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牛込城の興亡|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)「3 牛込の祖、大胡氏について」と「5 牛込城の廃城とその後について」です。もし牛込城がある場合、新しく城を建築したのは何年で、城を解体するのは何年なのかという問題です。つまり、城を維持する期間です。

3 牛込の祖、大胡氏について
(4)大永の乱と牛込の地の継承

 大永4年(1524)正月、小田原の北条氏綱は、江戸城の上杉朝興を攻め、これを攻略した。朝興は川越へ逃げ、北条氏は江戸城代遠山直景を置いた。この戦乱は上杉朝興側の江戸城代、太田資高道灌の孫)の北条氏への内通で結着がついてしまったのである。弁天町にいた大胡氏は、このような扇谷家の末期的様相を、案外、冷静に見極めていたのかも知れない。
 このとき、牛込は戦場となり、兵庫町の町屋や行元寺が破壊されたという(『江戸名所図会』、『江戸名所花暦の冬雪』)。
 戦乱が一段落すると、大胡重行は北条氏綱、氏康の親子に臣の礼をどり、袋町牛込城を築城する。そして、江戸城代、遠山家とも縁を結ぶ。後の徳川氏への随身もそうであるが、誠に素速い替り身は、これも生き延びてゆくための“戦国の論理”だったかも知れない。
 そして、牛込氏を名乗るようになる。大胡氏が公式に牛込姓を得たのは、勝行の代であったが、重行の代から通称では「牛込」で通していたと、云われている。

大永の乱 高輪原の戦い。高輪原合戦。大永4年1月13日に武蔵高輪原(港区)で行なわれた相模の北条氏綱軍と武蔵の扇谷上杉朝興の合戦。
北条氏綱 ほうじょううじつな。戦国大名。後北条氏第2代当主。父早雲の後を継ぎ、江戸城に扇谷上杉氏を攻め、河越城を奪い武蔵に進出した。
上杉朝興 うえすぎともおき。戦国大名。扇谷上杉家当主。大永4年(1524年)1月、朝興は突如、山内上杉家の上杉憲房との和睦を結ぶ。同時に太田資高が北条氏綱に内応したため、北条軍に江戸城を攻撃される。朝興は「居ながら敵を請けなば、武略なきに似たり」と述べて高輪原で迎撃するが、敗退し江戸城を奪われて河越城に逃亡した。
城代 じょうだい。城主が出陣して留守の場合,城を預かる家臣
遠山直景 とおやまなおかげ。戦国時代の武将。後北条氏の家臣。江戸城代を代々勤める。
太田資高 おおたすけたか。戦国時代の武将。太田道灌の孫。江戸城主上杉朝興につかえたが、離反して北条氏綱に属す。大永4年(1524)江戸城を攻めた。
道灌 太田道灌。おおたどうかん。室町中期の武将。名は資長すけなが。上杉定正の執事として江戸城を築城。
弁天町にいた 大胡氏が弁天町にいたとの明瞭な証拠はありません。
大胡氏 「寛政重修諸家譜」などからまとめると、足利成行の庶子重俊は足利から大胡に改称して大胡太郎と称し、上野国大胡(現在の前橋市大胡地域)を治めていた。以降、代々この地域に住んだが、重行の時に武蔵国牛込に移り住んで、その子の勝行は家号を牛込に改めた。勝正の時(1672年)にこの家系は断絶する。
扇谷家 扇谷上杉氏は室町幕府を開いた足利尊氏の母方の叔父にあたる上杉重顕を遠祖とする家。大永4年(1524年)に上杉朝興(上杉朝良の甥で次の扇谷家当主)は江戸城から河越へ逃れるが、これは後北条氏は江戸城への侵攻を開始したためである。
兵庫町 現在の神楽坂五丁目。
江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。行元寺の項では「大永の兵乱に堂塔破壊す」と書いてあります。
江戸名所はなごよみ 別名は江戸遊覧花暦。岡島きん編著、長谷川雪旦せったん画。文政10年(1827)のガイドブック。春、夏、秋、冬の四部構成(秋と冬は合冊)で、草木花の名所を紹介しました。ここでは「市ヶ谷八幡宮」について「大永年中の兵乱に破壊す」と書かれています。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では

重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす
氏康 北条氏康。ほうじょううじやす。後北条氏第3代目当主。
袋町 牛込城が袋町にあったという明瞭な証拠はありませんが「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では……

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

牛込城を築城 上の「天文の頃、牛込宮内少輔勝行この地に住みたりし城塁の跡なりといへり」で、天文は1532年から1555年まで。
勝行 「寛政重修諸家譜」では

勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲

5 牛込城の廃城とその後
(1)牛込城の廃城

 天正18年(1590)7月5日、小田原城は豊臣秀吉の攻厳で落城し、5代100年にわたって関東に君臨した後北条氏は亡んだ。小田原城に先立って、その支城もつぎつぎに攻略され、江戸城も4月22日、徳川家康の臣、戸田忠次に明け渡された。
牛込家文書』に、天正18年牛込の村々に出した禁制の写しが残っているので、牛込城をその頃廃城したと思われる。
 この宛名が武蔵国えはらの都えとの内うしこめ七村とあるので、当時は荏原郡に所属していたことがわかる。なお、近世は豊島郡に所属していた。
(2)牛込氏、徳川氏への帰順
 遠山氏をはじめ江戸衆は解体し、その多くは投降した。牛込氏も家康に降伏し恭順の意を表した。伝承によれば家康江戸城へ入城にあたり、牛込村民は川崎まで出迎えたという。
 おそらく牛込氏が先頭になって村々の代表を連れて、出迎えたと思われる。大胡氏が上州から牛込に入って約100年で牛込城は亡んだ。天正18年8月徳川家康は江戸城に入城し(江戸打ち入り)、地方武士の所領を安堵し、治安を図った。牛込氏もいち早く家康に従い、天正19年(1591)、牛込勝重は家康にお目見えを許され、1,100石取りの家人(旗本)となった。

攻厳 こうげん。厳しく攻める。
戸田忠次 とだただつぐ。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戸田忠次の配した内通者の働きで江戸城は落城
禁制の写し 禁制とは、幕府や大名などの支配者が寺社や村落に対してその統制や保護を目的に発給した文書。この禁制は豊臣秀吉が北条氏の本拠地である小田原へ侵攻するにあたり、武蔵国牛込7村に宛てて発給したもの。
荏原郡 えばらぐん。品川区、目黒区、大田区、世田谷区の一部、川崎市川崎区など。近世までは千代田区、港区の一部を含む
豊島郡 千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、墨田区の南部分、練馬区の大部分。
遠山氏 遠山直景。後北条氏の家臣。江戸城代を代々勤めた。
江戸衆 支城には衆と呼ばれる家臣団が配されました。北条家臣団は、小田原衆を筆頭に14の衆から成ります。江戸城には「江戸衆」が属しました。
牛込村民は川崎まで出迎えた 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城に入城し、牛込七ヵ村の住民は武蔵国川崎村までお迎えに出向いたと「牛込町方書上」。

牛込町方書上 肴町

約100年で牛込城は亡んだ 以下に説明しています。
安堵 封建時代に、権力者から土地所有権を確認されること。以前のぎょう地をそのまま賜ること。

 牛込城は「天文(1532ー1555)の頃、牛込宮内少輔勝行この地に住みたりし城塁の跡なりといえり」(江戸名所図会)から、築城日は遅くても1532ー1555年。廃城は「天正18年(1590)牛込の村々に出した禁制の写しが残っているので、牛込城もその頃廃城した」(上記)から1590年ごろ。約100年の期間だから、築城日は1490年ごろになる。
 大胡氏が前橋市大胡から牛込に移住した時期について少なくとも4通りの考え方があり、1つ目は天文6年(1537)前後で、その時に大胡重行が牛込に移り住み(寛政重修諸家譜、日本城郭全集)、2つ目は少し早く大胡重泰(江戸名所図会)や重行の父重治(赤城神社、南向茶話、東京案内)の時で、3つ目はもっと早く、室町時代初期(応永期~嘉吉期、1394~1443)にはもう牛込に住んでいる場合で(芳賀善次郎氏)、4つ目は逆に遅くなって、勝行(新宿歴史博物館 常設展示解説シート)の時です。
 「牛込氏文書 上」によれば、大永6年(1526)、牛込氏が牛込郷を領有しています。しかし、牛込城ができたのかどうかは、不明です。芳賀善次郎氏のように牛込の宗参寺の所に牧場経営をしていたとも考えらえます。
 一世代が約20年と考えると、この2つ目の考え方を使う場合、1510〜20年に牛込城をつくり、移住したと考えられます。濠がすでに相当あり、丘城だったので、あっという間に城ができたでしょう。
 実際には約100年の期間は長すぎるでしょう。最短時期は35年間ですが、これは短すぎる期間です。

ツルと牧場の語源|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)の「牛込の祖、大胡氏について」3「移住の一考察」です。ここでは「ツル」の語源と牧場に関係する語彙について扱います。

