「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」は2004年2月29日から2005年8月12日までのブログです。作者は平松南氏。ここでは「山形県松山町との市民交流に秘められた『神楽坂光照寺酒井家墓石群43基のナゾ』」(2004年6月4日)を引用します。
松山町は山形県庄内平野にある町である。地理に詳しくなければ、この町がいづこにあるか、まずピンとこない。地理音痴のわたしは、もちろんピンとこなかった。7年前までは。 松山町が神楽坂と深く結びついていることは、いまでもほとんどの人が知らない。そのナゾから、神楽坂と松山町の市民交流ははじまっていった。今回はそのショートストーリーである。 神楽坂一帯は、戦前まで牛込といった。いまの新宿区は、牛込区、四谷区、淀橋区が合併してできている。 牛込区の歴史は、中世の牛込城に溯る。 赤城山山麓地方の大胡氏が神楽坂に進出して、いまは光照寺になっている袋町に城をかまえたのが、牛込城の始まりである。 平城で格別の城郭があったわけではないので、光照寺を牛込城の跡というには少少の気恥ずかしさを感じてしまうが、歴史家はそういっているのでそれに倣おう。 大胡氏がきたころの牛込台地は広々として、武蔵野台地の端に位置しているので海も近く、草原も形成されていたのだろう。牛の放牧に適していたようである。牛込つまり牛の牧場もあった。 そんな土地柄なので、ここらは人呼んで牛込といっていた。 大胡氏は、やがて自らも牛込氏を名乗るようになった。 牛込氏は、北条方についていたので、徳川幕府開府とともに、この城も取り潰されて、その跡地に神田から光照寺がやってきた。1645年のことである。 さてその光照寺である。 ご住職はいかにも住職住職している方である。こういう言い方は変なのだが、むかしのご住職はみな光照寺さんのように住職住職されていた。浮世離れしているといったら怒られるかもしれないが、お寺は浮世から離れているのが本来だから、その点古典的つまり本来の神職の風情により近いお方である。おなじ神楽坂のお寺に善国寺がある。毘紗門さまとしてよく知られ親しまれている。このご住職は、人当たりもよく街に溶け込んでいる。犬の散歩などされている時に会うと、一見普通人然としたまま気さくに声をかけてくれる。 神楽坂商店街のど真ん中にある所為で、精神的に街との距離も近い。商店会の新年会にもかならず御参加になる。 さて先の光照寺さんには、異様な墓石群がある。異様なというのは、怪奇なという意味ではない。 普通人の墓はみな一様につつましい。それにくらべてあまりにも目立ち過ぎ、数も多い。 じつはこれが、旧松山藩酒井家の一族の墓なのである。 新宿区の教育委員会は、この墓については文化財と位置づけていないが、区内で江戸時代から残っていて手付かずの墓石は、ここ光照寺の酒井家の墓石群と弁天町の寺のものだけである。 では酒井家はなぜ光照寺に歴代の墓を築いたのだろうか。 地元の郷土史家によれば、酒井家初代の奥方が利口だったかららしい。 江戸初期の酒井家の最初の墓は芝増上寺であった。当時寛永寺、増上寺は幕府の菩提寺であるため、ここに墓を持つことは相当な経費を覚悟しなければならない。 その財政負担から逃れるため、光照寺が神田から神楽坂へ移ってきたのときにいち早く墓を移転したというのだ。 二代を除いて、藩主、奥方、側室、子供の墓がなんと43基も揃っている。門構えのある墓などもあり、形容矛盾な言い方だが、豪華絢爛なのである。 そこに立つと、耳なし芳一になって霊界からの死者と対している気分になるほどだ。 その武士一族の墓場は、しかし一方では、別の問題で光照寺を苦しめているのである(続く)。 |

庄内平野 山形県北西部で最上川流域に広がり、南北約50km、東西約40kmの平野。穀倉地帯で有名。
牛込区、四谷区、淀橋区 昭和22年(1947)3月15日に3区が合併。新宿区になった。
牛込城 新宿区の牛込藁店(地蔵坂)の坂上、袋町の光照寺付近の台地にあった。牛込城の廃城は1590年ごろ。築城は不明だが、1510〜1520年か?
