牛込・神楽坂の作家
夏目漱石 | 死亡する一年前に書いた『硝子戸の中』で早稲田や神楽坂を触れています。江戸から明治初めの歴史がよくわかります。
夏目漱石誕生の地は生まれた場所です。喜久井町で更に詳しく。漱石公園は漱石が亡くなった場所。小倉屋は隣の酒屋さん。英国から帰った時に矢来町の家にいましたが、1年半ほどで出て、現在の新潮社がこの辺りを買っています。中村武羅夫は漱石と風呂の話。内田百聞は書き潰し原稿について。漱石が書いた神楽坂の小説と『それから』に登場する神楽坂。また誰が袖は待合でした。 |
森鴎外 | 弟子を取らなかった文士ですが、実は弟子の性格が違って、「詩」では沢山の門弟がいました。南蛮寺門前は木下杢太郎氏が書いた一節です。長田幹彦氏が書いた「文豪の素顔」の「森鴎外」は9段に分かれたもので、森鴎外、夏目漱石、上田敏が一堂に集まった宴会を題材にしてあります。この「文豪の素顔」の「森鴎外」をtxtファイルに変えたものと、mobiファイルをsitに圧縮したもの(kindle用)をここに置いておきます。どうぞご自由に。 |
明治以前と明治の作 |
大田南畝の住居跡は中町でした。浅田宗伯は牛込横寺町に住んでいた漢方の名医です。竹久夢二は牛込区宮比町に住みました。島村抱月は評論と松井須磨子のこと。金子光晴は日本に帰った直後のこと。 |
尾崎紅葉 | 尾崎紅葉も弟子がいました。代表は泉鏡花。横寺町にある十千万堂は建物の名前です。『紅白毒饅頭』は縁日の光景。紅葉の『青葡萄』は言文一致体で、私小説という名前が出る前に出たもの。邦枝完治の『恋あやめ』は尾崎紅葉と泉鏡花などを描いた小説です。国友温太氏の『紅葉は秋』は葬式を描いています。 |
泉鏡花 | 泉鏡花では区の指定史跡があります。2つあり、ひとつは南榎町で、もう1つは神楽坂。小説としては『草あやめ』がありますが、日本語は難しいと思いました。主語がないもん。『春着』 は20代のころを思い出して書いたもの。神楽坂の唄は踊りの唄ですが、やっぱり日本語は難しい。主語も述語もないもんなあ。いろはは『神樂坂七不思議』の1つで、いろはの場所はここ。泉鏡花が徳田秋声に拳をあげて殴るという起こりえない、でも実際に起こった事件もあります。里見弴氏が書いている殴打事件です。 |
徳田秋声 | 『光を追うて』では十千万堂塾に入ったいきさつについて、『和解』では氏と泉鏡花氏との曰く言い難い関係を書いています。 |
鏑木清方 | 日本画の鏑木清方も沢山文章を作っています。矢来町のここに住んでいて、こしかたの記では神楽坂6丁目の店舗などが書かれています。 |
正宗白鳥 | 自然主義の大家で、矢来町などに住んでいたこともあります。縁日について書いた『毒』よりも学生時代を書いた『神楽坂今昔』の方が遙かに面白い。 |
近松秋江 | 燦然とした小説『別れたる妻に送る手紙』で、正宗白鳥と並ぶ名士であります。はい、上記は嘘ですが、近松秋江を読みましょう。疑惑も同じ恨みつらみでいっぱいです。 |
大正の作品 | |
加能作次郎 | 自然主義の一派で、『大東京繁昌記』で「早稲田神楽坂」を書きました。ほかの小説や随筆は私小説なので、面白いのはこれ1つだけといってもいいぐらいです。この「早稲田神楽坂」を一つ一つ調べていくのが原点になりました。この作品は昭和2年で、ちょうど大正から昭和初期にかけて書いています。これは青空文庫にでています。「早稲田神楽坂」は15章に分けてでています。 作家のことについても書いています。 |
東京繁昌記 | この表題で評論が3編書かれています。 |
田山花袋 | 別の自然主義の大家です。蒲団は最も有名ですが、なんというかなあ、こんな重大ではない、なんでもない話で、悩むなんて。ほかに東京の三十年、転居、東京震災記など。 |
石川啄木 | 和歌と日記で有名ですが、本人は小説で有名になりたいと思っていました。私が言うのもなんですが、本当に小説はダメです。ほかに砂土原町の自分の住所について。『スバル』の消息の話。 |
北原白秋 | 詩と作詞で有名です。でも、正覚坊、小笠原島夜話、油虫は小笠原の話です。昔は3日かかって小笠原に行ったのです。ほかに、新宿区で転居をした話。詩『物理学校裏』のこと。区の指定史跡の泉鏡花・北原白秋旧居跡について。啄木が死亡した話。 |
木下杢太郎 | 詩で有名で、最後は東大皮膚科教授。信じられないと思いますが、梅毒が皮膚科の問題だった時代があるのです。フランス留学の時は癩病や梅毒をやっています。南蛮寺門前は、まだ医学生だった時代に森鴎外のことを書いています。 |
