芸術座」タグアーカイブ

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑤

文学と神楽坂

   横寺町

 筑土八幡宮裏から白銀町に出て、白銀公園の前を南へゆくと、もうそこは以前の通寺町、現在は神楽坂六丁目である。神楽坂通りを横切って、その南側の横寺町に入った。
 横寺町は尾崎紅葉島村抱月、抱月の後を追った松井須磨子劇的な終焉しゆうえんの町で、昭和八年頃わたくしもしばらく間借生活をしたことがあり、とくに『新東京文学散歩』執筆以来はしばしば訪れるようになった馴染み深い町と云ってよい。戦災がひどく、道の両側に並んだ寺々と共に商家などにも戦前の面影は更にないか、ほぼこの町の中央にあった飯塚酒店が、戦前の官許にごりの店でなく普通の酒類店としてではあるが、復興も早かったことは、横寺町に辿る文学史の一つのたしかな道標でもあった。
 戦前の飯塚酒店は貧乏な文士や画家などが、労働者に混って安心して酒にひたった店で、酒豪を以て自ら任じ、やがては板橋の養老院で孤独な老死をとげた、日本のヴェルレーヌともいえそうな詩人の兒玉花外も、その店の常連であった。それに飯塚家は坪内逍遙の弟子筋に当る演劇研究家、飯塚友一郎の生家で、牛込の旧家でもあったから、官許にごりの酒店と共に、脇には質屋と米店も営んでいて、貧乏な藝術家などに重宝がられた。その飯塚家の裏側に、坪内逍遙文藝協会を離れ早稲田大学教授を辞職した島村抱月と、女優松井須磨子との藝術座の本拠として藝術倶楽部が出現したのは大正四年秋であった。藝術座はそれより先大正二年(一九一三)九月の有楽座ける「モンナ・ワンナ」の旗揚げ興業と共に松井須磨子をプリマ・ドンナとしてスタートし、オペラ形式をとった新演劇として全国津々浦々にその名声をひろめていった。(中略)中でも須磨子の演じた「復活」で抱月が作詞した「カチューシャ唱歌」や、北原白秋作詞による「さすらひの唄」「にくいあん畜生」「こんど生れたら」などの「生ける屍」の唄、「煙草のめのめ」「酒場の唄」「恋の鳥」などの「カルメン」の唄は、抱月の書生をしていた中山晋平の作曲で、流行歌としても全国を風靡ふうびした。九州の田舎に生れたわたくしなども、幼い時分に横井須磨子のうたった「カチューシャ唱歌」のレコードから「カチューシャ可愛や別れのつらさ……」などと、つい覚え込んでしまったほどである。(後略)


劇的な終焉 島村抱月氏はインフルエンザで大正7年7月7日に死亡し、大正8年1月5日、松井須磨子氏は後を追うように縊死で自殺。
にごり 発酵した米を酒袋の中にしぼって抽出し、おりを取り除き、さらにろ過するが、にごり酒は澱を残したままにするもの。
文芸協会  1909年、劇界の刷新をはかり新芸術を振興する文化団体として発足。会長は坪内逍遥。11年第1回公演として『ハムレット』などを上演。13年、松井須磨子、島村抱月が退会し、その後、解散。芸術座、無名会、舞台協会、新国劇などに分れた。
プリマ・ドンナ prima donna(第一の女性)。オペラの主役女性歌手。ソプラノ歌手が多い。オペラ以外でも使う。
オペラ形式 歌手が扮装して演技をしつつ管弦楽と共に歌う音楽劇。芸術座は確かに一部はオペラ形式でしたが、全部が全部ではなかったと思います。
風靡 風が草木をなびかせるように、多くの者をなびき従わせること。

神楽坂|アルバム 東京文學散歩|野田宇太郎

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」の「神楽坂」(創元社、1954年)です。

 神樂坂

 神楽坂は明治大正昭和にかけての東京に住む文学者のふるさとのやうなところである。この界隈が文学者に縁を持つやうになつたのは、横寺町尾崎紅葉が住み、矢来町広津柳浪が住み、そこに通ふ若い文人の数も多かつたのにはじまるとも云へるが、又赤城神社の境内の清風亭と云ふ貸席坪内逍遥の芝居台本朗読会や俗曲研究会が催されたり、その他の大小の文学関係の会合が行はれたりしてゐたこともその一つであらう。その清風亭がやがて長生館と云ふ下宿屋に変ってからは、片上伸や後には近松秋江なども住んだことがあつた。

貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷や家。

 大正時代になると矢来町に飯田町から移って来た新潮社が出来、新潮社を中心にこの附近には色々な文士が集つた。同時に島村抱月芸術座が旗上げして芸術倶楽部が出来たのが横寺町である。逍遥や片上伸や抱月などの早稲田大学の教授連の名が出たことでも判るやうに、大正初期になるとこの界隈は早稲田の学生で賑ひはじめた。そこから多くの現代文学の詩人や作家が出たことは今更喋々もあるまい。わけても神楽坂は毘沙門天を中心に花柳粉香の漂ふ町でもあり、ロマンチシズムに胸ふくらませた明治大正の清新な青年文士と、紅袂の美女とのコントラストは如何にも似つかはしいものとなった。
 泉鏡花がすず夫人との新婚生活を営んだのもこの神楽坂であつた。それは明治三十六年頃からのことであるが、その場所は今の牛込見附から神楽坂を登らうとする左側の小路の奥であつたらしい。だが、もはや街は全貌を変へてしまつたので偲ぶよすがとてない。

飯田町 右図で描いたのは昭和16年頃の飯田町です。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月氏と女優の松井須磨子氏を中心に、主に研究劇を行いました。
喋々 ちょうちょう。しきりにしゃべる様子。
 かなめ。ある物事の最も大切な部分。要点。
毘沙門天 仏教で天部の仏神。神楽坂では毘沙門天があり、正式には日蓮宗鎮護山善国寺。
花柳 かりゅう。紅の花と緑の柳。華やかで美しいもの。 遊女。芸者。
粉香 ふんこう。おしろいの匂い。女性の色香。
紅袂 「こうべい」「こうへい」「こうまい」でしょうか。国語辞典にはありません。赤いたもと。女性のたもと。
牛込見附 この場合は神楽坂通りと外堀通りを結ぶ4つ角。現在は「神楽坂下」に変更。
小路の奥 神楽坂二丁目22番地で、北原白秋が住んだ場所と同じでした。現在はが立っています。

東京理科大学(物理学校)裏。「アルバム 東京文學散歩」から

 北原白秋の詩に「物理学校裏」と云ふのがある。物理学校の講義の声と、附近のなまめいた街からきこえる三味や琴の音とを擬音風にとりあつかつて、牛込見附の土手下を走る今の中央線の前身の甲武線鉄道カダンスなどのことをも取り入れた、有名な詩である。白秋は神楽坂二丁目のニ十二番地に明治四十一年十月からしばらく住んでゐたのだが、それが丁度今の東京理科大学、以前の物理学校の裏に当る崖の上であつた。
「物理学校裏」と云ふ詩などは特別で、とりたてて神楽坂を文学の題材とした名作が多いと云ふわけではないが、この界隈は震災で焼け残つて以来、ぐんぐんと発展して、一時は山の手銀座とも称され、カフエーや書店をはじめ、学生や文士に縁の深い有名な店が沢山出来たものである。それに夜店が又たのしいものであつた。平和な昭和時代には真夜中かけてそこを歩きまはつた思ひ出が私などにもある。
 何と云つても神楽坂の生命はあの坂である。あの坂を登るとたのしい場所がある、と云ふやうな期待が、牛込見附の方からゆく私には、いつもあつた。
 戦後の荒廃がひどいだけに、神楽坂は又幻の町でもある。

神楽坂より牛込見附を望む

甲武線鉄道 正しくは甲武鉄道。明治時代の鉄道事業者。明治22年(1889)4月11日に内藤新宿駅と立川駅との間に開通し、やがて御茶ノ水から、飯田町、新宿、八王子までに至りました。1906年(明治39年)に国有化
カダンス 仏語から。詩の韻律、リズム。
震災 大正12年の関東大震災です。
山の手銀座 銀座は下町。神楽坂は山の手。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では「大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた」と書いています。詳しくは山の手銀座を参照。
カフエー 喫茶店というよりも風俗営業の店。 詳しくはカフェーを参照。

松井須磨子-芸術座盛衰記|川村花菱

文学と神楽坂

 川村花菱氏の「松井須磨子ー芸術座盛衰記」(青蛙房、平成18年刊)は『随筆松井須磨子』(昭和43年刊)の新装版です。これは川村花菱氏が島村抱月氏と松井須磨子氏らと一緒になって芸術倶楽部で夜食を取る場面です。ここでも鶏料理店の川鉄が出ています。
 川村花菱氏は芸術座の脚本部員兼興行主事として活躍した人で、のちに新派の脚本、演出を担当し、若い俳優の育成に力を注ぎました。
 松井氏の発言、続いて島村氏の発言と思います。

「あら、皆さん、まだごはん前、私ァとっくに食べちゃったけど……」
「なにか、あったかいものはないかな」
「川村さん、あんたが好きなのよ、ねえ、そら、あの、親子……あれなら私もたべたいわ! あれ、どこの親子? 私、あんたが食べてるところ見て、一度たべたいなァと思ってたのよ! あれ、どこから取るの?」
 それは、近所の鳥屋の“川鉄”という家のもので、ほかの親子丼とちがった、まったく独特の味を持っているものだった。
「川鉄の親子ですよ」
「川鉄? じゃ、言うわ……先生あがる?」
「たべます]
「と、一ツ、ニツ、三ツ……私もたべるから四ツね……四ツ言うわ」
 須磨子は、袂をふらふらさせて駈けて行った。
 それ以来、私が芸術座へ行く毎に、必ずこの川鉄の親子が出た。おそらく芸術座で、行くたびに食事の出るのは、私ひとりだったと思う。いや、私のほかにもうひとりの客があった。それは、阪本()蓮洞(れんどう)という人で、紅蓮洞は島村先生に対して、
「おい、島村……」
と、呼びつけにした。
「ぐれさんが来た、親子を御馳走しなさい」
 先生は快くいつもそう言われた。島村先生に対して、「おい、島村」と呼びすてにするのは、紅蓮洞だけだと言ったが、芸術座の中に、
「おい、島村……」
と言った者がもうひとりある。それは、倶楽部に厄介になっていた役者だが、なにかのことで須磨子と争い、そのさばきが不当であるのに激昂して、先生の(へや)に飛び込んで、
「おい、島村……」
と言っただけで、その場で首になってしまった。

 坂本紅蓮洞氏の生まれた年は慶応2年9月で、島村抱月氏は明治4年1月10日です。西暦では1866年対1871年なので、坂本氏のほうが4歳半ほど年長です。坂本紅蓮洞氏はもともと数学者で、「数学の天才」と呼ばれていましたが、教師はうまくいかず、雑誌記者、その後、与謝野鉄幹が主催する新詩社に入り、文学者と交流。これで奇癖の逸話も多く、文壇の名物男として有名でした。新詩社は詩歌の団体で、与謝野鉄幹が1899年11月11日創立、翌年4月に機関誌『明星』を創刊。浪漫主義運動の一大勢力でした。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑩

 演劇学者で名著『歌舞伎細見』の著者である飯塚友一郎の生家で、別に精米商と質屋をも兼営していた飯塚酒場その坂の右側にあって、現在では通常の酒屋――和洋酒や清涼飲料や調味料の販売店でしかなくなっているが、戦前には官許()()()なるものを飲ませる繩のれんのさがった居酒屋であった。酒の飲めない私もいつか誰かに連れられていって卓の前に坐ったことがあるが、我こそは明日の星よとみずからにたのんだ無名の芸術家たちが、まだ生活水準の低かった労働者と肩を接して安酒の酔いに談論風発していた光景には忘れがたいものがある。
 が、こんど私がそこへ脚をはこんだのは、その横か裏かにあったはずの芸術倶楽部所在地を確認したかったからにほかならない。
 島村抱月坪内逍遥文芸協会と袂を分って我が国最初の新劇団である芸術座を創始したのは大正二年九月で、『サロメ』『人形の家』の上演など主として翻訳劇の紹介に力をつくしたが、翌三年三月帝劇で上演したトルストイの『復活』は、劇中に挿入した中山晋平作曲の『カチューシャの唄』の大流行と相俟って四百回を越える上演記録をうちたてて、演劇の通俗化を批難されるに至った。そのため抱月は研究公演の必要を感じて、四年秋に収容人員二百五十名の小劇場として横寺町十一番地に建築したのが芸術倶楽部であったが、彼は日本全国では死者十五万人に及んだスペイン風邪から肺炎におかされて、大正七年十一月五日に芸術倶楽部の一室で歿した。そして。その死後は彼の愛入で事実上芸術座の舞台の人気を一人でささえていた女優の松井須磨子主宰者となって劇団を維持していたが、八年一月有楽座で『カルメン』公演中の五日未明に、師のあとを追って芸術倶楽部の道具置場で縊死した。
 最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や寺社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので、芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やむなく飯塚酒店に入って三十代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。
 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらぴっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。