 赤城山南麓は古代から馬牧の地で、大胡氏も馬に関係があったに違いない。移住は管領命令だとすると、それは領地替えである。そして、最初の移住地が弁天町であれば、直ぐ近くに牛込地域の牧場地である鶴巻町があった。鶴巻町の町名由来は、「鶴の放し飼い云々」と、いう説があるが、後世の俗説である。「ツルマキ」の本義は世田谷区の弦巻等も同様で、その語源は、古代の牛馬改良について、優秀な牛馬の牝牡を交尾(ツルマセル)させる専用の牧場名称で、けして、同じ牧柵に入れて雑交させたのではなく、計画的に蕃殖を行っていた(一瀬幸三大宝律令・厩牧令より)。
 薬王寺を源泉とする加仁川柳町の谷を経て北流し、馬場下を流れていた金川との間、鶴巻町あたりが地形的にも、牧場になる。附近にくぬぎ(山吹町、中里町)、こめ(牧場地)、そりまち(牧場後の未耕地)、駒とめ橋(神田川)など、牧場と関係深い地名がある。
 この牧場を大胡氏は南の高台、弁天町居館を構え、牧場管理をしていたのであろう。
 正平21年(1366)に上野と信濃の国境いあき郷(軽井沢地方)という牧場地帯から、吉良治家が管領上杉氏の命で世田谷郷上馬引沢、下馬引沢(上馬、下馬)、弦巻へ領地替えをしている(遠藤周作著『埋れた古城』、荻野三七彦編『吉良氏の研究』)。
 当時の馬は、最も重要な兵器であった。上記二氏を南武蔵に招いた管領上杉氏は、ときの推移を考え、軍馬養成に関する遠謀があったのではなかろうか。
赤城山 赤城山は群馬県のほぼ中央に位置する二重式火山で、中央にカルデラ湖、周囲を1200〜1800mの峰々、その外側には高原台地。
大胡氏 鎌倉時代から室町時代にかけて上野国赤城山南麓で勢力を持った武士の一族。一族の大胡重行が後北条氏の北条氏康の招きを受け、大胡城から武蔵国牛込に移住した。
鶴の放し飼い 東京名所図会(四谷区・牛込区之部)では
 新編武蔵風土記稿に云、元禄の頃、小石川村の田圃中を鶴を放ち飼せられしことあり、其鶴常に小石川と早稲田の二所におりし由、其頃当村にも鶴番人ありしこと或書に見ゆ、鶴巻の名は恐らく是より起りしならむ。
交尾(ツルマセル) 「ツルマセル」の意味は私はわかりませんでした。
 一般に「つる」「鶴」には数種の由来があり得ます。第1番目は鶴の飛来地で「早稲田鶴巻町は、元禄の頃、小石川村の田圃で鶴の放ち飼いをしていて、早稲田村にも鶴番人を置いた」(新編武蔵風土記稿
 2番目は水流で「(ツルは)実は『水流』に由来している。『ツル』という所は、川が鶴の首のように細長く流れている場所を指している。言い換えれば川が増水すればすぐ洪水に見舞われる湿地帯を意味しているという。(中略)ここを流れていた蟹川が「ツル」のようであったことに由来するとも言われる」(「川」や「沼」がなくても安心できない。プレジデントオンライン)「(ツルは)盆地の上下をくくるところの急湍きゅうたんの地」(柳田国男「地名の研究」)。なお、急湍とは流れのはやい浅瀬の意味。「古代人は『水路のある平地』をさしてツルと呼んでいたようです」(第23話 地名の話 秦野市鶴巻について
 3番目は「荒地のことを、古言で「つる」、朝鮮語でもTeurツル(曠野)、——富士山爆発の結果、火山岩落下のため、荒蕪地となった一帯の地を、甲州で都留郡というように——といっていたから、『つるまき』は『曠野ツルまき』という意味、新宿区早稲田鶴巻町も同じである」(日本地名学研究
 さらに4番目は「古代の牛馬改良について、優秀な牛馬の牝牡を交尾させる専用の牧場」(上記)。
蕃殖 はんしょく。繁殖。動物・植物がどんどん新しく生まれ出てふえていくこと
『大宝律令・厩牧令』 国立図書館ではこの文書は不明でした。もくりょうは大宝元年(701)に牛馬の飼養、駅馬、伝馬などを規定した法令。これ以降、東北や関東を中心に馬牧が増えていきます。
加仁川 加二川。水源地は牛込柳町。北流して、金川と合流する。下図では「市谷柳町の支流」。
金川 下図では「蟹川」。水源地は西部新宿駅付近の戸山公園の池。現在は暗渠化。歌舞伎町の東端、大久保通りの地下、大江戸線東新宿付近、東戸山小学校、戸山公園、早稲田大学文学部、大隈講堂付近、鶴巻小学校付近を流れ、山吹高校付近で加二川と合流し、文京区関口を経て江戸川に注ぐ。

江沢隆志「地形を楽しむ東京『暗渠』散歩」(洋泉社、2012)。市谷柳町の支流が加二川に

椚田 椚は神木のクヌギの木から。椚元は早稲田鶴巻町東部の大字おおあざ名。山吹町の旧あざ名。大字は江戸時代「村」を継承した地域名称で、字は大字より小さい集落の地名。大字、字、小字の3つがあり、これを市区町村の後、番地の前につく。東京名所図会(四谷区・牛込区之部)は早稲田の小名として「くぬぎもと 段町 金田 向田 石井後 籠 鶴卷」をあげる。
籠田 放牧地に対して一か所に集めて検査したりする所。新編武蔵風土記は中里町の小名として「椚元 ソリ町 殿ノ下 山下 道上 道下 谷ノ中 籠田 金田」をあげる。
反町 中里町の字名。ソリ町。早稲田鶴巻町の東南部。「畑を焼くことでは無くして耕地を廃した後の状態の名」(柳田国男
駒とめ橋 馬が先には行けないという意味
牧場と関係深い地名 新宿区教育委員会編「新宿区町名誌:地名の由来と変遷」(東京都新宿区教育委員会、1976)の「牛込北部(旧牛込村北部低地)」では……
 早稲田鶴巻町の北、文京区の神田川に駒塚橋がある。昔は丸太橋で、駒留橋といった。放牧された馬は、ここまで来ても先に行けないので名づけたというが、この橋名もここの牧場に関係あるのであろう。早稲田通り八幡坂下の蟹川を渡る橋も駒留橋(今なし)といった。ここの牧場は、古代牛込にあったと思われる神崎牛牧と関係あるかどうかは不明である。
 この地の、江戸時代の字名に、段田とこめがあった。この字名も、牧場に関係ありそうである。段田の段は、広さを表わす語ではなく、反町(そりまち)と同じものと思われる。隣の中里町の宇名に、「ソリ町」のあることでも分かろう。ソリとは、草里・楚里とも書く地名用語で、反田・曲畑(そりはた)・曾利・反目などの地名として、特に関東以北にこの種の地名が多い。
 ソリは、焼畑関係の語で、休耕している意味といわれるが、柳田国男は「地名の研究」で、「畑を焼くことでは無くして耕地を廃した後の状態の名」としている。マチは区別の意味で、市店の意味ではないから、ソリマチとは何にも使われていない土地ということであろう。そこで、前述の鶴巻と合わせて考察すると、はじめ牧場だったが、その後放任されている土地ということではなかろうか。なお、その場所は次の籠といっしょに考える。
 こめは、その読み方はもちろん、場所も由来も不明である。しかし、隣の中里町の宇名に、こめがあったので、この籠も籠田と同じ意味であろう。つまり、鶴巻の牧場と関係があり、馬を集める(おし込める)所の名残りで、放牧地に対して一か所に集めて検査したりする所ではなかろうか。そこで、山吹町の宇名のソリ町・籠田とともに考察すると、ソリ田・段田は榎町に近い早稲田鶴巻町の東南部、籠と籠田は弁天町に近い地域と推定される。
 そのほか、早稲田鶴巻町東部中央の大字名にくぬぎもとがあった。同町185番地は、椚元の小字椚元で、明治初期は中里村の飛地だった。そこは、赤城元町の赤城神社の旧地で小祠があり、そこには神木のクヌギの木があったので、この地一帯の字名となった。この地名も、隣の山吹町の旧字名にあるから、その方まで広がっていた古い字名と思われる。
居館 弁天町の宗参寺の周辺に居館を構えたと新宿区郷土研究会は考えているようですが、支持する文献も反論する文献もありません。
遠藤周作 えんどうしゅうさく。小説家。芥川賞は「白い人」で。キリスト教の「海と毒薬」「沈黙」、ユーモア小説「狐狸庵先生」など。生年は大正12年3月27日。没年は平成8年9月29日。73歳。
埋れた古城 古城巡り12篇を収める。世田谷城、高天神城、清洲城、備中・高松城、箕輪城、日之枝城、小浜城など。
荻野三七彦 オギノミナヒコ。古文書学者。東京帝国大学文学部史料編纂所嘱託。早稲田大学教授。生年は明治37年3月18日。没年は平成4年8月12日。88歳。
吉良氏の研究 1975年、関東武士研究叢書第4巻(名著出版)として刊行。

牛込氏についての一考察|⑥牛込城築城

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑥「大胡氏の牛込城築城」です。

  6 大胡氏の牛込城築城
 大永4年(1524)正月、小田原の北条氏綱は江戸城主扇谷朝興と戦い、江戸城を攻略して遠山直景城代とした。この時前述の神楽坂にあった行元寺破壊された(『江戸名所図会』)というから、牛込はその時戦場になったものと思われる。
 この動乱の時、大胡重行弁天町から袋町の高台に牛込城を築いて移り、氏綱から認められるようになったものであろう。『新宿区史』には「牛込氏が北条氏と結んだのは、多分氏綱が大永四年朝興を残して江戸城を手中にしてからではないかと思う」といっている。『牛込文書』によれば、すでに大永6年には日比谷に警備のため陣夫を出している。
北条氏綱 ほうじょう うじつな。戦国時代の武将。小田原城主。上杉朝興ともおきの江戸城、上杉朝定の松山城を破り、下総国府台の戦で足利義明・里見義堯を破って関東一帯を制圧。小田原城下の商業発展を図った。
扇谷朝興 戦国時代の武将。上杉朝興ともおき。扇谷上杉氏の当主。北条早雲によって相模を奪われ、大永4年(1524)、その子北条氏綱に武蔵江戸城を奪取された。
遠山直景 戦国時代の武将。後北条氏の家臣。
城代 じょうだい。城主が出陣して留守の場合,城を預かる家臣
破壊された 江戸名所図会では「大永の兵乱に堂塔破壊す」と書いています。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」
牛込氏が… 「新宿区史」は
牛込氏が北条氏と結んだのは、多分(北条)氏綱が大永四年(扇谷家の上杉)朝興を残して江戸城を手中にしてからではないかと思う。そうでなければ、牛込氏は扇谷家の大きな勢力の近くにあって孤立状態になってしまうからである。北条氏は大永4年朝興を敗って、江戸城をとり、遠山氏をここに置いてから後も、朝興との争いは絶えず、大永6年12月には里見義弘の鎌倉侵入にあたり、氏綱は鶴岡に邀え戦ってこれを破っており、享禄3年6月(1530)には朝興と戦ってこれを破っている。
陣夫 じんぷ。じんぶ。戦争に必要な食糧などの物資を運ぶため領内から徴用した人夫。

 牛込城が袋町にあったという明瞭な証拠はない。『江戸名所図会』と『御府内備考』に書かれているだけであるし、城全体の規模も不明である。しかし、伝説によれば、西は南蔵院から船河原町に通じる道、北は大久保通りの崖、東は神楽坂に面した崖、南は光照寺境内南の崖(崖下は空堀)で、舌状半島形をした台地の先端部分である。
 城内の構造も不明だが、大胡氏の居館は光照寺境内で、大手門は神楽坂にあり、裏門は西の南蔵院に通じる十字路あたりにあったという。
江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では
牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり
御府内備考 「御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では
牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々
(註:いかさま:1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき)
伝説によれば 新宿区郷土研究会の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)の牛込要図が最も詳細にできています。ここで中央の が牛込城跡です。

牛込の夜明け前。牛込要図。「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)(色は当方の追加)