永井荷風 | 『断腸亭日乗』はノエル・ヌエットと会った話。笹口幸男氏の『東京の路地を歩く』では神楽坂横丁の話。「書かでもの記」は師匠の広津柳浪氏に初めて会った話。「夏すがた」は慶三が芸者・千代香を妾にする話。「つゆのあとさき」はカッフェーで働く女給の君江さんの話です。 |
長田幹彦 | 祇園を題材にした小説で有名で、「遊蕩文学」として矢面に立つことになります。でも初期に書いた北海道のことや晩期に書いた昔のことは、いいです。わが青春の記は新詩社から脱退する事件について。松井須磨子は京都での話。「文豪の素顔」の「森鴎外」は、森鴎外、夏目漱石、上田敏が一堂に集まった宴会を題材にしてあります。誰も読まないままなので、ここに書きました。 |
長田秀雄 | 戯曲と詩で有名です。松井須磨子の事は自殺の翌日の話。 |
広津和郎 | 関東大震災のときにいた場所は神楽館でした。実際にどこにあるの? 手帳は近松秋江の質入れの話を宇野浩二が書いた事件です。広津和郎の生家はどこにあるの? 手の字は屋台の寿司屋ですが、場所はどこなの。 |
宇野浩二 | 大正8年3月は神楽館などの住所について。白銀町の都築について。 |
関東大震災 | 関東大震災後1~2年は神楽坂が「山の手の銀座」という繁華街の場所になりました。しかし、2~3年も経つと、また寂れた場所になってきます。 |
浅見淵 | 「昭和文壇側面史」の漱石山房の推移、島田清次郎、大震災の部分です |
中村武羅夫 | おそらく大震災の後で書いたものでしょう。 |
サトウハチロー | 詩で有名で、やはり小笠原に行っています。6丁目では木々高太郎がでてきます。熊公焼について。牛込郷愁では都館に住んでいた宇野浩二氏を崇拝します。 |
西條八十 | 実際に住んでいた払方町の場所。ノエル・ヌエットと一緒だったパリのカルティエ・ラタンの学生宿について。 |
ノエル・ヌエット | フランスの詩人ですが、アルバイトでパリに来た日本人にフランス語を教えていました。教わった人は与謝野寛、木下杢太郎、『星の王子さま』を翻訳した内藤濯、西條八十などがいます。そして、日本にやってくると木版画を沢山作ります。たとえば東京のシルエット、神楽坂、日仏学院などです。矢来町12に住み、晩年はフランスに帰っていきます。永井荷風とは1回だけ会っています。 |
里見弴 | 泉鏡花が徳田秋声に拳をあげて殴るという起こりえない、でも実際に起こった事件もあります。二人の作家も私の一日もどちらもこの投打事件に関係します。 |
野口冨士男 | 昭和53年(1978年)、「文學界」の「私のなかの東京」で、神楽坂のことを書いています。全部で11個です。美観は美観街の話。さすがに美観街は消えていきました。路面は、神楽坂の路面はどう変化してきたのか。他に「外濠線にそって」は大正時代の路面電車の外濠線について。「神楽坂考」は林原耕三氏の『神楽坂今昔』の間違いは非常に多いということ。かくてありけりは『古老の記憶による震災前の形』から。同じく、かくてありけりでは母親が住んでいた肴町53番地のこと。「外濠線にそって」では市電の話について。 |
尾崎一雄 | 神楽坂矢来の辺りと初めて見た広津さんは広津和郎のこと。あの日この日は尾崎士郎のこと。 |
昭和前期 | 第2次世界大戦以前を載せています。川崎備寛は神楽坂が「山の手の銀座」になった始まりと終わりのこと。邦枝完治の『恋あやめ』は主に泉鏡花と尾崎紅葉がでてくる小説。林原耕三は最後の漱石門下生です。小菅孝一郎は神楽坂の店舗のこと。中野実は女性の就職(少し違う?)を書いています。 |
戦後直近 | 伝統の店々は戦後1955年の名店の話です。 |
戦後、昭和中期 | 東京大空襲後で戦災を受けた場合と受けない場合。柳家金語楼と色川武大は矢来町のこと。安田武は昔の神楽坂のこと。古川緑波も島金などのことです。舟橋聖一は水谷八重子のこと。 |
昭和後期 | 実は昭和後期はほとんど何も生まれませんでした。1981年の『東京気侭地図』の「神楽坂の灯」は神吉拓郎が書き、1990年には笹口幸男が『東京の路地を歩く』を書いています。 |
平成 | 平成に入ってから変な動きはありました。平成9年に「ここは牛込、神楽坂」が出たり、平成15年に「まちの手帖」が出たり、テレビの平成19年には「拝啓、父上様」がでたりしました。そして、神楽坂のことがもっとたくさん出るようになってきます。名前が出るだけでもいい場合もありますし(石田衣良)、きちんと調べている場合もあります。 |
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松井須磨子 水谷八重子 黒柳徹子
宮城道雄 宮城道雄記念館