石畳」カテゴリーアーカイブ

五冊の母子手帳|田中奈那子

文学と神楽坂

 田中奈那子氏が書いた『五冊の母子手帳』(講談社、1994年)です。1981年、氏は東京都内で初、日本で3組目の5つ子を出産しました。このとき、氏は1947年に生まれて、34歳でした。
 帝王切開で目が覚めるところから、ここでは始めます。

 私は、「田中さん起きて! 生まれましたよ。男の子と女の子がいますよ」といわれたことを、ぼんやりと覚えています。(中略)
 五人とも未熟児でしたが、とくに体重の軽いはじめは、NICU(新生児集中治療室)に、ほかの四人は中等症病室へと、別れて入れられました。ひかるには軽い呼吸障害がみられたそうですが、ほかの三人と同じく酸素吸入の必要はなくすみました。
 それからは、パパが大騒ぎのうずに巻きこまれて大変な思いをします。
 この日、主人は手術のことを聞いて、会社を休んで私の母とともに病院に詰めていました。出産のことは、ごく身近な人にしか報告してありませんし、また無事に五つ子が生まれても、私たちは公にするつもりはありませんでした。まして、マスコミには内緒にしてもらうはずでした。
 ところが、生まれるのと同時にNHKが取材にきて、あれよあれよという間に病院は報道陣でいっぱいになり、記者会見をしないなら、明日、神楽坂の家へ訪ねていきますよ、会社のほうへ行きますよ、といわれてしかたなく記者会見をすることになってしまいました。
「東京で初めての五つ子誕生」は、私たちの想像以上に大きなニュースだったのです。
 突然、五人のパパになり、突然マスコミに囲まれた主人。五人とも小さいけれど元気、その喜びを家族や病院のスタッフと喜びあう間もなく、なんともあわただしいことでした。
神楽坂 「神楽坂まちの手帖 第15号」(けやき舎、2007年)の田中ひとみ氏の「『かくれんぼ横丁の名付け親』と『東京の5つ子ちゃん』」では
 孫たちが遊んでいる姿を見て、石畳の路地に「かくれんぼ横丁」という名前を付けられたという森川安男さん。残念ながらご高齢のため数年前に亡くなられましたが、今回はそのお嬢さまにお会いすることが出来ました。
 彼女こそ、二十数年前「東京の五つ子ちゃん」のお母様として話題になった田中奈那子さんです。「出産した直後からTVや雑砧などマスコミが騒がしかったんです。それに子育てに毎日忙しかったから、当時のことはあまり思えていないわね」とのこと。横丁の名付け親がご尊父であったこともご存知なく、「あら、そうだったの?」と、意外な表情をされていました。
 下図は1984年の住宅地図です。森川安男氏はすでに亡くなり、田中奈那子氏も別の住所に住んでいます。

青色は「かくれんぼ横丁」 住宅地図。1984年

 私と五人の子どもが、日赤医療センターを退院したのは、出産から二ヵ月半が過ぎた11月17日のことでした。
 一度に五人の子どもですから、それまで私たち夫婦が住んでいた、2DKのアパートには入れません。私の神楽坂の実家に身を寄せることになりました。この家ではに夫のふるさと、佐賀県の竹内市長から贈られた、これからの冬場にはおあつらえ向きの、五枚の厚手のベビーガウンも待っていました。
 いよいよ子育て戦争の始まりです。一日の猶予もありません。私の母と父、姉、親戚のおねえさん、そして私の五人が、かかりっきりになることになります。主人は会社がありますから、あまり期待はできません。それどころか主人には五人の扶養家族がふえた分、ひたすら働いてもらわなければならないと思っておりました。
2DKのアパート 夫婦のアパートと森川安男氏の家はわずか1分ほど離れた場所に住んでいました。

 神楽坂料亭の奥まった一角。(夫婦は)しもた屋風の家を改造した二階建ての木造アパートに住んでいる。そこから歩いて一分ほどのところに黒ベイの家がある。五代前から神楽坂に暮らし、仕立屋を長く営んでいた奈那子さんの両親、安男さん(70)、倫江(みちえ)さん(67)夫婦の自宅である。
読売新聞1981年9月5日夕刊