赤城山 群馬県東部にある広大な二重式成層火山。
大胡氏 上野国(群馬県)勢多郡大胡郷を基盤とする領主で、武士の一族。
光照寺 新宿区袋町にある浄土宗の寺院。慶長8年(1603)、神田元誓願寺町に開祖。正保2年(1645)に現在地へ移転。
平城 平地に築かれた城。
牛込台地 早稲田通り以南は、牛込台地と本村台地の2つの台地からなっています。
牛込氏を名乗る 牛込氏は牛込に移り住んで、初めは大胡姓を使ってきました。北条氏康に申請して許可を得てから、天文24年(1555)以降は牛込姓を使ってきました。
善国寺 日蓮宗の鎮護山善国寺は、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけて、文禄4年(1595)日惺上人が麹町六丁目に創建、寛政5年(1793)当地へ移転。
松山藩酒井家 出羽松山藩(山形県酒田市)の酒井家です。矢来町の矢来屋敷が有名な小浜藩(福井県)の酒井家とは違います。同じ姓名が2人いるのも(若狭小浜藩酒井讃岐守忠勝と松山藩酒井忠勝)混乱します。
弁天町の寺 弁天町には宗参寺、浄輪寺、南春寺、照臨山多聞院があり、江戸時代の墓石はどの寺でも持っています。
芝増上寺 港区芝公園四丁目の浄土宗の三縁山広度院増上寺。徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正18年、1590年)。
寛永寺 かんえいじ。天台宗の東叡山寛永寺円頓院。開基(創立者)は江戸幕府3代将軍の徳川家光。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。
菩提寺 ぼだいじ。一家が代々その寺の宗旨に帰依きえして、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺。江戸時代中期に幕府の寺請制度により家単位で1つの寺院の檀家となり、寺院は家の菩提寺といわれるようになった。
耳なし芳一 盲目の琵琶法師、芳一は、霊に取りつかれる。寺の和尚は芳一の体中にお経を書くのだが、耳には書き忘れた。芳一は耳を怨霊に引きちぎられてしまう。
光照寺の住職は、代々直系が継承している。 現在のご住職とは、神楽坂まちづくりの会のイベントのときにお寺を拝借した関係で、会員たちがいろいろお話しをさせてもらった。 そんな会話のなかで、7年前のこと、ご住職からこんなはなしを伺ったことがあった。 酒井家の子孫がキリスト教に改宗したため、光照寺にある43基の墓石群が宙に浮いてしまったというのである。 通常これだけの墓があれば、酒井家の子孫はお寺に対しては多額の管理費を収めることになろう。 しかしクリスチャンになった現在の子孫は、現在酒田市にある致道博物館の館長になっていて、山形県松山町に酒井家の小規模なお墓も持っているそうである。 寺院経営の観点からすれば、都心にある光照寺の墓地用地は大変な資産価値がある。この酒井家の墓石群を撤去して、墓地にして売り出したら、相当な金額のお金がころがりこむ。 もし酒井家が光照寺にある祖先のお墓の墓守をしないなら、いっそ撤去してほしい。 ご住職はいま風の方ではないので、多分そうは考えなかったと思うが、傍から見ている下々は、そんなことを考えかねない。 新宿区は、江戸時代からある43基の大型墓石群は、区内の貴重な史跡であると思っている。事実史跡調査もかけている。 かといって、財政逼迫のおりからそうそう金銭的援助もできかねる。宗教問題も絡んできて、ややっこしい。 こうして光照寺の苦悩はますます深まっていった。 このはなしを耳にした神楽坂まちづくりの衆の何人かが奮い立った。 「なら、おらほで、山形の酒井家と光照寺さんの仲をとりもつべえ」 光照寺のご住職に山形までご同行願って、酒井家のご子孫に面会をもとめて、現在の光照寺側の実情を知っていただき、何らかの対処をお願いしようということになった。 「おせっかいな」 と思われる御仁もいるとおもうが、まちづくりというものは、基本的にはお節介焼きなのだ。 むかし、町には必ずお節介な世話好きがいたものだ。 「なんだなんだい、おらにまかせておけ」 じぶんのことはさて置いて、困っている人がいると聞けば東奔西走。困っていない人がいても 「どうしたどうしたい」 と首を突っ込む。 戦後、行政というものの範囲が広がり、個人の確立、個の自由、権利と義務などスマートで西欧的なルールが導入されて以降、こうした世話好きは他人の生活への闖入者と忌み嫌われ、疎まれた。 社会の諸制度も確立し、個人主義も蔓延した結果、町の世話好きはもはや絶滅危惧種であった。 しかし行政は公平主義、手続き主義、機会均等の原則、すべったころんだで縛られるため、現実には町の要望にこたえられない。 