歌舞伎細見 かぶきさいけん。1926年(大正15)に発行した歌舞伎の研究書。「世界」や題材により系統的に整理・分類し、由来や梗概(こうがい)、参考書がついています。系統的、網羅的な作品はほかに類書はなく、歌舞伎研究に重要な業績です。
官許 かんきょ。政府が特定の人や団体に特定の行為を許すこと
にごり にごりざけ。発酵させただけで(かす)()していない白くにごった酒。どぶろく
繩のれん なわのれん。縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。店先に繩のれんを下げた居酒屋・一膳飯屋など
談論風発 だんろんふうはつ。はなしや議論を活発に行うこと
横寺町11番地 間違いです。9番地が正しい。芸術倶楽部で。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月(ほうげつ)氏と女優の松井須磨子(すまこ)氏を中心に、主に研究劇を行いました。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成しました。
スペイン風邪 1918年から19年にかけて全世界的に流行したインフルエンザN1H1亜型のこと。
主宰 人々の上に立ち全体をまとめること。団体・結社などを運営すること
現場へ行ってとまどった 現在はプレートがあります。

 このへんから早稲田、あるいは大久保通りの先にある若松町一円にかけては明治大正期にわたる文士村の観があって、その詳細はここで追いきれるものではない。が、私は芸術倶楽部の所在地と同時に教えられた尾崎紅葉住居跡だけは、なんとしても尋ねずにいられなかった。それは、私が十数年前に徳田秋声の伝記を出版する以前から果したいと考えていた夢の一つだったからでもある。いや、そう言っては私自身がすこし可哀そうである。私は十数年前にも、そしてつい近年もそのへんを歩いていながら、人様に道をたずねるのがあまり好きではないばかりに、探し当てられなかっただけのことでしかなかった。
 飯塚酒店からさらに二百メートルほど先へ行くと、やはり右側に三孝商店という酒屋がある。横丁をへだてた先隣りは青物商だが、その青物商の前に黒く塗った鉄柵をもつ路地があって、なかは私道だが、その袋路地のゆきどまりの左側が横寺町47番地の紅葉旧宅跡で、紅葉時代からの家主であった鳥居家の当主秀敏夫妻が現住している。まず、その家屋の前に掲示されている標識を写しておこう。

新宿区文化財
旧跡 尾崎紅葉旧居跡
明治の文豪尾崎紅葉は、ここに明治二十四年二月から、三十七歳で死去する明治三十六年十月まで住んだ。鳥居家には、今も紅葉が襖の下張りにした俳句の遺筆二枚がある。
   初冬やひげそりたてのをとこぶり 十千万
   はしたもののいはひ過ぎたる雑煮かな 十千万堂紅葉
旧居は十千万堂と呼び、二階建て。階下は八畳、六畳、三畳と離れの四畳半があり、二階は八畳と六畳の二間であった。戦災で焼失したが、庭は当時のままである。
ここで紅葉は、有名な「多情多恨」や未完の「金色夜叉」などを執筆した。
昭和五十一年九月
                 新宿区教育委員会

早稲田 早稲田通りは青色。
大久保通り 大久保通りは赤色。
若松町 若松町は中央やや下の赤の場所。
早稲田通りと大久保通り
文士村 若松町の文化人は、区内に在住した文学者たちを使って調べてみると、飯塚友一郎小川未明、岸田国士、国木田独歩、窪田空穂、島田青峰、高田早苗田山花袋、野口雨情、昇曙夢、三宅やす子、宮嶋資夫、矢口達、若山牧水などでした。
住居跡 紅葉氏の住居は横寺町47番地でした。
三孝商店青物商紅葉旧宅跡 この三か所を示します。さらに紅葉氏の塾生が集まった十千万堂塾も出しました。十千万堂塾は箪笥町4~7番地のどこにあるのか、わかりませんが、新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997)で飯野二郎氏が書く「神楽坂と文学」「横寺町四七番地と箪笥町五番地のこと」では5番地だといっています。

標識 旧と新のプレートを示します。
紅葉旧居跡
紅葉旧居跡

 折よくご夫妻が在宅されて、なんの連絡もせずにいきなり訪問した私は茶菓の饗応にまであずかるという、まったく予期せぬ歓待を受けた。その上、標識に記されている二句の現物や、紅葉の本名である尾崎徳太郎と印刷された通常の名刺を縦半分に切断したような細長い名刺や、尾崎家の遺族が記念に印刷して関係者に配布したらしい写真帖などもみせられたが、最大の収穫は桝の大きめな方眼紙に鳥居家当主の手で精緻にえがかれた旧居の間取り図であった。
 紅葉宅に泉鏡花小栗風葉柳川春葉の三人が玄関番として住みこんでいたことは幾つかの書物に記載されているが、私は『徳田秋声伝』を執筆したとき三人の起居した玄関の間が二畳か三畳か確認できぬままに終った。その後『日本文壇史』を書いた伊藤整が「朝日新聞」記者のインタビューに応じて私の書いた通りに語っているのを読んで責任を感じていたが、こんどようやくそれも氷解した。面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである。
 標識に《当時のまま》と記されている庭も案内されたが、尾崎家の子女が育つにつれて玄関ではしだいに仕事がしづらくなっていた風葉は、鏡花が祖母と榎町で所帯を持ったあと、尾崎家の地からおりていける地つづきに二階建ての貸家が空いたのに眼をつけて、同門の春葉と秋声にそれを借りて文学修業の共同生活をしようと提案した。その勧誘をした場所が前記の万盛庵で、そのうちに他の門下生も集まって来て紅葉の家塾の観を呈したために、彼等が詩星堂と名づけていた合宿寮が文壇では十千万堂塾とよばれるに至った。文学上ではもちろんのこと、物質的にもなにがしかの援助を受けていたために、紅葉の家塾とみなされたのである。が、その援助にも、かぎりはあった。われわれの先輩作家は、一本の巻煙草を二つに千切って分け合うというような暮しぶりをしていたのである。戦後の作家生活とは雲泥の差が、そこにはあった。塾のあった場所の地籍は箪笥町であったが、「ここをだらだらと下ったところにあったんです」と鳥居家の当主が指さしたその地点は、しかし、垂直な崖に変形してしまっていた。
 徳田秋声の昭和八年の短篇『和解』は、自邸の庭続きに新築したアパート「フジハウス」へ、困窮していた泉鏡花の実弟泉斜汀(本名=豊春)が転がりこんできて急死したのを機会に、鏡花が謝意を表するために訪問したところから、師の紅葉をめぐって長年つづいた確執も解消して、打ち揃って十千万堂跡をおとずれるいきさつを叙したものだが、『和解』という表題にもかかわらず、二人のあいだのしこりは完全に氷解したわけではない。そういう屈折した心理を、たんたんとのべているところに味わい深いもののある作品とみるべきであろう。母堂が朝日坂五条坂とよんでいたという話も、私はそのとき鳥居家の当主からきいた。

榎町 えのきちょう。東京都新宿区にある地名
万盛庵 当時は蕎麦屋。後に鳥料理の川鉄になりました
箪笥町 たんすまち。東京都新宿区の町名で、横に長い町です。箪笥町はここ
和解 昭和8年3月30日、泉斜汀氏の死亡と葬式があり、徳田秋声氏と泉鏡花氏との曰く言いがたい関係を描く作品
朝日坂 泉蔵院に朝日天満宮があるため。http://kagurazaka.yamamogura.com/asahizaka-2/
五条坂 朝日天神は五条の天神様と呼ばれたため。http://kagurazaka.yamamogura.com/asahizaka-2/

二句の現物 今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)で、二句の現物のコピーを見られます。

紅葉の二句で現物

フジハウス 徳田秋声旧宅は文京区本郷6丁目6−9。フジハウスは6-2です。空襲はなく、当時のままです。フジハウス1

神楽坂・新宿|大宅壮一

文学と神楽坂

 ちなみに大宅壮一氏が書いた昭和26年4月の「サンデー毎日」の『歓楽街五十年史』のうち「神楽坂・新宿」でも全く同じ光景が出てきます。昭和の時代、20年経っても、神楽坂は「盛り場の仲間入りもできないほどのさびれ方」になっていました。

 山の手方面の代表的歓楽街というよりも、二流の芸者町として知られていた神楽坂が、銀座の繁栄を奪ったかのような様相を呈したのは、大震災で焼け残ったおかげである。
 それだけではなく、ここには電車が通っていないし、道路もたいして重要ではないので、燈ともしごろ車馬一切が通行止めとなり、そのために、極めて安全で快適なプロムナードとして喜ばれた。夜はおびただしい人出で、銀座から移ってきたカフェープランタンへ毎晩のように通ってくる文人たちの間に混じって、お座敷着姿の芸者がつまをとって歩く光景は、当時の神楽坂でないと見られないものだった。
 牛込演芸館文明館牛込亭柳水亭などのほかに、牛込会館があって、ここではまだういういしかったころの水谷八重子の踊りや、いまはソ連で対日放送をやっているとかいう岡田嘉子の舞台姿も、よく見られたものだ。横町には松井須磨子が首をくくった芸術座の跡があり、それが後にアパートになって、一時、私もそこに住んだことがある。
 一流の洋食を食わせた田原屋オザワ、菓子の紅屋、縄のれんの飯塚などなど、名前をいえば思い出す人も多いと思うが、それらも、戦前すでに統制で影が薄くなり、姿を消したものが多い。特に戦後の神楽坂は、歓楽街どころか、盛り場の仲間入りもできないほどのさびれ方である。

燈ともしごろ 日が暮れて、明かりを点し始めるころ
プロムナード 散歩道。遊歩道。
カフェープランタン 岩戸町二十四番地(現在は岩戸町一番地)にありました。
つまをとる 褄を取る。芸者が裾の長い着物の褄を手で持ち上げて歩く。褄をとる

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座

大震災①|昭和文壇側面史|浅見淵

文学と神楽坂


 関東大震災の神楽坂の様子です。浅見(ふかし)氏は昭和時代の小説家、評論家で、私小説風の作品や作家論、作品論などを発表しました。『昭和文壇側面史』は昭和43年に発表し、浅見淵は69歳のときです。

 大正12年9月1日の関東大賞災を知ったのは、大阪においてであった。夏休みで神戸へ帰省していたが、その朝たまたま大阪天満橋の伯父の家を訪ねていたところ、昼時分になり、暑いから川船へいこうと、川船料理屋へ連れていかれた。そして、川魚料理で一杯やっていると、グラグラとやって来て船が大きく揺れ、川波が激しく騒いだ。大きな地震だネと、伯父は呟いたが、それでも、二、三度、揺れ戻しがあると、その儘おさまった。で、ふたたび盃を平にしていると、まもなくジャンジャン号外の鈴の音がし、それが東京潰滅という第一報だったので驚いたのだった。
(中略)当時ぼくは牛込弁天町の下宿屋にいたので、下宿屋はもちろんのこと、神楽坂を中心とする牛込の山の手界隈はほとんど被害らしい被害は無かった。神楽坂の中ほどに、巌谷一六書の金看坂を掲げた、いまでも残っている老舗の尾沢薬局が、そのころ、隣りにレストランを経営していた。このレストランの二階が潰れていたくらいである。(中略)

田原屋・川鉄・赤瓢箪

 戦災で焼け、近年やっと復活して昔のように客を集めているらしい洋食屋の田原屋は、大震災のころ既に山の手の高級レストランとして有名だったが、この田原屋。肴町の路地の奥にあった、尾崎紅葉をはじめ硯友社一派がよく通ったといわれる川鉄という鳥屋。それから、質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋。これらの店には、文壇、画壇、劇壇を問わず、あらゆる有名人が目白押しに詰めかけていた。白木屋がいち早く神楽坂の中途に特売所を設けたが、一応物資が出まわると、これが牛込会館という俄か劇場に早変わりし、水谷竹紫水谷八重子たちの芸術座アンドレーフの「殴られるあいつ」を上演したりしていた。この劇団に、のちに築地に小劇場のスターとなった、東屋三郎汐見洋田村秋子たちが客演していたが、この連中の顔がとくに赤瓢箪ででよく見受けられた。