 退院をじっくり喜ぶ時間さえなく、授乳、おむつがえ、洗濯、沐浴の繰り返し。生まれてまもない赤ちゃんは、だれでもそうですが、ほぽ三時間おきにおなかをすかせて泣きます。わが家の五人もそうでしたが、五人が五人、ばらばらに三時間おきですから、こちらはゆっくりする時間、眠る時間がありません。
 私は、損な性分だと思うのですが、どんなに疲れていても、お昼寝とか、ちょっと横になってうとうと、ということができません。夜、ふとんに入ってでないとだめなのです。(中略)
 不思議なことに、隣に寝ている主人がせきをしても起きないのに、子どもがぐしゅんというだけで、目がぱっちり覚めてしまいます。これが母性というものなのか、とわれながら感心しましたが、隣の主人はと見ると、まったく気がつかないようでぐっすり眠りをむさぼっています。思わずムカッとして、たまには目を覚まして気づかったっていいじゃない、と憎まれ口の一つもたたきたくなったものです。が、生後数ヵ月は、まとめて三時間以上眠ったことがなく、慢性睡眠不足でいつもふらふらしていたような気がします。(中略)
 けれども、睡眠時間は相変わらず足りませんし、一日にやるべき仕事は山積みで、やってもやってもきりがなく、私にも疲れがたまっていました。夜がきたと思ったら、あっというまに朝がきてしまった、という感じで毎日が過ぎていました。「神様、私に一日30時間ください」とまじめに思っていたのですから、今ふりかえると心身ともに疲れ果てていたのです。
 思い余って、五つ子の先輩である、鹿児島県徳之島の上木さんに電話をかけたのもそのころです。子どもたちをお風呂に入れ、ミルクを飲ませて一段落ついた夜の八時ごろでした。いきなりの電話にもかかわらず、上木千恵子さんは、「半年はしっちゃかめっちやかやるしかないんですよ。でも半年がまんしたら、ずいぶん楽になりますよ」と話してくださいました。五分程度の電話だったと思います。それでも、私の気持ちもすっと楽になれ、半年間だからあと少しがまんして頑張ろうと、目の前が明るくなったものです。(中略)
 みどりみやこにとっては初節句、ひなまつりを神楽坂の私の実家で迎えたのは、生後ちょうど半年でした。このころになると、あした以外は夜中にミルクをほしがって起きることもなくなり、ようやく四時間くらいはまとまった睡眠がとれるようになりました。
「半年すぎると、楽になるから」と励ましてくださった徳之島の上木さんの言葉に納得がいきました。思えば、その言葉にすがってなんとかやってこれた気がします。三時間おきに繰り返していた哺乳瓶の煮沸消毒も、いつの間にかやらなくなっていました。もっともこのころになると、ミルクの飲む速度にも大きな差が出てきて、哺乳瓶の乳首の穴の調節が大変でした。S、M、Lの乳首で台所が占領されそうでした。五つ子を育てるすさまじさは、こんななんでもないささいなところにもあるのでした。
沐浴 髪を洗い、からだを洗うこと。湯や水を浴びて、からだを清めること。湯あみ。
上木さん 2組目の五つ子の母親です。ちなみに最初はNHKの山下さんでした、

神楽坂1丁目(写真)昭和54年牛込見附→飯田橋駅西口 ID 11874とID 11876

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11874とID 11876は、昭和54年(1979年)の神楽坂1丁目の牛込見附から飯田橋駅西口に向かって撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11874飯田橋駅前 牛込見附

