西江戸川橋」タグアーカイブ

首都高(写真)石切橋 平成元年 ID 509, 510

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」では、平成元年(1989年)9月、ID 509のタイトルは「石切橋から大曲」、ID 510のタイトルは「大曲から石切橋」を撮影したといいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 509 石切橋から大曲

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 510 大曲から石切橋

神田川の橋

 ID 509では石切橋の上から大曲方面を撮影しました。神田川の向かって左側(北側)は文京区です。
 西江戸川橋と小桜橋がはっきりと見え、その先の中ノ橋は川面に影が落ちています。新宿区のある右岸(南側)に台のようなものが等間隔に並んでいます。護岸の石組みの色が変わっており、工事の足場のようなものかもしれません。
 この付近は出版・印刷の街です。左岸に見える「太洋社」は中堅の出版取次(書籍問屋)でしたが、2016年(平成28年)に経営破たんしました。現在はマンション「ブリリア文京江戸川橋」です。少し先には(TOP)PAN(凸版印刷)が見えています。
 右岸には首都高速道路5号線(池袋線)が建ち、ふくらんだ「非常駐車帯」があります。高い柱の上に非常電話のピクトグラムと「非常電話 SOS」が併記されています。

 ID 510の写真説明の「大曲から石切橋」は誤りで、目白通りの石切橋付近から大曲方向を撮影しています。右寄りの信号機の表示3文字は読めませんが、少し先に首都高の非常駐車帯があることから、ここが石切橋交差点であることが分かります。交差点の左の橋が石切橋で、この橋からID 509を撮影しています。石切橋の文京区側のたもとの2階家は江戸期から続く鰻の「はし本」です。
 また信号機の右奥に8階建てのビルがあります。これは2009年Googleにあった石切橋の8階建てのビルとよく似ています。1989年、写真のビルの2階と3階の窓がなく、ここは違っていますが、4階以上の窓は4枚に分かれ、非常階段は酷似しています。これは2017-18年に取り壊されて、2019年に三晃ビル(マルエツ 江戸川橋店)になりました。

首都高(写真)新小川町~石切橋 昭和52年 ID 501-505

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 501-05は、昭和52年(1977)5月、新小川町から東五軒町、さらに石切橋までの首都高速道路5号線(池袋線)のカラー写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 501 飯田橋インターチェンジ

 この写真はID 12208(2)とほぼ同じです。ただID 501は周囲を少しカットして、画角を狭めています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 502 飯田橋インターチェンジ

 場所について遠くの首都高には膨らんだ「非常駐車帯」があり、首都高は標識(最高速度60キロ)、橋脚は「T型」で「飯田橋ランブ」は見えません。目白通りの左側の建物は半世紀前とは多くが違っていますが、左端で見切れているのは2021年頃に解体されたトーハンの旧本社でしょう。横断歩道を右側に越えていくと、架橋があり、信号機は3つ。また、歩道の先では左に行く小さな道路も。建物は半世紀昔に建てられて、どれも名前は全くわかりません。
 ここは「小桜橋南」交差点でしょう。
 この区間の目白通りの地下に、昭和52年度末に「江戸川橋分水路」ができる予定で、バリケードや三角コーンも沢山あります。これは完成直前の様子を撮影したものでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 503 石切橋附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 504 石切橋附近

 左の信号機に「石切橋」の交差点表示があり、これは「石切橋」の東側から撮影したものです。さらに行くと昭和45年に架設した「古川歩道橋」があります。標識は(転回禁止)(区間内)ですが、ID 504では(車両進入禁止)が加わっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 505 江戸川橋分水工事看板

 工事の看板は見えませんが、この写真はID 12216(4)とほぼ同じです。ただID 505は周囲を少しカットして、画角を狭めています。

西五軒町(写真)神田川 昭和33年 ID 8430-32

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430-32は、昭和33年に西五軒町の北側から目白通り、神田川などを撮影しました。資料名は「西五軒町(目白通り、江戸川)」です。なお、江戸川は神田川の上流の古い名で、昭和40年以降は神田川と呼ぶようになりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430 西五軒町(目白通り、江戸川)