弁天町 場所は新宿区の北部に。巨大な町ですが、明治5年から変わっていません。大部分が宗参寺の境内で、元禄十一年以降次第に町皿みができ門前町となりました。
弁天町
尾澤薬局尾沢薬局 神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています。
レストラン 尾沢薬局の隣りは、カフェー・オザワといいました。加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)によれば「薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフェを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないゝカッフェが出来、それで益〻土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。」
赤瓢箪 これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では「おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん」と書き、昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では「赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。」と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。関東大震災でも潰れなかったようです。
白木屋 しろきや。東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ。かつて日本を代表した百貨店の一つ。法人自体は現在の株式会社東急百貨店として存続。1930年(昭和5年)、錦糸堀や神楽坂に分店を出しています。
牛込会館 神楽坂の2丁目から3丁目に入ってすぐ右側で、現在は「サークルK」です。関東大震災の数日後、水谷竹紫と水谷八重子は牛込会館の屋上に上っています。牛込会館は現在はサークルKに変わっています。
芸術座 第二次芸術座。第一次芸術座は、1913年、島村抱月、松井須磨子などが結成し、1919年、解散。第二次芸術座は、水谷竹紫、水谷八重子が名前を受け継ぎ、同名の劇団を起こしました。
アンドレーフ Леонид Николаевич Андреев。Leonid Nikolaevich Andreev。レオニード・ニコラーエヴィチ・アンドレーエフ。20世紀はじめのロシアの作家。生年は1871年8月21日(ユリウス暦8月9日)。没年は1919年9月12日。ロシア第一革命の高揚とその後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家に。
田村秋子 たむら あきこ。新劇女優。生年は明治38年(1905年)10月8日、没年は昭和58年(1983年)2月3日。1924年築地小劇場の第1回研究生として入所、創立公演『休みの日』に出演。29年、夫の友田恭助と築地座を結成、戦後は文学座に出演。



松井須磨子の事|長田秀雄

文学と神楽坂

 長田秀雄氏が昭和元年の『文芸春秋』に書いた「松井須磨子の事」です。長田秀雄氏は長田幹雄氏の兄に当たります。

 松井須磨子が死んでから、もう、足掛け、七年になる。彼女が亡くなつてから、日本の劇壇には、女優らしい女優はゐないと、かう云ひ切ってもいいと私は今でも思つてゐる。
 山國に育つただけに、須磨子は粗野であつた。皮膚の感じなぞも硬かつた。島村さんとの情史が、恐ろしく彼女を美くしい女のやうに思はせたけれども、私は、美人ではなかつたと思ふ。髪の毛なども決して、美くしかつたとは云へない。
 たゞ、私は劇界に身を置いて以来、随分いろんな女優とつき合つたが、あの位純眞な氣持の女を見た事は一度もない――世間では、随分、彼女をいろんな難癖をつけて、非難した。――事實また彼女には、非難さるべき性格上の欠點が随分あつたが、然し、あの純眞さは、鳥渡他の女優には求められないと思ふ。

 いや、女優ばかりではない。あらゆる種類の女の中で、今の時勢にあの位純眞な女は恐らく少ないであらう。
 正月五日の朝、彼女が亡き島村抱月氏の跡を追つて、死んだときの光景は、今でも時時私の心に浮んでくる。
 泥沼のやうに、いろんな人たちが泳ぎまわつてゐる藝術座の末路をつくづく淺間しいと思ったので、さう元來深かい關係でもないから、今の内に身を退かうと云ふので、暮れの内に退座した私は、さばさばした氣持で春を迎へた。四日の晩の招待狀が藝術座から來てゐたが、元來、カルメンなど云ふ藝術座の西洋劇はあんまり好きでないので、私は行かなかつた。
 五日の早朝、一通の電報が私の枕元に届いた。「マツイシス。スグコイ」と電報には書いてあつた。「馬鹿々々しい誰がこんないたづらをしやがつたんだ」と、かうつぶやきながら、それでも、何だか氣にかゝるので、電話をかけてみた。

足掛け あしかけ。始めと終わりの端数を一として計算する。例えば、ある年の12月から翌々年の1月までは「足掛け三年」
山国 山の多い国や地方。松井須磨子がいた長野も山国
鳥渡 「一寸」か「鳥渡」と書いて、「ちょっと」と読みます。すこし
芸術座 1913年、島村抱月、松井須磨子を中心として結成。1919年解散。
浅間しい 浅ましい。見苦しく情けない。嘆かわしい。

 電話に出てきたのは、當時、藝術座に籍を置いてゐた米國歸りの畠中蓼坡君であつた。
「けさの電報はどう云ふんです。」と私はせき込んで訊ねた。すると畠中君の聲はハッキリと
「死んだんです。」と答へた。私は、まだ半信半疑であつた。
「本統ですか。」
「えゝ。」
「どうして死んだんです。自殺ですか。」
「えゝ、首を釣つたんです。」と畠中君は少し吃り氣味に答へた。元来畠中君はタチツテ卜がうまく出ないので、釣る……などと云ふ言葉はいつも吃り氣味であった。私は驚いた中にも畠中君の言葉の調子が馬鹿に可笑しかつたのでつい笑つた。
「とに角、すぐ來て下さい。まだ、誰も來てゐませんから。」とい畠中君はかう云つて、電話を切つた。
 私が俥で驅けつけたときには、丁度、松竹の大谷君が玄關に來てゐた。
「やあ、」
「やあ、どうも飛んだ事でした。」とかう云ふ大谷君の言葉を聞流して、私は彼女の居間になつてゐた藝術倶樂部の二階の安つぽい西洋間へ行つた。
 三ケ月前に島村氏が死んで横たわつてゐた場所に粗末な蒲團を敷いて、須磨子が寢せてあつた。顔は生きてゐた時のとほりであつた。心持、鉛色に欝血してゐるかと思はれるが、薄く化粧してゐるのでよく分らなかつた。輕く眼をつぶつてゐる容子が、どうしても死んだとは思へなかつた。

畠中蓼坡 はたなかりょう。演出家、俳優、映画監督。生年は1877年5月21日、没年は1959年3月1日。27歳に渡米。アルピニー俳優学校に入学。42歳、1919年(大正8年)に帰国し劇団「芸術座」に入団、同年1月5日の松井須磨子により劇団は解散。
大谷 大谷竹次郎。兄・白井松次郎とともに松竹会社を創業しました。
西洋間 芸術倶楽部2階の抱月の書斎に「ベッド」があります。ここでしょうか。
欝血 うっけつ。 血液の流れが悪く、体の一部に血液が溜まってしまった状態

芸術倶楽部

松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(1966年)から


 雜司ケ谷の墓地で島村氏の葬式を行つたとき、すぐその場から明治座の中幕へ出かけなければならないのに、墓地の茶屋に泣倒れて子供のやうに駄々をこねた彼女の姿が、死顔をみてゐると、思出された。
「死ぬなんて、別に何んでもない事よ。」と、今にも眼を見開いて云ひさうな氣がした。
 遺書は坪内博士と伊原青々園氏と實兄米山氏に宛てゝ三通書いてあつた。
 弔客の應待など萬端の手傳をしてくたくたに疲れて家へ歸つたのは、その夜の十二時過ぎだつた。私は丁度、西片町の崖の上に住んでゐた家へ歸つてすぐ床に入ると、何所からともなく須磨子のカチユシヤの唄綿々(めんめん)としてきこえてきた。
 私は厭な心持がした。丁度崖下の二階で、蓄音機をかけてゐるのだと云ふ事が分つた。今日の夕刊で須磨子の自殺を知つたので、かけてゐのだなと私は思つた……が、やはり何だか厭な心持だつた。
「須磨子がいきてゐたら……」と私は時々考へる事がある。だが、然し、「あの時死んだので好かつたのだ」と、云ふやうな氣がいつもするのである。
 もし生きてゐたら、どうなつてゐるだらう。やはり澤田正二郎君と一座でもしてゐるかも知れない。澤田君と一座でもしてゐれば、新劇は、もつと面白くなつてゐたかも知れない。然し、あの性格では、やはり澤田君と一座して長く結束して行く事は出來ない。きつと、今頃は、松井須磨子とその一黨と云ふやうな事にでもなつてゐるであらう。

伊原青々園 いはらせいせいえん。劇評家・小説家。生年は1870年5月24日(明治3年4月24日)。没年は1941年(昭和16年)7月26日。島根の生まれ。青々園の名で劇評を書き、坪内逍遥と親しくなりました。「日本演劇史」「近世日本演劇史」「明治演劇史」の三部作を完成。
カチューシャの唄 作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。『復活』の劇中歌で、松井須磨子が歌唱。1番は「カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と 神に願いを(ララ)かけましょうか」
綿々 途絶えることなく続く
一党 いっとう。仲間。一味

神楽坂|大東京案内(6/7)

文学と神楽坂

 ここでは主に横寺町を書いています。

書き落してならないのは、神楽坂本通り(プロパア)からすこし離れこそすれ、こゝも昔ながらの山手風のさみしい横町の横寺町第一銀行について曲るとやがて東京でも安値で品質のよろしい公衆食堂。それから縄暖簾(なはのれん)で隠れもない飯塚、その他にもう一軒。プロレタリアの華客(とくゐ)が、夜昼ともにこの横町へ足を入れるのだ。独身の下級(かきふ)俸給(ほうきふ)生活者(せいくわつしや)、労働者、貧しい学生の連中にとって、十銭の朝食、十五銭の昼夕食は忘れ得ないもの。この横町には松井須磨子で有名な芸術座の跡、その芸術クラブの建物は大正博覧会演芸館を移したもので、沢正なども須磨子と「(やみ)(ちから)」を演じて識者(しきしや)(うな)らせたことも一昔半。その小屋で島村抱月が死するとすぐ須磨子が縊死(いし)したことも一場の夢。今はいかゞはしい(やみ)の女などが室借りをするといふアパートになつた。変れば変る世の中。この通りの先きに明治文壇(めいぢぶんだん)を切つて廻した尾崎紅葉の住んだ家が残ってゐる。

横寺町 神楽坂5丁目から6丁目にはいると、南西に出ていく通りはいくつかあります。最初の小さな通りは川喜田屋横丁で、それから無名の通りが何本かあり、スーパーのキムラヤの前を左側にはいっていく通りが朝日坂(旭坂)です。この両側が横寺町(よこてらまち)です。
第一銀行 前身の第一国立銀行は、1873年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行。1896年に普通銀行の第一銀行に改組。1943年に三井銀行と合併して帝国銀行(通称・帝銀)に。
公衆食堂 1919年(大正9年)に東京市営の庶民の公営食堂として神楽坂に開設。大正12年3月には神田食堂、9月1日に関東大震災。これでますます必要性が強まり、大正13年九段食堂。昭和7年(1932年)の深川食堂まで、16か所ができました。
縄暖簾 なわのれん。縄を幾筋も結び垂らして作ったのれん。転じて居酒屋、一膳飯屋
飯塚 横寺町7。飯塚酒場はなくなって、代わりに現在は、家1軒と駐車場4台用になっています。飯塚酒場があったころは有名な居酒屋で、特に自家製のどぶろく「官許にごり」が有名でした。文士もこれを目当てに並んでいました。
一軒 火災保険特殊地図の昭和12年版では「床屋、タバコ、米ヤ、喫茶、ソバヤ」などがありましたが、居酒屋はありません。昭和10年の様子を書いた新宿区横寺町交友会、今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(2000年)では神楽坂通りから入ると左は「1.米屋、2.パーマネント、3.公証人役場、4.目覚し新聞、5.マッサージ業、6.靴修理店、7.歯医者、8.若松屋、9.大工職、10.洋服店、11.おでん屋、12.仕立屋、13.屋根屋、14.紙箱製造業、15.駄菓子店、16.大工職、17.米屋、18.下駄屋、19.駄菓子店、20.棒屋と芋の壺釣焼、21.ミルクホール、22.そば屋、23.髪結、24.お花の先生」。右は「68.救世軍、69.床屋、70.中華料理店、71.髪結師、72.パン屋、73.歯科医院、74、製本業、75.医院、76.質店、77.酒屋(にごり酒、ここが飯塚酒場です)、78.質店」となり、やはり、居酒屋はありません。しかし、ここで8.若松屋って。若松屋が酒店の可能性が大いにあります。
若松屋
十銭の朝食 東京都民生局の『外食券食堂事業の調査』(1949年)では、定食は朝10銭、昼15銭、タ15銭。うどんは種物15銭、普通10銭。牛乳一合7銭。ジャムバター付半斤8銭。コーヒー5銭
芸術座 島村抱月が1913年に松井須磨子を中心俳優として結成した劇団
芸術クラブ 島村抱月の新劇運動の中心となった劇場兼研究所
大正博覧会 大正3(1914)年3月20日~7月31日、上野公園で東京大正博覧会が開催。目玉としてロープウェーとエスカレータ。
演芸館 松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(筑摩書房、1966年)では

演芸館

第一会場 演芸館 東京都立図書館

すでにたびたび述べたように大正三年七月十八日より二十四日まで、大正博覧会の演芸館に『復活』を一日二回、五十銭の奉仕料金で出演して大好評をうけた関係で、博覧会終了後の解体に際し、安い値段で木材の払下げを受けて改築したものであった。設計図が出来上がったのは『クレオパトラ』『剃刀』の帝劇公演が終わった同年十月末のことであった。はじめ神楽坂肴町停留場付近の土堤の上の展望のきく高台に柱を組み立てたが、四年二月四日の暴風雨のために倒壊してしまったので、工事中止のやむなきにいたり、さらに牛込横寺町九番地に敷地を改めて、七ヵ月目に完成したのであった。「幾多の困難を排して予定を実現するに到ったのは当事者一同密かに誇りとするところである」と控え目に喜びを語っているだけである(払下げの入札価格と建築費その他でだいたい七千円と推定される)。

