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だらだら長者の埋蔵金|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)から「牛込地区 35. だらだら長者の埋蔵金」です。これは普通の埋宝まいほうの話ですが、〔参考〕の「東京埋蔵金考」を読んでみると、それと全く違った話があると判明します。

だらだら長者の埋蔵金
      (筑土八幡周辺)
 筑土八幡あたりに屋敷をもっていた長者がいた。安政6年(1859)、この長者生井屋久太郎、通称「だらだら長者」は死んだ。この長者は、巨万の財宝をかくしていたというので、その夏ごろ、土地の有志が先達となり、与力同心の見回りのうちに堀ったところ、油タルにはいっていた小判1200枚が発見された。
 しかし、これが全部ではなかったので、明治以後何回もあたりを堀られたが、屋敷跡がはっきりしなくなったので出なかったという。
〔参考〕 東京埋蔵金考
長者 ちょうじゃ、ちょうしゃ。年上の人。金持ち。富豪。
安政6年(1859) 黒船来航(嘉永6年、1853年)があり、わずか6年後の話です。さらに8年後には明治元年(1868年)になっています。
先達 せんだつ。道などを案内すること。案内人。指導者。せんだち
与力 江戸時代、諸奉行・大番頭・書院番頭などの支配下でこれを補佐する役の者。その配下にそれぞれ数人の同心をもっていた。警察、庶務、裁判事務などを担当。町奉行支配下の町方与力が有名で、町与力は八丁堀に組屋敷を与えられていた。
同心 江戸時代、所司代・諸奉行などに属し、与力の下にあって庶務・警察事務を分掌した下級の役人
小判1200枚 小判1枚は4万円くらい。1200枚で約4800万円。

 この〔参考〕の「東京埋蔵金考」は、昭和37年、雄山閣出版から出版し、その後、昭和55年、中央公論社から同じ内容で出版しています。著者の角田喜久雄氏は作家で、もっぱら探偵小説や時代小説を書いていたようです。
「東京埋蔵金考」には埋蔵金の8話があり、うち「筑土八幡の埋宝」の話は「だらだら長者の埋蔵金」の原本です。この原本で話が右に行ったり左に行ったりしますが、ここでは「だらだら長者」、与力の「鈴木藤吉郎」、妾の「お今」の話を中心にしていきます。

筑土八幡の埋宝
 だらだら長者屋敷の境界は、今たずねてもわからない。新宿区牛込の筑土八幡の境内の一部は屋敷内にふくまれていたことは事実らしいが、その広さが幾千坪で、またどの方角に延びていたのか、江戸時代の地図にあてはめてみても正確な解答は生れて来ないのである。(略)
 与力の鈴木藤吉郎とくんで、お蔵米の買占めで儲けたことはたしかだが、儲けるにしても、その元手(資本)をどこからもって来たかを考えると、第一の土佐分藩の家老の子説よりも、大阪の富豪の分家説が有力となる。本名は生井屋久太郎だが「だらだら長者」の異名で呼ばれたごとく、年中よだれをだらだらたらしていたというから、今日の脳膜炎か脳性小児マヒを患ったものではないかと思う。(略)
「白痴で年中だらだらよだれをたらしてから、金を与えて親子の縁を切り江戸に住ませることにした」とあるが、生涯独身を通して金儲けに専念し、しかも、金銭に関する限り、間違っても損をするようなへまをやらなかったという言い伝えが本当とすれば、決して白痴などではなかったものと考えられる。
筑土八幡の境内 ここでは筑土八幡神社境内けいだいでしょう。

 一方、長者と同じ買占めで大金を稼いだ与力の「鈴木藤吉郎」については……

 江戸へ出た(渡辺)源三郎は(略)鈴木藤吉郎と名を改めると、養父五郎右衛門の手づるで池田播磨守に接近し、与力の株を買い取った。そして池田の口添えで(略)たちまちとんとん拍子に出世して与力上席20人扶持となり、市中潤沢係に、抜擢されたのである。市中潤沢係は、道路や溝架の改修を始め、市民の利益をはかる役目だから、一般市民とのつながりも多い。「だらだら長者」との結びつきも、おそらくこの頃から始まったものではないかと思われる。
与力の株 御家人には譜代・二半場・抱入(抱席)の三つの家格があり、抱入は一代限りの奉公で、株として売買できた。幕末では与力で千両、同心で二百両が相場だった。(新人物往来社編『江戸役人役職大事典』新人物往来社、1995年)つまり、鈴木藤吉郎は武士ではありませんでしたが、千両払って、武士の身分を手に入れたのです。
扶持 ふち。主君から家臣に給与した俸禄。江戸時代には、一人1日玄米5合(約0.9リットル)を標準とし、この1年分を米または金で給与した。
市中潤沢係 しちゅうじゅんたくかがり。江戸幕府は物価の騰貴を警戒し、値段の引下げに腐心した。「諸色潤沢掛」は(「諸色しょしき」とは、諸種の商品と物価を意味する語)恐らく物価が高騰しないよう「豊富な商品を求める係」でしょうか。「市中潤沢掛」と「諸色潤沢掛」とは同じ意味、それとも別の意味でしょうか、わかりません。

