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神楽坂|兵庫横丁はどこから来たの

文学と神楽坂

 みんな兵庫横丁はどれぐらいから知っていますか? やはり5年前ぐらい前(つまり2008年)からでしょうか。それより前にはごく少量の人は知っていましたが、他の人は誰も知らなかったのです。たとえば……
 料亭幸本の若女将、寺田歩さんは2007年1~3月第15号『神楽坂まちの手帖』では

そういえば、この辺りを兵庫横丁っていうそうですね。住んでる人間は知らないもので、「へえ、名前が付いてるんだ」って驚きました。

といっています。
 もっと古く平成10年(1998年)夏号の『ここは牛込、神楽坂』では

井上 ここは神楽坂で、もっともきれいだといわれるところ。決定打がほしい。黒塀があったりして『しのび坂』はどうか。猫の通り道なので「猫坂」でもいい。
  “おしのび”という感じでいい。あのあたりは昔は確か本多横丁からも抜けられた。

 この座談会に登場する3人とも「兵庫横丁」という用語は全く知りません。

 ところが平成22年(10年)の「神楽坂粋なまちなみルール」(案)では正々堂々と兵庫横丁が出てきます。

 実は水野正雄氏が『神楽坂界隈』「中世の神楽坂とその周辺」で「平成7年、神楽坂街づくりの会のフォーラムの際、ここの横丁名を「兵庫横丁を名付けるよう私から提案をしておいた」と、書いています。その際、やはり1説だと書けばよかったのに…水野正雄氏は本当にすごい人なんですが。

 まあこのあたり、歴史的な云々は別として、以前にはなかった場所、江戸時代ではまったくなかった路地だと、知っておきたいところです。江戸時代と現在では場所も違います。もう正しいことになったのでまあ仕方がない…としておきましょう。でも、兵庫横丁という用語はいい言葉です、うん。

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兵庫7

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毘沙門横丁|名前

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毘沙門

 名前について「毘沙門横丁」は5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱東京UFJ銀行の間にある小さな路地のことです。場所はここ。明治20年も同じ呼び名の毘沙門横丁です。「毘沙門横丁」「おびしゃ様の横丁」はついこの間まで呼んでいた名前です。これ以上簡単なものはありません。
野口冨士夫の『私のなかの東京』では

三菱銀行と善国寺のあいだにあるのが毘沙門横丁で、永井荷風の『夏姿』の主人公慶三が下谷のおばけ横丁の芸者千代香を落籍して一戸を構えさせるのは、恐らくこの横丁にまちがいないが、ここから裏つづきで前述の神楽坂演芸場のあったあたりにかけては現在でも料亭が軒をつらねている。

と書いています。昔の地図でも出ています。

 一方、「毘沙門横丁」なのに、「大手門通り」という言い方があります。これは不思議な名称です。ここ10年程昔から使ってきたようです。牛込城「大手門跡」に行くと書いていますが、この「大手門跡」は具体的にはどこなのでしょうか。本当にそれは「大手門跡」なのでしょうか?