 ID 8430は、神田川にかかる橋の上から下流方向(東向き)を撮影しています。撮影場所は西五軒町の西江戸川橋で、左正面が小桜橋。その先の川面に影を落としているのが中ノ橋でしょう。川が突き当たるような形で建物が見えていますが、ここは川が大きく右に曲がっている「大曲」です。

S38 大曲付近(地理院地図に加筆)

神田川の橋

 この建物の手前に、後に新白鳥橋ができますが、まだありません。できるのは1971年(昭和46年)です。「今昔マップ」では1975年以上に登場します。
 目白通りの中央には都電の軌道があります。首都高速道路は建設されていません。通り沿いの建物は低層が主体です。
 神田川の護岸は、手すりが埋もれるような形でコンクリートでかさ上げされています。大雨のたびに、この地域が洪水に悩まされていたことを物語ります。
 地図や空中写真と照合すると、左側で見切れている建物が凸版印刷の工場、右側の端が同潤会江戸川アパートです。江戸川アパートの前の通り沿いの低いビルは日本交通大曲営業所で、横看板も無理に読めば読めそうです。その奥のビルは、日本専売公社ではないでしょうか。

ID 8430 西五軒町(一部を拡大)

 川沿いの歩道に電柱看板「う」がありますが、「うなぎ」でしょう。橋を渡った文京区側には戦前から続く「はし本」があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8431 西五軒町(目白通り、江戸川)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8432 西五軒町(目白通り、江戸川)

 ID 8430-32は、同じ西江戸川橋から上流方向(西向き)を撮影しています。護岸は両岸ともかさ上げしています。右正面は石切橋です。
 西江戸川橋は石切橋とは違って鋼板をそのまま壁高欄かべこうらん(特に丈夫な欄干らんかん)に使っています。
 右側には電柱看板「質 新客歓迎 小森」「質 長島」「ナショナル」などが付いた電柱が沢山見えます。左側の電柱看板は「活字母型製造」「」(駐車禁止。これは昭和20年代に見られた英文と和文を混合した標識)です。ID 8432では路面電車が走行中。左側には店舗が並び、「文化印刷◯」、三軒あけて「カタログ社」、また数軒あけて三菱のロゴマークがあります。
 30年代の自動車がいかにも昔々しています。当時、昭和35年のサラリーマンの平均月収は約4.2万円でしたが、一方、昭和33年「スバル360」は42.5万円でした。

人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年

首都高速(写真)東五軒町 水道町 昭和44年 ID 12781-84

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12781-84は、昭和44年9月、目白通りと首都高速道路5号線(池袋線)を撮影しました。資料名には「新小川町付近高速道路下」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12781 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12782 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12783 新小川町付近高速道路下

 実際には北部の東五軒町から、目白通りを東に向けて撮影しています。
 通りは2車線ずつの対面通行です。左の神田川との境に橋脚が立ち、その上を首都高速が走っています。写真奥で首都高が膨らんだ場所が見えますが、これは「飯田橋料金所」です。2車線のランプが入り口につながった場所は4車線の幅があり、それが2車線に合流します。
 中央に見える信号機の下に、神田川を渡るざくらばしがかかっています。こちらを向いた信号機2機はゼブラ柄が確認できます。
 目白通りの向かって右側は縁石で高くなった歩道ですが、左側の首都高直下は歩道ではなく、車道と段差がない路側帯になっています。この部分にはバリケードやブロックなどが置いていてあり、神田川の洪水対策となる「放水路」ができる予定です(関口一丁目南部会)。
 ID 12781では都営バスが行き交っています。手前に向かってくるバスは「515」「小滝橋車庫ー茅場町」「ワンマン」の表示があり、逆台形のヘッドマークの中に「代替15」(「その他のヘッドマーク」の項)の字が確認できます。前年の昭和43年に廃止された都電15系統の代替バスです。また、対向車線を遠ざかるバスには同じ逆台形に「39」とあるようです。15系統と同時に廃止された都電39系統の代替バスです。
 ID 12783に見えるのは都バスではなく「KKK」(国際興業)で、「常盤台駅」「ワンマン」の表示、「ISUZU」のエンブレムが確認できます。
 電柱広告には「質 福山」「印刷ローラー 博文社」、川の対岸の文京区には「(TOP)PAN」(凸版印刷)の看板があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12784 新小川町付近高速道路下