大手門 城の正面。正門。追手おうて

 大胡氏はなぜこの場所を選定したかは不明である。地形上からみれば、この付近で城を築くに格好の場所は、この北方のつく八幡の高台である。そこは戦国時代すでに上杉管領とりでを築いたことがある(『日本城郭全集』)ほどである。
 筑土八幡の高台では、台地突出部が狭少だから広く縄張りする必要があり、規模を大きくすると短期間では築城できなかったこと、当時の古道はだいたい今の早稲田通りだったろうから、主要道を背後にするという不つごうさがあったものと思われる。その上、神楽坂の方には部落も多く、すでに行元寺も建っていたことが引きつける理由になったものであろう。
筑土八幡の高台 上図の牛込要図では右上のC㋬です。
上杉管領 関東管領とは室町幕府の職名。鎌倉公方の補佐役で、上杉うえすぎ憲顕のりあきが任ぜられて以後、その子孫が世襲した。
とりで 築土城です。
縄張り 縄を張って境界を決めること。建築予定の敷地に縄を張って、建物の位置を定めること

 大胡重行は、前述のよう天文12年に死去し、弁天町宗参寺に葬られた。重行の子勝行は、北条氏康の重要家臣となり、天文24年(1555)正月6日には、宮内少輔の官位をもらい、姓を牛込氏と改めた。これはすでに呼び名となっていたものを公的に認めて貰ったものであろう。そして牛込から赤坂、桜田、日比谷あたりまで領することになった。
 牛込勝行は、弘治元年(1555)9月19日に、牛込御門に移されてあった赤城神社を現在地の赤城元町遷座した。また勝行の子勝重の妻に、江戸城の遠山綱景(直景の子)の娘を迎えたのである(児玉、杉山共著『東京の歴史』)。
牛込勝行 北條氏康につかえ、弘治元年(1555年)姓の大胡氏はやめ、牛込氏に変える。牛込、今井、桜田、日比谷、下総国堀切、千葉等の地を領有した。天正15年(1587年)死亡。年85。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の大名。後北条氏3代目。氏綱うじつなの嫡子。永禄2年(1559)「小田原衆所領役帳」を作成。永禄4 年、小田原城を攻めた上杉謙信を戦わずして退かせ、後北条氏の全盛期を築く。
宮内少輔 くないしょうゆう。令制の第二等官である次官すけのうちで下位のもの。従五位。
遷座 神体、仏像などをよそへ移すこと。
遠山綱景 とおやま つなかげ。後北条氏の家臣。武蔵遠山氏の当主。
児玉、杉山共著『東京の歴史』 児玉幸多と杉山博の共著で「東京都の歴史」(山川出版社、1977年)でしょう。その135頁は……
 江戸城代の遠山氏の次代は、丹波守綱景である。かれは隼人佑・藤九郎・甲斐守ともいった。かれは、氏綱・氏康にしたがって、府台うのだい攻撃に参加したり(天文7年)、鶴岡八峰宮の造営に協力したり(天文8~10年)、妙国寺の濁酒醸造の免除を命じたり(天文17年)、六所明神の本地仏の釈迦像を修理したり(天文21年)、浅草の総泉寺や品川の本光寺に禁制をだしたり(天文23年)している。またかれは、連歌師の宗長とも交際があった。また綱景の娘は、江戸の名族の牛込勝重・島津主水・猿渡盛正らのもとに嫁している。
 こうして綱景は、婚姻政策によっても、自家の勢力を江戸とその周辺にのばしていったが、永禄7年正月4日、国府台合戦で戦して戦死した。

註:丹波守綱景 遠山綱景。永正10年(1513年)頃、北条氏の重臣である遠山直景の子(長男とも)。天文2年(1533年)、父に引き続き江戸城代となる。
国府台攻撃 国府台合戦。天文7年(1538)と永禄7年(1564)の2回、下総国国府台(現 千葉県市川市)で房総勢と後北条氏の間に行われた合戦。後北条氏が勝利し、覇権は安泰になった。
天文7年 1538年。
永禄7年 1564年。

居酒屋の作家|山本容郎

文学と神楽坂

『居酒屋の作家』(潮出版社、昭和57年)を書いた山本容郎ようろう氏は文芸評論家で、昭和28年からの12年間は角川書店編集者。昭和50年、フリーに。著書に「文壇百話ここだけの話」「作家の食卓」など。生年は昭和5年4月20日、没年は平成25年12月4日。享年は満83歳。

 私は、曙橋へ出る大通りを少し歩いた。町名でいうと、弁天町である。弁天町と云えば、私は井伏鱒二の「夜ふけと梅の花」が頭に浮かぶ。
「或る夜更けのこと、正確にいえば去年の三月二十日午前二時頃、私はひどく空腹で且つくったくした気持で、何処かおでん屋でもないかと牛込弁天町の通りを歩いていた」
 と、始まるこの作品は、暗がりから出てくる血だらけの男と、それが機縁になって交友関係が出来る奇妙で味のある短篇小説だ。
 奇妙で味のある短篇小説と云えば、と私はつぶやきながら、早稲田通りへ引返して、天神町交番まで来た。
 その作品は、内田百閒の「神楽坂の虎」という小説。ここでは、主人公は、三人づれで、夜中の十二時過ぎ、店をやっている鮨屋をさがしているうちに暗がりに大きな虎を、五、六匹見る話なのである。
「夜ふけと梅の花」の血だらけの男も酔っぱらって、四、五人の男に袋だたきになったのである。彼は大トラということになろうか。
 神楽坂界隈は、虎がよく出る。私は、二つの作品の偶然の一致を喜んだ。百閒はトラを本物の虎として書いているけれど、酔っぱらいのトラを揶揄しているのかも知れない。
曙橋 あけぼのばし。新宿区住吉町。立体交差の道路橋の名前
大通り 正しくは外苑東通り
夜ふけと梅の花 大酒飲みの男は、消防団4、5人から袋叩きにあい、主人公に出会う。主人公はなだめながら、交友関係ができないうちに、男から5円を受け取る。5、6月後、主人公も酔客になり、同様な事を行う。
且つ かつ。二つの行為や事柄が並行して行うこと
くったく 屈託。ある一つのことばかりが気にかかってその他が手につかない。くよくよすること。
機縁 きえん。きっかけ。縁。
早稲田通り 千代田区九段北の靖国通りの田安門交差点から、神楽坂通りを通り抜け、外苑東通りの交点から杉並区上井草の青梅街道の井草八幡前交差点までの延長15kmの東西方向の道路
神楽坂の虎 夜の神楽坂を通ると、虎が五六匹でてくる。うち一匹が後をつけてくる。「夢語り」手法を境地に高めたもの。
揶揄 やゆ。からかう。なぶる。嘲弄ちょうろうする

 私とMは、早稲田通りと大久保通りの交差点から、筑土八幡の方へ歩いた。左側に菊鮨、第三玉の湯、そして「しょうが見える。
 私は、昭和二十八年から四十年まで、飯田橋駅(新宿寄り)から出て、左へ九段の方へ入る方角にある出版社に勤めていた。その関係で神楽坂は、昔なじみの町なのである。「庄」は、昔なじみの飲み屋なのである。
 時は午後二時。私は近くに会社のある友入たちを呼んだ。そら豆、枝豆、やきとりを頼んで、ビールを飲み出した。やがで、総員五人になった。
 二十五、六年前、私は会社のOという二年先輩につれられて、夕方神楽坂を歩いた。彼は江戸趣味があって、私を吉原へも案内してくれた。その時、神楽坂を少し登り、「志満金」(うなぎ屋)の先の路地を左へ曲ると空地へ出た。彼は、ここが、鏡花と神楽坂の芸者・桃太郎(本名・伊藤すず)とが恋愛関係になり、紅葉没後、新世帯を持った場所だと教えてくれた。目の下には、物理学校(東京理科大学)が見えた。
 私は、その頃、読んだばかりの北原白秋の「物理学校裏」の詩の切れ切れを口に出していた。

 日が暮れた、淡い銀と紫――
 蒸し暑い六月の空
 暮れのこる棕櫚の花の悩ましさ。

 それから「一楽」「亀田屋」と、かつてのなじみの店を歩いた。トラにならないけれど、この町は、文豪と虎がよく似合うようだ。
交差点 昔は(昭和55年など)「神楽坂交差点」でした。今は(昭和59年など)「神楽坂上交差点」です。この本が出版された昭和57年11月はどちらを使ったのは、不明です。
筑土八幡 北東方向です。
菊鮨、第三玉の湯、そして「たこ庄」 3軒全ては白銀町にあります。地図を参照

1980年。住宅地図。

昔なじみ 昔馴染。昔から親しくしている人や物、場所。昔親しんだ人や物、場所。
出版社 角川書店です。住所は千代田区富士見二丁目7番地。現在は富士見二丁目13番3号。
趣味 物事から感じ取られるおもむき。味わい。情趣。
吉原 吉原遊廓、江戸幕府が公認した遊廓。初めは江戸日本橋近く(日本橋人形町)に、明暦の大火の後、浅草寺裏の日本堤に移転した。前者を元吉原、後者を新吉原と呼ぶ。
なじみの店 「一楽」や「亀田屋」の位置は不明です。

神楽坂3丁目 歴史

 明治40年、東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…。

神樂坂町三丁目 昔時せきじよりすべ士地なり。内神樂坂東南とうなんの地は享保火除地ひよけちとなり、後放生寺借地の内に入り、維新後いしんご其西部華族松平氏の邸となる。又神樂坂西北の地は、元祿八年火消役ひよけやく屋敷やしきとなり、後本多氏邸となる。明治四年六月之を合して三丁目とす。
昔時 むかし。いにしえ。往時。
士地 しち。幕府武士の土地
享保 江戸中期の 1716~36年。
火除地 江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地。
放生寺 新宿区西早稲田にある真言宗の寺
松平 松平出羽守。
元祿八年 1695年。
火消役屋敷 火消屋敷。火消役がその任にあたるために住む屋敷。初めは火消役として旗本4人を選び、各々与力6名、同心30名を付属させた。
本多氏 本多修理因幡守など。定火消などを務める。

 神楽坂3丁目は全て武士の屋敷だったといいます。新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)でも同じです。

神楽坂三丁目
 江戸時代には武家地であった。神楽坂より南の地は享保年間(1716―35)以後は二丁目と同様の変遷をしたが、明治維新後は西部が華族松平氏邸となった。坂の北の地は元禄8年(1695)には火消役屋敷となり、のち本多氏邸となった。明治2年(1869)に牛込神楽町となり、同4年6月、これらの土地を合わせて神楽町三丁目となり(市史稿・市街篇53)昭和26年(1951)5月1日神楽坂三丁目となる(東京都告示第347号)。