 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

神楽坂から地蔵坂を上る辺りに牛込城の大手門があったと伝えられる

 と書き、『神楽坂界隈』平成9年の水野正雄氏の「中世の神楽坂とその周辺」では

大手門…一説では地蔵坂下の説もあるが、もう少し南寄りの三菱銀行から宮坂金物店辺りではなかろうか

と書いています。

 また「牛込城跡」について東京都新宿区教育委員会の説明では

光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される

「御府内備考」では

おもふに今善國寺なとある邊若宮八幡と行願寺の間住古の道にてそこに向ひて城門を立てしなるべし

と推考を書いています。

 大手門はどこにあったのか、明らかになってはいません。ある学説や風説としてはいいのでしょうが、あまり使いたくはない名前です。

拝啓、父上様」の第1話では

毘沙門前
  通りをつっ切り境内へ入る一平。
  その目に――
  ザックを背負って肉マンを喰っている一人の若者。
  中川時夫。
  ――ケイタイを耳に当てている。
一平「(歩きつつ、ケイタイに)よし。お前だな。肉まんを喰ってるお前だな」
  若者の前に立ち、ケイタイを切る。
一平「時夫君か」
時夫「(変に明るい)オス! 一平か」
一平(ムッとする)
時夫「(食いつつ)この町凄えな! 外国人に逢っちやったぜ」
一平「―――」
  間
一平「ついて来い(歩き出す)」
時夫「オス! 何だそっちか。全然逆の方探してたなハハ。――いくつだ一平」
一平「(ムッと)お前は」
時夫「十九。高枚中退だ」
  短い間。
一平「俺は二十三だ」
時夫「それにしちゃ可愛いな。ヒヒッ、ま、よろしく頼まァ!」
一平「こっちだ!(曲る)」
時夫「オス!」
  音楽――「板場のテーマ」ダイナミックに、イン。

毘沙門横丁
さらに毘沙門横丁の路地を行く場合には
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熱海湯|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

熱海湯

熱海湯は千鳥破風造りの銭湯で、昭和29年に創業しました。今も薪で焚いているそうです。

拝啓、父上様」で田原一平がよく利用する銭湯もコインランドリーもここ。「熱海湯」正面の階段で料亭「坂下」の大女将、坂下夢子がよく猫にエサをやっていた路地もここ。上から田原一平が朝やってくるのもここです。

ただし、上に行っても有名なホテル「アグネスホテル」がでるくらいです。蔵のようなものがあったところなので日本路地・横丁学会の人たちは「お蔵坂」と呼ぶのはどうかと言っています。

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細かくはお蔵坂

神楽坂通り3丁目
小栗横丁 アグネスホテル

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神楽坂|酒問屋升本

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 西村和夫氏の『雑学 神楽坂』第一章「神楽坂今昔」(17頁から)では

 神田川の船運が盛んだった時代、小石川橋から牛込橋までの土手上に、荷揚げ場が続き飯田河岸と呼ばれていた。(中略)
 濠端には船宿や旅館が並び、酒、油など問屋筋が店を構え、特に、幾棟もの酒問屋「升本」の蔵が目を引いた。(中略)
 特に酒問屋升本はその繁盛ぶりを「升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝したるものにて。稲荷社なども見ゆ」と明治に出版された『東京名所図会』に書かれている。
 松田幸次郎は幕末、「升本屋」を創業、千駄ケ谷大番町に店を出す。升本喜兵衛の代に揚場町に移転し酒類の販売から不動産業まで手広く事業を拡大して成功した。酒類の販売においても多くの使用人に暖簾分けをしたので 市内の酒屋には「升本」屋号を名乗るものが多い。

 初代升本喜兵衛は文政5年(1822)8月25日に生まれ、酒問屋になりました。明治維新を迎えると場所を牛込揚場町に移り、升本を創立します。喜兵衛は明治3年(1870年)、町年寄となり、のちに三大区(のちの牛込区)の役職を歴任し、明治12年(1879年)、牛込区会議員に当選。土地事業を手懸け、旧旗本地を買占め、不動産業も着手したことで巨万の富を得ました。明治40年(1907)死亡。

http://sake-masumoto.co.jp/gallaery/officephoto/

 2代目は嘉永(かえい)2年1月5日生まれ。升本の養子となり、酒問屋をつぎます。中央貯蓄銀行取締役、東京府会議員などをつとめました。労働者に草鞋(わらじ)を、困窮者には金をあたえ、その額は毎月数百円にのぼったといいます。大正3年12月22日死去。66歳。江戸出身。旧姓は松本。

 明治45年、喜兵衛氏は牛込神楽坂で37筆という多くの土地を所有していました。ただし、神楽坂よりは若宮町、揚場町のほうが多くの土地をもっています。神楽坂1丁目が多いようです。

http://sake-masumoto.co.jp/gallaery/officephoto/

 さらに数代目の喜兵衛は明治30年1月1日生まれ。弁護士。母校中央大の教授となり、昭和36年学長。のち総長、理事長をつとめます。43年学園紛争で退任。酒問屋升本総本店社長。弟に民社党委員長佐々木良作。昭和55年11月28日死去。83歳。

