。猿のおかげで難を免れたという話です。

     猿寺
 東中野桐ヶ谷の大通りに、猿寺といふがある。本名は松源寺であるが、山門の前に「さる寺」と刻付け猿の附いた大きな石標が建てゝある。この寺はもと牛込通寺町にあつたが、明治三十九年に此處に移轉したものだ。
 元祿の頃、この寺に徳山と云ふ有德の和尚が居つた。時々境内に猿がやつて來て惡戯をするので、和尚も困つてゐたが、別に人畜に害を加ふる譯でもないからその儘にして置いた。或日和尚の留守の時に、小僧と仲間ちうげんが面白半分に、猿を本堂に追ひ込んで生捕りにし、繩で縛つて置いた。そこへ淺草橋場の檀家の者がお詣りに來て、何程かの鳥目を小僧と仲間に與へて、猿を貰つて行つた。和尚はその後境内に猿の出なくなつたことを氣にも留めなかつた。
 翌年の春、花の咲く頃、和尚は向島の檀家に招かれ、小僧を連れて、竹屋渡場迄やつて行くと、花見の連中がワイ/\騒ぎながら渡舟を待ってゐる。和尚も舟に乗らうと岸に立つてゐると後より法衣の裾を引張るものがある。振り向いて見ると一匹の猿であつた。變な猿だと思つてゐる所へ、猿に逃げられたと云って駈けつけて來たのが、橋場の檀家武藏屋の主人であつた。この猿は松源寺の境内にゐた猿だと聞いて、懐かしげに思ひ、武藏屋の主人と話をしてゐるうちに、舟は多くの人を乘せて出て終つた。仕方なしにモー一舟待つてゐると、その舟は餘り多くの人が乘つたものだから、川の中程で引繰り返り、泣くやら叫ぶやら大騒ぎとなつた。無論助け舟も出たことであるが、溺死する者も尠くはなかつた。和尚と小僧は猿のお蔭で、命拾ひをしたことを喜んだ。歸りがけに武藏屋に立寄って譯を話して、その猿を貰ひ受け、寺で大事に飼ふことにした。
 五代將軍綱吉公、鷹狩の歸途この寺に立寄られた時、猿にお目がとり、和尚よりこの話を聞いていたく感心せられ、その後綱吉公より雲慶の作と稱する、猿を彫刻した扁額を賜はつたので早速その額を本堂にかゝげた。それ以来猿寺と人が呼ぶ様になつたと云ふ。

 蒼龍山松源寺(左側の青い多角形)。現在は中野区上高田1-27-3に移動。

刻付け きざみつけ。材料や表面を刻む、切る、刻み込む
山門 寺院の門。寺院。寺院は元来、山中に建てられたため
石標 ある事を記念し、後世に伝えるために記しておく石。石碑。目印の石。道標に立てた石。
牛込通寺町 現在は神楽坂六丁目21番地。
元禄 1688年~1704年。江戸幕府将軍は5代目の徳川綱吉つなよし
有德 うとく。ゆうとく。徳行のすぐれていること。
仲間 ちゅうげん。中間。武家の奉公人で、城門の警固や行列の供回りなどに使った。
檀家 だんか。だんけ。寺院に属し布施する家か信者
浅草橋 東京都台東区浅草橋。秋葉原の東に位置する。
鳥目 ちょうもく。銭や金銭の異称。江戸時代の銭貨は中心に穴があり、その形が鳥の目に似ていたから。
境内 神社・寺院の敷地内
向島 むかいしま。東京都墨田区の隅田川東岸の旧区名。中小工場・住宅・商店が密集し、墨堤の桜や百花園の月見で有名だった。
竹屋の渡し 現在の言問橋のやや上流の山谷堀から、向島三囲みめぐり神社(墨田区向島二丁目)を結んでいた。
橋場 現在の白鬚橋付近。隅田川の渡しとしては最も古い。白鬚橋が完成し、渡しは廃止された。
尠く 「少なく」と同じ
雲慶 平安時代末期から鎌倉時代初期に活動した仏師。
稱する 称する。となえる。呼ぶ。
扁額 へんがく。門戸や室内などに掲げる横に長い額。横額

 次は芳賀善次朗氏の『新宿と伝説』(東京都新宿区教育委員会、昭和44年)の「恩返しをしたサル」です。氏については新宿区戸塚第一小学校の校長であり、新宿区の伝説や伝承をまとめています。