 明治8年、江戸時代からの本多家と維新後の松平家がありましたが、あっという間にこれは姿を消し、商売の土地が増えてきます。

明治7年の神楽坂(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

 「ここは牛込、神楽坂」第2号で、竹田真砂子氏の『振り返れば明日が見える。銀杏は見ていた』で…

 本多の屋敷跡は、明治十五、六年頃、一時、牛込区役所がおかれていたこともあったようだが(牛込町誌1大正十年十月)、まもなく分譲されて、ぎっしり家が建ち並ぶ、ほぼ現在のような形になった。反対側、今の宮坂金物店の横丁を入った所には、旧松平出羽守が屋敷を構えていて、当時はこの辺を「出羽様」と呼んでいた。だいぶ前、「年寄りがそう言っていた」という古老の証言を、私自身、聞いた覚えがある。

 区役所については新宿区役所「新宿区史」(新宿区役所、昭和30年)で…

 牛込区役所は、明治11年11月神楽町3丁目に初めて開庁し、15年11月同町3丁目1番地に移り、18年2月袋町光照寺に転じ、19年3月市谷八幡神社内に移り、26年11月新庁舎を設けて箪笥町に転じた。大正12年9月大震災後、弁天町(現弁天公園の場所)にバラック建仮庁舎を設けたが、昭和3年5月12日、再び箪笥町の新庁舎(現新宿生活館)に還った。

 主な土地は、東陽堂の『東京名所図会』第41編(明治37年、1904)は

三丁目 自一番地至十番地。
三丁目一番地に笹川。(料理店)川島本店。(酒類卸小賣)二番地に菱屋。(糸裔)安生堂藥舗。五番地に帝國貯蓄銀行神樂坂支店。(本店は京橋區銀座二丁目。資本金十萬圓。二十九年八月十五日設立)六番地に青陽樓(西洋料理店)淺見醫院あり。

 1917年(大正元年)、東京市区調査会の複製(地図資料編纂会『地籍台帳・地籍地図「東京」』、柏書房、1989年)です。

神楽町3丁目

神楽町3丁目、東京市区調査会

 大正6年、飯田公子氏の『神楽坂龍公亭物語り』(平成23年)では

神楽坂3丁目

神楽坂3丁目

 最後に現代の3丁目です。

神楽坂3丁目(Google)

神楽坂3丁目(Google)

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

牛込の文士達⑤|神垣とり子

 くろご朗読会というのがあって芝居好きの二十前後の若者たちがより集ってお互いに役割をきめてやる。発起者は築地六芳館の甥で中川某、「修善寺物語」の姉娘など寿美蔵ばりでよかった。うづまき石鹸の本舗の主人が森ほのほという劇評家なのでよくきていて若いくろご朗読会のめんどうを見ていた。口の大きい福地もよくやってきた。
 芝居の総見もやった。泰三は芝居にあんまり興味がなかったが若い連中とよくつきあった。それに大正日日という新聞社へ里見弾と一緒に入社したので「御社(おしゃ)」といわれる芝居の二日目に芝居へ出かけ、新聞に劇評をかくので役にたった。もっとも「新演芸」の内山佐平に、「御所の五郎蔵」の落入り胡弓がはいるのをヴァイリンかといって笑われたぐらいだけど。
くろご朗読会 ラジオの脚本朗読に加わった団体のひとつだ、と遠藤滋氏の「かたりべ日本史」(雄山閣、昭和50年)
築地六芳館 「憲政本党党報」第3巻749頁では「12月22日出京、京橋区築地六方館に投宿」と書いてあります。旅館でしょうか。
寿美蔵 市川寿美蔵(すみぞう)。上方の歌舞伎役者。
修善寺物語 戯曲、歌舞伎作品。一幕三場。岡本綺堂作。面作りにかける夜叉王の職人気質や頼家暗殺のドラマなどを織り込み、舞台は大評判に。
姉娘 年上の娘
うづまき石鹸 「日本橋街並み繁昌史」262頁によれば、日本橋横山町二丁目の近江屋天野磯五郎店が石鹸「ウヅマキ」を販売したようですが、石鹸を生産したのかは不明です。
森ほのほ 京都の劇評家、狂言批評家。
福地 不明ですが、新聞記者、政治家、劇作家の福地源一郎氏では? 歌舞伎座を建設するのですが、生年は天保12年3月23日(1841年5月13日)、没年は明治39年1月4日と、少し早く死亡しています。
総見 そうけん。総見物の略。全員で見物すること。芝居・相撲などの興行を支援するため、団体などの全員が見物すること。
大正日日 1919年11月、大阪で創刊した日刊新聞。大阪の商人の勝本忠兵衛が破格の資本金200万円で創設。先発の大阪毎日新聞、大阪朝日新聞から仇敵視され、妨害を受け、翌20年7月、大本おおもと教に買収。
御社 御社日。おしゃび。演劇・興業の世界では、演劇関係者や記者の公演招待日
新演芸 大正5年~14年、出版社の玄文社が「新演芸」誌を作り、毎月、東京の各劇場を総見して批評した演劇合評会が有名だった。
内山佐平 大正5年~14年、出版社の玄文社の社員。その後、JOAK(現、東京放送局NHK)に移ってラジオ番組を制作した。
御所の五郎蔵 歌舞伎狂言「曽我そが綉侠もようたてしの御所染ごしょぞめ」の後半部分の通称
落入り おちいり。歌舞伎で、息の絶えるさまをする演技
胡弓 こきゅう。東洋の弦楽器。形は三味線に似て小形。弦は三本か四本。馬の尾の毛を張った弓でこすって演奏する。
ヴァイリン バイオリン。管弦楽や室内楽において中心的役割を果たす擦弦さつげん楽器。おそらく泰三が胡弓を間違えてバイオリンといったのでしょう。

 「生きている小平次」の作者鈴木泉三郎第一書房長谷川巳之吉玄文社のお歴々が神楽坂へよくやって来た。鈴木泉三郎は四谷銀行の行員の伜で、大番町の水車のある川岸に家があって山形屋小間物店の娘を嫁にもらってちょっと評判になった。「八幡やの娘」や「美しき白痴の死」を書いたが若死にをして惜しかった。
 坂本紅連洞という名物男がいた。長い黒いマント姿で、顔が長く文士の誰彼をつかまえて、やい1円出せ。税金取り立てよりこわいらしく誰でも出す。いやだという者は1人もいないのが不思議だ。島村抱月もとられた一人だった。『ヤイ島村』と呼びつけられても怒らなかったそうだ。何の会でも木戸御免でまかり通っていた。谷垣精二の近くの弁天町に独身で間借りしていた。どういう風の吹きまわしか私は気に入られていた。グレゴリー夫人作の「月の出」が有楽座にかかった時入場券をくれたり、トルストイの「闇の力」の入場券をくれた。
生きている小平次 鈴木泉三郎作の戯曲。三幕。大正13年『演劇新潮』に発表。大正14年6月新橋演舞場で、六世尾上菊五郎などで初演。内容は、歌舞伎囃方の太九郎は役者の小幡小平次から妻をほしいといわれ、舟の外に突き落としてしまう。10日後、役者の小平次は妻の前に現れたが、太九郎が現れ、役者を殺してしまう。太九郎と妻は江戸を逃げ出すが、小平次のような旅人がついていく。ここで終わり。
鈴木泉三郎 すずきせんざぶろう。「新演芸」を編集し、戯曲「八幡屋の娘」「ラシャメンの父」「美しき白痴の死」などを執筆。12年2月6代目尾上菊五郎が「次郎吉懺悔」を上演し好評だった。玄文社の解散にともない、以後文筆生活に入る。絶筆の「生きてゐる小平次」は代表作。生年は明治26年5月10日。没年は大正13年10月6日。享年は満32歳。
第一書房 1923年、創業。1944年3月、廃業。絢爛とした造本の豪華本を刊行
長谷川巳之吉 はせがわみのきち。雑誌・書籍編集者。「玄文社」に入社、『新演芸』などを編集した。生年は明治26年12月28日、没年は昭和48年10月11日、享年は満79歳
玄文社 大正5年~大正14年、東京の出版社。単行本の他、月刊雑誌『新家庭』『新演芸』『花形』『詩聖』『劇と評論』も発行。
四谷銀行 明治30年10月、東京市四谷区伝馬町(現在の東京都新宿区四谷)に設立。大正11年11月、京都市の日本積善銀行の取り付け騒ぎが始まり、本行も休業し、このまま整理中。最終的に昭和2年に廃業した。
大番町 四谷大番町。現、新宿区大京町。
山形屋小間物店 山形屋は宝暦元年(1751年)に創業した鹿児島の百貨店?
八幡やの娘美しき白痴の死 国会図書館で鈴木泉三郎戯曲全集を無料閲覧中
木戸御免 きどごめん。相撲や芝居などの興行場に、木戸銭なしで自由に出入りできること。
グレゴリー夫人 アイルランドの劇作家・詩人。Isabella Augusta Gregory。アベー座を開場し、アイルランド伝説の収集に努力し、そこに基づいた戯曲を書いた。一幕物「月の出」は1907初演。生年は1852年3月15日、没年は1932年5月22日。

