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善国寺(写真)平成22年 ID 13351

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13351は平成22年(2010年)3月に、神楽坂4丁目にあるちんざんしゃもんてんぜんこくを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13351 神楽坂毘沙門天

 車道はアスファルト舗装、側溝はL型で、縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色で意味は「駐車禁止」。歩道もアスファルトのインターロッキング(interlocking)ブロック舗装。
 街灯は戦後4代目で、水銀と高圧ナトリウムの2つのランプ。この街灯は令和4年に更新され、古い街灯が本堂前の境内灯として再利用されました。続いて三角コーンがあり、次の標柱の内容はここで解説しています。
 石囲いは無地で、左端に「毘沙門寄席」の看板があります。ちなみに神楽坂毘沙門寄席の第一回は2005(平成17)年11月、22年7月では50回以上だそうです。看板は「七日の出演者」、<昼席 十三時半開場 十四時開演>は五街道彌助、三遊亭遊雀、柳家喜多八、<仲入り>、松旭斉 美智 美登、柳家花緑。<夜席 十八時開場 十八時半開演>古今亭菊六、金原亭馬遊、柳家さん喬、<仲入り>、三遊亭小円歌、林家たい平。下に行って<十三日の出演者 出演順>春風亭一之輔、入船亭扇辰、柳亭市馬、林家正楽、古今亭菊之丞、立川らく次、三遊亭白鳥、古今亭志ん輔、柳亭小菊、立川志らく、<十四日の出演者 出演順>柳家三之助、桃月庵白酒、林屋正雀。その右側に白と青のポスターが2枚、「墓地売出中」と読めます。門前を歩く人は背広、ダウンジャケット、上着を手に持った人などで、肌寒かったと想像します。
 赤い山門は平成6年(1994)に作られたものです。梁の間に「毘沙門天」「善國寺」の提灯が多数。左側の門柱には「毘沙門天」、右側の門柱は「善國寺」と銘板「神楽坂興隆会」。
 山門を潜り、境内にはいると 左の青銅色の屋根は浄行菩薩。境内灯は街灯とは違い、傘と円筒形の照明でした。本堂前の2体の石虎(右は阿形あぎょう、左は吽形うんぎょう)。その右に読めない看板、さらに右には石虎を描いた絵馬やおみくじを結ぶ棚があり、さらにその上は藤棚で、境内はアスファルト舗装されています。さらに右、門脇の石囲いの中はしだれ桜ですが、こちらもシーズン前です。
 最後は本堂(左、おみく[じ]と読める)と庫裏くり(右、住職や家族の住む場所)です。本堂と庫裏とは渡り廊下でつながっています。また庫裏の受付でおみくじが買えます。

善國寺(写真)昭和54年 ID 11865

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11865は、昭和54年1月、毘沙門天善國寺を撮ったものです。これは[A]とします。

[A]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11865 善国寺

 同じく昭和54年1月に善國寺を撮ったもの[B]があり、それが下のID 11830です。2つとも昭和54年1月の撮影ですが、いくつか違いがあります。

[B]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

 また、ID 9909は昭和50~51年に撮ったもので、これを[C]として3つを比較します。

[C]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9909 善国寺

 立て看板[A]は「歳旦祝祷祈願会」、[B]は「歳旦初寅祈願会」です。
 歳旦さいたんの「歳」は地球が太陽を一周する時間で1年間、「旦」は朝になり、つまり「元日の朝」。
 祝祷しゅくとうとは宗教行事の終りに会衆や人物に祝福を求める祈り。初寅はつとらとは新年になって最初の寅の日、あるいは、その日に毘沙門天へ参詣すること。祈願きがんとは神仏などに祈り願うこと。
「毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻にこの世にお出ましになったことから、寅毘沙と呼ばれる」(善国寺公式サイト)とされ、寅の日を大事にしました。
 昭和54年(1979年)の初寅は1/11(木)でした。[B]は11日以前、[A]はそれ以降の撮影と想像できます。
[A]と[C]には、のぼり旗「奉献開運大毘沙門天」があがっています。添え書きとして[A]は「神楽坂興隆会」、[C]は「神楽坂」しか見えませんが同じものでしょう。「神楽坂興隆会」は地元の方によると「善国寺の応援を主目的にした地元の団体。後に、この団体が中心になって現在の赤い山門を寄進した」とのこと。確かに今の山門には「神楽坂興隆会」の銘板があります。