闇の力 ロシアの作家L.トルストイの戯曲。愚かさにより父殺しと嬰児殺しへと転落する人間を描いた戯曲。須磨子はアニーシャ役で、裕福な百姓の妻です。
識者 しきしゃ 物事の正しい判断力を持っている人。見識のある人。有識者
一昔半 一昔は10年前。一昔半は15年の昔
縊死 いし。首をくくって死ぬこと。首つり死。縊首(いしゅ)
いかがわしい 下品でよくない。風紀上よくない
暗の女 娼妓の仕事をする女性。私娼

清風亭|赤城神社

文学と神楽坂

 神楽坂の「清風亭」という場所があります。具体的にはどこにあったのでしょうか。インターネットの「西村和夫の神楽坂」では

 赤城神社の境内の突き当たりにかって清風亭という貸し座敷があった。ここは坪内逍遥を中心に早稲田の学生らが脚本の朗読や舞台稽古に使った所で、後の「文芸協会」の基礎を作ったところである。その後清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に変わり、広津和郎など同時代(大正6年頃)の多くの早稲田の文士が住んでいた。広津和郎などはわざわざ神楽坂の銭湯まで来たという話が残っている。
 また加能作次郎氏の『早稲田神楽坂』では「赤城神社の清風亭」ではなく「江戸川の清風亭」について書かれています。別ですが、まあ参考までに。
 江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つの古蹟だったといってもいい位だ。早稲田の学生や教授などの色々の会合は、多くそこで開かれたものだが、殊に私などの心に大きな印象を残しているのは、大正二年の秋、島村先生が遂に恩師坪内先生の文芸協会から分離して、松井須磨子と共に新たに芸術座を起した根拠地が、この江戸川の清風亭だったということである。
 もう1つ、芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社)では「二八、明治文学史上ゆかりの清風亭跡」としてこう書いてあります。
(赤城神社)は、牛込氏が建てた神社である。ここから、江戸川低地や小日向台地の眺望がよい。この境内西の石段上の崖に面した空地に、明治のころ清風亭という貸座敷があった。
 そこは、明治文学史上重要なところで、坪内逍遥の芝居台本朗読会や実演の稽古、俗曲研究会か開かれたり、文学関係の会合が開かれたところである。
 この清風亭は、石切橋に新築して移り、建物は、長生館という下宿屋になるが、そこに片山伸や近松秋江などが下宿していたことがある。
 また「四八、芸術座発祥の清風亭跡(文京区水道町二七)」では
 千代田商会前からさらに西に進むと神田川に架る石切橋がある。ここは文京区水道町であるが、この橋東寄りに明治末年から大正時代にかけて清風亭という貸し席があった。もと赤城神社境内にあった(二八参照)ものである。
 ここは、島村抱月の芸術座の発祥地である。大正二年の秋、恩師坪内逍遥の文芸協会から分離した抱月を擁護する早稲田の同志七、八十名が集まり、主幹、幹事、評議員を選出し、新劇団名の芸術座が決定したのであった(二七参照)。
〔参考〕 大東京繁昌記山手篇  随筆松井須磨子  早稲田の下宿屋
 渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」では
 ところで境内のいちばん奥にあたる北隅にある崖を臨んで、明治のころ「清風亭」という貸席があった。明治三十八年(一九〇五)に、早稲田大学で教えていた文学者坪内逍遥が芝居台本の朗読会と俗曲研究会の会合を開き、易風会と名付けて()(げき)妹背(いもせ)(やま)」という三大狂言にならぶ傑作の歌舞技に移行されたものを演じている。これがのちに文芸協会のいしずえを築いた由緒ある貸席であった。この清風亭が江戸川べりの石切橋へ移転する。そのあと「長生館」という下宿屋になり、作家たちが住むことになる。
「神楽坂まちの手帖」編集長の平松南氏が書いた『神楽坂の坂』では
 赤城神社宮司夫人であり、境内にある赤城幼稚園の園長先生でもある人にお話を伺った。
「もとは群馬県の赤城にあった社殿がまず早稲田に、それからここへ移されました。 戦災でこのあたりも焼け野原、今の社殿は戦後再建されたものですし、落雷で大きな穴のあいた大銀杏があったんですが、やはり戦火にやられました。 巨大なやけぼっくいになった大銀杏のずっとむこうに富士山が見えて、 それはきれいでした。戦前のことはよく知りませんが、今幼稚園があるあのあたりに清風亭という料亭があって、坪内逍遥が新劇運動の場に利用したとか。のち下宿屋になって、近松秋江や片上昇(たぶん片山伸の間違い)が寄宿したそうです」
「この境内西の石段上の崖に面した空地」の場所と、「境内のいちばん奥にあたる北隅にある崖」の場所と、「幼稚園があるあのあたり」の場所はちょっと(本当はかなり)違うような気がします。「この境内西の石段上の崖に面した空地」は現在も空き地が残り、一部に建物が建っています。
 さらに、もうひとつ、新宿区が作った『新宿文化絵図―重ね地図付き新宿まち歩きガイド』ではまったく違う場所(丸い赤円)が清風亭になっています。この「江戸・明治・現代重ね地図」では「『内務省地理局東京実測全図』『東京郵便地図』『東京明覧』等の資料を基に、明治40年(1907)前後の明治地図を復元」して作ったものになっています。これではこの場所は昔の番号で赤城元町35になり、坂の中腹です。赤城神社本体は赤城元町16でないといけません。石切橋に移転する前にここにいたことがあるのでしょう。清風亭1
 でも、よく見てみると、この形で記念碑のそばの建物(赤の矢印)だけが清風亭だと思います。左隣記念碑は記念碑を表し、ここでは昭忠碑なのでしょう。昭忠碑とは日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫したもので、平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去しました。したがって、「この境内西の石段上の崖に面した空地」の建物や、「境内のいちばん奥にあたる北隅にある崖」近くの建物はここしかありません。 さらに 野田宇太郎氏は「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)を書き、そこに清風亭の跡(写真)をだしてました。キャプションでは「赤城神社の丘より早稲田方面の展望。手前の空地が近松秋江などが下宿してゐた長生館の跡」となっています。やはり上の赤の矢印の建物が清風亭でした

戦争直後の野田宇太郎氏の「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)

 もうひとつ、赤城幼稚園ってどこなの? 赤城幼稚園は平成20年(2008年)まで残っていました。赤城神社の老朽化が進み、建て替えが必要で、その際、赤城幼稚園も閉園したのです。左図は2000年ころの図です。赤城幼稚園はきちんとありました。右は現在です。なんと大きなマンションになっています。赤城幼稚園

大東京繁昌記|早稲田神楽坂14|矢来・江戸川

文学と神楽坂


矢来・江戸川
 その頃のことを追想すると、私は今でも心のときめくような深い感慨をもよおさずにいられない。芸術座創立前後における、私達島村先生の周囲に集まった者等の異常な感激と昂奮とは別としても、私自身も一度は舞台に立とうかなどと考えて、同好同志の数氏と毎日その清風亭に集まり、島村先生や須磨子について脚本の朗読を試みたり、ゴルキイ「夜の宿」などを実際に稽古をしたりしたものだった。私はルカ老人の役にふんし、最早大分稽古も積んで、もう少しで神楽坂の藁店高等演芸館で試演を催そうとしかけたのであった。その高等演芸館が今の牛込館になったのであるが、当時そこには藤沢浅二郎俳優学校が設けられていたり、度々創作試演会が催されたりしたもので、清風亭は別として、この藁店の牛込高等演芸館といい余丁町坪内先生の文芸協会といい、横寺町の島村先生の芸術座といい、由来わが牛込は日本の新劇運動に非常に縁故の深い所だ。

矢来交番

芸術座 第一次は島村抱月(ほうげつ)、松井須磨子(すまこ)を中心とした芸術座。1913年(大正2年)、島村抱月松井須磨子とのスキャンダルがあり、坪内逍遥の文芸協会を脱退し、2人は相馬御風、水谷竹紫、沢田正二郎らと共に劇団「芸術座」(第一次芸術座)を結成。1918年(大正7年)11月、島村がインフルエンザ(スペイン風邪)で急死、2か月後には松井が後を追って自殺。芸術座は解散。
清風亭 この頃の清風亭は、赤城神社内ではなく、石切橋に新築しています。
ゴルキイ マクシム・ゴーリキー(Максим Горький)。ロシアの作家。生年は1868年3月28日(ユリウス暦3月16日)。享年は1936年6月18日。
夜の宿 劇は「どん底」と同じ。1902年作。帝制末期のモスクワの木賃宿に住むどん底の人々の生活を描きました。1910年(明治43)12月の自由劇場の公演名は「夜の宿」。1922年2月、1回だけ「どん底」に変更。1936年9月、新協劇団があらためて「どん底」と題し、 以後、その名で呼ばれることになります。
ルカ老人 「どん底」の登場人物ルカは60歳の巡礼者。途中から現れてどん底にいる住人たちを一人一人勇気づけ、未来への希望を願うといいます。
藁店 神楽坂通りに神楽坂五丁目の南に曲がる道を上に登る坂道のこと。標柱もあり、「この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた」と書いてあります。詳しくはここで
高等演芸館 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では「藁店わらだなに江戸期から和良わらだな亭という漱石も通った寄席がありました。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを自費で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設。
牛込館 藁店の中腹にあった映画館。以前は高等演芸館・東京俳優養成所。
藤沢浅二郎 ふじさわあさじろう。俳優、劇作家、ジャーナリスト。生年は慶応2年4月25日(グレゴリオ暦 1866年6月8日)。享年は1917年3月3日。
俳優学校 1908年(明治41年)11月11日、藤沢浅二郎は自費で牛込に東京俳優養成所を開設。1910年(明治43年)、東京俳優学校と改称、「かぐらむら」今月の特集「藤澤浅二郎と東京俳優学校」では「第2期、第3期の生徒は合わせて十数名に過ぎず、家賃の滞納が続き、ついに佐藤から牛込高等演芸館の使用を断られてしまう。明治44年12月に閉校解散となった」。詳しくはここで
余丁町 坪内逍遥が新劇活動を行った場所は余丁町7でした。「坪内逍遥旧居跡(文芸協会演劇研究所跡)」と書いた標識板もあります。
文芸協会 坪内逍遥、島村抱月を中心に結成された文化団体。新劇運動の母体になりました。
横寺町 新宿区の北東部の町。北部は神楽坂6丁目に接し、北東部は岩戸町、南東部は箪笥町、南部は北山伏町、西部は矢来町に接する。主に住宅地。

 矢来の通りは最近見違えるほどよくなった。神楽坂の繁華がいつか寺町の通りまで続いたが、やがてこの矢来の通りにまで延長して、更に江戸川の通りと連続すべき運命にあるように思われる。消防署附近に、矢来ビルディングなるハイカラな貸長屋が建ち、あたりも大変明るい感じになった。そしてカッフエその他の小飲食店も沢山軒を並べて、この辺はこの辺だけで又一廓の小盛り場をなすが如き観を呈しているが、ここまで来ると、その盛り場は最早純然たる早稲田の学生の領域である。私の同窓の友人で、かつてダヌンチオの戯曲フランチェスカの名訳を出し、後に冬夏社なる出版書肆しょしを経営した鷲尾浩君も、一昨年からそこに江戸屋というおでん屋を開いている。私も時偶ときたまそこへ白鷹を飲みに行くが、そののれんを外にくぐり出ると、真向の路地の入口にわが友水守亀之助君経営の人文会出版部標木が、闇にも白く浮出しているのが眼につくであろう。仰げば近く酒井邸前の矢来通りに、堂々たる新潮社の四層楼が、わが国現代文芸の興隆発達の功績の三分の一をその一身に背負っているとでもいいたげな様子に巍然ぎぜんとして空高く四方を圧し、経済雑誌界の権威たる天野博士の東洋経済新報社のビルディングが、やや離れて斜に之と相対しているが、やがてこの二大建築の中間に、丁度三角形の一角をなして、わが水守君の人文会の高層建築のそびえ立たん日のあるべきを期待することは甚だ愉快である。

