酒井家」タグアーカイブ

酒井家矢来屋敷|矢来町

文学と神楽坂

 矢来町については別に書き、ここでは矢来屋敷を書いています。寛永5年(1628)、徳川将軍家より小浜藩酒井家は牛込矢来屋敷を拝領しました。

小浜藩 若狭わかさ)国(福井県)遠敷おにゅう郡小浜に置いた藩。

小浜藩

 安政4年(1857)から幕末までの矢来屋敷は下図の通りでした。北側が上です。この時代、小浜藩の上屋敷(右下の御上屋敷)としも屋敷(それ以外)が接近して建っています。黄色で書いた場所は御殿表向(おもてむき)(政務や公式行事を行う場所)、赤は奥向(おくむき)(藩主の私的な場所)です。他の茶色で書いた場所は家臣や武士の長屋が多く、ほかにもいろいろなことを行いました(たとえば学問所)。
矢来屋敷

 この図は新宿歴史博物館の『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』(2010年)を参考にして作ったものです。博物館のものは無断転載ができませんので、この文書を参考にして新たに自分で作りました。間違いと思われる場所はなおしています。ダブルクリックするとpdfでも簡単に手に入ります。どうぞ使って下さい。

 また竹矢来も×で書きました。ただし、この「竹矢来」は37頁の「下屋敷図」(1697年)の竹矢来を拡大したものです。

竹矢来1

竹矢来

『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』31頁の「竹矢来図」(1837年)(↓)は、約140年も月日がたったため、全く普通の竹垣や門が描かれています。

竹矢来

竹矢来

新撰東京名所図会」では酒井家矢来屋敷について「藩邸の坂 三条あり、辻井の坂、鍋割坂、赤見の坂」があるといっています。この辻井つじいの坂、鍋割なべわり坂、赤見あかみの坂がどこにあるのか、その所在はわからなくなっています。

 中央やや右寄りで上下の道路は「牛込中央通り」とほとんど一緒です。

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社、昭和47年)では

 酒井邸の庭園は、築山山水式の優れたものであったが、戦後なくなった。旧庭園の様子は「名園五十種」にでている。

 この「名園五十種」は自宅のインターネットを使って国立図書館から無料で見ることができます。発行は1910年(明治43年)、編集は近藤正一氏です。ごく一部を紹介すると

 矢来の酒井家の庭といへば誰知らぬ人のない名園で梅の頃にも桜の頃にも第一に噂に上るのはこの庭である。
 弥生の朝の風軽く袂を吹く四月の七日、この園地の一覧を乞ふべく車を同邸に駆った。唯見る門内は一面の花で、わづかにその破風はふ作りの母屋の屋妻やづまが雲と靉靆たなびく桜の梢に見ゆる所は土佐の絵巻物にでも有りさうな樣で如何にも美い………(中略)
 如何にも心地の好い庭である。陽気な…晴れ晴れとした庭である。庭というものは樹木じゅもく鬱蒼うつさうとして深山しんざん幽谷いうこくの様を移すものとのみ考えている人には是非この庭を見せてやりたく思うた。

 では『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』に戻ります。

 酒井讃岐守忠勝が、三代将軍家光から牛込村に下屋敷を貰ったのは、寛永5年(1628)3月であった。周囲に土手を築き、表門の石垣から東の方42間(約83メートル)、西の方263間(約510メートル)を竹矢来にしていた。このため矢来町という町名の起りになった。これは寛永16年(1639)江戸城本丸の火災で、家光がこの下屋敷に難を避けた時に、まわりに竹矢来をつくり、御家人衆は抜身のやりをもって昼夜警護したことによるのである。
 それ以後酒井讃岐守忠勝は、これを永久に記念するために垣を造らず、塀を設けないで竹矢来にしたのである。その結び放した繩も、紫の紐、朱のふさ、やりとを交差した最初の名残りであるといわれ、江戸の名物の一つとなっていた。なお家光が、初めて酒井邸に立ち寄られたのは寛永12年8月22日で、以来数回訪問されたことがある。
 矢来町71番地あたり一帯は、明治末期まで、ひょうたん形の深くよどんだ池であった。これを「日下が池」とか「日足が池」とも書いて「ひたるがいけ」と読ませていた。長さが約108メートル、幅約36メートル、面積80坪(26.4アール)であった。池の周りには、沢桔梗、芦葦などが繁茂していた。これに長さ約12.メートルの板橋があった。ここで家光は水泳、水馬、舟遊びに興じられたのである。