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11876飯田橋駅前 牛込見附

 右側の歩道が狭くなっている部分が牛込橋です。この少し手前から向こうは千代田区富士見になります。右側の自動車のフロントグリルには正月飾りがついています。ID 94、ID 11873と同時の1月17日の撮影でしょう。
 車道はアスファルト舗装で、両側には側溝と縁石があります。歩道もアスファルト舗装です。飯田橋駅の前の橋の部分はおそらく戦前から続く石畳でしだが、ここでは見えません。
 右の商店の前には、神楽坂通りと同じ円盤型の街灯が2つあり、「神楽坂1丁目」で、店は神楽坂通りの商店会の会員。一方、左側は水銀灯のようで、同じ新宿区でも「神楽河岸」という別の町でした。さらに奥の牛込橋のあたりには別の街灯があり、これは千代田区の管轄でしょう。
 交差点名の「牛込見附」は、現在は「神楽坂下」に変わりました。交通標識は「逆転式一方通行の延長」の写真と同じで、「歩行者専用」と「歩行者専用道路 12-13」「スプーン・フォーク・スープの標識」。「30」は最高速度が30km/h。右側で、上には「調整中」「自転車を除く」、下には「歩行者専用」と「歩行者専用道路 12-13」です。さらに「立喰そば 飯田橋」の道路側に「歩行者通行止め」があります。

神楽坂1丁目(昭和54年)牛込見附→飯田橋駅西口
  1. 波板の囲い(旧・神楽坂警察跡地、再開発準備中)
  2. 看板「神楽坂 ナカノ」(中野洋装店)
    (ここから千代田区)
  3. 飯田橋駅西口駅舎
  4. 巨大な日本歯科大学体育館
  5. ビリヤードニッポン(濃い灰色にみえるビル)
  6. ホテルグランドパレス(遠くかすんでいるビル)
  7. 看板「麻雀 ビリヤード」
  1. 東山(酒蔵)
  2. 麻雀 COFFEE SHOP
  3. 電柱看板「質 大久保
  4. (白)鷹 とんかつ 森川
  5. 金鷹 〇〇〇/ラーメン(二鶴)
  6. 立喰そば 飯田橋<
  7. 電柱看板「とんかつ 森(川)」
    (ここから千代田区)
  8. 富士見町教会(黒い低い建物)
  9. 東京警察病院(大きな白いビル)

住宅地図。1976年

気まぐれ本格派(1)

文学と神楽坂

 「気まぐれ本格派」は昭和52年(1977)年10月26日から昭和53年(1978)年9月20日まで日本テレビ系列で放送されたテレビ映画です。最初は道路や石畳を中心に書いていきます。

 最初は、神楽坂通り/美観街の標識で、構成は4つ。赤い文字で➀「神楽坂通り」と➁「美観街」、脇には➂縞々のH、さらに➃四角の箱です。夜になると、外から水銀灯で照らしています。

 次は「餅花もちばな」を模した正月向けの飾りです。本来は餅が柔らかいうちに団子にして、花に見立てて木の枝につける冬の風習です。

 これも冬の風景。クリスマスではないと思います。この時代、クリスマスだからといっても大々的に大騒ぎはしませんでした。ほかにも、いろいろな造花があったようです。

 芸者新道ですが、これも石畳でした。なお、2枚目の「堂」は「明月堂」の「堂」です。

 さらに牛込橋も石畳でした。下で青線で引いた場所でしょう。
 軽子坂も出てきます。今と道幅は同じです。左側の高い石積みと塀は地元の資産家・升本家の広大な本邸でした。車止めの部分が門にあたります。

 なお「軽子坂プロジェクト」でビルが後退したのは津久戸町のところです。
 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」では

石畳|神楽坂|兵庫横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 なお、は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」の兵庫横丁・路地ガイドで、寺田歩氏(料亭幸本若女将)がその一部を発言したものです。またを叩くと地図は奥に進み、また手のアイコンを握れば上下左右に動きます。

 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。「兵庫横丁」です。やはり左側を流れる石畳は中央を流れる昔の石畳とすこし変わっています。