矢来の通り 早稲田通りのうち牛込天神町交差点から矢来町の終わるまでの通り。
寺町の通り 早稲田通りのうち神楽坂6丁目(以前は通寺町)に入る通り。
江戸川の通り 牛込天神町交差点から江戸川橋交差点までの通り。現在は「江戸川橋通り」、あるいは「奥神楽坂」。ここには明治・大正の呼び方を書いておきます。
神楽坂・矢来・江戸川 消防署 矢来町104にありました。現在は「高齢者福祉施設 神楽坂」です。
矢来ビル… 場所は不明
ハイカラ 西洋風で目新しくしゃれていること。丈の高い襟という意味の英語「high collar(ハイカラー)」に由来します。明治時代に、西洋帰りの人や西洋の文化や服装を好む人が、ハイカラーのワイシャツを着ていたことから。
一廓 いっかく。一郭。一廓。一つの囲いの中の地域。あるひと続きの地域
学生の領域 戦前、早稲田大学は神楽坂に大きな力を持っていました。しかし、戦後になると、多くの早稲田学生は高田馬場や新宿に流れていきます。
ダヌンチオ ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D’Annunzio)。イタリアの詩人、作家、劇作家。生年は1863年3月12日。享年は1938年3月1日。
フランチェスカ 戯曲Francesca da Rimini(フランチェスカ・ダ・リミニ、1901年)は劇作家ダンヌンツィオの作品。ほかにはLa Città morta(死都、1898年)など。
冬夏社 日本橋区本銀町2丁目8番地にありました。
書肆 書物を出版したり、また、売ったりする店。書店。本屋。江戸期初め民間で出版活動がはじまってから明治初期までは、板元はんもと(版元、書肆しょし、本屋)が編集から製作、卸、小売、古書の売買を一手におこなっていました。
鷲尾浩 早稲田大学文学士でした。冬夏社を営んだため、自宅は冬夏社の住所と同じ。鷲尾浩氏の翻訳は『マーテルリンク全集』以外は、ほぼ性愛、性欲、色情に関するものばかり。『性愛の技巧』『性欲研究名著文庫』『風俗問題』『性慾生活』『色情表徴』『男と女』『恋愛発達史の新研究』『人間の性的撰択』『純潔の職能と性的抑制』『性的感覺』『性的道徳と結婚』『姙娠の心的状態』『愛と苦痛』『性教育と性愛の価値』『売淫と花柳病』。
江戸屋 尾崎一雄氏の『学生物語』(1953年)の「神楽坂矢来の辺り」には「矢来通リの、新潮社へ曲る角の曲ひ角を少し坂寄りの辺に、江戸屋といふおでん屋があった。鷲尾(のちに雨工)氏夫妻が経営してゐた。」と書いてあります。正確な場所は牛込区矢来町22番地です。
白鷹 はくたか。灘の酒です。関東総代理店は神楽坂近くの升本酒店でした。
水守亀之助 みずもりかめのすけ。大阪の医専を中退して、1907年、田山花袋に入門。1919年、中村武羅夫の紹介で新潮社に入社し、『新潮』編集部に。編集者の傍ら、『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と共に新潮三羽烏といわれました。生年は1886年6月22日。没年は1958年12月15日。享年は72歳。
人文会出版部 国会図書館で調べると、人文会出版部の以前の住所は矢来町3番目。この3番目は大きすぎて、わかりません。しかし、新規の番号に再制定され、新しい番号は矢来町66番地でした。この図(火災保険特殊地図、昭和12年)では階段から上に登ったところが66番です。下の図では現在の66番ですが、ちょうど新潮社のLa Kaguの大きなテラスだけになっています。 人文会
標木 ひょうぼく。目印にする木
酒井邸 江戸時代は小浜藩酒井家。明治時代は酒井邸になります。
新潮社 昭和12年の「火災保険特殊地図」によれば、この当時の新潮社は矢来町71番地だけでした。(現在は膨大な場所です)。しかし下の図では下の青い四角。
巍然 ぎぜん。高くそびえ立つさま。抜きんでて偉大な様子。
天野 天野為之(あまの ためゆき)。明治・大正・昭和期の経済学者、ジャーナリスト、政治家、教育者、法学博士。衆議院議員、東洋経済新報社主幹、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長を歴任。生年は1861年2月6日(万延元年12月27日)。享年は 1938年(昭和13年)3月26日。
東洋経済新報社 1895年に創立し、『週刊東洋経済』や『会社四季報』などを手がけました。1907年から1931年までは牛込区天神町6番地に社屋がありました。下図では左上の青い四角です。中央の青い四角は人文会出版部、下の青い四角は新潮社です。

新潮社など

牛込区全図、昭和5年

 江戸川通りの発展こそは、わが牛込においては殆ど驚異的である。早稲田線の電車が来ない以前は、低湿穢小なる一細民窟に過ぎなかったが、交通機関の発展は、今やその地を神楽坂に次ぐの繁華な商店街となし、毎晩夜店が立って、その賑かさはむしろ神楽坂をしのぐの概がある。矢来交番前に立って、正面遠く久世山あたりまで一眸いちぼうに見渡した夜の光景も眼ざむるばかりに明るく活気に充ちているが、音羽護国寺前からここまで一直線に来るべき電車の開通も間があるまじくそれが完通の暁には、更に面目を一新して一層の繁華を増すことであろう。

低湿穢小 土地は低く、湿気は多く、きたなく、小さい
細民窟 貧しい人たちが集まり住んでいる地域。貧民窟
久世山 くぜやま。石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』では「八幡坂(はちまんざか)は音羽一丁目と小日向二丁目の境界にあたる。この坂の上は通称久世山とよぶ。小日向の高台で、江戸時代は下総国関宿の藩主久世氏の広大な下屋敷があったので久世山の名が起った」。久世山は小日向台地の1部です。
音羽護国寺前 最北部は交差点「護国寺前」。目白通りから南方に向かってくると音羽になります。
電車 都電(市電)のことで、「矢来下」停留場まで来ていました。
あるまじく あってはならない。
繁華 人が多く集まってにぎやかなこと

 それにつけて思い出されるのは江戸川の桜衰微である。これは東京名所の一つがほろびたものとして、何といっても惜しいことである。あの川をはさんだ両側の夜桜の風情の如き外には一寸見られぬものであったが、墨堤ぼくていの桜が往年の大洪水以来次第に枯れ衰えたと同様に、ここもまた洪水の犠牲となったものか、あの川の改修工事以来駄目になってしまった。その代りというわけでもないが、数年前に江戸川公園が出来て、児童の遊園地としてのみならず、早稲田や目白あたりの学生の好個の遊歩地としていつも賑っている。時節柄関口の滝の下の緑蔭下に、小舟にさおし遊ぶ者もかなり多いが、あれが江戸川橋からずっと下流の方まで、両側の葉桜の下の流れを埋めて入り乱れ続いていた一頃の如き賑いは見られないようだ。行く川の流れは元のままにしてしかも元の水にあらずか?

江戸川の桜 文京区の「江戸川公園」では次のようになっています。

明治17年(1884年)頃、旧西江戸川町の大海原氏が自宅前の土手に桜の木を植えました。それがもとで、石切橋から大曲まで、約500メートルの両岸にソメイヨシノなどの桜が多いときで241本あり、新小金井といわれ夜桜見物の船も出て賑わっていました。その後神田川の洪水が続き、護岸工事に伴って多くの桜は切られました。江戸川公園から上流の神田川沿いには、河川改修に伴い、昭和58年(1983年)に新たに桜の木が植えられ、現在では開花の時期になると多くの花見客で賑わっています。

衰微 勢いが衰えて弱くなること。衰退
墨堤 隅田川の土手
江戸川公園 関口台地の南斜面の神田川沿いに広がる東西に細長い公園

江戸川公園

関口の滝 神田上水は、関口大洗堰で左右に分かれ、左側は上水、右側は余水の江戸川となり、関口から飯田橋までは江戸川、飯田橋から浅草橋までは神田川と呼びました。1965年(昭和40年)の法改正で、両川とも神田川に。『江戸名所図会』ではこの大洗堰は「目白下大洗堰」として紹介されています。1937年(昭和12)、改修時、大洗堰はなくなり、跡には大滝橋が架けられています。
緑蔭 木の青葉が茂ってできるひかげ。こかげ。季語は夏
葉桜 花が散って、若葉の出はじめた桜。季語は夏

大東京繁昌記|早稲田神楽坂13|追憶

文学と神楽坂

追憶

私は毘沙門前の都寿司の屋台ののれんをくぐり、三、四人の先客の間にはさまりながら、二つ三つ好きなまぐろをつまんだ。この都寿司も先代からの古い馴染なじみだが、今でも矢張り神楽坂の屋台寿司の中では最もうまいとされているようだ。
 寺町の郵便局下のヤマニ・バーでは、まだ盛んに客が出入りしていた。にぎやかな笑声も漏れ聞えた。カッフエというものが出来る以前、丁度その先駆者のように、このバーなるものが方々に出来た。そしてこのヤマニ・バーなどは、浅草の神谷バーは別として、この種のものの元祖のようなものだった。

都寿司

都寿司 織田一磨作の神楽阪(1917)(「東京風景」より )には都寿司は次の絵のように載っています。

織田一磨:「東京風景」より 神楽阪(1917)

また、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では現在の「福屋せんべい」の前に寿司がありました。

神楽坂と縁日市

郵便局 神楽坂6丁目にあった「音楽之友社別館」が以前の郵便局でした。
ヤマニバー 菊池病院のすぐ右、現在「水越商事KK」で、衣料品を売る「7Day’s」と書いた建物が昔のヤマニバーでした。細かくはここで
神谷バー 創業明治13(1880)年。日本初のバー。ずっと浅草1丁目1番地で。2011年(平成23年)、神谷ビル本館は登録有形文化財に

その向いの、第一銀行支店の横を入った横寺町の通りは、ごみ/\した狭いきたない通りだがちょっと特色のある所だ。入るとすぐ右手に閻魔えんまがあり、続いて市営の公衆食堂があり、昔ながらの古風な縄のれんに、『官許にごり』の看板も古い牛込名代の飯塚酒場と、もう一軒何とかいう同じ酒場とが相対し、それから例の芸術座跡のアパートメントがあり、他に二、三の小さなカッフエや飲食店が、荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋といったような家がごちゃごちゃしている間にはさまり、更にまた朝夕とう/\とお題目の音の絶えない何とかいう日蓮宗のお寺があり、田川というかなり大きな草花屋があるといった風である。そして公衆食堂には、これを利用するもの毎日平均、朝昼夕の三度を延べて四千人の多数に上るという繁昌振りを示し、飯塚酒場などには昼となく晩となく、いつもその長い卓上に真白な徳利の林の立ち並んでいるのを見かけるが、私はいつもこの横町をば、自分勝手に大衆横町或はプロレタリア食傷新道などと名づけて、常に或親しみを感じている。

 新宿区横寺町交友会『よこてらまち今昔史』(00年)の「昭和10年頃の横寺町」を見ていきます。横寺町

第一銀行支店 現在は「スーパーキムラヤ」です。これは、まあちょっと高級なスーパーです。上の図では最も右で、青灰色です。
お閻魔様 正蔵院のこと。丸形で色は濃紺色。
市営の公衆食堂 「神楽坂公衆食堂」です。薄緑色で。
飯塚酒場 現在は普通の家ですが、長い間酒場をやっていました。薄茶色です。
同じ酒場 新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(2000年)の「昭和10年頃の横寺町」では「1. 米屋 2.パーマネント 3. 公証人役場 4.目覚し新聞 5.マッサージ業 6.靴修理店 7.歯医者 8.若松屋 9.大工職 10.洋服店」で、昭和10年頃で「同じ酒場」はありません。若松屋が何を指しているのか分かりませんが、酒場ではないようです。若松家であればテキヤの1つ。テキヤとは縁日など人出の多いところなどで、居合抜き、独楽回し、手品、曲芸などの見世物を演じ、各種の薬品,商品を売る者。なお、横寺町の「もきち」(居酒屋)はこの時はまだ生まれていません。この横寺町の「もきち」は「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」にでています。
芸術座跡 座長の島村抱月が大正7年12月、スペインかぜで死亡し、大正8年1月、1か月後に主演女優の松井須磨子氏は自殺し、2人を失った芸術座もこれでなくなり、松井須磨子氏の兄、小林さんのアパート(芸術倶楽部跡)になりました。紫色
荒物… 「荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋」は「荒物屋、染物屋、女髪結、製本屋、質屋」のこと。荒物屋は「家庭用の雑貨類を売る商売や店」で、別名は「雑貨屋」。以下のイラストでは赤で書いてあります。横寺町はあらゆる店があり、なんでも売っていたようです。
日蓮宗のお寺 円福寺です。黄色で。現在も円福寺はあります。
田川 花屋の田川は青色で。現在はありません。

私は神楽坂への散歩の行きか帰りかには、大抵この横町を通るのを常としているが、その度毎に必ず思い出さずにいられないのは、かの芸術座の昔のことである。このせまい横町に、大正四年の秋はじめてあの緑色の木造の建物が建ち上った時や、トルストイの『闇の力』や有島武郎の『死とその前後』などの演ぜられた時の感激的な印銘は今もなおあざやかに胸に残っているが、それよりもかの島村抱月先生の寂しいいたましい死や、須磨子の悲劇的な最期やを思い、更に島村先生晩年の生活や事業やをしのんでは、常に追憶の涙を新たにせざるを得ないのだ。