 鈴木藤吉郎は「だらだら長者」と一緒になってお蔵米の買占めで儲けました。しかし、安政5年の暮(あるいは安政6年の春)、町奉行の播磨守は藤吉郎について一つの疑念を抱いていました。

 播磨守も、藤吉郎の手腕は買いすぎるほど買っていたから、特に目をかけていたが、それにしても内々疑問ももっていた。その疑問は、余人に真似の出来ない藤吉郎の豪奢な生活で、本妻の他にを四、五人ももち、山谷堀を始め、市内数ヵ所にそれぞれ妾宅を置いている。もともと市中潤沢係は、役徳の多い職務で、収入も他の与力にくらべると二倍も三倍もあるが、それにしても金に糸目をつけぬ源三郎の贅沢は尋常でない。(略)
 播磨守は、藤吉郎とはあまり仲のよくない与力を使って、そっと身辺を内偵させることにしたのである。(略)
 内偵を命じておいた与力から、藤吉郎の商人名義による、お蔵米買占めの事実のあることを告げて来た。
 めかけ。婚姻後の男性が妻以外に経済的援助がある愛人。「目を掛ける」の意味
山谷堀 江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、今戸から山谷に至る水路をつくった。新吉原の遊郭へ通う山谷船の水路として利用された。
蔵米 くらまい。江戸幕府と諸藩が家臣の俸祿として支給した貯蔵米。諸藩の蔵屋敷を通じて商品化される米。米価の値上がりを見込んで米商人などが隠匿しておく米。

 これは大問題です。藤吉郎も買占めはこの世の見納めになると映ったようです。

 いよいよ最後の時が来たと感じた彼は、ただちに妾たちにそれぞれ金品を与えて暇を出す一方、かねて、お蔵米の買占めで利益をわかち合った町人たちにも通達し、静かに奉行所からの差紙を待ったのである。
 藤吉郎が迎えをうけて伝馬町牢屋敷揚屋入りをしたのが、それから3日後。名目は「商人名義によるお蔵米買占め一件」だったが、実際は身分をいつわって武士の仲間入りしたという方が罪科としては重かった。(略)
 藤吉郎は入獄後間もなく毒を盛られて殺され、事件は、うやむやのうちに葬り去られることになったのである。
差紙 江戸時代、尋問や命令の伝達のため、役所から日時を指定して特定の個人を呼び出す召喚状。
伝馬町 てんまちょう。江戸時代、伝馬役や伝馬を業とする者が住んでいたところから、東京都中央区日本橋の地名。小伝馬町と大伝馬町に分かれ、また、江戸屈指の問屋街だった。なお小伝馬町には牢屋敷が置かれていた。
牢屋敷 ろうやしき。江戸時代、未決囚を拘留した場所。江戸小伝馬町牢屋敷は町奉行支配に属し、囚獄しゆうごく(牢屋奉行)のいし帯刀たてわきが管理した。これは世襲で、石出家が代々「帯刀」と名乗っていた。
揚屋 あがりや。江戸時代法制用語。大名や旗本の臣、武士、僧侶など身分のある未決囚を入れた場所。
罪科 ざいか。法律や道徳、宗教などのおきてに背いた罪。

 では「お今」です。

 藤吉郎のお気に入りだった妾に「お今」という女がいた。小田原の漁師の娘で、元はだらだら長者屋敷で働いていたのだが、いつの頃から藤吉郎に囲われる身となったのである。このお今が長者の妾でなかったことは、長者の死後に屍体を調べた結果、長者は局部の欠け落ちた不具者で、男性としては全く用をなさない身体であったことがみても知れるのである。
 長者が急死したのは、藤吉郎に差紙があって伝馬町入りした日の夜更け。お今は、この夜も長者屋敷に泊り込んでいたが、長者の死が使用人によって発見された時には、すでにその姿は屋敷内から消えていた。後でわかったことだが、だらだら長者屋敷から道路1つを隔てた向かい側の町家には地下道が掘られてあって、そこから抜け出したものであろうと思われる。