 ID 12784は、ID 12781-839より背後(西側)に移動した新宿区水道町付近から、東方向に撮影しています。神田川に架かる橋は西江戸川橋。遠くの信号がある場所が小桜橋です。路側帯はやはりバリケードで仕切られ、小型トラックが何台か停まっています。

首都高速(写真)新小川町 昭和44年 ID 12780, 85-86

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12780とID 12785-86は、昭和44年9月、首都高速道路5号線(池袋線)を撮影したものです。撮影場所は「新小川町付近高速道路下」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12780 新小川町付近高速道路下

 目白通りを西に向けて撮影しています。対面通行で、右カーブの先が江戸川橋交差点、背後に戻ると大曲です。
 道の上を首都高速が走り、緊急車両や道路管理車両などが停車する「非常駐車帯」も先に見えます。首都高の直下は神田川で、一本足の橋脚は川と道路の間に立っています。
 神田川には多くの橋がありますが、写真右端の細い橋は「西江戸川橋」です。橋のたもとに街灯があり、この写真では工事のため通行止めになっているようです。バリケードや土管、土盛りが見えます。
 東京都建設局の資料では、目白通りの地下の「江戸川橋分水路」の整備は、この写真より後の昭和47~52年度です。
 文京区関口一丁目南部会は「昭和41年10月住民の署名を添え治水対策を早急に進めるよう都河川部・下水道局に強く交渉し昭和44年頃より江戸川橋ー下水管一本埋設、江戸川ー白鳥橋・江戸川橋ー船河原橋にそれぞれ放水路二本が作られました」といい、下水の移設などの準備中でした。
 西江戸川橋を渡って文京区に行くと、「北」(か「丸」「九」)で始まる事務所があります。
 39番のバスが大曲方向に走っています。この区間には都電15系統と39系統が走り、昭和43年(1968年)9月には廃止されています。この代替として都バス539系統(早稲田-上野公園)が運行し(都営バス小滝橋営業所 Wikipedia「上69系統は、高田馬場から上野まで東西に横断する。1968年(昭和43年)の都電第3次撤去で廃止された39系統(早稲田 – 厩橋)の代替として、539系統(早稲田 – 上野公園)で運行が始まる。1972年に系統番号を上69系統と変更、1974年に小滝橋車庫まで延伸した」)「539系統」は書面上のもので、乗客向けには39番を表示していたようです。「都営バス資料館 その他のヘッドマーク(省略)。代替後1年程度で定期券の移行措置が終わるとともに取り外され、それ以後は一般路線と見た目が変わらなくなった」といいます。バスの行き先は、無理をすれば「早稲田-〇〇〇〇」と読めそうです。
 江戸川橋方向にバン「Coca-Cola スカッとさわやか コカ・コーラ」や自動車「◯YAMA PRINTING CO. LTD」「岡◯商店」が見えます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12785 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12786 新小川町付近高速道路下

 ID 12785-86は、さらに西に行き、目白通りの「非常駐車帯」の直下で、石切橋付近から撮影しています。写真説明の「新小川町付近」からはだいぶ遠ざかっています。
 首都高の直下はチェーンスタンドとバリケードで区切られて、何台のも自動車が駐車しています。資材置き場になったのか、カバーで覆われたものもあります。恒久的な駐車場とは考えにくく、工事のために一時的に撤去したものの代替でしょうか。この場所は現在は車道になっています。
 橋脚の間に石切橋が見えます。ID 12785では道を横断する人と自転車、左端には横断する自動車が一部写っていて、右には信号機の背面が見えます。ゼブラ柄は見えませんが、ここが横断歩道だとわかります。
 石切橋の反対側(文京区)には「喫茶 アサノ」「生蕎麦」「寿司 割烹 玉明」などがあり、現在も「生蕎麦 浅野屋」が同じ場所で営業中です。
 昭和52年のID 12205は、ほぼ同じ場所の撮影で、先に行くと歩道橋があります。この「古川歩道橋」は東京都が管理し、飯田橋歩道橋と同じで、1970年(昭和45年)に架設しました(東京都建設局「横断歩道橋個別施設計画」No.439)。この写真が撮った昭和44年には、まだありません。