 花柳はるみ中野秀人と神楽坂を歩いていたり、長田幹彦の兄の秀雄が新婚の細君と仲よく田原やへ姿を現わしていた。神楽坂の中途にある牛込会館汐見洋金平軍之助八重子を座長にして芸術座を起したので、俳優達も街を賑わしていた。ダルクローズの体育学校を出てきた山田五郎の弟子がステッキを妙な風について得意がって歩いていた。
 近代劇場というのが出来て、「時事」美川徳之助――美川きよの実兄――が「リリオム」で舞台にたって浅野慎次郎田中筆子が参加した。田中筆子は沢田正二郎東京明治座で旗上げした時に初舞台をした気のきく子役で、その時これもやっぱり早稲田の学生で、俳優になって島村抱月を崇拝し教授の片上伸の名をとって月村伸と名乗った男と出演した。
花柳はるみ 女優。大正4年、芸術座の「その前夜」で初舞台。7年、帰山教正のりまさ監督の「生の輝き」に主演し、日本映画の女優第1号となる。35歳で引退。生年は明治29年2月24日、没年は昭和37年10月11日。享年は満66歳。
中野秀人 なかのひでと。詩人、画家。大正9年、プロレタリア文学評論「第四階級の文学」を発表。昭和15年、花田清輝きよてるらと「文化組織」を創刊。戦後も前衛的な創作活動をつづけた。詩集は「聖歌隊」、小説は「精霊の家」など。生年は明治31年5月17日。没年は昭和41年5月13日。享年は満67歳。
金平軍之助 映画の出演、製作を行った。出生地は東京市本郷。生年は明治38年年5月7日
芸術座 大正2年、島村抱月氏と松井須磨子氏を中心に東京で結成した新劇の劇団。抱月・須磨子の急死で、大正8年、解散。大正13年、水谷竹紫氏が義妹水谷八重子氏を中心に再興。昭和20年、竹紫の死で自然解消。
ダルクローズ スイスの音楽教育者、作曲家。リズムと身体運動を結びつけた教育方法リトミックを創始。世界の幼児教育に多大な影響を与えた。
山田五郎 昭和の舞踊家。能楽に学び、大正15年、米国で舞踊家となり、パリのオデオン座に出演。昭和3年帰国し、能をとりいれた「猩々」などを演じた。生年は明治40年1月22日、没年は昭和43年12月21日。享年は満61歳。
得意がる 盛んに得意な様子をする。誇らしげにふるまう。
近代劇場 どうも「近代劇場」という劇場が実際にあったようです。1926年にこの劇場で「リリオム」が初演されています。
「時事」 時事新報です。美川徳之助氏は時事新報の記者でした。
美川徳之助 随筆家。大丸に務めていた父の命でロンドン1年間、パリ5年間の遊興生活。帰国後、時事新報5年間、読売新聞27年間勤め企画部長で退職。「愉しわがパリ―モンマルトル夜話」「パリの穴東京の穴」など。生年は明治31年。(村上紀史郎「バロン・サツマ」と呼ばれた男。藤原書店。2009年)
美川きよ 小説家。大正15年「三田文学」に「デリケート時代」を発表。昭和5年以降こまやかな女性心理をえがく短編を手がける。長編小説「女流作家」「夜のノートルダム」など。生年は明治33年9月28日。没年は昭和62年7月2日。享年は満86歳。
リリオム ハンガリーの作家モルナールの戯曲。7場。ブダペストの遊園地を背景に、気のいい乱暴者リリオムの生と死を、現実と空想の交り合った手法で描いた悲喜劇。
浅野慎次郎 俳優。第二次芸術座に参加。『ドモ又の死』など。
田中筆子 女優。大正2年、第二次芸術座の「青い鳥」に出演後、金平軍之助が主宰する近代劇場に参加し、脇役女優として活躍。生年は1913年3月16日、没年は1981年2月23日、享年は満67歳。
東京明治座 中央区日本橋浜町にある明治座です。都営新宿線の浜町駅、都営浅草線の人形町駅、日比谷線の人形町駅から行け、また、東京駅からは八重洲口の無料巡回バス「メトロリンク日本橋Eライン」を使っても行くことができます。
月村伸 俳優。松本克平氏の「日本新劇史」(津熊書房、1966)には島村抱月氏の告別式の写真が載っていますが、そのなかに若いころの氏の写真がありました。

春着|泉鏡花④

文学と神楽坂

 少々せう/\はなしとほりすぎた、あとへもどらう。
 まんちやんさそつたいへは、以前いぜんわたしんだ南榎町みなみえのきちやう同町内どうちやうないで、おく辨天町べんてんちやうはうつてことはすぐにれた。が、家々いへ/\んで、したがつてみちせまつたやうながする。ことよるであつた。むかしんだいへ一寸ちよつと見富けんたうかない。さうだらう兩側りやうがはとも生垣いけがきつゞきで、わたしうちなどは、木戸内きどうち空地あきち井戸ゐどりまいてすもゝ幾本いくほんしげつてた。すもゝにはから背戸せどつゞいて、ちひさなはやしといつていゝくらゐ。あの、そこあまみをびた、美人びじんしろはだのやうな花盛はなざかりをわすれない。あめにはなやみ、かぜにはいたみ、月影つきかげには微笑ほゝゑんで、淨濯(じやうたく)明粧めいしやう面影おもかげにほはせた。……
[現代語訳] 少々話は通りすぎた。もとに戻ろう。
 その日、この万ちゃんの家は、以前、私が住んでいた南榎町と同じ町内だが、弁天町の方へ近いことはすぐにわかった。が、家々は立て込んでいるし、したがって道も狭くなったよう気がする。ことに夜だった。むかし住んだ家はどこなのか、ちょっと見当はつかない。そう、両側とも生垣つづきで、私の家などは、木戸内の空地に井戸を取りまいて、すももの木が何本も茂っていた。すももは庭から裏門まで続いて、小さな林といってもいいぐらい。あの、底に甘みを帶びた、美人の白い膚のような花盛を忘れない。雨では悩み、風では腐敗し、月影にはほほえんで、きよらかで美しいよそおいの面影を匂っていた。……

南榎町 弁天町。右図を
背戸 家の裏口。裏門。背戸(せど)(ぐち)
浄濯 きよらかで洗う。
明粧 美しいよそおい。美しい化粧。

 たゞ一間ひとまよりなかつた、二階にかい四疊半よでふはんで、先生せんせい一句いつくがある。

(ふん)きよう乳房ちぶさかくすや花李はなすもゝ

 ひとへしろい。ちゝくびの桃色もゝいろをさへ、おほひかくした美女びぢよにくらべられたものらしい。……しろはなの、つてころの、その毛蟲けむし夥多おびたゞしさとつては、それはまたない。よくも、あのみづんだとおもふ。一釣瓶ひとつるべごとにえのきのこぼれたやうなあか毛蟲けむし充滿いつぱい汲上くみあげた。しばらくすると、毛蟲けむしが、こと/″\眞白まつしろてふになつて、えだにも、にも、ふたゝ花片はなびららしてつてみだるゝ。幾千いくせんともかずらない。三日みつかつゞき、五日いつか七日なぬかつゞいて、ひるがへんで、まどにも欄干らんかんにも、あたゝかなゆきりかゝる風情ふぜいせたのである。
 やがてみのころよ。――就中なかんづくみなみ納戸なんど濡縁ぬれえんかき(ぎは)には、見事みごと巴旦杏はたんきやうがあつて、おほきなひ、いろといひ、えんなる波斯ペルシヤをんな爛熟らんじゆくした裸身らしんごとくにかをつてつた。いまだと早速さつそく千匹屋せんびきやへでもおろしさうなものを、川柳せんりうふ、(地女ぢをんなりもかへらぬ一盛ひとさか)それ、意氣いきさかんなるや、縁日えんにち唐黍たうきびつてかじつても、うちつたすもゝなんかひはしない。一人ひとりとして他樣ひとさまむすめなどに、こだはるものはなかつたのである。

[現代語訳] ただ住んでいるのは一間だけだった。二階の四疊半で、先生の一句がある。
     紛胸の乳房かくすや花李  (膨らんだ胸の乳房を隠すのか、花すもも)
 ひとえに白い。乳首の桃色さえ、おおいかくした美女に比べたものらしい。……この白い花が、散って葉になる頃の、その毛虫のおびただしさといっては、もうひどい。よくも、あの水を飮んだと思う。一釣瓶ごとに榎の実のこぼれたような赤い毛虫をいっぱいに汲みあげた。しばらくすると、この毛虫が、ことごとく真っ白な蝶になって、枝にも、葉にも、再び花片をちらして舞ってみだれていく。数は何千あるのか、わからない。三日続き、五日、七日続いて、蝶はひらめき、飛んで、窓にも欄干にも、暖かな雪の降りかかる風情を見みせたのである。
 やがて実る頃になる。――特に、南の納戸の濡縁にあった垣根には、見事な()(たん)(きょう)があって、おおきな実と言い、色といい、艷なるペルシャの女の爛熟した裸身のごとくに匂っていた。今では早速千匹屋でも卸そうなものだが、例の川柳では、(地女は振りもかへらぬ一盛り。訳すと、その土地の女なら無視する、これぞ若さだな)。つまり、意気のさかんな青年は、縁日のトウモロコシは買って食べても、家でなったすももなんか食いはしない。一人として他人様の娘などには、こだわる人はなかったのである。

 物事がもつれる。
ひとえ そのものだけだ。重ならないこと
翻る ひるがえる。風になびいて揺れ動く。ひらめく。
就中 なかんずく。多くの物事の中から特に一つを取り立てる様子。とりわけ。中でも。特に。
 ませ。竹や木で作った、目の粗い低い垣根。多く、庭の植え込みの周りなどに作る。
巴旦杏 はたんきょう。スモモの一品種。果実は大きい。熟すと赤い表皮に白粉を帯びて、甘い。食用。
地女 じおんな。その土地の女。商売女に対して、素人の女
一盛り ひとさかり。一時期盛んであること。若さの盛んな一時期。
こだわる 気にしなくてもいいようなことを気にする。