芸術座 げいじゅつざ。島村抱月、松井須磨子を中心とした第一次芸術座と、水谷竹紫、水谷八重子を中心とした第二次芸術座があります。これは第一次芸術座のほう。
トルストイ レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич ТолстойLev Nikolayevich Tolstoy)。帝政ロシアの小説家、思想家。生年は1828年9月9日(ユリウス暦8月28日)。没年は1910年11月20日(ユリウス暦11月7日)。
闇の力 愚かさにより父殺し・嬰児殺しへと転落する人間を描いた戯曲。須磨子はアニーシャ役で、裕福な百姓の妻です。
死とその前後 大正7年10月、須磨子は有島武郎の「死と其(その)前後」の妻役で好評を博しました。
印銘 いんめい。 公私の文書に押して特有の痕跡(印影・印痕)を残すこと。
傷しい死 島村抱月はスペインかぜ(新型インフルエンザ)で、大正7年11月5日に死亡し、翌8年1月5日、松井須磨子氏は自殺します。

私の追想は更に飛んで郵便局裏の赤城神社の境内に飛んで行く。あの境内の一番奥の突き当りに長生館という下宿屋があった。たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てて小石川の高台を望んだ静かな家だったが、片上伸先生なども一時そこに下宿していられた。大きなけやきの樹に窓をおおわれた暗い六畳の部屋だったが、その後私もその同じ部屋に宿を借り、そこから博文館へ通ったのであった。近松秋江氏が筑土の植木屋旅館からここの離れへ移って来て、近くの通寺町にいた楠山正雄君と私との三人で文壇独身会を発起し、永代橋都川でその第一回を開いたりしたのもその頃のことだった。

赤城神社 現在は赤城元町1-10。700年にわたり牛込総鎮守として鎮座しています。
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。しかし、清風亭はどこにあるのか、いろいろ説がありますが、細かくはここで
博文館 はくぶんかん。東京都の出版社。明治時代には富国強兵の時代風潮に乗り、数々の国粋主義的な雑誌を創刊。取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社などの関連企業を次々と創業し、戦前は日本最大の出版社に。
筑土の植木屋旅館 近松秋江がここに来る前は筑土の植木屋旅館だったといいます。場所は不明。筑土とは「津久戸」なのか、「筑土八幡町」なのか、合わせてそう呼んだのか、わかりません。
楠山正雄 くすやま まさお。1884年11月4日 – 1950年11月26日。演劇評論家、編集者、児童文学者
永代橋 都川えいたいばし。隅田川にかかる橋で、地上には永代通り、地下には東京メトロ東西線が通っています。この図は東京紅團(東京紅団)の『パンの会を歩く』 http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm からとりました。実際は巨大な地図が東京紅團(東京紅団)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/ にあります。
都川 都川も上図で。

その長生館の建物は、その以前清風亭という貸席になっていて、坪内先生を中心に、東儀土肥水口などの諸氏が脚本の朗読や実演の稽古などをやって、後の文芸協会もとを作った由緒ゆいしょづきな家だったそうだ。そしてその清風亭が後に江戸川べりに移ったのだが、実際江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つの古蹟だったといってもいい位だ。早稲田の学生や教授などの色々の会合は、多くそこで開かれたものだが、殊に私などの心に大きな印象を残しているのは、大正二年の秋、島村先生が遂に恩師坪内先生の文芸協会から分離して、松井須磨子と共に新たに芸術座を起した根拠地が、この江戸川の清風亭だったということである。

清風亭 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋になりました。しかし、赤城神社内で清風亭はどこあったのか、いろいろ説がありますが、細かくはここで
貸席 料金を取って貸す座敷
土肥 土肥春曙。どひしゅんしょ。明治2(1869).10.6.-1915.3.2。俳優。1890年東京専門学校 (現早稲田大学) 文科の第1期生として入学。卒業後、新聞記者や母校の講師を経て、1901年川上音二郎一座の通訳兼文芸部員として渡欧。 05年坪内逍遙の脚本朗読会に加わって易風会を興し、翌 06年文芸協会が設立されると技芸監督、中心俳優として活躍。
水口 水口薇陽。びよう。1873-1940。05年坪内逍遙の脚本朗読会に加わって易風会を興し、上演運動を行う。
文芸協会 1906年、坪内逍遥、島村抱月が中心で、演劇のみならず宗教・美術・文学など広範な文化運動を目的として発足。09年演劇研究所を設立して演劇団体に。1913年、解散。
江戸川の清風亭 清風亭は石切橋に転移しました。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』「28、明治文学史上ゆかりの清風亭跡」(三交社)では「この清風亭は、石切橋に新築して移り、建物は、長生館という下宿屋になる」と書いてあります。石切橋は
石切橋
古蹟 こせき。古跡とも。歴史に残るような有名な事件や建物などのあと。遺跡。旧跡。古址こし

松井須磨子|長田幹彦『青春時代』

文学と神楽坂

長田幹彦 長田幹彦氏(1887/3/1-1964/5/6)は小説家で、長田秀雄の弟にあたります。早稲田大学英文科卒業。炭鉱夫や鉄道工夫、旅役者になり、各所を放浪。小説「みお」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名でした。この『青春時代』は昔を思い出して昭和27(1952)年に書いたものです。そこに女優の「須磨子の思い出」という1章がありました。

僕は今でもときどき、いつたい松井須磨子という女優は、ほんとのところどんな女だつたんだろうと、ひとりで首をひねることがある。今までに僕が逢った幾千幾百の女人のあるなかでとにもかくにも、どうしても忘れることの出来ないひとりであるというだけでも彼女が何かしらそれに価する何ものかをもつていたことは確実である。
 たしかにただの平凡な女じやなかつた。いかに事情がどうあろうと、あれだけの名声を博した人気女優が首をつツて死ぬなんていうことが、仇やおろそかに出来るものじやない。これは同じような死にかたをしたあの声楽家の関屋敏子と同様、大正昭和の芸術史に特筆大書さるべき存在であつたことは、私といえども是認しないわけにはいかない。
 人は須磨子を語る際に、必ず磨かれたる野性というようないいかたをする。野性ということは、とりもなおさず新鮮な田舎ものということである。これもたしかに一面のみかたには相違ないが、僕は決して磨かれたとは思わない。そんな妥協性のある女ではなかつた。彼女は初めて舞台をふんでから死ぬ日まで、生地のままの野性一本で通してきたのだ。舞台以外の生活では、それがむき出しに出ていた。およそ「女優」なんていう範ちゆうから遠くはなれた、洗練されない、素材のままの田舎ツペであつた。むしろその点に、敬意と魅力とを感じている。

松井須磨子 まついすまこ。1886(明治19)年3月8日-1919(大正8)年1月5日。新劇女優。
首をつる 松井須磨子氏の死亡は満33歳、死因は縊死です。河竹繁俊氏の「逍遙、抱月、須磨子の悲劇」では

 須磨子は明治座の舞台を、初日だけ大谷の好意で預かってくれたので休み、葬儀の日の二日めからは舞台をつとめ、観客の同情をひいた。でも、ともすれば舞台で泣いてしまうので、(二世)猿之助が「舞台ですよ」と一度たしなめたら、とめどもなく泣かなくなったとは、猿之助の直話である。
 当然ながら、芸術座は動揺した。須磨子自身の不安動揺はさらに大きかった。野性ぶりも影をひそめて、あるしおらしささえ、人々の目についた。が、松竹との提携という条件のためには、東京を打ち上げると、翌月は横浜伊勢崎町の横浜座と横須賀の横須賀座とで「生ける屍]と「帽子ピン」とを、翌年は一月一日から東京の有楽座で、中村吉蔵作の「肉店」とメリメ原作・川村花菱脚色の「カルメン」とを開演しなければならなかった。が、その月の五日の明け方須磨子は芸術クラブの舞台裏の小道具部屋で、縊死して抱月のあとを追ったのであった。

仇やおろそか あだおろそか。あだおろそか。他人の恩恵や物の価値を軽視するさま。いいかげん。
関屋敏子 せきやとしこ。生年1904年3月12日。享年1941年11月23日。声楽家、作曲家。自宅で睡眠薬により自殺した。
妥協性 対立した事柄について、双方が譲り合って一致点を見いだし、おだやかに解決すること

 大正初期の夜11時、長田幹彦氏は京都の三島亭で松井須磨子氏と島村抱月氏を待っていました。1座の公演が終わって、やがて2人がやってきて、舞妓も加えて宴会が始まります。

そこへ例の大久保さんが、私の声がするといつて、先隣りの座敷から盃を持つて遊びにやつて来た。大久保さんは酔うと裸踊りをやる癖があつた。真白な餅肌なので、それが自慢であつた。(略)
 須磨子は大胆に大久保さんの裸体を検討しなから、
『ねえ、長田さん、私、あんなきれいな肌をした男の人、はじめて見たわ。さぞ芸妓さんにもてるでしようね。あんなことをして恥ずかしくないのかしら』
と、まんじりともせずに一物ばかり見入つている。女は二十四五になっても、あんな眼で男の体をみることはなかなか出来るもんじやなかつた。
『いや、大久保君という男は、有名な色事師でね。あすこに坐っている松菊つていう年増芸者がいるでしよう。あれとそうなんだよ。いつもこの手で女を参らせるのさ。』
 と、耳打ちをすると、須磨子は島村先生の方をみながら、
『そこへいくと先生なんか、とても貧弱ね。ごつごつしてるわ。干ものみたい。ほゝゝゝ』
 と、変に含み笑いをする。
 僕はまえからそう感じていたが、須磨子はその点ではいつも島村先生に不満を感じていたらしいのである。島村先生はああいつた寡默な、どつちかというと陰性な、内省的な人柄であつたが、しかしそれだけに発揚性でない情熱はずいぶん激しかつた。教授生活から開放されて、いうところの芝居ものになられたのだから、一時は失礼ながらかなり脱線もしていられた。
 酒数行に及ぶと、丁度春に眼覚めた中学生のような稚拙な態度で、われわれバツトボーイどものワイ談に口を入れられる。それが変にいじらしい感じだつた。私たちは人間が古風にできあがつているから、早稲田の講堂であの七むずかしい美学の講義を聴聞した先生に、いかに何んでも娼妓をとりもつなどという悪ふざけはいたしかねた。

先隣り さきどなり。隣のもう一つ先。
長田 長田幹彦のこと。この文章の作者
島村 島村抱月。しまむらほうげつ。生年1871年2月28日(明治4年1月10日)。没年1918年(大正7年)11月5日。文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人。
発揚 はつよう。精神や気分を高めること
芝居もの しばいもの。芝居者。役者。俳優。劇場で働く人。劇場関係者。
稚拙 ちせつ。幼稚で未熟なこと

 やがて午前2時を回り、このまま、みんなで雑魚寝をしようと話がまとまります。

須磨子は何と思つたか寝たまま、ついと手をのばして、そこの盆のうえへのせてあった林檎を鷲づかみにすると、皮もむかずにがじがじかじりだした。みるみるうちに芯ものこさずきれいに平げてしまう。
 舞妓や芸妓は眼をまるくしてみていたが、ひとりが、
『林檎おあがりやすのやつたら、むいてもろうてきまほか』
 と、いうと、須磨子は、不機嫌な調子で、そつぽを向いたまんま、
『私、歯が丈夫だから、皮ごとたべないと食べた気がしないのよ。長田さんのバカ。長田さんなんてダメよ。こんな窮屈な遊びをして、お金ばかりつかつて、何が面白いんだろう。大久保さん、私、好きよ。よつぽどあの方が自然でいいわ。ねえ、先生、誰が何んてつたつて、いいじやないの。さ、こつちを向いてよ』
 と、舞台のカルメンそつくりのわが儘いつぱいな声でずけずけいう。声の調子まできつくなつてくる。
 舞妓たちはすつかりおびえて、僕のそばへ寄つてきながら、
『長田はんのバカやいうてはりますえ。きついこといわはるえな。あんな女優はんてあるやろか』
 と、ひそひそささやきあつている。
『そうかてな、あて、こないだ大吉はんでしらしてもろた。その時には、須磨子はん男はんみたいに、あてを廊下でぎゆうツと抱きしめはつた。口臭いの。うち、あんなんいややわ』
『ほゝゝゝゝ。いやらしやの。先生とーしよに寝たりしてからに。行儀わるいな』
 もうさんざんである。(中略)
 須磨子はしまいにはあぐらをかいて、
『ねえ、長田さん。今夜あたし、京都の舞妓と二人つきりで雑魚寝したいんだけど、いくらお金がかかるでしよ。十円じや、だめかしら』
『いや、そういう風趣は、松井君にやわからんよ。ムダだからよしたまえ』
『ううん、分るわ。わかつてよ。ぜひそうさせて。舞妓を買うのよ。女だつて買えるでしよ』
『そりや君が寝たいといえば、どんないい舞妓だつて、寝てくれるよ。いまの君の人気だもの』
『そうかしら。ただで』
『金のことをいうなよ。ただし夜の十一時から先の問題は島村先生のお許しか出ないとうつかりしたことは出来ないからね。はゝゝゝゝ』
 島村先生もだいぶきこしめしたので、眼がうるんでいて、例のうすい鬚でふふと笑いながら、
『そりや松井君、長田君に頼んでおけば、上手にアレンジしてくれるさ。電話ひとりで解決がつくですよ』
 須磨子は、ヤマのはいつた雪輪か何かの帯の間から、の三つ折の紙幣入を出してみせながら、
『お金ならあるわよ』と、いこじになってまたビールを飮む。
 あんなにやたらと酢味噌をたべて、ビールを呷つちやきつとあとで気持が悪くなるだろうと思つてみていると、果たして船が下りにかかると、ゲコゲコやり出した。
 島村先生は心配して、
『どうだね。大丈夫かね』
 先生はやさしく介抱してやる。須磨子はまるで駄々ツ子のように酢味噌のはさまつた齒でイイツをして、
『あたし、先生きらいツ。ゲツ。醉ってなんかいやしないわよ。そんなにしつツこくしなくたりて行儀よくしてよ。ゲツ。長田さん、先生つたらね、とても行儀のことうるさくいうのよ。だって仕方がないじやないの。ゲツ。あたしやどうせ信州の田舎で育つたんだもの』
『そうだ。巴御前と戸籍が同じなんだからなあ』
 僕がひやかすと、とたんに、我慢が出来なくなつて、須磨子は肩をくツつけていた僕の膝へげろげろツと勢よくもどした。