 いまではひたるが池は干上がり、池があったと分かりません。残るのは階段だけですが、確かに深くよどんだ池だったのでしょう。

ひたるが池

 明治になると、この巨大な酒井家の屋敷の敷地は縮小、南側だけになっていきます。最後の庭も戦後には日本興業銀行の社宅になり、統合のため、みずほ銀行社宅「矢来町ハイツ」になりました。コメントの指摘により、日本興業銀行の社宅になったのは昭和24年以前だと思えます。矢来町ハイツの門の場所には「造庭記念碑」が建っています。

造園碑

『名園五十種』にかかれた明治43年の酒井邸の庭園は遠州流で、武家茶道の代表です。茶室は江戸中期の書院造りで、幕末に水屋・手前席などを増築したものです。茶室は林丘亭として杉並区立柏の宮公園にあり、牛込屋敷が日本興行銀行の社宅となった時に当時の頭取がここに移築しました。名園1


袋町|光照寺

文学と神楽坂

 光照(こうしょう)()です。はいる手前で右手は光照寺の碑、左手は新宿区登録史跡があります。場所はここです。

光照寺

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録史跡
(うし)(ごめ)(じょう)(あと)

    所 在 地  新宿区袋町15番地
登録年月日 昭和六十年十二月六日

 (こう)(しょう)()一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。
 堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
 牛込氏は、赤城山の(ふもと)上野国(群馬県)勢多(せた)大胡(おおご)の領主大胡氏を祖とする。天文年間(一五三二~五五)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文二十四年(一五五五)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正十八年(一五九〇)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取壊された。
 現在の光照寺は正保二年(一六四五年)に神田から移転してきたものである。
 なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「(しょ)(こく)(りょ)(じん)()(よう)()」、「便(べん)(べん)(かん)()()()の墓」などがある。

平成七年八月     東京都新宿区教育委員会

 では中に入ってみると最初に鐘楼(しょうろう)堂が見えます。やはり説明文が出ています。

 光照寺は慶長八年(一六〇三年)浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺寺町に起立、正保二年(一六四五年)ここ牛込城跡に移転してきました。徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、開基の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名から由来するものです。
 鐘楼堂は、明治元年(一八六八年)神仏分離令の発布に伴って各地に起こった廃仏毀釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)の難により取り壊されたと伝えられています。その後、六十年の歳月を経て昭和十二年(一九三七年)に復興を見ましたが、昭和二十年(一九四五年)第二次世界大戦中に空襲を受け旧本堂と共に焼失しました。
 梵鐘(富樫むら殿寄進)は、戦時中供出されていたため戦災を免れ、戦後光照寺に返還され永く境内に保存されていましたが、この度の鐘楼堂の新築により復元しました。

    平成五年(一九九三年)一月 浄土宗 光照寺


鐘楼堂と本堂

水 拝啓、父上様では第9話で出てきます。

石畳の道
  除夜の鐘がゴーンと、神楽坂に流れる。
 り「2007年の元旦を、僕は1人でアパートで迎えた。
  地蔵坂にある光照寺から響く除夜の鐘が、神楽坂一帯に流れており」
神楽坂・裏路地
  門松。
  しんと眠っている。
 り「拝啓。
  父上様。
  除夜の鐘です」

 では左側から右側に見ていきましょう。まず、Google航空写真です。

 ①最初は左奥にある諸国旅人供養碑です。

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録有形文化財 歴史資料 諸国(しょこく)旅人(りょじん)()(よう)()

         所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日  昭和61年6月6日

 神田松永町の旅籠(はたご)()紀伊(きの)(くに)()主人(しゅじん)利八(りはち)が、旅籠屋で病死者の菩提(ぼだい)をともらうため、文政八年(一八二五年)に建立(こんりゅう)した供養碑である。
 はじめは、文政二年(一八一九)から建立までの七年間に死亡した六名の名が刻まれ供養されたが、その後死亡者があるたびに追刻され、安政五年(一八五八)まで合計四十九名の俗名と生国が刻まれた。
 当時は旅先で客死する例が多く、これを示す資料として、また供養塔として貴重なものである。
 なお、当初は「紀伊国屋」と記した台座があったが、現在は失われている。

   平成七年八月 東京都新宿区教育委員会

諸国旅人供養碑諸国旅人供養碑2

②狂言師「便(べん)(べん)(かん)()()()(はか)」は諸国旅人供養碑のすぐ右奥に建っています。

便々館湖鯉鮒の墓文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク) 新宿区登録史跡 便(べん)(べん)(かん)()()()(はか)