石畳|兵庫5

石畳|兵庫4

下水道でしょうか。よく見えます。これはう~ん微妙です。

 遠くから見るとたちまちきれいに見えてくるので、不思議。石畳

 上に乗った店もどこか違います。なお、この店舗はなくなっています。
石畳|兵庫2

 小さな路地も美しい。
石畳|和可奈

 2013年5月2日→2019年7月26日

石畳|神楽坂|酔石横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 酔石横丁(牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」1998年)、または、まちなみ景観賞の路地(けやき舎『神楽坂おとなの散歩マップ』2007年)というのはここです。


『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」でこう話しています。

     石畳が美しい『酔石すいせき横丁』
井上 次は、テレビや雑誌の撮影などでいつも賑わっている毘沙門天の向かい、「伊勢藤」のある横丁へ。これは林さんの案で『酔石横丁』。ピンコロ石の敷石が美しい。
林  そう、半円状に敷き詰めてあってね。
井上 それが酔つぱらいの足どりみたいで。

 神楽坂通り商店会が出した神楽坂マップによれば「神楽坂の持つ『伝統と進取の心』を象徴する横丁。石畳の奥には、町屋造りの落ち着いた酒亭と、テラス席をもつクレープ料理店が向かい合って営業しています」(場所はここここ)と書かれています。

 それより前のここはどうでしょうか。幅4mのいっぱいに石畳が敷き詰めています。まあ、ちょっと下水の入口が違っていますが。

酔石2

 ここについては毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは「神楽坂まちの手帖」第15号(07年冬)でこう話しています。

毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは、「むかしはいい下駄ほどすぐに割れちゃったらしいし、いまでも台車が通るとガタガタうるさい。母親を車椅子に乗せてたころも、通りづらくて困ったよ」といい、石畳なんてべつに好きじゃない、といいきる。実は九年前、この石畳をアスファルトにかえる「チャンス」はあった。下水管工事のため、石畳をぜんぶはがさなくてはいけなかったからだ。それでも「下水管工事は、9割まで区が負担してくれる。舗装もアスファルトに復旧するんなら、区がやってくれる。だけどそれじゃやっぱり風情ががないから、みんなでお金をだしあってもとの石畳に戻したその時にすごくきれいになったよね。それまでは、あっちこっち掘ったりしてボコボコだったけどさ」と当時を振り返る福井さんはうれしそうだ。


石畳とマンホール

石畳|神楽坂|毘沙門横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使った鱗張り舗装は神楽坂通りの南側の毘沙門横丁は2つ、北側は数個あります。

 は私の説明です。またこの図は上下左右に360度動き、を叩くと地図は奥に進みます。

西→東

 まず、2本の石畳の小路です。最初は、毘沙門横丁椿屋の奥(三つ叉通り)とを結ぶ石畳の小路です。下図は西の入口から東方を見た時で……

石畳東→西(入口)

 さらに、下図では石畳の小路は東の入口から西を見た場合です。

 東の入口を使ったのは相当昔のようで、何個もピンコロが剥け落ちています。しかし、そこが終わると……

石畳東→西(半ば)

 きれいな石畳だけが広がります。ひょっとすると一番きれいかも?

 さて、もう1本は毘沙門横丁と袋小路を結ぶ路地(ひぐらし小路)です。

ひぐらし小路

 正面は懐石・会席料理「神楽坂 石かわ」です。その前は石畳です。この路地をつくるのに3つの別の舗装を使っています。1つは手前で、写真の左側には何があるのかよくわかりませんが、実は普通のマンションが建っています。ここは単にアスファルトで覆っています。

 真ん中の路地の舗装は石畳です。さらに右側は「石かわ」がはいっていて、石畳ですが、石畳の流れは違っています。
 奥から見たものですが、左側は「石かわ」の石畳、右側は昔からの石畳です。昔からの石畳は、半分にされているのもあります。

ひぐらし小路(内→外)

 これは「みなし道路」に似たものをつくったのでしょう。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物はそこからたてます。このセットバックで、一部残念な場所ができました。