 飯田濠の再開発は昭和47年に登場します。喜兵衛氏の三男は、枡本達夫氏でした。当時は国の都市局長で、再開発の本締めでした。利権もからみ、あれこれの末、昭和59年、遊歩公園ができました。

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料亭「松ヶ枝」(昔)|神楽坂5丁目

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今ではなくなってしまいましたが、神楽坂5丁目に佇む大料亭「松ヶ枝(まつがえ)」がありました。現在はマンションです。場所はここ
『ここは牛込、神楽坂』第8号で筆者(おそらく編集長の立壁正子氏)は「ありし日の料亭『松ヶ枝』のこと」を書き、

 設計したのは神楽坂六丁目の木村建築事務所の故木村兵吉氏。
「これが取り壊されたとき、昔を知る者としては涙が出る思いでしたよ。まさに強者(つわもの)どもが夢の跡という感じで」 と、開口一番、事務長さん。
「この建物ができたのは、昭和二十八年で、その後二回ほど増改築して、二階に三十畳の広間ができたんです」
 それにしてもすごいスケール。広さは「駐車場も含めて四百坪」。幾つかの棟が廊下で結ばれているところなど、平安時代の寝殿造りを思わせるが……。(中略)
 この渡り廊下の床板が木琴のように横に何枚も敷かれていたというが「あれは作曲家の古賀政男氏のアイデア」だったとか。一方では、こんな有名人の遊びもあったのだ。
「庭には立派な池もあって、その池の中に張り出した釣殿みたいな座敷があってね。池には橋が架かっていて、鯉もいたけど、あれは確か……
 と、ここで、今 は亡き元総理の名が…。

恐らく田中角栄氏の名前が出たのでしょう。

水野正雄氏は『神楽坂まちの手帖』第5号『花街・神楽坂の中心だった料亭「松ケ枝」』で、

「松ヶ枝がどんなに大きくて繁盛していたかは、下働きの女中だけで50人はいたことを話せば想像できるでしょう。下働きの女中さんというのは、料理もここで作っていましたから食器を洗ったり、掃除をしたり浴衣や敷布を洗濯したり。」

元松ケ枝のマンション蕎麦の春月、蒲焼の橋本、松ケ枝、毘沙門天、田原屋
創業者はお(たけ)さんで、創業は明治38年。お(たけ)さんは民主党の代議士・三木武吉の妾さんです。神楽坂で一番の料亭だといわれていました。

ちなみに三木武吉代議士では一番有名なものはwikipediaの語りによれば

戦後、公職追放解除後の第25回衆議院議員総選挙では、選挙中の立会演説会で対立候補の福家俊一から「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」と批判された。ところが、次に演壇に立った三木は「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者がある有力候補と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私にと、三木は考えます。なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」と愛人の存在をあっさりと認め、さらに詳細を訂正し、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。

ただし、エピソードが違えばこの妾の数も違っています。

某日、演説中に「六人の妾はどうした!」と聴衆から野次られると、即座に「いや、六人ではなく正確には七人いるが、皆、キチンと面倒を見ているから御心配無用!」と切り返したというのは、あまりにも有名な逸話である。(浅川博忠『自民党ナンバー2の研究』(講談社文庫,2002年,p.185)

元総理大臣田中角栄が芸者辻和子と逢っているのもここ料亭、松ヶ枝です。

つぎは
毘沙門横丁
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軽子坂|歌川広重団扇絵「どんどん」

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 軽子坂を別の向きで描いた絵があります。広重団扇絵で「どんどん」「どんどんノ図」や「牛込揚場丁」という題が付いています。版元は伊勢屋惣右衛門で、天保年間(1830-44)後期の作品です。(絵は拡大できます)

牛込揚場丁どんどん ちなみに江戸時代、飯田町と神田川にかかる船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていました。これから船河原橋は「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれていたといいます。

広重団扇絵|牛込揚場丁|どんどん3左奥に見えるわたりやぐらは牛込御門で、その向かいは神楽坂です。

広重団扇絵|どんどん|牛込揚場丁2目を近くにやると、茗荷屋という船宿から(赤い扇子を持った若旦那が芸者さん二人と船に乗り込む様子が見えます。船宿の奉公人たちが酒、肴を抱え、お客さんの乗り込むのを待っています。