大吉 料亭の1つ
雪輪雪輪 ゆきわ。文様の名前。六角形の雪の結晶を円形に表したもの
 しま。縞模様。何本もの線で構成された文様の総称
呷る あおる。酒や毒などを一気に飲む。仰向いてぐいぐいと飲む
巴御前 平安時代末期、信濃国(別名信州)の女性の武将で、信州で育ったという。須磨子も信州で育っている。

 結論はこうなります。

僕のみる限り須磨子という女優は、性格、容貌、肉体、教養、その他あらゆる角度からみて、正直のところ六点二分以上はやれない女だった。もとより生活態度にしたつて映画に出てくるような尤もらしい意義づけは噴飯の至りだし、島村先生とのいきさつだつて、断然あんな「文学」めいたもんじやなかった。
 ところがひと度舞台に立つとグラフはピンとはねあがつてくる。舞台一面に彼女ならではかもし得ぬ雰囲気がほうはくとしてきて、実に惚れぼれするような女になる。役柄の発散する情熱の霧が()()()()として観客を魅了してしまう。したがって下積になつた相手役の努力や、彼女を育成した人たちの苦労は大変なものであつた。まさに一将功成つて万骨枯るである。

噴飯 がまんできずに笑ってしまうこと。もの笑いのたねになるような、みっともない事柄
ほうはく 磅礴、旁礴、旁魄。混じり合って一つになること
あいたい 靉靆。雲やかすみなどがたなびいているさま
一将功成つて万骨枯る いっしょうこうなってばんこつかる。曹松の詩『己亥の歳』に由来。一人の将軍が名を上げた影には、無名のまま犠牲となった一万人の兵士が骨と化して戦場にさらされているという意味から。

島村抱月(2/2)

文学と神楽坂

 明治42(1909)年、坪内逍遥は大隅重信が作った文芸協会を再開し、また、俳優養成を目的にして演劇研究所を設立します。そして、島村抱月氏はその指導講師になります。
 4月18日、演劇研究科の入学試験。合格者は男子12人、女子2人。松井須磨子も1期生でした。
 大学の講義は抱月自身あくびがでるようなつまらない講義でも、演劇研究科の講義になると、抱月の熱意があったといいます。
 大学の講義について、広津和郎氏の『同時代の作家たち』のなかで抱月の講義がいかにもつまらなかったと書いています。

 私は島村抱月(ほうげつ)さんから早稲田で美学の講義を聞いたが、その美学の講義はお座なりで、月並で、そう独創のあるものとは思えなかった。
 島村さんはそれ以前にはもっと勤勉な先生だった時代があるのかも知れないが、私が早稲田で講義を聞いた明治四十三、四年頃には、それは氏の教授としての末期に近い頃であったが、ちょいと類のないほど怠けものの先生であった。学校には休講掲示場なるものがあって先生たちが講義を休む場合には、前以てその旨休講掲示場に掲示するのであるが、島村教授に限って、その休講掲示場に出講掲示がはり出されるのである。つまり何の掲示もない時には島村教授の講義は常に休みであり、たまにめずらしく出講する時には、それが余りに例外な事なので、出講掲示が張り出されるのである。
 私の学生の頃、島村さんは文芸評論家の第一人者の如くいわれていたので、私は島村さんの評論集を読んだ事があったが、たしか「人生観上の自然主義を論ず」という一文には、島村さんの生活の裏側が出ていて、個人から家族、社会と拡がって行く生の重荷に対する憂鬱な溜息を聞く思いがして惹き入れられたが、それ以外は余りにお座なりなので意外な気がした。恐らく島村さんは他人の文学などをこつこつと読み、それを批評するような熱は、文芸批評家としても持っていなかったのであろうと思う。
 島村さんにはまた幾つかの脚本の試作があるが、それも器用にテーマの上をかい撫でた程度のもので、人を打つような創作的熱情は少しも示していない。
 このように講義の美学は中途半端なものであり、評論にも創作にも心を打たれるものはないのに、私は僅かばかり氏の講義に出席して、氏の風貌や述懐から受けた印象が深く心に刻まれ、いまだに忘れられないのである。――それは一つの孤独な生活者、人生の積極面をでなく、その消極面をまじまじと見まもり、その行手に虚無の洞穴(ほらあな)が待っている事を知っていながら、どうしてもそこに向って足をはこんで行かなければならない運命の人の姿を氏に感じたからである。

 自分でも同じことを書いています。

書卓の上
 今朝もテーブルに向つて腰かけたまゝ懐手をして二時間以上ぼんやりしてゐた。何をする気も出ない。かたはらの台の上に取り散してある新刊の雑誌や書籍を、1つ2つ抽き出して明けて見たが、一向に面白くない。
(明治44年)

 何が起こっていたのか。翌年になるとはっきりします。
 大正1(1912)年8月2日、抱月の妻と長女は島村抱月と松井須磨子の関係はどうもおかしいと気がついて、松井須磨子の家を見張っていました。やがで、彼女の家から盛装した須磨子が出てきます。後を追っていくと、新宿駅から高田馬場まで行き、抱月と逢っていました。妻は抱月の「襟元をふんづかまえ」ると、須磨子は「申しわけないことをしました。死んでお詫びします」といい、抱月は須磨子を自宅に帰し、抱月は妻に「死なしてくれ」という、まあ事件が起こります。
 翌日、抱月が前夜に書いた恋文を妻が発見します。「抱きしめて抱きしめて、セップンして、セップンして。死ぬまで接吻してる気持になりたい。まァちゃんへ、キッス、キッス」(妻が中山晋平に命じて写し取らせたもの。河竹繁俊著『逍遥、抱月、須磨子の悲劇』)
 11月、抱月は奈良京都に旅行します。本人がそうしたかったのではなく、頭を冷やせという大学の命令でした。しかし、抱月は途中で東京に帰ってしまいます。
 大正2(1913)年5月31日、須磨子は26歳で演劇研究所の論旨退会になり、抱月も42歳で早稲田大学に辞表を提出。6月4日 抱月と須磨子で結婚を誓う誓紙を交わします。6月9日、坪内と島村などを交えた会見をします。
 事情を完全にはわからないため、早稲田のOBは島村のほうを応援します。結構マスコミも騒いでいたようです。7月3日、抱月と須磨子を中心に「芸術座」の旗揚げが決まります。
 11月、早稲田大学は正式に抱月の辞表を受理します。
 大正4(1915)年8月、芸術倶楽部が完成します。

24時間と僕の生き方
 私も書物に遠ざかつてから、もう三年まぢかになる。其頃の私は、毎日必ず少くとも一度づゝは書斎に閉ぢ籠つて何某教授の何哲學の系統といふやうな厳めしい洋書を引くりかへすのが職業であつた。どちらを向いても削り落としたやうな岩石の谷底に石子責になった心地で論理神経を痛めながら其間を拾って歩く。可なり強かった私の知識慾も後には疲れ切って了つた。私がまだ學校にゐた頃は、此等先哲の蹤を慕ふて、宇宙を包括するやうな高大な哲學系統を、自分の手で建てゝ見たり、壊して見たりして、其事に衷心の敬慕を棒けることが出来た。あの頃の心持も今から考へて憎いものではない。併し私は、段々其『系統』といふものに不快を感することを禁じ得なくなった。學者が最も苦心し努力した所は其『系統』をもとめた點にある。けれどもその結果は決して凡人の到り難いものでも何でもない、剋明に年月を累ねて統理してさへ行けば、私にでも出来る。機織女が、細い絲目を並べて尺を成し丈を成すのと大した相違は無い。
(大正5年『時事新報』)


石子責 罪人を穴に落としてその上に石を載せ続けて殺す、中世、近世の日本の刑罰。

 大正7(1918)年11月5日、抱月はスペイン風邪、インフルエンザで死亡します。47歳でした。

松井須磨子|神楽坂

文学と神楽坂


松井須磨子

 松井須磨子氏は最初の明治・大正の女優です。それまでは女形が女性を演じていました。最後は神楽坂の側の横寺町の『芸術倶楽部』で自殺しました。実は1ヶ月前、元早稲田教授で劇作家の島村抱月氏が、同じ『芸術倶楽部』でインフルエンザにかかって死亡しました。後追い心中でした。
 ふーん、なるほど、そうなんだと考えていると、甘い。まだ本当は何が起こったのか、まだまだ、わかっていません。
 松井須磨子氏は田舎生まれで気が強く、美人では……うーん、いろいろありますが、はい、なく、しかし、しかし、真の女優です。島村抱月氏は気が弱く、現在の早稲田大学を卒業し、文芸評論家で、英国に行きたくさんの舞台を見た劇作家で、恋に悩む考えはここまで外に出さなくてもいいのにと思ってしまいます。
 河竹繁俊氏の『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』(毎日新聞社)で中山晋平氏の手記を引用し、抱月氏の思いを書いています。

 大正元年の三月大阪ヘノラをやりに行ったとき、東儀(鉄笛)が誘惑しようとしたんだ。けれども女(=松井須磨子氏)はそれをきらってぼくの所へのがれてきた。ぼくはそれを救ってやったんだが、それをしおに女は僕におちいった訳たんだ……ノラにしてもマグダにしても、ぼくの芝居であの女は成功したんだ。あの女もぼくを悪くなく思ったろうし、ぼくも女が可愛いかった。……あの女の芸術は、ぼくがあの女になり変ってやったようなものなんだ。ねえ中山君、まったくぼくのノラで、ぼくのマグダなんだ。

『人形の家』でノラ、『故郷』のマグダは2人とも松井須磨子氏が演じた女性です。
 同じく抱月が須磨子に書いたラブレターの1節では

 あなたはかわいい人、うれしい人、恋しい人、そして悪人、ぼくをこんなにまよわせて、此上はただもうどうかして実際の妻になってもらう外、ぼくの心の安まる道はありません。

 これ以外にも沢山書いてありますが、おなじです。
 これも『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』にでていますが、本来は田辺若男氏の『俳優』(春秋社、昭和35年)から引用してあるようです。

 鹿児島で「復活」をやった千秋楽の夜。宿へ引き上げてきてタ食の膳にむかった時、抱月と須磨子の室から、突然経営部の小村光雄の室へけたたましく電話がかかった。小村が取るものも取りあえず飛んで行くと、まじめで生一本な抱月は、やや青ざめて腕ぐみをしなから、「もう芸術座を解散しなければならない」と沈痛にいう。小村がけげんな顔をして、そのわけをたずねると、事情がおおよそわかった。顔なじみの土地の文学芸者から、羽織の裏へ抱月に揮が依頼された。そこで「わか胸の燃ゆる思いにくらぶれば、けむりは薄し桜島山」と書いた。書きおわるやいなや、それを見ていた須磨子は、抱月のタ食の膳を蹴とばし、行李の中から羽織や着物を投げ出して、びりびりと引き裂き、はては抱月に組みついてきたのであった。「お前が日本一の文士なら、私も日本一の女優だ」「なに、この成り上り者、誰れのおかげでそうなれたと思う」と、売りことばに買いことば、「お前こそ成り上り者だ。憚りなから、私は武士の家の血統に生れてる人間だ――」と、須磨子は引っこもうとしない。「度しがたい女だ。もう芸術座は解散する」というので、小村の室に電話かとんだわけだった。小村にしてみれば、二人のいさかいは珍らしいことでもないので、まアまアとその場をおさめて引きとった。
 ところが――その翌朝、鹿児島駅の待合室で、小村の話を聞いて、不安そうな一座の俳優たちの視線を受けた二人は、テレクサイ顔をしている抱月のそばへ「先生――」と須磨子が寄り添って行って、何やらひそひそと笑いながらささやきかわしている。「――天真爛漫。そこがいいのだ」と、抱月は小村に語ってすましていたという。夫婦喧嘩は犬も喰わないという標本を見せつけられて、一座も呆然としてうなずいたという。