こうして世話好きたちは、ありあまるおのれたちの情熱に捌け口を、まちづくりというあたらしい市民活動のなかに求めてきた。 だからまちづくり活動は別に新しいことではなく、かつてのまちの世話好きさんがあたらしい装いの出店をしたに過ぎない。 神楽坂のまちづくりの会のみんなは、光照寺さん応援の意気に燃えた。 もしこれが上手くまとまれば、光照寺さんはもちろん、新宿区にとっても、また江戸からの貴重な墓石群一式が保存されることでの町おこしのためにも、万万歳、めでたしめでたしということになる。一石三鳥である。 まちづくりの会の人たちは、功名心というものに無縁の人がほとんどだ。みんなはこのことを純粋に考えて、酒井家を訪ねる庄内旅行に出発することになった。 この旅は、また大いなる珍道中だった(続く)。 |
致道博物館 ちどうはくぶつかん。庄内藩主酒井家の御用屋敷地だった。貴重な歴史的建築物(旧西田川郡役所、旧庄内藩主御隠殿、民具の蔵、旧渋谷家住宅、旧鶴岡警察署庁舎)、酒井氏庭園、重要有形民俗文化財収蔵庫などが移築。
おらほ 東北弁などで「私たち」
庄内旅行は、松山町と隣接する櫛引町も訪問することになった。 まちづくりの会に所属するFさんの事務所の共同使用者が、櫛引町の東京代表を務めていたからである。 この旅行はFさん中心で企画されていった。 Fさんはエコロジーに強い下水道などの設計者で、設計事務所を経営しているのだが、わたしなどが見ていても、どこまでが本業でどこからがボランテイアか判然としない。 まちづくりの会にはそんな人が多いのでだれも気にしないが、社長業のかたわら庄内旅行を遂行するのは大変だったろう。 バスを借りることになったので30人は集めようということになり、旅行には3つの会が参加した。神楽坂まちづくりの会、わたしが主催する川を歩く会、Fさんの関係の山方面の会である。 わたしの会では、時間がなかったため趣旨の伝達が不充分で、課題をはっきり把握していない参加者が混じってしまったが、この混成部隊はいずれにしても目的がバラバラだったことは否めない。 光照寺さん支援がメインだったが、黒川能鑑賞にひかれたもの、最上川歩きに好奇心を募らせたものなど、観光目的の人々がいたことは事実であった。 町の歓迎会の席上、松山町、櫛引町がどこかわからないまま参加したという発言を平気でする無邪気なものも出て、わたしたち主催者者側をひやひやさせた。 町側の歓迎は驚くべきものであった。 町長以下、助役、総務部長、観光課長、商工課長、農協役員など、総勢20名近くが、わたしたち30名を歓待してくれた。 その熱意にはほとほと感謝したが、私たちの団体がなにを目的としてきているかを誤解しているのではないかと心配になったほどである。 わたしたちは、新宿区の行政ではないし、神楽坂の商店会でもない。任意のまちづくり団体である。 結成して数年が経っているが、それほど力量があるとも思っていない。 それなのに、この歓迎である。松山町に限らず、櫛引町でもである。 ありがたいと思う反面申し訳ないとも思い複雑であったが、地方の町が東京と地域交流して、商工でも農産物でも、販売や開発の切っ掛けになればと真剣に思っていることは、手にとるように実感した。 やがてこの庄内旅行から一定の成果がうまれたのであるが、このときは、多彩な歓迎にただただ恐縮するのみであった。 ところで、光照寺さんは、致道博物館館長である松山藩のお殿様の末裔と面会した。私たちも同行した。 博物館は町の中心にある名建築を使用していて、収蔵品も漁具や民具がそろっていて、たいへん優れた博物館であった。 その応接室で、お二人は対面した。いずれもやんごとなきかたなので、会見はとても不思議であった(続く) |
黒川能 くろかわのう。山形県鶴岡市黒川の春日神社に奉納された能。氏子で農民の能役者はほぼ世襲で、およそ160名。伝承の規模の大きさ、組織の強固さは、他の民俗芸能に類を見ない。
やんごとなき 家柄や身分がひじょうに高い。高貴だ。止む事無し。「終わりを迎えることは決してない」との表現。転じて「捨て置けない」「とても大事だ」「尊ぶべきだ・高貴だ」の意味が派生。