広重団扇絵|どんどん|牛込揚場丁3少し上を見ると左手には「自身番屋」が建っていて、木戸があるのもみえます。番屋と木戸のすぐ先は、見えませんが、右側に上る坂道があったはずです。これが軽子坂です。その手前の右側一帯は揚場町で、ここで荷を揚げたため。この神楽河岸があることが神楽坂が盛り場として発展していくために重要でした。

揚場町 自身番屋

地図では「軽子サカ」の左に黒の穴あき四角で書いたものが見えます。これが「自身番屋」です。町内警備を主な役割とてし町人が運営しました。自身番の使用した小屋は自身番屋・番屋などと呼ばれました。

自身番写真では右側の家に「自身番」と書いていますね。自身番は火の番も重要な役割でした。(ワープステーション江戸のPRで)

夏目漱石の『硝子戸の中』ではこの神楽河岸から浅草猿若町まで舟で出ていき、芝居を見たのを描いています。

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神楽坂|東京神楽坂組合

文学と神楽坂

伏見火防稲荷神社があり、次に「見番けんばん横丁」の標柱があります。この標柱には

芸者衆の手配や、稽古を行う「見番」が沿道にあることから名付けられた。
稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくる

と書いてあります。平成23年(2011年)12月22日に新宿区はここから図では左手の方向に見える路地を見番横丁という名前を付けました。 

その青い標柱があり、その裏の建物は、全く普通の建物ですが、これが見番を行う建物です。場所はここ。見番は検番とも書き、芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所や稽古場のことです。東京神楽坂組合の稽古場はこの上の建物になっています。

見番5

少し左を見て、この建物も東京神楽坂組合の建物で、事務所に当たります。

なお、東京神楽坂組合は田中角栄が建てた家としても有名ですね。


ここで 熱海湯階段に行く場合は ここ
見番横丁に行く場合は ここ
伏見火防稲荷神社については

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文学と神楽坂

神楽坂|伏見火防稲荷神社

文学と神楽坂

さて次に行きましょう。現在路地の右手に小さな稲荷神社があります。場所はここ

三叉路

これが伏見ふしみ火防ひぶせ稲荷いなり神社です。

組合神社

神社人(日本を楽しむ神社ファン・コミュニティサイト)によると総本社は伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)。ご祭神は、御魂みたま神。生産の神/五穀豊穣の神。商売繁盛、五穀豊穣などを祈願。参拝形式は、二拝二拍一拝。 つまり火の手から守ることです。


もう少し近くに行ってみましょう。
神楽坂組合

こうすると東京神楽坂組合(芸者の組合)や料亭松ケ枝などの名前が出ています。

つまりこの小さな稲荷神社は東京神楽坂組合の祈りや希望もたくさん入っているんですね。

実際に芸者さんが稽古に行ったりお座敷を行き帰りにお参りをしていくこともあるようです。

次はいよいよ見番横丁です。
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軽子坂|「もっこ」と「かるこ」

文学と神楽坂

 軽子坂は明治20年の地図でも出ています。では最初は標柱を見てみましょう。軽子坂上

(かる)()(ざか)  この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。
 軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。

 軽籠は「かるこ」と読み、軽籠持も「かるこもち」と読みます。もっこ とは

もっこ
 畚(もっこ)とは、網状に編んだ縄または藁蓆(わらむしろ)の四隅に吊り綱を2本付けたものである。
 吊り綱がつくる2つの環にもっこ棒を通し、前後2人でもっこ棒を担ぎ、使う。
 主に、農作業などで土や砂を運搬することに使用される。「軽籠」、「もっこう」とも称する。

 船荷をもっこに入れ江戸市中に運搬するのはちょっと大変だなあと思います。遠方はやはり荷馬車でしょうか。もっこは近くのものの方がいいと思うのですが。ただし、江戸時代には、舟で着く荷物を坂上にかつぎ上げる人足があり、これを軽子といいました。軽子と軽籠は違うものなのでしょう。 『神楽坂まちの手帳』の「町名探訪 揚場町」では

かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで、遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており……

agebamati666 左図は牛込揚場跡で、門は牛込見附門です。(鹿鳴館秘蔵写真帖。明治元年)。写真を見ると橋の手前が遊水池になっています。牛込門の船溜と呼びました。

神楽河岸 ここで「神楽河岸(がし)」とは以前は「牛込揚場河岸」と読んだ場所です。それが「神楽河岸」に変わりました。ここが埋め立てられると「神楽河岸」は人口0人の東京都新宿区の町名になります。
神楽河岸2
神楽坂まちの手帳』の『神楽坂界わいの坂・ベスト30その1』「軽子坂」では

江戸は舟運にめぐまれていて、遠く千葉方面などからの穀類、酒、魚介、米、野菜がこの神楽河岸についた。

 穀類、酒、魚介、米、野菜がでています。また、『坂・神楽坂』という平成2年に大久保孝さんの自己出版の本があります。そこでは

軽子坂と云われるのは、酒問屋升本の酒庫に全国から船に積んで来て神楽河岸に着いた酒樽を軽子たちがかついで登った坂であるからである。

こんどは酒ですね。「酒問屋升本の酒庫」が出てきます。ここで酒問屋、升本さんを覚えておいてください。 ここで出てきます(酒問屋升本)。『私のなかの東京』(野口富士男)では

揚陸された瓦や土管がうずたかく積まれてあって、その荷を運ぶ荷馬車が何台もとまっていた。

とあります。荷馬車でこれから山の手に行くのでしょう。

 なお、軽子坂の下のほうの標柱は
軽子坂下

 また、「怪談牡丹燈籠」のお(つゆ)の父、牛込軽子坂の旗本飯島平太郎は軽子坂を上にいったところに屋敷があるといわれています。

神楽坂の通りと坂に戻るのは

神楽坂|かくれんぼ横丁とから傘横丁の由来

文学と神楽坂

この路地裏が「かくれんぼ横丁」という名前になったのは2つの、まあいえる理由があります。

一つは、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』では、

この路地内に都で初の五つ子の母の実家があり、実家の路地でこの五つ子がかくれんぼ遊びをしていたので祖父、森川安男さんは「かくれんぼ横丁」と呼んだ

というものです。

もう1つは、山口則彦氏の

やはり料亭街のこの名前は、子供たちがかくれんぼをして遊んだからという説もあるんですが、お忍びで遊びに来たような人を後ろからつけていても、横にちょっと入るといきなり目の前から消えてしまうから、というのが本当のようです。

というものです。

西村和夫氏は『雑学 神楽坂』では

入り組んだ街中で突然前方を歩く人が、家並に隠れて見えなくなるという町に遊び心から地域の住人が付けた愛称である

「神楽坂まちの手帖」第15号の座談会「路地歩きAtoZ」では……。なお、持田氏はかくれんぼ横丁在住49年のアマチュア写真家。金原氏は法政大学教授。平松氏は手帖の編集長です。

持田 うちの路地をみんな「かくれんぼ横丁」って呼ぶんですけど、あれは住んでる人間が知らないうちに名前がついてたんですね。
金原 誰がつけたんでしょうね。
持田 二十四、五年前に、うちの奥の森川さんって家に五つ子ちゃんが生まれたんです。日本テレビがずっと追いかけて番組を作ったんですけど、その時に森川さんのおじいさんが名付けたそうです。孫たちとかくれんぼして遊ぶから、かくれんぼ横丁って。それがテレビで広まったんですね。
平松 勝手に名前がついちゃうっていうのは、そこに住んでる側としていやなものですか。
持田 べつに悪い名前じゃないですし、愛称があったほうが親しみやすいと思いますよ。

やはり『森川安男さんが「かくれんぼ横丁」と呼んだ』ほうが正しいようです。

なお、『ここは牛込、神楽坂』では「寿司幸」のある路を『から傘横丁』と名前をつけています。理由は傘がほしてあったから。なるほど。かくれんぼnew

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