 が、いまはひらけた。そのころともだちがて、酒屋さかやから麥酒ビイルると、あわたない、あわが、麥酒ビイルけつしてあわをくふものはない。が、あわたない麥酒ビイル稀有けうである。酒屋さかやにたゞすと、「ときさかさにして、ぐん/\おりなさい、うするとあわちますよ、へい。」とつたものである。十日とをかはらくださなかつたのは僥倖げうかうひたい――いまはひらけた。
 たゞ、しいかななかまる大樹たいじゆ枝垂櫻しだれざくらがもうえぬ。新館しんくわん新潮社しんてうしやしたに、吉田屋よしだや料理店れうりてんがある。丁度ちやうどあのまへあたり――其後そのご晝間ひるまとほつたとき切株きりかぶばかり、のこつたやうにた。さかりときこずゑ中空なかぞらに、はなまちおほうて、そして地摺ぢずりえだいた。よるもほんのりとくれなゐであつた。むかしよりして界隈かいわいでは、通寺町とほりてらまち保善寺ほぜんじ一樹いちじゆ藁店(わらだな)光照寺くわうせうじ一樹いちじゆ、とともに、三枚振袖みつふりそで絲櫻いとざくら名木めいぼくと、となへられたさうである。
 むかがは湯屋ゆややなぎがある。此間このあひだを、をとこをんなも、一頃ひところそろつて、縮緬ちりめん七子なゝこ羽二重はぶたへの、くろ五紋いつゝもんした。くにも、蕎麥屋そばやはひるにも紋付もんつきだつたことがある、こゝだけでもはるあめ、また朧夜おぼろよ一時代いちじだい面影おもかげおもはれる。
 つい、その一時代前ひとじだいまへには、そこは一面いちめん大竹藪おほたけやぶで、よわ旗本はたもとは、いまの交番かうばんところまでひるけたとふのである。酒井家さかゐけ出入でいり大工だいく大棟梁おほとうりやうさづけられて開拓かいたくした。やぶると、へび場所ばしよにこまつたとふ。ちひさなだうめてまつつたのが、のちに倶樂部くらぶ築山つきやまかげたにのやうながけのぞんであつたのをおぼえてる。いけちん小座敷こざしきれうごのみで、その棟梁とうりやう一度いちど料理店れうりてん其處そこひらいたときのなごりだといた。
[現代語訳] が、今では開けた。その頃、友だちが来て、酒屋からビールを取ると、泡が立たない。ビールは泡を食べるのはないが、泡の立たないビールは稀だ。酒屋にただすと、「抜く時にさかさにして、ぐんぐん、ふりなさい。そうすると泡が立ちますよ、へい。」といわれた。十日間、腹をくださなかったのは僥倖といいたい――今は開けた。
 ただ、惜しいことがある。中の丸の大樹のしだれ桜がもう見えない。新館の新潮社の下に、吉田屋という料理店がある。ちょうどあの前のあたり――その後、昼間通った時、切株ばかりが見えて、根だけが残ったように見えた。盛りの時は梢が中空に、花は町をおおい、そして地摺りの文様には枝を使っていた。夜もほんのりと紅色だった。昔から界隈では、通寺町保善寺に一樹、藁店光照寺に一樹とともに、三樹合わせて、三枚振袖として、糸桜の名木と、称えられたそうだ。
 向側の銭湯に柳がある。このあいだ、少し前だが、男も女も、そろって、縮緬と羽二重の絹織物、金工技法の魚々子、さらに黒の五紋を着て町に出た。湯へ行くにも、そば屋へ入るにも紋着だった。ここだけでも春の雨、また朧夜という一時代が思い出される。
 その一時代前には、一面の大竹藪で、気の弱い旗本は、いまの交番のところまで昼も駆け抜けたというのである。酒井家に出入の大工の大棟梁が工事を請け負い、開拓した。藪を切ると、何匹も蛇が出てきて、捨てる場所がなく、困ったという。小さな堂にまとめて祭ったのだが、矢来倶楽部の築山の影に谷のような崖があり、堂はそこにあったと覚えている。その棟梁は池、東屋、小座敷、茶室などが大好きで、この堂も一度料理店をそこに開いた時のなごりだと聞いた。

僥倖 ぎょうこう。思いがけない幸い。偶然に得る幸運
惜しい おしい。大切なものを失いたくない。むだにすることが忍びない。もったいない。
地摺り じずり。生地に文様を摺り出した織物。地に藍や金泥で模様を摺り出すこと、その織物。
曳く ひく。地面をこすって進むようにする。引きずる
となえる 唱える。称える。名づけていう。呼ぶ。称する。
縮緬 表面に細かい(ちぢみ)) がある絹織物。縦糸に()りのない生糸、横糸に強く撚りをかけた生糸を用いて平織りに製織した。
七子 ななこ。魚々子。魚子、七子、魶子とも書く。金工技法の一つ。切っ先の刃が小円となった(たがね)を打ち込み、金属の表面に細かい(あわ)粒をまいたようにみせる技法。
羽二重 日本の代表的な高級絹織物の一種。生糸を用いて平織か綾織にしたのち、精練と漂白をして白生地とし、用途によって無地染や捺染模様染にする。
五紋 着物に付いている家紋の数。一つ紋は家紋は背中心に1つ。三つ紋はさらに両後ろ袖。五つ紋はさらに両胸。紋が増えるほど格が高くなり、黒留袖と喪服は必ず五つ紋。写真は五つ紋。
紋着 紋をいれた着物。「格」が最高な紋着は礼装着(第一礼装)で、打掛、黒留袖、本振袖、喪服など。
授かる さずかる。神仏や上位の人から、大切なものを与えられる。授けられる。 学問や技術を師から与えられる。
 神仏を祭る建物。
籠める こめる。物の中にいれる。詰める。表に出さないよう包み隠す。閉じこめる。
 眺望や休憩のために高台や庭園に設けた小さな建物。あずまや。
 茶室としてつくった小さな建物。数寄屋。江戸の富裕町人の別宅。下屋敷。
ごのみ 好み。名詞の下に付いて、複合語をつくる。好きなものの傾向。ある時代や、ある特定の人に好まれた様式

 かけはしちんで、はるかにポン/\とおる。へーい、と母家おもやから女中ぢよちうくと、……たれない。いけうめ小座敷こざしきで、トーンと灰吹はひふきたゝおとがする、むすめくと、……かげえない。――その料理屋れうりやを、たぬきがだましたのださうである。眉唾まゆつば眉唾まゆつば
 もつともいま神樂坂上かぐらざかうへ割烹かつぱう魚徳うをとく)の先代せんだいが(威張ゐばり)とばれて、「おう、うめえものはねえか」と、よつぱらつてるから盤臺ばんだい何處どこかへわすれて、天秤棒てんびんぼうばかりをりまはして歩行あるいたころで。……
 矢來邊やらいへんは、たゞとほくまで、榎町えのきちやう牛乳屋ぎうにうや納屋なやに、トーン/\とうし跫音あしおとのするのがひゞいて、いまにも――いわしこう――酒井家さかゐけ裏門うらもんあたりで――眞夜中まよなかには――いわしこう――と三聲みこゑんで、かたちかげえないとふ。……あやしいこゑきこえさうなさびしさであつた。
[現代語訳] 架け渡した橋の東屋で、遙かにポンポンとお掌が鳴る。へーい、と母家から女中が行くと、……誰もいない。池の梅の小座敷で、トーンと灰吹をたたく音がする、娘が行くと、……影も見えない。――その料理屋を、狸がだましたのだそうである。ご用心。ご用心。
 もっともいま神楽坂上の割烹(魚徳)の先代が(威張(いば)り)と呼ばれて、「おう、うめえ魚を食わねえか」と、酔っ払っているから魚を運ぶ盤台はどこかに忘れて、天秤棒だけを振りまわして歩いた頃で。……
 矢来あたりの夜は、ただ遠くまで、榎町の牛乳屋の納屋に、トーントーンと牛の足音のするのが響いて、今にも――いわしこう――酒井家の裏門あたりで――真夜中には――鰯こう――と三回、売り子が売る声が聞こるが、形も影も見えないという。……怪しい声が聞こえそうな寂しさだった。

 サン。かけはし。険しいがけなどに、架け渡した橋。かけはし
はるか 遥か距離が遠く隔たっているさま
灰吹 タバコ盆についている、タバコの吸い殻を吹き落とすための竹筒。
眉唾 まゆつば。眉に唾をつければ狐や狸にだまされないと信じられたことから、だまされないように用心すること。信用できないこと。真偽の疑わしいこと。
盤台 はんだい。ばんだい。板台。半台。魚屋が魚を運ぶために浅くて大きな楕円形か円形の桶。比較的小型の円形のものはすし飯を作るのに用いる。

鈴木春信 『水売り』/棒手売をする水売りの童子を描いた浮世絵。1760年代の作。東京国立博物館所蔵

天秤棒 両端に荷をかけ物を運ぶための棒。中央を肩にあてかついで運ぶ。天秤とも。
榎町 左図を参照。
いわしこう 鰯こう。後半に「鰯こ」と書いているところもあります。「…こ」「…っこ」は①まだ一人前でない状態の人物や動物などで、乳幼児、ひな、幼虫など。たとえば「売り子」「おばあさんこ」「売れっ子」「江戸っ子」など。②特定の状態にいる人物や動物、物品で、たとえば「振り子」「根っこ」など。いわしを売っていた売り子が「いわしこ」「いわしこう」と声を掛けながら売っていたのでしょう。三浦哲郎が書いた『笹舟日記』の随筆「鰯たちよ」(毎日新聞、1973年)では「鰯っこ」で出ています。家で食べる食品としての鰯なのです。

中野実|新女性大学①

文学と神楽坂

 中野実のユーモア小説「新女性大学」について『神楽坂まちの手帖』17号の佐々木光氏は

 封建時代の女子教育書「女大学」をもじったかのような「新女性大学」は結婚を主題としたユーモア小説で、会社重役の父から結婚話を切り出された女学校出の令嬢「皆川美絵子」が、まずは結婚設計のため“世間見学の武者修業”をしたいと主張、父を説き伏せ質屋を営む同窓の友人の家に奉公し番頭となる。……
この作品は中野実(劇作家・小説家。明治三十四年~昭和四十八年)が作家としての地位を固めつつあった初期のもので、神楽坂を他所に置き換えても成立するが、それでも洋食の田原屋、牛込見附の貸ボート、弁天町、鶴巻町等神楽坂界隈の風景がちらほらと描かれ、当時衰退期にあった神楽坂をモダンなユーモア小説の舞台としている点に注目したい。「婦人画報」(昭和九年六~十二月)に連載後、映画化もされた(日活。昭和十年六月。主演・西峰エリ子)。ただし、映画の舞台も神楽坂かどうかは未見のため不明である。

 (おんな)大学は江戸時代の代表的な女子教訓書で、著作者も初版年も不明ですが、貝原益軒の著述として、18世紀初頭から広く流布しました。「夫女子は 成長して他人の家へ行 舅姑に仕るものなれば 男子よりも親の教忽にすべからず」など19ヵ条の封建的女子道徳を説いたものです。インターネットの本もあります。

 中野実の「新女性大学」は新宿区の図書館にはなく、インターネットを通じて国立図書館から『現代ユーモア小説全集』第七巻の「新女性大学」をコピーしました。まず質屋です。

 新橋駅とW大学の間を連絡している黄バスの実業前というところで降りて、大学通りを左へ折れたところに、山口質店と書いた暖簾の店舗がある。
黄バス

黄バス(ただし東京環状乗合のバスではなさそう)

 昭和9年の黄バスは東京環状乗合(環状)のバスの色が黄色だったからで、黄バスには豊島園~目白駅~江戸川橋~市谷~新橋駅の幹線といくつかの支線がありました(http://pluto.xii.jp/bus/line/s17.html)。昭和17年にこの黄バスの経営は市営バスに変わっています。また、W大学とは早稲田大学でしょう。

 美絵子の発案で、山口質店は面目を一新した。まず時代な暖簾が取りはわれ、Pawnbroker(しちや)と横文字で書いた真鍮板(ブレス・プレート)がそれに変わった。(中略)つづいて薄くらい帳簿が改造され、蓄音機屋の試験室みたいな明るい感じの小室が、設けられ、取引は一切そこで行われることになった。そこへ、美絵子と悦子が貸付係兼接待係という役目で、紅茶をもって愛想をふり撒きながら現れるという寸法である。果然、山口質店は素晴らしい業績をあげ始めた。