 2013/5/15→2019/6/21

石畳1

石畳

神楽小路横 かくれんぼ 毘沙門横丁 紅小路 見返し横丁 兵庫横丁 クランク 寺内公園 酔石横丁

 明治時代は1本の道なのに毘沙門横丁を通って南に進むと、出羽様下、谷がはいり、若宮小路庾嶺坂まで、毘沙門横丁を含めて、なんと道の名前は4本になりました(明治20年の神楽坂の地図)。

復興土地住宅協会著 東京都市計画図

石畳|神楽坂|紅小路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

本多横丁」にでてくる「紅小路」です。

石畳と紅小路1

紅小路6番から5番を向いて

紅小路の写真

 この7番から8番までの道路は以前は「名前はない道路」で、アスファルトで覆っていました。が、2018年ぐらいでしょうか、ここも石畳で覆われました。とりあえず「裏紅小路」としておきます。

石畳と紅小路2

4番から3番の方向に向けて

G

3番で。珈琲パティオは右手に

 下の写真は上下左右に動きます。また上矢印をたたくだけで、写真2に変わります。




2013年5月2日→2019年4月27日

石畳|神楽坂|駒坂(360°パノラマVRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。

 駒坂は『ここは牛込、神楽坂』で

井上  それから。おまけでページがあったら入れたいということで、消防署の前の大久保通りを渡って、『ひょうたん坂』を越えて白銀公園の方へゆく。そこから有名な「大〆」のところを通ってすぐのところを、左に曲がって『玉の湯』の方に下りる道。
坂崎  あそこは『駒坂』。となりのひょうたん坂と対で、ひょうたんから駒、ということで。
井上  あの階段のあるところですね。

 ほかに玉の湯階段という名前も付いています。

 一応、地図で同じことを見ておきます。小さな小さな赤点は石畳がある駒坂です。長くて赤い路地も区道です。地図では立派に見えますが、う~ん噓です。
駒坂3

 これが駒坂です。区道です。
石畳|駒坂1

  この階段は小さくて、2.7メートル。この石畳は1.96メートルでした。

石畳|駒坂2石畳|駒坂3

 下から見るとこうなっています。

石畳|駒坂4

 ちなみにもうひとつ、区道?を上げておきます。前の右側に書いてあったところです。東側はここで、幅はたったの91センチ。

区道東

 西側はここで、幅は1.55cm。

区道西

 幅1メートルもないので、これは本当に区道でしょうか。



東京のプチ・バリ|ドラ・トーザン

文学と神楽坂

 ドラ・トーザン氏が書いた『東京のプチ・バリですてきな街暮らし』(青萠堂、2009年)の一節です。この本は感じたことを気持ちを込めて書いた随筆と、友達や店舗とのインタビューが主。残念ながら情報は少ないけれど、情緒は一杯あると思います。

  なぜ神楽坂プチ・パリなのか?
      坂・石畳、路地、運河……の魅力

パリを思わせるミステリアスな坂

 神楽坂はとてもパリに似ています。なんといっても共通点は坂。特にパリのムフタール通りモンマルトルは坂の多いところですが、神楽坂はその名の通り、坂の種類には事欠きません。朝日坂袖摺坂軽子坂地蔵坂赤城坂と、主な坂だけでもこんなにあります。私は熱海湯のところから鳥茶屋別亭を横に見て上がっていくフランス坂と呼んでいます。まさにフランス坂と私が命名したようにとてもパリの雰囲気をもっています。
 神楽坂には、他に三年坂逢坂弁天坂、なども、それぞれ表情の違う坂が面白い。

かくれんぼのような細い路地

 そして細い路地のある点。私のパリでの住まい、ムフタール通りと同じで、坂が多く小さな商店街の通りがあって、街のサイズがコンパクトなところです。神楽坂の大好きな三大横丁といえば、毘沙門の向かいから旅館和可菜へ抜ける兵庫横丁本多横丁からさらに入ったかくれんぼ横丁、そして、同じく肉まんで有名な五十番の脇から、本多横丁を右に曲がった芸者新道も、なかなか風情があります。少しアヴァンギャルドみちくさ横丁もいいですね。