九 恩返しをしたサル
  場 所 神楽坂六丁目21番地
  時 代 江戸時代 元禄(1688―1703)のころ
 ここに松源寺という寺があり、徳山という高僧がいた。時々境内にサルがやってきていたずらをするので、和尚は困っていたが、別に人畜に危害を加えるわけではないので、そのままにしておいた。
 ある目、和尚の留守の時に、小僧と仲間がおもしろ半分にサルを本堂に追い込んで、生けどりにし、なわでしばった。和尚はかわいそうだから放してやれといっているところへ、浅草橋場のだん家の者がお参りにきた。その人はいくらかの金を小僧と仲間に与え、その猿をもらい受けていった。
 翌年の春の花時、和尚は向島のだん家に招かれ、小僧をつれて竹屋の渡し場までやってくると、花見の連中が大勢ワイワイ騒ぎながら渡し舟を待っていた。
 和尚も舟に乗ろうと岸に立っていると、後から衣のすそを引っ張るものがいた。振り向いて見ると、一匹のサルであった。変なサルだと思っていると、そこヘサルに逃げられたといって駆けてくる人がいた。みれば橋場のだん家武蔵屋の主人であった。
 武蔵屋の主人が、「このサルは松源寺からもらってきたものだ」と話しているうちに、舟は出てしまった。和尚はしかたなしに、つぎの舟を待っていた。ところが舟はあまり多くの人を乗せたため、川の中ほどでひっくり返り大騒ぎとなった。すぐさま助け舟は出たもののでき死者まで出る始末であった。
 サルのおかけで、結局和尚と小僧は命拾いをしたのである。帰りがけに和尚は喜んで、武蔵屋に立ちより、そのサルをもらい受け、大事に飼うことになった。
 五代将軍綱吉公は、鷹狩りの帰りに、この寺に立ち寄られ、和尚から恩返しをしたサルの話を聞いて、いたく感心されたということである。その後、綱吉公から雲慶の作と称するサルを彫刻したへん額を賜った。それ以来、この寺を土地の人々がサル寺と呼ぶようになった。
  出 典 ○江戸の口碑と伝説 佐藤隆三著 昭和6年10月 郷土研究社発行
  解 説 松源寺は、明治末年、道路拡張のため、中野区上高田一丁目に移転した。

筑土八幡神社|田村虎蔵旧居跡④

文学と神楽坂

田村虎蔵

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある小さい小さい神社ですが、しかし、「田村虎蔵先生顕彰碑」、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」があり、文化財としては巨大です。
 ここでは「田村虎蔵先生顕彰碑」について。
 筑土八幡神社の入口で「田村虎蔵先生顕彰碑 入口」とあります。

 門を通り、登りつめると、左手に「田村虎藏先生をたたえる碑」がでてきます。
 この碑には他に「まさかりかついで きんたろう」の「金太郎」五線譜、「1965 田村先生顕彰委員会」があり、碑文は「田村先生(1873~1943)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職 言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」と書いてあります。

顕彰 けんしょう。隠れた善行や功績などを広く知らせ、表彰する。
視学 しがく。旧制度の地方教育行政官。学事の視察や教育指導に当たった。

 以前は、文部省の唱歌教科書ではどれも漢文調で難しい歌詞が多く、一方、軍歌では乱暴な言い回しが多かったといいます。これに対して、田村虎蔵氏は優しい言葉で、優しい詩を書き、言文一致の唱歌の創始者の一人でした。

 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では、

32、作曲家田村虎蔵旧居跡
     (筑土八幡町三一)
 大久保通りから左手に行く路地の坂道を上る。坂を上りつめると、右が筑土八幡となるが、その左側は明治、大正時代の小学唱歌の作曲家田村虎蔵が明治39年12月から昭和18年まで住んでいたところで、新宿区の文化財となっている。
 代表的なものは、「金太郎のうた」、「花咲爺」、「大黒様」、「青葉の笛」、「一寸法師」、「浦島太郎」などで、今でも愛唱されているものが多い。
 昭和40年11月、教え子たちは、先生の23回忌を記念して、その徳をしのび、先生がよく散歩していた隣の筑土八幡境内に顕彰碑を建てた。大理石で、みかげ石台の上に据えられ、碑面には「田村庭蔵先生をたたえる碑」というタイトルの下に、「金太郎のうた」の音符と歌詞が刻みこまれ、その下に簡単に氏の略歴を刻んだスマートなものである。
 なお田村氏子孫は、昭和44年10月15日、神楽坂6の21に移転した。

〔参考〕新宿区文化財


坂道 昭和5年の「牛込区全図」。赤は筑土八幡町31(現在は筑土八幡町4の24)。青は登っていく坂道で、坂は「御殿坂」といいます。

 筑土八幡神社から筑土八幡町31番地(現在は4-24)までに行く場合は、筑土八幡神社を右に越えて、西北西に下り、神社から出ると、目の前に「新宿区指定史跡 田村虎蔵旧居跡」があります。とてもとても小さく標示されています。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定史跡
田村たむら虎蔵とらぞうきゅう居跡きょあと
          所 在 地 新宿区筑土八幡町31番地
          指定年月日 昭和60年3月1日
 作曲家田村虎蔵(1873~1943)は、明治39年(1906)から、その生涯をとじるまでの37年間、この地で暮らし、作曲活動を行った。
 虎蔵は、明治時代の言文一致げんぶんいっちの唱歌運動を石原和三郎、巌谷いわや小波さざなみ、芦田恵之助、田辺友三郎らと共に展開し、その普及に尽力した。小学唱歌を主に作曲し、「金太郎」「浦島太郎」「一寸法師」「花咲はなさかじじい」など、現在も愛唱されているものが多い。
 旧居は太平洋戦争時の戦災で焼失したが、筑土八幡神社境内には虎蔵の功績をたたえた記念碑がある。
 平成25年3月  新宿区教育委員会