  所 在 地 新宿区袋町15番地 登録年月日 平成二年三月二日

 江戸時代中期の狂言師便々館湖鯉鮒は、本名を大久保平兵衛正武といい、寛延二年(一七四九)に生まれた。
 幕臣で小笠原若狭守支配、禄高一五〇俵、牛込山伏町に居住した。
 はじめ朱楽菅江門下で狂歌を学び、福隣堂巨立と名乗った。
 その後故あって唐衣橘州門下に変り、世に知られるようになった。
 大田南畝と親交があり、代表作「三度たく 米さへこはし やはらかし おもふままには ならぬ世の中」は、南畝の筆になる文政二年(一八一九)建立の狂歌碑が西新宿の常圓寺にあり、区指定文化財に指定されている。
 文化一五年(一八一八)四月五日没した。享年七〇歳であった。
 墓石は、高さ一五二センチである。

     平成三年一月 東京都新宿区教育委員会

 なお、大田南畝、別号は蜀山人はここで転んだら子供が手をたたいて喜び、そこで狂歌を1句詠みました。

こどもらよ笑はば笑へわらだなのここはどうしょう光照寺前

③これから少し前に行くと、奥右筆(おくゆうひつ)の「大久保北隠(ほくいん)」の墓があります。石庭のようにいくつもの石が並べてあり、一見して墓には見えません。徳川家の奥右筆であり、茶道の奥義を極めた大久保北隠の石庭風の墓です。大正6(1917)年没、享年81歳。 奥右筆という肩書きについて右筆(ゆうひつ)とは、武家の秘書役を行う文官のこと。徳川時代には一般行政文書の作成を行う既存の「表右筆」と、将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う「奥右筆」に分かれます。特に奥右筆は表右筆より一段上の位です。将軍への文書取次ぎは側用人か奥右筆のみが行なうことになっていました。 大久保北隠墓

④さらに右に進みます。奥田抱生墓 本堂の奥に三角形の形をした奥田抱生墓があります。その墓碑には奥田抱生の一生を概略を漢文で書いたものです。 奥田は文政8(1825)年10月10日生まれ、儒学者奥田大観の子であり、儒大観に学び、文教家で金石学研究家。魚貝や書画骨董を収集し、漢詩漢文を教え、上京して牛込に住み読書・旅行・古器物の研究し、考古学の先駆者です。 著書には「今瓦譜(いまがわらふ)」、「日本金石年表」、「明清書画名家年表」など。 昭和9(1934)年没、享年75歳。
 さらに中央に進みます。 森敦の墓森敦の碑文

⑥森(あつし)は作家で、明治45年生まれ。昭和49(1974)年、61歳で芥川賞を「月山」で受賞しました。平成元年没。享年76歳。右側にある碑文は

われ浮き雲の如く
放浪すれど こころざし
    常に望洋にあり
      森 敦

⑦本堂左側に東京都教育委員会が案内板2枚を書いています。

木造地蔵菩薩坐像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 彫刻 (もく)(ぞう)()(ぞう)()(さつ)()(ぞう)
所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日 平成9年3月7日
 (よせ)()造り、(くろ)(うるし)塗り。像高三一センチ。一三世紀末(鎌倉時代)の作品で区内でも最も古い仏像彫刻のひとつである。
 寺伝によると、この像はもともと近江国()()(でら)にあり、()()()天皇の皇后が弘安(こうあん)年間(一二七八~八八)に、のちの()二条(にじょう)天皇を出産する際、難産であったため、この像に祈ったところ無事出産されたところから「泰産(たいさん)地蔵」と呼ばれたという。江戸時代には芝増上寺(ぞうじょうじ)に移され、正徳(しょうとく)年間(一七一一~一六)に増上寺の(まつ)()である光照寺に安置され、「安産子育地蔵」として信仰をあつめた。光照寺前の地蔵坂はこの像に因むものである。
木造十一面観音坐像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録有形文化財 彫刻
 (もく)(ぞう)(じゅう)(いち)(めん)観音(かんのん)坐像(ざぞう)
登録年月日 平成9年3月7日
 一木(いちぼく)造り、素木(しらき)仕上げ。像高七〇センチ。一八世紀末(江戸時代後期)の作品で作者は木食(もくじき)明満(みょうまん)である。明満(一七一八~一八一〇)は、円空(えんくう)とならび称される(ぞう)(ぶつ)(ひじり)で、全国を旅して(なた)彫りの仏像を約千体彫ったと伝えられる。 平成九年五月 新宿区教育委員会