迷宮入り(⁉)の石段

 神楽坂の曲がりくねった石段も面白い。
 兵庫横丁の石段の道は途中にもっと細い横道もあって迷子になりそうです。また私の大好きなフランス坂は、小栗通りの熱海湯のところから、S字型に昇っていく石段です。
 まるでモンマルトルのよう。曲がりくねった石段はミステリアス。石段の次に何かあるかわからない楽しみがあります。
 遠くまで見えないから突然未知のものがあらわれる。それが面白い。パリと同じで、新しい発見をする楽しみ。パリもそうだけど一つ場所を決めてスポットを発見するのも、散歩・プロムナードの楽しみです。


運河 日本ではお濠(お堀)
ムフタール通り Rue Mouffetard。パリ5区でレストラン、カフェ、市場などがあり、下町的に混雑して繁栄する地域
モンマルトル この丘を含む一帯の名前。セーヌ川右岸のパリ18区を構成。パリ有数の観光名所。鳥茶屋別亭 フランス坂(熱海湯階段、芸者小路)の中にあります。『拝啓、父上様』1話で、一平が働く料亭「坂下」の勝手口は実はこの鳥茶屋別亭の玄関でした。
フランス坂 ほかに「熱海湯階段」、「熱海坂」、「一番湯の路地」、「芸者小路」、「カラン坂」等という言い方があります。
アバンギャルド avant-garde。フランス語で、軍隊用語の「前衛」から。革新的、前衛的な芸術や芸術家たち。前衛派とも。
プロムナード promenade。散策。散歩道。遊歩道

石畳❤◇☆|かくれんぼ

文学と神楽坂

 かくれんぼ横丁に❤型のピンコロ石畳と、◇や☆を彫った石畳があるのを、知っていますか。平成28年5月、かくれんぼ横丁の石畳が下水管工事のため新しくなりました。このとき、粋な計らいをする職人はいて、特別な石畳3個を埋めたそうです。

 私は「美味彩花」で、あったんだとわかりました。本文には「場所を教えてもらったり人に言ったりしては願が叶わなくなるとか…」と書いてあります。そこで私も下の絵を描いておき、ダブルクリックして読んじゃうと、願いがかなわなくなる、と書いておこう。


石畳|神楽坂|クランク坂上

文学と神楽坂

 この奥、先にはまた階段になっていて、「クランク坂」といいます。

寺内公園20160117

 この先は前に玄関がありますが、右手に曲がって「クランク坂上」につながります。下は以前のクランク坂です。

クランク

『ここは牛込、神楽坂』第13号の特集「神楽坂を歩く」では

坂崎 非常に入り組んだ地形でね。階段があったり、坂があったりして。
井上 ふつうの人はまず入ってこない。
  カギ形に入り組んでいるから『クランク坂』。交差してないから卍坂とはいえないし。
坂崎 いいネーミングだなぁ。

 なお、クランク (crank、道路)とは「直角の狭いカーブが二つ交互に繋がっている道路のこと」(ウィキペディア)です。写真を4つ連続して載せておきます。結構いい場所です。またホテル「レトロのホテル」も出てきました。

石畳 クランク坂上
石畳 クランク坂上2
石畳 クランク坂上3
石畳 クランク坂上4


石畳|日仏学院

文学と神楽坂

『東京日仏学院』です。もとい、「2012年9月1日、東京日仏学院、横浜日仏学院、関西日仏学館、九州日仏学館が、フランス大使館の文化部と統合してアンスティチュ・フランセ日本グループが誕生し」たそうです。したがって、かつては「東京日仏学院」でしたが、現在は「アンスティチュ・フランセ東京」です。ところが、また変更。2023年、「東京日仏学院」のほうがいいとして、日本語では「東京日仏学院」を正規に使っています。