「ゴンドラの唄」と芸術座|神楽坂

文学と神楽坂

「ゴンドラの(うた)」は、1915年(大正4年)芸術座第5回帝劇公演に発表した流行(はやり)(うた)です。吉井勇作詞。中山晋平作曲。ロシアの文豪ツルゲーネフの小説を劇にした『その前夜』の劇中歌です。大正4年に35回も松井須磨子が歌いました。

『万朝報』ではこの劇は「ひどく緊張した場面は少いが、併し全体を通じて、甘い柔かな恋の歌を聞いてゐるやうな、美しい夢を見てゐるやうな心持の好い感じはした」と書きます。

『ゴンドラの唄』の楽譜は翌16年(大正5年)セノオ音楽出版社から出ました。表紙は竹久夢二氏です。ゴンドラの唄。セノオ新小唄。大正5年(1916)

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)(あか)(くちびる)()せぬ()に、
(あつ)血液(ちしほ)()えぬ()に、
明日(あす)月日(つきひ)のないものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)、
いざ()()りて()(ふね)に、
いざ()ゆる()(きみ)()に、
ここには(たれ)れも()ぬものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)(なみ)にたゞよひ(なみ)()に、
(きみ)柔手(やはて)()(かた)に、
ここには人目(ひとめ)ないものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)黒髪(くろかみ)(いろ)()せぬ()に、
(こころ)のほのほ()えぬ()に、
今日(けふ)はふたゝび()ぬものを。

 1952年、黒澤明監督の映画『生きる』で、主人公役の志村喬がブランコをこいでこの『ゴンドラの唄』を歌う場所があります。実はこれが有名なのはこのシーンのせいなのです。
 実際にはシナリオの最後で主人公が歌う歌は決まっていませんでした。脚本家の橋本忍氏の言ではこうなります。なお小國氏も脚本家です。これは橋本忍氏の『複眼の映像』(文藝春秋社、2006年)に書かれていました。

私と黒澤さんは、警官の台詞からカットバックで、夜の小公園に繋ぎ、ブランコに揺れながら歌う、渡辺勘治を書いていた。
    命短し、恋せよ乙女……
 だが私は、黒澤さんの1人言に似た呟きを、そのまま書いたのだから後の歌詞は全く見当もつかない。
「橋本よ、この歌の続きはなんだっけな?」
「知りませんよ、そんな。僕の生まれる前のラブソングでしよう」
 黒澤さんは英語の本を読んでいる小國さんに訊いた。
「小國よ。命短し、恋せよ乙女の後はなんだったっけ?」
「ええっと、なんだっけな、ええっと……ええっと、出そうで出ないよ」
 私は直ぐに帳場に電話をし、この旅館の女中さんで一番年とった人に来てほしい、一番年とっている人だと念を押した。
 暫くすると「御免ください」と声をかけ襖が開き、女中さんが1人入ってきた。小柄で年配の人だがそれほど老けた感じではない。
「私が一番年上ですけど、どんなご用件でごさいましょうか?」
 私は短兵急に訊いた。
「あんた、命短しって唄、知ってる?」
「あ、ゴンドラの唄ですね」
「ゴンドラってのか? その唄の文句だけど。あんた、覚えている」
「さぁ、どうでしょう。一番だけなら歌ってみれば……
「じゃ、ちょっと歌ってよ」
 女中さんは座敷の入口の畳に正座した。握り固めた拳を膝へ置き、少し息を整える。黒澤さんと小國さんが体を乗り出した。私も固唾を飲んで息をつめる。女中さんに低く控え目に歌い出した。声が細く透き通り、何かしみじみとした情感だった。
   命短し、恋せよ乙女
   赤い唇 あせぬまに
   熱き血潮の 冷えぬまに
   明日の月日は ないものを……
 その日は仕事を三時に打ち切り、早じまいにした。

 この作曲家の中山晋平氏は映画館で『生きる』を見ましたが、翌日、腹痛で倒れ、1952年12月30日、65歳、熱海国立病院で死亡しています。死因は膵臓炎でした。
 さて「命短し、恋せよ乙女」というフレーズは以来あらゆるところにでてきます。相沢直樹氏は『甦る「ゴンドラの唄」』の本で、こんな場面を挙げています。

  • 売れっ子アナウンサーだった逸見政孝氏は自分でこの唄を歌ったと娘の逸見愛氏が『ゴンドラの詩』で書き、
  • 『はだしのゲン』で作者の中沢啓治氏の母はこの唄を愛唱し、
  • 森繁久彌氏は紅白歌合戦でこの唄を歌い、
  • 『美少女戦士セーラームーンR』では「花のいのちは短いけれど いのち短し恋せよ乙女」と書き、
  • NHKは2002年に『恋セヨ乙女』という連続ドラマを作り、
  • コーラス、独唱、合唱でも出ました。

 まだまだたくさんありますが、ここいらは『甦る「ゴンドラの唄」』を読んでください。この本、1曲の唄がどうやって芝居、演劇、音楽、さらに社会全体を変えるのかを教えてくれます。ただし高くて3,360円もしますが。『甦る「ゴンドラの唄」』は図書館で借りることもできます。

小林アパート(旧芸術倶楽部)|横寺町

 この芸術倶楽部の主が死亡すると、新たに「高等下宿」として生まれ変わります。つまりアパートです。『まちの手帖』第6巻で大月敏雄氏が「牛込芸術倶楽部と同潤会江戸川アパート」のなかでこう書いています。

 高等下宿に関する唯一と言っていいくらいの文献が、住宅改良会発行の月刊誌『住宅』の大正八年十月号「共同住宅特集号」である。この特集号の中で関口秀行という人が書いた「東京の共同住宅」という記事が、当時の高等下宿の有様を丁寧に伝えてくれる。

 さらに、その「東京の共同住宅」の記事を引用して

 大久保新宿線の肴町の停留所から約二町で横寺町になる。通りの右側に少し引つ込んだ三階建ての洋館が芸術倶楽部である。この倶楽部の名を知らない人は少ないであろう。新劇界に大革命を起こしたかの芸術座の事務所であり研究所であったのである。同座開放後、松井須磨子の実兄小林放蔵氏が引き受けて、内部を改造して現今の如き共同小住宅としたのである。此処が共同小住宅として提供されたのは大正八年三月で、まだ日が浅い。併しながら改造中から申し込みが多く、工事修了と同時に満員の有様であった。今も続々と申込者が引きも切らぬ有様であるが、空室がないという始末。

 なんとこの小林アパート、申し込みは多く、空室もなかったようです。

 しかし、昭和に入ると、変わります。昭和26(1951)年6月、日本読書新聞社から野田宇太郎著『新東京文学散歩』として刊行されたものでは

 その飯塚酒場の左の露路を入った正面に、この附近で誰知らぬものもない、大きな軒の傾いた、中を覗くと如何にも無気味にほの暗くて荒れすさんだ小林アパートというのがあった。この小林アパートには如何に貧書生の私も一寸住む気持にはならなかったが、極端に貧乏な若い画家たちがそこの住人で、その連中は隣の飯塚で安いにごりをひっかけ、秋の日でも尚一枚の湯上りだけしか持たず、竹皮の草履をはき、ぶらぶらと神楽坂を散歩する人種あった。そういう、本当に無一物の、ただ未来に大芸術家の夢ばかりを描いて生きている青年たちが住むにもって来いの家らしかった。
「松井須磨子の幽霊がいますよ」
と誰かが私に教えてくれた。松井須磨子といえば、少年の頃からカチューシャの唄以来その名はよく知っていた。尚よく聞いてみると、その家が芸術座の本拠、芸術倶楽部のあとで、主宰者の島村抱月をしたって自殺した須磨子を幽霊にして、例の貧乏画家たちが、天井に悪戯をしたのであった。

 この小林アパート、まるでお化けアパートに変わったようです。しかし、第2次大戦ではここも焼け野原になります。なにも残っていません。『新東京文学散歩』では

 そう云えば、何処も焼けてしまったけれど、昔の芸術倶楽部の、小林アパート、あれはどの辺でしたかな」
「芸術倶楽部の跡はそこです」
と青年の指さし教える所は、私の想定通りこの飯塚酒場の横の、焼けあとのかなりな広場の奥の部分であった。(中略)
 私は荒涼とした芸術倶楽部あとに転がる昔の建物の台石と思われる石の上に立ったり、ぐるぐると瓦礫の散乱する敷地の跡をわけもなく巡ったりした。在りし日の抱月と、名花須磨子の幻を私は追っているのかも知れなかった。
    カチューシャ可愛や別れのつらさ
    せめて淡雪とけぬまに
    神に誓いをララかけましょか
 そんな歌が、私の母の口から漏れ、いつのまにか、私の口に移っていた、あのなつかしい少年時代のことを私は思い出していた。

 戦後すぐに、この小林アパートはなくなり、瓦礫だけになっています。さらに時間が経ち、野口冨士男氏の「私のなかの東京」(初出は昭和53年、1978年)では

 最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や神社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やもなく飯塚酒店に入って30代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。
 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらびっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。


芸術倶楽部館|神楽坂

文学と神楽坂

 芸術倶楽部の館は大正4年(1915年)8月に完成し、大正7年まで、横寺町9番地で開いていました。佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』(明治書院、昭和55年)では

『復活』の地方巡業によって資金の調達が可能になり、芸術倶楽部の建設を抱月は具体化し始めた。もっともこの計画は前年の大正三年三月二十二日、抱月、中村吉蔵、相馬御風、原田某、尾後家省一、石橋湛山らが夜十一時迄相談し具体案を立てたものである。(石橋湛山の日記に拠る。)これは『復活』公演前のことであり、抱月は政界、財界に強く働きかけていたのであろう。それから一年後、芸術倶楽部の建設が実行に移されることになった。場所は牛込横寺町九番地に決り、二階建の白い洋館。一階には間口七間に奥行四間の舞台を設け、一階と二階の観客席の総数は三〇〇。総工費七千円。建築費の大口寄附者(五百円)に田川大吉郎、足立欽一、田中問四郎左衛門の名があり、残りは巡業からの収入を充てる。抱月はこの芸術倶楽部で俳優の再教育(養成主任は田中介二)を行い、将来、俳優学校を、さらに演劇大学のようなものに発展させたいという遠大な夢を抱いていた。そのために抱月は演劇研究に尽力し、若き俳優を外国に留学させて演技力を身につけさせる必要があると思い、さしずめ、須磨子をヨーロッパに留学させることを抱月は秘かにかつ、真剣に考えていたのである。
 巡業中に着工した芸術倶楽部は大正四年八月に完成した。この倶楽部の二階の奥の間には抱月と須磨子が移り住み、芸術座の運命を共にすることになった。

 芸術倶楽部の見取り図は、左は籠谷典子氏の『東京10000歩ウォーキング』の図です。右は抱月須磨子の2人がなくなり、大正8年(1919年)に改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図です。

芸術倶楽部の2プラン

 また松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)では

日本新劇史186頁

牛込芸術倶楽部

日本新劇史200頁

 次は新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)にある図です。

芸術倶楽部の場所

 また今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)に書いてある図ではこうなっています。

芸術倶楽部2

 高橋春人氏の「ここは牛込、神楽坂」第6号の『牛込さんぽみち』では想像図と地図が載っています。

芸術倶楽部の想像図 芸術倶楽部の想像図

高橋春人氏の芸術倶楽部

 高橋春人氏は…

芸術倶楽部 これを描くときに参考にしたのが印刷物の写真版である。これは、芸術座・芸術倶楽部用の封筒の裏に刷られたもので(宣伝用?)、ここにあげたものは、抱月(滝太郎)が、大正6年12月に使ったものである(早大、演劇博物館、蔵。なお、筆者が見た芸術倶楽部の写真はこのワンカットだけ)

 昭和12年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)では

小林アパート(芸術倶楽部)

 野田宇太郎氏の『アルバム 東京文學散歩』(創元社、1954年)では「芸術倶楽部の跡」の写真が載っています。これはどこだか正確にはわかりません。おそらく上図の「小林 9」と上から2番目の「11」の間にカメラを置いて撮影したのでしょう。

芸術倶楽部の跡。1954年

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「芸術倶楽部跡 <新宿区横寺町 11>」では

1984-09-01。写真05-05-35-2で芸術倶楽部跡案内板が写真左端に見える。

 この中央の空地が以前の芸術倶楽部の跡でした。

 毘沙門せんべい福屋の福井 清一郎氏は「商売人どうし協力して 街を盛り上げていきたいよね。」(東京平版株式会社)の中で

 神楽坂は早稲田文学の発祥の地とも言われていまして、松井須磨子さんと島村抱月さんがやっていた芸術座の劇場も神楽坂の横寺町にあったんですよ。今はなくなりましたけどとっても前衛的な造りで、真ん中に舞台があって上から360度見下ろせる形が当時とても斬新でしたね。

魚浅 一水寮 矢来町 朝日坂の名前 朝日坂 Caffè Triestino 新内横丁