 質屋をここまで変えるとは驚きです。ただし、昔の質屋は現在の質屋と比べて店舗数は圧倒的に多かったようです。例えば昭和10年の横寺町では81店舗のうちなんと5店舗は質屋です(今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』新宿区横寺町交友会、2000年)。歩くと質屋にぶつかる状況でした。

 質草を聞く場面で、客が住所は弁天町と答える場合があります。

 客は、(ふところ)から錦紗(きんしゃ)(づつみ)を出して、美絵子の前に拡げて見せた。ダイヤ入の指輪、鼈甲(べっこう)(くし)(こうがい)翡翠(ひすい)()がけ。それに、帯止(おびどめ)の金具。
「いくらほどお入用なんですの。」
「三百円調達したいと思うんですの。」
「三百円ね。」
「これで足りなければ、あたしの着物を入れてもと思っています。」
「どちらです。お宅は?」
「弁天町の三十七」

錦紗 紗の地に金糸・箔・絹の色糸などを織り込んだ絹織物
鼈甲 ウミガメのタイマイの背甲、縁甲、四肢の鱗片をはいだもの
 江戸時代の女性用髪飾り。金・銀・鼈甲・水晶・瑪瑙などで作り、髷などに挿す
翡翠 緑色の硬玉。主産地はミャンマー・中国など
根がけ 女性が日本髪の髷の根元に結ぶ飾り。金糸・銀糸・絹ひも・緋縮緬・宝石類など。
帯止 解けるのを防ぐために女帯の上からしめる平打ちの紐

「弁天町の三十七」は現在は巨大なマンションになり、三十七という号数は単独ではなくなっていますが、昭和五年には確かにありました。

弁天町37

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 次に田原屋と貸ボートです

 その晩、美絵子は悦子に誘われて神楽坂の通り歩いていると、田原屋の前で、
「悦ちゃんじゃないか」
と、なれなれしく悦子に声をかけて近づいて来た青年があった。
「まあ、西山さん」(中略)
「どう、お茶のみにつき合ってくれないか。」
 美絵子は断りたかったが、悦子が誘ったので仕方なしに、西山について田原屋へ這入った。
「四菱に出てらっしゃるんですってね。就職難時代に偉いものだって母が感心していましたわ」
 悦子がちょっと、愛想を言うと
「あっちこっちから引ぱりだこで弱っちゃったよ」
 西山は得意そうに鼻をうごめかした。

 田原屋で3人の話が終わり

「どう。見付へ下りて、ボートへ乗らない?」
と、(西山は)二人を誘った。
 美絵子はいい加減に切りあげたかったが、西山は厚かましく悦子の手をとって先に歩き出したので、悦子のことも心許なくなり、田原屋を出て坂を下りて行った。
 蒸暑い晩だったので見付の貸ボート屋は賑わっていた。西山はボートに乗ろうと云い出したが、そこまで西山の機嫌をとる必要もないと美絵子は思った。(中略)
 西山と別れて、悦子をせきたててお濠端にそい、牛込見付へさしかかった時であった。彼女は何気なく濠の方を見た…

 そこには別の男性、W大学を卒業して、大和製鋼に入る予定の下村氏がいたのです。

大震災①|昭和文壇側面史|浅見淵

文学と神楽坂


 関東大震災の神楽坂の様子です。浅見(ふかし)氏は昭和時代の小説家、評論家で、私小説風の作品や作家論、作品論などを発表しました。『昭和文壇側面史』は昭和43年に発表し、浅見淵は69歳のときです。

 大正12年9月1日の関東大賞災を知ったのは、大阪においてであった。夏休みで神戸へ帰省していたが、その朝たまたま大阪天満橋の伯父の家を訪ねていたところ、昼時分になり、暑いから川船へいこうと、川船料理屋へ連れていかれた。そして、川魚料理で一杯やっていると、グラグラとやって来て船が大きく揺れ、川波が激しく騒いだ。大きな地震だネと、伯父は呟いたが、それでも、二、三度、揺れ戻しがあると、その儘おさまった。で、ふたたび盃を平にしていると、まもなくジャンジャン号外の鈴の音がし、それが東京潰滅という第一報だったので驚いたのだった。
(中略)当時ぼくは牛込弁天町の下宿屋にいたので、下宿屋はもちろんのこと、神楽坂を中心とする牛込の山の手界隈はほとんど被害らしい被害は無かった。神楽坂の中ほどに、巌谷一六書の金看坂を掲げた、いまでも残っている老舗の尾沢薬局が、そのころ、隣りにレストランを経営していた。このレストランの二階が潰れていたくらいである。(中略)

田原屋・川鉄・赤瓢箪

 戦災で焼け、近年やっと復活して昔のように客を集めているらしい洋食屋の田原屋は、大震災のころ既に山の手の高級レストランとして有名だったが、この田原屋。肴町の路地の奥にあった、尾崎紅葉をはじめ硯友社一派がよく通ったといわれる川鉄という鳥屋。それから、質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋。これらの店には、文壇、画壇、劇壇を問わず、あらゆる有名人が目白押しに詰めかけていた。白木屋がいち早く神楽坂の中途に特売所を設けたが、一応物資が出まわると、これが牛込会館という俄か劇場に早変わりし、水谷竹紫水谷八重子たちの芸術座アンドレーフの「殴られるあいつ」を上演したりしていた。この劇団に、のちに築地に小劇場のスターとなった、東屋三郎汐見洋田村秋子たちが客演していたが、この連中の顔がとくに赤瓢箪ででよく見受けられた。


弁天町 場所は新宿区の北部に。巨大な町ですが、明治5年から変わっていません。大部分が宗参寺の境内で、元禄十一年以降次第に町皿みができ門前町となりました。
弁天町
尾澤薬局尾沢薬局 神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています。
レストラン 尾沢薬局の隣りは、カフェー・オザワといいました。加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)によれば「薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフェを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないゝカッフェが出来、それで益〻土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。」
赤瓢箪 これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では「おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん」と書き、昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では「赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。」と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。関東大震災でも潰れなかったようです。
白木屋 しろきや。東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ。かつて日本を代表した百貨店の一つ。法人自体は現在の株式会社東急百貨店として存続。1930年(昭和5年)、錦糸堀や神楽坂に分店を出しています。
牛込会館 神楽坂の2丁目から3丁目に入ってすぐ右側で、現在は「サークルK」です。関東大震災の数日後、水谷竹紫と水谷八重子は牛込会館の屋上に上っています。牛込会館は現在はサークルKに変わっています。
芸術座 第二次芸術座。第一次芸術座は、1913年、島村抱月、松井須磨子などが結成し、1919年、解散。第二次芸術座は、水谷竹紫、水谷八重子が名前を受け継ぎ、同名の劇団を起こしました。
アンドレーフ Леонид Николаевич Андреев。Leonid Nikolaevich Andreev。レオニード・ニコラーエヴィチ・アンドレーエフ。20世紀はじめのロシアの作家。生年は1871年8月21日(ユリウス暦8月9日)。没年は1919年9月12日。ロシア第一革命の高揚とその後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家に。
田村秋子 たむら あきこ。新劇女優。生年は明治38年(1905年)10月8日、没年は昭和58年(1983年)2月3日。1924年築地小劇場の第1回研究生として入所、創立公演『休みの日』に出演。29年、夫の友田恭助と築地座を結成、戦後は文学座に出演。



東京震災記|田山花袋

文学と神楽坂

 さまざまな筆者達が関東大震災にどう向き合っていたのでしょうか。当時の東京では沢山の問題が出てきて、たとえば、伊豆大島が海に沈下し見えなくなったというデマまでが出ました。
 しかし、こと神楽坂に限ると、大々問題は起こらなかったといえます。震災が激しくなる場所は下町でした。
 例えば、田山花袋氏では『東京震災記』で関東大震災を描きましたが、一般的に神楽坂の震災は極めて軽微で、花袋氏もそこには触れていません。以下は田山花袋氏の『東京震災記』で牛込の場合です。

 ぬけ弁天から若松町に出て、それから弁天町へと行った。榎町の通りもかなりに混雑していた。私は横町から横町へと入って行った。川上眉山の自殺した天神町の家のある傍を山吹町へと抜けて、それから赤城下町改代町の方へと行った。そこはひどかった。家は家と重り合って倒されていた。二階がペシヤンコに潰れているような家もあれば、一気にのめって、滅茶滅茶に倒れているような家もあった、山の手では、被害はここあたりが一番ひどくはないだろうかと思われた。
 石切橋をわたって小石川に入った。そこらはことに警戒が厳重であった。

震災

田山花袋氏の『東京震災記』(地図は大正11年)

ぬけ弁天 厳嶋(いつくしま)神社、通称抜弁天(ぬけべんてん)は新宿区余丁町にある神社。苦難を切り開くための神社から抜弁天。
若松町 わかまつちょう。当地の松が江戸城に正月用の門松として献上されたことから。
弁天町 べんてんちょう。町域のほぼ中央を外苑東通りが南北に縦貫。牛込弁財天(べんざいてん)(ちょう)などの数町から現在の1町に。
榎町 えのきちょう。早稲田通りが南部を横に。町内に大きな榎の大木があったと言われます。
天神町 てんじんちょう。町域内を東西方向に早稲田通りが通ります。寛永のころ(1628-44)キリシタン大名の孫、大友義延の屋敷、大友屋敷がありました。「天神」はキリシタンの天の神(デウス)に。
山吹町 やまぶきちょう。町域内を東西方向に早大通りが、南北方向には江戸川橋通りが。「山吹の里」はこの地だというので名前がつきました
赤城下町 あかぎしたまち。地域北部は改代町に接します。俗称は赤城明神下。
改代町 かいたいちょう。この土地を代地として与えたので、改代町という説が。江戸時代には古着屋が並び、したがて古着(だな)と言われてきました。
石切橋 いしきりばし。石切とは石工のことで、このあたりに石工職人が多数住んでいました。
小石川 こいしかわ。東京都文京区のおよそ西半分。東京都文京区の町名、または旧東京市小石川区を指す地域名