日仏学院
東京日仏学院日仏学院1
 昭和29年4月15日、著者ノエル・ヌエット (Noël Nouët)氏、訳者酒井傳六氏による「東京のシルエット」が出ています。定価は430円。ヌエット氏の当時の住所は新宿区矢来町12-4でした。

日仏学院 ここも石畳がきれいです。なんとなく紅小路の石畳と似ています。

石畳と日仏学院

『拝啓、父上様』でもでています。第5話で

日仏学院
  その構内にかけこむ2人。
  荒い息ついてハアハアと向き合う。
  2人とも息が上がり、ものがしゃべれない。
  しゃべれないまま少女、ニッと笑う。
  一平。
 り「拝啓。父上様。
  ――とうとう逢えました!」
  音楽――静かにイン。B・G。
日仏学院・カフェテラス
  枯木立ちのカフェに向き合っている二人。
少女「パハドン。ジュ・トゥ・デランジュ」
一平「――」
少女「ジュ・テ・デランジュ・ドゥ! フォワ!」
  間。
一平「あなたどこの人?」
少女「――」
一平「国」
少女「ジャポネーズ」
  間。


日仏学院と拝啓父上様


石畳と化粧マンホールふた

文学と神楽坂

 神楽坂の石畳とマンホールをまとめて見ました。マンホールで人間が入れない枡や側溝もまとめています。場所は石畳の地図に書いてあります。

 見返し横丁が一番マンホールらしくはないもの。化粧蓋(化粧マンホールふた)を使うところはここだけです。クランク坂上はもっとも昔のもので、別の意味でマンホールらしくないものです。酔石横丁はマンホールらしくないものを狙ってマンホールらしいマンホールになりました。

化粧蓋とは景観を損なう事なく、周囲と全く同じ材料や舗装材を使って充填できるものです。

紅小路 マンホールの形をそのまま出しています。まあ、なにもしていないわけです。 石畳とマンホールと紅小路石畳とマンホールと紅小路2

見返し横丁 石畳とマンホールの蓋を比べてみると、見返し横丁だけがあらゆる点で似ています。正確に石畳の形をとってそれをマンホールの上に載せたものでしょうか。こんな蓋を化粧蓋(化粧マンホールふた)とよんでいます。石畳とマンホールと見返し横丁3

かくれんぼ横丁 やはりいろいろな形になっています。❤の石畳があります。

石畳とマンホールとかくれんぼ石畳とマンホールとかくれんぼ

兵庫横丁 最初は和可奈の前で、おれはおれだと自己主張していもの、もう1つはひっそりと他のものとそっくりなもの。
石畳とマンホールと兵庫横丁石畳とマンホールと兵庫2

クランク坂上 これはほかのマンホールと全く違います。大きな石板自身がマンホールの上蓋になっています。一番昔のものでしょうか。石畳とマンホールとクランク坂

酔石横丁 さまざまな大きさのマンホールがありますが、形は全部この形です。一番安い化粧蓋なのでしょうか。似合わないなあ。もうすこしいいものを買った方がよかった。石畳とマンホールと酔石横丁

毘沙門横丁 2つのマンホールが出ています。手前は普通のマンホールの蓋、奥も普通の円盤状のマンホールです。石畳とマンホールと毘沙門横丁

寺内公園 公園の中身にはありませんが、外の2つがマンホールです。ここはそのうち1つです。たぶん側溝(ます)でしょうか? 石畳とマンホールと寺内

石畳[昔]|赤城神社|赤城坂

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。
 ここでは北側のひとつを見てみましょう。場所は赤城神社の下、赤城坂の傍です。赤城神社からはあっという間もなく着いてしまいます。
 しかし、13年5月では石畳はちゃんとあったのですが、13年8月にはなくなってしました。

赤城坂の石畳

 今はなくなっています。ここは区のものですから、仕方がないといえばそうなのですが。

赤城神社[昔]

 これを上に上がると赤城神社です。

赤城坂の石畳2


石畳|神楽坂|寺内公園

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 ここは神楽坂通りの北側の石畳のうち「寺内(じない)公園」です。