 地蔵坂のいわれになっている子安地蔵は本堂に安置しています。子安地蔵は別の場所で書いています。

阿弥陀三尊来迎図文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 絵画 ()()()(さん)(ぞん)(らい)(ごう)()
所 在 地 新宿区袋町十五番地
指定年月日 平成十年二月六日
 絹本(けんぼん)着色、木製の板に貼り付けられた状態で、厨子(ずし)に納められている。縦一〇二・二センチ、横三九・四センチ(画像寸法)。
 画面左上から右下に向かって、阿弥陀如来が観音・勢至の二菩薩を従えて来迎する(臨終の床についた者を極楽に迎えるために降りて来る)様子を描いたもので、一四世紀後半(室町時代)の作品と推定される。
法然上人画像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 絵画
法然ほうねん上人しょうにん画像がぞう
指定年月日 平成一〇年二月六日
 絹本(けんぼん)着色、掛軸(かけじく)装されている。縦八九・五センチ、横四一・三センチ(画像寸法)。 浄土宗の宗祖(しゅうそ)法然上人の肖像で、一五世紀後半(室町時代)の作品と推定される。    平成一〇年三月 新宿区教育委員会

海ほおずき

⑦自動車が駐車する場所で光照寺の鐘楼堂の右隣には「海ほおずき供養塔」が建っています。昭和16年7月に東京のほうずき業者が建てたものです。 海ほおずきとはテングニシという巻き貝の卵嚢です。この卵嚢を口に入れてキュッキュと音を出して遊びます。神楽坂の縁日で飛ぶように売れたため業者が供養しました。 ここの檀家にその業者がいて、そこで都内販売同業者41店主が発起人になってやることになり、毎年7月の浅草でほおずき市が終わると供養をしていました。現在住職がひとりで盆に供養しています。

⑧最後に右奥にある出羽の松山藩主(山形県飽海(あくみ)松山(まつやま)(まち))酒井家(大名家)の墓です。広さ150坪におよびます。現在は出入りはできず、外から内部を覗くだけです。 出羽守酒井家の墓石

   お知らせとお願い
此れより先立ち入り禁止

墓石が古く、先の東日本大震災により1部転倒し大変不安定
で危険になっております。
関係者以外立ち入りを禁止いたします。

               当山住職

 平松南氏は2004年06月16日「神楽坂をめぐる・まち・ひと・出来事」の一章でこう書いています。

 光照寺の住職は、代々直系が継承している。現在のご住職とは、神楽坂まちづくりの会のイベントのときにお寺を拝借した関係で、会員たちがいろいろお話しをさせてもらった。そんな会話のなかで、7年前のこと、ご住職からこんなはなしを伺ったことがあった。酒井家の子孫がキリスト教に改宗したため、光照寺にある43基の墓石群が宙に浮いてしまったというのである。通常これだけの墓があれば、酒井家の子孫はお寺に対しては多額の管理費を収めることになろう。しかしクリスチャンになった現在の子孫は、現在酒田市にある致道博物館の館長になっていて、山形県松山町に酒井家の小規模なお墓も持っているそうである。
 寺院経営の観点からすれば、都心にある光照寺の墓地用地は大変な資産価値がある。この酒井家の墓石群を撤去して、墓地にして売り出したら、相当な金額のお金がころがりこむ。もし酒井家が光照寺にある祖先のお墓の墓守をしないなら、いっそ撤去してほしい。
 光照寺のご住職に山形までご同行願って、酒井家のご子孫に面会をもとめて、現在の光照寺側の実情を知っていただき、何らかの対処をお願いしようということになった。
 光照寺さんは酒井のお殿様の末裔さんを前にして立ちあがり、ひたすら実情を伝えた。末裔さんは、やはりたったまま聞いていた。光照寺さんの訴えは切々としていたが、ただひたすら自身が困っているという訴えであった。末裔さんがなぜ光照寺をはなれていったかについては、聞くことはなかった。その点交渉ではなく、一方的なものであった。光照寺さんにとっては、相手の立場を忖度するなど、とてもそんな余裕はないということなのだ。
 末裔さんはご住職の訴えを注意深く聴いていたが、その窮状に対して助け船を出すことはなかった。強力な反論もしなかった。いまの末裔さんには、43の墓が神楽坂の住民のまちおこしや新宿区の歴史的遺産にとっていかに重要であっても、もはや自分とは何ら関係のないはなしなのである。末裔さんは恬淡として静寂であった。
 350年続いたある一族の墓の歴史が物理的にも消滅したとき、わたしたちの次世代が光照寺で見るものは、真新しく売り出された都心の墓地であり、境内にそっと立つ新宿区教育委員会の酒井家43の墓跡の説明板である。

 切支丹の仏像については別に書きます。鈴木桃野の墓石の場所はまだ不明です。