光照寺さんは酒井のお殿様の末裔さんを前にして立ちあがり、ひたすら実情を伝えた。 末裔さんは、やはりたったまま聞いていた。 随行の人間はこのはなしには加われるはずもないから、ひたすらふたりのはなしに耳を傾けた。 光照寺さんの訴えは切々としていたが、ただひたすら自身が困っているという訴えであった。末裔さんがなぜ光照寺をはなれていったかについては、聞くことはなかった。その点交渉ではなく、一方的なものであった。 光照寺さんにとっては、相手の立場を忖度するなど、とてもそんな余裕はないということなのだ。 末裔さんはご住職の訴えを注意深く聴いていたが、その窮状に対して助け船を出すことはなかった。強力な反論もしなかった。 いまの末裔さんには、43の墓が神楽坂の住民のまちおこしや新宿区の歴史的遺産にとっていかに重要であっても、もはや自分とは何ら関係のないはなしなのである。 末裔さんは恬淡として静寂であった。 こうして光照寺さんと末裔さんは、一期一会の限りであった。 ふたりはご年配である。今生で再会することはまずあるまい。 わたしたちは神楽坂から山形に大勢で出かけてきた。そして、酒井家一族の43の墓石を維持管理している光照寺さんと、キリスト教に改宗されて神楽坂とは無縁になられた酒井のお殿様の末裔との歴史的会見を実現した。 1600年代に芝の増上寺から牛込神楽坂にお墓を移したことから始まった酒井のお殿様と光照寺の祖先の延延350年ものお付き合いがこうして物別れになったことに、わたしは一抹の感慨と不安を抱いた。そしてわたしがそこに立ち会っている不思議さに改めて思い致した。 この会見を限りに、あるいは光照寺と酒井家との関係は断絶するかもしれない。光照寺は、都心の一等地を占める酒井家の無縁墓地を改修して、一基うん百万円で分譲するかもしれない。 43の墓については、新宿区歴史博物館学芸員の北見恭一さんが丹念に調べているが、それは停止した歴史の調査であり、こうした血肉をもって現存する人間の歴史的関係は、時代のある瞬間に突然消滅する。 神楽坂まちづくりの会の参加者たちは、あと10年もすれば年老いていき、記憶も薄らいでいく。そして単なる団体旅行の思い出話になっていくに違いない。 350年続いたある一族の墓の歴史が物理的にも消滅したとき、わたしたちの次世代が光照寺で見るものは、真新しく売り出された都心の墓地であり、境内にそっと立つ新宿区教育委員会の酒井家43の墓跡の説明板である。 わたしは、川が好きである。四半世紀、都市河川の環境問題に関わったこともあり、全国の川を歩くのを楽しみにしてきた。 山形は何といっても「五月雨を——」の芭蕉の最上川である。 旅の一日、わたしたちは、松山町の町長やお偉方に招待されほろ酔いになった夜、小高い丘に投宿した。 翌朝目覚めて見渡すと、丘の眼前に、大蛇がたゆたうように流れ行く最上川があった。左に出羽三山、右に鳥海山、最上の流れの遥かさきには日本海が広がっていた。 松山の人たちは、遠くにあってふるさとを思うとき、この丘の上からの眺望を思い描くという。 これが庄内平野かと、わたしはこの風景を目に焼き付けるためひとときまぶたを閉じた。 そしていまこれを書いているときも、ひとときまぶたを閉じてみた。 するとあのときとまったく同じ光景がまぶたの奥に立ちあがってきた。 あの日この光景に接したとき、わたしの妻が隣にいてくれたのが幸運だった。 こんなすばらしい風景というものは、めったにあるものではないからだ。 この丘を眺海の森と、地元では呼んでいる。 このことが縁で、松山町と神楽坂まちづくりの会は、いまでもずっと細細ながら市民交流を続けているのである。 ことしもその季節がやってきた。 |
忖度 そんたく。他人の心中をおしはかること。自分なりに考えて、他人の気持ちをおしはかること。
恬淡 てんたん。あっさりしていて物事に執着しないこと。心やすらかで欲のないこと。
一期一会 いちごいちえ。一生に一度限りの機会。生涯に一度限りであること
一抹 いちまつ。ほんのわずか。わずかにある。かすか。
無縁墓地 墓の継承者や縁故者がいなくなったり、管理費が一定期間支払われなかったりした墓。官報に記載し、該当する墓地の見やすい場所に札を立て1年間公告し、この期間に申し出がなかったら無縁墓と認定できる。
新宿区歴史博物館 新宿歴史博物館。新宿区四谷三栄町にある、新宿区の郷土資料を扱う博物館。
五月雨を—— 五月雨を集めてはやし最上川。さみだれを あつめてはやし もがみがわ。季語は初夏。梅雨の雨が最上川へと流れ込んで流れが早くなっている。
芭蕉 松尾芭蕉。まつおばしょう。江戸前期の俳人。深川の芭蕉庵に住み、蕉風俳諧の頂点をきわめた。紀行文は「奥の細道」など。生年は寛永21年(1644)。没年は元禄7年10月12日(1694年11月28日)
最上川 山形県を流れる一級河川。流れが大きく激しいことで有名。
出羽三山 磐梯朝日国立公園の最北部を占める山形県庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称
鳥海山 ちょうかいさん。出羽富士とも。山形県と秋田県の県境で日本海に面し、標高2236メートル。
眺海の森 ちょうかいのもり。県民の森。アウトドア施設(スキー場、キャンプ場、ピクニックランド)、学習施設(森林学習展示館、天体観測館)がある。