 この公園は3種類の石畳からできています。1つは鱗張り(扇の文様)舗装です。もう1つは大きな板を置いた舗装。最後はアスファルトで覆った舗装です。

石畳 寺内公園

 一番前の舗装は鱗張り(扇の文様)です。右には赤茶けた石の舗装が貼っています。さらに遠くにはアスファルト・コンクリートで覆っています。ここでは手前が赤茶けた石の舗装、奥がピンコロ石畳です。

石畳 寺内公園

 ここでは手前がピンコロ石畳で、奥がアスファルト・コンクリートです。

石畳 寺内公園 アスファルト

 2019年の寺内公園です。土はなくなり、芝生になっています。

 この名前については平松南氏がインターネットの「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」2004年03月01日「神楽坂学を成立させることができるか(2月27日)」にこう書いています。

 神楽坂はじめての超高層26階建てマンションは、新宿区の区道付け替えで区長が住民から訴訟を起こされたが、区道と交換に60坪ほどの小さな「提供公園」がデベロッパー側から区に差しだされた。
 公園には名前がなかった。新宿区は名前がないことをとくに気にする様子もなかったが、わたしたちは「寺内公園」の名前を提案した。江戸時代ここは行元寺があり、「寺内」とよばれるようになった。新宿区の公園担当部局は、みどりや歴史のことはあまり関心がなく、わたしたちの要望はそのまま受け入れられた。
「寺内公園」では、新住民にはなにがなんだか分からなかろうということで、公園周辺の歴史や名前の由来を説明する看板をつくることになった。寺内の花柳界を昭和12年に浮世絵版画に仕立てたフランス人ノエル・ヌエットの絵も載せることにした。提供してくれたのは麹町のフランス人収集家クリスチャン・ポラックさんである。
 2月初旬にそのゲラがでてきた。私は掲載直前の文章の校閲を担当した。

 この文章の看板は「寺内公園」の案内板に書いてあります。

 この奥、先にはまた階段です。この先は前に玄関があって、行っても行き止まりだと思うのは間違いです。クランク坂上につながるのです。

クランク坂

 しかし、2016年1月に行くとこの場所はレストランが数軒集まったビルになっていました。

寺内公園20160117

石畳



石畳|神楽坂|見返し横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使った(うろこ)張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。

本多横丁」の1つ、見返し横丁です。

見返し2

石畳と見返し横丁2

 見返し横丁の後ろから本多横丁を見たものです。右手に見えるものが東京理科大学の施設です。右をよく見てみると、新しい路地の表面が東京理科大に添ってあるですが、しかし一見しただけでは昔から全く変わっていないようにつくっています。


石畳と見返し

 また下水道があるのですが、この上はまったく外と違っていません。「みなし道路」を作る場合にもっとも綺麗な道路です。どうしてここは外と違って綺麗なのか? 不思議ですが、右の建物が理科大なので、そこが違うのでしょうか。

 2016年、法政大学デザインエ学部建築学科岡本哲志研究室の「東京のストリート景観と路地空間」(発行は法政大学エコ地域デザイン研究所)では……。

 1945年3月と5月にあった東京大空襲では、残念ながら神楽坂一帯は焦土と化してしまう。先に検証した花街の立地変化を視野に路地を見ていくと、幾つかの路地が失われ、あるいは新たに誕生する変化を確認することができる。注目したい路地は、見返し横丁と呼ばれる路地である。この路地は現在袋小路の行き止まり路地である。先に述べた花街の変化によって、路地も変化した。

 最後部はブロックで行き止まりになっていますが、本当は兵庫横丁につながっていたのです。

 1978年には、つながっていますが

見返し横丁(1978年)

 1980年には、なくなりました。

見返し横丁(1980年)

見返し横丁(1980年)

 行き止まりになり、その後「見返し横丁」という名前もできてきました。



石畳|神楽坂|かくれんぼ横丁(360°カメラ)

文学と神楽坂

 石畳を使った(うろこ)張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。 ここは「かくれんぼ横丁」です。