神楽坂興隆会

[B]にのぼり旗がないのは正月休み中の撮影だったからかも知れません。
[A][B]とも賽銭箱には「志納」とあります。志納しのう金とは信仰心から社寺に納める金、または拝観料です。
[A]は階段脇に一対の提灯があって、「毘沙 善國寺」と書かれています。本堂の長押なげしの中央は正月飾りがあります。その奥の内陣には山号の「鎮護山」。ガラスケースに入っているのは、日蓮宗の祭礼で使うまといでしょうか。ガラスケースの前にも賽銭箱があり、「浄心」と筆書で書かれているようです。

善国寺(写真)昭和54年 ちんござん ID 11834

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11834は、昭和54年1月、毘沙門天 善国寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11834 善国寺

 この写真は毘沙門横丁側に今もありますと、地元の方。以下は地元の方の解説です。

 昭和46年に再建した善国寺本堂は、2階に回廊を巡らし、正面の階段の他、向かって左側にも階段を設け、毘沙門横丁にでるようになっていました。内陣から回廊に出る扉もあり、その上に「びしゃもんぐち ちんござん」という仮名の額があります。
 ID 11832の右側に、毘沙門横丁に面した門柱と階段の手すりが見えます。
 この階段は後に撤去し、「石囲い」も壊して毘沙門横丁側を駐車場にしました。境内の一部にあった駐車場を移し、貸せる台数を増やしたと言います。「月極有料駐車場」の看板のあるところが、かつての階段です。擬宝珠の間に階段がありました。回廊の床の形が、そこだけ変わっています。
 また、この工事の時に境内にある出世稲荷と菩薩像の位置も動かしたようです。

びしゃもんぐち ちんござん 平仮名から漢字になおすと「毘沙門口 鎮護山」でしょう

毘沙門天 1984年と2010年

川柳江戸名所図会④|至文堂

文学と神楽坂

 善国寺の川柳についてです。

鎮護山善国寺
さてまたもとへ戻って、濠端から神楽坂を上り切った辺り、左側、古くは肴町、今は神楽坂五丁目という所にがある。
 そもそもは馬喰町にあり、寛文十年、麹町六丁目横町、御厩谷という所へ移った。そこでその谷を善国寺谷というように成る。
    谷の名に寺名末世置みやげ      (六六・36
いうような句のできるわけは、さらに「武江年表」寛政五年の項に「麹町善国寺去年火除のため地を召上げられ、神楽坂に代地を給はりけるが、今年二月普請成就して、二十七日毘沙門天遷座あり」と記されているようにまた移転したのである。
    あら高くなる谷から坂の上      (六六・31)
    三度目面白い地へ御鎮座       (六六・30)
    所かへてんてこまふかぐら坂     (八一・3)
 本尊毘沙門天は加藤清正守護仏であったとも伝え、尊仰篤く、芝金杉の正伝寺品川の連長寺と共に知られた。
    むりな願ひも金杉と神楽坂       (六六・29)

 日蓮宗鎮護山善国寺です。
馬喰町 東京都中央区日本橋馬喰町です。
御厩谷 おんまやだに。御厩谷坂とは千代田区三番町の大妻通りを北から南に下がる坂。
善国寺谷 現在は千代田区下二番町の間より善国寺谷に下る坂。坂上に善国寺があり、新宿通りから北へ向って左側にありました。坂下のあたりを善国寺谷といい、御厩谷とは無関係。
末世  仏教で、末法の世。仏法の衰えた世。のちの世。後世。道義のすたれた世の中。
置き土産 前任者が残した贈り物、業績、負債。
六六・36 この「川柳江戸名所図会」にはどこにも書いてありませんが、江戸時代の川柳の句集「誹風はいふうやなぎ多留だる」があり、この本も「誹風柳多留」の句集でした。「誹風柳多留」は明和2年から天保11年(1765-1840)にかけて川柳167篇をまとめました。これは66篇の句集36です。ちなみにこの作者は「百河」です。
武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。1848年(嘉永1)に正編8巻、1878年(明治11)に続編4巻が成立。正編の記事は、徳川家康入国の1590年(天正18)から1848年(嘉永1)まで、続編はその翌年から1873年(明治6)まで。内容は地理の沿革、風俗の変遷、事物起源、巷談、異聞など。
普請 家を建築したり修理したりすること。多数の僧に呼びかけて堂塔建造などの労役に従事してもらうこと。
遷座 せんざ。神仏や天皇の座を他の場所に移すこと。
あら 驚いたり、意外に思ったり、感動した時などに発する語。
てんてこ 「てんてこ」とは里神楽などの太鼓の音で、その音に合わせた舞
まふ 舞う。音楽などに合わせて手足を動かし、ゆっくり回ったり、かろやかに移動したりする。
加藤清正 かとうきよまさ。安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。
守護仏 守護本尊。守り仏。一生を守り続けている仏。生年の十二支を求め、8体の仏から決定する。
芝金杉の正伝寺 港区芝の日蓮宗の寺院。寺内に毘沙門天がある。
品川の連長寺 正しくは蓮長寺。品川区南品川の日蓮宗の寺院。寺内に毘沙門天像を祀る。
 縁日の日である。
    ゑん日が千里もひゞく神楽坂      (一五〇・10)
虎は千里行って千里かへる」ということわざをふまえている。
    寅の日におばゞへこ/\善国寺     (六六・30)
「おばゞへこ/\」というのは、当時の流行語であったらしい。ここでは老婆が腰をへなへなと動かす形容である。
 他に句もある。
    おばゞへこ/\の気あるやかましい  (天二満2)
    おばゞへこ/\の気あるでむつかしい  (二〇・26 末四・18)
    おばゞへこ/\がおすきで困り    (一〇三・4)
 これらの句は姑婆がまだ色気があって、聟を困らせるというようなことであろう。
    きざな事おばゞへこ/\罷出る     (傍三・41)
 これは吉原遣り手か。
    寅詣牛へひかれし善国寺        (六六・35)

縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すると御利益があるという。
 十二支の第3番目。寅の日には婚礼などを避けたが、「虎は千里を行って千里を帰る」といい、出戻ることを避けるためだった。時刻では、午前4時の前後2時間を「寅の刻」「寅の時」という。方角は東北東。
ひびく 音が遠くまで達する。ある場所で大きな音や声が発せられて、大きく聞こえる。
虎は千里行って千里かへる 虎が、一日のうちに千里もの距離を行き、さらに戻って来ることができる。活力に満ちた、行動力のあるなどを表す言い回し。
おばば 御祖母。祖母や老年の女性を親しんでいう語
へこへこ 張りがなく、へこんだり、ゆがんだりしやすいさま。頭をしきりに下げるさま。また、へつらうさま。ぺこぺこ。
気ある  興味や関心がある。特に、恋い慕う気持ちがある。
やかましい 音や声が大きすぎて、不快に感じられる。さわがしい。
 もこ。むこ。結婚して妻の家系に入った男性。
姑婆 「こば」? 祖父の姉妹。父方の叔母。
きざな 服装・態度やものの言い方などが気取っていて、いやみだ。
罷出る まかりでる。人前に出る。出てくる。
吉原 江戸幕府が公認した遊廓。浅草寺裏の日本堤で、現在は千束4丁目付近。
遣り手 遊郭で客と遊女との取り持ちや、遊女の監督をする年配の女。
寅詣 とらまいり。寅の日に毘沙門天に参詣すること。

 神楽坂のさらに上、通寺町の右側に多くの寺があり、その一つに龍峯山保善寺というのがあった。ここは山門に「獅子窟」というがかけられていて、世俗獅子寺〉といった。この寺は今は中野区昭和通りに面した所に移っている。
 またその先隣に蒼龍山松源寺という寺があった。俗に〈猿寺〉という。この寺では猿を飼っていた。ある時、住持が江戸川の渡船に乗ろうとした時、猿に引留められて乗船を思い止まり、そのため沈没溺死を免れたという話が伝えられている。この寺も獅子寺と同様中野区昭和通りに移転しており、門前に猿の像を載せた「さる寺」という柱を立てている。
    牛込で獅々猿よりもはやる寅      (六六・35)
 この句はこれらの寺々と善国寺とを獣で比べたのである。
 さて神楽坂や善国寺関係の句が多く六六篇にあるのは、同篇に「牛込神楽坂毘沙門天奉納額面会」が催された時の句、一四八句が載っているからであって、ここにあげた外にも、いろいろあるが省略する。しかし他の篇にはあまりこの寺の句は見当らない。

明治20年「東京実測図」(新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」から)

龍峯山保善寺 盛高山保善寺(赤)。現在は中野区上高田1-31-2に移動。
獅子窟 ししくつ。「窟」はあな、ほらあなの意味。
 書画を枠に入れて室内の壁などに掛けた文句や絵画。その枠。
世俗 せぞく。俗世間。俗世間の人。世の中の風俗・習慣。世のならわし。
獅子寺 三代将軍徳川家光が牛込の酒井家邸を訪問した折り保善寺に立寄り、獅子に似た犬を拝領した。これから「獅子寺」という
蒼龍山松源寺 蒼龍山松源寺(青)。現在は中野区上高田1-27-3に移動。
猿を飼っていた 佐藤隆三氏や芳賀善次朗氏の「猿寺」を参照。
江戸川 これは利根川の支流です。千葉県北西端の野田市関宿せきやどで分流し、東京湾に注ぐ。
はやる ある一時期に多くの人々に愛好する。流行する。 客。