 さて、だらだら長者の埋蔵金についてです。

 長者の死後、枕許にあった手文庫の二重底の下から、一葉の絵図らしいものが出たことに始まる。その絵図の隅に「たいちにおくおくこのたから、みにためならすよのためならす」と2行に書かれ、さらにもう一方の隅には「大判  枚 小判  枚」と書かれてあった。その歌のような文句には「大地に億置く此の宝、身の為めなさず世の為めなさず」の解釈が与えられ、大判、小判の数量を示したと思える。遺産は巨額にのぼると推定されるのに、長者の死後、屋敷内にあったものといえば、手文庫の二百両の金だけにすぎなかったということだ。(略)
 長者屋敷のそちこちが掘り起されたのは、文政6年の夏からである。この時は、町奉行所でも後援したらしく、与力や同心が毎日のように現場を見廻っていたと伝えられている。そして、地下道の一部から、油樽にはいった小判千二百枚を発見したと言われているが、その処分がどんな風に行われたものかは伝わっていない。長者の豪勢な生活から見ても、それが埋宝の全部でなことは、当時誰しもの一致した意見で、その後も個人的にたびたび発掘を計画したものもあるが、ほとんど得るところなく明治維新を迎えたのである。
手文庫 てぶんこ。手もとに置いて、文具や手紙などを入れておく小箱
二百両 金1両の価値は、幕末で約4000円~1万円ほどになります。200両は80万~200万。平均すると約140万円です。

 それから、明治18年、会津若松に「古奈家」という小さな飲み屋があり、その女将の名前は「お今」、牛込の長者屋敷に奉公し、江戸町奉行所の与力の妻になったこともあるといいます。

 お今の患いついたのは明治17年の9月末からで、10月、11月と次第に病いが重るにつれ「死にたくない、死にたくない」と口癖のように言いだした。(略)
 「私はもう駄目。いつ死ぬかもわからないんだから」と心細い声で言いながら、初めてうち明けたのが、だらだら長者の埋宝に関する一件であったという。
 そのお今の話によると、だらだら長者の埋めた宝の量は、三万両や五万両の少額ではなかった。お今がどんな無茶な金遣いをしても、生涯かかって費いきれないほどの額で、長者は千両まとまるごとに、埋蔵していたという。埋蔵場所は二ヵ所に分かれていて、一ヵ所は屋敷内。もう一ヵ所は秘密の地下道を抜け出た町家の庭の、から井戸の途中に横穴があって、その中にかくされている。から井戸の方の埋蔵は、いつも「権」という男があたっていた。(略)
 権と長者の関係は、全く他人のごとく見せていたが、実際は親密そのもので(略)おそらく兄弟ではあるまいかと思える。(また)長者のお今に対する態度は、二人っきりの時には別人かと思える親しさで、今考えてみると、自分の父ではなかったかと思う。長者が、局所を切りとられて男性としての機能を失ったのも、壮年時代に、ある高貴な婦人との関係を疑われて、処刑をうけたためであるというようなことを、長者がふともらしたことがあったから、恐らく自分がその処刑をうける前に、長者の子として生れ、事情があって小田原の方に預けられていたものではあるまいか。また、宝をとり出すために相当の費用もかかるので、長者は秘密の地下道の中へ、千両箱を埋めておいてくれた。
 この絵図が、つまりその井戸の位置を示したものだから、もし自分に万一のことがあったならば、きっと東京へ行って地下道を探し、まず千両箱を掘って、それを費用にから井戸の宝を掘り出してもらいたい。
 ——というのがお今の話だったのである。
患いつく わずらいつく。病気になる。病みつく。
重る おもる。病気が重くなる。
から井戸 空井戸。水のかれた井戸。

 さて、この話を聞いたお今の夫、田島が、牛込に行くことで決まりました。

 田島が現われた頃は、長者の死からまだ25, 6年より経っていなかったし、すでに長者屋敷の地形は相当変わっていたというものの、当時なら徹底的にたずねれば、あるいは埋宝の発見も可能であったかも知れない。田島から話をきいて協力を約束した経師屋の久保などは、もちろんそのつもりでいたが、その計画も田島がつまらない事件を起したためにお流れとなった。
 というのは、田島が(略)ほとんど毎夜、女に接していたらしい。それも金を出して女買いのうちはまだよかった。ところが、ある時、町で見染めた近所の囲い者に目をつけ、湯帰りの途中を要して暴行したのである。(略)これが問題となったため、警察が動きだした。早くもそれと知った田島、あわてて行方をくらましてしまい、(略)折角の宝探しも沙汰止みとなってしまったのである。
 その後、この埋宝の記録と絵図なるものを持ち廻るものがあって、その絵図をもとに幾度か捜索がこころみられたが、今となっては長者屋敷の位置はもちろん、町家の場所をも正確に知ることが出来ないので、その都度失敗に終わった。
経師屋 きょうじや。巻物、掛物、和本、屛風、ふすまなどの表装をする職人。
囲い者 かこいもの。こっそり別宅などに住まわせておく情婦。めかけ
沙汰止み さたやみ。官府からの命令などが中止やたちぎえになってしまうこと