大東京繁昌記|早稲田神楽坂04|神楽坂気分

文学と神楽坂

神楽坂気分
 私は()めかけた紅茶をすすりながら更に話を継いだ。
「僕は時々四谷の通りなどへ、家から近いので散歩に出かけて見るが、まだ親しみが少いせいか何となくごた/\していて、あたりの空気にも統一がないようで、ゆったりと落著いた散歩気分で、ぶら/\夜店などを見て歩く気になれることが少い。それに四谷でも新宿附近でも、まだ何となく新開地らしい気分が取れず、用足し場又は通り抜けという感じも多い、又電車や自動車などの往来が頻繁ひんぱんだからということもあろうが、妙にあわただしい。それが神楽坂になると、全く純粋に暢気のんきな散歩気分になれるんだ。それは僕一人の感じでもなさそうだ。それというのも、晩にあすこへ出て来る人達は、男でも女でも大抵矢張り僕なんかと同じように純粋に散歩にとか、散歩かた/″\ちょっととかいう風な軽い気分で出て来るらしいんだ。だからそういう人達の集合の上に、自然に外のどこにも見られないような一種独特の雰囲気がかもされるんだ。誰もかれもみんな散歩しているという気分なり空気なりが濃厚なんだ。それがまあ僕のいわゆる神楽坂気分なんだが、その気分なり、空気なりが僕は好きだ。これが銀座とか浅草とかいう所になると、幾らか見物場だとか遊び場だとかいう意識にとらわれて、多少改まった気持にならせられるけれど神楽坂では全く暢気な軽い散歩気分になって、片っ端しから夜店などを覗いて歩くことも出来るんだ。少し範囲の狭いのが物足りないけれど、その代り二度も三度も同じ場所を行ったり来たりしながら、それこそ面白くもないバナナのたたき売を面白そうに立ち止って見ていたり、珍しくもない蝮屋まむしや(の講釈や救世軍の説教などを物珍しそうに聞いたり、標札屋が標札を書いているのを感心しながらいつまでもぼんやり眺めていたり、馬鹿々々しいと思いながらも五目並べ屋の前にかがんで一寸悪戯いたずらをやって見たりすることも出来るといったようなわけだ。僕は時とすると今川焼屋が暑いのに汗を垂らしながら今川焼を焼いているのを、じっと感心しながら見ていることさえあるよ。まあ、そう笑い給うな、兎に角そんな風なな、殆ど無我的な気分になれる所は、神楽坂の外にはそう沢山ないよ。外の場所では兎に角、神楽坂ではそんなことをやっていても、ちょっとも不調和な感じがしないんだ。そしてその間には、友達にも出会ったり、ちょっと美しい女も見られるというものだ。アハヽヽ」

神楽坂気分

新開地 新しく開墾した土地。新しく開けた市街地やその地域
用足し場 用事を済ませること。大小便をすること
かたがた 「…をかねて」「…のついでに」などの意味があります。「…がてら」
見物場 見世物小屋。普段は見られない品や芸、獣や人間を売りにして見せる小屋。例えば口上として「山から山、谷から谷を渡り歩いた姉妹が、何故、人が忌み嫌う長虫(蛇)を食わなければならなかったのか?これから。お目にかけまする姉妹は「サンカ」の子に生まれた因果で、哀れ、今もその悲しさを伝えてくれますよ。さあ、見てやってください。見てください」。実際に生きた蛇を引き裂いて食べる人もでたようです。
バナナのたたき売 「ここは牛込、神楽坂」第3号の「語らい広場」で友田康子氏の「三〇年前、毘沙門様で」という投稿が載っています。そして口上は「『さあ表も裏もバナナだよ。握り具合は丁度いいよ。千、八百、五百、三百…、三百円だ。買った買った。早い者勝ちだよ。どうだ!』威勢のいい口上のバナナの叩き売りの周りには黒山の人だかり」と書いています。
蝮屋 商品になるのはニホンマムシの蒸し焼きかその粉末です。毒蛇の強靭な生命力にあやかり、食べると心身の強壮に効果があるとされていました。
標札 屋標札は戸籍法との関連性が高く、明治5~11年頃、各戸に標札を備えつける布達がなされたようです。当時は筆を使って書きました。
無我的 無心。我意がないこと

「あゝそれ/\」と友達も一緒に笑った。「ところで色々とお説教を聞かされたが、これから一つ実地にその神楽坂気分を味わいに出かけるかね」
「よかろう」
 そこで私達は早速出かけた。少し廻り道だったが、どうせ電車だと思ったので、幾らか案内気分も手伝って、家の行くの柳町の通りの方へ出た。すると、それまで気がつかなかったのだが、丁度その晩は柳町の縁日(えんにち)で、まだ日の暮れたばかりだったが、子供達が沢山出てかなり賑っていた。
「おや/\、こんな所に縁日があるんだね」
と友達は珍しそうにいった。
「あゝ、ほんの子供だましみたいなものが多いんだが、併しこの辺もこの頃大変人が出るようになったよ。去年あたりから縁日の晩には車止めにもなるといった風でね」と私がいった。
「第二の神楽坂が出来るわけかね」
「アッハヽヽ前途遼遠りょうえん)だね。電車が通るようにでもなったら、また幾らか開けても来ようけれど何しろまだ全くの田舎で、ちょっとしたうまいコーヒー一杯飲ませる家がないんだ」
「ここへ電車が敷けるのか?」
「そんな話なんだがね、音羽おとわ護国寺前から江戸川を渡って真直に矢来の交番下まで来る電車が更に榎町から弁天町を抜けて、ここからずっと四谷の塩町とかへ連絡(れんらく)する予定になっているそうだ」
「そしたら便利になるね」
「だが、それは何時のことだかね。何でも震災後復興事業や何かのために中止になったとかいう話もあるんだよ」

柳町 やなぎちょう。南北に外苑東通り、東西に大久保通りがあり、ここ市谷柳町で交差しています。
車止め くるまどめ。停止すべき位置を越えて走行してきた自動車や鉄道を強制的に停止させるための構造物
前途遼遠 ぜんとりょうえん。目的達成までの道のりや時間がまだ長く残っている。今後の道のりがまだ遠くて困難。「途」は道のり。「遼遠」ははるかに遠い。「遼」は道が延々と長く続いているという意味です。
音羽 おとわ。これは音羽町という地名。最南端は神田川、以前の江戸川に接しています。
護国寺前 ごこくじまえ。「護国寺前」は交差点の名称で、東西に向かう不忍通りと、南に向かう音羽通りの交差点です。
江戸川 神田川の中流域で、「江戸川」というのは都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近までの約2.1㎞の区間を指しました。
矢来の交番 矢来の交番は現在、正しくは矢来町地域安全センターといいます。ここに3つの通りが交差点「牛込天神町」に集まっています。北から来る道路は江戸川橋通り、東から来る道路は神楽坂通り、西から来る道路は早稲田通りです。

榎町 えのきちょう。町の名称。ここで、交差点「牛込天神町」から交差点「弁天町」(早稲田通りと外苑東通りとが交わる)に至るまでが早稲田通りです。
弁天町 早稲田通りから交差点「弁天町」を左に曲がって、外苑東通りに入ると、弁天町になります。さらに南に行くと、交差点「市谷柳町」です。
塩町 しおちょう。「外苑東通り」の「合羽坂」で左に曲がり、「靖国通り」を東に行き、交差点「市谷本村町」で右に曲がり、「外堀通り」にはいるとそこは塩町。現在は「本塩町(ほんしおちょう)」になります。あと少し行けばJRの「四ツ谷駅」です。音羽4
① 護国寺前
ここがスタート

② この辺りが音羽

③ 江戸川
昔、神田川の中流を江戸川と呼びました

矢来交番

矢来の交番

④ 矢来の交番はここ  →
⑤ この辺りが榎町。ここを通って…
⑥ 早稲田通りから交差点「弁天町」にはいり、向きを左(下)に変え、外苑東通りに行き…

⑦ 交差点「市谷柳町」を通り…

⑧「外苑東通り」の交差点「合羽坂」で左に曲がり、

⑨ 交差点「市谷本村町」で右に曲がり、
⑩「外堀通り」にはいると塩町に。現在は「本塩町」。あと少し行けばJRの「四ツ谷駅」になります。

田山花袋|転居

文学と神楽坂

新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)「神楽坂と文学」で飯野二朗氏はこう書いています。

 花袋は牛込で二十年間を過ごした。明治十九年、十六歳で上京してから貧困時代、苦学時代、尾崎紅葉を訪ねて文学修業を積む習作時代を経て、自然主義文学の金字塔を建てる「蒲団」完成の前年三九年まで、十一回の転居を牛込区内でくり返した。そして牛込を異常になつかしく思い浮かべて「東京の三十年――山の手の空気」を書いている。「」内は原文。

 「その時分には、段々開けて行くと言ってもまだ山手はさびしい野山で、林があり、森があり、ある邸宅の中に人知れず埋れた池があったりして、牛込の奥には、狐や狸などが夜ごとに来た。永井荷風氏の「狐」という小説に見るような光景や感じが到るところにあった」(明治19年に)、という頃に上京し①牛込区市谷冨久町120番地に住んだ。次に②納戸町12③甲良町12④内藤町1⑤喜久井町20⑥納戸町40⑦原町2-68⑧若松町137⑨市谷薬王寺町55⑩弁天町42⑪北山伏町38番地と移り、明治39年12月8日に渋谷村代々木山谷132番地に新居を建て、昭和5年5月13日59歳の生涯を終えた作家である。
 日本文学史の一時代を面する自然主義文学は、本当の意味では花袋が出発点である。そして、独歩藤村秋声白鳥、そして岩野治明真山青果小杉天外中村星湖も、その上に島村抱月長谷川天渓片上伸ら早稲田文学の人々が自然主義の理論的バックアップをして一世を風靡したといわれる。

岩野治明 正しくは岩野泡嗚でしょう。また本名は美衛(よしえ)でした。

では、牛込区のどこに転居したのでしょうか。④の内藤町以外は1つの地図に落とせます。牛込区といってもかなり転居したんだと思います。

明治28年②

明治28年、東京実測図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

明治39年12月8日、渋谷村代々木山谷132番地に新居を建てたことについては、中村武羅夫氏は『明治大正の文学者』(留女書房1949年、ITmedia名作文庫2014年)にこう書いています。

田山花袋が「蒲団」を書いて大いに人気を得たその少し後で、代々木に住宅を建てたり、柳川春葉が「生さぬ仲」(大正二年―三年)という通俗小説で大いに当てて、夫人の郷里の宇都宮に借家を二戸とか建てた時など、両方ともずいぶん評判で、ゴシップをにぎわしたものである。文士が家を建てるくらいのことは、今では当たり前のことでも、大正の初めのころまでは文壇ゴシップで騒がれるほど、とにかく希有のことだったのだ。

「蒲団」は「新小説」明治40年(1907年)9月号に掲載されました。つまり、実際には「蒲団」よりも早く、明治39年12月に新居を建てていたのです。これについては同じく『明治大正の文学者』では

 すなわち文学者としての稼ぎによって建ったものではなく、「蒲団」のモデルとして取り扱った女弟子の実家が金持ちで、そこから借金して建てた家であるというのが、ウルさいゴシップに対する田山花袋の弁解であり、抗議であった。